2005年2月19日土曜日

四苦八苦

四苦八苦(2005/02/19)

すべては苦であるということを認識してから、仏教の思想は始ります。それを明確に分けたのがこの四苦八苦です。日常で使われていても、中身はあまり知りません。
釈尊は、人間は「必ず移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、無理な執着をつくりだすのだと説いています。
「人生は苦である。」と断定したことは決して悲観的・厭世的(えんせいてき)なものの見方を教えたわけではなく、「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうという事を断ぜられた真意はここにあります。
現代生活に即して云えば、酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その
原因を見つめる態度が大事であるという事です。このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが仏道をならうことにほかなりません。


  • 生きるということは苦である。

  • 老いていくいうことは苦である。

  • 病気にかかるということは苦である。

  • 死んでいくということは苦である。
  • 愛別離苦(あいべつりく)
    愛するものと別れるのは苦である。
  • 怨憎会苦(おんぞうえく) 
    怨み憎む者と会うのは苦である。
  • 求不得苦(ぐふとっく)
    求めても得られないのは苦である。
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく) 
    五蘊とは色・受・想・行・識のこだわりの苦しみ。人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)で感じるものや心で感じる人間の肉体や精神活動すべてが物事にこだわりをつくる苦しみ。 

2005年2月15日火曜日

百不知百不得

百不知百不得百不知百不得(ひゃくふちひゃくふえ).。
何でも知っているとか何も知らないということを超越した人のこと。知らないということにコンプレクスを持たないこと。
分からないということを隠さないことが大事です。知らないことは尋ねれば良いし調べれば良いのです。その知識こそ、実際はどうでも良いものかもしれませんし。知らないと恥だとか、これは常識だとか、自分で勝手に作り上げていないでしょうか。知ったかぶりが最悪なのであります。(2005/02/15)

2005年2月14日月曜日

智恵波羅蜜(般若波羅蜜)

智恵波羅蜜(般若波羅蜜)(2005/02/14)

迷いを断ち、真理を悟ること。または諸法の究極的な実相を見極めること。深い洞察力、物事を正しく見る力。前述の五波羅蜜の実収の結果得られるものといえる。

波羅蜜それぞれを実践するには、これまで私たちが常識だと信じてやってきたことを、もう一度別の視点で見直すことが必要だといえます。常識や世間体にがんじがらめになった生活を、もっと風通しのよい生活にする。これが本当の智慧ということなのでしょう。

2005年2月10日木曜日

禅定波羅蜜(禅波羅蜜)

禅定波羅蜜(禅波羅蜜)(2005/02/10)

心の動揺・散乱を対冶して心を集中し安定させ、真理を思惟すること。「禅」とは「静かな心」、「不動の心」という意味。「定」は心が落ち着いて動揺しない状態を指す。一般的に禅定の意味は、坐って心を静かに落ち着け集中すること、坐禅など瞑想すること。
日常のすべての立ち居振る舞いを、座禅と同じように集中して、そのものになりきってせよ、という事でしょうか。

2005年2月8日火曜日

精進波羅蜜(毘梨耶波羅蜜)

精進波羅蜜(毘梨耶波羅蜜)(2005/02/08)

別名、毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)。懈怠の心を対冶して、身心を精励して、他の五波羅蜜を修行すること。「精」という言葉は「まじりけのない」という意味。
「頑張れ」、というのがお決まりの台詞となった戦後の日本人。何につけても自力で立ち上がれという、自力思想ですが、これは「他力」でも書いたようにもはや限界があり、また他力というすべてのものの縁を考えたときに、大いなる勘違いをする元になるあまり好ましくない考えです。精進するというのは、頑張ることと似て非なるものと私は解釈します。他の五波羅蜜をこころに守って日々を過ごすこと、ということであり、怠惰は許されなくとも、「頑張る」必要はないのでしょう。
ただ、一生懸命に努力をする、というのはちょっと違います。静かな落ち着いた心で世の中のことをジックリと見て考えることが精進であると考えます。そうでないと、物事の本当の姿が見えてきませんし、誤った方向へ力を注ぎかねないことになります。
本当の精進、本当の努力とは、当たり前の事を当たり前にし、ゆっくりと着実に努力する事です。
釈迦は必死で苦行を重ねた結果、「中道」に気づかれました。人間らしいゆっくりとした生き方がこれです。

2005年2月2日水曜日

佛教の特異性

宗教比較論は簡単にはできませんが、世界宗教として長い年月の人類の歴史に耐えてきた偉大なる宗教の中で、やはり佛教にしかない特異性というものがあるはずです。それを列記してみると以下のような要素が考えられるのです。



  • 神ではなく人間が主役の宗教である
    仏教は、唯一絶対の神で世界を創造したとするキリスト教やイスラム教の神のような、人間を超越した神の教え(命令)を人々に説き聞かすという形式の宗教ではありません。
    あくまでも人間釈尊が、自らの努力によって到達した心の絶対的安穏(悟り)の体験を人々に示し、またその境地へ至る道筋を自らの言葉で語ったものであるといういわけです。

  • 王子の宗教であることが決定的な違い
    (釈尊の出家までの半生は)王子であるということは、学問や武芸等もキッチリ身につけた、ということを意味します。この点は、仏教の宗教としての性格を方向付ける大変大きな特徴だと思われます。
    というもの、同様に世界宗教とされるキリスト教やイスラム教では、教祖たちはそれぞれの出生や育ちにおいて恵まれることなく、読み書きも出来なかったようです。しかも、彼らは、釈尊のように哲学的思索や人生への反省などは、根本的に問題としておりません。
    それは彼らが絶対神の預言者、つまり神の言葉を人々に伝えるためのスピーカーであり、聖典に収められている教えが、彼ら自身の言葉として語られたものではないという位置づけからも明らかです。(略)
    釈尊の立場は、常に人間の側からの発想なのです。その点が自分を「神の預言者」、「神によって選ばれた人」と位置づけるイエス・キリストやムハンマドとは違うのです。

  • 仏教の現実性仏教はヒンドゥー教のような神や物事を生み出す何か(学問的には根本原理、あるいは第一原因といいます)を認めません。そういう一つの大前提に逃げ込まないと言うことです。
    仏教は、「世界はなぜ存在するか」「自分がなぜここに存在しているか」というような疑問(形而上学的学問に答えを与えない。そういう議論に対しては意義を認めない。

  • 仏教伝播の原因、地域の信仰とぶつからなかった理由悟りの世界、真実の世界は言葉で表現可能であるという仏教の基本姿勢は、その後数々の言葉に仏典が翻訳されることを可能とし、仏教が世界各地に伝播する原動力となった最大の理由です。
    また仏教の誕生に他の宗教の神が深く関わったと言うことは、仏教が世界各地に伝播したとき、それぞれの地域の固有の信仰と争うことなく、共存或いは融合することを可能にしたのではないでしょうか。
    このような形は、ユダヤ・キリスト・イスラムというセム的一神教の宗教では難しいのです。
    イスラムでは「コーラン」は決して翻訳してはならず、また翻訳したものは宗教的に無意味なものとされます。イスラム教が勢力を伸ばせば、それは同時に他の宗教の排除、消滅と言うことになります。
    キリスト教の聖書も中世においてはラテン語から英語、ドイツ語、フランス語などに訳されることはありませんでした。
    これらの宗教は同一の唯一絶対神を共有しておりますが、他の宗教の神の存在は原則として認めないので、しばしば宗教あるいは宗派間のすさまじいばかりの抗争を引き起こします。

  • 「あの世」ではなく、この世の日常生活に焦点
    釈尊の目は常に日常生活に向けられ、その関心はこの世における修行であったことは誤りないでしょう。
    これと比較すると、神の国への再生をひたすら願うキリスト教やイスラム教と、仏教(少なくとも釈尊の仏教)とは大いに異なることがわかります。また常に天下国家の在り方を論ずる儒教とも違います。

  • 仏教には宗教戦争は存在しない
    仏教でいう悪魔とは、心のなかに住む煩悩のことで、「仏教の修行を妨害するもの」という意味で用いる。キリスト教やイスラム教の「サタン」のような、神に対決する絶対悪を意味するものではない。
    したがって、仏教にはキリスト教やイスラム教のように殺害することを善とする宗教的敵対者が存在しない
    だから、仏教には宗教戦争が存在しない。

  • 仏教ほど女性が重視される宗教はない
    日本では、仏教は女性を差別したなどといわれますが、仏教ほど宗教の核心部分で女性が重視され、また活躍する世界宗教はありません。
    なぜなら仏教では「勝鬘経」のように女性が教えを説くなどということは珍しくないからです。このようなことは他に例がありません。

2005年2月1日火曜日

忍辱波羅蜜(孱提波羅蜜)

忍辱波羅蜜(孱提波羅蜜)(2005/02/01)

瞋恚(怒り)の心を対冶して、迫害困苦や侮辱等を忍受すること。何かにつけて腹を立てたり、人を恨んだり、また、その怒りや恨みを相手にぶっつけたりすることはおぞましい。忍辱というのは寛容ということ。それは、人に対してだけでなく、この忍辱の修行を積むことによって、天地のあらゆる事象に対して、腹を立てたり、恨んだりすることがなくなることをいう。
自分に侮辱や損害を与え人を裏切るような相手というのがいるものです。親戚に、会社に、近所に、必ず現れます。
そんな非道な人間に対しても、単に怒りや恨みの心を抱かずに、慈悲心から、そういう不幸から救ってあげようとする気持ちが起きるようになる、こういう境地が忍辱行の極致なのでしょう。
無理なことをしてくる相手に対して、仏の教えを知らない理解できない可哀想な人だ、と考えるぐらいの境地までは何とか進みたいものです。この忍辱という精神的習慣が人々の心に浸透できたら、それだけで世の中も平和になることでしょう。