2015年12月26日土曜日

使いたくない「頑張る」と「努力」。


昨日の「縁」とも密接に関係がある話と思いつつ、こちらはひねくれ者と思われても仕方ないかもしれません。

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どうしても好きになれない、使うのも耳にするのも抵抗がある言葉
「頑張る」と「努力」。

被災地を巡って、必ずといって良いほど目につく言葉が「(災害/被災に)負けるな」「頑張れ」という文字です。

地震等の天災に対して「負ける」「頑張る」というのは何でしょう。
その境遇に悲観したら、絶望したら、負けたことになるのでしょうか。
天災に対して勝ち負けで語ることは思い上がりだと思います。
また、被災者を鞭打つ言葉でしかないと感じます。
被災地自身から出た言葉として「頑張ろう○○」(○○は被災地名)がよく使われますが、自分が被災者だったら正直「違うだろ?」と返したい(実際東日本大震災時、そう思いました)。

仏法にいう「頑張る」は「我を張る=自分への執着」です。

日常に何気なく使っている「頑張る」も決して意味が異なるとは思いません。
「苦しさに負けず努力する」というニュアンスでしょうか。
なぜ苦しさを感じるのかというと「思うがままにならないもの」を「思うままにしようとする」ため。
その苦しさを超えるためにする努力は、ますます思うがままにならないものを思うがままにしようとする「苦」に他ならない。

これは仏法の「精進」とは異なる、人を幸せにしない行為であり心のベクトルだと考えます。これも重要な精神の一つである「中庸」からも離れる方向です。


そこで多くの日本人が大好きな言葉「努力」です。

努力こそ尊いと言ってきたこの国の教育・一般論に対して、私は、

「努力したからこそ報われない 」

という世間常識の逆説が真理ではないかと考える人間です。

思い通りにするため、こういう結果を出してやるという思いがあって「努力」するわけです。

それは言い換えれば、現状に満足できないから。

現状が気に食わないことを公言するのと一緒なのです。
なおここでは、好きで夢中になっていることに「努力」という言葉は使わないとします。

途中経過、プロセスを楽しむ、プロセスにこそ意義を持つ場合、やはり努力とは言いません。

あくまでも、結果のため、今の状況から結果を変えるために、歯を食いしばって取り組んでいる状況が「努力」。
そう「努力」を定義すると、その行為に尊さを感じることができません。

努力至上主義は『自力思想』です。

人は頑張れば目標を実現できる、努力こそ成功の王道、努力こそが道を切り開くってやつです。

対して、流れに身をゆだねつつ、結果ありきではなく、目の前のことに念を入れて取り組む、という姿勢の根底にあるのが『他力思想』だと思います。

『努力は神への宣戦布告』。

作家小林正観氏が言った私の共感する言葉です。

そのとおり、運を味方にできない姿勢。だから報われない。
思いを持たず、流れに身を任せ、夢中になれることは楽しんでやる。

努力「しても」報われない。
のではなく
努力「したから」報われない。

すると必ず、努力なくして人間は進化しない! という反論が聞こえてきます。

でも本当に努力が進化の元なのでしょうか? 
「流れに身をゆだねつつ、結果ありきではなく、目の前のことに念を入れて取り組む」。

これではダメですか? 

努力至上主義が善とされる時代にそろそろ終止符を打つべきと思っているのは私だけではない気がします。

「縁」の他に「他力」も生きる灯火の一つです。

2015年12月25日金曜日

縁の不思議

「縁」の不思議を想います。

「縁」といえば、人と人とのご縁のような使い方をしますが、仏教では「因縁果」といって万物に当てはまる法則です。

世間では「因果」を強調するが故に「縁」の大事さが忘れられがちです。

仏教は宗教でもあり人生哲学でもあり科学の要素も持つと言われますが、仏教が明らかにした「縁」という真理に気づかされた時の衝撃は大きかった。

現実には「1つの原因→1つの結果」などというものはありません。
その結果に至る間に無数の「縁」があるという厳然たる事実があります。

自分に大きな影響を与えた物事や人について、振り返れば、様々な縁がないとそこにたどり着かなかったことがわかります。
次々と、どうしたものかと思えるような出来事が身辺に起こりますが、後に考えると、それを乗り越えるには、何か、自らの計らいでない力が働いていたことに気づかされます。

絶妙なタイミングで誰かが助けてくれていたり、複数の事象が物事の流れを別の方向に導いてくれたり…。

また、解決策を実行したとして、そのアクションに至ったのは、思いがけない閃きであったり、再現し得ない火事場の馬鹿力とも言えるものだったりすることがあります。

救ってくれる環境が現れ、閃きやアクションを内面から働きかけてくる何か…。

そこには自力とは対極の力学が働いていると思え、「縁」が支配していることを感じます。

自分はこうしてああして、こんな結果を得るんだ、と気合いを入れても、所詮自分を取り巻く無数の「縁」を先読みすることはできません。

また、自分の思い込みから導かれる目標や目的は、人生の大きな流れの中では、見当違いもあるでしょう。

結果が良いことなのかまずいことなのかだって、正確に言えば自分ではわかりません。その時の善し悪しの評価が、何ヶ月後、何年後には逆転することもあり得ます。

このことから思ったのは、流れに身を任せることが、最終的には最良の解決方法なのではないか、ということ。

一方で、縁が活きるかどうかは、良き縁を呼び込むような日々の生き方が大きいと思います。

加えてアンテナをしっかり張っておくことが重要と思い始めています。

アンテナが機能していないと始まらない縁があります。

結果はわからない。でも自分の直感・第六感を大事にして、「流れ」が何かを見極める観察力を磨いて、流れの中で動いてみることが良縁に結びつくことも多い気がします。

縁を信じて流れに身を任せれば、途方に暮れた状態が延々続くことはないし、事態がどんどん悪くなり続けて止まらないということもないのではないか。

縁は、偶然の巡り合わせとも言えることの積み重ねによって、計らいが及ばない成るべくして成った結果。

そう思うと今の自分の置かれる状況が感謝につながります。

そんな物思いに耽るクリスマスイヴの夜。

子どもが寝静まったところで、そろそろ親の一仕事かな(^^ )

2015年9月1日火曜日

南都六宗

【南都六宗】

いわゆる日本仏教といえば平安・鎌倉仏教ですが、その前の奈良時代における学問的要素の強かった仏教は、南都六宗として、当時大きな影響を持ちました。

うち、現存するのは3宗ですが、消滅した中にも三論宗のように、当時はトップクラスの勢力を持ったものもありました。今も残る3つの奈良仏教宗派は、本山は有名観光地と化していますが、檀家制度と一線を画しつつ、法灯を継続しています。

〔法相宗〕
薬師寺、興福寺(以前は法隆寺、清水寺も)
玄奘三蔵に直接学んだ道昭が最初期の僧。唯識。教理体系が煩雑を極める。
8〜9世紀が最盛期。

〔倶舎宗〕消滅
法相宗の付宗。「倶舎論」とその注釈書を中心に研究された。道昭が招来したと伝えられる。

〔三論宗〕消滅
智光が日本での祖。法相宗と活発な論争が行われた。
竜樹の三論教学(「中論」「十二論」「百論」の論を所依とする)に基づく。空を説くので「空宗」とも。
唐時代には廃れて、学問だけが残った状態に。
中興の祖に聖宝がいる。
華厳宗、真言宗に影響を与えた。

〔成実宗〕消滅
三論宗の付宗。「成実論」を所依として、経文を所依としなかった。小乗扱いを受け、隋時代に衰退。

〔律宗〕
唐招提寺。
戒律の宗。鑑真が伝える。戒律方法の分散化と形骸化で衰退。
鎌倉時代に叡尊が真言律宗を開いて二分する。
江戸時代に再興。
明治初期に一度真言宗が所轄したことも。

〔華厳宗〕
東大寺。
「華厳経」を所依とする。
法蔵門下の新羅の僧審祥(しんじょう)によって日本にもたらされる。良弁(ろうべん)が確立。
教理の独自性が強い。
天台教学と並んで、中国仏教の双璧と言われた。
その思想に基づいて、東大寺大仏(毘盧遮那仏)が建てられた。
鎌倉時代に明恵が密教思想を、凝然が教理を確立した。
密教思想の背景には華厳思想があり、禅思想の中にも生きている。
明治初期、一度浄土宗所轄とされた。

2015年8月7日金曜日

利行とボランティア活動

ボランティア活動に関わる方々から多くの学びを頂きます。

地域を少しでも良くしたい。それには地道な労を惜しまない方ばかり。

ルールだ、コンプライアンスだ、ガバナンスだ、という議論が何よりも大事であるかのような風潮に疑問を持たない方が多いと感じますが、一方でそれが社会の不寛容化に拍車をかけていないか。

それ以上に、人として大事なことを皆さんの取り組みや活動理念から思いださせてくれることに感謝です。

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…と、そんなスピリットに触れるたびに想起されるのは、仏教でいう「利行」です。

道元禅師「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の菩提薩垂四摂法(ぼだいさったししょうぼう)では、「布施」「愛語」「利行」「同事」の四つを説きますが、その「利行」における考え方が、まさに活動の精神の本質を表しています。

『思わくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと。爾(しか)には非(あら)ざるなり。
利行は一法なり、普(あまね)く自侘を利するなり。』

というくだりがあります。

他を利することを優先すると自分は損をすると思いがちだが、決してそうではない。利行とは他人と同様に自分にも利を与えてくれるものである、ということです。

「自他一如」という仏法の根本原理。
行動・活動には、必ず「自分のため」という要素があります。
しかし、「自分(たち)だけのため」ではない、という視点が大切ではないか。

もっと言えば、何も「ボランティア」と称して活動する必要はなく、日々の生活のあらゆる選択の場面における判断を、目先の損得勘定ではない「利行」の理念を持ってブレなければ、その実践は不寛容を寛容へ、そして「普く自侘を利する」生き方になる、と自分は信じています。

2015年7月30日木曜日

「見方道」の境地

小林正観さんの遺作、死の直前、東日本大震災の年の夏の著作「豊かな心で豊かな暮らし」は、より端的に哲学が語られていました。しかも到達したのはやはり仏法の境地であるようで、ようやく四摂法(ししょうぼう)が登場します。
いくつか抜粋します。

『向上心という名の努力をすること、頑張るという名の自己向上を図ること。そして自分の今置かれている状況に満足しないということは、不平、不足と紙一重の差』

『ものの見方というのは、一生涯かけて会得すべきものと私は考えるのです。一つ一つの事件や出来事を、すべて見方によって変えていく。その訓練だと思います。』

本書では「見方道」という新たな概念を提示されているのが印象に残りました。

『世の中の問題点を列挙するよりも、宇宙の楽しい法則や幸せの法則を見出した方が、自分自身にとって楽であり、楽しいものであると思ったからです。』

『楽しい日々を送りたいのであれば、自分から発するものが常に楽しいものであるほうがいいのです。楽しい話を発振すれば発振するほど、自分のところに返ってきます』

2015年6月29日月曜日

今、必要な『同事』の心

「『同事』というは、自にも不違なり他にも不違なり。」
と修証義発願利生における四枚の般若のうちの四つ目でいうように、仏法において、自他一如の考え方を同事と言います。

初め、布施、愛語、利行にくらべてどこかその重要性が伝わるインパクトが弱く感じられた同事でしたが、戦争や軍隊を賛美したりする勢力が日本に跋扈するようになった今、特にこの同事の大切さを思います。

自他一如は非常に難しい考え方であり実践であると思います。
他人への思いを、自分への思いと同じところまで昇華させることが同事とすると、果たしてそのような思いを持つことができるのか、と思います。

人生の歩みを追いかけて見てみますと、同事を試されるその第一歩が、まずは両親や兄弟を思う心ではないかと思います。
しかしこれはなかなか難しく、生まれた時から既に存在していた父母への思いは、父母が持つ子への思いの足元にも及ばず、成長過程で客観視することは困難で、倫理的・道徳的な尊敬としての思いが普通でしょう。親のために死ねる、という子どもは普通いない。
兄弟姉妹へ強い同事の心を持つことも正直難しいでしょう。

その後、友情という経験を経ますが、実際朝から晩まで一緒に何年もいる友人というシチュエーションは考えにくく、やはり配偶者を迎えて初めて肉親以外に同事を実感できる他人との遭遇となります。
しかし、この配偶者という存在も相性が悪ければ離婚だ家庭内別居だというケースが山ほどあることを考えると、配偶者への同事心もどこまでの人が持てているかは疑問があります。

そして、人生の最大のステージであると私が考える「我が子を持つこと」。
ここに至って、人は自分よりいつまでも大事だといえる存在に会います。
まさに同事の心が我が子には自ずと湧き上がってきます。

何が言いたいのかというと、同事心を持って生きるには、本当に大事な人が身近にいることが必要なのではないかということです。
それを家族(子ども)を持たずして実践するには、極めて宗教的な自覚を持って生きない限り困難だと思うのです。

そして、同事の心をもし持てるのであれば、戦争を心から反対するほかなくなります。軍隊を賛美することなど有り得ないばずなのです。

大事なのは自分だけ、もしくは自分も含めて大事でない、と思っている人と、同事の心を持つ人との最大の違いは、ヤケを起こせないということだと思うのです。

自分一人で生きている錯覚をもっている人、人生や生活に自分という範囲以上の責任を持たずに過ごしている人は、間違い無く、状況の悪化と追い詰められた場面において、ヤケを起こすことにつながります。
自分を省みると、独身時代、明らかにそうでした。

ただ、 家族の絆以上に外に出られない人間も多いなか、同事は子どもがいればクリアというものではなく、すべての他人にも自分と同じ命があり、大事な関係があり、ドラマがあるということを腹の底から理解できる人生となったときに、初めて同事の心が広く他人に及び始めるのだと思います。

2015年6月26日金曜日

鎌倉寺巡礼 第二段(材木座編)


鎌倉駅に着いてすぐ東口から路線バス(40番)に飛び乗って材木座方面へ。

浄土宗関東の大本山光明寺。
先週の北鎌倉とは全く様相が違って、観光客がほぼ皆無。地元の若いお母さんがよちよちの男の子を連れて散歩しているのが、別々に二組いて、とても微笑ましい。きっと心の優しい子に育つだろうな…。

観光としての拝観料もパンフレットもないのに、本当に荘厳。大殿にも関らずゆったりと歩ける。

百を超える訪問寺院の中で三本指に入る感激。まさか初めからこんな感覚になるとは。とにかく、心が洗われ、いつまでも滞在したい気持ちに。

高台に登りながら、この有り難さに思わぬことに涙が溢れてきた。この瞬間に、鎌倉巡礼の目的はすべて果たされたことを確信した。

そのあとの寺院も一つ残らず観光客はほとんどおらず、道しるべがない寺も多いことから迷いながらの巡礼になった。北鎌倉とは対照的な旅になった。

続いては、早速迷いながら、今回も唯一の真言宗寺院(大覚寺派)補陀洛寺。ガイドにも掲載されるが、道案内もなく、極めてこぢんまりしたたたずまい。

九品寺はバス停がわかっても寺がわからずパス。

時宗の向福寺は入口さえわからないような小ささ。

少し戻って日蓮宗実相寺。奥まっているだけに、落ち着いた雰囲気。

ふたたび時宗の来迎寺。時宗の寺は飾らず小さい。一般寺院と浄土真宗寺院の間の印象。

日蓮宗長勝寺は、遠くからも威厳あるたたずまい。日蓮聖人像のインパクトが大きい。

続く日蓮宗安国論寺は名前通り存在感はありつつも、とても落ち着いた雰囲気が素晴らしく、日蓮宗では一番の好印象を持つ。サザンカの時期、混むらしい。

並ぶ日蓮宗妙法寺は苔寺(階段)で有名なだけに、写真撮影目的はおことわり、となかなか強気。300円。
雨が降る中、やはり人はほとんどおらず、その空間に浸ることができた。
ここの階段ですれ違った一人旅の女性が最後まで何度も顔を合わせることに。

ツツジの名所らしい北条政子と縁の深い安養院へ。浄土宗。

そのすぐ前に不思議な字体が寺中にある怪しい佇まいの日蓮宗上行寺。厄除け、鬼子母神の身代わり祈願専門という感じ。

またすぐ近くには時宗別願寺があるが、ほとんど寺か民家かわからないくらい。

ここでまた大きく道を行き過ぎて、予定外の時宗教恩寺に。時宗寺院では一番寺らしい雰囲気で、大木にリスが走り回っていて、思わず撮影。

戻って、八雲神社を通り過ぎて、ぼたもち寺として知られる常栄寺へ。これもいかにも日蓮宗らしい雰囲気。

そして妙本寺は門前から構えがしっかりしていて、見応えのある日蓮宗寺院。駅に近いと思えない程自然の中を感じられる。ここにも立派な日蓮聖人像が。やはり個人崇拝を感じさせずにはいられない日蓮宗である。

そして駅に一番近い東身延と書かれた日蓮宗本覚寺は、本堂改修が続いていてまだ拝観できず外から。

最後に、安産祈願で女性参拝者ばかりの大巧寺は、裏から入ると小ささを感じていたが、面へ抜けると、若宮大路の鎌倉駅前に出て、急に現実に戻された。

結局2時まで昼食の機会を得られず、駅前でちょっと高価なカフェでのランチに。三度目の正直で鳩サブレーを入手して帰途につく。

日蓮宗、続いて時宗、浄土宗の寺院で構成される材木座大町地域。第二段は合計十六もの寺院巡りが実現した。

ここまできて、自分の心に響く寺院が京都での知恩院、浦安で大蓮寺、鎌倉でも光明寺と、確実に浄土宗との縁を感じることに気づかされた。法然上人とのご縁である。

雨の苔寺

妙法寺

浄土宗大本山光明寺

大本山とは思えない静けさと佇まい。
これまで訪問した寺社でも格別な風情があります。
この観光地化していない雰囲気は何でしょうか。

2015年6月19日金曜日

死ぬことは不幸ではない

多くの人たちが何の疑問も持たずに、特に正義感の塊のような人が強く決めつけて思い込んでいるのが、

「死は悪であり不幸である」

ということです。
多くの社会生活の常識や行動原理が、ここに軸をおいていると言っても過言ではありません。

これに対して、私は異議を唱えます。

医療も福祉も、いかに死なないようにするか、少しでもあらゆる人間の寿命を人為的に延命させるか、ということに何の疑問も持たずに邁進しており、その業界に身を置く人間として、とても違和感を感じ続けています。
私は、苦痛が嫌です。何よりも嫌で恐れています。
医療や福祉は、死をマイナスの結果として捉えたり、延命を目的化するようなことはせず、少しでも生きる上での苦痛を軽減するための方策として発展することが、そのあるべき姿と思います。

災害支援関係者にも、死なずにいられる対策があるはずと、災害死を人為的対策不足として喧伝する人がいますが、これも余計な干渉であり、傲慢だと思います。
天災はそんな人間の知恵の範囲で収まるものなどほとんどないと思います。
防災でなく減災と言ったりしますが、災害支援は、被災してしまった方の苦痛を少しでも軽減するために行うものだと思って自分は取り組んでいます。

勿論、防災に関する知識を持つことがリスク回避につながることはわかりますが、年がら年中災害の場面を想定して生きるなんてまっぴらごめん、という考え方はあって然るべきだし、それによりもし亡くなっても、それを選択する人生はその人の人生で誰も咎めて良い筈はない。
過去の津波被災よりもその日その日の沿岸での生活を大切にして、あえて海沿いに住んで津波に遭遇したとしても、誰も責めては決していけない。

「死は悪であり不幸である」
と捉えてしまうには、死に対して恐怖感があることに起因するのだと思います。

勿論、本能的にも死は怖いです。死に際して多くは苦痛を伴うと考える故に死が怖いとも言えます。

しかし、苦痛は自分にとって悪ですが、「死」は良いとか悪いとか評価などするものではなく、ただただ受け入れるべきものだと思うのです。
いや、「べき論」もこの件については不要です。

世の中に「当然」なものはほとんどありませんが、死は数少ない「必然」の現象です。人間として生を受けた限り、致死率100%ですので。

ですから、早世されたり突然の死が訪れたりすることに対して、異常に死を呪うような言葉を吐く人や、知人の葬式の二次会で「いやあ、健康が第一だよ、ハッハッハ」などと言うがいますが、ああ、この人は生きていることを当たり前と思い込んでいる、死を心の底から自分ごととして捉えられていない、人生に対する思慮の浅い方だな、と思います。

確かに辛い死に出会うことはあります。
自分の身近なましてや誕生が自分より後の人が先に亡くなるのは、やはり悲しさが大きくなるのは事実でしょう。

しかし、繰り返しますが、死は悪でも不幸でもありません。

輪廻や三世の業法を信じるかは別にしても、今生の生が比較的短かっただけなのです。
それを不幸というのは、生き残り側の思い上がり以外の何ものでもありません。ある程度(平均寿命程度)は生きるだろう前提で物事を考えていることに疑いすら持っていない証拠です。

人間は「魂」があって、今生ではこの肉体を借りて人生を営んでいる、と考えることが最も理にかなっており、実際それに違いないと私は強く信じています。

魂は心に直結(イコール?)であり、魂が幸福(しあわせ)を感じることに、この魂の唯一と言ってもよい存在意義ではないかと考えます。

それを突き詰めれば、その人の寿命(どんな死因であれ)に従って、死の到来は受け入れるということだけに尽きると思うのです。

死に方も選べません。死に方の良し悪しも評価対象にするような性質のものではありません。
自分の誕生を自分で評価しようがないのと同様に、死も100%自分ごとでありながら本人は評価しようのないものです。
だから、誰に訪れる死についても、その到来は理由の如何に関らず、そういうものとして、完全中立に受け入れるものなのだと思います。

「死」を完全に中立的に捉えること。
人生のテーマとして、この上なく難しいことですが、最大級に重要な視点ではないかと私は考えています。


『生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。その時初めて生死を離るる分あり。』(正法眼蔵/道元禅師)
『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』(御文章・白骨の章/蓮如聖人)

2015年6月18日木曜日

鎌倉寺巡礼 第一段(北鎌倉編)


北鎌倉の駅で降りたところから渋滞。アジサイの季節の鎌倉は噂通りの人。恐らく、多くが目指すのは、アジサイ寺の明月院。

目の前の円覚寺に入るに、大渋滞が起こっている状態。

反対に進んで、まずは時宗の光照寺へ。
人もまばらで良い感じ。アットホームな小寺。

戻って、円覚寺へ。大変な賑わい(写真)。塔頭が多い。

それから駆け込み寺として知られた東慶寺へ。心なしか、参拝者は女性ばかり。寺の風情も女性的な繊細さを感じる。アジサイも美しい(写真)。

続いて隣の浄智寺へ。拝観料を払ってまでして中へは入らず。

それから、どこまで見られるかは期待せず、大量の人の流れに乗って明月院へ。入り口手前のアジサイもそれなりに綺麗だが、入り口まで来て、どうにもならない人だかりに、すぐきびすを返した。

昼を食べ損わないように、早めの昼。
漢方薬膳のお洒落な如何にも女性対象のお店へ。奥まっているのもあって空いていた。雨が降り出す。

建長寺に向かう。三門他、威容は鎌倉随一。

亀ヶ谷坂の切り通しルートへ。足の疲れを感じたら既に一万歩を超えていた。

人の量が減り、更にマイナーな方向へ。折伏して真言宗を日蓮宗に改宗させたという薬王寺に寄る。

その後、海蔵寺へ。ひっそりして良い感じ。

それから、本日の異端、真言宗泉涌寺派の浄光明寺へ。
寺守のおじさんがしゃべりすぎで、こちらが阿弥陀佛に手を合わせていても、構わず話しかけてくる。階段上の地蔵尊に一人手を合わせられた(写真)。

尼寺の英勝寺へ行くと門が閉まって入れず。外から少しだけ垣間見る。

後、残すは寿福寺だが、その前に、日蓮正宗護国寺の大きな看板が。しかし不可思議な近代建築しか見えず、興味本位で近づいて、何だこの建物?と見ていたら大雨になり、そこへ「どうぞ雨宿りして下さい」と関係者らしき紳士に声をかけられ、これは助かったと、言葉に乗って本堂に入った。
少し世間話をしたところに袈裟を着た住職が登場。
すると、色々な宗派を勉強するのは良いが、どうして仏教が沢山訣れたか歴史的経緯を知っているか、正しいのは一つだけであり、日蓮正宗以外は邪道だ、と始めたので、その考え方には同意できない!と論争してしまうことに。
「あなたに必要なのは信仰であり特定の宗派に絞らなければならない」「いやそれは違う!」という具合に。
あまりにイメージしていた日蓮正宗とそのままの展開に、内心可笑しくて仕方ない楽しい思いをした。
いきなり、そんな話の入り方したら、拒絶反応しか起こらないことがわからないのかな(それともそれに納得して従う人もいるのか?)。

でも、こちらに寸分の迷いもなく、頑迷さが伝わったからか、しつこさは全くなく、直接お話できたことが何よりも良かったですと、気持ちよく退出できた。
時間がなくなり、寿福寺は次回。

ということで、今回は入り口までを含めると合計11箇所の寺をじっくりと見てこられた。

建長寺三門と紫陽花

2015年6月5日金曜日

喜び方の達人になる/マイナスオーラからの脱却

幸福な人に幸福が次々現れる。
その逆もまた然り。

幸せの定義は何度となく書きましたが、幸せを感じられる、つまり、喜び上手な人に幸せが集中していきます。
でも、よく冷静にその現象をみると、同じことがあっても喜べない人もいて、結果その人からはそういう現象は減っていく。
幸福者はドンドン幸福を感じる幅も増えるために、益々幸福が増える。
そして、その人から出るオーラが幸福や善人を引き寄せるのでしょう。

喜び上手に福は集まる。

これは真理と思います。

喜び上手の人は必ずプラスの言葉を発しますから、周辺に幸せ感を充満させます。
片や、文句、課題提起、悪人の糾弾、自己嫌悪、自己卑下、こういう言葉を出し続ければ、間違いなくマイナスのオーラが撒き散らされます。

40年間、真面目に生きることを優先させて、短絡的な正義感を肯定してきたことから、周りにマイナスオーラを出し続けた自分だからこそ、今のこういう自分であり環境なのでしょう。
とても説明がつきます。

しかし、34歳で仏教と出会えて、ものすごくまともに軌道修正されたことは間違いありません。
でも、まだまだ信心も仏道としての実践の甘さが、マイナス要素を消せずにいます。

さあ、ではこれからどう生きていくか。それだけに尽きます。

2015年6月2日火曜日

「刹那主義」で生きる

刹那主義というと、一般には、今さえ良ければ後は知らないという無責任な生き方であり、自分の快楽だけを追求する、決して良い使われ方をしません。

しかし、刹那という言葉自体は仏教用語で、人生にあるのは刹那だけであり、人生はその刹那の積み重ねで構成される、という考え方の根本です。
つまり、本来的には、今、その瞬間を大切にして歩んでいくことが「刹那主義」ということになります。

考えてみれば、我々は今目の前のこと、目の前の人以外、対峙出来るものはないことがわかります。色々先のことを想像したり、勝手に予測したりすることはできても、実際には目の前、刹那としか対峙しえないのです。

そうなると、一瞬、一瞬の刹那、目の前のことをどれだけ大事にできるかどうかが、極論すれば人生のすべてとさえ言えるのです。

「莫妄想」というあまりに有名な禅語がありますが、年を重ねることによって、刹那を大事にできなくなってあれこれと繰り返されるのが「妄想」であり、ほとんど年がら年中妄想の中にいる状態の大人も少なくないと思います。

刹那的な快楽を求めて違法行為とまで行かなくとも、ゲームにレジャーに、と時間の浪費に思えるような過ごし方をする人々も、その最中には「妄想」から解放されるという大きな効用があることを自覚するしないに関らず感じているからという一面があるのではないでしょうか。

妄想からの解放は、私の中では常に意識的な課題でありますが、この刹那を大事にすること、目の前の人、事象を大事にすること以外に、集中すべきものはないと、心得て日々を過ごす姿勢については、日常的には忘れてしまって意識化できていないことの一つです。

これからは、本来の意味での「刹那主義」を意識したいと思います。

2015年5月16日土曜日

古鏡としての経文

経文を学び始めて思えば10年という時間が経過し、日常生活から経文が離れ、繰り返すことを怠ってきたために、40近く暗誦できた経文が、もはや10程度 (しかも短いもの中心)になってしまい、この40代は明らかに試練を呼び込んで、仏教に照らし合わせて解決することもできない状態が続いてきました。ひと えに、仏法離れがなせる業と納得しています。

経典・経文を「護呪」として、いわば祈りのためと捉えることが多く、陀羅尼などはそう捉えるしかない部分はあるが、いくつかの経文については自分は「古鏡(こきょう)」として捉えることを意識したい。

経文の中にある内容と自分の生き方を照らし合わせて、正しく生きるための指針として読むあり方です。修証義などがこのあり方に相応しい経文の一つです。
暗誦が目的ではありませんので、一言一句を味わい、思惟し、日常の落とすことを心がけたい。

2015年5月15日金曜日

ブログの引っ越し

サーバー更新が事情で出来なくなったため、2006年から続けてきた本ブログを、Googleブロガーに引っ越ししました。

残念ながら、過去の投稿日を引き継ぐことができなかったため、過去126本の投稿を、古いものから順に一まとめで2015年5月14日の日付に入れる対応になりました。

2013年8月から更新も止まっていたので、改めて再開したいと思います。

2015年5月14日木曜日

仏法を思惟する

仏法を意識して生きていこうと思って2年、かなり濃密な仏法に浸ることのできた日々を過ごしてきたつもりでも、ここにきて忙殺される毎日に、自分の意識が弱まっていることを自覚しました。
「遜文侍の本日」は毒舌集ですが、こちらは真摯に仏法について考えていきたいと思っています。
(2006.8.29)


法施は僧侶である証でもあるというのに・・・

仏法ブログは、「遜文侍の本日」の毒舌とは一線を画して、自省と人生の日々の生活の中での仏法についての「気づき」を記録するために立ち上げたのですが、立ち上げ直後、悪い意味で衝撃を受けた記事を見てしまい、こんなネガティブなトーンになってしまいました。とにかく唖然とする記事。

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(南日本新聞から編集抜粋)

住職 読経ボランティア/●●寺
月1回老人施設を訪問 入所者「心が洗われる」

町の介護老人福祉施設に毎月、同市内の●●寺から住職が訪れて、ボランティアでお経をあげている。入所者にとっては、亡くなった伴侶や家族らに思いをはせる大切な時間。「お寺さんが来るのが楽しみ」と待ちわびている。
 同苑では自室でお祈りをする入所者が多かったことから、3年前、施設内の一室に大仏壇を置いた。このことが●●寺の住職(58)の耳に入り、毎月1回、約30分間の読経と説法に来るようになった。
 同寺は浄土真宗興正派だが、約20人の入所者は宗派を超えて念仏を唱える。住職は「亡くなった自分の両親と同世代の方々で話していて楽しいし、僧侶としても勉強になる。生きていてよかったと思えるお手伝いができれば」と話している。(略)

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絶句。

読経が「ボランティア」とは何事でしょうか?

これは当たり前の僧侶の姿ではありませんか。これこそ日常の風景ではないでしょうか。

法施は僧侶の本職であり、それは所謂布施の対価としてなされるものでは全くない筈なのに、「ボランティア」とは何?

この僧侶としての姿そのままがどうして記事になり、「ボランティア」になってしまうのか、皆目わかりません。

ここでいう「ボランティア」は本業を無料でやった、という意味以上のものは何もないのでしょうが、これは仏法も僧侶もボランティアもあまりにバカにしています。記事にした人間のお粗末極まりない認識に問題があるが、僧侶はこれを見て怒らないのでしょうか?
ところで、「宗派を越えて」って、浄土真宗は一般的な観音経等の法華経や般若心経等も読経できないと思いますが・・・。

しかし、普段の読経は法施ではないと断言しているようなものであります。

仏教寺院の形骸化と本気で弘法する気がないという堕落の実体は、残念ながら遠藤誠氏の指摘のとおりでありました。

まともにやっていらっしゃる僧侶の皆様には申し訳ありませんが、仏法と民を侮辱した此の記事に一言いわせていただきました。

(2006.8.29)

早く家に帰ること

私は出来る限り毎日早くに家に帰ります。
仕事は山のようにありますが、関係ありません。

4歳と0歳(7か月)の2人の子どもが満面の笑みで迎えてくれることも何よりの楽しみではありますが、結婚した、家庭が出来た、子どもが出来た、これによって人生観が本当に変わったと同時に、どう生きるべきかが実にハッキリしたからです。

自分はどう生きたいのか。

まず人生で自分が何よりも大切にしなければならないものは何か。

これが家族ができたことで実に明確になりました。

自分と運命共同体といえる「家族」であります。
家族といかに幸せな時間を多く持つことが出来るか、どれだけいたわりあい、家庭にいることに幸せを感じる、そんな空間を作ることが出来るか。
特に我が家の二人の子どもは、(上の子も幼稚園に行っていませんから)社会に出ていないため、家庭がすべての世界で生きています。そこが快適でなければ、言ってみればこの世は地獄となります。

「忘己利他」「自未得度先度他」「衆生無辺誓願度」・・・他人を利することを第一に考える、という仏教語は幾らでも出てきます。
これが仏法の根本であります。
仏法の実践をして生きることを決めたからには、仏法を自分の生活に置き換えて、具体的に実践することが大事です。

すべての衆生を救うなんてことは一人の人間にできはしないし、思い上がり以外の何物でもありません。
浄土教は「南無阿弥陀仏」念仏こそが最終的には最も衆生を救う道につながるのだといい、親鸞聖人に至ってはそれを歎異抄でも証明しました。

根っからの真宗純粋同朋にはなれない私です。
そう考えて、何が仏法にかなうか、真理にかなうか。
まず自分の一番近くの有縁の人、そう家族のために生きるということが、最も理にかなっているのは明白です。

歴史的にも世界的にも、家族を大切にしない民族・時代は稀と考えます。そしてそれはどれもこれも病んだ世界でしかありません。
戦後の日本がその代表的な「家族崩壊」系の社会であることは明白です。
それを今も引きずっている人間がどれだけ社会に多いかも仕事をしていればわかります。
フリーターだろうが何だろうが、家族を大事にするという基本姿勢を忘れない人間こそが「まともな」人間である、ということが最近の自分の確信です。

そう思えばこそ、時間中は出来る限りの効率で働きますが、早く帰宅し、子どもたちと入浴し、語らい、ふれあう毎日を繰り返す。
とにかく「寄り添う」ことが何よりも健全な人間の魂を育たせることにつながると信じております。

それが今の自分の最大の実践すべきこと、これが結論であります。

(2006.8.31)

読経の環境

読経をすることを一つの仏法を実践していくための方法として、続けてきているわけですが、なかなかその環境を普段確保することは難しいのです。
一番集中できるのは、実は入浴中です。
しかし、乳呑み児の子育て中の身としては、子どもと一緒に入浴すれば当然無理だし、平日に一人入浴しようとすると、外から子どもたちのちょっかいが始まって、どうにも集中できません。
声に出すことは大切なので、寝静まった後に唱えることもできないし、当然通勤時間や職場で唱えたら危うい人になってしまいます。
特に、今30程の経文を身につけただけに、それらを日々繰り返し唱えないと、記憶は薄れるし、経文が遠いものになってしまったら元も子もありません。
最善策は見あたらない中での日々の工夫のしどころです。

(2006.9.2)

はからいについて

はからい、は生活の中で当たり前のようになされていますが、仏法では「根本無明」といって、それがすべての愚かな争いのもとと捉えています。キリスト教でいうところの「原罪」に近い考え方です。

経文の読み方

抽象的だったり、寓話性に富んだりする経文を読むには、具体的な個人の経験や深く考え悩んだことに落とし込むことで、一挙にその意味が生まれます。
今分からなくても、経文を学び、そらで言えるようにしているのには、それを念頭に置き、忘れないことです。

【延命十句観音経】

我がサイトにおいても「経文を知る」として、覚えてきた経文を列挙していますが、改めて、このブログでもこれまで吸収してきた経文を振り返りたいと思います。

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普段、佛教を常に意識して生活を営むことは困難です。何かあれば腹が立つし、苛立ちます。そんな時、このお経を頭に思い浮かべることで佛教の言わんとする重要な「行き方」が確認でき、短絡的な思考・感情をリセットすることができるのです。42文字という短さが常の暗唱を可能にしています。

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延命十句観音経

観世音 南無仏

与仏有因 与仏有縁

仏法僧縁 常楽我浄

朝念観世音 暮念観世音

念念従心起 念念不離心

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初めて経文を覚えたいということで選んだのが、この短いお経でしたが、当時は「音」に頼ることなく字面をみただけでしたので、僧侶が読誦するような抑揚や語句の長さが解らず、完全自己流でした。後に臨済宗CDで発見して修正をしましたが、経文を暗誦するということは、いざ仏道を心に念じようとするときは、手元に何もないときがほとんどであることからも、自分の頭の中から出てくるということは、非常に有り難いことであると痛感し、これを機に、できるだけ多くの仏道の心を自分の心に染みこませたいと思い、経文の暗誦を始めたのでありました。「朝念観世音暮念観世音、念々従心起念々不離心」という文句は正にその読経人生の最初の誓いとして最も相応しいものでありました。

どう打開するか

仏法に出会って2年を越え、計り知れない精神上の転換が私の中で行われたわけですが、ここに来て、明らかに何かの壁に当たっています。
実生活に全然落ちてこなくなってしまったのです。
このブログを立ち上げたのも、何を隠そう、このいい知れぬ泥沼からの脱出を試みたいということからです。
何がついこの前までと違うのか。
仏法が空虚に響く時さえあります。
久しぶりに得体の知れない鬱感覚が自分を覆っています。

【仏説摩訶般若波羅蜜多心経】

難解でありながら、何とも呪文のような不思議な魅力で引きつけるこの短いお経「般若心経」。
片っ端から小乗の教えを否定しまくる大胆不敵なお経であるから、とてもポピュラーになりうるはずがない内容なのですが、浄土真宗系と日蓮宗系列を除いて、スタンダードなものとして最も在家の人間が諳誦して知られているお経です。
空海の解釈が評判が高いことからもわかるように、真言密教が一番しっくり来る、そんなお経であります。

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仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄

舍利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 
受想行識 亦復如是

舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減

是故空中 無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無限界乃至無意識界
無無明亦無無明尽
乃至無老死亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

菩提薩多 依般若波羅蜜多故
心無けい礙 無けい礙故 無有恐怖
厭離一切顛倒夢想 究竟涅槃

三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿縟多羅三藐三菩提

故知般若波羅蜜多 是大神咒
是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真実不虚

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
掲諦掲諦 波羅掲諦
波羅僧掲諦 菩提薩婆訶


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276文字と暗誦お経の王者的な言い方をされる般若心経ですが、いざ覚えようとするとこの漢字だらけでただそれを読み下しただけの字の羅列にどう手をつけていいか、当時は困惑しました。
般若心経にかかる多くの本を読んでそのいわんとする心を掴もうとし、また、心経の4つの読経CDをひたすら聞いて耳から覚えようとしました。
最終的には、意味を徹底するよりも、やはり繰り返し耳で聞くということが、語学の学習と同様に一番効果的であることを確信し、以降、経文の暗誦に向けてはすべて耳から入るようにしています。
結局、意味は覚えた後で更に何度も繰り返して考えて、理解を深化させていくということを経て、血となり肉となりものになっていくのだなということがわかるようになってきました。
後に学んだ妙法蓮華経関係とあまり文言か重ならないこともあり、またこの経文が散文的な構成であることが、実は記憶するには混乱を呼ばない作りであることも、あとで分かりました。

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【四弘誓願】

仏道に生きるための四つの誓い。
各宗門により微妙に言葉が違うようですが、私が好きなのがこの四つであります(曹洞宗より)。
まさにこの四点を心に刻んで仏道と接することが、何よりも重要と思われるのです。

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四弘誓願

衆生無辺誓願度

煩悩無尽誓願断

法門無量誓願学

仏道無上誓願成


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仏道の根本思想を噛みしめるのにとてもよい、つまり分かりやすい四句だと思って暗誦しました。
事あるごとにこの四句は思い出され、日常でもその心を忘れずにいることが出来ます。
短くとも意味するところを噛みしめれば噛みしめるほど、自分の血となり肉となることを実感できるのです。

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宗教の本質

宗教が道徳やいわゆる倫理と決定的に異なるのが、次の言葉に凝縮されています。もちろん、その先の言葉を要しますが、ここではあえて強調して抜粋します。
「一言で言ってしまえば全然評価のない世界、それが宗教の世界なのです。背が低かろうが高かろうがそんなこと別に関係ない。頭が良くても悪くても、役に立ってもたたんでもそんなこと関係ない世界が宗教の世界というものです。」
��余語翠厳禅師「修証義講話」より)

【観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25)】

般若心経に次いで世でよく読誦される「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」、所謂、観音経の偈の部分(後半)であります。これも、宗派を越えて、多くの宗門において読誦されているスタンダードな経文であります。

般若心経が哲学的・知的・観念的・抽象的であるのに対して、観音経普門品偈は情緒的・・現世利益的発想・具体的という、全く雰囲気の異なる様相を呈しています。
般若心経とは全く内容も説くアプローチの方法も異なるため、般若心経を学ぶときとはまた違った気持ちでこのお経に接することができました。

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観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱   
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散   
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦   
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身   
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅   
真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間   
悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔   
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散   
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念   
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼

爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生  
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者
当知是人 功徳不少 佛説是普門品時 衆中八萬四千衆生
皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心


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長さが594文字と、漢文読み下し経文の定番でも取り立ててとても長いため、自分で構成を何部にも作り出して、意味を捉えながらの暗記となりました。
特に「念彼観音力」というフレーズが15程あるため、意味を追っかけているときは良かったのですが、実際一言一句の意味を考えずに暗誦できる段階になると、その繰り返しがかえって邪魔をして、「念彼観音力」に来るたびにつかえてしまう、ということが生じてしまうのが、この経文の特徴です。
曹洞宗における読誦を耳にして覚えました。


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【開経偈】

四弘誓願と同様、仏道を知るための四つの誓いともいえましょう。
経文を読誦するにあたって、導入を飾るに相応しい文言ですが、出典は(私は)よくわかりません。
各宗門により読み下し文だったり、このように漢文読みだったりするようです。
私はこの浄土宗の漢文の響きがしっくりきています。
ここでも、仏道の深さ、仏道に出遇うことの尊さを確認しています。

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【開経偈】

無上甚深微妙法

百千万劫難遭遇

我今見聞得受持

願解如来真実義


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すべての宗派で若干の文字面が異なるとはいえ、読経の前に、この「開経偈」にあたる位置づけの経文を読誦していることを知り、真っ先に覚えました。
四フレーズというのは、ほとんど苦労せず覚えられる量です。


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【懺悔文】

三毒といわれる「貧瞋癡」、三業といわれる「身口意」、これらが諸悪の根源となり、悪い結果をもたらす原因であることをよく明らかにして、常に自分がそこに陥っていないか、自省し、一切を懺悔(さんげ)する、そんな時に読経したいのがこの懺悔文です。

出典は、『華厳経』普賢行願品第四十から。普賢菩薩が毘廬遮那仏の前で自分が気づかずにおかしてきた過ちを反省して、許しを請う偈文です。

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【懺悔文】

我昔所造諸悪業

皆由無始貪瞋痴

従身口意之所生

一切我今皆懺悔


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私の使った浄土宗CDでは三句目が「従身語意之所生」となっていますが、「従身口意之所生」と身口意とされる方が一般的と思い、そちらで覚えました。

【妙法蓮華経方便品第二】(十如是)

法華経の二大柱の一つがこの方便品第二(十如是)です。
法蓮華経を所依の経典とする天台宗や日蓮宗が非常に重要視するのがこの方便品第二、最後に十の如是(十如是)が登場するこれであります。
何度も諸仏・如来の偉大さを語り、方便を駆使して衆生に語りかけてきたというのだが、でもわかっちゃもらえないほど難しいんだよ、と諦めてみたりする、言いたいことの定まらない不思議な経文であります。
なお、経文を覚えるために私が独自に意味分けしたため、一般とは異なるところに句読点が入っていることをお断りしておきます。

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【妙法蓮華経方便品第二】

爾時世尊、従三昧安詳而起。
告舎利弗、諸仏智慧甚深無量。其智慧門難解難入。
一切声聞、辟支仏、所不能知。
所以者何、仏曾親近百千万億無数諸仏、
尽行諸仏無量道法勇猛精進名称普聞、
成就甚深未曾有法、随宜所説意趣解難。
舎利弗、吾従成仏已来、種種因縁種種譬喩、
広演言教無数方便、引導衆生令離諸著。
所以者何、如来方便知見波羅蜜皆已具足。
舎利弗、如来知見広大深遠、無量無碍、
力、無所畏、禅定、解脱、三昧、深入無際、
成就一切未曾有法。
舎利弗、如来能種種分別、巧説諸法、言辞柔軟、悦可衆心。
舎利弗、取要言之、無量無辺未曾有法仏悉成就。
止、舎利弗。不須復説。
所以者何、仏所成就第一希有難解之法。
唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。
所謂諸法、
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・
如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。


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法華経の専門宗派である日蓮宗CDにより、覚えました。
「お経に帰依する」宗派だけに、経文を読む僧侶の声と張りが、他の宗派に比して一番歯切れがよい、という印象です。
法華経独特の繰り返しの主張と論理構成が、暗誦するにあたって障壁となり、般若心経などに比べると、内容が頭に入りにくく、中々苦労しました。

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【一枚起請文】

浄土教の祖師として、釈迦牟尼仏に始まり日本に伝わり現在に至る歴史を振り返っても、極めて革命的な位置を占めると思われる宗教家法然の最期の言葉です。
浄土宗という宗派の祖師であり、むしろその思想の完成者は浄土真宗の祖師親鸞聖人であるという認識が常識かも知れません。
しかし私は、日本の数々の偉大なる仏教における宗教家で、最も偉大であり、重大な位置を占める人は、この法然上人であると信じて疑いません。
また、その伝えられる人柄や言葉からも、非常に共感する、というか最も自分が帰依したいと思えるのもこの法然上人のような気がしてなりません。
そんな上人が死の2日前に残した短いが、浄土教の思想が集約された重要なエッセンスがこの「一枚起請文」であります。

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【一枚起請文】

唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。

ただし三心四修と申すことの候うは、
皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。

この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらに同じうにして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

証の為に両手印をもってす。

浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。

源空が所存、この外に全く別義を存ぜず。
滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

建暦二年正月二十三日 大師在御判

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法然上人のご遺訓ですから勿論浄土宗のCDから覚えました。
覚えてしまえばもう違和感はないのですが、はじめはどうもその構成及び言い回しに何か違和感を感じ、どうしても流れるように覚えられず、意外にも倍の文字数がある「修証義」第1章の総序以上に苦労しました。
内容が念仏に専念することに尽きますので、所謂南無阿弥陀仏だけに専念して仏法に帰依しているとは言えない自分としては、これをいざ自分の日常で思い起こして心の支えにしていけるかというと、ちょっと疑問符がついてしまいます。
浄土真宗の経文類も同様なことが言えます。

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【御文章:聖人一流の章】

浄土真宗教団の祖といえる蓮如上人が、「御文(御文章)」において、親鸞聖人の思想を語っています。
宗教家として行き着くところまで行ったといえる親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。

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【御文章:聖人一流の章】

聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心をもって本とせられそうろう。

そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたより往生は治定せしめたもう。

そのくらいを、一念発起入正定之聚とも釋し、
そのうえの称名念仏は
如来わが往生をさだめたまいし
御恩報盡の念仏とこころうべきなり。

あなかしこ、あなかしこ。

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浄土真宗中興の祖である蓮如上人の御文章(御文)であります。
私は御文章と呼んでいるお西さんこと浄土真宗本願寺派(御文というのはお東さんこと真宗大谷派)に準じて覚えました。
浄土真宗の読経は明らかに他宗派とは異なり、親鸞上人の正信偈などを聞けば明白ですが、音程が大切で、非常に音楽的なのがその特徴です。


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【仏説無量寿経四誓偈】

法然の定めた浄土三部経の一つ、無量寿経(別名大経:三部経で一番長い)の偈の部分は「四誓偈」または「重誓偈」とも呼ばれ、主に浄土教の浄土宗・浄土真宗・時宗において読経されているものです。
法蔵菩薩が阿弥陀仏になる前まとめた四十八項目の誓願を四十八願といい、それを成就したことで阿弥陀仏になったといわれます。これが仏になる本であったので「本願」というわけです。
その本願を要約して四つにまとめたものとして知られ、読経されるのが四誓偈であります。

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【仏説無量寿経四誓偈】

我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚
我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓不成正覚
我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚
離欲深正念 浄慧修梵行 志求無上道 為所天人師
神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難
開披智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道 通達善趣門 
功祚成満足 威曜朗十方 日月しゅう重暉 天光隠不現
為衆開法蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法師子吼
供養一切仏 具足衆徳本 願慧悉成満 得為三界雄
如仏無碍智 通達靡不照 願我功慧力 等此最勝尊 
斯願若尅果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華

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浄土宗CDを利用して暗誦に臨みましたが、浄土宗における読経の大きな特徴が一つあって、木魚を「裏打ち」(!)で挿入するのです。
ですから、日蓮宗や曹洞宗のように「縦ノリ」でスピードアップすることができず、まさにロックに対するレゲエのように、スピードが非常に遅くなります。
それがまた記憶するには大きな障壁であり、耳からの覚えが非常に悪くなるということを学びました。
長さは般若心経以下でありましたが、耳にあまり頼れないというのは苦労しました。

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宗教が生活の中にあること

今日(昨日)の昼、あるところで横須賀基督教社会館の館長である阿部志郎先生の話を感動して聞いたのですが、それを今、夢で自分が他人に熱く説明をする場面を見て目覚めたので、記したいと思います。

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アフリカはカメルーンのある村で起こったエピソードです。
ゴリラの赤ちゃんが村で発見されました。あまりに可愛いので村人が飼おうとして家におきました。
その夜、ゴリラたちが村を襲撃しました。村人は猟銃で追い払いました。
しかし、その翌晩もまたゴリラたちは大群で村を襲ってきます。
村長の判断で、赤ん坊をゴリラに返した方がよいとなり、ゴリラに赤ん坊を返しました。そして、ゴリラは二度と襲ってくることはなくなりました。
この時、やってきたゴリラの数は60匹。
たった一人の赤ん坊を守ろうと、60匹の大人が、いのちを捨てる覚悟で、闘ったのです。

今、私たちは、一人の赤ちゃんをこれだけの数の大人が命がけで守っているでしょうか。
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この問いかけにがつんと来たのであります。
自分もそうだろうが、可愛くて仕方無いわが子、尊い命と心から思えるそのわが子を同じ気持ちで守ろうとしているのは、両親とその両親、・・おしまい。何と薄情な風景でしょうか。何と命が粗末にされている風景でしょうか。人間はここまで墜ちたのです。自分(及び近親者)のことだけしか考えないで生きる姿であります。
顔の見える関係者が親身になって一人の赤ちゃん(新たに生まれた尊い生命)を祝福する・・・共同体が生きている日本以外のどこかでは、また昔の日本では、きっとそんな多くの人が一人のいのちを見守る美しい風景があると思います。それができるはずの人間が、ここまで人間のいのちを貶めました。

これも阿部志郎先生の話のひとつ

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インドのある村の結婚式に呼ばれました。田舎の村であります。
その青年たちを祝福するのに集まった人は、何と4000人でありました。
4000人が一堂に会して祝福をするその光景は、圧巻というより、底知れぬ感動を私に与えました・・・。
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まさに、これであります。
人々が一人の人生を、一人の命を、見守る姿であります。
ここに孤独はありません。それは、4000人も集まればいろんな人間がいるに違いありません。
しかし、孤立したところでしか発生しない類いの、今の日本で日々繰り返される児童虐待や、引きこもって狂気の行動にでる青年たちのような人間は生み得ない、そんな社会です。

そこまで人間関係の希薄さが、現代を人間が住むには、人生を全うするには、あまりに殺風景なものにしてしまった、その真理を見せつけられるエピソードです。

「幸福とは何か」「歩んでいきたい人生とは何か」・・・人生について考えれば、自ずとここに答えは見えてくると思うがいかがでしょうか。


最後に、講演の重要なポイントが私の現在の価値観と100%重なるので、記します。次の5番目が最大の理由と思うからです。

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タイでは登校拒否(ドロップアウト)がありません。
その理由を5つ説明しています。
1. 進学競争・受験戦争が存在しない
2. 子どもが思いきり遊べる自然が残っている 
3. 親がしっかりと子育てをしている(家庭が機能している)
4. 地域が子どもを見守っている
5. 社会(生活)の中に仏教が生きている
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宗教が生活の中にあること。これに尽きます。

日本が宗教観を国民で統一して持つことはもはや不可能な上、やってはならないことである以上、自らが仏法に気づいた今日、これから仏法をますます意識して生きていくことを固く誓うことになった一日でありました。

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【光明真言】

仏の言葉たる「真言」。真言宗の中でも最も重視されるのがこの二十三字の光明真言です。
光明真言は真言宗のみならず、天台系、禅系でも読誦されているポピュラーなものです。
空海(弘法大師)は「真言は不思議なり。観誦(かんじゅ)すれば無明を除く、一字に千里を含み、即身に法如を証す」と述べたといわれています。

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【光明真言】

おん あぼきゃ べいろしゃのう

まかぼだら まにはんどま

じんばら はらばりたや うん

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真言宗ではこれを繰り返し繰り返し唱えています。
思うに、真言宗の読経の感じが、一番坊さんが悦に入っているような一種呪術的印象を与えます。
これはこれで、本来の仏教と言うよりも、呪術的な方面に発展した仏教の別なる形ともいえそうで、何ともユニークであります。

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【妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)】

法華経に帰依する、経文専門宗派である日蓮宗において、その中でも最高の仏道の教えの真髄とされるのが、この如来寿量品第十六であります。

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妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 
爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 
而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山
我時語衆生 
常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅 
余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法 
汝等不聞此 但謂我滅度 
我見諸衆生 没在於苦海 
故不為現身 令其生渇仰 
因其心恋慕 乃出為説法
神通力如是 
於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時 
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多花果 
衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆
我浄土不毀 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満
是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名 
諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法 
或時為此衆 説仏寿無量 
久乃見仏者 為説仏難値
我智力如是 
慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得 
汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽 仏語実不虚
如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄 
我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅 
以常見我故 而生橋恣心 放逸著五欲 墮於悪道中 
我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

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仏は衆生のためを思って、普段は見えないよう姿を隠しているが実はいつもいる、ということを何度も何度も繰り返すだけなので、ストーリーを追って覚えるという手法が効かないのがこの経文の特徴でした。
ともかく、法華経(妙法蓮華経)の前半部分で最重要視される方便品第二、また法華経中最もポピュラーな観世音菩薩普門品第二十五、そして法華経中欠かすことのできない如来寿量品第十六というこの3つが法華経の教えを考える上で、優先されることと思い、日々読経・暗唱しています。

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【白隠禅師坐禅和讃】

仏道の歴史から言えば最近といってもよい江戸時代において、妙心寺派の末寺から登場して臨済宗全体を一気に復活させた白隠禅師。その坐禅和讃は、とても意味が捉えやすい上に、仏道の真意を余すことなくおさえています

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【白隠禅師坐禅和讃】

衆生本来仏なり
 
水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき

それ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり 
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり 

一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 
悪趣いずくに有りぬべき 浄土即ち遠からず 

辱なくも此の法を 一たび耳に触るる時 
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証ずれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声 
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん

この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり

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衆生こそが仏なのですよ、でもすぐにそれを忘れてしまうのがいかんのです、とやさしく説いています。
和讃というだけに、声に出して読誦すると、全体のトーンは明るく楽しいもので、また鎌倉時代の道元禅師のような難解な言い回しではなく、我々に近い時代の白隠禅師の言葉は理解しやすいのが特徴です。


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【十三仏真言】

十三仏信仰というのは、年回廻向(初七日、七回忌・・・三十三回忌)という日本特有の仏教本来の教えとは言い難い(中国を経由しているときにその土着信仰がひっついてきたものともいえますが)ものであります。
しかし、仏の言葉で仏を唱える「真言」というものに興味がわきます。
専ら、真言宗の僧侶の唱えるものとのことですが、それぞれを翻訳することなく、ただ音を耳にして味わっていたこれらの言葉、初めは滑稽(失礼)ともいえる響きでしたが・・・。

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【十三仏真言】

��一 不動明王)
のうまくさんまんだ、ばざらだん、せんだん、まかろしゃだ、
そわたやうんたらた、かんまん。

��二 釈迦如来)
のうまくさんまんだ、ぼだなん、ばく。
��三 文殊菩薩)
おん、あらはしゃのう。
��四 普賢菩薩)
おん、さんまや、さとばん。
��五 地蔵菩薩)
おん、かかか、びさんまえい、そわか。
��六 弥勒菩薩)
おん、まいたれいや、そわか。
��七 薬師如来)
おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか。
��八 観世音菩薩)
おん、あろりきゃ、そわか。
��九 勢至菩薩)
おん、さんざんさく、そわか。
��十 阿弥陀如来)
おん、あみりた、ていせい、からうん。
��十一 阿しゅく如来)
おん、あきしゅびや、うん。
��十二 大日如来)
おん、あびらうんけん、ばざら、だどばん。
��十三 虚空蔵菩薩)
のうぼう、あきゃしゃ、ぎゃらばや、おんありきゃ
まりぼり、そわか。

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真言宗も大きく分けて総本山高野山の高野山真言宗等の「古義真言宗」と、成田山新勝寺や川崎大師といった大所の智山派、長谷寺の豊山派といった「新義真言宗」に別れ、例に漏れずそれによって、唱える経文の文字面が変わってきます。
上記は「高野山真言宗」の読経のパターンです。
こればかりは意味を追うことができないものですので、耳からの丸暗記です。しかし、中々暗号のような真言というのも、何か興味をかき立てる要素を潜在させているようで、意外にもあっという間に覚えることができました。

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【修証義・総序】

日本人の祖師による「経・律・論」の論にあたるところも、今日、お経として読経されています。
日本曹洞宗の開祖とされる道元禅師の正法眼蔵全95巻は大著ですが、そのダイジェストともいうべきものが、この「修証義」であります。
そしてその修証義の中でも、総論として「生死」「三時の報」というところに主眼をおいて佛教の考え方を明確にしたのがこの総序です。

この修証義の第一章「総序」は、仏道の基本的立場を生死の問題から導入するというインパクトのある幕開けとなります。人身及び仏法には中々会えないという「難値難遇」、「諸行無常」、「三時の業因と果報」といったことが、余すことなく説かれているのであります。

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修証義・総序

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、
生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、
生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、
是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、
己に受け難き人身を受けたるのみに非らず、遭ひ難き仏法に値ひ奉れり、
生死の中の善生、最勝の生なるべし、
最勝の善身を徒らにして、露命を無常の風に任すること勿れ。

無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、
身己に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、
紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親?従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、
己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。

今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、
大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
豪釐もたがわざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、
諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。

善悪の報に三時あり、一者順現報受、ニ者順次生受、三者順後次受、
これを三時という、仏祖の道を修習するには、
其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、
但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。

当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、
徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、惜しからざらめや、
悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて
悪の報を感得せざるには非ず。


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漢文そのまま読みの、これまで覚えてきたお経とは違い、古文とはいえ日本語には違いありませんので、やはり意味がそのまま頭に入ってくる分、覚えやすいのは確かです。

曹洞宗の所謂おつとめで読まれる修証義ですが、私の場合は言うまでもなく、曹洞宗を特別視しての経文の読経ではありません。
宗派を超えて、素晴らしい感ずるところのある「経・律・論」は積極的に読経する対象にしていきたい、そう思って総ゆる宗派における経文をあたってみているのです。


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【修証義・懺悔滅罪】

修証義第二章の懺悔滅罪は、自力信仰にしがみつく者や科学信奉者である限りでは、絶対に達することができない境地、「偉大なるもの」に対する懺悔の心を起こすという宗教信仰の根本的な入口ともいえる心を説きます。
この内容に反撥しているうちは、信心をもつことはあり得ないといっても過言ではありません。

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修証義・懺悔滅罪

仏祖憐みの余り広大の慈門を開きおけり。
是れ一切衆生を証入せしめんが為なり。

人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、
懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、
又滅罪清浄ならしむるなり。

然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし。
恁麼するとき前佛懺悔の功徳力
我を拯いて清浄ならしむ。
此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり。
浄信一現するとき、自佗同じく転ぜらるるなり。
其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。

其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、
仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、
学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん。

哀れみを我に分布すべし。
仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔
是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり。

心念身儀発露白仏すべし。
発露の力罪根をして銷殞(しょういん)せしむるなり。


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懺悔することによって過去の悪業から解脱できるという前向きの話ですが、修証義前5章の中でもこの第2章が特に短く、存在感としても薄いとされる(「修証義を読む」/荒崎良徳)そうです。
しかし、ともすれば自分は正しいと思いがち(そう信じることでこの世の不安を払拭しようとするのでしょうが)なところ「増上慢」を戒め、謙虚たらんとさせてくれる重要な章です。
「功徳」「利益」という言葉が繰り返し出てくるところが、暗記における関門となりました。


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ここに仏法ありき

仏法本でもなければ、仏教者でもないが、この人の本には、仏法の慈悲をはじめとして、様々な要素が満載である。
子育て分野の佐々木正美先生である。
どの本も驚くほど箴言に満ち、人生において人間が最も大切にしていくべき事項で現代が失った視点をやさしく確実に指摘してくださる。
本でこれだけの感動を頂くことができる機会はめったにないと思う。

【修証義・受戒入位】

修証義第三章は、受戒入位です。ここでは、「帰依三宝」「三聚浄戒」「十重禁戒」という、所謂「十六条戒」が明らかにされます。これらの戒は、普段の自分の言動を正す上で、この上なく具体的な指針となり、為になるものであります。

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修証義・受戒入位

次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、
生を易え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、
西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。
若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、
何に況や帰依し奉ることを得んや、
徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、
彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に
帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。
其帰依三宝とは正に浄心を専らにして或いは如来現在世にもあれ、
或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、
仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、
仏弟子となること必ず三帰に依る、
何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、
然あれば即ち三帰に依りて得戒あるなり。
此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、
設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、
己に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、
阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、
知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、
世尊己に証明しまします衆生当に信受すべし。
次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、
第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、
次には応に十重禁戒を受け奉るべし、
第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、
第五不鍼酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗戒、
第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、
上来三帰三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、
誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし己る、真に是れ諸仏の子なりと。
諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、
群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、
是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以って、
其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟りを顕わす、
是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是発菩提心なり。



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修証義の第三章は長編でした。単純文字数では今迄のなかでは最長です。覚えるのには時間を要しましたが、論理構成は必ずしも不可解ではないところが救いです。十重禁戒のような決まり事はなぜかすぐに覚えられます。
後半の「諸仏の常にこの中に住持たる・・」から最後までのくだりは、色々現代語訳を読んでもどうも意味が飲み込めません。いつかなるほど、と思える日が来るのだろう、と思って丸暗記です。

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相田みつをの

相田みつをさんは仏法の人であるが、世間で騒ぐようには共感できないでいた。
しかし、思わぬところ、子育てという舞台で佐々木正美さんの本で、彼の一番いい言葉に出会った。
「アノネ/親は子供を/みているつもりだ/けれど/子供はその親を/みているんだな/親よりも/きれいな/よごれない眼/でね」


少欲知足・自灯明

仏法の少欲知足こそが「幸福な生き方」の基本と思うし、仏法の最重要事項が「自灯明・法灯明」であると思う。
相田みつを氏の次の言葉は「自灯明」を分かりやすく表現したものと思う。
「道はじぶんで/つくる/道は自分で/ひらく/人のつくったものは/じぶんの道には/ならない」
「しあわせ/はいつも/自分の/心がき/める」

そして、キリスト者であり子育てに携わり続けてきた精神か臨床医の佐々木正美先生の言葉は、まさに仏法の少欲知足を説明している。宗教こそが、いや宗教のみが根本的な人生の指針になりうるという証左である。
「私たちはこれまで、生産(物質)と消費(欲望)が次々と生み出される社会に生きてきた。際限のない欲求や欲望を植え付けられて、必要とするより多くのものを持っているのに、これで十分だとは感じられないでいる。商品の速度と量についていけないで、いつも貧しいと感じている。食事についてダイエットを心がけなくてはならないほどなのに、いつも不足を感じている。このような受動的な生き方からは、永久に幸せはみつけられない。幸福は能動的・主体的に、自分で感じ取るものである。テレビのコマーシャルに左右されるだけのような生き方は、人間の心を嫉妬、貪欲、無力感、劣等感で満たしてしまう。食事をするにも、テレビを見るにも、家庭で会話をするにも、しっかり自分の心できめる習慣を身につけなければ、幸福にたどり着くことなどできるはずはないと、フロムも教えてくれている。」

【修証義・発願利生】

「発願利生」は修証義の第四章、大乗仏教の根本精神である自らではなく一切衆生の幸せを願ってゆきましょう、という「四摂法(ししょうぼう)」を勧めるところに特徴があります。
四摂法も大変に自らの普段の自分の生き様に戒めとなる、素晴らしい指針であります。

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修証義・発願利生

菩提心を発すというは、己れ未だ渡らざる前に一切衆生を渡さんと発願し営むなり。
設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或いは人間にもあれ、
苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。
其形陋しというとも、此心を発せば、己に一切衆生の導師なり。
設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。
男女を論ずること勿れ、此れ仏道極妙の法則なり。
若し菩提心を発して後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり。
然あれば従来の光陰は設い空しく過ごすというとも、今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし。
設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成仏得道に回向するなり。
或いは無量劫行いて衆生を先に渡して自らは終に仏に成らず、但し衆生を渡し衆生を利益するもあり。

衆生を利益すというは四枚の般若あり。一者布施、ニ者愛語、三者利行、四者同事、是れ即ち薩多の行願なり。
其布施というは貪らざるなり。我物に非ざれども布施を障えざる道理あり。
其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり。然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし。
此生佗生の善種となる一銭一草の財をも布施すべし。
此世佗世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし。
但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり。
舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり。治生産業固より布施に非ざること無し。

愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり。
慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり。
徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり。
面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす。面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず。
愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。

利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり。
窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単に利行に催さるるなり。
愚人謂わくは利他を先とせば自らが利省れぬべしと。
爾に非ざるなり、利行は一法なり、普く自佗を利するなり。

同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり。
譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し。
佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗を同ぜしむる道理あるべし。自佗は時に随うて無窮なり。
海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり。
大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし。
卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん、功徳を礼拝恭敬すべし。

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修証義も4/5(文字数ではそれ以上)まで来ました。
とにかく、明治に多くの関係者の手によって、大量の正法眼蔵からダイジェスト化されたわけですから、内容が実に心にひびくようにできています。
そして、具体性があるので、この経文を唱えることで、大変に自分が引き締まり、仏法の真髄をすぐに思い起こすことができる、素晴らしいものであります。

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【修証義・行事報恩】

「行持報恩」は修証義の最終章である第五章にあたります。
道元禅師の不朽の哲学書であり、宗教書である全95巻の大著「正法眼蔵」の名がここで目に出来ます(ここでは書物を指すのではなく、仏法の正しき教えという意味でありますが)。
「行持」という仏道を日々実践するという意味の聞き慣れない言葉がキーワードとなり、またちょっと考えただけではもう一つ繋がらないような「報恩」という考え方と合わせて提起される部分です。
報恩は、感謝の心を行動に表すこと。
自らのこの現世に人間として生を受けたことを感謝するという、この人生で最も大切な根本哲学がここにあります。

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修証義・行事報恩

此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり
今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

静かに憶うべし。
正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に抛捨せんことを願うとも値うべからず
正法に逢う今日の吾等を願うべし
見ずや、仏の言わく、無上菩提を演説するし師に値わんには、
種姓をかん観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ
但般若を尊重するが故に日日三時に礼拝し、恭敬して、
更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。

今の見仏聞法は仏祖面面の行持より来れる慈恩なり
仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん
一句の恩尚報謝すべし、一報の恩尚お報謝すべし
況や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや

其報謝は余外の法は中るべからず
唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし
謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費やさざらんと行持するなり。

光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し
何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる
徒に百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり
設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、
其中一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり
此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり
此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし

我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり
然あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり

謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ即心是仏なり
即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。

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修証義が完結、総数3976文字であります。
修証義自体は確かに明治以降の編纂だし、他の経文のような位置づけは得ておらず、あくまで曹洞宗という一宗派の中の経典という意味が強いとはいえ、その中でおさえられているポイントは決して道元禅師オリジナル世界だけではなく、仏道全般に当てはめることが出来、そして人生を歩む上で常に仏道の基本に立ち返って考え直すことが出来るヒントがふんだんに盛り込まれているということからも、他のどの経典よりも有り難いものとも言えましょう。


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【正信念仏偈】

浄土真宗親鸞聖人の大著「教行信証」の偈文を、浄土真宗の主たるお経にしたのは蓮如上人以降。
浄土教の教えを時代において説いて発展させてきた七人の高僧(インド、中国、日本)について解説をするという、ユニークかつ知的な経文がこの正信念仏偈(正信偈)。
主に十派あるという浄土真宗のそれぞれの宗派により、読み方や雰囲気は違うそうですが、ゆっくりと遠くで流れる歌声、というのが真宗の読経の特徴です。

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正信念仏偈

帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓
五劫思唯之摂受 重誓名声聞十方 普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必死滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏 邪見僑慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
天親菩薩造論説 帰命無碍光如来 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同非引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説


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延べ20の経文を覚えることになるとは、当初夢にも思っていませんでした。今回の真宗における代表的お経である「正信偈」は恐らく私が寺で仏法に出会ったときに読まれていたものだと思われ、いつかこれをマスターしたい、という気持ちはとりわけありました。しかし、なぜか挫折が続き、うまく覚えられないまま1年以上がすぎていました。
修証義をすべて終え、今度こそと取り組んで、ようやく完成に漕ぎ着けました。真宗独特の節回しは、好き嫌い別れそうですが、理解し甲斐のある内容の経文であります。
840という字数は、修証義のような日本語文ではそれほどの量に思われませんが、漢字だけで840文字というのは、半端ではない長さを感じ、また非常に意味的に内容の濃いものになります。
今までの漢文経文の最長が観音経であり自我偈の500文字台であったことを考えると、なるほど一年以上かけて身に染みこませる意味があったのだと、今さらながら感銘を受けたのでした。


遜文侍の仏道世界
経文を知る


【舍利礼文】

仏舎利(釈迦牟尼の遺骨〕の礼拝のための経文でありますが、転じて遺骨埋葬供養、石塔塔婆の供養、死者の火葬供養、祖霊への焼香の際に読誦されることが多いとのこと。
四弘誓願や開経偈等と同様、多くの宗派でよまれる経文です。

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舍利礼文

一心頂禮

萬德圓滿 釋迦如来 眞身舍利 本地法身 法界塔婆

我等禮敬 爲我現身 入我我入 
佛加持故 我證菩提 

以佛神力 利益衆生 發菩提心 修菩薩行 
同入圓寂 平等大智 

今將頂禮


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仏舎利を賛えるということが、どうも実感として沸かないところもあって、多くの宗派で読誦されるにも拘らず後回しにしていました。
「曹洞宗檀信徒勤行(録音:永平寺)」から覚えました。
舎利三遍という言葉があるようで、三回繰り返して唱えるのですが、スローに始まり、どんどん加速して盛り上がる演出がなされています(音楽でいうところの「走ってしまっている」という状況です)。

遜文侍の仏道世界
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仏法を何だと思っているのか

電車の吊革広告。
お釈迦様大祭とあり、眼がいくが、商売繁盛、おいらんの行列、あま茶をかけて喜んでいる写真。
ここには仏法は欠片もない。
観光寺ばかりが目立つこの国の仏法は消えるだけの宿命なのか…。

本物の僧侶との出会い

そもそも仏教に入っていったきっかけは、妻の父の法要先で、浄土真宗のお坊さんの説法にいたく感動したからでしたが、思えば実際にその後は本の中でしか名僧との接点はありませんでした。
しかし思いがけないことに、仕事の流れの中で、気さくな近づきやすさを備えていらして、しかも仏法を体現すべく自ら身を粉にして「衆生無辺誓願度」とばかりに活躍されている曹洞宗のお坊さんと知り合うことができたのです。
 曹洞宗・高雲寺
この上ない喜びでああります。
仏法とは掛け離れた、善男善女から戒名代をせしめるだけの意地汚い葬儀屋僧侶の悪い話ばかりが聞こえてくる中で、しっかりと仏法を背負って活動されている僧侶がいらっしゃることを具体的に知り、嬉しいばかりでありました。
「僧侶」というその「職」が、災害の現場では「僧侶」にしかなし得ない大変な力を発揮できるとことが多々あるということも改めて知ることが出来たのが、つい昨日のこと。
今後もこういった素晴らしい僧侶の方からの聞法を深めていければ、きっと自分の中の仏法に対する思いも精進していけるのではないかと思った一日でした。

仏法を日常におとす

こうして「仏法を思惟」するブログをたちあげたのも、偏に仏法に日々生きることを誓って、それを自覚するためでもあったのだが、このところの自分の堕落はあまりに情けなくなっている。
自分の感性が仏法からとにかく離れてしまっていることが怖い。

よって、これから日々「仏教名言辞典(東京書籍)」を開いて、覚えられそうな短めな言葉を拾い、「自戒」につとめることを日課としたい。

柔和・忍辱

「如来の衣とは、柔和、忍辱の心是なり」
��天台智顗『摩訶止観』

自戒

人の悪きことはよくよく見ゆるなり、我が身の悪きことは覚えざるものなり。

��蓮如『蓮如上人御一代記聞書』

愛語

学道の人、言を出さんとせん時は、三度顧みて、自利、利他のために利あるべければ是れを言うべし。利、無からん時は止まるべし。

��懐奘『正法眼蔵随聞記』

道理をわきまえ謙虚に生きる

垣を破り、蔵の尻を切るばかりが盗みにはあらず。道理に叶わざる物をを着、道理に叶わざる物を食らうものも皆盗みなり。

��沢庵宗彭『東海夜話』

一切唯心造

憎しと思うも、可愛ゆしと思うも、皆自らが思いなしなり。この思いなしのところを妄想と名付けたり。

��鉄眼道光『鉄眼仮名字法語』


至言に満ちた好著

最近遠ざかっていた敬愛するひろさちやさんの「ほとけさまのひとりを生きる智恵」は、以前に増して語り口が明快で説明が具体的な好著である。
反社会性が強まっているのが、最大の魅力。
これを読むと、改めて仏法に従って生きることを自覚せねばと思う。

以下、名言。
「小中学校なんて遊びの延長でいいではないですか。義務教育なんだから、点数をつけるのもやめてほしいものです。(略)
十歳にも満たない子が、「1」をもらったから、次からは頑張るぞ」などと思うわけがありません。ただただ屈辱感や敗北感を植え付けるだけであり、これは学校によるいじめに他なりません。」

「家族の崩壊が諸悪の根源」



怒りとは

原始仏教の騎手、スマナサーラ師(なぜここまで日本語が上手なのだろう)が、実に簡潔に、怒りを説明する。
不しん意戒を説明するにはこれくらいの分かりやすさが必要だろう。
「人間というのは、いつでも私は正しい。相手は間違っている、と思っています。それで怒るのです。相手が正しいと思ったら、怒ることはありません。」

続、怒りとは

スマナサーラ師「怒らないこと」からの続き。
「怒りをほうっておくと、我々一人ひとりの命にかかわります。怒りをコントロールしなければ、誰一人として幸福にはなれないのです」
「怒りが生まれないようにすることは、怒りと戦うこととは違います。(略)
正義の味方は、悪人を倒してやろうなどと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです」
「正しい怒りなど仏教では成り立ちません」「怒る人だけが不幸になるのであれば、勝手に不幸になればいい、その人が死ぬだけであれば、勝手に死ねばいい、といえますが、そういうわけにはいきません。怒る人々は、まわりのみんなに限りなく迷惑をかけています。人間は幸福を味わいたくて必死なのに、そういう人々がみんなの幸福を一瞬にして奪ってしまうのです。幸せの大泥棒です。」
「世の中で怒る人ほど頭の悪い人はいません」

ナイトスタンド仏教徒

面白くもしゃれてもいない名称だが、6/14朝日夕刊で花園大の教授が書いた文章にある仏教徒は、紛れもない自分の姿であった。
アメリカには、こういった仏教徒を自認する人間が何と250万人もいるという。
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日本のように、家が代々仏教だから、法事・葬式の時だけ、なんとなくお寺さんの世話になる、といった人たちではない。自分で悩んで考えて、「仏教がいい」と判断し、実際に仏教世界へ入ってきた、本当の仏教徒である。
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まさに自分。我が家はとくに家が代々、というしがらみがないが故にこれに近い環境だ。私はこの太字のとおりだから、「本当の仏教徒」なのだろう。

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この仏教徒たちは、「なになに宗」といった特定の宗派、教団に属しているのではない。そういった生臭い人間組織に嫌気がさしたからこそ、仏教を選んだ人たちである。
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あまりにそのとおりなので言うことはない。
自分そのままである。
アメリカでしかその形態は存在しないのか。
少なくとも、どこの寺ともつながりがなく、受戒の儀式を踏んでもいない私は仏教徒とは日本では言わないのかも知れないが、ほとんどの日本人は死んで戒名をもらっているようなところで、そんなものは仏教徒でも何でもないので、自称仏教徒である以上に何が必要だろう。
少なくとも葬式仏教に何の疑問も持たず、またそれが仏教と思いこんで仏法の欠片も学んだことのない(というか参究しようとしたことのない)凡百の日本人よりは自分はよほど「仏教徒」であることは間違いない。
まあ、他人との相対性は何にも意味がないので、とにかくどこまで自覚して、どこまで生活に仏法を落としていくか、それに尽きる。

アメリカのナイトスタンド仏教徒は、多くはチベット仏教をはじめとする、小乗仏教の発想であるらしいが、私は「大乗仏教」が熟成された日本にいるのだから、大乗仏教の素晴らしさを念頭において生活に落としたい。
いくら今の仏事や行事の仏法が本筋から離れていても、その元となるところには必ず仏法があったのだ。せっかく日本にいるのだからそれを学ばない手はない。





死の夢

昨夜は、2時過ぎに床について眠ってすぐに子供がお漏らしした、と起こされて対応したりと落ちつかない状況がそうさせたのか、異常に具体的な自分の死の夢を見た。
最近の長引く咳がやはり悪い病気だったという展開で、肺癌なのだ。
食事ができず、体ももはや思うように動かない。
問題は死に直面した自分の感情のリアルさである。
だんだん呼吸ができなくなってくると言われ(誰がそういうのかは不明)、肺の中の息苦しさが増してくる。
もう眼の前に死が迫っているのだ。
感情の第一は、呼吸困難を眼の前にした壮絶な恐怖心である。
苦しみへの恐怖でいてもたってもいられないという感情が全身を支配する。
次には36年はあまりに短かった、こんな終わり方でいいのだろうか?という悲しみ、それにあわせて、幼い子たちの悲しみに何もできないという無力感とやはり大変な悲しみの感情である。
そして仏法にすがるしかないと心構えをしていたにもかかわらず、自分の信心の浅さへの後悔を身にしみ、起きると、まだ5時半であった。
生をあきらめ死をあきらめるには、普段の自分の甘えた生死感では話にならないと、まさに自覚のための夢であったとつくづく思った次第である。

人に気にいられ、自分の評価上げのための善行は布施とは言わず

布施というは、不貪なり。不貪というは、貪らざるなり。貪らずというは、世の中にいうへつらわざるなり。

��道元『正法眼蔵 菩提薩垂四摂法』

怒らないこと

まるまるとまるめまるめよわが心
まん丸丸く 丸くまん丸


��木食行道『青表紙歌集稿本』

スリランカからの代弁者

以下、スリランカからやってきて日本に長いアルボムッレ・スマナサーラ師の言葉は、私が常日頃最も強く感じることをすべて代弁くださっています。
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仏教を学んでいくとその教えの新鮮さ、科学性、合理性にはただ驚ばかりです。(略)ところが、現在の日本ではこの偉大なる智慧を全く利用しようともしていないのです。(略)一度でも仏教の智慧に接したならば、その日から生き方が変わるに違いありません。でも、仏教を学ぼう、知ってみようという人は非常に少ないと言わなければならない。それはハッキリ言ってしまえば、仏教に対する知識、認識が極めて低いからに他ありません。(略)一年を通してその生活習慣の中で、仏教的行事は何の抵抗もなく受け入れているというのに、日本では仏教にそして宗教というものに対してある種の偏見が大手を振って歩いているという現実もあるのです。それは、宗教に頼るものは心の弱い人間であり、自力で生きることのできない人間であるという誤ったレッテルを貼ってしまうからです。この世に、誰の力も借りずにひとりで生きていけるような人間などどこにもいるはずがありません。人間はもちろんのこと、動物も植物もみな生きとし生けるものはなんらかのかたちで他に寄りかかってこそ生きることが可能となっているのです。

��恐れることは何もない 嘘のない自分で生きていくために/アルボムッレ・スマナサーラ/泉書房)

正直な心の大切さ

神や仏を祈らずとても、直ぐな心が神仏(かみほとけ)。人が見ぬとていつわるまいぞ、我と天地がいつか知る。鈍な者でも正直なれば、神や仏になるがすじ。

��白隠慧鶴『草取唄』

見返りを期待しての有所得的計算ずくの生き方から離れる

まことの道を好まば、道者の名をかくすべきなり。

��孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』

このことを胆に命ぜよ

忿を絶ち、瞋を棄てて、人の違うを怒らざれ、人皆心有り、心各々執れること有り。

��聖徳太子『日本書紀 十七条の憲法』

今を生きる極意

災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。

��良寛『俳人山田杜皐宛手紙』

仏法は自分の中にある

仏法から身も心も乖離してしまった今年の後半、我ながらどうしてここまで血迷ってしまったのか分からない。
どこに仏法があるのか分からなくなっていたのだ。
そう、仏法=真理は自分の中にあることをもう一度見直さなければならない。


それ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し。真如外にあらず、身を棄てていずくんか求めん。

��空海『般若心経秘鍵』

日本が何故不寛容な社会か

ひろさちやさんが上手くまとめていた。

世界の数多い宗教に共通している特色は何かと言えば、「人間というものは、弱くて、愚かで、不完全な生き物である」と考えているところにある。そう考えるのが宗教の宗教たるゆえんである。だが、日本人は総じて無宗教である。裏を返せば、人間が無力で愚かで不完全な存在と思っていないのである。

この指摘は至極的を得ていると思う。

無宗教ということの意味は、人間は賢く完全であるべきだという信念を持った人間と規定できそうだ。
自分の無力さに気づかず、あらゆる環境や脈々たる縁が長大な歴史を刻んできた結果、自分が存在するというあまりに明確な事実さえ自覚できない、心臓の動き一つ操縦できないのが人間であり、自分の意志で生まれた人間など、金輪際存在し得ないということさえ自覚できない、言わば人類史上最も根本がわからない究極の愚か者の規定することも可能だろう。
口が裂けても、自分は無宗教とは言いたくないものである。

ひろさちや氏近作の痛快

敬愛するひろさちや氏の論調は、最近になって冴えが鋭くなっており、嬉しい限りである。氏の本を50冊以上読んできてその論旨に変化はないし、特別な仕掛が本によって創られているというほど、インパクトの差は感じないのだが、集英社新書の「狂いのすすめ」がなぜか他の本より売れたらしい。それ以上に、編者との対談形式の近作「南無そのまんま」が良かった。

~「狂い」のすすめ~
「目的主義」「生き甲斐」が当たり前のようにまかりとおる現代の生き方は結局不幸なのだろう
人生の旅には目的地があってはならないのです。目的地に到達できるかできないか、わからないからです。目的地というのは「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何かの目的を設定し、その目的を達成するために生きようとするのは、最悪の生き方です。

趣味なし・居酒屋ばか騒ぎの大学生たちの中で呆れると同時に、常に居場所のなさに憂鬱だった学生時代を思い出し、携帯こそなかったが、これがまさにそのまんまの分析と納得
最近の若者たちは、すぐに携帯電話をかけます。あれば孤独を生きる訓練が出来ていないからです。さびしいものだから、誰かとつながっていないと安心できない。しかし、相手と酒を酌み交わすことはできません。酒を酌み交わすには、共通の話題がなければなりません。高尚な趣味がないと、会話はできません。でも、若者たちには若者だけではなしに大多数の日本人には、そのような趣味がない。それで、2人で静かに酒を酌み交わすことはできず、パーティを開いて大勢で騒ぐか、居酒屋でおだをあげるほか能がありません。そうでなければ、携帯電話で誰かにメールを送ることによって、自分は孤独ではないのだと自己説得せねばならないのです。

~南無そのまんま~
宗教は「信じる」ものではない
私はよく「どうしたら信仰心をもつことができますか」とか、「どうしたら宗教を信じられるようになりますか」という質問を受けます。でも、これぐらい馬鹿げた質問はありません。というのも「宗教を信じる」というのは、「誰かが誰かを信じるという人間関係とは全然慈眼が違う話だからです。(略)長年の付き合いの中で醸し出されるのが友情であり、信頼関係である。これが人間関係の基本だとすれば、宗教の基本は「信じさせてもらうこと」。宗教における「信」というのは、人と人との関係ではないからです。あたかも人間関係を語るかのように「私はどうすれば神や仏を信じられるでしょうか」と聞くのは、まさに自分の判断で信じようとしていることです。それは間違いです。宗教というのはそんなものではありません。神であれ仏であれ、絶対者が「私」をして信じさせてくれる、それが宗教です。私が信じるのではなく、信じさせてもらうのです。それが宗教の本質です。(略)仏教というのは「自覚宗教」であるということができます。自分が仏教者、仏教徒であると自覚したとき、われわれは仏教者、仏教徒になれるのです。そのとき、仏教を生活原理、生活の指針とするようになるのです。

老人の生き方のあり方はまさにこのとおり
いまの年寄りはよく「老いても明るく生きたい」なんていいますが、そんなのは、自分は馬鹿だと告白しているようなものですよ。(略)私は機会あるごとに、「日野原(重明)さんみたいな生き方をしようと思うな」と忠告しています。あえて暴論を吐けば、日野原さんのような生き方はもっと馬鹿にしたほうがいいと思います。年を取ってから、どうしてあんなに頑張らなければならないのか。各界で活躍している高齢者はできるだけ軽蔑した方がいいというのがわたしの考えです。マスコミの論調もそっちの方向にもっていかないといけません。そうでないと、「若さ」はプラスで「老い」はマイナスだ、あるいはエラければいいんだ、強ければいいんだ、カネさえあればいいんだ・・・という「畜生の価値観」はいつまでもなくなりません。

初心に返るべし

もう一度初心を思い出さなければならない。

無常の正法に巡り会えることは希有のことであり、有り難い勝縁である。私はそのことを深く心にとどめ、仏陀の教えの真実に一歩でも近づこうと思う。

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義

��「開経偈


ひろさちや氏名言

簡潔で明瞭。

地獄とは、競争原理がもろに支配している世界である

��「世間も他人も気にしない」ひろさちや~

宗教とは ~あらためて原点~

いじめをなくすのに、いじめる人間を諭すのは宗教ではない、という論法でひろさちや氏が宗教の真髄を、また一つ明確に提示してくれた。
道徳との違いや、何が正しいかの議論に、これで終止符が打てます。


「宗教はいつだって弱者の味方をしなければなりません。正しいか/正しくないかは問題ではありません。それを問題にすれば私たちは阿修羅になります。強いか/弱いかだけが問題であり、そしていつも弱者の味方をする。それが宗教の論理です。」
 ~「世間も他人も気にしない」ひろさちや~


人間は不完全な存在

以下、ひろさちや氏の主張の意訳である。

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基督教も仏教も、「人間は不完全で間違いだらけな存在である」ことが前提になっている。そして完璧な存在として神・仏がいる。だから人間はさまよえる子羊であり、凡夫なのである。

裏を返せば、「人間は不完全でも仕方がない」のである。大切なのは、これを自分だけでなくすべての人間に当てはめる作業である。

無宗教な人間(=日本人の大部分)は、自分の間違いは仕方ないとしても他人の過失に対しては厳しく糾弾する。これが無宗教者の典型的発想。世の中が幸せに治まる筈はない。

宗教者は「人間だからこそ間違う」と考えるから、他人の間違いを「人間だから」ということで許せる。それが宗教者である。

自分も他人も不完全で弱い存在である、それが分かったとき、人間の心を取り戻したといえる。心から地獄が消える。



・・・とこう結論を出すと、「人間だもの」と墨書きした某氏の意図はここにあり、とわかる。
そう、彼の文言は仏法を学ぶと、オリジナルなものはほとんどなく、仏法の要素をその都度抜き出しているものだけで構成されていることが分かってくる。
私も以前は彼の意図は完全に誤解していた(文脈なく紋切りだから誤解されて当然。仏法選集だったのである)。
彼はとても素直な「妙好人」の一人であったのだ。

みんなちがってみんないい

金子みすず「私と小鳥と鈴と」

私が両手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(ぢべた)を速く走れない。

私がからだをゆすつても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい。

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最後の一行しか知らなかったこの詩の全文。

読み終えたら目頭が熱くなった。
こんなことは滅多にない。

ここに仏法あり。

日めくり法話1  勝って奢らず負けてへこまず

このところの生活の乱れ、自分の心のコントロールのできなさ。
仏法から心が離れたことが、最大の原因であることはわかりつつ、見直すことができないまま、事態が悪くなり続けていた。

あらためて、自分が数年前に日々仏法を心に刻んで毎日を過ごしていた頃の記録を読んで愕然とする。

あまりに今の自分には見えていないことばかりであり、その当時の記録者がとても私自身とは思えない程である。

この堕落を戒めんが為に、日々これまで自らに言い聞かせてきたはずのことを繰り返すこととする。

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「人生という土俵にあって、我々はとかく負け状態になるとダウンしてしまいがちです。そういう人は逆に勝ったとき、高慢になります。高慢になるのと劣等感で落ち込むのとは、同じ心の構造の裏表ですから、勝って奢らない修行、負けて落ち込まない修行の方が、勝ち負けの技を磨くよりもっと取り組みがいのある人生修行と申せましょう。(略)
「負けるが勝ち」といいますけれど、負けることができるというのは、精神的に大人でなければできません。(略)これは心が柔らかで、大きくなければ出来ることではありません。(略)
小人にとって大切なことは私のメンツであり、従って勝ち負けだが大問題なのですが、精神的に円熟した大人にとって問題なのは、そのことが是か非かであって、私が勝つか負けるかなどということはどうでも良いことなのです。」


悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/青山俊董/光文社

日めくり法話2  下座心を忘れない

「法華経の第七巻、第二十品にな、「常不軽菩薩品」というお経がある。回峰行の創始者相応和尚も、この菩薩に深く帰依していた。(略)
仏になるためには、この「下座」を欠いてはならないということです。下座とはあらゆる人間を尊重する、人間礼拝や。(略)
この自覚は人間自身を謙虚にする。人間を礼拝する心を植え付ける。菩薩はそれを実行した。(略)
下座のこころとは、なにものにも代え難い積極的人生を生む。傲り高ぶった人間にはそれがない。宗教心とは下座心や。宗教とは何ぞやというて議論するインテリには、この心がいつまでたってもわからん。なんぼ知識をひけらかしたって、この心がなくては人間は幸せになれん。私は「もし自分の子どもや下のものに手を合わせてもらいたかったら、黙ってあなた自身が手を合わせなさい」という。手を合わせる心が仏心です。」


【葉上照澄(天台宗・比叡山延暦寺)】より
「仏音」最後の名僧10人が語る生きる喜び/高瀬広居


日めくり法話3  すべては「授かり」

「それにしても今の日本人は、まったく生活に追われ、生活に苦しんでいると思う。生活、生活と、生活のことばかり考えていると思う。これに対して、われわれ宗教に生きる人間は、まず生活というものに決定的な態度を確立しておかなければいけない。生活に追い回され、振り回されているのは、ほんとうの宗教に生きる人間のやることではない。では、生活に対する決定的な態度とはなにか。それは一口に言うと「授かりものだ」という言葉に尽きます。だいたいわれわれがこの生理的肉体を保っていくうえに一番大切なものは何か。エコノミック・アニマルどもはすぐ「カネだ」という。しかし真実はそうではない。一番大切なものはまず空気です。空気がなければたちどころに死ぬ。次には水、あるいは光、温度、重力、気圧、それから食べ物がくる。カネなどはずうっとあとの何番目か何十番目にあげられるべきものだ。われわれ生きものは、なによりも大自然の恩恵の中に生かされているのです。これは「授かり」という以外にいいようがない。いくら貪っても、貯めても、空気が余計にあるわけではない。この俺がカネを出して貯えておればこそ気圧や重力があるというのでもない。もし適当な重力がなければ身体はふわふわと浮いて困るだろうし、適当な気圧がなければ身体が破裂するか押しつぶされてしまう。温度も、光も然りです。ここのところをまず心に刻みつけておかねばならないと思います。それから社会の恩ということです。(略)
��学生が)「僕たちの世代の人間は、誰だって社会の恩なんて考えていやしませんよ」と付け足した。(略)
私が教師の立場でその場にいたとしたら、ただちにいってやります。「面白い。社会の恩なんて全然感じないというなら、いますぐお前を素っ裸にして、なにももたせずに山の中に放り出してやる。そこで一人で生き抜いてみろ」と。(略)
人類社会の恩というものは、そんな浅薄な表づらだけのものではない。早い話がわれわれの身体にまとう布一切れ、食べる飯一杯、住む畳一枚、どれ一つをとっても、長い年月と大変な手数をかけてこそ与えられた、人類社会のたまものです。一枚の布を作るために綿の木を栽培し、糸を紡ぎ、布を織る。そこまでくるのに、人類の歴史において、どれほど長い年月の奥行きがあったか、米や麦にしても然り。木材や鉄にしても然り。金を出して買えばいいというものではない。(略)
人間社会において昔からの智慧や財産をただで使わせてもらっている有り難さ、またこれらをお互いに融通し合う有り難さだけは、決して忘れてはならないと思います。(略)
自分一人だけで生きておられるものでは絶対ないのだ。
(略)
われわれがもし「自分のもの」が一つでもあると思うなら、それだけですでに盗人をしていることになる。ほんとうに俺のものというものは一つもありません。にもかかわらず俺のモノと思いこむのは盗人に他ならない。実際に他にむかって貪りの対象となるものは、あったにしてもたかが知れている。まず九十九パーセント、九分九厘九毛までは「授かり」です。だから全くの手放しでも、九分九厘までの授かりで結構生きていかれるのだ。」



天地いっぱいの人生/内山興正/春秋社


日めくり法話4  死と向き合って生きる

「特に、近代文明という唯物論に毒されている最近の日本人は、死を一切の終わりと考え、無価値なものとして忌嫌い、生きている時間を一刻でも長くしようとします。死を一秒でも先送りすることに心を砕き、確実にやってくる死への準備を怠っています。このように最近の日本人は、死に後ろ向きな文化を形成してしまったと言えましょう。死について学習する機会もなく、死に価値をおく文化も奪われ、唯物論が支配する社会。そうした社会における唯一の生き方は、たとえリンゲル注入のチューブによってスパゲッティ状態にされても、一分一秒でも長くこの世に生きながらえようとすることです。なぜなら、その後の世界を考えることも、またそれに思いをはせることも、それに価値を見いだすこともできないからです。
しかし、死は誰の元にも確実にやってきます。現在の日本人の多くは、死を迎えるにあたり心の準備も、覚悟もなく、死という未知なる暗黒の淵へ、後ろ向きに投げ込まれるような、不安と恐怖に駆られているのではないでしょうか。そこには死と向かい合い、死に積極的な意味を与え、それによって死を克服してきたかつての日本の文化の積み重ね、民族の智慧は、生かされていないように思えます。まさに原始レベルの人間の精神に返った、未熟な死へのおそれのみが支配しています。」


中村元「老いと死」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会

日めくり法話5  今ここにいることの尊さ

「(最もありがたいものは何かという問いに)「独坐大雄峰」。わしがいま一人ここに坐っておる。このことが一番ありがたい。百丈禅師は、そう答えられたと申すのであります。わたくしは、このくらい自信のある言葉、このくらい人間を尊重した言葉はないと思うのであります。(略)
いま現に生きてそこに坐っていらっしゃることが、一番ありがたい。まちがいないことだと思うのであります。財産のあることも結構ですが、それは自分が生きておるから必要なのです。きれいな服のあることも、りっぱな家屋敷のあることも結構ですが、それはみなさんが生きているから必要なのです。身分も地位も大切でしょうが、それはみな、生きておるためのアクセサリーではありますまいか。いまそこに、生きて坐っていらっしゃるというこの事実が、みなさんにとって、一番尊いことであります。」



死にともない しんじん文庫第二集/山田無文/春秋社

日めくり法話6  無常を生きる認識

(雑阿含経34)「一切のつくられたるものは無常悉くみな生滅の法なり」

無常ということは厳然として、宇宙の中に存在する人間の生命の本質を言い表していることだというように、人間の生き方の原理として、この無常というものを私たちは受け入れていくことが大切です。今の日本人は、生きていることは素晴らしい、元気なのはいいことだというように、たくましく生きることだけに目を注いで、この無常というところから目をそらしているという臆病さ、卑劣さが強くありすぎると私は思います。もっともっと、日本人は無常なるが故に、いまある自分の大切にするというところにスタンスをおいて、生きていかなくてはいけないのです。


ブッダの泉 心にひびく50の聖句/高瀬広居/展望社

日めくり法話7  善行をしよう、ではない

「わたしたちはいいことをしようと思います。むかし『一日一善』なんていっていたギャンブル王がいましたが、いまも『いいことをしよう、人に感謝されることをしよう』という道徳教育が行われています。しかし、いいことをしたらだめなんですね。いいことをすると褒められますね。じつはこれが誘惑です。(略)
それが欲ですね。そうじゃないんです。仏教というのは善い悪いという物差しを捨てて、ああ、ありがたいなと受け取れるようになることが大事なのです。」


今だからこそ歎異抄/ひろさちや/世界文化社

日めくり法話8  経に自戒

「法をかざしての「俺はちゃんと法のとおり生きている、仏さまのモノサシ通り生きている」という自信は、裏を返すと、やらない人や出来ない人を切る刃になってしまいます。人を非難する材料になってしまうのです。こうしたところに気をつけたいと思います。」
「俺が苦労して手に入れた、俺の道心で悟った、絶対に間違いのないものを捕まえたという思いが、いつの間にかおごりのこころを育て、悟らない人や修行をしない人を非難する刃になりかねません。法の灯火をかざし、法のモノサシに従って生きることは大切ですが、その灯は私の内を照らし、私の足許を照らすものでなくてはならないと言うことです。他の非を暴き出し、他の非を責め立てるために法をふりまわしてはなりません。



仏のいのちを生死する/青山俊董/春秋社

日めくり法話9  正しい感情を保つための心がけ

「いちばんかんたんでやりやすい感情を優先して行動を起こす、それが心の性質です。仏教では、そのすぐにやりやすい感情、なんの苦労もなくかんたんにできてしまう感情を、悪、専門用語でいえば「不善」といって戒めているのです。人間の感情には大きく分ければ二つあって、ひとつが何かの現象にすぐ反応する感情です。もうひとつは或る現象が起こってから時間が経過してから出てくる感情、つまり少し落ち着いてからでてくる感情があります。この、時間が経過してから出てくる感情は、だいたいいい感情で「善」というのですが、しかし、この「善」なる感情は大変つくりにくい。(略)
心の育成の最初の訓練は、基本的に本来産まれてくる感情を使わないことです。そのためには、ちょっとした知恵を使わなくてはならない。仏教の勉強とはまさにその「ちょっとした知恵」を学ぶことなのです。ちょっとした知恵を用いると、正しい感情の使い方が分かってくる。正しい感情というものがどういうものなのかが理解できるようになってくる。正しい感情、それはどういうことかといえば、欲張らないことであり、怒らないでやさしい心をつくることであり、人のことを良く理解することであり、人のことを嫉妬したり、うらやましく思ったりしないことです。人間はみんなそれぞれ努力して、それなりの結果を得ているのだから、それでいいではないかという、ごく波静かな感情を持つことです。(略)
こころを育てるというのは、つまり「ちょっとした知恵を使って不善の言動をしないで、善の感情が生まれるようにする」ということなのです。」



恐れることは何もない 嘘のない自分で生きていくために/アルボッムレ・スマナサーラ/泉書房

日めくり法話10 自分を相手に同化させる

「人生論で言えば、日本の古い言葉に、
  子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ。
というのがあります。(略)
この『子供叱るな』は、叱る前によく観察をしてみなさいということです。この観察とは、自分を相手に同化させる、つまり子供の気持ちになってみなさい、あなたも子供の時はよくいたずらをしたでしょう、ということ。そうすれば、小言の言い方も違ってくるのです。『年寄り笑うな、行く道じゃ』は、自分より年配のものを見たら、私も年をとったらあの姿になるのだと、一人称で相手を観察しなさいということ。そう観察すれば自然に思いやりの心が生れてきます。これこそが仏のこころなのです。(略)
これは会社の上下関係にも適応できる言葉ではないでしょうか。上司は部下に、先輩社員は後輩に対して、この気持ちをもちながら接することが大切です。『俺は部長なんだ』とふんぞり返っていては人はついてこない。部下の恩、目下の者の恩を知ろうと努力しない人物は、ちょっとした失敗がきっかけで失脚してしまうものです。『孤立自存』タイプの人間に、大きな仕事はできません。
『自分さえよければ式』の人物は、時に慢心し、人生の晩節を全うすることは難しいようです。


「足るを知る」こころ/松原泰道/プレジデント社

日めくり法話11 現世安穏

「現世安穏とは、世の中の苦がなくなるということではない。他からは苦しいように見えても、正しい信仰のある人の心の境地は安穏であり、後の生活もまたやすらかであるということです。(略)
苦は相対的であるとともに、なかなか人間の浅い智慧ではのぞき知ることができない。いいかえれば、人知を越えた知、仏智というか宗教的叡智を得なくては、現世安穏の真の意味も把握できないし、他人の苦しみも分からぬ。分からなければ、その苦が救いとなりうる相対性を教えた宗教、仏教に帰依し、苦楽一如、外と内の一体性、仏心不二に目覚めねばならない。」



【久保田正文(日蓮宗・東京仙寿院)】
より

「仏音」最後の名僧10人が語る生きる喜び/高瀬広居

日めくり法話12 一生の畢竟帰処

「自分というものを「当座の生活理想」「当座の幸福」のなかに住まわせる代わりに、「自分の一生の畢竟帰処」「ゆきつく所へゆきついた人生」というものをハッキリさせておくということは、けっしてヨソゴトではないと思うのです。それにもかかわらず現代人は、商売に対する工夫、学問に対する研究、技術に対する研鑽、ないしさまざまな研究工夫のためには、何年も何十年も、あるいは一生をささげるまでやっていますが、自分の一生の畢竟帰処についてだけは、寸暇の時間もさくことを厭うのはどうしたことか。(略)
まことに現代という時代が、外面的に華華しい文化を咲かせているようにみえながら、その実中味は、原始的野蛮時代から一歩も出ていない象徴的出来事のように思われます。」
「もしここにお金が沢山あれば片付くような苦悩は、じつは「真の苦悩」というべきではなく、たんに「金不足」と呼ぶべきです。そして真に人生にとっての苦悩とは、たとえどんなにお金があっても「金では解決できぬ苦悩」をいうのでなければなりません。」



観音経・延命十句観音経を味わう/内山興正/柏樹社

日めくり法話13 苦悩が信心を育てる

「私は仏教をはじめてかれこれ二十年になりますが、最初のうちは、正直言って、たとえばこういうところを読んでも「そうかな」と思うだけで、心底から、阿弥陀如来とか、観音様とか、大日如来にたいする絶対的帰依心というものはなかなか芽生えてきませんでした。ところがその後
私には自分の力の非力さというというものに思い至ることが次々とおきました。そして、いろんな苦悩、苦しみ、思いのままにならないことに対する焦りにぶつかればぶつかるほど、今はわりと素直に、朝、仏壇に向かって「南無阿弥陀仏、南無観世音大菩薩」と唱えられるようになってきました。ありがたいことだと思っています。」


絶望と歓喜(下巻)歎異抄入門/遠藤誠/現代書館

日めくり法話14 布施

「布施は、自分に必要なものをただ喜んで捨てればいいわけで、捨てたものを相手がどうしようと絶対に干渉してはいけません。相手がちゃんと利用しようが、どこかに捨ててしまおうが、それは相手の問題だから放っておく。これが「無漏の業」です。煩悩の関与する余地がないわけです。ですから、この「無漏の業」は至難の業です。相手のことを考え、相手の立場に立って一生懸命やったという思いがこちらにあると、思うように相手が対応してこないとき、どうしても腹立たしくなります。相手の立場に立ったはずが、この土は自分の腹が立ってくる。布施をするときは、よいことをやっているんだとか、相手を救ってやるんだ、とかいう意識があると救えません。その辺が、大変難しいわけです。仏教者は、みな、この「無漏の業」を積み重ねていかなくてはなりません。しかし、わたしたちはややもすると、仏教を世間のために役立てたいなどと、つい、そんなことばかり考えてしまいます。仏教に従って生きていこう、とここまではいいのですが、しかし、世の中をよくするために、この仏教を使わないといけない、というように考えてしまいますと、もう、これは大間違いなのですね。世の中に仏教を役立てようなどと考えると、世の中のほうが大事になります。仏教の教えに反することまで、世の中を救うためにはしょうがない、目をつぶろうという態度になってしまいます。そうではなくて、仏教者にとっては、この世界がどうなろうと知ったことではないのです。そうしたことには一切関知しない、こんな世界、滅びるものなら滅びればいい、というのが佛教の考え方です。」(ひろさちや)

禅の智慧 正法眼蔵随聞記に学ぶ/ひろさちや・青山俊董/すずき出版

日めくり法話15 すべての行為が自分を形成する

「善いことであろうと悪いことであろうと、たとえそのことが人とのおつきあいでしぶしぶやったことであろうと、あるいは強制的にやらされたことであろうと、行為をしたという事実は事実として、間違いなく私の人生の一頁に永遠に刻み込まれてゆくのです。一瞬一瞬の行為の集積が一日となり、一ヶ月となり、一年となり、一生となり、またその行為が私の人格をごまかしようもなく刻みあげてゆくものなのです。」


道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ/青山俊董/NHKライブラリー

やりなおし

「我々が、人を叱るとか、人に注意するとかいう場合によく考えてみますと、口先ではいろいろ『お前のために言っているんだ』とか言っておっても、腹の中では、自分の顔に泥を塗られたとか、或は、相手の人が自分の思うとおりにならないことに対する怒りとか、不満とか、或は自分の立場を無視されたことに対する怒りとか、そういったものが、本当は自分の中にあって、それで相手に対して『このヤロー』とか『そんなのやめろ』とか『こうやれ』とか言って、呵責きしをやっている場合が、少なくない。」

遠藤誠「道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門/現代書館」


「この戯論やくだらない諍論が、非常に多いですね。(略)
お互いに後味の悪い煩悩だけが残ってしまいます。(略)
いずれにしても、人が人を説得するという点から見れば、言葉というものは無力なものです。人を説得するのに最もいい方法は、言葉ではなく、行動であります。(略)
今の日本人は、すぐ『切れて』人の悪口を言い、人を責め立てて、怒り狂った目をして人をにらみつけますが、それはすべてアホのやることなのです。だいたい、相手に対して『馬鹿野郎』と言ったり、『怒目を以って人を』にらみつけたりすることによって、相手が心の底から改心したり、事態が好転したりすることはないですね。おおむね、その結果は、まずいことになります。(略)
怒りは、結局は怒った人を滅ぼす敵なのです。お釈迦さまも言っています。『人間の心をむしばむ三つの猛毒は、貧すなわち欲と、瞋すなわち怒りと、癡すなわちバカである』と。」


遠藤誠 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第四巻/現代書館

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本日の発見でも毒づきでもないし、子育て記録にもいれたくない。
「仏法」に書くしかない、と思うと同時に、自分から仏法が遊離してしまっている事実を自覚し愕然とした。

最低の気分である。

長男は祖父母の家に泊まるといつも反抗的になって帰ってくるのだが、この2泊後、迎えにいって帰らずに公園で遊ぶために出掛けると、やはり娘と自分が来たことが気に食わんばかりとなった。

あらためて怒らないことを実践してきた自分の中で何かがキレた。

正直、公園なんか行かなくてよいなら、誰がこんなところに行くか。
息子の顔色伺ってまで娘とのバランスを取ったり、自分の休日の時間を全部返上して、やりたいことが全く遅々として進まない状態に耐え続ける必要があるのか。

怒り狂った自分の声は広大な公園の多くを固まらせ、息子をど突き、罵詈雑言を浴びせ、どっかに行ってしまえと吐き捨てた。
公園の家族達が茫然自失となる中、泣いて謝る息子を後に、自分は娘の手を引き退散した。
誰もがまさに虐待親を目の前に観たと思ったことは間違いない。
それい値する行為と情景であった。
この時の周囲の人間の表情を私は一生忘れられないだろう。

祖父母の家で事態は収拾したが、自分の腹の中とこのかつてない最悪の後味は消えるどころか、重さを増して、今に至っている。

息子はけろっとしていつもの夜を過ごして一緒に寝ることを単純に喜んでいたが、私は自分の愚かさ、怒りの制御の失敗、これまでの自分の心構え・精神性がすべて水の泡になった気分である。

実際そうである。

本当にどうしようもない親であり、人間であり、感情の発露の仕方であり、これが自分の最低最悪の汚点である。
自分の精神制御術を本格的に再考する必要があると思う。
こんな繰り返し(今回は制御期間が長かった分最悪の出方だった)はもうダメである。絶対に許される話ではない。

いつかその感情の流れに随うが故に、人殺し沙汰の渦中に身を置く最も愚かなことさえ制御できずに呼び起こす可能性が自分には内包されていることが昔から自覚している、というのが正直な自己分析だ。
これを戒め精進するために出会った教えは最早自分の中では完全に形骸化してしまっている。この弱さ愚かさには教えは「ほら、言ったとおりだろう」という見解しかださないだろう。
実践が伴っていない頭の中だけの教えなど百害あって一利なし。

さあ、どうする? 本当に自分の身の処し方がわからなくなった。
贖罪のために何ができるのか。今はただこの身体と精神をもてあましている自分がいる。
子どもに迎合しすぎ、自分の限界を超えたといえばそれまでだが、そんな単純な話ではないだろう。実際、迎合しているつもりはなかったし、自分の仕事外の現在の時間の過ごし方はこれしかない、という状況に落ち着いたのが現在の自分であり、実際子どもたちは誰よりも自分を頼りにしている。その自分の不甲斐なさはそのまま子どもに跳ね返ることも必至である。
羅針盤が狂ったら御仕舞いだ。でも明らかに狂っている。それは許される範囲の社会的人間像からははみ出し過ぎている。

これを救う唯一の行き方である宗教心・信心を形骸化せず、行為と一体化し、それをすべての人生に置き換えるためには、自分は今何をすべきなのか。

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「「喧嘩をしようと思ったら、まず合掌してから始めろ」と。これはいい。「まず合掌」、合掌したらいやでも合掌の世界がそこに開かれ喧嘩にはならない。つのる思いを、暴走しそうになる自分の思いや行動を一瞬押さえて、「先ず合掌」をする。これができれば、展開する人生の景色は随分と変わってゆくことであろう。」

青山俊董 「般若心経ものがたり/彌生書房」


「お母さんになる日が来たら、お母さんのようなお母さんに、お父さんになる日が来たら、お父さんのようなお父さんになりたいと胸を張って言える子どもは幸せです。今日食べるものが少なかろうが、栄養が少し足りなかろうが、着るものがボロであろうが、そんなことで子どもの心は歪みはしないと思うのです。(略)
たった一人のお母さん、お父さんを誇り高きものに思うといった、最高の心の栄養をちょうだいしているのです。こういう子は、絶対に横を向かないでしょう。非行に走らないでしょう。(略)
子どもにとってかけがえのない、世にたった一人の父、世にたった一人の母が、最高に尊敬できる人、すばらしい人であることが、子どもにとってどんなに大切なことか。毎日食卓にのぼせる食事、毎日着せる着物もさることながら、父母の生き様そのものという精神的食物が、どんな内容であるかを考えなければならないと思うことです。」


青山俊董 生かし生かされて生きる/春秋社


「子どもを鑑として自らの生き方をかえりみるとき、親として、人として、落第でしかない私がそこにいる。わが子の前に「勘弁してくれ」と詫び、しかしながら、「この子の信に応えうる親にならなければならない」と子の前に姿勢を立て直し、立て直し、生きようとする。そういう人こそ、親らしき親になれる人ではないでしょうか。そいういう親の元にあって初めて、良き子も育つというものではないでしょうか。」

青山俊董 悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/光文社






ますます過激度が増すひろさちや氏

2008年9月の「無関心」のすすめ(青春出版社)で久しぶりにひろさんを読んで、唸らされた。
ひろさんの進化が目覚ましく、一言で言えば、超過激派化してきた。
とにかく世間と距離を置いて無関心で、という話を極論に近い形で歯に衣着せず連発する。
ひろさんも「狂いのすすめ」で一般的読者層が自分の思想についてきてしまったことに、その世間常識的な話を書いているのでは自分の役目ではない、と悟っての先鋭化のように思える。極論のような形で世間常識の反対を説いてきた人であり、仏法の教えの究極はその反世間にあることは間違いないのであるから、そこを更に強調した良い意味での反発心のようなものが、乱暴なまでに言い切る過激さが増した文体からも読み取れる。

この本に対して自分のような共感度が高い人間が果して社会人をやっている人間でどこまでいるか疑問であるが、実際苦境に立つ社会的脱落者やこれからうんざりする風景の立ちはだかる社会に向かわなければならい大学生あたりからは大きな共感を得そうである。
一番嬉しいのは、家族への関心は強ければ強い方がよいというこれだけはタイトルの反対を説いている姿勢。
自分の現在まで根底に貫いてきているレジスタンス姿勢がぴったりとくるところは、あらためて我が生き方を肯定できるという意味で嬉しいものである。

劇薬人生相談

「サラリーマン劇薬人生相談」(2008年10月 ベスト新書)は、現在75歳にして最過激派化しているひろさんの面目躍如の題材の一冊で、これまでもQ&A方式で執筆するものはどれも成功しているため、これも見事に痛快しかも簡潔な回答がこの上なくうまくいっている。ここにある8割方が共感できる内容でありながら、日本の実態とかけはなれたこのサジェスチョンが果してどこまで受け入れられているのか、と思ってしまう。

「はじめに」では、人生どう生きるか迷ってしまう、その訳は二つあり、①どこかに正解があると思っているから ②他人に褒められたいと思っているから と 分析。見事である。

その痛快な回答を抜粋。

Q. 自分は残業が多い。ひとが手抜き仕事をしているのが許せない。
A. 自分が仕事の能率が悪いことを棚にあげて、人は適当にやっているという。あの人のやり方は雑だなどというのですが、おそらく自分の仕事が遅いだけなのですよ。(略)自分も手を抜けばいい。手を抜くのは勇気がいりますよ。

Q. 上司より早く帰れず付き合い残業をしている。
A. 仲間はずれになる覚悟をすること。人の目が気になる、もしくは上司に好かれたいと思うのなら、付き合い残業をすればいい。
どっちも丸くおさまるように、と考えるのは虫が良すぎますよ。

Q. 世の中可愛い子ばかりが得をしている。可愛がられるのはルックスのいい女の子です。
A. ようするにこの人は、人が評価するのは顔だけだと思っているわけです。(略)この人は残念ながらしゃべり方も悪いし、態度も悪い、服装のセンスも悪くて、さらにかわいげもないのでしょう。人を妬むよりも、まず自分を磨く努力をしたほうがよろしいのではないでしょうか。

Q. 歳より若く見られたい気持ちが強くあります。年を取るのが怖くならずに済む方法は。
A. 歳をとるのが怖いという発想自体、年寄りを軽蔑しているのではないでしょうか。歳をとることが怖いと思う、その心が汚い。

Q. 異動になり全く違う畑でどうしていいかわからない。会社をやめるべきだろうか。
A.  「~すべきでしょうか」というのは、質問の中に必ず出てきますが、そもそもこの発想自体がおかしいのです。あれかこれか、○か×かではなく、問題を解決する方法は何通りもあります。選択肢をできるだけ多くして、どれが最適かあれこれ考えてみる。(略)この相談者のように、自分はどうしたらいいのかを決める場合にも、さまざまな選択肢がある。それなのに、いきなり「やめるべきでしょうか」と考えるのはちょっと短絡的すぎます。(略)ようするに「こういうやり方しかない」と考えるのがおかしいのです。「すべき」というワンパターンな発想自体を変えてみてください。

Q. 娘に好かれず、叱ってもいつも反抗して父親ばかりになつく。子育てに自信がない。
A. それはお父さんになついている以上に自分になついてほしいという嫉妬ですよ。子どもは、お父さんとお母さんとで天秤にかけたりしていません。そもそも、自分自身を振り返ったとき、親の言うことをそれほどちゃんと聞いていたといえるかどうか。

Q. 子どもは無事独り立ちして気づけば主人と2人。これから先、何か楽しいことが待っているとは思えません。二十代は最盛期で、男性にももてました。その頃のことを思うと、自分の老いが絶望的に悲しくなります。
A. 古代ギリシャでは人生の一番盛りの時代が四十歳とされています。ついでに言うと、キリスト教では、だいたい三十歳ぐらいが人生の標準期で、ここでようやく一人前になるとされています。ということは二十代が最高だと考えるのはやはりおかしいのです。本当の人生の味わいというものは、やっぱり七十歳を越えないとわからないのではないか、と七十二歳のわたしは思っています。そうすると、あなたはいま四十七歳だから、まだ全然子どもですよ。


至福感

何だろうか。

子どもたちとの楽しい一日を終えて、娘は食後早くに眠りにつき、息子と楽しく会話をして、布団の隣でいつものように彼が寝付くのを見て起きようかと思いながら自分が先に眠ってしまう。

夢は常に荒唐無稽だが、いくつかその強烈なシチュエーションが頭に残像として残ったまま、1時前に目が覚めた。といっても既に4時間眠ったわけだ。

その時、自分には「死は怖くない」という類いの不思議な至福感だけがあった。
こんな感覚は初めてに近い。

イメージは、こうである。
ひとつめ。自分が何かしらの大惨事を巻き起こした張本人であり、家族からどんな報復を受けても致し方ない、という状況(全く幸せなことなどない筈の場面であると思うが・・・)。
ふたつめ。誰か信用のおける人(弟であるようで微妙に違うようでもあった)と2人でドライブをしている。どこかから家に戻る長旅のようだ。やけにその走りと家に戻る期待に幸せ感がある。
みっつめ。その車の中ではドイツ・オーストリアポップスが流れていて、自分もそれにあわせて朗々と歌っている。しかしその曲は実際に知っている曲ではない。目覚めたときにモロにその曲が頭に残っていたから間違いない。自分の頭の中で生成された曲なのである。

この一貫しない世界から目覚めた自分の至福感が何とも人生を超越したものであったのだ。

それぞれが何か自分の深層心理を表していることは確実で、どこか興奮冷めやらぬ気持ちと何も恐れることはない、といった類いの開き直りの安心感のようなものが全身を覆っている。

本当に自分という存在は、親に迷惑をかけ、妻に迷惑をかけ、会社で一緒する人々に迷惑をかけ続けているだけの存在である。
普段、そう思うことはほとんどないが、今は何だか強烈にそう感じる。
何をなすでもなく、結局は自分の狭い殻の中で小さな宇宙を構築していくことだけに幸せを感じている、人類悠久の歴史からすると、本当に役に立たない存在の最たるものであると痛感すると同時に、諦め(明きらめ)とそれでいいじゃないかという感覚がある。

だが、2人の素晴らしい子どもたちがしあわせに生きていることを目にすると、自分の存在は、彼らに命をつなぐ、彼らが幸せを噛みしめることにあったのだと、人生の結論のようなものにハッとするのである。
この彼らの幸せから感じることは、社会倫理というフィルターを通しての善行であるという次元のものとは全く違う感じがする。

人生の意味、それは自分が次の世代にきちんとバトンタッチできたかどうか、それだけのような気がする。
そして、それについては9割方自分は成功したような気がするのだ。


上は6歳、下は3歳。
三つ子の魂百まで。
これは恐るべき格言であり、究極の宗教性を持った格言であると思う。子どもをもつまでその意味するところの1%も理解不能であった格言。
3歳までこの世の不安と恐怖からいかに守って、目の前のものに目を輝かせて安定した日々を送ることができるかは、養育者の一手にかかっている。これを全うしてない親が五万と溢れているのが現代であり、その前の時代もきっとそうだった。この時点で人間失格であると思う。
親である必要はないが、次世代に繋ぐことを放棄した生き方は、他がどう優れていても、失敗の人生という結論しかないとさえ思う。

自分は2人にはその点について、完遂した、と今ようやく断言できる気分である。なぜか今日、今、目覚めたときにそれを感じた。

6歳は記憶がとてもしっかりと残る年、というのが自分に置き換えた場合。
その彼が、誰にも増して父である自分を信じてくれている。
不完全で欠点だらけなのに、彼はそれを寛容に容認して評価してくれている。ひとえに懸命に育てて寄り添ってきた七年間が評価をしてくれたような気持ちだ。
妻は親は、当然私の欠点になかば呆れながらも、悪い人間ではないという結論から暖かく今もつきあってくれているとても貴重な存在の人々。
彼らの人間の質は、明らかに自分よりも高いと思う。
そんな自分が唯一成し遂げたのが、2人の縁あって自分の元に子どもとして生を受けた可愛い男女が、人生の最も大切な時期、人生観のすべてを形成する極めて根本的な時期に、幸せ一杯に人生を謳歌することの手伝いができたこと、なのであると思うと、近からず遠からず私の人生にピリオドを打つ日が来ても、悔いはないと言えるのだ。

あらためて、今、自分は宗教的な思考に立ち返って日々を暮らすことにのみ、安心立命が達成されるのだということの結論に達した。

記念すべき瞬間である。

日めくり法話16 死を「悪」と捉えてはいけない

日めくりとは言えない、丁度1年前の9月、自分を戒めようと思いつつ、そのまま一年が過ぎた。
あらためて自戒をすべく記したい。

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「凡夫の私どもは一生懸命しがみついて、「死んだらかなわん」と思いますが、よくよく考えてみると、みんなが生きていたら困ります。「死ぬからいいんじゃ」というのは、純粋客観の立場から、仏の目の角度から観て初めて言える一言であり、ちょうだいできる世界だと思います。
いろいろと考えさせていただきましたが、「死を見据える眼が深まるほどに、生を見据える心も深まる。死を忘れたとき、生も忘れる」ということに気づきました。逃げようのない死との対決を通じ、死を見据える眼が深まるほどに、命の大切さや今生きていることの意味、あるいはどのように生きたらよいかということの答えなども確かに得ることができるのだということに気づかせていただいたのです。」


仏のいのちを生死する/青山俊董/春秋社



仏法を日常化するために

やはり、無数の法門で説かれているものから取捨選択して、座右に置きつつ、自省を常にそれを心に留める作業をしないことには、人生に仏法が活きてこない。
早急にその整理を始めることを誓う。

まず、最近の自分が完全に欠けた要素を「無財の七施」に見てハッとさせられた。
そこから始めよう。

修証義の再学習も必須である。

高雄高山寺


観光客はほとんどおらず、雨が幽玄な雰囲気をかもし出している。
意外にも寒くない。静かでせせらぎと雨の音のみ。



御室仁和寺


神護寺で汗だくのまま、仁和寺まで降りてきた。
贅を尽くし過ぎという印象。



妙心寺


臨済宗最大宗派の敷地の広さに圧倒される。
ここでは現在進行形の活動が見られる。
突如雨が上がったら、真夏のような日差しが照りつけ始めた。12月半ばの京都で暑くて仕方ないとは!



大法会の当日だった


何と妙心寺は今日が開山無相大師650年大法会の当日だった。道理であわただしくたくさんの僧侶が袈裟着て走り回っていたわけだ。



南禅寺


まだ若干の紅葉の名残を味わえた。



金地院


思わぬことにここの石庭が味がある。



知恩院


どれもこれもスケールが巨大。
本堂の懺悔文、四誓偈の声がマイクがあるのか知恩院中に響き渡っている。聞き入ってしまうような美しい読経である。



比叡山延暦寺


坂本ケーブルしか現地入りできないこの時期、ほとんど観光客のいない延暦寺は比類なき重厚な雰囲気である。
根本中堂も何と自分一人だったので、円頓章を唱えることが出来感無量である。
寒さの中、鐘が響き続けている。



日本仏教原点の旅

今はほぼ形骸化した日本仏教ではあるが、仏法僧の三宝のうちの、「僧」が1200年前からの流れを保ち続けてきたことで、自分も仏教に出会えたことは事実である。
金曜日に京都へ、日曜夜に山口へ出張というスケジュール、京都を徹底的に見るのはこの機会しかない、とまる二日間、日本仏教原点の旅を思い立った。
ここまでの写真は、その随所の風景と心象である。
寺院の厳粛な雰囲気と木とお香の香り、そして静寂は自分の心が最も洗われる空間であることは、小学校の頃から変わらない。その時から仏縁はあったのである。そういう意味では、人の少ない寺院を回れた今回は、十分にその空間に浸ることができた素晴らしい旅程であった。紅葉の終わったこの時期というタイミングも最高であった。2日間、断続的に小雨が降っている状況も格好の雰囲気を醸成した。

京都は、本当に大本山だらけで、いみじくも今回の旅は、真言宗、臨済宗、浄土宗、天台宗というものを巡回する流れになった。浄土真宗の二大本山は前回の京都(といっても26年前の話だが)でじっくり見たということで、今回は割愛せざるを得なかった。と、こうしてみると、京都は上記の宗派の寺院が圧倒的で、浄土真宗系は本願寺以外ほとんどみかけない。日蓮宗は西陣のあたりがその信者の中心とは言うが、あまり存在感のある寺がない。一番全くといって良いほど見かけないのが曹洞宗である。どこを旅しても曹洞宗の寺と出くわすのは一番確率が高いのに、京都市内は本当に曹洞宗には縁がなかったのが面白い今回の発見であった。

まずひとけの少ない高雄まで足を伸ばして真言宗の重要な寺、高山寺・西明寺・神護寺を。神護寺の階段群は、その日の10時間歩行の冒頭にしてはあまりにハードで、途中から足が棒のようになり、翌日の比叡山巡回時にはかなりハンディとなってしまった。続いて山を降りて、洛西の中心花園近辺へ。真言宗御室派の総本山仁和寺を巡り、続いてすぐそばの、臨済宗最大宗派にして最重要である妙心寺(臨済宗妙心寺派)。ここまで巨大な「街」を形成しているとは思わなかった。何と、関山慧玄(無相大師)の大法会の当日にぶつかって、ものものしい状況の中の訪問となった。退蔵院庭園を見てから、電車を乗り継いで一気に洛東へ移動。再び臨済宗の大本山、南禅寺(臨済宗南禅寺派)へ。巨大な作りの三門や水道橋?などユニークな建物に観光客の多さも納得。中では南禅院の庭園、外では金地院の庭園を鑑賞。青蓮院へ向かうと、国宝の限定ご開帳とやらに人がわんさか群がっている状態で、訪問は断念(こんな環境では当然その寺を味わうことができるわけがないから)。浄土宗総本山の知恩院は、読経の声が境内内に響き渡っている今回では唯一の寺院で感慨深いものがあった。日が暮れ始めたその後、臨済宗祖栄西禅師の建仁寺(臨済宗建仁寺派)へ。最後の目的地、六波羅蜜寺は真言宗智山派でありながら、超宗派の空也の寺として独自の存在感をもつ寺であるが、道に迷って到達が遅れ、すでに中に入れずに空也像は拝めず。その後暗闇を東本願寺(その近くがホテルだった)まで歩く道すがらは、浄土宗の小さな寺が無数にあった。
翌日は、京都ではなく滋賀へまわった。そう、比叡山延暦寺(天台宗)である。日本仏教最重要寺である。東塔・西塔と回ることができた。このオフシーズン本当に観光客が少なく、朝早かったのもあり、あの根本中堂をはじめ、多くの建物を自分一人の空間として延暦寺と向き合うことが出来、感無量であった。坂本まで戻ってきてから、疲れもピークだったので、坂本の街の中を散策して、天台宗の慈眼堂や滋賀院門跡、最澄生誕の寺を自称する生源寺などを拝観し、帰途についた。