2005年12月16日金曜日

高瀬広居 ~共感した名文・名文句~

宗派を超えて、今の世に生き残っている真の名僧10人を訪ね歩いて、その声を記録した高瀬広居氏の功績は大きい。また、彼自身が浄土宗の僧籍をもちながら、寺の僧としてというより、本来の僧としての法を説くことに専念(私塾「疎石会」主催)しているところが好感が持てます。


  • 日本人のこころを育てた仏教の大河 お釈迦さまから創価学会まで/展望社
  • 仏教を知るにはその多種多様な発展系を知った上で考える必要あり「「私のウチはナムアミダブツでね」と言っても、いったい浄土宗なのか浄土真宗なのかもわからないまま「仏教はね」と言ったところでなんの意味があるのでしょうか。また、法然や親鸞、道元、あるいは日蓮といった優れた宗教家が求道した仏教が、お釈迦さまの教えのどの部分を吸収し発展させたのかわからずじまいでは、仏教にコミットした人間とはいえません。」
  • 日本の文化は仏教が軸となり発展してきたと言っても過言ではない
    「源氏物語に登場する怨霊や地獄の思想、愛欲と無常の葛藤、因果応報は、まさに密教と浄土教の文学とさえ言えそうです。平安文学は仏教文学といってもよいでしょう。また、源平の興亡を描いた数々の作品、とくに「平家物語」は鎌倉時代の浄土教文学です。(略)
    能の世界も妄執と死霊と暗い人間の魂を密教的な立場からつくりあげたものです。世阿弥の思想は死を見詰め、人間の闇をさぐる鋭い仏教の眼に支えられています。(略)
    仏教を離れて日本の思想と文化は理解できません。作動も書も、あるいは言葉も文章も、日本独自といわれるすべては仏教の智慧から学びはぐくんだもの。「般若心経」を読み、天台止観を学び、経典や禅を理解せずには日本文化の土台は分からないと言ってもいいでしょう。」
  • 現代の名僧を見分ける方法
    「怪しげな民間信仰と結びつき、現世利益を願う民衆の願望に取り入り、権力に媚て世俗的な栄誉を貪る。そんな大多数の僧侶や寺院教団の流れとは別に、真の仏法を求めて苦闘し、法脈を生かそうと努力した僧侶の流れは、戦国の世から明治時代にかけても引き継がれていきました。しかし、その数は決して多いとは言えません。(略)
    現代はどうでしょうか。名僧とは、地位などの条件とは関わりなく、
    求道の真剣さ、仏教思想の深さ、教化力の高さ、清潔な生活、権力や世俗やマスコミに媚ないと言った条件から選ばねばなりません。残念ながらその数はたいへん少ないのです。(略)
    現代のマスコミに踊らされ、政財界と親しい僧はだいたいが「偽善僧」と見てまちがいありません。」


  • ブッダの泉 心にひびく50の聖句/展望社
  • (法句経394)髪を結ったり、高価な衣装を身にまとって、それで自分は他の人よりもすぐれている、立派なのだと思いこんでいるのだろうと、ズバリと切り込んでいます。(略)世の中を見ていると、じつにこういう人が多いと思うからです。(略)
    もし幼い頃からそういうものを身につけて喜んでいるようなら、中身の空っぽな、虚飾にまみれた高慢な人間に育っていくことでしょう。(略)
    外側ばかりを飾るのではなく、心の内の煩悩を断ち切って、内側から清い人間であるようにならなくてはならない、外見や見栄を捨てよ、と教えているのがこの法句です。
  • (スッタニパータ98、124)若い夫婦も子供を育てていけば、自分の親たちが自分を育ててくれたときにどんなに大変だったかわかるはずです。その父と母が老いてきた。(略)金銭的、精神的に父母を助けよう、いままでの恩を返そう、そういう気持ちになるのが、人間として当然だと思います。しかし、老いた父母からお金をもらっている三十代、四十代の子供がいます。なぜ平気でいられるのでしょうか。ローン返済にお金が必要だというなら、老親に負担をかけない道を探せば良いではないですか。
  • (スッタニパータ205、206)清らかということと汚いということは別のものではないのだということを、お釈迦様は教えておられるのです。美しいから偉い、汚いから悪いという価値観、差別感を持ってはいけないということです。健康で、鍛え上げられて、磨きのかかった素晴らしい肉体というものも、一皮むいてみたらどうだろうか。どろどろとした汚物が充満しているではないか。
  • (雑阿含経36)夫と妻、親と子というのは一見別々なもののように思えますが、じつは、夫には妻の影が映っているし、子供には親の姿が反映されているのです。現代の人はあまりそういうことを考えません。(略)
    何か事件が起こると、うちの子に限って、といいます。ところが、先生やまわりの人たちは、あの親にしてこの子あり、当然の結果だと見ていることが多いのです。
  • (増一阿含経11)「もし人ありて反恩を知る者は、この人はうやまうべし」なぜ、私たちが生きていく世の中には、恩を知るとか、恩を返すということが大切なのでしょうか。それは、私たちがひとりきりでは生きていけないからです。(略)
    一枚のシャツでさえも、それをこしらえあげた他人のおかげをこうむって生きているのです。しかもあなたは、それらを誰がつくったのか知らないでしょう。そのように、私たちは全く縁がないと思われている人々の力に支えられて生きているのです。それを仏教では「無縁の慈悲」と呼びます。(略)
    そのように互いが恩を知るという気持ちになることが、世の中が円滑に行く最大のキーポイントになるのではないでしょうか。
  • (増一阿含経40)「もしわれおよび過去の諸仏を供養するものあらば、我に施すの福徳は病を診るに異なるなし」あちこちの寺へ行って仏像に手を合わせ、お賽銭をあげて、御利益をくださいと祈る閑とお金があるくらいなら、苦しんでいる病人のところへ行って助けてあげなさいと、お釈迦様はいわれているのです。仏教で最も大切な布施行の実践です。
  • (スッタニパータ890)相手の言い分を認めず、尊重する心のない姿を愚かというのだ、つまり、聞く耳を持たない人が愚劣なのだ、というところからスタートしているのです。(略)
    お釈迦様の愚者、愚劣という教えの中には、
    自分は愚かであるということに気がつけば、もうその人は賢い人になりうるのであって、決してその二つを別々に分けて考え込み、落ち込むことのないようにという、やさしさの教えがここに含まれているのです。
  • (中阿含経67)人生にはいくつかの節目というものがある。もっとも大切なのは、仕事をほぼやり遂げて身の引き際を選ぶ時期を逸しないことである。(略)
    おのれの地位権力に強いこだわりと欲を持ち続けるとき、人は引退隠棲の決断を鈍らせるものだ。
    いつまでも現世欲に縛られて阿修羅の営みを続けるものは愚かといえよう。
  • (長阿含経2-4)「七つの滅びざる法あり」お釈迦様が説かれた国家繁栄論であり、それを裏返すと国家滅亡論になります。(略)みんなが集まって会議を開き、和やかに語り合いながら民主的に運営していくような国、そして、古くから定められている倫理を守り、年配者を敬い、その知恵を学び取る。女性や子供のように力弱き人には決して暴力をふるわない。祖先を大切にし、伝統と歴史の尊さを知る。昔から続いているしきたりや法があったときには無理に廃止せず、これを今の時代に生かしていく。そして学問や知識、知恵のある人々を大切にする。それは他の国からやってきた人であっても同じように住居を提供し、大事にする。これらが守られている国は、繁栄するであろうと、お釈迦様はおっしゃるのです。
  • (雑阿含経34)「一切のつくられたるものは無常悉くみな生滅の法なり」無常ということは厳然として、宇宙の中に存在する人間の生命の本質を言い表していることだというように、人間の生き方の原理として、この無常というものを私たちは受け入れていくことが大切です。今の日本人は、生きていることは素晴らしい、元気なのはいいことだというように、たくましく生きることだけに目を注いで、この無常というところから目をそらしているという臆病さ、卑劣さが強くありすぎると私は思います。もっともっと、日本人は無常なるが故に、いまある自分の大切にするというところにスタンスをおいて、生きていかなくてはいけないのです。
  • (雑阿含経12)「縁起法とはわれの所作にはあらず また余人の作すところにもあらず 然してかの如来の出世するも出世せざるも 法界は常住なり」ここに、仏教と他の宗教、キリスト教やイスラム教との大きな違いがあります。(略)
    仏教というものは、キリスト教やイスラム教のように、神という存在があって、その神の啓示によってひらかれたという宗教ではありません。また、イエスという神の子が、あるいはムハンマドが、神というものの意思と命令に従って、つまり預言者として、この世に出現して教えを説いたというものでもないのです。その違いがお釈迦様の「無師」です。(略)
    仏教の世界には神は存在しません。(略)これは、仏教が非常に科学的だともいえることです。(略)
    人間が生れ生きて死んでいく中で受ける苦というものの根本原因を探し求めようとしたところからスタートして、人間をはじめとして一切の生きとしいけるものすべてを含む広大な自然、さらには夜の星、輝ける太陽といった大宇宙を見つめることによって、これらを動かしているものはこれだというところに行き着いたのです。それが、「
    全宇宙を貫いている真理は、縁起である」ということでした。(略)
    つまり、すべてのものは寄り集まっているということであり、一切は無常であるということの原理を私たち自身が、正しい真理なのだと納得しないと、苦からは離れられないということをおっしゃったわけです。宇宙物理学者が研究を深めていけば、やがてこのお釈迦様の説かれた、仏法という世界が、じつは、全宇宙を貫く真理であり、それは無常と縁起であるというところにやがて到達するのではないかと私は思います。(略)
    一神教の世界における絶え間ない争いは、自分の信じている神のみが正しいという信念によって引き起こされていますが、お釈迦様は、一つの特定の神或は仏が正しいなどということは一言も説かれていません。お釈迦様が説かれたのは、自分がつかみ取った
    真理は「縁起」と「無常」であり、これは宇宙全てが同じ法則の中に存在しているのであって、その理法に背を向ける生き方をすると苦が生ずるのだとおっしゃっているのです。
  • (法句経304)不善の人には、(略)教えを聞いても、闇に放たれた矢と同じで見えないのだというのです。(略)
    この法句にある不善の人とは、決して道徳的な意味で言っているのではありません。いろんな学問、教養、知識、あるいは自分の持っている名誉、財産、そういったものを、自分自身の最も大切なものであると思いこみをしている人たちのことを、不善の人といっています。つまり不善の人とは、
    自利に捕われ、自らの利益しか見えない人、そして理性とか知性というものに偏重しすぎている人、さらに情緒的にしかものを見ない人、感情的に行動を起こす人、そういう人をひっくるめて不善の人とお釈迦様はおっしゃっているのです。現代日本は飽食と利欲の世界になっています。こんなに科学やITが発達している世の中であっても、いまだに、あちこちでおまじないをしてもらったり、祈祷をたのみ、おみくじを引き、占いに凝って、もっともっと利益を得よう、自分だけはいい思いをしたいと願う人が大勢います。そういう人にはヒマラヤのような仏法の輝きは見えません。


  • 仏音と日本人/PHP研究所
    現代日本に蔓延る信心の失われた仏道に対して厳しい視線を投げかける高瀬広居氏の言葉は、やはり本物の言葉である。
    般若心経に対する考察などは深い。そして、正しい。
  • 法然の革命~浄土門は果して易行なのでしょうか浄土門は易行道というが、知識・学問のある人がその学識や知恵をすべて捨て去って念仏のみ申すという境涯に行き着くことは、およそ難事といえよう。それはすべての現代人を見れば一目瞭然ではないか。メディアに踊る人々はみな「知者のふるまい」に耽溺しきっている。真言密教や天台教学の深淵高度な仏教哲理や祈祷行法に専念する当時の指導層にとっても、法然の「還愚」と「修行・修法放棄」、さらには神社仏閣さえも捨て去るべしという易行念仏は、まさに邪悪なる教えと映ったのも無理はない。
  • 道元「感応道交」の世界~アンチ癒しブームを掲げる私は、この思想に出会った感激は計り知れません道元は「仏性」をみつめ「悉有仏性」の世界観によって、あらゆるこの世の働きを同一化していく。仏をたのむとか、すがるとかいうことではなく、あるがままの全天然、人類がその実相において「仏」であるという仏教哲理は、道元によって日本に確立されたのである。(略)
    エコロジーとか自然を大切に、などという浮ついた「癒しの自然愛」などとは比べようもない、人間の根源に目差を向けた哲理である。それを、いまの日本人は忘れ去って
    人間と自然とを別物とし、そこへ帰るとか、懐かしいとかたわごとをいっている。道元からすれば、いまの自然愛とか自然回帰など唾棄すべき偽善としかいえないだろう。
  • 葬儀時だけの形だけの念仏などはまさに無信称名であり、蓮如は白骨の章で厳しく戒めています当時も今もそうだが、口先だけの念仏者は多い。葬儀などで導師が「同称十念」というと、会葬者は声をそろえて念仏を唱える。それが亡き人の冥福を祈ることだと思いこんでいる。もちろん、自分の往生など棚上げにしている。それが「無信称名」である。真宗の信徒にもそうした誤信が広がっていた。蓮如の使命は、祖師親鸞の教えを純粋に伝え広める「親鸞回帰」、真の念仏の復興にあった。
  • 大概の宗祖は宗教集団の形成など考えているわけがないのです(新興宗教との歴然とした違い)親鸞には立宗の意志はなく、いうところの「浄土真宗」とは、すべては彌陀の本願力を宗とするの意であって、宗派僧団を意味するものではなかったにもかかわらず、祖師没後二百年を経て、信州新との巨大宗団が形成されてしまっている。いわば親鸞に否定されていた宗団・門徒・流派の弊害が起こり、念仏もまた歪曲されていったのである。蓮如の念願はそれを原点に引き戻すことであった。
  • 神道は所詮政治思想であり、霊性を備えた宗教思想としては、鎌倉時代以降の仏教こそである(第二次世界大戦)当時日本は、西欧文化を物質文明のとさげすみ、日本の精神主義を無比のものと誇り、その源泉を皇室神道に求めていた。しかし、大拙は伊勢神道の根拠となる「神道五部書」を厳密に検証し、「神道は元来が政治思想であって・・・霊性そのものの顕現ではない」と否定し、さらに歴史を遡って万葉・平安時代には、まだ霊性を見いだすだけの機会に恵まれていないと断言する。博士のいう「霊性」とは、もっと大地性を持った宗教的、普遍的霊性であり、しかも、その霊性を宗教思想として深め覚醒していくには「外来」といわれている思想や情緒に「接触し、これを摂取して自ら育て上げねばならぬ」と指摘する。(略)
    奈良・平安時代に空海や最澄は仏教を学んだが、現世利益と観念的遊技の段階を脱していない。「清明心」はあったろうが、ほんとうの宗教意識の目覚めではない。「鎌倉時代になって、日本人は真の霊性の生活に覚醒されたのである」。その宗教的衝撃とは「禅」と「浄土教思想」である。
  • 科学や文明賛美を疑わない現代人に、沢木興道師から一撃「今の科学的文化は、人間のもっとも過当な意識を元として発達しておるにすぎぬということを忘れてはならぬ。文化、文化というけれど、ただ煩悩に念が入っただけのものでしかないじゃないか。煩悩のシワが、いくら念が入っても、仏教からいえば進歩とも文明ともいわぬ。こんな利口ぶって、こんなにバカになってしもうたのが、人間というバカ者である。人間の役に立つものは、みなゆきづまる。偽りとは人為(つくりもの)ということだ。ツクリモノの世界はいつでも変わるに決まっておる。文化とはツクリモノが発達したにすぎぬ。だから文化とは悲劇である。」
  • 仏道が在家の宗教として成り立つ理由「人間の宗教」である以上仏教は当然、世俗生活の経済にも目を向け「仏教経済倫理」を展開する。「大品般若経」に「菩薩訶薩は、産業のことの法性に入らざる者を見ず」とあるように大乗仏教でも経済生活に積極的な宗教意義を認めている。(友松)圓諦師はその合理的かつ功利的な現実主義を、より古い「法句経」や「阿含経」をふまえて釈尊の経済生活に対する態度を鮮明にしていった。「中道とは戯論をすて、実際道に生きることである。増一阿含経の中に”一切の衆生はみなに由っての故にその生命を存す、食わなければ命うしなう””衆生に命根あり、形あり、食ありて則ち存す、食非れば、命済せず、sれば一茶衆生に施与すればその報無量なり”と布施の功徳まで力説されている。経済生活を手とし、性欲を肯定する一般大衆に”煩悩を断滅、減去せよ”と説くのは釈尊の教化の道ではない」では、なぜ多くの歴代仏教者は禁欲の精神主義を誇張し物質を賤しみ、在家生活者に無理を強いるのか。師の答えは明快である。在家の人々からの在世をいただき乞食せずに、寺の出家者独立生計できるようになり出世間、脱経済生活を送れるようになったからだという。だが、釈尊の教えは違う。「彼は世間の経済所得の財宝を汚穢なりとはしない」。
  • 橋本凝胤師の僧侶腐敗摘発は痛快肉食妻帯の僧侶を似非坊主と罵倒し、二十万人の僧侶を葬っても仏教は滅びないとまで断言し続けてて来た。「食えなんだら食うな、死んだら死んだでええ」師の口癖だった。「日本の坊主を認めん。やつらは仏弟子ではござらぬ。日本の不幸は指導者たるべき僧侶の荒廃にある。自己責任を持たない。西欧人も然りだ。彼らは自業自得ということを知らん。神が人間をつくったと思っとるから自分に悪業の原因をさぐらん。こうした宗教的人間を仏教は否定する」。
  • 原始経典を軽んじないことを心においておきたい確かに大乗菩薩道は美しい。その犠牲的行動の描写叙述は神秘的とさえいえよう。しかし、決して教祖たる釈尊の説かれた教法の根幹ー阿含・法句・経集を、軽んじ離れてはならないのである。念仏も禅も題目も「般若心経」の写経も結構だろう。が、つねに阿含、法句に戻って仏陀の真精神を汲み取る「仏祖の大道」を忘却してはならないと思う。「阿含経」は引用法句にもみられるように、まことに平凡きわまりない日常自然の営みのなかから教えを説かれている。私たちと同じ地平線に立って、現実の悩み多き世間の悲喜恩愛のうめきにやさしく応えている。空とか無とかいう哲学的な言葉は出てこない。むしろ倫理的で合理的で常識的でさえある。
  • 般若心経は凝縮された抽象的経文故に解釈を誤らないことが重要注意しなくてはならないのは経文の字句解釈はともかく、それらの講話や講義は百人百色、著述者、解説者の宗教的・思想的立場からそれぞれの解釈を下しているということである。(略)
    しかも、多くの日本人の手にする「心経」は唐僧玄奘法師の漢訳によるもので、その中には「度一切苦厄」の法句があるけれども梵語原文には見当たらない。「以無所得故」の五字も法隆寺の貝葉梵文には存在しない。ではどうしてそんな細かい専門的なことにこだわるのかといわれるかもしれないが、この経は観自在菩薩が自利の悟りとして「照見五蘊皆空」、つまり一切の現象が因縁によって成り立つという空の真理を智慧の徹底によって(行深般若波羅蜜多)照見したと告げているのであって、いきなり一切衆生の苦を救う利他行を説いているわけではないということを知っていただきたいからだ。もし「度一切苦厄」が「心経」の功徳だと思いこんだら、このお経はたちまちにして狭隘な御利益経に墜ちていってしまう。「
    心経」は「さとりの経」であって「すくいの経」ではないのである。(略)ほとんどの一般日本人は何十回も何百回も「心経」を棒読みしては「度一切苦厄」の利益を得ようと甘え、僧侶も都合の良いようなありがたや節の俗言を吐いている。(略)
    この経は御利益を与えてくれる呪力の書ではない。自己努力による深い叡智の探求を求めた経典である。