2015年5月14日木曜日

随聞記「食分あり、命分あり」

道元禅師の言葉を、孤雲懐奘禅師が書き留めた「正法眼蔵随聞記」はその教えのポイントがとてもわかりやすいため、いきなり正法眼蔵を読んでもとっつきにくいのに対して、こちらは今の自分でも言わんとすることが頭に入り、肝に銘ずることができる。

しばらく、正法眼蔵随聞記からその肝に銘ずるべき言葉を拾いたい。他の道徳などでも目にするものもあるが、ちょっと他では出くわしたことのない発発想の教えもあったり、端的な言葉の中に、実に深遠な意味が含まれていたりするものもあるのに、あらためて気づきがある。

以降、「正法眼蔵随聞記」全訳注山崎正一/講談社学術文庫 を底本とする。

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学道の人、衣食を貪ることなかれ。人に皆食分あり、命分あり

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学道の人という表現がたくさん出るが、これは仏道を歩もうとする人、つまり「私は」と読み替えている。
衣食住は生活の基本だが、そのことを生きる目的にしてはならないということだろう。その理由が他ではお目にかかれないこの表現である。
一生涯に食べる食料の量の限度を「食分」といい、「命分」は一生涯の寿命の長さを意味する。これらは個人の努力や心がけを超えたところにあるという点で限度がある、という考えだ。つまり、人間存在の有限性の自覚ということである。

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仏道を学ぼうとする人は、決して衣服や食べ物を、むやみにほしがってはいけないのだ。人には、それぞれ、その人の一生涯分の食べ料がそなわっており、また、寿命がそなわっているのだ。それぞれ与えられた分限以上の食料や寿命をほしがっても、決して得られるものではない。
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この発想は、どうしても家族をかかえて日頃からもしも食料が尽きるようなことがあったら、とどこかで心配している自分に、あらためて衣食住や寿命はなるようにしかならない、天に任せるべき、という(ちょっとこういうとニュアンスが違ってしまうが)覚悟というか「明きらめ」を持たせてくれる自分には大変有り難い言葉である。
何とかなるし、コントロールすべきところではない、という教えだと受け止めている。




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