2006年12月30日土曜日

五木寛之 ~共感した名文・名文句~

浄土真宗の他力思想を基本に、的確で分かりやすい文章で時代のゆがみを指摘し、人間の本質に迫る。70歳とは思えない若い感性と世間に対するアンテナを持ち、新しいものを単純に切り捨てず一つ一つ考え方をはっきりさせているところは、誠に敬服いたします。


  • 不安の力/集英社
  • 自殺の背景を考えれば、日本人の心の病の拡がりが明確になります「印象に残っているのは、、一人の自殺者が出ると、その背景には十人の自殺未遂者がいる、というデータでした。(略)そうなると、日本でも年間三十三万人が自殺を試みていて、その一割の三万三千人だけが成功している、といえるのではないか。さらに大きな問題は、一人の自殺者が出た場合、その肉親、親戚、職場の同僚、友人たち、地域の人々など百五十人から二百人が、生涯心に消えない傷を負うという研究報告がされていたことです。」
  • 泣ける人間が喜びをつかめる人間
    「悲しみや嘆きや絶望を知っている人だけが、本当の意味での喜びや希望を自分の手につかむことが出来る、ぼくはやはり強くそう思ってしまうのです。『泣く』というと、メロドラマを見て涙腺をゆるめるという風に想像しがちですが、そうではない『泣く』もあります。たとえば、国のために泣く、世界のために泣く。世のため、人のために泣く。こんなにひどいことが行われていいのか、と正義のために泣く。いろいろな泣き方があります。つまり、泣くべき時にきちんと泣けると言うことはとても大事なことなのです。」
  • 私の痛感する「ニッポン総幼稚化」を五木さんも指摘します
    「いまの日本の若さ思考というのは、完全に一方的なものだといっていいでしょう。成熟もいいけれど若さもいい、という形では決してない。成熟には見向きもせず、ひたすら若さの方だけを追っている。大人までが若い人たちの好みに合わせている。」「
    これほど子供っぽいカルチャーが大事にされている国は、世界の中で他にないだろうと思うほどです」「若いことに価値がある、というのは危うい考え方であり、貧しい考え方だ、という気がして仕方がないのです。やはり、世の中にはさまざまなカルチャーの階層があるべきなのです」
  • 心の拠り所のなく不安がる日本人の原因は「無宗教」
    「『真に頼るものがもてない』不安というのは、宗教を持たない日本人、という問題抜きには考えられない気がするのです。」「世の中にとって宗教というのは具体的に役立つものではあるまい、と思っています。宗教とは、世の中のプラスになるものではなく、一見、マイナスの働きをするものではないか。」「宗教はブレーキです。もし、人間の欲望というものをほったらかしにしておいたら、物欲も金銭欲も出世欲も無制限に加速していく。その揚句には、破滅が待っているだけです。」


  • 他力/集英社
  • 他力本願(本願他力)の言葉の誤解「時代とともに言葉の本来の意味が少しずつ変わってくるのは仕方のないことではありますが、<他力本願>の本当の意味は、決して単なる「あなたまかせ」「無責任」ではありません。それはひときわくっきりとした強い世界観に基づく大きな思想であり、危機に面した人間にとってのもっとも頼もしい力であると言っていいでしょう」
  • まさにこの心構えが<他力思想>だと思います「<自力>から<他力>への大きな展開がここに生まれます。『わがはからいにあらず』という言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。『なるようにしかならない』と思い、さらに、『しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ』と心の中でうなずきます。そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れるのを感じる」
  • 近代医学と仏教の根本的思想の相違点「仏教的な考え方では、人間はそもそも健康な存在ではありません。人間は生まれつきから四百四病を身体の中に抱え込んで生れてくるのです。つまり人間は本来、病気とともにある存在であると言っていいでしょう。禅では病気のことを<不安>というそうです」
    「不安というのは、要するに体調が不安定になりバランスが崩れることによって、四百四病が表に出たということなのではないか。これまでの近代医学では、外側に病気の原因がいろいろあって、そいういうものが人間に悪さを仕掛けてきて、それに攻められて病気になったと考えています。ですから、それをやっつけていこうという非常に戦闘的な考え方です。戦う、勝つなんていう戦争用語がやたらと出てくる」
  • 常識は所詮限定的な時代と空間でしか通用しない「私は最近、とみに常識に会わないことを大事にするようになってきました。そっちのほうが正しい生き方のように思われてならないのです。そっちとは何かといえば、<直感>です。格好良くいえばヒラメキであり、古い表現をすれば勘となる。昔は第六感などともいいました」
  • 知の偏重が生んだ歪んだ世界「この五十年間、私たちは経済成長第一でやってきて、経済的には損だけれど、カネより大切なものがあるということをみんな見失ってしまった。損と得との間にいろいろな価値観があるということを忘れてしまったのです」
    「近代とはひとことでいえば、知の世界です。(略)いまだに知の世界が優先して、情とかルサンチマン(怨念・情念)というのは差別視され、蔑視されてきました。近代の超克など全く出来ていません。私は知識人は傲慢だと思います。むしろトルストイの言うように、『知識人や芸術家は一介の農夫に学ぶべきだ』と素朴に思う。(略)いま必要なのは、神戸の震災や酒鬼薔薇事件を前にして、理路整然と解説することではなく、
    絶句して立ち往生する、その心です。それが普通だし、大切なことです」

2006年12月23日土曜日

【総回向偈】

いわゆる締めの経文。
各宗とも勤行の終わりに「普回向(回向文)」を唱えるならわしがありますが、浄土系はこの「総回向偈」を唱えます。

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願以此功徳

平等施一切

同発菩提心

往生安楽国

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これは真宗の正信念仏偈をすごいスピードで読み上げる新しい音源を入手した際に、その最後に付いていた偈で、調べたら総回向偈であることが判りました。極めて短いものだが、これが最後に付くととても締ります。(2006/12/23)




2006年10月31日火曜日

【白骨の章(蓮如御文章)】

宗教家として行き着くところまで行ったと言える親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。蓮如の弟子への手紙が次の実如により五帖目八十通に編纂されたのが御文章(本願寺派の呼び名。大谷派では「御文(おふみ)」)です。今でこそ、「歎異抄」が浄土真宗=親鸞教の真髄のように言われますが、歎異抄が日の目を見たのはつい明治時代のことであり、浄土真宗が民衆に広く深く受け入れられていった最大の貢献者はこの「御文章」があったからといっても過言ではありません。
この「白骨の章」は、五帖目第十六通に位置し、生死の「死」を考えるには、実にストレートで強烈な印象を与える一節であります。

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて、
夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。


あなかしこ、あなかしこ。

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御文章は、「聖人一流の章」以来、2年近くぶりの挑戦でした。浄土真宗本願寺派のある寺のホームページにすべての御文章がmp3で掲載されているのを発見して、ようやくこの気になる「白骨の章」の音源を手に入れて、今回の暗唱に辿り着きました。しかし、五木寛之氏、肉親の葬儀の時に、最も心に響いたという「白骨の章」は、その死のとらえ方がしっかりと仏教の考え方であるのですが、空しさが強調された作で、葬儀で耳にすれば、(意味がしっかりとわかるが故に)、いたたまれない気持ちになるのもよくわかります。(2006/10/31)




2006年10月23日月曜日

【三帰礼文】

仏法僧の三宝に帰依するということは、宗派に拘らず仏教徒の基本事項ですが、三宝に帰依し礼拝するというのがこの三帰礼文です。
道元禅師は特にことのことを強調した日本仏教の祖師の一人で、「三帰礼文」は私は曹洞宗から学びました。
他、「三帰」といったり、読み下しだったりとほとんどの宗派で読誦しているようです。

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自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意

自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海

自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙

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曹洞宗の読経方法はあたかも化け物が出てこんばかりに荘厳(おかしな表現ですが、異常に重々しく、特に大人数で地の底から這うような暗さを持つ読誦法をするときは本当にこの表現に詐りありません)なのであります。この三帰礼文も大した迫力でした。(2006/10/23)



2006年10月11日水曜日

内山興正 ~共感した名文・名文句~

昭和の傑僧「宿無し興道」の愛弟子にあたる方ですが、元々キリスト教を極めてから仏道に辿り着いたインテリ出身だけに、深遠な洞察と、実践第一の姿勢が名僧ぶりを伝えます。曹洞宗と臨済宗の根本的な相違点を明らかにしたのは、この方以外に知りません。
人間の業の洞察と宗教とは何かと徹底的に突き詰めた答えを求めた僧としては、最先端を行っているといってもよい、今日の露出度の高い○内○聴や△有△久とは対極にある、富や名声を実生活で否定し続けたまさに「本物の僧」です。


  • 坐禅の意味と実際~生命の実物を生きる/大法輪閣
  • 真の仏教がない日本「思えば、今の日本社会にとって、仏教という宗教はまことに奇妙な関係に立っているといわねばなりません。(略)
    「仏教という名の元に」すばらしく多くの事柄が登場してきましたし、同時に仏教という名の元に大変多くの文化財がのこされてきております。そしてまた
    仏教という宗派の元には、現在でも葬式や祈祷などの伝統的因習がひろく伝承されてきています。しかし、それらが真実の宗教としての仏教そのものと、一体何の関係があるのか。もし人生を導くところの真実の宗教としての仏教というものから見たら、おそらくそれらは、ほとんどすべて無関係だといわなければならないでしょう。そして事実いまどき、なお、自分は仏教徒であると任じている人たちにおいてさえも、「では仏教徒はどういう宗教ですか」とたずねてごらんなさい。ほとんどまったくそれに応えられる人はいないのが実情です。(略)
    日本人全体としては、仏教という名の元に真実の仏教とはおよそ無関係なことを、あまりにもたくさん行いすぎていて、ついに仏教そのものとは完全にすれちがって、出会わなかったのだといった方があたっているでしょう。」
  • いくら人生の意義を語っても、所詮は玩具遊びの延長であることを知る「我々の一生は玩具遊びの一生であるように思われます。赤ちゃんとしてホギャアと生れる。そのときからミルク瓶の乳首が玩具遊び第一号でしょう。少し大きくなればぬいぐるみの動物とか人形とか。さらに大きくなれば組立機械、カメラ、自動車など。それに年頃になれば異性。さらに勉強とか研究とか、商売熱心とか、名利追求とか。あるいは競争、スポーツ。すべて玩具遊びならざるはありません。そうして死に至るまで、玩具を持ち替え持ち替え、一生玩具遊びだけで終わってゆきます。いま坐禅は、こうした一切の玩具遊びなし、ただ「自己ぎりの自己」という生命の実物であることです。」
  • 生命の実物としての我々は、我々の思い以上のところで存在しているという事実を認識する、それが坐禅「生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、普段の我々は小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)それが坐禅なのです。」
  • 他人と自分との関係「われわれ人間がすべて同じ世界に住み、同じ考えでいると思いこむとしたらそれは大間違いです。たとえ同じ言葉を使って話が通じているようにみえるときにさえ、通じているのはまったく抽象された一応の意味だけなのであって、現ナマの生命体験としてはまったく異なった世界に住み、おのおの自己ぎりの自己の世界を生きているのだといわなければなりません。」
  • 権威は一切認めないのが仏道「禅仏教は、自己以外のいかなる権威も認めません。これは釈迦以来の伝統です。釈迦自身、彼の最後の教えとして、「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依することなかれ」と弟子たちに教えました。(略)彼は彼の生を生きるのみであって、決して彼が多くの帰依者や弟子たちの信仰の対象となることを拒んでいます。これが彼の根本的な人生態度でした。」

  • 普勧坐禅儀を読む 宗教としての道元禅 / 大法輪閣
  • 坐禅は功徳を求めるためにやるものではない「坐禅についての色々な功徳についても同じことがいえます。度胸が良くなる、頭が良くなる、健康になる、頑張りがきく、勝負に強くなる、スタミナがつく・・・そういうようないろいろな功徳も、一応みんな結構に聞こえるかも知れませんが、同時に誠に中途半端、不徹底だということも事実です。そういうことは、すべて浅薄な我々凡夫の欲望の延長でしかないからです。(略)
    たとえば、金持ちになりたい、そういうことをあなたが一生の願いにしていらっしゃるなら、そのあなたの願いは、大財閥の御曹司に生まれた人にとっては、フギャアと生まれたとたんから成就されているでしょう。貧乏生まれのあなたは誠に不運で、お気の毒だったといわねばなりませんが、その運の悪さを取り返すために、一生を費やすということは、人の一生としてあまりにもばからしい気がするじゃありませんか。(略)
    しかもそういう生き方において、もう一つばからしいことは、今あなたが金持ちになりたい、出世したい、頭がよくなりたいと思って一生懸命努力なさってもせっかくそれが実現した頃には、それらすべてをこの娑婆世界に置き去りにして死んでいかねばならないのだから、まったくお気の毒です。そう考えてみればこれらの
    望みがいかに中途半端、不徹底であるかということが、よくわかります。」
  • キリスト教等は契約の宗教とすると仏道は自覚の宗教であります「仏教の根本とは何か・・・。「自己の拠り所は自己のみなり」(法句経)(略)
    「自己が自己を拠り所として、そこに落ち着き、そこに安らう」ということは、仏教としてはもっとも初めからのあり方であって、いわゆる教理や教義成立以前の根本姿勢です。これは
    キリスト教やその他の神話的宗教が「神の前にひれふす」姿勢であるのとは、本質的に異なる姿勢だということがいえます。」
  • 座禅=仏道の本質がこの坐禅方法解説文にみられます「坐禅をするには環境としては、静かなところ(夏は涼しく、冬はあたたかく、刺激の少ないところ)がよろしい。坐禅は決して苦行ではないからです。着物はゆったりとして・・・(略)
    半跏跌座は、ただ左の足を右の腿の上にのせるだけです。結跏趺坐も半跏跌座も、おのおのその反対の組み方をしても結構です。(略)
    人の身体の格好というものは、おのおの一人一人違うのですから、決して坐禅は鋳型に入れたようにあるべきではありません。その人なりに楽々としていながら、しかも正しく気のはいった姿勢であるべきであり、正しく気が入っていながら楽々としていなければなりません。(略)
    坐禅というのはどこまでも宗教であり、宗教というのは全く自己の内面の問題です。(略)
    反則して「ヘンな坐禅」を長年続けていると人格そのものがヘンになってしまいますから、全く恐ろしいことです。(略)
    宗教としての坐禅は、どこまでも自己の内面の問題だということに、ことに気をつけて、絶対に反則しないよう、自己自ら正しい坐禅をしてください。」
  • 宗教の本質宗教が無差別無階級であるべきだということを、金の話までもってきていうと、一番わかりやすいと思うからです(略)。
    金のかかる宗教・・たとえば立派な神殿や寺院建築、およびそれを荘厳する彫刻や絵画などの美術が前提とならねばならぬというような宗教は、本当の宗教からはほど遠くなっていくこともわかるのではないでしょうか。」
  • 臨済禅と曹洞禅についての決定的な分析論!「今日、日本で「禅」といえばすぐ「悟り」と反応するほどに、禅と悟りとは結びついて考えられておりますが、補棟の宗教としての坐禅修行というものは、世人が考えるほどかんたんに「坐禅して悟る」という在り方をしているものではないことは、以上述べたとおりです。それなのに、この両者を「坐禅して悟る」「悟るための坐禅」というふうにかんたんに結びつけて日本人に考えられるようになったのは、なんといっても日本臨済禅の影響によるものだといわなければならないでしょう。(略)臨済禅は悟りのために坐禅するのであって、悟りが第一義である。それに反し曹洞禅(道元禅)は坐禅を第一義としている。それなのに実際に坐禅を良くしてきたのは臨済宗の人たちであって、坐禅を第一意義としている曹洞宗の人たちではなかった。(略)
    曹洞宗において、只管打坐の道元禅を純粋に強く打ち出されたのは(略)澤木興道老師なのであって、それ以前の洞門の人たちはほとんど道元禅を座っていなかったのが残念ながら実情でした。(略)
    とにかく「悟り」というものを高く掲げて、この「悟りのための坐禅」ということで、臨済の人たちは宗旨実際の坐禅を続けてきており、そしてまた、実際に世の中に働く人材もたくさん打出してきました。そのかぎり「悟りのための坐禅」という臨済禅の言葉の方が世間に広く行きわたり「禅」といえば「悟り」と反応するほどになってしまったのだと思われます。(略)
    しかしまた今日の臨済禅は、上に私のいった「普く誰にでも安心が得られ、救われる」ということが絶対条件であるとする、宗教の定義から外れていることも事実です。(略)
    禅を「自分というものの能力をギリギリの最極限にまで磨く道」にまで高めていったとき、日本臨済禅はそれこそ独特の全文かを展開していったといっていいと思います。それで室町戦国時代を通じて、ことに武士たちが好んだ武芸、仕舞、茶の湯、墨蹟、水墨画等を始め、もろもろの技芸、芸道の修行においても、その自らの精神及び能力を極限にまでに鍛錬するという応用の道を開き、ついにはそうしたもろもろの武芸や技芸、芸道における根本精神の本家本物ととして、そn堂央ともなる「悟り」を確立していったのです。(略)
    ところでこのような臨済禅は、はたして宗教であるのかどうか・・・これは結局、宗教というものをいかに定義づけるかに依るでしょう。たとえば、宗教とは死に対する安心立命のところだとすれば、臨済禅はまさにおのがいのちを賭けすることを鍛錬する道であるのですから、勿論宗教であるというべきでしょうが、しかし、もし私が上にのべたような、
    普く安らいを得させ救うというような大慈大悲の門、絶対愛の道こそが純粋宗教であると定義づけるとすれば、少なくとも臨済禅はそのような純粋宗教の道ではない、といわねばならないでしょう。(略)
    それぞれの道において、自分の能力を極限にまで磨き上げるべく修行をしている人たちは多いと思いますが、これらの道においてさえも、その堂央に達する名人、達人といわれる人は、まったく選び抜かれた一、二のひとたちだけではないでしょうか。(略)これはもはや一般庶民には到底およびもつかぬ高嶺の花というより他はありません。もしそうだとすれば、このような禅の道は、とても普門をひらいた純粋宗教とは言えないでしょう。(略)
    日本臨済禅が、自分を極限にまで磨き上げる「極限禅」であり、ただ少数の選ばれた人にのみ許される「達人禅」であるといったのでしたが、これに対し、道元禅師の教えられる坐禅は、どこまでも普く一切衆生のために門を開いた「純粋宗教禅」であるといっていいのでないでしょうか。その点、昔から「臨済将軍、曹洞土民」という言葉がいい慣らされてきましたが、たしかにこの言葉はあたっているのであって、いやそこにはむしろ単なる家風の相違というよりも、もっと本質的な相違があるのだと思います。」
  • ここでいう道元禅の行き着いた先はまさに親鸞の絶対他力に重なります「他宗門でもよく信仰告白とか、法悦を語るとかいって、その人自身のアタマをモノサシとして味わった「いいお話し」をとくとくとしゃべっている人がありますが、じつは自分のお粗末なアタマをモノサシとして考えた話は、いくら「いいお話し」でも、つまり妄想をいっているのでしかないでしょう。こんな信心や法悦、サトリは、それこそちょっとした逆境や危機にでも出会うと、とたんに「信心や坐禅どころの騒ぎじゃない」「神も仏もあるものか」などとひっくり返ってしまいます。本当に「わが思い」をモノサシとして観ることは、どんなよいこと、神仏サトリでさえも危ないものなので、このことをまず徹底的に自分自身において知ることが大切です。(略)
    しかし本当はこの「徹底的に自分自身において知る」ということさえも、まさに自分をモノサシとしていっているのであって、危ないことだといわねばなりません。というのは「自分はそのことを良く思い知った」と言い切った途端に、自分自身のアタマをモノサシとしていっているのでしかないからです。・・・では、まったくの自分の視点をモノサシにせぬ、絶対真実はどこにあるのでしょう・・・結局、私の思いとはどんな場合でも全く偶然の集積でしかないと決定して、和阿ツィの思いを手放しにして坐禅するよりほかはない、ということです。」


  • 天地いっぱいの人生 / 春秋社
  • 何と痛烈な過去仏教批判でありましょう! 感動に眼が潤みました「世の中、物覚えのいい馬鹿もあり、謙遜という形の傲慢もあり、拝まれたいという演技者もあり、聖人君子といわれるひとが盗みをすることもあり、けっして表面的な平面情報を真に受けて、平面思考していて、事が済むものではありません。「一生の姿」という立体思考をせぬ、単調な「有り難や」を善男善女といい、こんな善男善女だけを相手に、きらびやかな伽藍を建て、金のかかった芸術品で飾り立ててきたのが、過去の宗教ではないでしょうか。とにかくわけのわからぬ経を読み、仏教述語で説教し、摩訶不思議の陀羅尼をさずけ、響きだけの禅語で応酬して、それで一体自己の人生と何の関係があるというのでしょう。これに対し、裏も表もあり、どんなことでも起こってくる「この世の中に生きる自分の人生」それぐるみとして、この自己がどう片付くか、これを問題にすることこそが、今後われわれ悪男悪女どもの宗教の問題でなくてはならぬ、と思うのです。」
  • 盲信者たちを一刀両断「周知のように、西洋文明というものは分別工夫を根本にしています。(略)
    しかし、分別知を学ぶ過程で大切なことは、あれかこれかを分別すると同時に、その相互関係を考えるということです。明治以来の学びかたはこの点でも決して悪くはなかった。ところが戦後、アメリカのやりかたをまねするようになって、おかしくなってきた。というのは、かつてアメリカ人たちは一刻も早くヨーロッパ列強と肩を並べるために、科学文明の能率を高めようと、あれか、これか、○か、×か、という方法をあみだした。このやりかたには、あれとこれとの関係を考える手数が省かれている。戦後の日本はこのやりかたをうのみにして、まず教育に採り入れたので、いまの若い人たちの顛には○か×しかない。大切な「相互関係を考える」という能力が抜きになっている。これは皆さんも痛感しておられると思う。
     しかもこの傾向は若い人たちばかりではない。戦後流行してきた
    新興宗教・・・仏教系を自称するものからキリスト教系を名のるものまでいろいろさまざまにあるが、あの連中の考えかたも同じだ。要するに○か×か、○とつけたものは盲信するが、×とつけたものには耳も貨さない。また共産主義者と称する連中も同じだ。もう忘れられかけた浅間山荘事件の連合赤軍の連中は、自分たちだけの閉鎖状態のなかで、互いに○か×かをつけ合って一人ずつ消していった。
    あのまま放置されれば最後にオレー人というのが現れたかも知れない。今日の共産主義かぶれの学生たちにしても、新興宗教の連中にしても、ロをひらけば理屈ばかり並べたてているが、頭の中味はいたって単純、○か×かだけ。あげくのはてか狂信性という共通点まで持っている。(略)
  • これが今退職を迎える2007年問題の「団塊」の若き日の姿であります「おかしくてしようがないのは、近ごろのゲバ学生たちだ。あの連中は口をひらけば「オレの考えでは」というが、その実はどこかで聞いたことか、読んだことばかりだ。二十歳そこそこなら、せいぜい十四、五からあとに覚えたのだから、ほんの五、六年のあいだに聞いたこと読んだことだけでアタマの考えを適当にまとめて、偉そうに「オレの考えでは」などという。そんな連中が「オレの考え」を振りまわし、しかも○か×かできめつけて、おまけに人の意見を聞こうともしないのだから始末が悪い。
  • 学校で会社で、このことがいつも非常に不愉快であります「なるほど日本人はいつも社会的存在としての自分ばかりを気にしている。つまり社会分の一としての自分だけを考えている。しかし、本当の「自分」は一分の一です。」
  • 「仏」とは仏像のことだと思っている人間に対して・・・ こう言い切ることの出来る僧は内山興正禅師しかいない!「仏像はね、これ、お人形ですよ。私も坊主になる前は仏像も多生は有り難いものかと思っていたが、坊主になってみるとさっぱり有り難くなくなった。坊主という奴は悪い奴でね、人前では偉そうに拝んだりしているが、本堂掃除の時には仏さんの顔にぱたぱたはたきをかける。アタマなんか布きれで磨き上げる。なんのことはない。仏像なんて京人形や博多人形とちっとも変わりはしないのだ。京都や奈良では仏像鑑賞ブームが続いているが、あれば本物の仏に出会ったことがないから偽物を有り難がるので、本物を知ったら偽物など見るに堪えなくなる。本当の仏さんは人形ではない。木偶ではない。」
  • 数十年前の成長期に今の日本の惨澹たる価値観の汚泥化を予見していたかのようです生存競争という言葉は実にくだらない言葉だと思う。今の学校教育がくだらないのは、競り合わせて生存競争の稽古ばかりさせていることだ。会社というのはその実践をするところだ。だからあんなグラフのようなものを張り出して競り合わせている。」
  • 子どもを育てる立場になって目覚めた自分が待っていた言葉はここにありました!子供を産んだ、ということを、「これは、とんだことをしたのだ」と思わなければならないということです。「とんだことをした」と思う気持ちがないから、ただ惰性だけでわが子を育てている。これでは困る。子供を産んだことがなぜ「とんだこと」なのか。それは「新しい生命をこの世に送り出した」からです。それも自分たちが夫婦になって勝手に産んでしまった。生まれてくる気があるのかどうか、子どもに聞いて承諾を得たわけではない。子どもにとってはこの世に出ることは甚だ迷惑だったかも知れない。つまり「とんだこと」をしでかしたわけです。(略)
    まっさらな目でみれば、子どもにとって自分が生まれたと言うことは、まったく自分の意思ではなく、ただ親たちの勝手な行為から一方的にそうさせられたわけです。(略)
    いずれにせよ子どもという新しい生命をこの世に送り出しのだから、いま申しあげたことをよく考えて、十分に責任を感じ、この新しい真の生命としてつらぬかせるだけの地盤は、どうしても作ってやらなければならいという覚悟をもっていただきたい。そんな覚悟もなしに、ただなんとなく生んでしまった。かわいらしいからかわいがる。わるさをするから叱る。勉強しないから塾へ通わせるといった無方針な育て方でいいはずはありません。ここのところを誤るなら、その報いは、だれでもない、親であるあなた方ご自身が受けねばならないと言うことを考えるなら、
    これは子どもだけの問題ではなく、あなた自身の問題でもあるのです。事実、子どもというものは、親の人生観、親の生活姿勢、親の生き方に対して、だれよりも厳しい審判者だと言うことを心得るべきです。これが少しでも歪んでおれば、やがて子どもたちは、「お父さん、お母さんの人生観、生き方はここが歪んでいる」とハッキリ突きつけるようになるのです。たとえば、あなたがいつも金、金といいながら生きているなら、子どもはやがてそんな生き方はくだらないと批判して家出するか、それだけの批判力のないつまらない子どもなら、親の貯めた金で身を持ち崩して親を泣かせるでしょうし、そんな親の人生観に共鳴するような愚かな子であれば、やがて親より金の方が大切だと、親を金以下に扱うようになる。これは火を見るよりも明らかです。また、見栄っ張りでいつも世間体のいいことが一番いいことだと思っているような親なら、もし子どもが優秀な子であれば親を批判して出て行くに違いありませんが、子どもが親に似て見栄っ張りなら、当然「親や家族より出世の方が大切」という人間になるはずだし、本人がお粗末で出世できないとすると、ノイローゼになって精神病院のやっかいになるか、あるいはアクの強い人間なら出世のためにやりすぎて、汚職などをしでかして牢屋にはいるようなはめとなる。」
  • 社会というちっぽけな体系の部品にならない「あなたもあなたのお子さんも、個々の人間としては、みな生まれてきて六、七十年、長くても八十年か九十年のいのちを生き、そして死んでいく生命です。しかも社会というのは何千年、何万年前にもやはり人間社会はあった。何千年、何万年後にもあるでしょう。つまり生まれも師にもしない、一つの妙な約束事の体系なのです。とくに現今の日本の社会は変に歪んだ癖のついている約束事的体系で、こんな歪んだものに迎合して、その部品を作ることに専念しているのが、いまの日本の学校なのだといってさしつかえありません。(略)
    階級づけて社会の部品としてはめ込もうというのだから、人をバカにするにもほどがある。これではま
    るっきり人間を生命扱いしていない。まったく社会という体系の部品扱いです。」
  • 受験勉強をまじめにやる人間は最低「受験勉強などをまじめにやっているような子どもは、私に言わせれば「もの覚えのいいバカ」で、しかも闘争性のある獣的人間です。受験勉強のような馬鹿なことは、バカでなければやるはずはないのだし、人と競り合って、人を蹴落とすことに血道をあげるような受験勉強は、獣的人間でなければできるはずはない。子どもにそのような受験勉強をさせるにも、いまの親たちは、まるで電灯のスイッチでもひねるようなつもりでいるとしか思えない。」
  • 知的障害児をもった親に対して「知恵遅れの子や孫をもって不憫に思うのは当然です。しかし、よその子どもたちと比べて、親までが悩んでは、子どもさんがあまりにかわいそうではないか。知恵遅れに生まれついていると言うことは、世間並みからみていうわけで、子どもさん当人にとってはそれが「いのちのすべて」だ。他の子どもたちと比較してどうこういうべき問題ではない。(略)
    そういう子どもの親としては、その子の「自己自身」「生命自身」の立場に立って、子どもを励ましながら、ともに生きるべきではないか。それにはまず「世間並み」を標準とする目をはずして、そうではなしに、いま与えられている生命を自己自らとし、この自己自らの生命を精一杯生きるという「生命力そのものの目」にまで転換させるべきではないか。」
  • 仏法の仏法たるゆえん(私の「なぜ仏道なのか」参照)がここにも明きらめられています「仏教のお経として最古のものといわれる「ダンマ・パダ(法句経)」には「自己の依りどころは自己のみなり」とある。これば仏教という宗教の根本姿勢です。仏教はこの「自己の依りどころは自己のみなり」から出発しています。そこがキリスト教をはじめ他の宗教と全く違うところだ。キリスト教もその他の宗教もまず「神」に依ろうというところから始まる。これが仏教以外の宗教の姿勢です。だが仏教の根本姿勢は「神」を描かない。自己の依りどころは自己のみ、これだ。坐禅もむろん他に依止しない。自己ぎりの自己になることだ。」
  • 生活を考える一つの決定的態度~そして生かされている自分を深く認識する「それにしても今の日本人は、まったく生活に追われ、生活に苦しんでいると思う。生活、生活と、生活のことばかり考えていると思う。これに対して、われわれ宗教に生きる人間は、まず生活というものに決定的な態度を確立しておかなければいけない。生活に追い回され、振り回されているのは、ほんとうの宗教に生きる人間のやることではない。では、生活に対する決定的な態度とはなにか。それは一口に言うと「授かりものだ」という言葉に尽きます。だいたいわれわれがこの生理的肉体を保っていくうえに一番大切なものは何か。エコノミック・アニマルどもはすぐ「カネだ」という。しかし真実はそうではない。一番大切なものはまず空気です。空気がなければたちどころに死ぬ。次には水、あるいは光、温度、重力、気圧、それから食べ物がくる。カネなどはずうっとあとの何番目か何十番目にあげられるべきものだ。われわれ生きものは、なによりも大自然の恩恵の中に生かされているのです。これは「授かり」という以外にいいようがない。いくら貪っても、貯めても、空気が余計にあるわけではない。この俺がカネを出して貯えておればこそ気圧や重力があるというのでもない。もし適当な重力がなければ身体はふわふわと浮いて困るだろうし、適当な気圧がなければ身体が破裂するか押しつぶされてしまう。温度も、光も然りです。ここのところをまず心に刻みつけておかねばならないと思います。それから社会の恩ということです。(略)
    (学生が)「僕たちの世代の人間は、誰だって社会の恩なんて考えていやしませんよ」と付け足した。(略)
    私が教師の立場でその場にいたとしたら、ただちにいってやります。「面白い。社会の恩なんて全然感じないというなら、いますぐお前を素っ裸にして、なにももたせずに山の中に放り出してやる。そこで一人で生き抜いてみろ」と。(略)
    人類社会の恩というものは、そんな浅薄な表づらだけのものではない。早い話がわれわれの身体にまとう布一切れ、食べる飯一杯、住む畳一枚、どれ一つをとっても、長い年月と大変な手数をかけてこそ与えられた、人類社会のたまものです。一枚の布を作るために綿の木を栽培し、糸を紡ぎ、布を織る。そこまでくるのに、人類の歴史において、どれほど長い年月の奥行きがあったか、米や麦にしても然り。木材や鉄にしても然り。金を出して買えばいいというものではない。(略)
    人間社会において昔からの智慧や財産をただで使わせてもらっている有り難さ、またこれらをお互いに融通し合う有り難さだけは、決して忘れてはならないと思います。
    (略)
    自分一人だけで生きておられるものでは絶対ないのだ。
    (略)
    われわれがもし「自分のもの」が一つでもあると思うなら、それだけですでに盗人をしていることになる。ほんとうに俺のものというものは一つもありません。にもかかわらず俺のモノと思いこむのは盗人に他ならない。実際に他にむかって貪りの対象となるものは、あったにしてもたかが知れている。まず九十九パーセント、九分九厘九毛までは「授かり」です。だから全くの手放しでも、九分九厘までの授かりで結構生きていかれるのだ。」
  • 思想であってはならない仏法「「坐禅はアタマの思いをいっさい手放しにするというが、やはり正義とか、平和とか、愛とか、慈悲とか大切ではないか。こういうものを手放しにせずに、よくつかんでおいて坐禅すべきではないか」私はそれは、いけないと答えた。正義を考えるという。ところが正義という観念には中味がある。あなたはなにを正義と考えるか、私はこれを正義と考える、というように、私とあなたとの正義の中味に食い違いが出てきて、はてはお互いに正義の名のもとに殺し合いまでするようになる。現に近頃の世の中では「平和」という名のもとにゲバ棒をふるったり、戦争したりしている。思想というものは必ず見方に食い違いで生ずるのです。仏教ではこれを「見」という。「坐り」といい「証上の修」といっても、決して思想であってはならない。「仏見法見をも立てず」ということが大切です。たとえ仏さま、仏法でも、見として、思想として立てれば必ず食い違ってくる。キリスト教の歴史をみても、キリスト教徒が「愛」という言葉のもとにいかに多くの人々を殺してきたか。(略)
    だから「愛」ということでも、思想として捉えたらもう駄目です。慈悲ということでも同様。ぶっつづきの生命でも、それはどういうことかと考えたら話が食い違ってくる。あくまでもどこまでも、アタマ手放しの「行」でなければならない。思想であってはならない。尽大地、尽衆生、尽一切とは、そのことを示した言葉です。」


  • 正法眼蔵 山水経・古鏡を味わう / 柏樹社
  • 死後の葬式の無意味さは釈尊が既に言っていたことですが、内山興正禅師は見事に僧侶でありながらこのことを断言しています
    「私は師匠である澤木老師の葬式をしなかった。澤木老師は、葬式をするなと言われた。(略)
    だから私は、老師が亡くなってこの方、自慢じゃないがお経を読んだことがない。ただ私のところに、額にはまった老師の写真があるだけです。名前も、安泰寺時代に老師がご自分で書かれた表札をそのまま持ってきて額の横に置いてあるだけ。
    「澤木興道」だけで、戒名もない。私は寝る前にそこに坐り、備えたお膳をかたづけて三拝する。それだけです。要するに、天地いっぱいのものが天地いっぱいのところに帰って行くのだから、別に大袈裟にチンドンジャランと葬式をしてみたってしようがない。だから、死んでから後のことを心配しなくてもいいのだ。死ねば死んだで、どうせどうにかなる。」
  • 生を明きらめ死を明きらめる一つの法「どこかのお寺さんが「水子供養の寺」という広告を出しているが、このごろではまたそいういう生まれる以前に堕ろされる風潮を、金儲けの手段にする奴が流行している。要するに今も昔も、生まれる以前に堕ろされるというのが多いのです。だからわれわれも、これを自己の話として考えるべきだ。この自分も生まれる以前に堕ろされていたら・・というところからみる。これが大切です。みんな一人前の顔をして、偉そうなことを言ったりしているが、なあに、生まれる以前に堕ろされたってどうってことはないんだ。だからあらゆることは、俺が生まれる以前に堕ろされていたら・・・という地盤からみれば、万事解決する。借金作って追い回されて、もう死ぬより他にしようがないという。死ねばいい。生まれる前に堕ろされていれば、何も文句はないのだから。それによくある嫁さんと姑さんの戦いでも左様です。あらゆるもめごと、悩みも苦しみも、生まれる以前に堕ろされたというところから見渡すと何でもない。そこが修行のしどころです。」
  • 昭和の高度成長期にこれだけの洞察力「昔の教育勅語は、「天上無窮の皇運を扶翼すべし」という文句があった。(略)
    この天皇家の家運が天上無窮であるという概念を地盤として、忠孝の道というものが確然として存在し、天皇家に忠節であるということで、その直系の軍人や完了が威張り、さらに親に孝でなければならないということでオヤジが厳然と威張っていたし、学校の先生方も、教育勅語を奉じて教育しているというわけで、当然のように威張っていた。ところが、あの戦争に大敗して、大日本帝国が崩壊したことで、すべてがひっくり返ったしまった。天皇も神ではなくなり、軍人は戦争犯罪者となり、どうにか生き残った役人も、親や教師たちも威張れない世の中になってしまった。だいたい「天上無窮」などという概念が間違いのもとなのです。そういう存在は、あるわけがない。
    すべては無常なのだ。ところがこういう経験を経た現在でも、この天上無窮という概念だけは残っている。昔の天皇概念に替わって、「平和」とか「豊かな生活」とかいう概念がそれです。現在こういうお題目に異議を唱えるものは誰もいない。(略)
    今のお粗末な先生たちは喰うこと、より豊かに生活することが天上無窮だと思っているから、教師も生活のための労働者であると自分から言う始末だ。(略)」
    親たちも同じです。豊かな生活を天上無窮と思いこんでいるから、子どもには不自由をさせまいと、欲しがるものは何でも買い与える。そして高校、大学を出すまでは、
    無理をしても学費を出さねばならないと、子どもを鍵っ子にしてまで共稼ぎをする。そんなことだけが親のつとめだと思っている。これじゃ子どもがうまく育つはずはない。一歩間違うと親を殺しかねないのも当然でしょう。殴られる教師、殺される親、この二つは今の時代の象徴だと思う。」


  • 観音経・延命十句観音経を味わう / 柏樹社
  • 何よりも「人生の行き着くところ」を考えることが即ち人生ではありませんか「自分というものを「当座の生活理想」「当座の幸福」のなかに住まわせる代わりに、「自分の一生の畢竟帰処」「ゆきつく所へゆきついた人生」というものをハッキリさせておくということは、けっしてヨソゴトではないと思うのです。それにもかかわらず現代人は、商売に対する工夫、学問に対する研究、技術に対する研鑽、ないしさまざまな研究工夫のためには、何年も何十年も、あるいは一生をささげるまでやっていますが、自分の一生の畢竟帰処についてだけは、寸暇の時間もさくことを厭うのはどうしたことか。(略)
    まことに現代という時代が、外面的に華華しい文化を咲かせているようにみえながら、その実中味は、原始的野蛮時代から一歩も出ていない象徴的出来事のように思われます。」
  • そしてその「人生」を考えるのが宗教であります「宗教とは何よりもまず、この地上に現れては消えてゆく、無数の生命存在の流れのうちの単なる一個でしかない私が、その流れの中から「私自身」を取り上げて、いったい「わたしの一生の営みは何であったか」「何であるのか」「何であるべきか」と問い起こす、この問題にかかわるものではないかと思われます。」
  • 「真の苦悩」と「金不足」の区別をまずつけること「もしここにお金が沢山あれば片付くような苦悩は、じつは「真の苦悩」というべきではなく、たんに「金不足」と呼ぶべきです。そして真に人生にとっての苦悩とは、たとえどんなにお金があっても「金では解決できぬ苦悩」をいうのでなければなりません。」
  • これも「自分様」の別形態かもしれません「先日も、ナヤミに耐えかねて自殺未遂をいままでに何遍やったとか言う人がやってきました。この人の話をきいてたら、一から十まで自分自身のナヤミのことばかり言っていて少しも人の立場を考えたり、人の立場から自分自身を見直してみる気持ちがないのだという特徴をわたしは発見しました。よくもまあ、こう恥ずかしくもなく自分、自分と自分のナヤミばかりを中心に、すべてをみていられるものだと感心しました。こうも自分、自分といっているのだから、その自分一人くらい何とかしてもよさそうなものですが、実はこう自分、自分とそのナヤミをいとしめばいとしむほど、なおその苦悩は増長し、ますます深く自分自身をもてあまし、愚図ることになってしまうのだから妙なものです。」
  • 本当に「食えない」人はかなり少ないと思います「「わたしの今の収入ではとうてい食えません」と絶望したような顔してやってきた人がありました。「そりゃお気の毒ですね。まあたっぷり食ってください」と玄米の雑炊を作ってすすめたら、妙な顔をして「いや食えないって腹が減っているという意味ではないのです」といいます。「だって食えなければ腹が減っているでしょう」と押し問答の末、だんだん聞いてみたら、何のことはない、その人の家族はお母さん奥さんとの三人暮らしだが、わたしたち寺の生活より二倍以上の収入があり、べつに生理的には腹の減ることはないが、体面や虚栄心がまかなえないというのです。・・・それじゃ「食えない」なんてへんな言葉の評価を自分におしつけ、自分をノッピキナラヌモノにする必要はないじゃありませんか。わたしはその愚かさに対して演説しました。「ごらんなさい。私たち寺の生活も三人で、しかもあなたの半分以下の費用で事実食っていてナントモナイ」と。たしかに人間の構造上、ただ「自分している自分」という正体の他に、世間相場というものをたて、それに浮き身をやつし怒ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりしている私がいることは事実です。しかしそんな大騒ぎをしているわたしを「自己の正体」と思いこむことこそが無明惑というものです。わたしの正体とは三界唯一心・・・そうしたあらゆる世間相場に対してナントモナイところで、ただ「自分している自分」がそれであることは知っておく必要があります。しかもこのただ自分している自己の正体は、世間相場に対してナントモナイばかりでなく、わたしがわたしにむかってする評価に対してすらもナントモナイのだから愉快です」
  • 経文に対する二種類の誤解「(観音経をばからしいという人に対して)なるほどその人に「火」という言葉の中に「物質を焼く火」以上の意味を読み取る能力がなかったとしたら、たしかにわたしがお経の読誦をおすすめしたことは無理でした。(略)
    (火事場で観音経を読誦したら風向きが変わって自分の家でなく向こうの家が焼けて助かった、アリガタイ、という話に対して)「テメエ達の家なんか勝手に焼けやがれ。オレの家だけは助かった。有り難い!」という「信仰実話」なのですから。とにかく
    観音経にでてくる火を「物質を焼く火」以上の意味にとることができないとしたら「バカらしい」といっても「アリガタイ」といってもまったく見当外れすぎることは事実です。」
  • 私の読経の心がここにあります「日々我々のやっていることが、いかなることなのか・・・その容積に拘らず、その組織にかかわらず、またその利口そうな技術にかかわらず、ただ世をあげて三毒の営みに狂奔し、それにひきずりまわされているのでしかないことを見抜くためにも、わたしたちそれこそ一日一度くらいは心静かに「経を読む」習慣を持ちたいものです。」
  • 欲望の充足だけが結局の目的「神仏を信心しているつもりか知らないが、家内安全、身体健全、商売繁盛といっている・・・その限りその拝みさげている心のマトは神さま仏さまではなく、家内安全、身体健全、商売繁盛でしかないといわねばなりません。多くの信心していると思っている人たちも、神仏にそのご利益をカケトリにゆくので、残念ながらもはや「神仏におがみさげる」のでなく、自分の欲望に拝み奉げることになってしまうのです。これにくらべて静寂の禅寺に一日中、ただ黙々として坐禅修行している・・・はなはだ家内安全、商売繁盛より超俗的に見えますが、これも「サトリがほしい」ためにそうしているなら、なんのことはない「サトリがほしい」という欲望他のためにおがみささげているのであって、「サトリ」そのものとはかかわりはありません。(略)
    「わたしなんかは無宗教でしてね。なんにもおがまずなんにもささげないことにしています」・・・結構です。ご立派です。しかしあなたは何を尊しとし、何にあなたの生きている時間を奉げていらっしゃいますか。・・・そう。今はやはり「自由」ですね。ご自分の自由、ご自分の幸福のために、あなたの一生の時間を奉げていらっしゃる。・・・はなはだご立派です。ただしおそらく動物に言葉がありとすれば(略)そういうに違いない。(略)なにが真の自由であり、何が真の幸福なのだか、あなたはよくお考えになっておられるでしょうか。」
  • 「自分」の存在は「自力」では全くないことを自覚する重要性
    「お釈迦様はまず「自分というものをはじめに考えてみろ」とおっしゃいます。・・・だれでも母親の胎内から生まれてきているわけだが、そのだれでもが母親の胎内に自覚的意思を持ってはいり込んだものはないじゃないかとおっしゃるのです。つまり自分というものの、そもそものはじめは「ナントナクわからぬままま」(『無明』)で、ある母の胎内に飛び込んでしまった(『行』)のです。(略)(『識』)そしていまだ肉体と言うほどでないまでも一応自分というものの形が母体のなかで形成し(『名色』)それがだんだんいろいろな機能まで備わってきて、ついに出生してしまう(『六処』)。ところがさあ大変。出生と言うことは、この世に顔を出すことですが、このときまでにもはや男女の性別も出来ており、親からの遺伝までもちゃんと決定しています。しかもこの世に顔を出した途端には、ときには皇太子であったとか、不義の子であったとか、日本人であったとか、ユダヤ人であったとか、癩(らい)患者の子であったとか、先天性小児麻痺であったとか、・・・じつにその人の一生を左右するような大問題まで簡単に、しかし決定的に背負わされていることがよくあります。・・ずいぶんバカにしていやがると思っても仕方がない。(略)
    普通の家庭、普通の人間として生まれた場合・・・いかにも成長以降は、自分というものの自覚的意思を持って「みずからの生き方」を自由に選択することが許されているかのごとくにおもわれます。けれど
    成長以後、はたしてわたしたちは完全に「他からの制約なき自分の意志」をもつことができるかどうか・・・。これは十分考え直してみるべきです。というのはわれわれこの世への出生において、同時に既にうまれた境遇、育つ環境、うける教育、時代の風潮、社会の情勢、その土地の風土、食物などという・・・いわばわれわれが出生以後に触れるあらゆる条件(『触』)というものがほとんど決定的となり、したがってそのなかで経験する生活体験(『受』)もまた決定されてしまっていて、「それらの条件から全く独立した自己」などというものが一体どれほど残される余地があるか・・・これははなはだ疑問とせねばなりませんから。(略)
    とにかくわたしたち他からの制約や強制にしばられて自由を失っているときは、自らが自由を失っているとも分からぬほど他からの強制によって「考えさせられている」ことがしばしばです。・・・ただその一事のためにそれから以後は、まったくオートメーション的ベルトにのせられたまま、結構現在の自分というものにまで至っているのではないこということは、我が身に当てはめて十分考えてみておきたいところです。なるほど私自身としてはいままでの生活体験の中にあって、結構一人前のつもりでいろいろと価値判断し(『愛』)、みずからの生きる道をえらびつつ(『取』)、今日の自分を築いてきた(『有』)つもりでおります。しかしその価値判断、取捨選択するアタマそれぐるみが、じつは過去の遺伝的天賦や性格、教育的吹き込みや境遇環境などの「寄せ集め」であるとすれば、やはり
    結局は、そのはじめの「無明、行」の一事が、すべてのすべてにおいて決定的であるようです。しかもここまでおもいいたれば、これからさきのわたしの生涯もしれているでしょう。やはり「無明、行」の続きで生き(『生』)、またそのつづきで老い死んでゆく(『老死』)だろうという・・・そのことです。お釈迦さまは以上の「無明、行、色、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」という十二因縁の形式で、つぎのことをお教えになりました。つまりわれわれが普段自分、自分といっているところのものが、けっして「自分」という梅干しの種みたいにかちんとしてあるものではなく、じつば
    (一)諸処の条件がよせあつめられてつくられたものでしかないということ(縁起生)
    (二)しかもそのゆうおうによせあつめてつくる主体となるものは、単に「わからぬまま、ウゴイタ」という・・・ただこの一事に始まるものであるということ(無明行)。
    (三)したがってこのままでは、私の一生というものは、すべてこの無明の繋がり的出来事でしかないということ。(流転輪廻)
    この十二因縁の教えは、四聖諦とならんでお釈迦さまの根本教説なのですが、まことにおもえばおもうほど宗教内省としてふかい意味を持っているものです。このことは学問的知識ではありません。おそらく人間が生命をつくりだす程に学問がすすまない限り、このことの学問的立証は出来ないのではないでしょうか。」
  • コントロールをしているつもりが人生・世を無方向にかき回しているのが真実「ダルマ大師は決してこの偶然の中に、自己の生命を托してあがくようなことはなさいませんでした。たしかにダルマ大師の生きる方向は、衆生に法を伝え、迷情を救うということではありましたが、それが実際にどれ程の成果をあげるかと言うことは、まった『偶然に属すること』であって、大師はそんな偶然を、相手にもアテにも決してなさいませんでしたから。(略)
    それに反し英雄達は・・・いや英雄に限らず、今日その辺のどこにでもころがっているボス達は、こんな尽十方界自己のなかに遊ぶところか、躍起となって、目の前の相手を押しのけ突き倒し、
    小さい自己の名誉や地位や金のためにあがきながら、畢竟は無方向に、世の中をひっかきまわしています。」
  • 私の読経の心がここにあります「十句観音経は、中国の六朝時代から随時代にかけて、涅槃宗という涅槃経を所依とした宗派があり、この涅槃宗でつくられた偽経だと言われています。しかし、その中身としてはなかなか偽経どころではない。大乗の修行の極意を圧縮して言っており、すばらしいものです。何もお経はインドで作られたからホンモノで、支那で作られたからウソものというものではない。日本で作られたって、ホンモノと言うこともあってもいいわけです。要は仏法の中身がいかに説かれてあるかということにあるわけですが、その点から言えば、この十句観音経は短いけれど本当によく大乗の修行の極意が説いてあります。」
  • 無宗教は「人間の恥」と思います「いまの日本人達は、じつはいつの瞬間、そのようなことに出会わなければならないのかさえも知らず、得意になって「私は無宗教です」などと胸を張って生きている馬鹿が多すぎる。かわいそうなものだ。無宗教ということ、いまの日本人は知的なことぐらいに思っているけれど、これほど馬鹿なことはない。そんな「私は無宗教だ」と得意になって言っている人が、いま「あなたは癌だ。あと何ヶ月のいのちだ」などと宣告された場合、いったいどこへ自分の心を置いたらいいのか・・・もはやどうしようもない。」

2006年9月17日日曜日

【歎仏偈】

この「歎仏偈」と呼ばれる一節は、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』という経文の如来真実義功徳章からとったものです。如来を讃え、それへの帰依を誓うという内容です。


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如来妙色身 世間無與等
無比不思議 是故今敬礼
如来色無尽 知恵亦復然
一切法常住 是故我帰依

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これも浄土宗CDからのヒヤリングでしたが、メジャーな経文をほとんど終えてきただけに、経文の意味や由来等の資料を探すのが段々と難しくなってきました。この「勝鬘経」からの一節といわれる歎仏偈も、浄土宗以外では果してどの宗派で読誦する可能性があるのかは、最後まで分からずじまいでした。仏を讃えて、帰依を誓うという流れには違いありません。(2006/09/17)




2006年9月11日月曜日

【円頓章】

天台宗が説く教えの究極と言われる「摩訶止観」をこの短い経文の中に織り込んだ、般若心経的な濃密さと深遠さを感じるのが、この円頓章です。
円頓(えんどん)とは、円満頓足の略で、『現身に持っている心に、すべての功徳を円満にかたよらず、欠けることなく具えているとさとって、たちどころに成仏する』ことをいうそうです(「一隅を照らす運動」ホームページより)。
なお、基本は天台宗宗祖の天台大師の「摩訶止観」の要旨ですが、最後の六句は中国天台宗六祖の荊溪大師湛然が『摩訶止観輔行伝弘決』において天台大師説の
一念三千を解説したものです。

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円頓者。
初縁実相。造境即中。無不真実。繋縁法界。一念法界。一色一香。

無非中道。己界及仏界。衆生界亦然。陰入皆如。
無苦可捨。無明塵労。即是菩提。
無集可断。辺邪皆中正。
無道可修。生死即涅槃。
無滅可証。
無苦無集。故無世間。無道無滅。故無出世間。

純一実相。実相外。更無別法。
法性寂然名止。寂而常照名観。雖言初後。無二無別。

是名円頓止観。

 当知身土 一念三千 故成道時 称此本理 一身一念 遍於法界

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摩訶止観です。色々読んでも、よくわからない、しかし究極と言われる摩訶止観です。これや「唯識」といったものが奈良・平安仏教のわかりにくさの象徴です。翻訳にも今だ出会えず、とりあえずの丸暗記となりました。よって、そんなに長さがないのに、非常に記憶するのに時間がかかりました。ウェブログにも書いたように、最近の自分の中の仏法スランプに重なっていることもあり、聞いても聞いても覚えられないというかなり辛い「学び」を経験しました。(2006/09/11)




2006年8月16日水曜日

【念仏法語(横川法語)】

恵心僧都源信は、日本における念仏仏教の初期の高僧として知られ、浄土真宗の七高僧の一人にも数えられていることから、浄土教(浄土宗・浄土真宗)で馴染みが深いようですが、実はれっきとした天台宗の僧であり、天台宗では今も念仏法語として、源信の有名な「横川法語」を読誦しているのです。

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恵心僧都念仏法語に宣わく。
それ一切衆生、三悪道をのがれて人間に生るること、おほいなるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや。家まづしくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもふことかなはずとも地獄の苦しみにはくらぶべからず。
世の住み憂きはいとふたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは菩提を願うしるべなり。
このゆゑに人間に生るることをよろこぶべし。

信心あさくとも本願ふかきがゆゑに、たのめばかならず往生す。
念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる功徳莫大なり。
このゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。

また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別の心もなきなり。
臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、
来迎にあづかりて、蓮台に乗るときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにして、決定往生疑いあるべからず。

妄念をいとわずして信心のあさきをなげき、こころを深くして常に名号を唱うべし。

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全く現代語訳・意訳が入手できない中での暗記となりましたが、この念仏法語は内容が分かりやすいのが特徴です。しかも、平安仏教時代のものだからなのか、念仏宗初期のものだからなのか、浄土宗開祖法然房源空の「一枚起請文」などに比べると、実に単純な論理構成だし、所謂深い話がないのです。比較でものを語る語り口も、甘いと言えば甘く、宗教たるパラドックスなどは全く見られません。といいつつも、「妄念」というキーワードは他にあまり見かけないだけに、新たな視点を提供してくれた一つの経文であります。(2006/08/16)


2006年8月14日月曜日

山田無文 ~共感した名文・名文句~

妙心寺派の歴代管長でも、かなり有名な部類に入るのがこの方。無文さんと親しまれたというが、かなりの厳格さが文章からにじみ出ています。道徳という言葉をしばしば口にすることが、ひろさちや氏の「仏教は道徳ではない」という説を信奉する自分には違和感があるのですが、その他の基本的な仏道の心得はしっかり心に届きます。「遺教経」「無門関」といった解説本の少ない仏典を講釈していることでも貴重です。

  • 死にともない しんじん文庫第二集/春秋社
  • 苦境に思い出すべきこの名言「(最もありがたいものは何かという問いに)「独坐大雄峰」。わしがいま一人ここに坐っておる。このことが一番ありがたい。百丈禅師は、そう答えられたと申すのであります。わたくしは、このくらい自信のある言葉、このくらい人間を尊重した言葉はないと思うのであります。(略)
    いま現に生きてそこに坐っていらっしゃることが、一番ありがたい。まちがいないことだと思うのであります。財産のあることも結構ですが、それは自分が生きておるから必要なのです。きれいな服のあることも、りっぱな家屋敷のあることも結構ですが、それはみなさんが生きているから必要なのです。身分も地位も大切でしょうが、それはみな、生きておるためのアクセサリーではありますまいか。
    いまそこに、生きて坐っていらっしゃるというこの事実が、みなさんにとって、一番尊いことであります。」
  • 目の前のものを拝める人になることが仏への道「明恵上人と申しあげるお方は、道を歩いておられて、何かを見つけられると、じっと立ち止まって手を合わせられ、そのうちにぼろぼろと涙を流されました。お弟子が不思議に思って「お上人はなにを見てござるか、何を泣いてござるか」とおたずねしたら、「ほら、そこに可愛い花が咲いておるじゃろう。その可愛い花を、いったいだれが咲かせたのじゃ。その美しい姿を、だれがこしらえたのじゃ。どうしてここに咲いておるのじゃ。この一茎草の花、不可説、不可思議、不可商量じゃ。人間の知恵では説明できんぞ。人間の力ではこしらえられんぞ。これがこのまま仏の姿じゃないか。もったいないじゃないか。」と野辺の菫の花を見て、涙をこぼして拝まれたということであります。そういう直観が開けますならば、「一色一香、中道にあらざるなし」何を見ても、何を聞いても、みな尊く、ありがたくてしかたがないということになります。死んでからのお浄土じゃない。今日ただ今がお浄土であり、死んでから成仏するのではない、今日ただ今、仏にしていただくのであります。」
  • これが宗教の発想であり、今日の大多数が忘れている根本的真理でしょう「今日、「自我を尊重せよ」とか「個性を尊重せよ」ということがよくいわれますが、わたくしは、自我は尊重しなければならないかも知れませんが、けっして尊厳ではないと思います。自我は未完成な、恥ずかしいものだと思うのであります。個性も尊重しなければなりませんが、そんなに権威のあるものだとは思います。それはわずかな経験と知識と出積み上げたものであって、ひとりびとり違うものであります。ひとりびとりが違うようなものは、普遍的真理ではないと思うのであります。自我の奥に、個性のもう一つ奥に、自我を越え、個性を越えた、人間だれでもそうなくてはならない、普遍的な人間性というものがなくてはならんと思うのであります。」
  • 「本来無一物」を納得して生きている人が如何に社会(特に会社世界)に少ないか「一体この世の中に、自分のものだと主張できる何ものがありましょう。(略)
    自分の身体が本当に自分のものなら、髪が白くなったのを黒くできなければなりませんし、皺も伸ばさなければなりません。何一つとして、自分がそれに対して力を持たないところを見ますと、自分のものだなどといえるものはこの世の中に何もない、自分の生命さえ自分の自由にならないのです。本来無一物、お母さんのお腹に宿ったときは顕微鏡で見なければ分からないような単細胞であったのに、それが今日、六尺のおとなになって生きておられるのは、
    まったく生きておるのではなくて、生かされておるのだと、こう徹することが、わたくしは宗教というものの大切な入口ではないかと思うのであります。」
  • この言葉は、なぜ私がわが子の誕生に合わせるかのように仏道に帰依したかを明解に説明しておられます「赤子の心とはどんなこころでしょうか。人間が生れたままの心は、みな純粋で美しい、けがれのない心であったと思います。(略)
    生れたばかりの赤子の時は、人間はみな神さまのような清らかな心だったと、そうわかることが、わたくしは宗教というものだと思うのであります。(略)
    自分と他人の区別がないという真実の愛情は、親子の間で最もハッキリと自覚することができるものでございます。そういう愛情が人間の純粋なものだとわからなければならぬと思うのでございます。今日の忙しい世の中には、この大事なものがどこかに置き忘れられておるようであります。そういう基本的な人間そのものを教育することが今日大切じゃないかと思うのでございます。(略)純粋な親子の愛情が分かってこそ、自分と他人の区別のない心が広く社会に広められて、ほんとうに大衆を愛する、りっぱな社会的な人格が形成されるのだと思うのであります。そう7いう純粋な生れたままの人間性が分かることが、最も大切なことでありますが、それは教育以前の問題で、すなわち宗教の問題であって、今日、日本人に最も欠けておるもの、もっとも欲しいものは、宗教心ではないかと思うのであります。(略)
    戦後の日本には、社会もなければ国家もない、人間尊重ということが、自分さえよければよいという利己主義に受け取られておるのじゃないかと思うのであります。これで良いものでしょうか。仏教本来の考え方は、自己を全く忘却して、ひたすら大衆を愛するところにあります。これを菩提心と申します。菩提心とは「自未得度先度他なり」と示されております。」



  • 心に花を しんじん文庫第一集/春秋社

    ~昭和30年代後半(1960年代前半)の日本の世相がこれであります~
  • 無宗教が心の荒廃を招いていることが明確であったのはもう50年も昔からだったのです「このごろ阪神間で家裁に提訴される事件は、老人から「子供たちにもう少し小遣いを増やすように話してくれ」という問題が一番多いそうである。さびしい世相ではあるまいか。(略)
    そういう老人に「あなた方は何か宗教をお持ちですか」とたずねると、ほとんどが無宗教だということである。(略)
    (趣味はと)たずねると、これまた九分九厘「趣味もありませんのや」と応えられるそうである。
    宗教的情緒も芸術的素養もなく、ただ金だけで子どもをそだて、金だけで生きてきた人たちが、ついに金で困るのだ、と申しては残酷であろうか。宗教や趣味をもつ余裕さえない、社会の底辺のような環境が、いまもあることを考えねばならぬであろう。「我が親は大事にするが、よその親はどうでもいい、我が子はかわいがるが、よその子どもはどうなってもかまわない」という偏狭な家族主義は誠に困るが、だからといって、家族的な温かい愛情が、今の社会にはいらない、ということにはならないであろう。」
  • だれも正しくない、が宗教への道「一億国民がみんなそれぞれ違った意見を持っておる。そして自分だけが正しいと思っておる。そしてそれを通そうと我を張っておる。世の中が平和にゆくはずがなかろうではないか。正しい意見というものが一億もあるはずはない。とすれば、一体誰の意見が一番正しいであろう。不完全な人間たちの考えることだ。誰の意見も正しくない、とわかることが一番正しいのではなかろうか。」
  • 何かが歪んでいる「”人間を尊重せよ、個人の自由と権利を守れ”と教えられると、自分という人間だけを尊重して、他人という人間はすこしも尊重しようとしない。自分の権利と自由だけをしっかり守って、他人の権利と自由には、全く無関心である。どこかが狂っておる。どこかがゆがんでいる。何かがたりない。」



  • 手をあわせる しんじん文庫第三集/春秋社
  • 大いなる存在に深く感謝をする気持ちを胸にすることが、宗教心の第一歩(著者が結核で悩んでいるとき)
    「そうだ!空気というものがあったんだ!空気があったんだ」と気がつくと同時にとめどもなく涙がにじんでくるのをどうすることもできませんでした。(略)
    人はけっして自分一人で生きているのではない。大きな力に生かされておるのである。身分のある人もないひとも、学問のある人もない人も、働く人も働かない人も、男も女も、人は誰でも
    決して自分一人で生きているのではない。大きな力に、たくさんの人々の情けに、あるいはおびただしい犠牲に生かされておるのである。(略)
    大切な空気に、生まれ落ちるから今日まで、夜となく昼となく、やすみなく抱かれておったのです。働いているときも遊んでいるときも、寝ているときも、こちらは空気などと思ったこともないのに、空気の方はわたくしを忘れずに、しっくりと抱きしめていてくれたのです。」
  • 食事に感謝する気持ちを育てる禅僧の生活「刑務所の献立が出ておりますが、あれをみてわたくし「なんと刑務所というところは、ごちそうを食べるところだなあ」と思って感心したことがあります。ご飯や汁は十分だし、一周に何度か魚があったり、ときには肉飯があったりするようです。そう考えますと、僧堂の食べ物は人間の社会でおそらく最低の食べ物であります。しかもその最低の食べ物を食べておる雲水が、一番手を合わせて感謝をしているのです。これは実に不思議な現象だと思います。手を合わせていただくから、そういう粗末な食べ物でもありがたく戴かれ、また滋養にもなるのでありましょうか。雲水たちは、元気溌剌としております。
  • 現代日本人の宗教の発想が無文師のいう「きわめて原始的」なレベルであることは間違いありません。そしてそれが人間の退廃と宗教を儀式や慣習でしか捉えられない低い精神構造の元凶となっています。「米といってはいけない、お米といえ、水といってはいけない、お水といえ、茶といってはいけない、お茶といえ、茶碗といってはいけない、お茶碗といえ、箸といってはいけない、お箸といえ、すべてのものに敬語をつけて、尊敬して呼ぶことが仏法の教えであり、日本民族の永いならわしであります。しかしそれは、どんなものにも人間のような魂があるから、それで尊敬するというわけではけっしてありません。こちらの感謝の心が、そうせずにはおられぬからそうするのであります。(略)
    粗末にして、もし祟るといけないから、注連縄を張ったり、油揚げをあげたりして祭るというのとは全く意味が違うのであります。そういう、
    すべてものに霊があると見て拝んでゆくのは、きわめて原始的な宗教であります。すべてものに霊があるから拝むのではない。これを拝まないとたたるから拝むのでもない。これを祭るとご利益があるから拝むのでももちろんない。自分が生かされておることを思うとき、手を合わさずにはおられないから、そうするのであります。拝まずにはおられないから、そうするのであります。
  • 仏道の心の根本は親心「すべてを生かしてゆこうというやさしい親心を、仏心と申します。わたくしたちはすべてに対して感謝の心を持つと共に、この大きな仏心を起こしてすべてを愛さねばなりません。むかしから、「子を持って知る親の恩」という言葉もありますが、すべてを生かしてゆこうという、やさしい親心を起こしてみると、すべてのものの生命の尊さがしみじみとわかってきます。そして自らが育てられ生かされておることを、あらためて感謝せずにはおられなくなります。
  • キリスト教の祈りの感覚と仏道の相違点「わたくしがキリスト教に、限りなく愛着を感じながら、どうしてもついていけなかったのは、「いのり」であった。わたくしにはいのりの言葉がどうしても出ないのである。出せばすべてが偽りの言葉となり、浅薄な感傷にすぎなくなってしまうのである。(略)
    キリストも、偽善者のように、群衆の前で声を上げて祈るなといわれたはずである。密室の中で、神とただ二人のところでいのれ、と示されたはずである。それならもう、
    いのる言葉さえ不要のように思われる。神はすべてを知りたもうからである。わたくしは坐禅をするようになってから、坐禅こそ信のいのりであると思うようになった。絶対者の前に正しく自己を坐らせること、そして自己を全く忘却すること、そして一念の念もきざさない無心の状態にはいること、すなわち絶対者の中に自己の心身をささげつくすこと、そして絶対者と自己を全く冥合すること、ああ、これ以上のいのりがあろうか。
  • (河口慧海老師のテキストの言葉)・・まさにこの考え方が人生を前向きに歩む発想転換です「この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由に何処へでも跣足で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴を履けば、世界中を皮で覆ったと同じことである。この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを奉げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったに等しい


  • わたしは誰か しんじん文庫第四集/春秋社
  • 人生の一大事は社会生活を営むだけのことではないでしょう「お釈迦様がこの世にお出ましになった目的は、一大事、人生の最も大事な問題をひっさげて、この世の中へお出ましになったのである。
    それは皆さんに仏と少しも違わん智慧の目を開かしめ、仏と少しも違わん智慧を示し、仏と少しも違わん智慧を悟らせ、仏と同じ智慧の日暮らしをして頂くために、お釈迦様はこの世へお出ましになったのである。それが、お釈迦様がこの世へお出ましになった、たった一つの目的であると示されるのであります。すわ一大事などと皆さんもよくおっしゃるが、
    この世の中で、一体何が一大事でありましょう。お互いの心の名kに仏と少しも違わん立派な心のあることを教えて頂くこと、それを悟らせて頂くこと、そういう日暮らしをさして頂くこと、これが一大事でなくて何が一大事でありましょう。銭を儲けたり、うまいものを食べたり、立派な屋敷に暮らしたり、身分が出来たり、享楽にふけったり、そういうことは人生の一大事ではありません。それは人生の道草であります。そういう道草を食って一生を終わってしまっては無駄でありませんか。人生の一大事は、一人一人が仏にして頂く、生まれたでもない死ぬでもない、迷いでもない悟りでもない、完成された人格を悟らせて頂く、それが一番大事なことではありませんか。」
  • 日本仏教の二つの到達点「禅と浄土門とは、全く立場が逆のようでありますが、学問を十分しつくして学問を捨てていくところに、禅があり浄土門があると思います。」
  • 一切衆生悉有仏性を知る「(東条内閣の軍務局長佐藤氏がA級戦犯として巣鴨の拘留所へ入った行く末)
    そこでしみじみ考えられたことは、(略)結局、人間はこの世へ何しに生まれてきたのであろうか。人生の目的は何かと考えさせられた。(略)そして結論として、人間がこの世へ生まれたのは、自己を完成するためだったと気づかされた。(略)
    人間は人間として立派な人間になるだけが目的である。名誉だの、財産だのは、人生のアクセサリーに過ぎない。人生の目的は自己の人格を完成すること、それ以外に目的はない。そう気が付いたらアメリカに食わしてもらうのも結構だ。毎日じっと坐って坐禅をし、お経を読み、時には写経をし、哲学宗教の本も読み、少しでも自己を完成させればいいと、こう気が付いたので、このごろは拘留所の中が実に愉快で楽しい。何も不自由はない、ごらんのように良く肥っておりますと、元気に話されたことでした。まことに人生の一大事は、人間として完成されることだと申して間違いないことでありましょう。しかも
    完成されるとはこれから完成するのではなくて、生まれたときから完成されておったと、わからして頂くことであります。」
  • 仏教の受戒とは、当然、死んで戒名を貰うことではありません「めいめいが自分の心の中に生まれたときから頂いて居る者を明確に悟らせて頂くことが、お受戒でなければなりません。人を殺してはいかんのではない、虫一匹でもよう殺しませんというこころをわからしてもらうことであります。(略)
    男女の交わりは綺麗でなければいかんではない、
    真実の愛情が分かれば綺麗な夫婦関係にならざるを得んということであります。そういう心を分からして頂くことが、お受戒でなければなりません。」
  • 賓主互換こそが平等「どうですか、人間は平等だ、同じことだといいますが、ここまで徹底できますかね。あなたの仏性も私の仏性も同じことだから、おまえさんと私と入れ替わったって同じことだという塩梅です。(略)人間が本当に平等だと分かったら、そこまでいかなければならん。(略)
    このごろはよく、一日市長だの、一日駅長だのといって名士や映画俳優などを連れてきてやらせることが流行りますが、そんな女優や名士を連れてきて一日市長にさせるよりは、
    そこらの不平不満を言う分子を一日市長にしてみたらどうでしょう。市長というものが、どんな気持ちでおったらやれるものか、どんなにいそがしいものかよく分かるでしょう。」
  • 自分のことを知らないからすぐに安易な見当違いの自分探しをしたがる現代人「英国の歴史学者のトインビーという人が「現代人は何でも知っておるが、自分のことだけは知らない」と言われたそうですが、確かにそういうところがあります。(略)
    自分というものが、どうしたらいいのか、どっちへ向いていったらいいのか、何をしに生れてきたのかさえさっぱりわからんというのです。(略)
    だから簡単に人を殺してしまう、簡単に自分も死んでしまう、死ぬほど楽なことはありませんが、それでは本当の解決ではないと思います。そこで真
    実の自己とは何かと見極めておくことが、現代人にとって最も大切なことだと申さねばなりません。そういうことをはっきりわからしていただくものが仏法だとしますと、今日、仏法ほど求められねばならぬものはないと思います。」
  • 人生は進歩をしなければならないが安らぐ家も同時に必要という金言「永遠なる途中にあって日々「家舎を離れず」。毎日が前向きで、まだ足らぬまだ足らぬと進歩しながら、毎日がこのままで結構でございます、おかげさまでと、感謝と安心の境地が開ければならんと思います。」
  • 臨済の注意した悟りとは「外界の一切を否定して、お山の大将俺一人と悟りますことは、一応誰にもできますが、自己の内側の愛欲と執着を断ち切ることは容易なことではありません。煩悩を全く断ち切れではございません。煩悩に使われるなということであります。煩悩を使っていく堅実な自主性を自覚せよ、ということであります。」
  • 仏道を学んでいてこれだけは忘れてはならないことであります「学問だけでは、われわれは救われません。それはたとえて言えば、薬の効能書であり、栄養学でありまして、私どもは万巻の栄養書よりも、事実自分たちの口に入る一斤のパンの方が必要なのであります。それを身近に自分のものにし、直接、生活のなかに味わっていくところに、真実の意味の宗教がなければならんと思うのであります。」
  • 儒教のように子が親を拝むだけでなく、親が子どもを拝むのが仏道であります「子どもに親を拝めということは当然ですが、親に子どもを拝んでいけと教えられているのです。これほど人間尊重の言葉はないと思うのであります。なんで子どもを拝まんならん、わしがこしらえてやったじゃないか、という考え方に間違いがあると思うのであります。子どもはたとい赤ん坊でも、立派な対等の人格を備えておるものとして、尊重していかなければなりません。しかも自分たちが作ろうとおもって出来るものではない。子どもには子どもの歴史があります。子どもには子どもの過去があります。親は音楽など嫌いなのに、音楽の上手な子どもが生れたり、親は絵など描いたことがないのに絵の上手な子どもが生れたりということは、親と別な過去を持っておるからだと思います。仏教の古い言葉ですが、二元には全盛というものがあるということを考えますと、前世は、どこのどちらさまか知りませんが、よく私どものような貧しい家へ生れてくださいました。ありがとう。良く私のようなつまらん男の子どもに生れてくださいました。あなたがうまれてくださったおかけで私どもが親になれましたと、子どもに感謝せねばならんと思います。純真な子どもに親がどれだけ教えられることがありましょう。生まれたての子どもをそのまま仏として拝んでいける、そういう人格尊重の教育がなされますならば、必ず立派な子どもさんが育つと思うのです。」


  • 中道をいく しんじん文庫第六集/春秋社
  • 大の大人が自覚しない現代の謝った教育の落とし穴「自分の人生は自ら切り開いていけ」「他人に迷惑をかけるな」こういう人生観は一応社会人として立派なことのようですが、実は非常に偏頗な個人主義で、これが一歩間違いますと、きわめてせまい利己主義になってしまいます。(略)
    「自分の人生は自ら切り開いていけ」などといってみたところで、事実、人生が自分一人で切り開いていけるものでしょうか。親や先生や、先輩、友人、そして社会の皆さんのおかげではありませんか。なぜ、社会の皆さんに感謝する人間になれ」と教えられないのでしょうか。「他人に迷惑をかけるような人間になるな」といってみたところで、お互い凡夫のことですから、つねに失敗して人様に迷惑をかけることばかりです。ですから、
    「人に迷惑をおかけするが、そのかわり人の迷惑も喜んで引き受けるような人間になれ」となぜ希望されないのでしょうか。」
  • 貴賤の衆生に蔓延した拝金主義が家庭崩壊となり現代の有様になったのです「家庭を捨ててまで働きに出るお母さんたちが、明日食べる米を買うお金のないような人もないとはいいませんが、多くは自分の自由に使える金が欲しいのです。(略)
    パートタイムで奥さん方が働きに出られると、時間の都合で、ご主人が帰ってこられてもすれ違うことがある。夫婦も親子も、ゆっくりと話し合う時間がない。この
    行き過ぎた物質文明のために、健康がおかされ、家庭がこわされ、そして精神までもがおかされているのであります。」
  • 昭和40年代に既に利己主義の増幅が懸念されていた若者が今退職を迎える「団塊の世代」です「自由主義の国には一応キリスト教的教育があり、共産圏の国には社会主義的ヒューマニズムがありますのに、今日の日本の教育には、そういう精神的指導内容というものが何もないのであります。『人間を尊重せよ』『個人を尊重せよ』『自我を自覚せよ』という、いわゆる民主主義的教育は行われてはおりますが、その、人間は何をなすべきか、自我の内容は何かという、もっとも大切な問題がすこしも示されていない。きわめてせまい個人主義者、利己主義者ばかりが、今日の若い世代には多いのではないかと思うのであります。」
  • 現代人のあまりに空しい一生「(現代人は)人間を尊重せよ、個人を尊重せよ、自我を自覚せよといわれると、人間を尊重せよとは私を大切にすることだ、個人を尊重せよというと、自分が何をしてもいいことだ、自我を自覚せよといわれると、自分の幸福を自分がしっかり掴むことだと受け取られているようであります。しかし、そういう自分のためだけの狭い意味の個人主義、利己主義的人生観には意味も価値もないと思う。なぜならば、自分のためということは、自分の欲望を満たすことで、欲望というマイナスを、一生かかって「もの」でプラスするだけの人生にすぎません。つまり、プラスマイナスゼロということになり、人生の価値は刹那的享楽以外何も残らんのであります。」
  • 自分様が一番醜悪。我を忘れることが理想と思うこのごろです「自分と他人の区別がなくなって、相手の気持ちになれる心、そういう清らかな心が、人間の生まれたままの、幼子のごとき心であります。(略)
    自分を忘れて人のことばかり考えていたのでは自分が成り立たないじゃないかと、すぐ反駁されそうですが、けっしてそうではありません。自分のことばかり考えるから自分が成り立たないので、
    他のことさえ考えていたら、他はみな何千何万の目でこちらを見てくれているのだから、自分が成り立たんはずは絶対にありません。
  • 宗教を考えるタイミングは死に際ではありません「死ぬか生きるかの境にのぞんでからでは、宗教も役には立たんと思います。宗教というものは、健康なときに、若いときに、生活の楽なときにやっておいて、はじめて死に際にまにあうでありましょう。」


  • 不二の妙道 しんじん文庫第八集/春秋社
  • 神道について~宗教や哲学と言えるのか「日本の神さまの教えは、清浄の二字に尽きると思います。ただそれだけの、実にハッキリした教えですが、「言挙げさせざるの道」といって、理論がない、神学がないのです。幕末になって、本居宣長や平田篤胤というような国学者が、仏教に対抗して神学を編み出しましたけれども、本来そういうものを必要としないほど純粋の民族が日本民族なのです。」
  • 檀家制度以来の堕落仏教が今も残る「徳川幕府は天草のキリシタン一揆に懲りて、宗教ほど恐ろしいものはない、武力も政治力も及ばんということに気がつきまして、『宗門帳』といって檀家制度というものを決め、新しい宗教の起こらん措置を執りました。それは一見非常に仏教を保護してくれたようですが、実はすっかり仏教を堕落させてしまいました。お寺と檀家とは離れることのできん組織ですから、坊さんはなまけておっても遊んでおっても、勉強せんでも修行せんでも、布教をせんでも檀家は離れやしません。うまく檀家の機嫌気褄をとって、上手に葬式と法事さえしとりゃ喰っていける。ことに大名の帰依を受けた、いわゆる名僧知識が、大名たちの趣向におもねった悪風が今日も残っているように思います。儀式、法要ともとなると、大和尚方が凛然たる衣装を着飾って行列なさる姿は、まるで花魁道中そっくりじゃないかと思うのであります。」
  • 今も話題の靖国神社のとらえ方はこうも考えられます「(昭和45年の靖国神社法案に対してキリスト教や仏教系大学がこぞって反対署名をしたことに対して)私が学長をつとめさせていただいております花園大学にも、「反対の署名をしていただきたい」といってこられました。そこで、「私は靖国神社法案には賛成ですから、署名はよういたしません」とお断り申したら、「政府が特定の宗教を公式のところに使うのは重大な憲法違反です。だからわれわれは反対し、こうやって署名のお願いに参ったのです」とおっしゃいました。私は、「靖国神社を宗教だと思っていらっしゃる高僧方や牧師さん方の宗教観を疑います。『宗教だ』とおっしゃる以上は、その宗派のご開祖がおられなければならんはずです。その宗派の聖典、経典がなければならんはずです。その宗派の信仰箇条がなければならんはずです。ところが靖国神社の、ご開山とはどなたですか。宗祖がおられますか。靖国神社に聖典かバイブルがありますか。靖国神社の信仰箇条とはどういうものですか。靖国神社がこれまで一度でも信者を増やす運動をしたことがありますか。靖国神社を別立して国家が祀ってくだされば宗教ではありません。日本人の国民儀礼です。私は賛成です。外国に行けば、どこに国にいっても、無名戦士の墓というものがあるではありませんか。クリスチャンであろうがなかろうが、すべては十字架の下に祀られてある。それと同様に、日本民族は神事で祀っていただくのが習慣なのです。靖国神社法案、まことに結構じゃありませんか」


  • 鶏は暁の五更に鳴く しんじん文庫第七集/春秋社
  • 今の日本人では考えられないが昭和にはまだこういう日本人像が生きていたのでしょう「トインビー博士も「龍安寺の石庭を観てきました」と話しておられますが、庭のことには何も触れず、「あの庭を見ておった日本人の姿を見て、私は胸を打たれました。彼らは霊的感激に浸っておりました」と語っておられるのであります。何十人おったかしりませんが、男も女も、年寄りも若い者も、あのお寺の縁側にベターッと坐ってしまって数十分の間、咳払い一つせず、ウンともスンとも言わず、じっと庭に見とれておる。トインビー博士が驚いたのだと思うのです。ヨーロッパでは恐らく見られない光景だと思うのです。何十人もの人間が、数十分の間、一言も発せずに何かに見とれておる。(略)
    「日本人は無宗教だと聞いていたが、あの姿は宗教的だ」とトインビー博士は感嘆しておられる」
  • 人間の生きる意味の本質はここら辺にある(ここら辺にしかない)と思うこのごろ「あるとき、若いお母さんが投書しておられました。『私はぼんやり学校を卒業して、ありふれた結婚をしました平凡な家庭の主婦です。人生だの、自分の価値だのということを、一度も考えたことはありません。ところが、赤ちゃんができましてお乳を飲ませたとき、はじめて自分の価値がわかりました。この赤ちゃんは、私がいなければ育たないな。育つかも知れないが、幸せにはなれないな。私という人間は、平凡なつまらない女ですけれども、この赤ちゃんにとっては、日本一なくてはならない女だと言うことがわかりました。赤ちゃんにお乳を飲ませて、私ははじめて自分の価値がわかりました。はじめて生き甲斐を感じました』とありましたが、私は体験からでた真実の言葉だと思います。」
  • 先祖の読経は仏道ではない(世の誤解参照)「先祖の霊を崇厳懇切にお祀りすることは、日本民族の美風として悪いことではありませんが、これがはたして仏教であろうかどうかということを私は考えます。お釈迦様は、一度も死んだ人のお葬式をなさったこともないし、なくなった人たちのために読経や回向をなさったこともなかったのです。なくなった人たちのためにお祈りをすれば、地獄に墜ちた霊が天国に登るということを教える外道が、お釈迦様の時代にもありました。(略)仏教とは、生きた人間を救う教えでなければなりません。仏教が中国に入りましてから、儒教、老荘、その他中国の民俗、習慣と密接に結びつきました。お位牌を祀ることも中国の風俗で、仏教にはなかったことです。(略)
    これは儒教の思想によるものであり、さらにまた、日本人本来の民族精神と結びついて、発展し来たったものだと思いますが、しかしこれは、仏教本来の精神ではないと思うのです。」


  • 遺教経講話/春秋社
  • 仏道の真髄「預言をするとか、先祖の霊がのりうつるとか、何か変わったことをしたがるのが宗教ですが、お釈迦さまの教えは「ただこれ平常なり」、当たり前で、人間が当たり前になることがお釈迦さまの教えで、キリストのような奇蹟は、お釈迦さまは一つもなさっておりません。当たり前が一番尊い。」
  • 無意識にこの状況に陥る自分を戒めたいものです「「人生は自分のためにある」これが戦後の教育であります。(略)
    いかにも自由なようですけれども、人生は自分のためにあるといわれると何をしていいかわからん、これが本当です。ヨットに乗って世界中の海を二百七十五日と十三時間十分かかって回ってきたという人がおりますが、人のためには、何にもならん。
    自分のためにはどんなことでもやる。これが今の世の中です。(略)
    国民の八十パーセントがみんな勝手放題に生きている。まさにこれは、一億総無責任時代だと思うのであります。(略)
    せいぜい人に迷惑をかけんだけが、道徳であるというのが今の世の中であります。お釈迦さまは、まず戒律を守れ、自分の行動を慎め、そこからよい行動が出てくる、明るい世界がそこから開けてくる、とおっしゃった。」
  • 六根清浄を考える「五根というのは眼耳鼻舌身であります。(略)
    この五根がなかったら、人間は何の働きもできません。五根があるお陰で毎日生活できるのでありますから、五根ほど大切なものはないのであります。
    悪いのは五根ではなくして、その上にある心であります。五根と申しますその上に、意根というのがあります。眼耳鼻舌身意であります。(略)
    五根を制するということになりますと、最も大事なのは、五根の根本である心を制するということになります。(略)
    主人公は意識であります。意識の主人公は、さらに奥深くある仏心であります。仏心が意識をとりひしいで勝手に動かないようにしてゆくことが大切なことであります。(略)
    意識というやつが間違うと、とんでもないことをいたします。人間の命を失い、魂を失い、功徳を失い、健康を失い、宝を失い、最後には身体を失い、人間のすべての良いものを失ってしまう。そういう恐ろしいものが意識でございますから、意識をしっかり抑えつけて、これを勝手に動かないように使っていく主体性が大事であります。」
  • 名言です「人間は裸でおることを恥ずかしいと思う。どんな南の方のニューギニアやインドネシアの山の中にいっても、さすがに前は隠してあります。(略)
    どんなきれいなご婦人の着られる着物よりも、
    一番大事な着物は、恥ずかしいという着物であります。心の中に恥ずかしいという心を持つことが、どんな美しい着物を上から飾るよりも、人間の心を飾っていく、心の醜さを隠していく一番大事な着物でなくてはならんのでございます。」
  • 不瞋恚戒、一生の最大の課題であります「「和顔愛語」という言葉が『観無量寿経』の中にございますが、いつもニコニコして、やさしい言葉を使え、和やかな顔をして、愛情のある言葉を使え、腹を立てて憎たらしい口を聞いたらいかん。(略)
    不瞋恚戒、腹を立てないということが菩薩の十戒の一つ。(略)
    腹の立つ内は、心の中に我がある、俺がある。私がという観念がとれんから、腹が立つ。その私を捨てることが、仏法ですよ、と。「仏法は無我にて候」と蓮如上人も言われます。生れたときには私がなかった。みんなきれいな鏡のような心をいだいておったとわかれば、どんな事件が起こっても腹の立つようなことはありません。」
  • 四智(唯識)を考える「お互いの生れたままの奇麗な心を大圓鏡智とお釈迦さまはおっしゃいます。大きなまるい鏡のような智慧。奇麗な心は前に来た姿を、どんな姿でも受け入れていく。すべてを受け入れていく奇麗な心とは、すべてを受け入れる広い心で、しかも鏡は平等でございます。平等に映すということは平等に尊敬する。」

2006年8月9日水曜日

中村元・保坂俊司 ~共感した名文・名文句~

現代日本の仏教研究で最大の功績者といっても過言ではない中村元先生の言葉には、信心が伴っているのがわかります。だから説得力があるのです。それをいつも補足する保坂氏も、その趣旨を最大に理解する、いわば親鸞における唯円、道元における懐奘なのかもしれません。

  • 中村元「仏教の真髄」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会
  • 自己の中の大宇宙は仏教の根本思想であり、先祖について考えればすぐわかります一人一人の中に偉大な過去が生きていることがわかります。いかなる人も両親から生れたのですから、その両親が自分の中に生きているわけです。その前の世代の両親もまた子孫に何かを残して生きている。千年も遡ったら先祖は何十万の人になるでしょうね。【注:先祖を遡っていくと、約千年前の30世代で先祖の総数は10億人を超える】そういう人がみないまの個人の中に生きている。別な表現で申しますと、多くの人々と同じ祖先を共有している、ということになります。さらにこの考え方を拡大していきますと、「この大宇宙が小さな一人一人の中に生きている」というところまでまいります。まことに偉大な不思議な神秘をそこに認めることが出来ると思うのです。いわば目に見えない祖先が自分の中に生きていて、他の人の中にも同じように生きているのですね。」
  • 西洋の自我観の限界~西洋哲学と仏教の視点の決定的相違
    「めいめいの人がかけがえのない生命、つまり無数に列なる生命の連鎖の最先端に生きていると言うことは、一人一人が他人とは取替えることの出来ない、尊くかつ「絶対に独自の自己」として生きていることです。つまり「自分の自己」は「他人の自己」から截然と明確に異なったものであるのです。デカルトのように「自分が意識する、故に自分が存在する」という自覚だけでは、「自分の自己」が「他人の自己」とは異なった存在であるということを説明し得ません。それは、自分と他人のふたつの自己が物体としては異なったものであることは言い得るかも知れませんが、どちらも共通の「自己」という一種と類概念のようなもので括っているにすぎません。つまりこの説では「甲の自己」と「乙の自己」とは、内容的・質的にも異なったものであるというわけを説明したり証明したりすることが出来ないのです。ここに西洋の近代的思惟の発端にあったデカルトの自我観の決定的な弱点を露呈しています。(略)
    その伝統を受けついだ西洋の思想家、たとえばヘーゲルのような一元論哲学では個体が個として(めいめいの人が個人として)絶対的であるとうことを説明することが出来ません。この点は、マルクスの思想でも、そして思想伝統の全く異なるインドの一元論的なヴェーダーンタ哲学でも、そのほか古今東西の一元論的哲学は、みな同じ難点を持っています。つまり「自己」の多様性を説明できないのです。(略)
    一方、「自分の自己が他人の自己とは全く違った実体ではないか」という思想を述べた哲人も登場しています。西洋におけるその代表的な例はライプニッツです。ライプニッツはその難点を避けるために、無限に多数の個的実体としてのモナド(単子)というものを想定しました。(略)
    ライプニッツはモナドの概念によってこの問題を解決しようとしましたが、もろもろの個が互いに異なったものであるということを、彼はどうしても説明することが出来なかったのです。(略)
    この点はカントも同様です。彼は人格についての抽象的・一般的な議論を述べているだけであり、個々の人格の間の内容・色調・ニュアンスの相違が何故起こるかと言うことを説明していないし、またその立場から説明できないでしょう。(略)
    いずれにしても、
    人格の独自性は仏教が説くように、それぞれの人が受けている無限に多くの原因・条件が異なったものであるとすることによって、はじめて説明がつくのです。もし、それらの原因・諸条件が内容的にまったく同じであったならば、どの人も全く同じ姿、同じ顔をしていて、差異がないということになります。」
  • つくづく、子供の事件に右往左往する大人を観る度、大人の方がよっぽど終わっているじゃないか、と思います
    「一言で表現すれば、「心の喪失」ということになるかと思います。特に、昨今の青少年の引き起こす事件には暗澹たる気持ちにさせられるものが多く、彼らの言動の背後に「心の荒廃」を感じざるを得ません。しかし、病んでいるのは子供たちの心だけではありません。大人達の社会でも事情は同じです。というより子供たちをこのような状況に導いたのは、それを生み育てた大人達であり、
    子供たちは大人達のいわば純粋培養的存在である、と考えるべきでしょう。そう考えれば、いまの日本社会は、何処を見てもエゴイスティックな大人達で溢れています。(略)心の喪失は、孤立感や不安感、焦燥感や怒り、あるいは自己本位の志向を生み、その結果温かい人間関係の欠如した社会を作り出すこととなり、そのために「いのち」を軽視した社会現象が現れると筆者は考えます。」
  • 仏教「因果論」の合理性と、奇跡を求める必要のある宗教の限界について
    「日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。」
  • 世界を全体的に捕らえることをやってきた超最先端思想こそが仏教であります
    「この世界に孤立して存在しているものはなく、すべてが互いに関係しあい、補い合って存在するという考え方は極めて重要な思想です。というのもこの世界を理解するためには、分析のみではなく、「全体からの発想」あるいは「総合的発想」が大切であることを教えているからです。この仏教の基本的思想は、以下に紹介するような最先端の科学の思想に通じています。というより、最先端の科学の方が仏教思想に知らず知らずのうちに近づいてきている、といった方がよいかも知れません。」

  • 中村元が説く仏教のこころ/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会


  • 中村元「老いと死」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会
  • 「浮世の八つの慣わし」「原始仏教聖典の文句の中では「浮世の八つの慣わし」といって、つぎのようにまとめています。「利益と損失、誉れと毀り、非難と賞賛、楽しみと苦しみ、これらの事柄は人間においては無常であって、恒久的ではない。いつまでも続くものではない。変じ、滅びるものである。知者はそれらを知って、心をとどめて変幻するものを観察する。いとおしい事物に心を乱さず、好ましからぬことだからとて、怒りに赴くこともない。」(「雑一阿含経」)」
  • 今、哲学でも生と死の問題の重要性を忘れてしまっています「哲学のほうでも、死の問題は論議されたりされなかったりしますが、考えてみますと、死から目を背けている哲学の存在意義は非常に限られたものではないかと思います。人の心を動かす哲学とはなり得ません。いまの日本の大学の哲学科で先生は死の問題を教えているのでしょうか。ここに一つの問題があると思うのです。考えてみますと、死の問題は人間にとって最大の問題で、誰にとっても一番重要なことです。ですから哲学でも宗教でも死を問題にするのは当然でしょう。ただ、記号論理学とか分析哲学を中心にした最近の哲学では、死の問題をあまり論じなくなっているのではないかと思います。論理も大事だと思いますが、そういうことは、結局人間の生き死にの問題の周辺に属することであって、生きている人間にとってはやはり生と死の問題が一番大事だということになります。」
  • 死を意識すること「ほとんどの人が、人間は孤独な存在であるという構造に、平生は気づいていません。けれども死の自覚と共にこのことがはっきりと露呈します。日常の感覚では、死は遠ざけたいものとしてありますが、仏教ではこの死を積極的に位置づけます。」
  • 精神文化的には、現代人は原始人レベルまで退化していると断言できます「特に、近代文明という唯物論に毒されている最近の日本人は、死を一切の終わりと考え、無価値なものとして忌嫌い、生きている時間を一刻でも長くしようとします。死を一秒でも先送りすることに心を砕き、確実にやってくる死への準備を怠っています。このように最近の日本人は、死に後ろ向きな文化を形成してしまったと言えましょう。死について学習する機会もなく、死に価値をおく文化も奪われ、唯物論が支配する社会。そうした社会における唯一の生き方は、たとえリンゲル注入のチューブによってスパゲッティ状態にされても、一分一秒でも長くこの世に生きながらえようとすることです。なぜなら、その後の世界を考えることも、またそれに思いをはせることも、それに価値を見いだすこともできないからです。
    しかし、死は誰の元にも確実にやってきます。現在の日本人の多くは、死を迎えるにあたり心の準備も、覚悟もなく、死という未知なる暗黒の淵へ、後ろ向きに投げ込まれるような、不安と恐怖に駆られているのではないでしょうか。そこには死と向かい合い、死に積極的な意味を与え、それによって死を克服してきたかつての日本の文化の積み重ね、民族の智慧は、生かされていないように思えます。まさに
    原始レベルの人間の精神に返った、未熟な死へのおそれのみが支配しています。」
  • 心の豊かさは物質的豊かさに優るのが真理であります「つまり、心の豊かさは、結果的に物質的な豊かさに優るということではないでしょうか。少なくとも老境に入った人間にとって、社会制度を含めた物質的な豊かさのみでは、人間は幸福に人生の最後を迎えられないということです。」
  • 高齢社会と福祉を考える上での仏教の位置づけ総論(決定版!)「日本人にとって仏教は馴染みのある宗教ですが、実は伝統的な仏教と、明治以降の仏教では大きく異なることは、意外に知られていません。というもの、日本が近代社会を迎えた明治維新の時に、国家レベルで廃仏毀釈を行い、仏教信仰を文化的に否定し、神道の国家を作ったからです。そのために多くは仏教への信仰心を失い、その宗教的な世界観を捨ててしまいました。(略)

    以来、日本人には、心から信仰できる宗教、つまり現世と死後の世界を意味づける価値体系、世界観を失ってしまったのです。もっともその代わりに第二次大戦後は、経済発展が心の支えになっていました。(略)

    エコノミック・アニマルと揶揄された日本の経済復興です。しかし、この時代を支えていたのは、「物質的に豊かになればそれでよい」という
    極めて唯物的な発想です。つまり、先述の唯物論が幅をきかす社会、効率を重視する経済優先の社会です。このような社会では、心の問題は扱いません。特に、死の問題はまったくノータッチです。敗戦後の日本人はそれこそ寝食を忘れるほど、経済的な価値を増大させるため、阿修羅のごとく邁進してきました。(略)

    古来、人間は死を恐れながらも、老いや死をさまざまな機会を通して体験し、学習してきました。(略)
    如何に生きるか、如何に日常生活においてよりよく生きるかということは、同時に、如何に死の恐怖を乗り越えるか、それを和らげるか、あるいは死を如何に意味あるものとして理解するか、ということであったと言えるからです。そしてその中心が宗教であったのです。(略)
    したがって、死はこのからだからの決別であっても、決してすべて無に帰すること、つまり生にとって無意味な、そして無価値なものとは考えられなかったのです。いわば、
    生と死は一体であり、連続、あるいは表裏の関係であると考えられていました。(略)

    高齢者社会を迎えた今こそ、我々の祖先が育んできた精神伝統としての仏教の智慧に今一度着目し、それを現在に生かす努力をすべきときがきた、ということではないでしょうか。(略)

    ただ、老いを問題にする場合、現在の日本の議論では、若者から老人への一方的な貢献について議論されます。つまり、保険制度や、福祉の分担金云々といったことがそれです。(略)
    老いとは単に老いを迎える当事者の問題だけではなく、それを取り巻く社会全体の問題でもあります。現在は、この関係性がほとんど議論されず、
    世代ごとに各自の事情(エゴ)を主張するのみで、互いの存在への配慮が感じられません。ここにも心の領域を疎かにしてきたツケが影を落としています。(略)
    現在の高齢者は、老いの価値を評価せず、ひたすら壮健の時代の心持ちに執着し、若さを求め、食物や享楽といった形あるものの欲望の充足を求める傾向にあるように思われます。(略)

    仏教のいう「諸行無常」の教えは、このような状況の変化を深く認識し、それぞれにあった行いをすることの自覚を促すものとして、示唆に富むものではないでしょうか。(略)
    我々は日本の伝統に学ぶ必要があるのです。なぜなら、
    かつての日本社会は超高齢化社会であったからです。(略)
    江戸時代の祖先たちが、生れるものと亡くなるもののほとんど均衡した社会、つまり社会的に見て高齢者の比率が非常に高い社会を平和裏に、しかも文化的にも極めて充実してきた中で形成してきたことを意味します。(略)

    我々の祖先は、われわれを取り巻く環境存在を、死後の世界と関連づけて解釈してきました。具体的には、一切の存在に価値を認め、それそれの場において精一杯生き抜くという生き方です。日本ではこの生き方を「道」と呼んで尊んできました。この道の思想こそ、それぞれの立場において、与えられた生を己の為のみならず社会のため、あるいは世界のために「生き尽くす」教えだといえるのではないでしょうか。ところが、現代社会はこの伝統をすっかりわすれてしまいました。
    その結果、日本人の心の荒廃は、ますますすすみ、仏教的にいえば修羅か餓鬼道の状態にあるといえましょう。しかし、唯物主義の日本からは、これに対する反省はほとんど聞くことが出来ません。言い換えれば、それほど現代日本は心を病んでいるということです。現在のように死を忌嫌い、「死」に意味を見いださないということは、「生」の真の意味をも認識していない、ということです。」


  • 人生を考える/中村元/青土社
  • 日本人が「無財の七施(雑宝蔵経)」の房舎施を失ったとき・・・3年間で明確な没落さえ!「第七は房舎施といいます。他人を自分の家の中に自由に出入りさせて泊まらせることです。(略)
    こういった人の良さというものが日本で崩れたのは、戦時中の買い出しが始まった頃からだということを聞きました。食料がなくなって買い出しが始まり、せちがらくなって人間の心がすさんできた。それで、地方の人でも警戒するようになったのではないでしょうか。そして、今日はご承知のとおりです。(略)
    昔は日本人の間にも、誰でも旅人をもてなすというような精神があったと思うのですが、このごろはどうもそれが失われているようですね。最近私があった中国人の学者は、三年前に来たときといまとでは違うというのです。
    三年前に来たときは、日本人というのは礼儀正しい、人なつこい民族だと思ったのが、今回来てみると、日本の若者は礼儀も知らず、がさつになってきたというのです。」
  • 世の中をよくする人とその在り方はこんなに単純なことなのです「いやな顔をしないで、いつもにこやかに人に接するということも、誰でも出来ることですね。そうすれば、地位の上下を問わず、人々の心がけ次第で和らいだ世の中をつくりだすことができるのではないでしょうか。お金を持っている人でなくても、生き甲斐のある生活が出来るわけです。ことに病気の方などが、清らかな空気とか自然の移り変わりの風景を楽しまれて、今日も一日、楽しませてもらったと思われたなら、やはりそれが生き甲斐になるのではないでしょうか。そうやって喜んでおられたら、その気持ちが自ずから周りの人たちに移っていくわけです。逆に申しますと、いかに力やお金があり偉い人であっても、あまりに荒々しく、とげとげしいことをして争っていると、人々の生き甲斐をそこなうことになるということも言えるわけです。」
  • 自殺は非常なる迷惑行為である「たまたま気づいたときには生きているのであって、生きているということは意味がない。だから捨ててしまおうという人がいる。それは恐らく自由だと思いますが、人が死ぬということ、ことに自らの命を絶つということは、非常に影響を及ぼすことが大きい行為です。それによって、当人の気づかないところで、人に非常に迷惑を及ぼします。これはやはり考えるべきことではないでしょうか。自分の命は自分が勝手にしても良いと思うかもしれませんが、実は自分の命というものは、他人の命でもあるわけです。他人の生命から切り離された自分の生命というものは存在しません。自分の生命と他人の生命とはしっかり結びついています。だから自分の生命を傷つけることは、また他人の生命を傷つけることでもあるのです。他人の生命を害ったり他人を害するということはしてはいけないことです。」
  • 私が仏道に共感したのは自分が親になって初めて理解できた慈悲の心に打たれたからでしょう「相手を強烈に思うという点では、親の子に対する愛も恋人同士の愛も同じですが、しかし、愛と慈悲とは大きく違います。愛というものは、それ自身は美しく、願わしく、尊いものだと思いますが、それは独占性をもっているわけですね。ことに男女の場合にはそうです。そして、いったん裏切られたというときには、愛は矯しい憎しみに変わります。ところが、慈悲は愛憎の対立を越えたものであり、絶対の愛であり、人を憎むということがない。愛憎からの超越ということが慈悲の一つの特徴です。」
  • 仏教の慈悲は一神教の絶対愛を越える「宗教的な愛と慈悲とは同じといえるでしょうか。私はやはり違いがあると思います。というのは、西アジアおよび西洋における宗教的な愛は、信ずるものと信ぜざるものとの区別をたてるからです。その愛は、信ぜざる者に対しては及びません。この頃は違った考え方が出てきていますけれども、過去の長い歴史ではそうでした。ところが、仏教の場合には、異端者を憎むという思想がないのです。異端者を罰するという思想がない。異端者は教団から除かれますけれど、それ以上に罰が及ぶことがない。ところが多くの世界宗教では、異端者を追いかけて、つかまえて火あぶりにするというのが通例でした。この違いは、現代でもまだ、潜在的に残っていると思います。」
  • そして、創造神という考え方「ただ、創造神しての神を、私は人格神としては考えにくいのです。というのは、世の中を見ると非常に悲惨な生涯を送った人がいくらもいるでしょう。もし、愛を持つ神がこの世界をつくったのだったら、どうしてそんな悲惨な運命を人にあてがったのでしょうか。だから私は、世界をつくった「愛の神」というものは考えられないと思うのです。生存している動物はみなそうでしょうけど、人間だって個々の人はみんな別の個体を持っている。そして、それぞれ個体をもちつづけなければならない。だから争いが起こるわけです。自己愛といいますが、これは人間が生きている限り根源にあるもので、これを愛といえるかどうか・・・。むしろ執着に似たものだと思います。(略)
    自分を愛するということは本能的で衝動的です。そしていったん振り返って反省してみて、それに対する制御がなされるわけです。そうして初めて、争いを起こす人間の中に、他の人をいたわり慈しむ気持ちが出てくる。これはやはり不思議なことでして、仏の心という以外には説明がつきません。やはり
    利害損得を越えて出てくるものがあり、それこそが仏の心だと思います。」
  • 家族の結びつきを弱めた元凶がアメリカ文化「人間にいちばん近い社会というと家族です。これは、ゲマインシャフトの内で最もゲマインシャフト的な性格の強いものでしょう。(略)
    ところが近代機械文明がおこった国々では、家族の結びつき、紐帯が弱くなってしまいました。近代文明の最先端を行ったのはやはりアメリカだと思うのですが、アメリカでは三組が結婚するとそのうち一組が壊れるといわれていました。(略)
    この頃のアメリカでは、それが更に進んで二対一だそうです。我が国ではどうかと言いますと、この頃の若い人の考え方は、だんだんアメリカに近くなっていますね。(略)
    若い人は全然違います。離婚なんて平気です。つまり家族というものの結びつきが弱くなっている。その結果として、いわゆる先進諸国では青少年の非行や犯罪が急激に増加しています。ことにいわゆる先進諸国の都会生活では、結婚の形式によらない男女の結合が現れています。それは、いつ壊れても良い、という意味を含めています。そうして、この様式がジャーナリズムによって盛んにもてはやされている。しかし、これは無責任だと思います。文明の進みに応じて家族関係も違ってくるでしょうが、やはり、ある程度は
    家族が安定しているということが必要です。」
  • 人間の高次元の精神文化こそが宗教であった「民族によって考えていることも違うわけですから、神という言葉の意味内容が違うのは当然です。ただ、人々が神のようなものを想定するに至ったということは、なにかしら高次なものを人々が見いだし、それに頼ろうとした個々の人間を越えた動きの結果だと思うのです。全盛期から今世紀に至る唯物論の失敗は、そういう動きに目を閉ざしてしまったところにあると思います。人間のうちに潜む「より高きもの」に目を閉ざしてしまったところから、唯物論的世界観の破綻が来ているのではないでしょうか。」


  • 原始仏典を読む/岩波書店
  • 真理をたたえる「ウダーナヴァルガ」(「ブッダの感興のことば」(岩波文庫中村元訳))「衝突や抗争の多い社会でどう生きていったら良いかという心構えを、この詩句集はよく教えてくれます。
    他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。
    他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は自分と他人と両者のためになることを行っているのである。
    自分と他人のためになることを行っている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。・・・ことわりを省察することもなく。
    愚者は、荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と考える。しかし
    謗りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。
    (20・10-3)」
  • シク教徒について「西北インド、ガンジス川の上流地帯、これは昔からバラモン教徒の根拠地でした。(略)
    ガンジス川の上流地帯は、西紀十世紀以降にはイスラムの侵略を受けました。そして、イスラムと戦うためにシク教徒というのが現れたのです。ことにパンジャブ地方(五河地方)がそうです。パンジャブ州は現在シク教徒の本拠地です。山国でヒマラヤに近いというから荒れ地だろうと私は思っていました。これはとんでもない大きな間違いでした。荒れ地というものが全然無いのです。インドの土地は荒れ地が非常に多い。ちょうど西部劇に出てくるような荒野がずっと続いているわけです。ところが、パンジャブに行ってみて驚いたことには、もうあらゆる土地が耕されていまして、ちょうど日本と同じなのです。無駄にされている土地がない。そこでパンジャブ地方は食糧が豊で、インドの穀倉だというので、他の諸州へ食糧をやっているというのです。それから鉄工業など工業が栄えつつある。どうしてかというと、シク教徒というのはターバンを巻いてひげを生やしている連中だ、というぐあいに、異様な習俗だけを私たちは連想しますけれども、その習俗はイスラムの軍他と戦ったためにできてしまったのです。
    シク教徒というのは「世俗の生活がすなわち宗教である」という考え方をとっています。世俗の職業生活の中に宗教が実現される。人々はめいめいの職業を忠実に遂行せよと教えます。現世超越的な傾向に反対するのです。だからシク教には独身の修行者という者がいません。そしてみんな働けというものだからよく働く。だからシク教徒の中にはインド名物の乞食が一人もいない。乞食になるくらいなら餓死せよ、そう教えられているのです。よく働く。だからパンジャブは現在非常に開けております。そうすると、釈尊の頃に遅れていた土地がいま反対に非常に開けているということになります。」
  • 真言密教の護摩焚きの起源は、釈尊が批判したバラモン教の儀式である「日本の仏教でも、護摩を焚くという儀式があり、ことに真言密教では盛んに行います。あればヴェーダの祭りを仏教が取り入れたものなのです。「護摩」というのはサンスクリット語の「ホーマ」という語を音写したものであり、ヴェーダの宗教では火に供物を捧げ、火の中に供物を投ずることをいいます。後代の仏教はそれを取り入れて、護摩を焚くことによってわれわれの内心の煩悩を清らかにする、そういう具合に解釈しているわけです。(略)
    これに対する
    釈尊の批判ですが、「木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかとはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して内部の火をともす。永遠の火によって常に心が静まっている。われは尊敬さるべき行者、阿羅漢であって、清浄な行いを行うものである。良く制御された自己は人間の光である(「サンユッタ・ニカーヤ」)。」
  • 釈尊の態度の見習うべき点「頭からケンカを売るような、そういう態度は示さない。相手が何か固執しているところがあれば、それはなるほどけっこうだ、けれどもその本当の意義を考えてご覧なさいといって、反省させる。それが他の世界宗教の指導者の場合と非常に違うわけですね。たとえば、バイブルなんか見てご覧なさい。(略)相手のやっていることが間違っていると思うとき、いきなりお前さんのやっていることは間違いだぞと言えば、相手の人はムッとなって、無理にでも反抗するわけでしょう。そうではなくて、相手の人がああいうことをやっているのは何か訳があるのだな、これは因縁のいたすところだというので、その因縁をよく見て、ほんとうはこうあるべきだというぐあいに諄々と説くならば、摩擦抗争を起こさないで人を教化することができると言うことになりはしませんか。」
  • 自灯明法灯明究極のよりどころとして<自己にたよれ>ということを教えました。それは同時に、人間が行きてゆくための規範としての<法>にたよることなのです。「それ故にこの世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよろどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ(マハーパリニッパーナ・スッタンタ2・2・6)。これが最高の境地なのです。ニルバーナ(涅槃)というものが別に存在するのではありません。
  • 個人権威(宗祖・教祖)の否定「釈尊が自分は教団の指導者であるということを自ら否定しているのです。釈尊はその教えが永遠の理法、ダルマに基づくものであるという確信をもっていました。だから自分についてきたものは救われる、そういう立場ではないのです。ブッダというのは、法、ダルマを具現化した人です。その資格において、その意義において自分を自覚していた。「おれは世を救うものである、おれに従えば助かるけれどもの、そうでなかったら地獄に落ちるぞよ」というような説き方はしなかったわけです。世の宗教家に時にはある狂熱的な思い上がった、そういう点が釈尊になかったのであります。」
  • その時代や風潮に左右される「法律」の最上位概念が「仏法」であります「法律って変なものですね、といった会話が聞かれます。どうしてそういうことが言われるのか。これはわれわれ人間の理解している普遍的なダルマというものがある。その見地から見てみると、いま行われている法律というのはどうもおかしいということはあるわけです。(略)
    裁判所の判決なんて言うものは、世間の方が、おかしいなと思われることもいろいろあるのではないでしょうか。そういう場合の批判を何によってなすか。これは根本にある人間の理法、法律を越えた本当の法というものに基づいてなすべきだと思うのです。(略)
    基準は何かと申しますと、それは釈尊が説いている慈悲の精神です。人を傷つけてはいけない、これははっきりしていることです。それに関連することで、人をののしったり、悪口をいったりしていはいけなということも当然出てくるわけです。その根本に基づいて一切のことが批判されるべきだと思うのです。(略)
    世間の知識人やジャーナリストがお手本にしている、いわゆる先進国というのは今どうなっていますか。大体、先進諸国というのは地盤沈下しつつある国ですよ。」


  • 仏教とヨーガ/保坂俊司/東京書籍
  • 現代日本の概観はこれに尽きましょう「近代以降の日本社会は、富国強兵や殖産興業といった、経済的繁栄第一主義も言える唯物論的な価値観を重視してきた。特に、第二次世界大戦で敗北してからの戦後日本は、物質的な豊かさを中心に追い求める修羅(あるいは餓鬼)の道を突き進み、現代に至っている。その結果、われわれ日本人は、物質的な豊かさを謳歌する一方で、年間の自殺者が三万人を超えるような、精神面の荒廃による深刻な社会不安に直面している。(略)すべてに通底するものは、心の世界の軽視、あるいはそれへの無関心である。日本社会は、目に見えるもの、数量ではかれる者を追い求めてきた結果として、精神的に疲弊・憔悴する人々、あるいは孤独にさいなまれ、絶望する老若男女に溢れていると考えられる。そして現在の日本人全般にいえることは、心と体のアンバランスである。最近の傾向として、身体の健康には強い関心を示すが、心の問題には全く無関心であったり、あるいは現実社会からの逃避をめざして精神世界、特にオカルト世界へ没入したりする人々も少なくない。どちらも極端に走り、両者のバランスを取ること(中道の実践)の重要性について全く無知・無関心の状態である。」
  • 本来のヨーガは「その心得は「安定した、快適なもの」でなければならなかった。なぜなら、ヨーガによる悟りの状態である三昧は、「緊張を緩和すること」などによって達成されるものと考えられているからである。したがって、ヨーガの坐法は、苦痛や緊張を伴うものではないということになる。いずれにしても、昨今盛んに禅宗で行われているような過度の坐禅主義でもなければ、ハタ・ヨーガのアクロバットのような坐法でもなかった。(略)現代のような、ただ単に若さの保持や見た目の健全性を求めるだけの健康法、エゴ的な欲求の域を出ない健康法は、本来のヨーガではない。本書でいう仏教ヨーガとも似て非なるものである。少なくともそこに精神性をもとめないヨーガは、いかなる意味においてもヨーガの本道ではない。現代に即して言えば、自らの心身の健康を維持し、それを社会に役立てようという意識で、心身の鍛練を行うことが、すなわち正しいヨーガ、仏教ヨーガの基本となる。」
  • 仏教ヨーガの特徴「仏教で実践されたヨーガは、ヒンドゥー教において実践されていたヨーガのような、呪術力の取得といった方向には向かわなかった。仏教におけるヨーガの実践行は、精神集中によって獲得された智慧の完成をめざして練り上げられたものといえる。だからこそ、仏教のヨーガは分析的であり、客観的なものとなっているのであろう。」
  • ヨーガの可能性「おそらくヨーガ的な病気の予防あるいは治療法は、日本社会が抱える医療保健制度の破綻という大問題の解決にも貢献することになろう。なぜならヨーガの普及によって、患者自らが病に抗する肉体的力を養うことができることはもとより、誰にでもやってくる死に対して、日頃よりこれに主体的に向かい合い、これを越える精神力を養う契機が生まれるからである。」

2006年7月17日月曜日

仏教者からの子育て名言・名文句

仏法に照らしての「子育て」への一言は実に重みがあり、人類悠久の歴史に耐えうる普遍性を感じさせます。
「子育て名言・名文句」から独立させてここに抽出してみました。



  • 天地いっぱいの人生/内山興正/春秋社
  • 子どもを育てる立場になって目覚めた自分が待っていた言葉はここにありました!子供を産んだ、ということを、「これは、とんだことをしたのだ」と思わなければならないということです。「とんだことをした」と思う気持ちがないから、ただ惰性だけでわが子を育てている。これでは困る。子供を産んだことがなぜ「とんだこと」なのか。それは「新しい生命をこの世に送り出した」からです。それも自分たちが夫婦になって勝手に産んでしまった。生まれてくる気があるのかどうか、子どもに聞いて承諾を得たわけではない。子どもにとってはこの世に出ることは甚だ迷惑だったかも知れない。つまり「とんだこと」をしでかしたわけです。(略)
    まっさらな目でみれば、
    子どもにとって自分が生まれたということは、まったく自分の意思ではなく、ただ親たちの勝手な行為から一方的にそうさせられたわけです。(略)
    いずれにせよ子どもという新しい生命をこの世に送り出しのだから、いま申しあげたことをよく考えて、十分に責任を感じ、この新しい真の生命としてつらぬかせるだけの地盤は、どうしても作ってやらなければならいという覚悟をもっていただきたい。そんな覚悟もなしに、ただなんとなく生んでしまった。かわいらしいからかわいがる。わるさをするから叱る。勉強しないから塾へ通わせるといった無方針な育て方でいいはずはありません。ここのところを誤るなら、
    その報いは、だれでもない、親であるあなた方ご自身が受けねばならないと言うことを考えるなら、これは子どもだけの問題ではなく、あなた自身の問題でもあるのです。事実、子どもというものは、親の人生観、親の生活姿勢、親の生き方に対して、だれよりも厳しい審判者だと言うことを心得るべきです。これが少しでも歪んでおれば、やがて子どもたちは、「お父さん、お母さんの人生観、生き方はここが歪んでいる」とハッキリ突きつけるようになるのです。たとえば、あなたがいつも金、金といいながら生きているなら、子どもはやがてそんな生き方はくだらないと批判して家出するか、それだけの批判力のないつまらない子どもなら、親の貯めた金で身を持ち崩して親を泣かせるでしょうし、そんな親の人生観に共鳴するような愚かな子であれば、やがて親より金の方が大切だと、親を金以下に扱うようになる。これは火を見るよりも明らかです。また、見栄っ張りでいつも世間体のいいことが一番いいことだと思っているような親なら、もし子どもが優秀な子であれば親を批判して出て行くに違いありませんが、子どもが親に似て見栄っ張りなら、当然「親や家族より出世の方が大切」という人間になるはずだし、本人がお粗末で出世できないとすると、ノイローゼになって精神病院のやっかいになるか、あるいはアクの強い人間なら出世のためにやりすぎて、汚職などをしでかして牢屋にはいるようなはめとなる。」


  • 悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/青山俊董/光文社
  • 私が常日頃から「子育て」を捉えてきた考え方がそのままここにありました「子どもが生まれなければ親にはなれないものです。子どもが生まれると同時に、親も誕生するのです。子どもも零歳なら親も零歳。子どもと一緒に年齢を重ねてゆくものです。(略)
    子どもの信に答えうる親になるためには、子どもの成長と共に日に日に成長してゆくことを忘れてはならないと思うのです。(略)
    「子どもこそ、大人の親ぞ」という言葉があります。
    親を親として、また一人の人間として育て上げてくれるのは子どもだといういうのです。(略)
    子どもを鑑として自らの生き方をかえりみるとき、親として、人として、落第でしかない私がそこにいる。わが子の前に「勘弁してくれ」と詫び、しかしながら、「この子の信に応えうる親にならなければならない」と子の前に姿勢を立て直し、立て直し、生きようとする。そういう人こそ、親らしき親になれる人ではないでしょうか。そいういう親の元にあって初めて、良き子も育つというものではないでしょうか。(略)
    よき育児と「育自」によって、いまの混乱した日本も、必ずよくなります。」


  • 生かし生かされて生きる/青山俊董/春秋社
  • 乳幼児の育児への心構えはやはりこの通りです「家庭の雰囲気、親子、兄弟、夫婦の愛情、嫁と姑の間の感情のしがらみ、一見の中での雰囲気がどんなふうかという、それがどれほどに子どものこころに影響を及ぼすか。それは子どもの将来を左右するほど大きな力を与えるのです。親の心の僅かなゆらぎ、家庭内の雰囲気のあらゆる形が、子どもの心の健全な成長にひびくことを忘れてはなりません。人間の一番大切な心の形成というものは、三、四歳までで百パーセント完成だそうです。この一番大事なこころを育てるときに、最新の注意を払って、育ててやっていただきたい。何も分からないからといっていい加減なことをいってはいけない。子どもの前で、口争いも、恐ろしい思いもさせたくない。その親の目の動き、心の揺らぎ、全部を真っ白い心の印画紙にやきとり、読み取って育っていくのですから、それがその子の生涯を支配するほどの力になるのです。二度と書き直しの出来ない文字を、切れば血の出るこの体で、毎日刻々と書き与えてやる、それが子どもの周りに立つ親の姿であり、親たちの責任です。」
  • 親は子にとってこういう存在であることを自覚し続けなければ「お母さんになる日が来たら、お母さんのようなお母さんに、お父さんになる日が来たら、お父さんのようなお父さんになりたいと胸を張って言える子どもは幸せです。今日食べるものが少なかろうが、栄養が少し足りなかろうが、着るものがボロであろうが、そんなことで子どもの心は歪みはしないと思うのです。(略)
    たった一人のお母さん、お父さんを誇り高きものに思うといった、最高の心の栄養をちょうだいしているのです。こういう子は、絶対に横を向かないでしょう。非行に走らないでしょう。(略)
    子どもにとってかけがえのない、世にたった一人の父、世にたった一人の母が、最高に尊敬できる人、すばらしい人であることが、子どもにとってどんなに大切なことか。毎日食卓にのぼせる食事、毎日着せる着物もさることながら、父母の生き様そのものという精神的食物が、どんな内容であるかを考えなければならないと思うことです。(略)
    教え子が(略)離婚したいと言ってきました。私は一言だけ言いました。「あなたはご主人をとりかえることができるかもしれないけれど、子どもさんはお父さんを取替えることができないのよ。子どもさんにとっては、世界中にたった一人のお父さんであることだけは忘れずに行動してね」」
  • 共働きを選択する夫婦(母だけでは当然ない)に絶対必要な視点「(郡山の全盲の詩人)佐藤浩さんは、30年間の児童詩誌「青い窓」の編集を通じて改めて気づいたこととして「遠ざかったのは母親の笑顔だけではなく、その前に母親の目が子どもの実像から遠ざかっているということを指摘しておられます。これは一大事です。女性が家を出て社会進出し、また職業を持つことで生きがいある人生を送ることは結構なことでありますが、そのことのかげに子どもや家庭が犠牲になっていはしないか、明日の世代を背負う子どもを育てるということにシワヨセがいっていはしないか、反省してみる必要があると思うのです。」