2006年2月27日月曜日

世の誤解

葬式仏教や生臭坊主が仏教を辛気くさくしかも汚れたおかしなイメージを生んでいることは嘆かわしいことです。
世にはびこる仏教に対する誤解が、仏教の真意をねじ曲げており、多くの日本人がそれで当たり前だと深く考えていません。
大変ゆゆしきことであり、仏道に足を踏み入れた自分としては、ここに明確にし、真意から離れてしまっている(所詮現代日本という限定空間の)常識を否定したいと思います。

  • 寺に賽銭を放り込めば,交通安全を始め合格祈願等のお願いができる
    寺では仏に対して感謝をするのである。
    願をかけるのは仏教ではない。
    仏教はキリスト教やイスラム教といった他の真の宗教と同様ご利益宗教では一切ない
    日常から信仰もないくせに、100円やそこらで安全や健康を買おうなんて、保険会社よりも下劣な発想である。

    現世ご利益にすがる蔓延するニセモノ仏教徒については、遠藤誠氏が幾度にも亘って糾弾されていますので、ご参考に。
  • お葬式は友引の日にしてはならない、仏滅は結婚式には不向である
    先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜は仏教からではなく、室町時代の末期に中国から伝わった、小六壬という時刻の吉凶占いである。
    それを誰かが日に転用して、江戸時代に流行したものであると言われている。
    これは干支や方角に関係なく、その日の吉凶を表す符号。

    友引とは本来「相引きで勝負のない日」という引き分けを意味している。
    友を引くからお葬式は禁物というようなものではない。
    浄土宗の祖師法然は「仏教には不吉として物事を慎むことはありません(『百四十五箇条問答』)」と明確に答えている。
    また、六曜の仏滅は「物滅」から変化していった当字で、仏教とは全く関係ない。

  • 戒名は仏教徒の証である
    まず、戒名がどんな意味を持つのか、実態として何を示しているのか、それを考えましょう。
    敬愛する遠藤誠氏の「真の宗教ニセの宗教」(たま出版)で痛烈に批判がなされていますが、これはいずれ書評にUPさせていただくとして、劇作家でもある島田裕巳氏の『戒名無用』から以下に抜粋をさせてもらいます。その前に、私の戒名についての考え方を述べましょう。

    戒名の無意味さ、今更檀家制度の名残りにしがみつく主体性の無さ。
    仏道を真剣に考えるという縁に恵まれたが故に、私は、檀家制度の名残りとしての形骸化した戒名とは、決別するべきと確信いたしております。
    結論は、葬儀は重要かも知れませんが、今の世の戒名は極めて無駄、ということです。

    何も、近くの寺に帰依するというのは悪いことでないと思います。
    だから代々その寺へ布施をしている、その寺がきちんとその檀家に対して法施をしていれば、何ら問題はありません。特に近いのだから安心感も大きいでしょう。これはあくまで土地から人が動かない時代、今も田舎については当てはまる話なのかも知れません。基本的に、仏道の教えをしっかりと法施してくれる僧がいれば、それが何宗(何派)であってもよいと私は考えます。

    しかし、寺などは観光地としての寺が散在する程度で、その僧の顔も知らないというような大都市やベッドタウンで核家族化して住む人間は、もはや近いからという発想は成り立ちません。田舎があって、いずれそこに戻るなら別ですが、田舎は墓だけ、何て言うのも非常に穢らわしい考えです。
    全く信仰とは関係ないと言い切れます。
    そのときだけ寺に金を払って、周囲の目・世間体のために葬式を仏教式で挙げ、仏法のぶの字も考えたこともなく知らない人間が、仏道を帰依したことを意味するという戒名を授かるなんて、呆れ果ててモノもいえません。
    人生でこれ以上のいい加減な幕切れはありません。
    人間の根本である生老病死という存在を蔑ろにした行為といえます。


    私の祖父は、日本人の0.5%しかいないと言われる「無宗教」による葬儀でした。今思えば天晴な話です。世間体に固執していない。
    私も今から死については考える必要があると、このごろよく思います。大切なことです。
    人間、今の目の前のことに忙殺されて大切なことを蔑ろにすることが何よりもいけない。
    江戸時代の良寛和尚も、「人は死ぬことさえ忘れなければ、大した過ちもなかろう。」と言っています。

    仏教の信心が何か、朧気にわかってきた今としては、いい加減な寺が多いなか、どこかできちんと縁がある「僧」と出遇っておいて、最後は帰依したい、そういう気持ちがあります。
    まあ、そんなことも、しっかりと信心を大切にすれば、仏縁が自然となるように手向けてくれることと思います。



    島田裕巳
    戒名無用/主婦の友社


    戒名料は布施でない
    葬儀の際に僧侶に渡す金は『布施』である。戒名を賦けてもらったことに対して僧侶に渡す金も布施である。布施とは、布施をする側が自らの信仰に基づいて自発的に行うものである。(略)実際、戒名料が布施ではなく、料金であることを示すデータがある。

    本来の戒名とは何か
    戒名はこれまで『仏教徒の証し』であると説明されてきた。
    戒名とは、戒を授かったときに与えられる仏教徒の証しだというのである。
    どの宗派においても、戒名が仏教の信者になった証しである以上、生前に授かっておくことが本来の姿であると主張されている。
    しかし、現実には、ほとんどの人が死後に戒名を授かっている。
    戒の性格から考えて、死者に戒を授けることには意味がないはずである。死者には、生きものを殺すことも、偸むことも、性関係を結ぶことも、嘘をつくことも、酒を飲むことも出来ない。

    戒名は仏教徒の証しでは、全くない
    戒名が仏教徒の証しであるという前提自体に問題があるのではないだろうか。そういった疑問がわいてくるのも、アジアの他の仏教国には日本の戒名に相当するものが存在しないからである。
    死者に戒名を授ける慣習は、仏教の発祥の地インドにも、日本に仏教を伝えた中国や韓国にも、さらには東南アジアの仏教国にも存在しない。
    また、死後に戒名を授かることを前提として在家の人間が生きているうちに戒名を授かる慣習も、日本にしかないものである。
    戒名の慣習が日本に
    独自なものであるなら、戒名は仏教の教えとは関係のないものだということになるからである。
    これは、戒名が、仏教界の説明とは異なり、仏教徒の証ではないことを意味している。戒名はブッディスト・ネームではないのである。

    寺請制度・檀家制度の名残りに過ぎない戒名
    かなり不思議なことである。それぞれの宗派には開祖がいて、その教えは異なっている。教えが対立することでさえ珍しいことではない。実際、宗派によって信仰の対象とされる経典は異なっている。
    ところが、戒名の形式は、宗派を超えて概ね一致している。それは、
    戒名が、宗派の教えとは無関係に、寺請制度のもとで成立し、広まったことを示している。

    寺請制度自体も作為的で尊いものでも何でもない
    江戸時代の檀家関係は、寺請制によって庶民に強制されたものだったのである。十八世紀に入る頃には、徳川家康の名を借りた『神君様御掟目十六箇条宗門檀那請合掟』という文書が作られた。(略)この文書では、禁教とされたキリシタンや日蓮宗の不受不施派の疑いをかけられたくなかったら、檀家関係を結んだ寺との関係を密にし、寺の行事に参加して、寺の建物の修理や建立につとめることが勧められていた。(略)しかし、この文書はニセモノだった。家康が定めたものではなかった。(略)寺の側は、偽の文書を利用するという姑息な手段を使って檀家関係を密にさせようとしたのである。

    テキトーに葬式をしている大半の日本人の実態
    葬儀の形式は仏教が94.1%、神道が3.4%、キリスト教が0.7%、無宗教が0.5%であった。葬儀の大半は、仏教式で営まれているのである。神道式の葬儀を選ぶのは、神道の信仰を持っている家である。キリスト教の形式を選ぶのは、キリスト教の信仰を持っている家や個人である。(略)ところが、仏教式の葬儀を選ぶのは、仏教への信仰を持っている家や個人だけとはかぎらない。仏教の信仰を持っているのは、日本人全体の五分の一から四分の一程度である。

    要するに寺は戒名料に頼るしかない
    確固とした経済基盤を持たず、公的な補助をあてに出来ない寺としては、葬儀から上がる収入に頼るしかない。(略)
    日本の仏教が本当の意味で
    葬式仏教になったのは、むしろ戦後になってからのことではないだろうか。そこに、戒名料が高くなり、戒名をめぐって問題が起こるようになった第一の原因があるように思われる。

    日本の異常な葬儀料を知れば、皆変わっていけると思うが
    日本人は、葬儀に五百万円以上の金がかかったという話を聞いても、さして驚かない。葬儀には金がかかるものだと覚悟しているからである。しかし、日本の葬儀費用が世界でも飛び抜けて高いと言うことを知ったとしたら、その覚悟も少しはゆらぐはずである。(略)イギリスの葬儀費用はわずか十二万三千円である。ドイツでは十九万八千円、韓国では三十七万三千円、そしてアメリカでも四十四万四千円である。他の国に比べてアメリカは高いが、それでも日本の葬儀費用は、アメリカの6.5倍にも達している。(略)友人葬や自然葬などの新しい葬儀の方法が生れ、それが広がっているのも、世界で一番葬儀に金をかけていることへの反省があるからであろう。金をかけることが、本当に個人を手厚く葬ったことになるのか、多くの人たちが疑問を感じるようになってきたのである。

    仏道への帰依などとはほど遠い民衆の意識
    さすがに私も、宗派のあまりのでたらめさに唖然とした。嫁いできた義理の叔母はともかく、祖父母は生前別々の信仰を持っていたわけではない。たまたま葬儀を挙げ、戒名を授けてくれた僧侶の宗派がちがっただけなのである。(略)
    私の実家や母の実家の宗派についての知識は、相当にいい加減である。信仰に厳格な人間から見れば、その姿勢ははなはだ遺憾なものに映るだろう。しかし、それは私の家に限らず、地方から東京に出てきた人間たちの平均的なありかたなのではないだろうか。





    最後におまけと言っては何ですが、同著に日蓮系新興宗教の性格についての分かりやすい説明がありましたので補足しましょう。

    創価学会とは
    戦前に結成された創価教育学会を母体としている。創価教育学会は、地理学者で教育家であった牧口常三郎を中心に結成された教育団体であった。
    牧口は日蓮を信奉するようになり、日蓮宗の一派である日蓮正宗と密接な関係を持った。そのため、創価教育学会は、宗教団体としての性格をあわせもっていた。
    日蓮正宗は日蓮宗のなかの少数派であったが、他の宗教や宗派を否定する傾向は一般の日蓮宗以上に強かった。創価学会はこの日蓮正宗の影響を受けて、折伏による布教活動を推し進めていった。創価学会が戦闘的な教団となり、社会と激しく衝突してきたのも、日蓮正宗の影響によるところが大きかった。


    日蓮宗関係新興宗教と政治
    創価学会の場合には、公明党という政党を組織した。公明党の第一の役割は、会員の便宜をはかることにあった。(略)公明党は、創価学会という巨大な相互扶助組織を助けることを政治活動の第一の目的とした。
    また、立正佼成会や霊友会も自民党に議員を送り込んだ。



    また、彼らについての問題をばっさりと遠藤誠氏がその各著書において指摘しています。


  • 仏道は難行である
    難行のバラモン教徒として苦行を行っていた釈迦は、苦行を否定して仏教を開いた
    天台宗比叡山の山篭十二年の行や回峰行、日蓮宗法華経寺の荒行、真言宗(一部)の断食などは、難行を是としている点において、本来の仏教とは掛け離れてしまっているといえる。

  • 追善供養は仏教のしきたりである
    死者の裁判を一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と計13回も増やしたのは室町時代以降のこと。日本独自。インド・中国の仏教にない考え方。
    ここにある発想は、子孫や残された人間が供養に時間とカネを費やさないと、死者が極楽へいけない、仏になれない、というものであり、言うまでもなく仏道の発想とは相反するもの。
    仏教では、死後の何如は、その人の生前の業がすべてと考える。
    追善供養はもともと「中陰」の考え方であり、仏教的には邪道とも断言できるもの。
    先祖がそうだから、伝統だから、とそれに固執した結果、邪霊とか祟りとかいう仏教とは大凡インチキ宗教がはびこるのであります。

  • 「業・因果」は、たたりや過去の罪による不幸のこと
    本人の過去や罪や霊のせいにする「罪を責める」かたちとして利用されてきた。
    「業・因果」は、「縁起観」による人間の心や行いへの責任を明らかにする重要な教えである。
    一般的に「業」とは、「悪い結果を説明する時に用いられる「言訳」「慰め」「諦め」の言葉として理解されていが、本来の「業」は人間がよりよく生きるために不可欠な思想だった。
    つまり今の自分が未来の自分を造る、決定する、というきわめてポジティブな世界観なのである。
    自分一人一人がしっかりと生きれば、自分の未来はもとより、自分の属する世界も直接・間接的に変えることが出来るというのが、この業の思想である。

  • 葬式の死者のための読経(廻向)は日本仏教古来のもの
    親鸞や道元は、死者のために読経をする廻向を、「仏意に反する」と戒め、とくに僧侶が特定の父母のために読経したり念仏を唱えたりすることは、衆生救済の立場と矛盾すると批判している。釈尊はそもそも、人の死後の運命は各人の生前の行為によって定まるのであり、他人がそれに関与することはできないとして、僧侶が死者儀礼に拘わることを厳しく禁止していた。(「仏教の大河」/高瀬広居/より)

2006年2月26日日曜日

一般常識と仏教的解釈

どっぷりと我々が浸りきっている「常識」とは、地域限定・時代限定の全く普遍的とはいえない代物であることは、少し視野を広げたらすぐにわかることであります。それでも、それを「当たり前」という穢らわしいともいえる一言でかたづけて、自分こそが世の常識という面を下げる人間が後を絶ちません。一歩外国へ出ても、ちょっと時代を遡っても通用しないことを平気で主張する、そんな「邪見の輩には群すべからず(道元禅師/修証義・総序)」であります。



ひろさちや/「こころの健康法 苦を苦にするな」/小学館より
  


  • こころの健康法 苦を苦にするな/小学館
  • 子育てに関する非常に示唆に富んだ考え方遜文侍の文章世界(essay)の中で、別途抜粋しました。こちらから。


    ●以下、日本の日常どこにでも見かける普遍的悩み(一般常識)の問いに対する仏教的回答であります
  • 人間不信の世の中、どうにかならないか・・→ 自分の身は自分で守るしかない
    「嘆いてももう手遅れです。日本を経済優先社会に変えようとしたときにわたしたちはこういう日本になることを覚悟しておくべきでした。
    経済を優先させて都会型社会、競争型社会を作れば、必ず人間不信になるのです。嫌な世の中になるのは目に見えていたのです。では、どうすればよいか。どうしようもありません。(略)
    今後ますます「毒入り事件」のようなものが増えるだろうと思います。だって、考えてみてください。もともとスーパーというものは、経済効率だけを考えて作られたものです。本当に人間的な買い物は、客とお店の人が徒話をしながら、心の交流をもちながらなされるものです。(略)
    その
    人間不信の事物を利用しておいて、しかも人間不信を嘆くのは虫が良すぎますよ。疑心暗鬼になって当然です。いや大いに疑心暗鬼になってください。そして、自分の身は自分で守ること。安易に他人を信じてはいけません。それが嫌というなら、まずあなたは、(略)心のこもった会話をしながら、人間的な買い物をしてください。そうすると、人間が信用できるようになります。」
  • お手軽料理と家族のバラバラ生活、何とか改善したい・・・→ 家族全員がそろって食事をするために共働きをやめること。極めて単純な世界の常識中の常識
    「サラリーマンの家庭で、現在は楽しい食事がないのですね。まことにおかしな現象です。父親は残業、母親はカルチャーセンター、子供は塾に行って、
    家族揃って食事をする機会が滅多にない。それが日本の平均的な家庭なんでしょう。これは高度経済成長社会がもたらした悲劇なんですが、日本人はその悲劇に気づいていません。悲劇に気づかない悲劇だから、ダブル悲劇です。(略)
    こうした日本人の食生活を改善するにはどうしたらよいでしょうか・・・。方法は簡単です。まず、家族の全員が食事をするようにすればいいのです。そのためには、共働きをやめればいい。そして、子供の塾通いをやめるといいのです。そんなことをすれば、収入が減って貧しくなる。美味しい食事ができなくなる、といわれるかも知れません。けれども、おいしいものは食べられなくても、おいしくものは食べられます。(略)家族が笑顔で食事をすれば、どんなものを食べてもおいしくいただけます。それが最高の幸福なんです。」
  • (マスコミで日々目にする)環境ホルモン問題に翻弄されているのですが・・→ 環境ホルモン問題などという個人の力の及ばない問題は忘れること。どこが元凶か考えよ
    日本型の資本主義は企業中心の資本主義です。個人の生活よりも、企業の利益、企業の存続・発展が優先的に考えられているのが日本型資本主義です。少なくともこの日本型資本主義をぶっ壊さない限り、環境問題の解決はありません。(略)
    そうだとすれば、環境問題を個人の力でもって解決することなど、所詮不可能ですよね。では、どうすればよいでしょうか。わたしは、環境問題など放っておけばいいと思っています。資源の節約だとか何とか、いろいろやかましくいう評論家がいますが、資源を浪費しているのは大企業です。それをいわずに、われわれ市民にお説教をたれる彼らの厚顔ぶりにわたしは辟易しています。」
  • (青少年の信じがたき短絡的殺人事件が日々報道され)命の尊さがわからなくなっている時代と思うが・・→ 全人格的としてとらえず、「機能」としてしか人間を見ていないためである
    「現代の日本社会は、なんだかおかしな社会になってきています。一言でそれを言えば、人間不在なんです。あるは人間が機能化・ロボット化されているといえばよいでしょうか。(略)
    家庭も同じ。親が子に期待するのは、勉強をする・いい成績を取る・一流大学にはいるといった「機能」だけ。逆に、子供が親に求めているのも、食わせてくれる・小遣いをくれるといった「機能」だけです。そして、われわれが友人や仲間に求めているのも、話を聞いてくれる・話し相手になってくれる・デートしてくれるといったような「機能」だけです。恋人の存在は、ときに友達に向かって、わたしはこんな恋人を所有しているのよと誇示できさえすればそれでいいのです。こちらの都合に合わせてさっと消えてくれた方が便利がいい。そういう機能として私たちは人間を見ています。」
  • ダイエットが続かないなど、三日坊主を何とかしたい・・→ 本当に必要なものではないから三日坊主なのである
    ダイエットもする必要はありません。いつか山手線でダイエットに成功した女性を見かけましたが、針金のような足は痛々しくて見ておれませんでした。胸もぺちゃんこ。若い女性なのに老醜が漂っていました。(略)
    その必要のないものを、長続きさせようという人は、どう考えても馬鹿の骨頂です。」
  • 私は真面目一筋の会社人間です。ストレスで医者にかかり趣味をもてといわれましたが趣味がないのです・・・→ そういう人間は救われない
    「まずあなたは、救われませんね。たぶん、ストレスで早死にするでしょう。早死にしたあなたを、それでは会社は殉職者ということで、未亡人にすごい功労金をはらってくれるでしょうか。「ノー」だと思います。(略)
    早死にしたって良いとあきらめなさい。(略)
    あきらめると、少しはストレスも減るはずです。だってそうでしょう。仕事によってストレスが溜っています。そしてそのストレスをなくすには仕事をやめる以外はないと教わって、ストレスを没くそうとするストレスを感じています。その既往症のストレス(ストレスをなくすためのストレス)が余計なストレスです。そのストレスだけは、明きらめによってなくすことができるのですから、それがいちばん妙策ですよ。まあ、おあきあらめなさい。」
  • プラス思考になれなくて困っています・・→ 馬鹿やって下品に笑って自分を売り込むタイプがプラス思考と勘違いしてはいないか
    「世間で流行している意味でのプラス思考と、佛教の教えはずいぶん違っています。仏教の教えはむしろ「マイナス思考をするな」といったほうがよさそうです。あるいは、「自分を否定するな、自分を大肯定せよ!」と言った方がよい。(略)
    自分を変える必要はありません。
    自分を変えようとするのは、自分を否定しているのです。自分を大事にせよ、自分を肯定しなさい、というのが仏教の教えです。(略)
    仏教の教えを端的に言えば、私は「諸法実相」だと思います。(略)
    換言すれば、宇宙に存在するすべてのものが最高の価値を持っているということです。(略)
    ちょっと表現を変えると、これは「なんだっていい、どちらでもいい」となります。どんな人間でもいいのです。美人・不美人のどちらでもいい。陽気な性格でもいいし、陰気でもいい。(略)
    だとすれば、いわゆるプラス思考の出来る人はそうすればいいし、プラス思考の出来ない人は無理にそうなる必要はありません。」
  • セックスレスに悩んでいます・・→ 夫婦を繋げる最尊最上甚深不可思議なものがセックスである。ただ二人で抱擁するだけでいい
    結婚生活においてセックスがいかに重要であるか、わたしは、いくら強調しても物足りないと思います。(略)
    人間は動物と違う。だからこそ、人間にとってセックスが大事なのです。(略)
    セックスを嫌う夫婦はどこかおかしいのです。もしもかりに、夫婦のどちらかが、疲れたからセックスをしたくないと考えているとすれば、それは疲れるような生活をしている点に問題があります。疲れないように残業をやめるとか家事を減らすとかするべきです。(略)
    じつは、日本人はセックスについてもうひとつ大きな誤解をしています。それは、どうやら日本人は、セックスといえば性器の結合及び挿入、よりあからさまにいえば射精のことだと誤解しています。(略)
    夫婦が夕食後、しばらく読書をしたり仕事をした後、二人が寝室に入ります。ネグリジェ姿で音楽を聴きながら、軽くブランデーを飲む。そして二人が軽く抱擁する。三十分か一時間、二人がそういう結合の時間をもつ。それが前戯です。そして、それがセックスなのです。それだけで終わってもいいのです。その後は自由です。」
  • 不妊により周りからのプレッシャーが辛い・・・→ それだけ人生やって未だに子どもは授かるものであることさえわからぬ、救いがたき低精神性の日本老害衆
    「どうしてこんな社会になったのでしょう。その原因の最たるものは、わたしは、親が子どもを「つくる」という考え方にあると思います。いまの日本人は、子どもは親が自分の意思で作るものだと思っています。「結婚したばかりだから、子供をつくるのはまだ早い」とか、「もう、ぼちぼち子どもをつくろうか」といったふうに。しかし、
    子どもは親がつくるものではありません。昔の人は、子どもはほとけさまから「授かる」ものだと考えていました。だが、最近の日本人に「子どもは仏さまから授かるものですよ」と言いますと、「でも授かった以上は親のものでしょう」と、所有権の主張をしかねません。それでわたしは「授かる」というのものやめて、子どもはほとけさまから「お預かりする」ものだと言っています。ほとけさまは夫婦に、この子を幸福にしてやってね・・と、預けられるのです。」
  • ペットの急死から立ち直れません・・→ 現実を受け入れられないことの実体は、何のことはない、自分への執着である
    「まず、愛の中にある利己心に気づいてください。夫を自分の都合に合わせて愛する、娘を自分に属するものとして愛する、ペットを自分の所有物として愛する、そのような愛は本質的にエゴイズムだと気づいてください。娘には自由に行動する権利があり、ペットにも自由に行動する権利があります。ということは、ペットには死ぬ自由があるのです。ペットが死んだから悲しむのは、飼い主の傲慢であり、利己心でしかありません。その認識の上に立って、次に、真実の人間関係を築いてください。(略)
    真実の人間関係は甘えではありません。また打算的な結びつきでもありません。お互いが相手を人間として認め合って、赦しあっている関係です。」
  • ぼけた義母をみていると幸せなことなのかどうか・・→ そのまるごとの存在を肯定することが唯一の幸福への道
    「目が見える人は幸福で、目が見えない人は不幸だ、なんてことはありません。目が見える人のうちにも、不幸な人はいっぱいいます。目が見えないけれども、幸福に生きている人もいっぱいいるのです。わたしたちは、どうも人間をロボットのように部品で組み立てられている存在に思っているのではないでしょうか。部品の寄せ集めと見るから、頭の悪い人間より頭のいい人間のほうが上等で、目が見えない人より目が見える人の方がいい、足の不自由な人より健脚の人がよく、心臓の悪い人より健康な心臓の人のほうがよい、といったふうに判断するのです。(略)
    人間は「まるごと」の存在です。わたしたちはほとけさまから、この「まるごと」のわたしという存在をお預かりしているのです。(略)
    わたしといった存在、自分といった存在は、ほとけさまからお預かりしているものです。(略)
    わたしたちはお預かりしたままの自分を、そのままお預かりしなければならないのです。(略)
    わたしたちはみな、いまある、そのままで幸福に生きることが出来るのです。怠け者は怠け者のそのままで、目の見えない人は目の見えないそのままで、幸福に生きることがでます。それなのに、わたしたちは、ややもすると自分はこのような欠点があるから不幸だ、と考えます。そして他人をうらやましく思うのです。そいういう考え方でいる限り、わたしたちは幸福になれません。」

2006年2月25日土曜日

「他力」という考え方

「本願他力」。
通俗的に使用される他人任せという意味とは全く異なる、その発想の革命、宗教とはこのこと也、ともいえる極めて重要な思想であります。

  • 他力思想は他「人」任せというちっぽけな話ではない
    他力本願という揶揄的な表現ははやりの「自己責任」の対極として使用され、その意図するところは他人任せ、自分の行動に責任を持たない無責任、というところでしょう。
    少し昔に五木寛之さんの「他力」を読んだときはもう一つ言っている意味が分からなかったのですが、こうして仏道を学ぶ中、特に浄土門の考え方に触れていく中で、他力というのは全くそう云うことではない、非常に宗教的精神世界的には重要な考え方であるということが分かってきたのです。
    他力とは、他「人」任せということではありません。人間というような小さな存在ではなく、処により「神」「仏」「大いなる意志」「宇宙意志」と言われるような時間や空間を超えた、目に見えない壮大なる存在の力を認識し、それを肯定して踏まえた上で行動をし生きていく、それが他力思想だということであります。
    つまり、他人任せや無責任というような人間同士の社会規範の中での狭義の話ではなく、もっと個々人の内面の思想を意味するのです。
  • 計り知れない湧き出るような精神の高揚自力思想の固まりのような考え方で、自分の無能を呪い、自己嫌悪に落ち入り、苦悩しながら今日まで生きてきた私ですが、常に漠然と人間には計り知れない大きな存在については意識をしていました。
    ここにきて、他力とは自分の中ではこのことだったのかと、実際の経験の中の例で置き換えることができるようになり、痛く感激した次第です。
    私が信条としてきたことに、「これだ、と直感したものは、何よりもそれを優先させてとりかかる」ということがあります。
    「思い立ったが吉日」「満を持しての・・・」という言葉に近いのでしょうか。例えば、このサイトの中に詰っている文章、音楽、そしてこのサイトを作ろうと動いたことも含め、みなそういう過程を経て成立したものばかりです。つまり、計画的にいつこれをやってこれをこういう意味があるからこのように今度作ってみよう、というような感じでできたものではありません。何より、心の底から「今こそそれをやるべきた、こうやればよいのだ、やり方がわかったぞ!」という閃き、直感というものがあって、湧き出るような感覚が私を動かしたのであります。
    それは激情ともいえる並々ならぬ精神の高揚です。
    これは、今夢中になっているものがなくて手持ちぶさただから、○○でもやってみるか、とかこれもおもしろそうだから手を出してみるか、という次元のものではありません。また、夢中になれるものはこれに決めたから頑張るぞ、とか、これに一心に取りかかってみせるぞ、と自ら決断を下しても、その高次元の精神高揚は実現しません。
    つまり自力でいくら思いこもうとしても無理なのです。
    自分の意志でコントロールできる範囲外の話なのです。
  • 他力を感じた瞬間を大切に
    ですから、そういう状態が一気に沸いてくるというのはそうざらあることではなく、だからこそその状態が発生したときはその気持ち・モティべーションをいかに大切にするか、その稀少さは痛いほど分かっているのです。実現するためには寝食を忘れてもやる価値があると経験的に認識しているのです。
    そしてその行動については未だ一度たりとも失敗の結果に終わったとかやって後悔したとかいう念に捕われたことはございません。満足だけが残るのです。
    後で振り返ってみると、いやはやよくもまあこれだけのことをやったものだと、我ながら感心し、自力の120%位が発揮されていることに気づいて驚愕するのであります。曲作りにしても、小説書きにしても、旅にしてもそうです。もっと卑近なものとしては買い物をするときのインスピレーションについても同じような経験があります。
    自分のコントロールできないものを明確に自覚し、その前向きな力を得る経験は、頻繁にあるわけではありませんから、その縁を大切にすること、それが重要と考えます。
  • 自力と他力は両輪であるただ、一つ言えるのはそれらは無の処から生じたものでは決してないと言うことであります。
    今までの自分の蓄積があって、実になるもしくは花が咲く瞬間を迎えることとなった、そんな感じです。
    また、思い立った後の実際の行動は、まさに自力がものを言います。頭脳で試行錯誤を反復し、構築するために必要なものを洗い出して順につぶしていく作業は自力そのものです。
    早い話が、自力だけ、他力だけ、ということはなく、ここでも仏教の根本原理である中道に行き着くのです。両者の和がすべてです。
    我々現代人は特に自力思想に偏りがちです。目に見える科学が優先されすぎた結果だと思います。学校でも他力的な発想を学ぶことはまずありません。自力偏重は結局は競争社会や精神病の根源となっていきます。他力が存在するにも拘らず、それを完全に無視すれば当然の帰結とも言えます。真理が見えていないわけですから。
    他力が存在するからこそ、人生は思わぬ展開だらけではないですか。自分の意志だけでコントロールしているなんていう考えは思い上がりであります。そこからは、自分が思い通りにならないのは、他「人」が邪魔するからだという発想しか生まれてきません。または、自分が無能だからだ、努力が足りないからだ、という自分否定の発想です。
  • 三毒を制して生きる智慧
    三毒の煩悩(貧瞋癡)を考えますと、どれもが実は自分でコントロールできていないことの表層現象であることがわかります。
    貧瞋癡は「自分の思い通りにさせる欲望を貪る」「顔や心で怒る」「愚痴を漏らす」という毒でありますが、怒るということを考えてみます。子供を「叱る」ということは必要であり、その際叱る側で大事なのは心は平静にした上で諭すということであります。それに対して「怒る」というのは、感情に振り回されもはや自らコントロールを失っている状況であります。躾と称する児童虐待は言うまでもなく、街中でもしばしばそんな醜態を曝している母親を目にします。そんな怒りに基づく言動は、子供には良い影響を与えるはずはなく、効能もあるはずがありません。
    それがオコル、イカルことであります。
    この愚鈍な所業を常に自覚し、認識し、内省して生きていくことが、煩悩に振り回されがちな人間の心から自らを解放する唯一の方法ということになるのでしょう。
    怒る自由があるんだ、怒鳴りつける自由があるのだ、それは相手が俺に迷惑をかけるからだ、という大馬鹿者がこの日本には蔓延していますが、そんなものがあるわけがありません。
    何も束縛というのは、社会制度だけの専売特許ではないのです。社会制度上(法律上)禁止されていなければそれが自由である、といっているのでは、あまりに人間の歴史、この世の普遍の事実を知らなすぎます。木を見て森を見ていません。
    自らの内にある愚かな感情、醜い感情の奴隷となってしまい、そのことを自覚せずにしかめっ面をして生きる人間の方がよほど問題は深刻であります。心の平安、幸福というものがその人間に訪れることはまずないでしょう。常に他人及び自分を悪として捕らえ続けるのでしょう。
  • 人間の普遍性を思えば、他力思想を思惟せざるを得ない
    「fight rom inside」というロジャーテイラー作曲のQUEENの名曲がありますが、人間として生を受けた限り、いつの時代いつの世界でも絶対的なことが一つあります。人間という身体と精神を備えて存在するということであります。仏教では色受想行識の五蘊として明確に規定し、それを前提に皆話を進めています。
    当然すぎるこのことを忘れてものを考えるからおかしなことになるのです。
    その大原則を押さえているということだけでも、仏教の偉大さ、なぜ数千年の歴史に耐えてきたのか、はっきりします。
    それを抑えて、人間の所業を分析すれば、すべての因縁生起により世の中が繋がって存在していることが自ずと明確になり、更にそれを大きく抱擁する何か、自力以外のものがあるという結論に至らざるを得ないと思うのです。
    より大きな視点で自分たちは何なのかとらえていく上で、これからの人生を如何生きるかを考える上で、大きなヒントとなる発想の有力なものの一つが、「他力」の思想である、そう私は捉えています。