2005年6月19日日曜日

美輪明宏 ~共感した名文・名文句~

もともと彼の本には深く共感するところがありましたが、まさか松原泰道師の「南無の会」の主要メンバーであるとは想像できませんでした。後からそれを知って、なぜこの人の書くものに共感できたのか、納得がいったのでありました。根底にあったのは仏道であったのです。


  • ほほえみの首飾り 南無の会辻説法/水書房
  • 信仰をもつのに宗教教団に入る必要はありません「私はかねがね、特定の教団のメンバーになることと信仰を持つということは別ですと申し上げております。というもの信仰はあくまでも個人のものであり、仏教でいうならば、それは釈尊の教えを直接、自分個人の人生に反映させていくことだと思うからです。そして釈尊の教えと私とを結びつけてくれる手助けをするのが教団であったり寺であったりするわけですが、悲しいことに教団にはどうしても自教団中心のエゴがつきまとい、それが人々をかえって仏教から遠ざけてしまうという皮肉な結果をもたらしているのが現状です。」
  • 原宿・六本木の格好だけ中身なし人種について
    「戦時下では鎖国状態になって、美とか教養とか、そういうものは一切的であるということで、全部抹殺されて灰になってしまいました。戦後はそれから立ち上がるはずだったのですが、本当はいまだに立ち上がっていませんね。ファッション一つとってみてもそうです。私は原宿あたりの竹の子族なんというのにうろたえている若い人たちに「あんたたち、ナウいナウいなんて新しぶっているけれど、そんなの古いよ」といったことがあります。昔、戦争前に私が長崎で見ていたファッションの方がもっとすごかったんです。(略)いまはファッション産業だヘチマだといっていますけれども、右を見て左を見て流行を追って、みんなと同じ格好をしなければいけないと思っている。(略)
    戦時中のもんぺ姿や、国民服等の制服を着ているのと同じです。(略)
    私が原宿や六本木あたりの人たちとあまり話があいませんのは、着ているものだけでお洒落をしているつもりになっているからなんです。それでナウぶっているのですが、中身はスッカラカンの方が多いのです。
    着るものの話と人のうわさ話だけで、あとは何もないんです。そしてしゃべる言葉も一色ですし、内容も一色で、何もかも一色なんです。そのくせ、他の街の人たちを見下したようなところがございまして、エリートみたいな意識を持っているわけです。」
  • 言葉の汚さは時代の変化で許されるものではない。下品は時代に関係なく下品である
    「最近では、
    マンガのせいだと思いますが、女の子たちが男言葉でしゃべりますね。しかも、乱暴な非常に次元の低い言葉でお互いに喋り、男の子たちもそれがかわいいみたいに思っていますね。そして家庭でそういう言葉を使っても、親たちが何とも言わない。古いようですが、私はそれは大間違いだと思います。(略)
    日本の言葉というのは、その時その場に合わせていろんな言い方があったり言い回しがあったりという、それほど豊かな言葉なんです。
    言葉というのは豊富にあった方がいいので、いろいろな言葉を生活の中で駆使して、親子でも使いあっていれば、家の中も楽しくなると思いますけれども、最近はどこの家でもみんな一種類の言葉で、言葉を楽しむということがないんですね。そのへんが日本人の心が貧しくなった理由のひとつだというふうにいえると思うのです。」
  • 演歌の醜さ
    「最近はどうでしょう。このごろの演歌の歌詞なんか聴いていると、鳥肌が立ちますね。ちっとも建設的ではないんですね。あの世の世界の浮かばれない霊がいるような歌ですよ。そんな歌を家の中で歌ってご覧なさい。背後霊がいるような顔になってしまいますから。」
  • 自分の中の遥か昔から蓄積された大宇宙を自覚する
    「『父親のあんな血が私の身体に流れていると思うと、ときどき夜も眠れなくなるんです。私もいまにああなるんじゃないかなと思うとノイローゼになりそうです』というのですが、『何いってんの。あなたはお父さん一人の子じゃないでしょう。父方の父方系統だけが先祖じゃないんですよ。あなたの血液の中には何百人何千人というひとの血が流れているのよ。あなたのお父さんにもお母さんにも両親がいるでしょう。その人たちにもまたそれぞれの両親がいるのよ』と答えました。そうやってさかのぼると、日本中に何百人何千人という先祖が出来ますね。中には徳の高い人格者もあれば、馬鹿もいればきちがいもいる。そういうふうにあらゆる人の性癖や因縁や歴史や血が全部自分の中に入り込んで、身体の中をめぐっているわけです。つまり、自分自身が一つの宇宙なのですね。けれどもみんな、自分をたった一個の完結した人間だという風に誤解して考えています。」
  • 結婚は最大級の修行の一つ
    「親子といっても兄弟といっても、たまたま同じ家計の家に前後して生れたにすぎなくて、魂、精神、考え方、人格は全く別々の人間の集合体ですね。そういう二人以上の人間が一つ屋根の下で暮らすということは、もう我慢と忍耐と努力以外の何物でもないわけです。まじめに考えればこれはたいへんな修行です。(略)
    「結婚って大変なのよ。するんだったらよっぽと心構えができてどんなことが起きてもビクともしないという覚悟ができてからしなさいよ。(略)」と私が言いますと「そんな先のことまで分かりませんよ」という返事が返ってきました。(略)
    とにかくすごくイージーなんですね。ままごとのように考えている。(略)
    女性は死にに行くようなつもりで覚悟して行ったものなんです。戦時中の物資がない時代、本当に食べ物もない状況の中で、子供が五人十人とあっても何とかやれた。それははじめから覚悟が出来ていたからですね。そういう覚悟というものができていれば、おいそれと離婚したり、子供をほったらかしにするということはしないわけです。(略)
    けれども最近の若い母親というのは、自分の感情のおもむくままに子供をひっぱたいたり、一緒になってケンカをしていますが、私は、「ああいう母親が殺されるんだな」というふうに思ってみております。」


  • 親子・夫婦も土足でふみいることは許されることではありません
    「何もかもさらけだすのが親子だという方もいらっしゃいますが、それはなれ合いですね。なれ合いをしなければ親しくない、水くさいという変な考え方をする人がいるんですが、それは横着からきているんです。自分がきちっとしていなければいけないのが面倒くさいから、どんなにだらしなくても相手に受け入れさせたい、認めさせたいという横着な、怠け者の心理からきているんです。(略)家庭というものはなれ合いの集団ではありません。相手の心の中に土足でズカズカ踏みいるこということは、他人は自分の持ち物ではないのですから許されないことなんです。」
  • 信頼していることを恩着せがましくいう人間のウラは、こういうことです
    「信頼するということは、相手にべったり頼ってしまうということです。(略)
    「あれだけ信じていたのにあの人はひどいことをした。私を裏切った」とお怒りになったり、嘆かれたり、人を一切信じられなくなったりということをよく言われます。でも、それは信じて頼った、つまり
    信頼した方がおかしいのであって、相手にべったり寄りかかっていたから、そういう結果になったのです。そもそも人間というものは、顔が違うように、考え方も生き方も思想も別々の人間の寄り集まりで、一つの家庭といっても違う人間の寄り集まりにすぎないわけです。みんな別々なのに「私の子供なのに・・」とか「オレの女房なのに・・」などと言いますが、自分の女房だからと言って、全く同じ思想、同じ性癖、同じ好みでないといけないと思うと言うことはファシズムであってヒトラーと同じです。(略)
    「もう人が信じられなくなった」という人がおりますが、自分を信じられない人が他人を信じることが出来るわけもないのです。」

  • 上流階級=大名を美輪明弘氏はこう見る!
    「私は認めませんね。だって考えてもご覧なさい。大名なんていうものは、いま生きていたら首が幾つあっても足りないような人たちですよ。切り取り強盗、婦女暴行で電気椅子間違いなしの犯罪人です。尊属殺人なんて平気でやっているでしょう。徳川家康なんてわが子だって何だって全部殺していますよ。国取りなんて格好言い言い方をするけれども、あれはただ単にやくざの縄張り争いにすぎないじゃないですか。大名が親分です。御台所や側室だとかいうけれども、あれは姐さんですよ。武士道だなんていっているけれど、人を殺すのに何か格好をつけなければいけないから、武士道だとか剣法だとか言っているだけですよ。言葉で飾り立ているけれど、端的に言えばあれはただの人殺しです。」

  • お経とは
    「ほとんどのお経には生きるための方便、つまり考え方が書いてあるわけです。現代風に言えば発想の転換と言うことですね。人生の上に生じた苦しみとか哀しみとか怒りとか、そういう色々な煩悩に対処する考え方です。どうすれば楽に生きられるかと言うことが書いてあるのがお経でございまして、なにもそういう呪文のようなわけのわからないものが書き連ねてあるのではありません。」
  • 鏡を見て我が身我が表情を見直して、和顔愛語を実行したいものです
    「とにかく人の眼を気にしないで、鏡があったら自分を必ず映して、自分の表情がどうなっているか確かめることです。鏡というものはうっとりするためにあると思っている方がありますが、そうではないのです。(略)自分の精神状態がどうなっているかを見るためにも使っていただきたいものです。毎日五回はそうやって鏡をご覧になった方がいいと思います。(略)
    それが自分を高めるための方法にもなるわけです。そして、そのうちに誰が見ても本当にいい顔になっていくのです。」