2006年4月5日水曜日

なぜ仏道か、なぜ宗教か

仏道を如何にして日常に融和させるか

仏道を自覚して早1年半、いや、まだたったの一年半・・映画鑑賞を記録して20年の歳月が経過していることを考えると、仏道の世界ではまだ言葉も話すことができない赤ん坊同様なのが自分であります。
しかし、何か遥か昔から自分の人生の価値判断には仏道があったのではないかと(都合が良いようですが)思うことがあります。
仏道に感銘を受け、毎日読経し、仏道を学ぼうと読書しても、日々の生活・人生にその本人の心、その本人の真髄が落ちていなければ、何にもなりません。
このところ、多くの生活の変化やあまりの日々の多忙さとめまぐるしい生活に、この仏道の根本精神がどうも言動に反映されているとは思えず、頭だけで仏道・仏道・・と唱えるだけの状況に陥っていたようです。
仏教関係本もおよそ200冊を読んできましたが、本当に重要な仏道の精神を端的に言おうとすると、あまりの膨大な体系もあって、どこから思い返していいか途惑う自分がいます。

そこで、あらためて、私が「なぜ仏道であるのか」ということのポイントを要約して、自らの頭を整理し、その精神をしっかりと心に再度落とし込みたいと考えました。
この作業を繰り返すことで、仏道について、ようやく自分の言葉で語ることが出来、生活を営む上での価値判断基準がきちっと無意識に仏道になぞらえているようになると思うのです。
そういう状況を意識的に目指す必要があろうかと思うのです。


人類の叡智の蓄積である宗教だけがキーとなる

親鸞聖人「歎異抄」の冒頭の言葉はこうです。
『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり』
この言わんとすることは、「信じて念仏の心が起こったその瞬間には阿弥陀仏の浄土に救われている」ということです。
つまり、仏道を自分が選択をして「いい教えだから信じよう」というのではなく、信じたいと思ったことは、そうなるように予定されていた。
そう、すべての世界宗教がそうであるように、仏道も予定説「信じる者は救われる」ことになっているのであります。
・・・換言すれば「救われる人間は、必ず信じられるように作られているのだから、本人が何をしようと救われているし、地獄に落ちる人は必ず神を信じないように作られているのだから、本人が何をしようと地獄に墜ちる」という根本があるため、自分が審美眼をもっているから優秀な宗教を選び取ることができたのだ、という思い上がった考え方はお門違いになります。

宗教が、道徳(修身)でもなく呪術でもなく西洋哲学でもなく科学でもない理由はここにあります。そして、これは宗教だけが許される発想であり、最も現代においては日常生活を営む中に「落ちていない」考え方といえます。だからこそ、宗教なのです。宗教しかこの発想を許すものはなく、宗教の発想こそが「なるほど!」と自分の生死を考えたときに回答のヒントを与えてくれる唯一の思考方法(思考という表現も、宗教の前では陳腐で、部分しか表現し切れていないと思いますが、他の表現方法が分からないので、仮にこう書きました)なのであります。

ですから、私が自分の選択により仏道の好き嫌いを語るというのは、宗教の精神・発想に矛盾するようですが、やはり頭の整理なくしては、何が仏道かも分かりません。実践のしようもありません。

私が「仏道」を歩む真の理由

そこで、これこそが仏道だという教えの
7つの真髄をピックアップしてみました。
「仏教」の名を語りながらも、その本質は、釈尊に始まる正道の教えからは逸脱していると断ぜざるを得ない(具体的には「檀家制度」「追善供養」「死者への戒名」等)、現代日本における既成仏教(寺)の形式仏教を認めるようなことに甘んじることのない、真の仏法への自分の信心を確認する作業でもそれはあるのです。

一つの既成仏教の宗派に囚われたくない、囚われないからこそ仏道の本質である「出世間」の精神を保つことが出来る、そして仏祖面々の行持ともいえる真の仏道を大切にしていくことができる、という証でもあると自負するのであります。



1. 「自灯明法灯明」「信心」


 仏道が多くの世界宗教と決定的に異なるのは、神を崇拝するという形式ではない宗教であること。ヨーロッパにおいて、かつて「ニヒリズム」とさえ解釈された仏教である。それだけ人類精神史上においても革命的な発想を備えた宗教であることがわかる。
 神を崇め信仰するのではなく、自分の心を信じる、自らの仏性を信じるという「信心」が仏道の基本である。
 それはいわば「究極の性善説」ともいえる思想であり、先に神ありき、では全くない。
 釈尊という人間を神格化することではなく、釈尊の説いた「仏法」を守るのが教義、という、崇拝の対象がない宗教というのが何より素晴らしいではないか。

2. 「不瞋恚戒」

 怒りこそがこの世の不幸の源。
 これはまさにその通りであるにも拘らず、宗教や思想は必ずそれを正当化できる例外規定を設けてきた。
 「喜怒哀楽」として人間の根本的感情の一角として、あって当たり前と、肯定され続けてきた。
 しかし、仏道はこれを完全に戒めた。
 この「怒り」を戒めることを真向から最も重要なポイントとして説いた思想は他にあるだろうか。
 人間の醜い行為、破壊、殺人、戦争の根底にあるのは、ちょっと考えれば「怒り」であることは明白である。そこを徹底して戒めた。
 「貧瞋癡」という、欲望を貪り、怒りを露にし、そして己の近視眼的な愚かさを「三毒」として戒めたそのシンプルかつ最も的を言い得た戒律は、他の追随を許さない。

3. 「因縁生起」 すべてのこの世の現象には原因があるということ・・・。
 多くの科学者も釈尊の説いた「因縁生起」というこの世の成り立ちを証した根本的な考え方を奉頌したい。
 呪術やインチキ宗教が必ずといっていいほど「呪い」「祟り」「悪運」を持ち出して自らの宗教への信仰を強制するという姑息な手段を使うが、それを完膚無きまでに否定しているのがこの因縁生起なのだと思う。
 何事も縁が無数に絡み合っているという考え方である。現代の最新科学さえも凌駕する極めて先進的な発想である。
『日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。』(「中村元「仏教の真髄」を語る」)
4. 「愛するな」

 至る処で「愛」こそが人の生きる道のように賛美してばかりの世の中であるが、そもそも「愛」の根底には常に自己愛・利己心しかないという冷徹な事実を踏まえて「愛するな」と発信しているのが仏道である。
 「愛」の美学が蔓延る現代に生きる我々は、この思想の革命性に衝撃を受けないわけがない。
 愛は常に「愛憎」という言葉のとおり、憎悪が表裏一体の存在としてあることは、誰しもが経験上自覚できることであろう。
 愛の本質がそうである以上、仏道は「人間の愛は汚い。そんな愛と仏の慈悲とは全く違ったものである」と力説する(現代坊主はその点の解釈が甘いが)。
 釈尊は「皆自己愛をもっている。だからそれを否定するのではなく、それを他人に対する愛であると錯覚することがいけない。ただ自分が愛おしいと思うように他人も自分が愛おしいと思っていることを知り、遍く他人を傷つけないように心がけよ」ということを説きたかったのである。



5. 「反社会性」

 安易に現代社会を容認し妥協した上で宗教論を展開しても、そこで得られるのは単なる一時の慰めでしかない。
 聞いて何の解決にもならない人生相談と同じで、悩みは形を変えて無尽蔵に現出しそれに一喜一憂するだけの人生となる。
 真の生き方、人生どう生きるべきかを審細に参究するとなると、徹底的に現代社会を批判したときこそ可能になる。
 そこに初めて新しい発想による生き方が見えてくる。
 「出世間」が仏道の本質である。
 この「反社会性」には非常に共感するものがある。
 それは、今までの自分の人生を振り返ると、俗世間に対する不信感と限界を今日まで痛いほど感じてきたからなのだろう。
 反社会性といえば、一歩狂えばオウム真理教のような攻撃的集団が宗教から生まれるともいえるが、その時代時代の世の常に迎合しないことこそが、その教えが「宗教」たる証であるといえるのではないか。
 「出世間」とは、在家か出家かの形態を問わない。
 現代に大量に存在する、在家となんら変わらない生活を営む「寺守」坊主は、全く「出世間」を体現していないし、彼らの多くが説く「社会に役立つ人間になれ」といった類いの俗世間迎合型説法はまさに出世間の対極であるのだから。



6. 「はからい」の否定 これこそが宗教の真髄であろう。
 仏道では特に「他力」思想として明確にされている。
 善悪を人間自らの判断で行って道徳だ宗教だといっても、ところ変われば時代変われば常にその価値判断は変動することは歴史や世界化の現代が証左である。
 それを「相対善」「相対悪」とすると、人間が判断できるのはこれだけであり、「絶対善」「絶対悪」は人間以上の存在以外はわかり得ないわけである。
 宗教の神・仏道の仏法は「絶対悪」を戒め「絶対善」を奨励する存在であり、そこにこそ神の存在価値がある。
 人はただ仏法を守り生を営むことだけである。
 その結果結果は因縁によるものであり、業である。
 あるとすれば「絶対善」の判断を下すことができる宇宙的存在に判断を任せればよいのである。
 本当の善とはどんな時代・世の中においても善である絶対的な善であり、相対善は所詮「偽善」である。絶対悪も然り。
 仏道ではそれを知るのは如来だけであるとし、そのような物差しを人間が持ったつもりで人や現象を断じてはならないとする。
 つまり「はからい」の否定である。


7. 「生死を明らめる」 人の「生き死に」について明確にすること・・・。
 死のテーマは延命医療の視点でしても、暗くなるだけであり、根本的な人間としての苦悩の解決や解釈には何の役にも立たない。
 そういう次元で、ガンからの回復記や老人の健康法などが売れているのは、現代人は過去の人間の先輩たちに比べても全く「生死が明らめ」られていない証拠であるといえる。
 仏道は道元の言葉にあるように「生を明きらめ死を明きらめることは仏家一大事の因縁なり」と人生をしっかりと捉えて、死を肯定的に捉え(死だけを取り出すのではなく、人間の一人生(光陰と表現される)の自然性を受け入れるということを積極的に行っている。
 これこそ宗教にしかできない技と言って過言ではないだろう(断わっておくが死を取り上げるといっても儀式屋としての葬式仏教とは全然関係ない)。
 氷は溶けたら水になる。
 生と死の関係も然り。
 死とは生の連続的変化のようなもの。
 本質は変わらない。
 これを仏道では「生死一如」という。
 生の状態、死の状態とも、トータルに考えれば変わらない。
 この移行期を「往生」という。
 それが胆に納得いけば、仏の救いがあったことなのである。



以下に、「本物」の僧による、仏道の本質を端的に表現した極めつけの次の言葉を記します。

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青山俊董禅師「ご利益信仰でもなく、学問や思想などのような観念の遊びでもなく、仏像や伽藍などのような芸術でもなく、まして渡世の職業でもない。たった一度の、かけがえのないこの生命の今を、最高に洗練された生き方で生きる。その生き方を具体的に教え導くもの、それが宗教」



内山興正禅師
「思えば日本は仏教国といわれてき、たしかに事実、その名のもとに膨大な経典書籍を有し、建築彫刻等の美術芸術を持ち、葬式法事をはじめとする風俗習慣行事が生活の中に食い込んで行われています。それはそれで許すとしても、しかしそれらが一体仏教そのものとなんの関係があるというのか。」

「日本人は、過去の歴史においてさえ、いったどれほどの人たちが、自己の人生の真実を求める態度において、仏教を学んできたでしょう。おそらく、ほんのひとにぎりの人たちを除いて、
日本社会全体としては、およそ自己の人生の真実追求とは無関係のご祈祷、ご利益、葬式、趣味、観光などという低い次元の関心だけで、それと出会ってきたとしかいいようがありません。そしていまや、それもまったく固形化してしまった形骸の遺物だけが我々の前に存在するのであり、これに対してわれわれは過去のものだと思いこんでいるわけで、とうとう日本人全体としては、仏教そのものと完全にすれ違って出会わないで来てしまっているのだ、といっていいと思います。」