2007年6月7日木曜日

遠藤誠 ~共感した名文・名文句~

本業仏教徒、趣味弁護士。怪物弁護士と仇名され、オウム真理教青山弁護士の弁護人を務めて、世から誤解を受ける。一貫した仏道の原則に従って、真摯に生きた生き様が時には人から後ろ指をさされても、極めて筋が通った自称「釈迦マル(釈迦+マルクス)主義者」。ユニークだが的を射た指摘で世を叩き斬る痛快文章が堪りませんナ。


  • 今のお寺に仏教はない/現代書館
  • 誰もが僅かな賽銭に期待をかけ、法事に坊主に金を払って安心するこの発想。これが心底嫌である
    新興宗教についてどう考えるか・・・・
    「まやかしですね。(略)真の宗教というのは、拝んだから病気が治ったり、交通事故が防げたりというような迷信ではない。病気になろうが貧乏になろうが、配偶者に裏切られようが、へとも思わない自分になることが本当の信仰なのです。今の新興宗教は、八百屋に行って金を出して野菜を買うのと同じで、金を払って拝んでもらって反対給付を得るという、物の売り買いを宗教的な装いでカモフラージュしただけのもので、まさにサギだね。」
  • 寺が拝観料とって当たり前の顔をしていていいのか?
    「いったい、仏教徒が、それぞれのお寺のご本尊を通じて如来に対し合掌し頭を下げるのに、どうしてカネが要るのか。これは、見物小屋や観光株式会社以外の何物でもない。」「フザケルナと言いたい。いったい、見世物小屋のどこに「信仰」があるというのか。如来と衆生とが、自由に会うことをへだてている者は、いったい誰なのか」
  • 現状の堕落した葬式仏教と民衆の関係を作った元凶「寺請制度・檀家制度により、日本国中の寺に、庶民の信仰を統制する権限が与えられると、檀家にたいする寺の横暴は、その極みに達した。(略)生まれたときから自分の葬式寺がきまっているということになった。(略)そのお寺の教義に対する信仰とは何の関係もないというパターンが形成されるに至ったのである。」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門/現代書館
  • 些末なご利益を期待して周りとただ足並みをそろえて車に札を貼る厚顔無恥な連中は極めて不愉快である。
    「道元さんから、二十世紀のわれわれ現代人が訓えられる点は、仏教というものに対して、物欲しさでもって対してはならないということです。」「成田山に行って、ぜにを上げて護摩をたいてもらって、お札をもらった。お札には、「交通安全」と書いてあるからもうあとは余り注意をしなくても絶対大丈夫とか、あるいは「家内安全」のお札をもらったから、女房には尽すべきことを尽さなくても死ぬまで女房とけんかしなくて済むとか、あるはい「受験合格」と書いてあったから、きょうからは寝ていてもいいわいとか、いったようなものが仏教だと思ったら大間違いだ。」
  • 我による叱りはいけません。
    「我々が、人を叱るとか、人に注意するとかいう場合によく考えてみますと、口先ではいろいろ『お前のために言っているんだ』とか言っておっても、腹の中では、自分の顔に泥を塗られたとか、或は、相手の人が自分の思うとおりにならないことに対する怒りとか、不満とか、或は自分の立場を無視されたことに対する怒りとか、そういったものが、本当は自分の中にあって、それで相手に対して『このヤロー』とか『そんなのやめろ』とか『こうやれ』とか言って、呵責きしをやっている場合が、少なくない。」
  • 創価学会の行動は、本来の仏教から外れてしまっているのです。
    世の法律、社会のしきたりという、だれもが疑わずに信じていることに対しても否定的な目でまずみる。すべての考え方をひっくり返してみる。その上に立って初めて自由自在なものの見方をする。それが仏教であり禅であります。何か一つのものにとりつかれたら、もう途端にその人は自由自在ではない」「創価学会などというのは、そいういう意味ではまことに対照的な行き方です。南無妙法蓮華経に執着しているわけです。日蓮さんないし池田大作さんに執着をしている。」
  • 「最初はやはり『衆事』、もろもろのことも、ある程度は見学しないことには食わず嫌いになってしまう。特に創価学会の人にそういう傾向が多い。創価学会の方々は、真言宗を勉強し、天台宗を勉強し、曹洞宗をやり、臨済宗をやり、日蓮宗をやったうえで日蓮正宗というものを選び取っているかというと、そうじゃないので、たまたま隣にいた人が熱心な学会の人だったとか、いろいろとしつこい折伏に染まって自分までそうなったとか、そういう人が大部分名なわけで、彼らにとっては創価学会の教義が最も大事なのかもしれませんが、しかし、それ以外にもひろびろとした別の世界があるんだということが、彼らにはわからない。またわかろうともしない。意識的に目をつぶっていますね。それじゃだめなんだ。それでは、『イワシの頭も信心から』になっちゃいます。」
  • 「学会が信ずるという日蓮正宗の根本的な教義が末法思想です。(略)つまりお経の否定ですね。じゃ、何を末法における真理というかというと、彼らに言わせれば日蓮大聖人の御書であるという。(略)それと日蓮さんが発明したという南無妙法蓮華経という題目。(略)お経を否定するといっても矛盾があるのですね。否定すると言っておりながら法華経というお経だけは否定しない。ところがこの法華経というお経も、彼らの教義からすれば正法時代にできたものなのです。そこに創価学会の根本的な矛盾がある。そこで『それは矛盾じゃないか』といままでぼくは二三の創価学会のおえらがたに質問したことがあるのですが、、満足のいく回答をしてくださった方は一人もいなかった。」
  • 「要するに数の多少をおもんばかることなかれ、また数の多きを誇ることなかれ。とにかく禅というのは一人一人のものなんです。だからまず、あなた自身がやること、そこから先どうなるかは心配するなということです。この点では、創価学会なんかは逆をいっていますね。『おれのところには何百万世帯集まったぞ。こんなに人間がいっぱい来ているんだぞ。どうだ、スゲエだろう。だからおまえも信じろ』と。(略)ところが、本来の仏教は数じゃないんですよ。一人のものなんです
  • 「この教条主義者はどんな世界にもいる」「言葉の文字面だけにしがみついちゃうと馬鹿みたいなことが時々おこる。創価学会の会員は概ねこの教条主義者である。『日蓮大聖人の御書何ページにこうかいてある。だからこうする。』と。『池田会長はかくかくしかじか言った。だから俺もそうする。』と。いかなるときに日蓮さんが、そうお述べになったのか、いかなるときに池田さんがそういうことをおっしゃったのか、そういった背景とか本当の意味を全然考えずに、うわっつらの言葉だけで適用しようとする。これが教条主義。」
  • 在家で『出家』する
    「(離婚調停が増えているのは)要するに相手に対する要求が多すぎるんですね。」「その要求が通らない。通らないからそこに不平不満が出てくる。そしてこの相手に対する過大な要求がどこから出てくるかというと、余りにも相手に寄りかかり過ぎているところから出てくる。そもそも寄りかかりすぎはどこから出てくるかというと、それは相手に対する執着心から出てくる。」「だから家を捨てろといっても、必ずしも離婚する必要はない。一緒に住んでいていいんですが、もっと軽い、もっとさわやかな心持ちを、夫も持ち、妻ももっていれば、その夫婦は絶対に離婚にならない。親子関係もそうですね。」「執着心を断ち切り、一歩距離を置く。これは一見、冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、大局的に見れば、それがかえって二人の、或は親子の関係を円滑に行かせる道です。」
  • 世間の目「物をしゃべる場合でも、行動する場合でも、ただ、人の目ばかり考え、人の目ばかり気にする。もともと大我は本当の我ですから、人の目なんか屁のカッパで気にしない。人の目ばかり気にするのは、偽我、自我、小我の方である。こうやったら世間からどう思われるとか、ああやったら世間様から後ろ指を指されないとか、日本人というのは特にそうです。(略)人目が気になっているうちは絶対に仏道は達成できない。」「本当に人の目というのはそのように無責任きわまる」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第二巻/現代書館
  • 権力と仏教は歴史的に密であったが、仏道の本来から外れている。
    道元禅師は権力に近づくことを否定した。仏法に対する純粋な自信・確信であるという文脈で・・・「この逆を行ったのが日蓮聖人です。日蓮聖人は、権力を通じ、権力を折伏することによって、逆に日本全国に題目を広めようとした。結局は志を果たせなかったが。そしてその衣鉢をついでやっているのが創価学会と公明党です。だから政界に進出している。」「法華経安楽行品に『国王・大臣に親近せざれ』という言葉がある。権力者とつきあうな。だいたい宗教が堕落し始めるもとというのは、すべて権力との癒着です。権力をパックにして、自らの権力をほしいままにしようとする。」
  • 世間の常識をぶち破ること、これぞ仏教の真髄!
    「仏法というと、ふつうの人は、じいさんばあさんがあの世行きの準備をするための、まことに消極的、退嬰的、じじむさいものと思っているけれども、本当の仏法というのは、きわめて人間の主体性を重んずる。ところが、日本の世間の常識では、『長いものには巻かれろ』とか『出る杭は打たれる』とか、世間の目を気にしろと言う。没個性的な日本においては、死ぬまで事なかれ主義で、安楽に生きるためには個性を没却しなければならない。しかし、仏法は逆なのです。個性を最大限に出す。即ち主体性です。そのためには世間の常識すら平気でぶち破る。すさまじい宗教です。」
  • 「『レジャー・レジャーとみんなが言うから自分もレジャーに行くんだ』ということで、往復の乗り物の中でもみくちゃにされ、財布の中はすっからかんになってわが家に辿り着いたときには疲労だけという、レジャーの『楽しみ』が、実は本当の人間の心にとっては苦痛でしかないという本質を仏教では『五欲に貪著する苦しみ』と教えています」
  • 命を粗末にしないということ
    「身体を惜しんだり命を惜しんだりしているくせして、結局は命を粗末にしたり、身体を粗末にしたりしているんです。なぜならば、くだらなく人生を生きて死ぬということは、身体と命を粗末にしていることなのです。したがって、仏法というものは、もっとも身体を大事にし、もっとも命を大事にする行き方なのです。人間に生れることができ、かつ仏法にあうことができた命というのは、最高の命なのです。最高のその命を無駄にしてはならないのです。」
  • (再三ながら)創価学会は仏教の宗派とはいえません
    「『生死事大なり、無常迅速なり』。」「一体生きるということはどんなことなのか。何のために生きているのか。また、死ぬということはどんなことなのか。これはわれわれ人間にとってまことに、重大な問題なのです。それをそのうち考えよう、そのうち考えようなんてモッタラモッタラしているうちにだんだんだんだん年をとってくたばってしまうのです」
  • 「公明党が天下を取った場合、日蓮正宗ないし池田大作宗以外の宗教をどうするのか。もし弾圧するとすれば憲法二十条に違反する。弾圧しないとなれば、弾圧しろと命じた『立正安国論』に違反する。それを一体どうするのか。」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第三巻/現代書館
  • 初詣の大衆の醜さは何だろう、と昔からの謎が解けました
    「ふつう仏教を何のためにやるかといえば、圧倒的多数の方は、商売繁盛、家内安全、身体堅固のためといったことです。毎年初詣でに参賀する人間が全国で何千万人いますが、これは要するに、何かを得ようとし、ご利益を求めていくわけです。ところが本当の仏教は、全く逆なのです。初詣では仏教ではなく、八百屋に行って金を払って、反対給付として大根とか胡瓜を買ってこようとするのと全く同じなのです」
  • 心不可得
    「たいがいの人は、自分の身体を自分のものだと思っています。しかし、もし本当に自分の身体が自分のものであるとすれば、自分の思い通りに動くはずです。」「しかし、自分の心臓に対して『心臓とまれ!』と命令しても、心臓はとまりません。(略)このように見ていくと、じぶんのからだだというのは、自分のものではないのです。」「同じように、自分の心も不可得なのです。ふつう自分の心は自分のものであり、自分の本質は自分の心であると思っていますが、はたしてそうでしょうか。自分の心が自分のものとしてつかめるのであれば、自分の心に対して命令を下せるはずですね。ところがそうじゃないから、人は悩み、悲しみ、イライラし、怒るのです。」「しからば、このからだと心は誰のものでしょうか。それは(略)法身仏のものなのです。そう思うと気が楽になります。『文句があるなら、私の後ろにおられる法身仏に文句を言え』と言っておけばいいのです」
  • 自分でコントロールしているつもりで、実は煩悩の奴隷である現代人
    「(釈迦や道元)の場合は、そういう欲(煩悩)を主人公とし、自分自身をその家来にするという生き方では無しに、自分自身が主人公となり、自分の欲(煩悩)を家来にして添えを支配するという生き方をとったのです。この点、ブランドもののファッションとグルメと風俗産業とレジャーにのみうつつを抜かしている現代人は、完全に煩悩がご主人様になり、自分がその家来になっています」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第四巻/現代書館
  • 現代病巣の根源
    「今の日本は完全に狂っている。どこから狂ったか。結論を先に言うならば、それは戦後の生産第一主義・利益第一主義・消費第一主義・物質万能主義と拝金主義による人間の尊厳と人間性の喪失、これである。」
  • 仏教における苦・楽について
    「現代の俗世間における、社会常識から言えば、性欲や食欲や金銭欲や名誉欲や権力欲を追い求めて一定の結果を得られることを楽といい、得られないことを苦と言っていますが、仏教で言う苦とは逆に、そのような煩悩をおのれのご主人様とし自分がその煩悩の奴隷となってあっちにぶつかり、こっちにぶつかることを苦といい、逆に煩悩の奴隷となっている自分自身を180度転換して煩悩を自分の奴隷とし、自分がご主人様となって自分の煩悩を自由自在に操れるようになったときのことを楽と言っているのです。」
  • 卑下も増上慢
    「増上慢という言葉があります。(略)
    本当は、自分は仏法の器なのに、そうではないと卑下することも逆の意味で増上万なのです。どうしてかというと、そういうことは、法身仏から賜わっているみずからの仏性に対する何よりの侮辱になるからです。すなわち、『①必ず悟りを得られるのに、さぼりたいので、自分はだめだと思って努力をしないこと ②実力があるのに、さぼりたいためにそれを認めようとしないこと』」
  • 今を大切に
    「私は午後十一時には必ず布団に入り、午前七時には、必ず起きています。(略)
    座禅も毎朝、自宅で十五分やっています。(略)
    いずれにしろ、大事なのは、数十年先でもなければ、来年でもなければ、明日でもなければ、今日だけなのです。今のこの一瞬間に、からだじゅうの全細胞をフル回転させることです。ところが、今の人は、たいがいそうではないですね。何十年か先のために、今を犠牲にしています。(略)
    貴重な今を犠牲にしているのです。幼児教育とか、受験のための塾とかのために。」
  • 平然とこのようにして社会の中で人生を消費している多くの日本人
    「女も男もファッションだ、ブランドものだと血道をあげ、グルメだといって必要以上に美食し、高いマンションをローンで買うため、母親まで働かないとローンを返せなくなり、結局子供たちがまともに親からしつけられないために非行や犯罪に走るという現象が頻発しています。ここらで日本人は180度生き方を転換しないと、この社会は、滅茶苦茶になるでしょう。」
  • これが人間の出来の差であり、まず私の達したい境地です
    「小人物や下等な人間は、ちょっとでも人から乱暴な口をきかれると、トタンに切れてしまい、『恥をかかされた』と思うのです。その点、大人・上器はちがいます。大人物・上等な器の持ち主は、ひとからぶんなぐられても、仕返しをしようとは思わないものです。(略)
    その時私は無視します。なぜならば、バカとまともにケンカしていると、こっちもバカになってしまうからです。同じように、お釈迦さまや道元さんは、ひとから『バカ』と言われようが『気違い』と言われようが、あるいはぶん殴られようが、意に介さなかったのです。
  • 仏道はそれ自体が最高のもの。初詣では昔からその胡散臭さが大嫌いでした「仏教や禅や念仏や唱題というものは、それ自体が最高のものであって、何かのためにする手段ではないのです。何かのために仏法を学んではいけないのです。何か利益を得るために仏法を学んではいけないのです。したがって、今の仏教教団は、すべて仏法に反しています。というのは、たとえば初詣でがそうです。毎年、正月の三が日には、みんな、どこかに初詣に行きます。(略)ちなみにどのお経を読んでも『正月に神社・仏閣にお参りしろ』とは、一言も書いてありません。ところで、初詣でにはなぜ行くのでしょうか。言うまでもなく身体堅固、商売繁盛、試験合格、良縁獲得、会社安泰、家族安泰などを願っていくわけです。そのために、おさいせんを払う。そして、どこのお寺でも、『うちのお寺におさい銭を上げれば、ご利益があります』と宣伝しています。」
  • 教育は親がすべて
    「小学校に入学するまでに、その子の性格は、基本的にできてしまっているのです(略)
    先生がはじめてしつけようとしても、もう遅いのです。したがって最近の少年少女の非行化の責任は100%親にあって、学校の教師にはありません。(略)
    少年犯罪に共通しているものは、いずれも家庭が崩壊しているということです。父親の影が薄い。(略)
    終戦後の親は、自分の人生観・世界観を持っていません。したがって、ただ『勉強していい学校に入り、いい学校に入って就職しろ』という、自分のしあわせのためには他人をけ落としてもいいというエゴイズム的しつけだけをするもんだから、昨今みられるような、非行少年・犯罪少年を生み出してしまったのです。」
  • 法門無量誓願学
    「私は、何の本を読んでいるときが一番楽しいかというと、お経や、この随聞記や、仏祖たちの言行録を読んでいるときが一番楽しいです。また、何を行っているときが一番楽しいかというと、お釈迦さまをはじめとする前期の祖師たちのように行動しているときが、一番楽しいです。ところが、現代人の好んでいるものは、そういうものではなくて、グルメと性産業とスポーツ見物とレジャーと金儲けだけです。しかし、そんなものは、ホンの一瞬、人間の末梢神経をくすぐるだけで、魂の奥底までずしんと来る永遠の喜びでは、絶対にありません。」
  • 「方便」が当面の自分の最大の課題であると思います「お経で方便というのは、あることを相手にわからせるためにその相手に最も適した手段・方法のことです。(略)
    ただ結論だけを押しつけるのではなしに、一見そのこととは別の話をしてやることによって、相手に『なるほど』と心の底から思わせ、相手の自発的意志によって、悪行をやめ、善行をやろうと決意させることをいいます。(略)
    親が子供に『勉強しろ』と言いたくなったら、一言もそれを言わないで、親自身が、机に向かって黙って毎日勉強すればいいのです。」
  • 不毛な議論・悪口が横行し不幸が増長することを常に忘れないようにします「この戯論やくだらない諍論が、非常に多いですね。(略)
    お互いに後味の悪い煩悩だけが残ってしまいます。(略)
    いずれにしても、人が人を説得するという点から見れば、言葉というものは無力なものです。人を説得するのに最もいい方法は、言葉ではなく、行動であります。(略)
    今の日本人は、すぐ『切れて』人の悪口を言い、人を責め立てて、怒り狂った目をして人をにらみつけますが、それはすべてアホのやることなのです。だいたい、相手に対して『馬鹿野郎』と言ったり、『怒目を以って人を』にらみつけたりすることによって、相手が心の底から改心したり、事態が好転したりすることはないですね。おおむね、その結果は、まずいことになります。(略)怒りは、結局は怒った人を滅ぼす敵なのです。お釈迦さまも言っています。『人間の心をむしばむ三つの猛毒は、貧すなわち欲と、瞋すなわち怒りと、癡すなわちバカである』と。」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第五巻/現代書館
  • 21世紀、かなり酷い世相のまま新世紀に突入した
    「日本も世界も、相変わらず乱れている。特に人間の心が。政治家も官僚も財界人も、そして一般庶民も、みんな世間の評判ばかり気にして生きており、少数の人を除いては佛教、とくに坐禅などには関心を持たず、金と財産ばかりを追い求め、こどもを猫かわいがりすることが親の愛情だと思い、ひとから文句を言われると腹を立て、松本智津夫とオウムの幹部を『早く殺せ、早く殺せ』とわめき、何か気に入らないことが起きると、すべてひとのせいと世の中のせいにし、『健康管理、健康管理』とあまり気を遣うものだから、かえってストレスがたまって病気となり、正月になれば神社・仏閣にお参りしてご利益を求め、カネにならないことは何一つしようとせず、食うためと称して悪いことをやり、金持ちにへつらって、ホームレスその他の貧乏人を軽蔑し、あふれる情報におぼれてアップアップしている。」
  • 葬式にカネを出して極楽へ行けるというあまりに安直な考え「お釈迦さまも道元禅師も、またそのお弟子さんたちも、在家の死者の葬式に携わったことは、全くないのです。なぜならば、お釈迦様や道元さんの教えによれば、人が死んだ後、どこで生まれ変わるかは、その人が生きているうちに行った行為だけによって決定され、それを残された遺族やその頼んだ坊さんの行為によってねじ曲げることは、100%できないとされているからです。(略)
    自分の利益しか考えず、そのために虐げられている人たちを踏みつけにして死んだ人間は、例え大僧正に来てもらい、一千万円もかけて長ったらしい院殿大居士の戒名をつけてもらい、何百万円もかけてそうし期したって、いずれ、修羅界か畜生界か餓鬼界か地獄界に生まれ変わることは、これまた100%確実なことなのです。」
  • 家族円満の秘訣は家族であるから・・という甘えをなくすこと「夫婦や親子は他人と思えばいいのです。他人ですから、自分の面倒をみてくれなくて当たり前なのです。それが自分の面倒をみてくれたら、腰が抜けるほど感動すべきなのです。少なくとも私は、そのように思って生きています。そうすると、いつまでも夫婦・親子の関係がうまく続くのです。」
  • 遠藤氏の鋭い指摘が実現化されぬことを祈るのみです。「この調子でいけば、そのうち北朝鮮の金正日が、米朝会談や日朝会談が中々妥協しないのに業を煮やし、またテポドンの一発でも日本の上空に発射すればアメリカは制裁と称して北朝鮮を空爆し、それに日本の航空自衛隊機も参加して逆に北朝鮮に撃墜され、日本人の兵士が四、五人殺されれば、一億二千七百万の日本人の90%が『鬼畜北朝を殺せ』とばかり、エキサイトしてくることは目に見えるようです。」
  • 他人のせいにする人間が蔓延する現代日本「何か気に入らないことがあると、すぐにそれを他人のせい、世の中のせいにしてしまいます。(略)
    本当に、2000年は十七歳の少年が、よく犯罪を犯しました。それもすべて『他の作と不作のみをみて、己の作と不作をみない』バカ息子ばっかりです。(略)
    (愛知の主婦殺人では)『人を殺す経験』をしたいのなら、自分を殺す経験をすればいいだけのことです。
    (佐賀のバスジャック殺人では)『世の中に腹が立つ』ひまがあったら、自分に腹を立てればいいのです。
    (後輩と母親金属バット殺しでは)後輩の言葉を無視しておれば起きない事件であり、また事件を起こした後でも、事件を起こした自分だけを殺していればいいだけのことです。
    (ビデオ店手製爆弾では)人を壊したければ、自分を壊せばいいのです。
    (タクシー運転手殺人では)遊ぶ金がなければ、遊ばなければいいのです。」
  • 最高の幸福=えり好みをしない=美人の無意味さ「至道、すなわち最高の幸福をつかみ取るには、このえり好み・好き嫌いの小ざかしいはからいをすっぱり断ち切り、すべてのことについてえり好みをしないことです。(略)
    美人と結婚したって、三年も同じ顔を見てれば飽きがきます。とくに、自分で自分を『美人だ』と思っている女ほど、鼻持ちならない生物はいません。ブスだって、心の温かい女性はいっぱいいます。」
  • 仏教は生きる行動規範そのもの。ご利益仏教はニセ仏教「『仏道を行じて代わりに利益を得んために仏法を学すと思ふことなかれ』。仏道というものは、我々が毎日を生きていく上において、いかに生きるべきかを示している行動規範そのものであって、何かを得るための手段ではないのです。ところが先ほども触れたように、今は、すべてのお寺や新宗教・新新宗教は、家内安全や身体堅固や商売繁盛や試験合格や結婚達成や、あるいは超能力を得るための手段として仏教なるものを宣伝しています。つまり、コンビニエンス・ストアにいってカネを払い、その反対給付として飲食物や品物を買ってくるのと同じように、お寺や宗教団体にカネを払い、その反対給付としてご利益を買おうとしているのです。(略)
    お寺や宗教団体にカネを払って何らかのご利益を得るということは、何ら科学的は立証されておらず、そんなものは全くの迷信です。したがって、今、日本国中のお寺と宗教団体は、すべて詐欺罪(10年以下の懲役)をおかしているわけですが、もともと佛道を信仰し、佛道を実践することによって、何かのご利益が得られるという考えは、この道元禅師の断定的表現にもあるように、きっぱりと否定されているのです。」
  • 現代の教育の元凶はこれにつきる「そのように育てられた子供たちが『己を利して人を損ずる』ことを当然と思う我利我利亡者に作り上げられるのは、当然のことです。考えてみると、今はやりの『規制緩和』『自由競争』『自己責任の原理』というもの、結局はそれによって資本の集中と独占をはかり、『中小企業はつぶれてしまえ』という弱肉強食の社会を作るために邁進しているのです。『弱い者は死ね』『己を利して人を損ずることが、何故悪い』という最悪の社会です。」
  • 日本の『首切り』社会を脱する方法「『乏しきを憂えず、等しからざるを憂う』のがあるべき社会の姿ですから、もしある企業の採算が取れなくなったら、その赤字を役員と従業員の全員で負担すべきです。たとえば一年間に赤字が一億円、どうしても出るというのであれば、それを各役員と従業員の給料額に案分して計算し、その分だけを全員賃金カットすべきなのです。たとえば社長から小遣いまで全員一割カットとか。」
  • ホームレスをゴミという子供たちの親の顔「貧しい人たちに対するこうした気配りは、今の時代なくなってしまいましたねえ。貧しい人たちの典型であるホームレスの人たちに対して、区役所や市役所や都庁の役人は、時々追っ払っています。『美観を損ねる』というんでしょうねえ。しかし、景色や環境は、人間のためにあるのであって、生きている人間の生存を否定して、何の美観なのでしょうか。ひどいのになると、少年たちがときどきホームレスの人たちを殴る蹴るし、時には殺してしまうこともあります。彼らはそれを『ゴミ掃除』といっています。ひとのいのちをごみと見る人間のいのちも、ごみということになってしまいます。彼ら少年たちの心は、ごみそのものであります。いや、そのような子供たちを作った親や大人たちの心がゴミになってしまったので、子供たちの心もゴミになってしまったのです。」
  • 人の長所を見ることがすべてを良い方向に向かわせる「私の主催する仏教会には、いろいろな人がきます。そして、どんな人にも欠点があります。愚痴蒙昧な人もきます。しかし、どんな人にも、少しはいいところがあります。私は、それらの人の中の、すこしでもいいところを見つけ、それをほめることにしています。欠点は攻撃しません。そうすると、そのいいところが、だんだんだんだん伸びていき、結果として悪いところが、だんだんだんだん少なくなっていくのです。釈尊も、すべての弟子にそのような教育をされたようです。」

  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第六巻/現代書館
  • 精神的に幼稚な現代
    「昏迷に満ちたこの二十一世紀の人類社会に老いては、最も古いものが、これからの人類を救う最も新しい世界となるわけです。それはなぜか。それは、人類の歴史は、技術的・物質的には進歩の歴史であったが、精神的心の世界においては、退歩の歴史であったからです。」
  • テレビはゴミ番組だらけ
    「仏道を学びかつ実践しようとする者が、何かをいおうとするときは、三回考えてから、言うかいわないかを決めなさいと言うことです。何を考えるかというと、『この言葉が、自分のためになりまた他人のためにもなるか、ならないか』とうことです。そして、ためになると思ったらいい、ためにならないと思ったらいわないことです。どうでもいいナンセンスなことは言うな、ということです。(略)近頃の人間は、どうでもいいことばっかり、しゃべっていますね。ケイタイ電話にしても、インターネットにしても、全くどうでもいいことばっかり、やりとりしています。また、テレビもそうです。瞬発力はあるのだけれども、人間、いかに生きるべきかについては考えたこともないような、頭からっぽのタレントたちの無駄なおしゃべりばっかりで、貴重な電波を消費しています。(略)
    私はこういう番組は、「カネをあげる」といわれても、絶対に見ません。頭がバカになってしまうからです。」
  • 執筆末期、遠藤氏の最後の告白「ガンによる壮絶な戦死の話をしましたが、実は、私も今、同じ症状にあるのです。(略)
    次第にやせていきます。ちょっと仕事をするとすぐに疲れるので、休み休み、書類の読み書きと原稿の執筆をしています。私自身の診断によれば、これは肺ガンであると思っています。ちなみに私はタバコを吸っています。しかし、私は病院に行きません。それはどうしてかというと、今私は七十歳。終戦前は人生五十年といわれていました。二十年も、余計に生かさせてもらっているのです。としに不足はありません。(略)
    もしこの肺ガンでそのうち私が死ぬのであれば、それは私の寿命(道元禅師のいう命分)なのです。ちっともジタバタする必要はないのです。死んだって、また、素晴らしい赤ん坊として生まれ変わることは、お釈迦様と道元禅師が保証していますから。」


  • 真の宗教 ニセの宗教/たま出版
  • 仏教の現状
    「生き生きとして、力強い仏教の真髄が、僧籍にある人間や学者たちの怠慢と無能のために、いかに歪められてきたかということです。(略)
    その結果、大多数の日本人は檀家というカタチで仏教と繋がっていながら、お寺から何の仏法の施し(法施)を受けることなく、葬式や法事、定期的な寄進などによって、一方的にカネ(財施)を巻き上げられ続けているのが現状なのです。こうして既成仏教教団が、怠慢、欺瞞、独善の上にあぐらをかいて経営維持にのみ専念している隙間を狙ってはびこってきたのが、『創価学会』などの新宗教であり、『幸福の科学』などの新新宗教です。」
  • オウムは邪教であることは自明のこと
    「一部の学者や評論家、劇作家などは、今もって『オウムの犯罪は許せないが、その教義や修行まで全否定するのは間違っている』と言ってのけます。進歩的文化人のしたり顔、ここに極まれりの観があります。(略)『仏法』に照らしてみた場合、オウムが邪教であることは自明のことです。この点で、仏教者・遠藤誠としてオウムを弁護できる余地は皆無であると私は断言できます。すなわち、オウムについての『六法』による判決は、まだ下されていないが、『仏法』による判決は、すでに下されているということです。ここのところをしたり顔の文化人は逆転させているのです。」
  • にせの宗教十箇条、大変参考になります
    「オウムが仏教団体でない根拠を思いつくままにならべたものです。(略)1 信者から最大限の財産を寄付させる
    2 死後のことばかり説いて『いかに生きるべきか』を説かない
    3 終末論を説いて脅かし、入信したものだけが救われると説く
    4 権力を志向する
    5 出家者に(つまり人間に)上下の差別を認める
    6 自分の宗派によらなければ救われないと説く
    7 教祖が『自分は悟った』と公言する
    8 教祖が信者に要求する修行生活を実践していない
    9 世の不幸を救うための行動を起こさない
    10 世の不幸を己の責任と自覚しない
  • 学校での宗教教育のススメ
    「学校教育に『宗教』を取り入れよという声があがっています。宗教についての最低限の知識ぐらいは習得させ、いかがわしい団体から勧誘されたときにそなえ、免疫をつけさせるという意味では私も賛成です。」
  • 執着への否定という大胆不敵な般若心経
    「だいたい宗教というものは、みな自分の宗教に執着しています。キリスト教も、イスラム教も、道教も、神道も、天皇宗という宗教も、みなそうです。ところが、この般若心経は、仏教に対する執着をも否定するのです。これは恐ろしい経典ですね。その点、この世には『ナンミョーホーレンゲキョー』という題目に、執着しているグループがあります。それを創価学会といいます。あれは、題目にもの凄く執着していますね。あるいはみずからの教勢拡張に、あるいは公明党の票集めに、ものすごく執着していますね。したがって、創価学会はこの点から言っても、仏教ではないのです。」
  • 人間崇拝は邪教と考えて間違いない
    「信仰の純粋性を保つうえからは、新宗教、新新宗教の教団にはいること自体に、大いなる危険が潜んでいることがわかります。なぜなら教団に入信した人は、『宇宙の大生命』を信仰・礼拝の対象とせず、『組織の中心者』を信仰・礼拝の対象とする傾向がきわめて強いからです。」
  • 真の宗教の真髄は同じ・・・私もこの遠藤誠氏のスタンスを目指します
    「キリスト教も、仏教も、イスラム教も、真髄はみな同じだというのが、私の根本的な見解です。いわんや同じ仏教の中で、宗派により、教えの真髄が異なるはずがないのです。(略)
    好きな宗派を選べばよいだけのことです。富士登山と同じで、登り口は複数あるけれども、頂上はたったの一カ所しかない。浄土真宗という名の登り口もあれば、禅宗という登り口もある。宗派の違いというのは、その程度の違いに過ぎないのです。
    こういう見極めは、私のように自由な一仏教徒が、とらわれのない眼で観るから、単純明快につくのです。専門知識で凝り固まった仏教学者とか、一宗派に没入しきった坊さんになるとそうはいきません。私の場合は、親鸞さんも、法然さんも、栄西さんも、道元さんも、日蓮さんもみんな好き。気が多いのです。各宗派の経典もみんなありがたい。(略)
    鼻持ちならないのは、オレのところの宗門が一番で、他はよくないと排斥する態度です。自分の教団の発展、拡張だけが唯一絶対の目的であって、それ以外のことは念頭にない。これは教団エゴイズムです。エゴイズムというのは、仏教の対極にあるものです。(略)
    その点からみても、今のお寺に仏教はない、今の新興教団にも仏教はない、ということになってしまいます。」
  • 葬式は仏教で否定、彼岸もデマゴギー
    「お葬式は、本来の仏教では否定されています。『死者はバラモンにまかせよ』これは、お釈迦さまが昇天直前にのこされた有名な言葉です。仏教というのは生きている人間が、生きているときに何をやるか、何をやってはいけないか、それだけが唯一の管轄範囲であって、死んだ先などというのは、邪教のパラモン教に任せておけ。仏教ではかかずりあってはならない。これが釈迦の教えであります。ついでにお彼岸についても申しておきます。彼岸の中日にご先祖さまのお墓参りをするという風習も、決して仏教本来のものではありません。あれは、明治天皇制のもと、春季皇霊祭と秋季皇霊祭との抱き合わせでまき散らされたデマゴギーです。幕末までは、あの催しはありませんでした。(略)
    いまの坊主は彼岸のことをあの世といっていますが、釈迦が彼岸といっているのはこの世のことです。この世に生きている人が、悟りをひらいたときに経験する世界のことです。(略)
    いま日本で行われている法事の慣習は、死んだ人間を相手とすることによって、坊主が安易に銭を稼ごうとした中国の唐代末期(九世紀)の坊主の陰謀と、それを宗教政策に取り入れた徳川家康及び政僧天海による檀家制度、さらにその上にあぐらをかいた日本の坊主による金儲け策のために一般化された、非仏教的行事なのであります。(略)
    ですから、お葬式、法事はまったくの茶番劇、本来の仏教とは無縁です。」


  • 絶望と歓喜(上巻)歎異抄入門/現代書館
  • 死後の世界等についての祖師たちの言説についてのユニーク解釈
    「おそらくお釈迦さまや親鸞聖人や道元禅師その他のお祖師方は、現世にありながら、こうした霊・光の生命という如来、、あるいは現世と来世との国境線を超能力によって、現実に認識されていたのだろうと思います。そうでなければ、そのようなことを、四千八百ものお経に、あちこちに詳しく書けるはずがありません。ところが近代以降、日本においては明治以降、自然科学に対するいわれなき盲信のみで、我々現代人の悩みがイッパイにされちゃった結果、古代人にはあった能力が失われてしまったのだろうと、私は思います。」
  • 澤木興道老師の言葉から
    坐禅によって悟りとか健康とか精神の安定とかをもらおうとするのは、乞食と同じだという。それを求めている限りはいつまでも悟りは得られない。同じことが念仏でもいえるんです。」
  • 自分は正しい、という人間への警笛
    「われわれは現在、一見、現象的には、人を殺さなくてもオマンマは食える。しかし果してそうだろうか。自分が、今、ここで飯を食っているために、自分以外の誰かを陥れていないだろうか。誰かの犠牲の上に自分がオマンマを食っているんじゃなかろうか。そう考えると、自分は、いかなる人をも犠牲にしていないぞと言える人は一人もいないはずである。絶対にいない。」
  • 宗教論で自力・他力は意味がない。必ず他力であるから。
    「およそ仏教が宗教である以上、自分の力だけを信じてやればいいということは、あるはずがない。自分の力だけを信じてやれるものは宗教じゃない。それは単なる哲学であり、修身の教科書にすぎない。したがっていわゆる聖道門も宗教であり、仏教である以上は、やはり自分自身の力の限界、無力さに対する自覚から始まっている。」
  • 廻向(回向)とは
    「いいことをやると遠藤誠にはそれだけのご利益、功徳が与えられる。しかしそれによって得られたその後利益は、他人にそのままただで全部あげちゃう。それを廻向というんです。ですから、今、坊主を呼んで仏壇の前でお経を唱えることを廻向と言っておりますが、そんなチャチなもんじゃない。本来の意味はすさまじいことなのです。ところが今の人間は逆で、とにかく人よりも一分でも一秒でも楽をして、人よりも、一円でも十円でも余計に銭を取ろうとする。だからアンチ廻向です。廻向の逆です。」
  • 現世利益が悪いのではなくその中の物質的利益がいかん、と整理
    「現世利益とは来世利益に対する言葉です。来世利益というのは、死んだら極楽に行くぞということです。これにたいして現世利益とは、今この世において、現在において幸せになるということです。ですから、現世利益を強調することは正しいことなのです。ただ正しくないのは、現世利益の中の物質的利益のことです。たとえば、成田山にゼニをあげて、護摩を焚いてもらって、交通安全や、家内安全や、試験合格を願うのが物質的利益。これは、本物の仏教とは全く関係のない迷信です。」



  • 絶望と歓喜(下巻)歎異抄入門/現代書館
  • 悪業の自覚があるかないかが宗教心に直結しています
    「現代の人は、本当は悪を行っていながら、それを悪とは意識しない。いいことをやっていると思いながら、客観的には悪を行っている。それが大部分である。前に十悪の話をしましたが、われわれが毎日やっている行動をその戒律に照らしてみると、ほとんどその戒律に反している。うそをつくな、二枚舌を使うな、人の悪口を言うな、よこしまな性交をするな、むさぼるな、怒るな、正しい考えをもて。このどれひとつして違反していないものはない。ところが、違反しているにもかかわらず、われわれはそれを違反と気がついていない。そこに現代人の最大の悲劇がある。ところが、鎌倉時代の人は、そうではなかった。たとえば漁民は魚を殺すことによって飯を食っている。ところが、仏法には不殺生戒がある。そうすると、自分は戒律を毎日破りながら飯を食っていることになる。そうすると自分は死んだら地獄に墜ちてしまう。そういう苦悩の上に当時の漁民は生きていた。そういう罪の意識、それが現代人にはなくなってしまった。法律に触れさえしなければいいんだというかんがえかた、もっとつき進めれば法に触れてもばれなきゃいいんだという生き方。そこいら辺から現在の精神文明の貧困と危機が始まっている。」
  • 仏法八万四千の法門の解釈と宗派に囚われない信心を保つ方法
    「仏教全体の立場からみると、阿弥陀如来だけが絶対ではないということです。それと同格なものとして観音菩薩と釈迦牟尼如来と薬師如来がある。その中で、日本においては、たまたま阿弥陀如来がもっとも多数のファンを獲得しただけのことで、したがって薬師如来を拝むのも結構、観世音菩薩を念ずるもの結構、釈迦牟尼如来を念ずるのも結構ということになる。これらは、いずれも単なる報身仏であって、その本家はすべてひとつの法身仏なのです。もっとも、わたしの場合、その法身仏に名前をつけるわけにいかない。なぜならば、それに名前をつけちゃうと特定の宗派になってしまうからです。そこで私はこれを「永遠のいのち」と呼んでいます。その永遠のいのちだけがほんものの法身仏であって、他は全部、その分身にすぎない。だから、阿弥陀如来を必死に念ずることも、その永遠のいのちを念ずることなのです。とすると、やれ浄土真宗が最高だの、やれ坐禅でなきゃいかぬだの、やれ南無妙法蓮華経でなきゃいかぬだのという論争は、しょせんコップの中の争いになってしまう。「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と古川柳にあるとおりです。」
  • 葬式法事は仏教にあらず
    「(浄土真宗仏光寺派僧侶が「浄土真宗東本願寺派」と書いた遠藤氏に、「そんな宗派はない。真宗大谷派だ」とかみついてきたことに対して)
    真宗といったのでは、真言宗と紛らわしく、また、いかなる宗派でも「自分の宗派こそが、真の宗派だ」と主張しているもんですから、分かりやすく浄土真宗と書いたまであり、また、東西両本願寺派(檀徒総数1306万人)にくらべれば、仏光寺派(総数14万人)などは、吹けば飛ぶような小宗派であるのみならず、東西両本願寺派と仏光寺派との間には、読経の仕方や葬式法事のやり方に細かな違いはあっても、教義の上ではほとんど違いがないので、仏光寺派を無視したのでした(なお、私は、読経の仕方のちがいなどはどうでもいいことであり、また葬式法事は、仏教にあらずして、バラモン教と中国の土俗宗教のミックスしたものだと見ており、かつ、東西両本願寺派と仏光寺派の教義の違いは、おそらくその和尚にも説明できないものと見ています)。いずれにしても、そのような枝葉末節のことに拘り、重箱の隅をほじくるような問題にのみ目くじらをたてて、肝心要の「自信人教信」(みずから信じ、また人を教えて信ぜしむ)という親鸞聖人の教えを何ら実行しようとしていないところにも、現在の教団と坊主の腐敗堕落があると思いました。」
  • 自然法爾の心が芽生えるということは
    「私は仏教をはじめてかれこれ二十年になりますが、最初のうちは、正直言って、たとえばこういうところを読んでも「そうかな」と思うだけで、心底から、阿弥陀如来とか、観音様とか、大日如来にたいする絶対的帰依心というものはなかなか芽生えてきませんでした。ところがその後
    私には自分の力の非力さというというものに思い至ることが次々とおきました。そして、いろんな苦悩、苦しみ、思いのままにならないことに対する焦りにぶつかればぶつかるほど、今はわりと素直に、朝、仏壇に向かって「南無阿弥陀仏、南無観世音大菩薩」と唱えられるようになってきました。ありがたいことだと思っています。」
  • 布施より信心
    「どんなにカネや物を如来の前にお供えし、どんなにカネや物を坊主にあげても、如来を信ずるという心がなかったならば、まったくご利益はないのです。まさに信心ある貧者の一燈は、信心の足りない金持ちの万燈より、ご利益が多いのです。」
  • 信心は自分でするものではない
    「だいたい信心とか信仰というのは、自分でするものだとみんな思っています。だから私たちもよく人から言われる。「遠藤先生は、仏教を熱心にやっているそうだが、私はまだその気になれません。いずれ片足が棺桶に入りかけた頃に、先生の仏教会に出席しましょう」と。そういう言葉が出るということは、自分の意志で仏教をやったり、あるいは仏教をやらなかったりすることができると思っているからです。(略)
    何かのためにする坐禅は邪道だとよくいわれています。澤木興道師も、「坐禅のための坐禅が坐禅だ」とよくいわれた。如来によってさせられている坐禅のことです。」
  • 「火宅無常の世界」の「火宅」ということの意味
    「火宅というのは、法華経の譬喩品第三にある話です。(略)
    この娑婆世界は、あたかも火が燃えさかっている大きな屋敷のようなものなのです。また、子どもたちというのはわれわれ衆生のことです。われわれ凡夫は、その燃えさかる火に気がついていない。明日にでも死が迫っているかも知れないのに、それに気づかない。今日だけ良ければいいんだというので、つまらないマンガ本を読んだり、麻雀をやったり、くだらない野球やスポーツのテレビを観たりして喜んでいる。」
  • 歎異抄における真髄を知る三つの話
    「もっとも心を打たれるお言葉は、第一に、親鸞の信心も法然上人の信心もひとつだというくだりです。第二に、阿弥陀如来の願も、よくよく考えてみたら、私一人のためのものだったということ。そして第三に善悪の二つ、いずれも私は知らないよということ。この三つをそれこそ「よくよく思い解き」、腹に収めてガッチリと自分の血肉にすれば、もうそれで親鸞教の真髄は会得できたといっても過言ではない。」