2008年9月7日日曜日

青山俊董 ~共感した名文・名文句~

尼僧の中でも傑出した洞察(有名な某尼僧は世間にどこか迎合した俗の臭いが消えないのであまり好かんのです・・)によって仏法のエッセンスを伝えてくださる希有の人。曹洞宗ならではの教えの尊さを説いてくれます。

  • 道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ / NHKライブラリー
  • 仏とは「お寺のご本堂の須弥壇の上に、金色燦然としたお姿で座っておられる阿弥陀様や薬師如来様、大日如来さま、そういう方を思い浮かべる人もあるかと思います。ああいうお姿をした方が見張っておられて、私どものお参りの仕方のいい悪い、お供えの多い少ないで、功徳を増やしたり減らしたり、罰を与えたりする、そんな仏様がどこかにおられるような勘違いをしている人もおられるのではないでしょうか。こうして私がお話をさせていただくことができる、皆さんに聞いていただくことができる。その間も、私を生かし続けてくれいているそのはたらき、それを名付けて仏と呼ぶのです。(略)
    あるいは「仏性」と呼ぶのです。」
  • 「宗教なんて大嫌いだ、人間が作ったものに縛られるなど」という人間に対しての回答
    ~人間の文化の営みで唯一超時代・超国境性をもつもの=真理=それが宗教なのです
    宗教は人間が作ったものではありません。人間が見つけ出そうと出すまいとにかかわらず、行われている天地悠久の真理です。そのことに、気づき、目覚め、その中で私どものいのちは、このように生かされている。だから、こう生きていこうじゃないかと教えられた。それが宗教というものであって、誰かが作り出したものではありません。ないものから作り出したというのなら、どんなにお釈迦様がご立派であっても、あるいはキリスト様がご立派でも、二千五百年前という、二千年前という時代的制約、あるいは、インドとか、イスラエルという地理的制約から、一歩も出ることはできなかったでしょう。誰かが見つけ出そうと見つけ出すまいとに関わらず、発見しようとしないとにかかわらず、行われている天地悠久の真理そのものが「宗教」の一番の元になっているのです。」
  • 人間の文化を、地球ができてからの流れで鳥瞰する「地球ができて四十六億年といわれていますが、この地球の歴史を一年にたとえてみますと、いのちらしきもの、微生物が誕生したのは、四月か五月なのだそうです。そのいのちを育み続けて、やがて人類が誕生するのは、十二月三十一日の夜十時過ぎだということです。そして、この人類が地球上に生まれて四十五万年、その人類の中で、文化らしきものを持ち得たのは、ようやくにして一万年だといいます。現在、世界をリードしている三大宗教と呼ばれるものも、たとえば仏法は二千五百年、キリスト教は二千年、イスラム教は千四、五百年の歴史があります。四十五万年の人類の歴史のなkで、わずかに一万年の文化、そして一万年の文化の歴史の中の、わずかに二千五百年、二千年、千四、五百年といいますと、ついこの間ということです。天地悠久の真理を見つけ出して、こうなっているんだよとお説きになった教えというものは、ついこの間のものであり、その教えの一番もとになったのは、発見する、しないにかかわらず行われてきた天地の姿です。そういう天地の姿、お釈迦様が見つけたものを「仏法」と呼んでいます。(略)
    そこに教えが生まれ、それが「仏教」という言葉で表されています。その教えが人の道でもあり、私どもの
    毎日の、今ここで生きる実践道でもありますから、道元禅師はまた「仏道」と呼び変えられました。仏法、仏教、仏道と呼び変えられている道元禅師の深いお心を心していただきたいと思います。」
  • 仏道は自覚の宗教「仏陀とは梵語で、訳して覚者、真理に目覚めた人という意味で、お釈迦様お一人の専売特許ではないのです。誰しもが自覚すれば仏陀なのです。「自覚する」、少し表現を身近な親しいものに替えてみれば「気づく」ということにはなりはしませんか。仏法はもともと仏のお命を生きていることに自覚して生きる教えといわれ、キリスト教が創造の神との契約の宗教といわれるのに対し、自覚の宗教と呼ばれるゆえんもここにあります。」
  • 「五味禅」は宗教とはいえぬ「ヨガのグループにお話にいったこともございます。この人たちも坐禅に似たことをします。たしかに新人の健康のために紅花はあるでしょう。けれども結果としておのずからそうなるのと、それがほしくて、それを目的として坐禅を組むのとでははじめから全く姿勢が違います。何かがほしいための坐禅、、あるいは何年坐禅をしたということを自分を飾る衣装にしている人もおります。これらを味付けされた禅、五味禅といいます。(略)
    肝っ玉を太くしたい、健康がほしい、悟りがほしい、受験に合格したい・・・。凡夫が真ん中に腰を下ろしていて、その凡夫がほしいほしいほしいの坐禅、これが餓鬼坐。あの人に負けたくない、この人に負けて悔しいと競り合いの坐禅が修羅坐。悟った、いい境涯になった、合格したと酔っぱらって有頂天になる禅が天上坐。とにかく、私だけが悟ればよい、私だけが立派に行いすませばよいというのが声聞坐・・・。そういう坐禅をしてはならないというのです。ほしがったり、キョロキョロしない。今やっていることを何かの足しにしようと思わない。今やっているそこへいろいろなもを持ち込まない。おごりたかぶったり、ひがんで落ち込まない。
    ひたすらにまっすぐに、無所得、無条件でそれに立ち向かう。そのこと自体を目的として打ち込んでゆく。そういうあり方を、純一の行、一色の弁道、一味禅などというのです。」
  • 仏道でいう善悪は超時代・超国境性を備えるもの「立場が変わると善悪が逆転するような善悪は、ほんとうの善でも悪でもない。時と所を超え、立場を超えて変わらぬものがほんとうの善であり悪であるべきものです。私どもの善悪はどこまでも自分の都合中心で、そこを良寛様は「人間の是非一夢の中」とおっしゃり、道元禅師は、凡情や凡眼でみたり考えたりしてはならい、お示しになりました。(略)
    お金や名誉、役に立つとか立たぬとか、そういうものさしを当ててつまるとかつまらんとかいう序列をつけるのが、凡眼であり凡情なのです。凡眼凡情では、計算に合うこと、名誉になることが価値あることとされます。そのようなことをはなばなしくやるのは誰にだって出来ることです。」
  • 子育ての一つの大原則「「百人の子どもを若人とも勉強嫌いにするたった一つの方法は、朝から晩まで『勉強しろ、勉強しろ』とがなりたてることです。間違いなく勉強嫌いの子どもができるでしょう。そんなことより、むしろ生きてゆくということはどういうことか、自分の足で生きてゆくということはどういうことか、親は一度の食事のために、一枚の着物のためにどれだけの汗を流しているか、子どもと一緒に仕事をすることで、身体で子どもにわからせることの方が大慈大悲なのです。」(略)
    子育てはそのまま自分を育てること。子どものお陰で親が親として、また大人として育ってゆくんですね。育ててやったんだという姿勢ではなく、子どもに私が育てられたと、子を拝む姿勢で子育てをしてはじめて、ほんとうの子育てができるというものでしょうね。」」
  • 仏道は「実相」であって、主義思想ではない「一度文字や言葉という文化が生まれると、その母体であった天地の実相から浮き上がり、言葉や文字だけが一人歩きを始めます。それが思想や主義などと呼ばれるものではないでしょうか。天地の事実、実相は一つですが、それをどう受け止め、どう表現するか。そこに違いが生じ、事実を切り離して表現されたものだけを相手に論じ合ってゆくとますます違いはひどくなり、たとえばそこに宗論のような争いも起きてくるというものでしょう。」
  • 僧のあるべき姿「『法輪転ずるところ食輪転ず』といってな、坊さんは仏法を学び、それを一つでも二つでも実践し、また人々にお伝えする。そのことだけを考えていれば、自分が食べてゆくこと、生活してゆくことなど考えなくとも、自然に授かるものなんだよ。』」
  • 道徳ではなく仏道の観点からも指摘できる話「(電車内で中学生と教師の集団がばか騒ぎをしているのにでくわし・・)「引率の先生はいったい何をしているんだろう?」とたまりかねて立ち上がってみると、どの先生も全く無関心といった表情で新聞を読んだりおしゃべりをしています。校外へ社会教育か何かで連れ出したときこそ、日本人にとかく欠けている社会道徳や常識的な心得を実際に身につけさせる絶好の機会なのに、この先生方は校外教育を何と心得ているのだろうと、いっそう腹が立ってきました。今、私のしていることが、周囲にどんな影響を及ぼしているか、眠れないでいる人はいないか、本が読めないでいる人はいないか、赤ちゃんが泣き出したのはわれわれのせいではなかろうか、という心の働きの出来る人が一人もいないのです。生徒はともかくとして、それを教えるべき先生がそれに気づかない。恐ろしいことです。自分さえ楽しければよい。そのために他人はどんなに迷惑しても一向にかまわない。自分にしか目が向けられていないため、他人の迷惑していることが見えないのです。見る目が最初から育てられていないのです。自分のことしか考えられないという、自己中心的な利己主義の芽だけをどんどん伸ばしているというのが、今の日本の社会のありようではないでしょうか。」
  • 他人に合わせることを口実に生きる人間のその日々の行為も、イコール紛れもない自分の人格となるのです「善いことであろうと悪いことであろうと、たとえそのことが人とのおつきあいでしぶしぶやったことであろうと、あるいは強制的にやらされたことであろうと、行為をしたという事実は事実として、間違いなく私の人生の一頁に永遠に刻み込まれてゆくのです。一瞬一瞬の行為の集積が一日となり、一ヶ月となり、一年となり、一生となり、またその行為が私の人格をごまかしようもなく刻みあげてゆくものなのです。」
  • すべてを自分の責任として引き受ける「愚かなもの、心ないものは、自分の人生を他人事のように白けてみているが、心あるものは、他人のどんな姿からも、私のこととしていただき、反省し、学んでゆくというのです。(略)
    都合の良いことは自分の手柄といたしますが、都合の悪いこととなりますと、責任を周り中に転嫁します。相手が悪かったからとか、社会が悪い、時代が悪い、運が悪い、先祖が祟っている、などといって。ときどき、「家族に不幸が続いて、あるところへいって見てもらったら先祖がたたっているといわれたので、先祖供養をしてくれ」という人がやって参ります。そんなとき、私は声を強めていいます。「思うようにいかない人生を先祖の責任に転嫁しないことです。ご先祖様は子孫の幸せこそ願え、不幸になるようになどとたたるはずがないじゃないですか。思うようにいかない原因は、他ならない自分自身の生き方にあったのではなかったかと、謙虚に自分の責任として反省し、思うようにいかないことをむしろ跳躍台とし、肥料と転じてこそ行くべきものでしょう。それに、
    たたってもらいたくないための条件付の先祖供養などは、先祖供養でも何でもありはしません。責任を転嫁した上に、先祖を脅迫しているだけです。供養は供養として、純粋に報恩行としてつとめなさい。うまくいかない現実は、自分の責任として引き受け、逆にプラスに転じてゆきなさい」と。」
  • 「仕事に生き甲斐を持つ」という嘘くさい美談に痛快な一石~この思考こそ佛道の真髄と思います「(モーレツ仕事人間の女性タクシードライバーとの会話で、女性タクシードライバー曰く)「私、少しでもじっとしているのがいやなんです。とにかく身体を動かして働くことがたのしいので、朝晩、それから日曜には畑仕事をやり、その合間を縫ってタクシーの運転手にも傭ってもらっているんですよ。毎日がとても生き甲斐があって、たのしいです」(略)
    (師曰く)「身体を張ってバリバリと仕事に取り組む、そのことから生き甲斐をちょうだいして、いきいきと生きることは素晴らしいことだけれど、それだけを生き甲斐としていたら、動けなくなったとき、目も当てられないほどみじめになりますよ。身体を張って仕事をする、結果がどんどん出る。子どもを育てる。野菜作りをする。やっただけは正直に答えが出て、たのしく、やりがいもあるでしょう。けれども、ほんとうの生き甲斐や人生の取り組みというのはね、気に入ったことだけに向かって、身体を張って剃れと取り組むということだけに生き甲斐や喜びを感ずるのではなく、病気になったら、病気に取り組み、寝たきりになったら寝たきりという、今ここの一歩にいのちがけで取り組むことをもって生き甲斐とする、というのでなければ本物じゃないのよ。夢中になって働き、働くことにのみ生き甲斐を感じていた人ほど、病気になったとき、はたらけなくなったとき、一気に生き甲斐を失い、虚脱したようになってしまいがちですからね」身体を動かすことによって生き甲斐を感ずることの方が楽なことなのです。(略)
    ほんとうの生き方、ほんとうの生き甲斐というのは、自分に与えられたそのことが、我が心にかなうことか、かなわなぬことかを問うことなく、今出会っているそのことを、全力を尽くしてつとめあげる、そういう生き方自身よりいただくというものでなければなりません。(略)
    「こうなったら幸せ」という条件付ではなく、「どうなっても幸せ」という在り方とは何なのか、を心にきちんといただいておかないといけないと思うことです。」
  • 四諦を説き、八苦を説いた釈尊の偉大さ「求める心を起こし、そういう生き方をするようになるためには、教えが聞けなければならないわけです。教えが聞けるようになるためには、アンテナがたち、スイッチが入らねばなりません。そのアンテナやスイッチは苦に導かれることによって入るというのです。求道心を起こせと説く前に、求道心を起こす原動力となる苦の自覚をお解きになったところがすばらしいですよね。」
  • 「真理は一つ、切り口の違いで争わぬ」(余語翠巌老師の言葉)「道元さまはひたむきにお釈迦さまを慕い、宗派根性を排し、自らは「仏法房」と称せられ、「自法愛染の故に他を棄しすることなかれ」とつまり自分を良しとし他を誹謗してはならないと戒められました。その道元さまの法孫が、永平寺派や、総持寺派といったように、本山護持の名の元にそれぞれの勢力を競い合っているのは、まことに哀しいものでございます。人間は弱いもので、何かに依っていないと安心できないのですね。(略)
    暴走族も一人一人バラにすれば、気の弱い、みんないい子たちです。むしろ一人では何もできない、自分の確固たる信念がないからこそ、グループに頼ろうとし、確たる信念がないから簡単にグループの信条に染まり、それを自分の信条と思いこみ、軽率に行動に移す。怖いことです。これを澤木興道老師はグループぼけと呼んでいらっしゃる。(略)
    お釈迦さまが「
    他を拠り所とせず、自らを拠り所とせよ(自帰依)」とおっしゃったのがそれなのですね。これは天地の法をしっかりと見据え、そこに腰を据えて生きる(法を拠り所とする=法帰依)というバックボーンがあってはじめて確立する生き様なのかも知れません。」
  • 「仏道とは」というのに最上の答えの一つがこれであります!「澤木興道老師の言葉に「宗教は生活である」という一句があります。ご利益信仰でもなく、学問や思想などのような観念の遊びでもなく、仏像や伽藍などのような芸術でもなく、まして渡世の職業でもない。たった一度の、かけがえのないこの生命の今を、最高に洗練された生き方で生きる。その生き方を具体的に教え導くもの、それが宗教であり、特に道元禅師の教えがそれだというのです。」


  • 仏のいのちを生死する / 春秋社
  • がむしゃらを妙に神聖視する世俗に対して、仏法はその目的と中身を問います「仏法での「おこたり」というのは「放逸」という字を当てまして、自分のわがままな生き方、自分のエゴを中心とした生き方をすることを指します。欲の満足を追いかけての生き方を「おこたり」というのです。また、仏法で言う「はげみ」とは、自分の欲の満足のために寝もやらず努力することではありません。天地の道理に従って、仏に引っ張られての歩みを、精進というのです。」
  • 健康な人間は時として傲慢であります
    健康であるがばかりに耳が開けず、目が見えず、アンテナが立たず、話を聞いても聞こえず、教えを読んでも目に入らず、その人に出会っても会えない。そいういう偽物の私として長生きするよりも、苦と対決するそのおかげで、アンテナがたち、耳が開け、そのおかげで仏法が聞けての半年や一年の命の方がいいんだというこの受け止め方は素晴らしいことです。」
  • 仏法を学んでいる自分が最も自戒せねばならない落とし穴「法をかざしての「俺はちゃんと法のとおり生きている、仏さまのモノサシ通り生きている」という自信は、裏を返すと、やらない人や出来ない人を切る刃になってしまいます。人を非難する材料になってしまうのです。こうしたところに気をつけたいと思います。」
    「俺が苦労して手に入れた、俺の道心で悟った、絶対に間違いのないものを捕まえたという思いが、いつの間にかおごりのこころを育て、悟らない人や修行をしない人を非難する刃になりかねません。法の灯火をかざし、法のモノサシに従って生きることは大切ですが、その灯は私の内を照らし、私の足許を照らすものでなくてはならないと言うことです。他の非を暴き出し、他の非を責め立てるために法をふりまわしてはなりません。」
  • 結婚する人間が心に留めておくべき、と師は語ります「私の方がやわらかい心であなたの方がセトモノだと思ったら、その心がセトモノの証拠です。私がセトモノだったなあと気づかせてもらう心が柔らかい心なのです。(略)
    しかし、自分の顔を直接自分の眼で観ることが出来ないように、自分がセトモノであることは、自分では観ることができません。仏さまの明るい大きな光に照らし出していただかないと、私のセトモノには気づかせていただけないのです。(略)
    私どもは、あらゆるところで我が身可愛い思いを中心にして生きています。その自分の姿に気づくのは、自分を照らしてくださる教えに出会えたお陰なのです。
    自分でも目を背けたくなるような私を見せていただけるというのは、私を照らしてくださる光が明るい証拠です。」
  • 慢心を戒める「仏教の深層心理学「唯識」の権威であられる太田久紀先生は「慢の心所のやっかいなのは、慢心を克服したと想う瞬間、慢心を克服したという慢心が起こる」と語っておられます。(略)
    ことわざに「自慢高慢馬鹿のうち」などというのがあったり、驕慢、我慢、増上慢、傲慢、慢心など、慢の字のつく言葉は多くあります。(略)
    「慢」は、「他の人と自分とを比較して、自分を少しでも高く位置づけようとする心の働き」をいい、「あいつに比べておれのほうがえらいと思う」心で、「相手を意識すること自体が狂いの元」だとおっしゃっています。その心の深みには「おれが」という我が身可愛い思いが毒蛇のようにとぐろをまいていることを、するどく指摘されておるのです。(略)
    「唯識」ではこの「驕」を、無病驕(健康への驕り)、少年驕(若さへの驕り)、長寿驕(長寿への驕り)、族姓驕(氏素性への驕り)、色力驕(セックスへの驕り)富貴驕(財力への驕り)、多聞驕(博学多才への驕り)、善行驕(善いことをしたことへの驕り)の八項目に分けて説いています。いずれもいずれも思い当たることばかり。仏教が人の心の深奥をいかにするどく見据えているかに、改めて思いをいたすことです。」
  • 死ななかったら困る「凡夫の私どもは一生懸命しがみついて、「死んだらかなわん」と思いますが、よくよく考えてみると、みんなが生きていたら困ります。「死ぬからいいんじゃ」というのは、純粋客観の立場から、仏の目の角度から観て初めて言える一言であり、ちょうだいできる世界だと思います。
    いろいろと考えさせていただきましたが、「
    死を見据える眼が深まるほどに、生を見据える心も深まる。死を忘れたとき、生も忘れる」ということに気づきました。逃げようのない死との対決を通じ、死を見据える眼が深まるほどに、命の大切さや今生きていることの意味、あるいはどのように生きたらよいかということの答えなども確かに得ることができるのだということに気づかせていただいたのです。」


  • 悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/光文社
  • 真の美しさ「本当に美しい人とはどんな人でしょう。美しく生きるとは、どんな生き方なのでしょう。(略)
    おしゃれというと私たちは、すぐ服装や持ち物や化粧のことを考え、言葉のお洒落ということは、ほとんど忘れております。美しく着飾った淑女が汚い言葉を使ったら、せっかくの衣装も色あせて見えるものです。しかもこの言葉のおしゃれは一夜漬けが全くききません。(略)
    声は、その声を出す人柄によって決まるとなると、昨日今日身につけた演技ではなく、生涯に渡って培ってきた、その人の全人格に帰着するということになります。人格は一日で教えていただいたり、一年や二年で育てていただくこともできません。
    毎日、毎日、それも長い年月をかけて育て上げていくのが、人格であり、言葉なのです。(略)
    若いだけの美しさや、親からいただいてきたうつくしさには、私は何の魅力も感じません。若さや天性の美しさは、自慢できることでないばかりか、かえって自惚の材料になりかねません。(略)
    生まれついていただいてきた美しさとか、醜さというものは、自慢することでもなければ、また恥ずべきことでもありません。問題はこの素材を三十歳なら三十年の歳月をかけ、五十歳なら五十年の歳月をかけ、七十歳なら七十年の歳月をかけて、どう刻んできたかです。この年月、何を思い、何を語り、どう行為してきたか。心に思っただけで言葉に出さず、具体的行為に表れなくとも、心に思ったという事実は事実として、一刀のノミとなって私を刻んでいきます。まして言葉に出し、行為として実践にうつせば、たとえそれが周囲の目や耳にふれなくとも、行為したという事実は、私の人格を刻みあげてゆきます。三十歳の人は三十年の歳月の生き方の総決算の姿が今の姿であり、七十歳の人は七十年の歳月をどう生きたかの総決算の姿が、いまこの私なのです。みる人がみれば、あなたの姿を生み出したそれまでの歳月の有り様は、手の内をみるように読み取れ、また明日の展望さえ出来てしまいます。(略)
    原因結果の遅速こそあれ、因果歴然の法則はごまかいしょうのない天地の法則なのです。早合点してはいけません。因果論は動かしがたいとあきらめる宿命論とは違います。「因」に何の「縁」を加えるかで「果」はいかようにも変わってゆきます。」
  • 勝ち組負け組という愚かな現代の流行に対して一石「人生という土俵にあって、我々はとかく負け状態になるとダウンしてしまいがちです。そういう人は逆に勝ったとき、高慢になります。高慢になるのと劣等感で落ち込むのとは、同じ心の構造の裏表ですから、勝って奢らない修行、負けて落ち込まない修行の方が、勝ち負けの技を磨くよりもっと取り組みがいのある人生修行と申せましょう。(略)
    「負けるが勝ち」といいますけれど、負けることができるというのは、精神的に大人でなければできません。(略)これは心が柔らかで、大きくなければ出来ることではありません。(略)
    小人にとって大切なことは私のメンツであり、従って勝ち負けだが大問題なのですが、精神的に円熟した大人にとって問題なのは、そのことが是か非かであって、私が勝つか負けるかなどということはどうでも良いことなのです。」
  • 私が常日頃から「子育て」を捉えてきた考え方がそのままここにありました「子どもが生まれなければ親にはなれないものです。子どもが生まれると同時に、親も誕生するのです。子どもも零歳なら親も零歳。子どもと一緒に年齢を重ねてゆくものです。(略)
    子どもの信に答えうる親になるためには、
    子どもの成長と共に日に日に成長してゆくことを忘れてはならないと思うのです。(略)
    「子どもこそ、大人の親ぞ」という言葉があります。親を親として、また一人の人間として育て上げてくれるのは子どもだといういうのです。(略)
    子どもを鑑として自らの生き方をかえりみるとき、親として、人として、落第でしかない私がそこにいる。わが子の前に「勘弁してくれ」と詫び、しかしながら、「この子の信に応えうる親にならなければならない」と子の前に姿勢を立て直し、立て直し、生きようとする。そういう人こそ、親らしき親になれる人ではないでしょうか。そいういう親の元にあって初めて、良き子も育つというものではないでしょうか。(略)
    よき育児と「育自」によって、いまの混乱した日本も、必ずよくなります。」
  • そして夫婦についてはこう捉えるのが一番と思います「夫婦というものは、一千万人の中からたった一人選び出した「修行の相手」と思ってはいかがでしょうか。時たま会っているだけというときは、よそゆきもできましょう。初めのうちは何とかなるでしょう。しかし一日24時間、1年365日を、何得十年も一緒にいるということは大変なことです。愛だ、恋だ、楽しくって楽しくってという時間もあるでしょうけれども、精神的な面で時に友となり、時に師となり、弟子となりあいながら、共に成長し続けるのが結婚生活です。(略)
    大切なことは、いってはならぬことを言い、やってはならぬことをやってしまうことによって、お互いに傷つけ合ったその痛みを、さらに限りなく突き合うことによって、傷をいっそう深いものにしてゆくという悪循環を繰り返さないということです。」
  • 「賢い人」「正しい人」ばかりが集まると地獄化する「光に照らされてこそ知ることができる私自身の闇であり、私自身の愚であり、偽物でしかない私の姿なのです。光に照らされて、私は愚か者、偽物と知ることが出来た人同士が集まるところに争いはありません。光に照らされない人ほど、おのれの闇や愚に気づかないまま、私は賢いと思い、私は絶対に間違っていないと思いこむ。そういう人の多い世界、例えば職場、集団、サークル、家庭などではいつも争いは絶えず、その人のゆくところに必ず地獄絵が展開されています。」
  • この種の手合いが多いのが福祉業界か、ボランティアか「私もあなたも「なくてはならぬ人間になりたい」と思います。しかし、ここでよく考えなければならないのは「なくてはならぬ人」というのは第三者がいってくれることであって、自分から自分の功を読み上げて、名乗り出ることではないということ。「あなたたちは私のお陰で大きくなることができたのよ」「この仕事も私のお陰でここまで成功した」「このクラブ活動や市民活動も私の力で」と、自分から名乗り出て、「私こそなくてはならぬ人間だ」という顔をしたとき、その傲慢さ故に、周囲から「いないほうがいい人」とされていることに、どうぞ気づいてください。「『なくてはならない人になろう』とどんなに努力しても、なかなか思うようにゆかず、まわりじゅうに迷惑ばかりかけて、ほんとうは『いないほうがいい人間』なんだけれども、みなさんにがまんしていただき、許していただき、生かしていただいている。・・そのご恩返しとしてできるだけのことをさせていただきましょう」という謙虚な姿勢で生きている人こそが、人々から「なくてはならぬ人」といわれる人なのです。」
  • 慢心を戒める「諺に「自慢高慢馬鹿のうち」などというのがあったり、驕慢、我慢、増上慢、傲慢、慢心など、慢のつく言葉は意外と沢山あります。(略)
    「慢」は「他の人と自分とを比較して、自分を少しでも高く位置づけようとする心の動き」をいい、「あいつに比べておれのほうが偉いと思う」心で、「相手を意識すること自体が狂いのもと」だとおっしゃる。その心の深みには「おれが」という我が身可愛い思いが、毒蛇のようにとぐろをまいていることを、するどく見逃しません。」
  • ニセの宗教のポイント=青山俊董禅師版「間違った教えにのめりこんだばかりに、本人の人生を狂わせてしまうばかりでなく、家族や親戚までにも迷惑を及ぼし、言葉を尽くしての説得も「法難」と称して聞く耳は全く開かれないという例は数知れません。(略)
    その宗教が本物かインチキかを見分けるモノサシをいくつかあげてみましょう。
    第一に、正しい宗教は科学を超えるもの、あるいは科学を包み込むものであるけれど、科学に反するものではありません。ですから
    あまりに非科学的なことをいう宗教は迷信と考えて良いでしょう。
    第二には、無条件ですべてをいだきとってくださるのが本当の神仏というものです。お参りの仕方や、お供えの多少によって、ご利益に増減があったり、その宗教にとって不都合なことをすると「罰が当たる」という形でおどしにかかるものは、インチキ宗教です。従って
    先祖が祟っているとか、水子の霊が邪魔しているとかいって、序霊とか縁切りとかをしきりに持ち出してむやみに金がかかるのも眉唾物と思ったらよいでしょう。
    第三には、超能力というよな言葉が象徴するような、たとえば空中浮揚をしてみせるとか、そいういうことが出てきたら、これも用心してください。
    第四に
    教祖とか会長と呼ばれる方が、生き仏、生き神の座に君臨している宗教も要注意です。(略)お釈迦様さえ、「私はお前たちの師ではない」とおっしゃり、「法を師とせよ」と示され「法の前に皆兄弟である」と説いておられます。
    第五に人間社会という共同体の調和を壊していくような在り方を強制するのは、やはり本当の宗教ではありません。(略)健全な常識ではちょっと考えられないような反社会性、反倫理的行為があったら、これも要注意です。正しい宗教は倫理を包み、
    倫理を越えるものであっても、反倫理ではありません。」


  • 生かし生かされて生きる/春秋社
  • 無常を心得ること・・・現代の全人類の人生観そのものが誤っている、という結論です「よくよく考えてみますに、私ども凡夫が幸せと考えているものは、みな物なんですね。一生生きてゆく上での、年齢とともに持ち替えてゆく持ち物であり、年齢と共に着がえてゆく衣装なのですね。(略)
    私どもがかけがえのないいのちを代償として追い求めていたものは、年と共に持ち替え、年と共に着がえてゆく衣装にすぎなかったということです。肝心な持ち主そのものが忘れ去られていたということです。持ち主を忘れて、持ち物を追いかけることだけにうつつをぬかし、それを得たことに酔いしれていたということです。持ち物である限り、物というものは無常であるということ、移ろうものであるということは天地の道理であります。(略)
    その
    移ろうと止まぬものに、変わらぬ幸せを求めようとすること自体が間違っているのです。人生観そのものが根本的に間違っている。一刻も早く間違いに気づき、一刻も早くこの酔いから覚め、持ち主そのもののありようを問わねばならない。(略)
    ところが今や、
    国を挙げて、人類をあげて、この持ち物を得ることの幸せへと狂奔しているのではないのでしょうか。政治も経済も科学も、すべてこの人間の持ち物への欲求の満足のために、ひた走りに走っているというのが、現代の姿ではありませんか。文化と呼ばれるものの内容も、おおかたこの方向に向かって走っているようです。(略)
    このへんで人類は本気になって、生きる姿勢の、一切の方向の転換をしなきゃならんのじゃないかと思うのです。持ち主、私は一体どう生きたらいいのか。真っ裸になった私自身はどうしたらいいのか。そのことを問わなきゃ駄目なんじゃなかろうかと思うんです。持ち主、私の、今の、ここの生き様なんですよ。その持ち主、私のこの命も無常なんですから。明日ではない、どこかではない、今日ただ今、この足許をどうしたらよいのかを問わねばらならないのです。」
  • 本物の僧の口からは必ずこういう現代葬式仏教への批判が出ます(それが本物を見分ける一つの基準ともいえます)「いつのまにか仏教というもの、お経というものが、生きた人にはお尻を向け、亡くなった人に向かって読むもの、読んでいる人自身も分からぬようなお経を、呪文めいて読むのがお経のような錯覚を覚えてしまっていることは、残念なことでございます。(略)どう生きるべきかを問う、人生の道しるべとして読むのがお経であり、今日の私の生きる姿勢の乱れをただす鏡として読むのがお経でなくてはならないのです。死んでからの話ではないのです。」
  • 「生きがい」というような特別なものは存在しません「生きがいといいますと、私どもは何か特別のことをしないと生きがいを感じられないかのようにぼけてしまっております。お忙しいのにこう云うところへこられてお話しを聞いてみるとか、あるいは修行道場へ行って痛い足を組んで警策でぶっ叩かれてみるとか、なにか特別のことをしないと生きがいが感じられないかのようにぼけてしまっております。(略)
    しかし平凡に過ごす一刻も、特別のことをして過ごす一刻も、かけがえのない私のいのちを生きている一刻であることに変わりはない。
    どの一刻も私の命の重みに変わりはない。となれば、平凡なこととして、つまらぬこととして何気なく過ごしている人生の大方の時間の、そのひとつひとつを精一杯大事に生きるより他に、燃えさしを大事に生きる生き方はないということになりますね。(略)
    病気で辛いのは当たり前。当たり前のことは悩まないのだ。是が大事ですね。病気で辛いというのと悩むというのとは世界が違います。次元が違います。(略)
    それよりもせっかく病気をしたんだから、健康ではわからない、病んでみなければ気づかせてもらえない、生かされている命の姿というものを見詰めさせていただきましょう、学ばせていただきましょう。(略)
    どうせ病まねばならないのなら、「病むことを得たり」といえるような、この病気にかかったおかげでこんな人生への目が開けた、こんな人生の展開が出来たというような病み方、病気の受け止めかたがでkちあら、病気をしながらも、病気を越え、病気が財産にさえなっているのではありませんか。」
  • 乳幼児の育児への心構えはやはりこの通りです「家庭の雰囲気、親子、兄弟、夫婦の愛情、嫁と姑の間の感情のしがらみ、一見の中での雰囲気がどんなふうかという、それがどれほどに子どものこころに影響を及ぼすか。それは子どもの将来を左右するほど大きな力を与えるのです。親の心の僅かなゆらぎ、家庭内の雰囲気のあらゆる形が、子どもの心の健全な成長にひびくことを忘れてはなりません。人間の一番大切な心の形成というものは、三、四歳までで百パーセント完成だそうです。この一番大事なこころを育てるときに、最新の注意を払って、育ててやっていただきたい。何も分からないからといっていい加減なことをいってはいけない。子どもの前で、口争いも、恐ろしい思いもさせたくない。その親の目の動き、心の揺らぎ、全部を真っ白い心の印画紙にやきとり、読み取って育っていくのですから、それがその子の生涯を支配するほどの力になるのです。二度と書き直しの出来ない文字を、切れば血の出るこの体で、毎日刻々と書き与えてやる、それが子どもの周りに立つ親の姿であり、親たちの責任です。」
  • 親は子にとってこういう存在であることを自覚し続けなければ「お母さんになる日が来たら、お母さんのようなお母さんに、お父さんになる日が来たら、お父さんのようなお父さんになりたいと胸を張って言える子どもは幸せです。今日食べるものが少なかろうが、栄養が少し足りなかろうが、着るものがボロであろうが、そんなことで子どもの心は歪みはしないと思うのです。(略)
    たった一人のお母さん、お父さんを誇り高きものに思うといった、最高の心の栄養をちょうだいしているのです。こういう子は、絶対に横を向かないでしょう。非行に走らないでしょう。(略)
    子どもにとってかけがえのない、世にたった一人の父、世にたった一人の母が、最高に尊敬できる人、すばらしい人であることが、子どもにとってどんなに大切なことか。毎日食卓にのぼせる食事、毎日着せる着物もさることながら、父母の生き様そのものという精神的食物が、どんな内容であるかを考えなければならないと思うことです。(略)
    教え子が(略)離婚したいと言ってきました。私は一言だけ言いました。「あなたはご主人をとりかえることができるかもしれないけれど、子どもさんはお父さんを取替えることができないのよ。子どもさんにとっては、世界中にたった一人のお父さんであることだけは忘れずに行動してね」」
  • 共働きを選択する夫婦(母だけでは当然ない)に絶対必要な視点「(郡山の全盲の詩人)佐藤浩さんは、30年間の児童詩誌「青い窓」の編集を通じて改めて気づいたこととして「遠ざかったのは母親の笑顔だけではなく、その前に母親の目が子どもの実像から遠ざかっているということを指摘しておられます。これは一大事です。女性が家を出て社会進出し、また職業を持つことで生きがいある人生を送ることは結構なことでありますが、そのことのかげに子どもや家庭が犠牲になっていはしないか、明日の世代を背負う子どもを育てるということにシワヨセがいっていはしないか、反省してみる必要があると思うのです。」
  • 一大事(生死)への心構え「「寝たきりは、本人も大変、看病する方も大変だから、できたら私はコロッと逝きたいです。」という言葉が出てきました。そこで私はこう云いました。「それは誰しもの願いだけれど、いくら頼んでみても祈ってみても、寝たきりになるかも知れない。どうなるかわからないことを祈ることよりも、もっと大切なことは、いまここの生き方、死に方に、条件をつけないということです。いくら条件をつけたって、その通りになりはしないんだから。(略)」
    人生全部、健康も病気も、失敗も成功も、天気も雨も、平等に揃っているのが人生の道具立て。その中で、人間だけが勝手に、失敗はかなわない、病気はかなわない、いい方だけ欲しいと願うわけですが、それは身勝手な話ですね。大事なことは、降っても良し、やんでもよし、寝たきりでもよし、いっさい条件をつけない。あくまで無条件で受けて立ちましょうという覚悟が決まることです。この生き様を私の好きな句で言い換えますと、「投げられたところで起きる小法師かな」ということになりましょうか。(略)
    寝たきりになったら、寝たきりを修行する。逃げずにまっすぐに、寝たきりを受けて立ちましょう。寝たきりになってみなければわからない人生の姿を、見せてもらいましょう。味合わせてもらいましょう、と腰を据える。失敗してみなきゃわからないその世界、病んでみなきゃわからないその世界を積極的に学ばせていただきましょうという姿勢。」
  • 僧侶はこうあるべきと思うのです「大切な人、身近な人を失う悲しみも体験しないとわからないものでございます。私は母や師匠をなくしたどうしようもない悲しみを通して、ようやくお葬式にゆく資格が出来たなと思ったことでした。しかし、あまりに身につまされてお経を読んでいても一緒に泣けてきたり、法話をしながら泣いてしまったりして、しばらく困ったことがありました。でも、喪主の方は、一緒に泣いてくださったと言って、むしろ感激してくださいましてね。思いやると言うことは体験しなければわからないことで、そこでお釈迦様は口癖のように「我が身にひきくらべて」とおっしゃるんですね。」


  • 禅の智慧 正法眼蔵随聞記に学ぶ/ひろさちや・青山俊董/すずき出版
  • とにかく若年者は老年者の言葉を聞くこと、そして老年者は語ることが大切「おばあさんやおじいさんの言うことを、いまの若い人がわからないのは当たり前なのです。お年寄りは六十年、七十年生きてきたその寸法で話をされます。二十年、三十年の人がわからないのは当たり前なのです。嫌がられるからやめるというのは、自分がかわいいだけなのでしょう。嫌われてもいいから、いま言おうということが真実で相手のためになるか、ここは徹底的に点検した上での話ですが、そのうえで言うべきことであったら、嫌われてもよい、この子たちが私の年になったときに分かってくれればよい。そういう切なる思いで、言うべきことは言っていただきたいと思います。真実に古い新しいはないばずです。(略)真実は、時を越えて存在するものなのですから。(青山俊董)」
  • ひろさちや氏部分はこちら



  • 般若心経ものがたり/彌生書房
  • この自覚を持つ僧侶が果してどれだけ現代日本にいるのか「威勢のよい祈祷太鼓の音と、願主の願いを読み上げる導師の声が限りなく交互に続く。商売繁盛、交通無難、病魔退散、身体健康、良縁満足、入試合格、工事安穏・・・。足ることを知らない人間の、限りない欲望の一覧表を見る思いで興味深く聞き入りながら、思った。人間の欲望を満足させるためのお手伝いをするのが仏教の本命ではない。どこまでも方便の世界であることを忘れてはならないと。」
  • 真理が何かを思い起こすに良い言葉「澤木興道老師はあるとき、「飲み方に流儀はあっても、胃の消化の仕方に流儀はない」とおっしゃった。胸の空くようなお言葉である。茶の湯の流儀には、表千家とか裏千家とか、いろいろあり、一服のお茶をいただくのにも、お茶碗を右へ回せとか、左に回せとか、むずかしいことをいう。しかしそれは入口の話であり、人間世界の、もっといえば小さなグループの中の約束事にすぎないのであって、胃が表千家流に消化するとか、裏千家流に消化すると言うことはない。人間の約束事、これは時代により、所により変わる。(略)
    これに対し、胃の消化の仕方、これは人間の約束事ではない。天地の道理であり、真理そのものである。この定業に変わらない真理そのものを「経」または「法」という言葉で表し、「たていと」にたとえるのに対し、律は「よこいと」にたとえることができよう。」
  • 自力思想が蔓延る今、大切な生きた言葉であります「「私の親や姉たちは大変信心深いんですが私は無神論者でした。ところが数年前、心筋梗塞を起こして九死に一生を得てから、人生観ががらりと変わりました。心筋梗塞によって機能を失ってしまった方向へ、働きの残っているほうの毛細血管がどんどん伸びてゆくんですね。映画の画面を見せるようにその映像を見せてもらって感動いたしました。私は何もしていやしない。私の知らないところで、私の生命をいっしょうけんめい生かそうとしてくれている働きのあることをまのあたりに見せてもらって、頭をぶんなぐられた思いでした。『だれの世話にもならん俺の力で生きている』という高慢の鼻がへし折られました」(略)やる気、本気はよいが、私の努力でやったという驕りの心が忍び込みやすい。この驕りの心は、やらない人を責める刃となりかねない。どんなにやる気があっても、天地いっぱいのお働きをいただかなければ、呼吸一つ、笑うこと一つ、手を握り返すことさえできないんだということ、一つ一つがすべて天地いっぱいのからの働きかけをいただいて始めて出来るのだということに気づかせてもらうことができたというのである。」
  • これも澤木興道老師の名言であります「夫婦喧嘩をしようと思ったら、まず合掌してから始めろ」と。これはいい。「まず合掌」、合掌したらいやでも合掌の世界がそこに開かれ喧嘩にはならない。つのる思いを、暴走しそうになる自分の思いや行動を一瞬押さえて、「先ず合掌」をする。これができれば、展開する人生の景色は随分と変わってゆくことであろう。」
  • 仏道の本来の布施を考える「お寺や公共団体などのでの寄付行為でも、寄付者ご芳名などとして書き出すか出さないかで、寄付額が大きく違ってくる。これは浄財でも何でもなく、寄付という形でわが名誉をむさぼっているにすぎない。しかもそのことに気づいていない。または、同じ一つのものをさしあげるのにもよろこんでくださる人に、あるいは自分にとって有利な方に、大切に思う方に差し上げようと思う。そこに計算の心やへつらいの心がひそかに動いていることに気づいていない。「布施というはむさぼらざるなり。むさぼらざるというはへつらわざるなり」の道元禅師のお言葉の何ときびしいことか。」
  • 仏道のいう「安心(アンジン)」とは「凡夫のアンシンは、自分のわがままな願いが叶ってアンシン。手術の結果や検査の結果が良くてアンシン。そんな条件つきのアンシンは、いつでも崩れ去る中途半端なもの。病んでも、死んでも仏さまの御手からこぼれおちっこないんだからだいじょうぶ、という無条件のところに落ち着き得て初めてアンジンといえる。このとき「こうなってもらわないと困る」という「けいげ」はなくなり、おのずから怖れもなくなる。アンシンとアンジンの違いを心に深く留めておきたい。」


  • 幸せは急がないで 尼僧が語る「愛の法話」45編/青山俊董・瀬戸内寂聴編/光文社文庫
  • 悪口を言うことが人格判断の決定打  小笠原日凰(日蓮宗)「昔から「その人が他人の悪口をいうかいわないかで人格を判断できる」といわれます。悪口というものは、たとえそれが事実であっても、他の人を批判する結果になります。しかも必ず自分自身の欠点は棚にあげ、まったく自分を省みない自分勝手が幅をきかすことになってしまいます。なぜなら、本当に自分を省みれば、とても他人の悪口や批判をする権利などあろうはずはないからです。しかし私たち凡夫はその自分勝手に気づかない。」
  • 増上慢こそが悪縁  日野西徳明(浄土宗)「法然上人は、思い上がりが大嫌いなおかたでした。いかに熱心に信心していても、思い上がりがあればそれが悪縁となって絶対によい結果はでないと、いつも戒めていらっしゃいました。人間には自身は必要ですが、自身と思い上がりは全く別物です。(略)」
  • 詰るところは「自身の生き方」  青山俊董(曹洞宗)「ひどい言い方かも知れませんが、恋人も、旦那様も、子どもでさえも持ち物であり付属品であることには代わりはなく、いざというとき老いてゆかねばならないものに変わりはありません。持ち物である限り、時の流れと共にうつろうてゆくのは当たり前のこと。山と積まれた財産が借金に変わるのも当たり前の道理。「二人の愛は永遠に」なんて馬鹿なことがあるはずがない。愛が薄くなり、やがて憎悪に変わる日が来るのも当たり前。若さは老いへ、命あるものはやがて死んでゆきます。「諸行無常」という道理の前に、すべて当たり前のことばかりです。そんな浮き草のようにひとところにとどまらず、うつろうてゆくものに、幸せの依りどころを求めているという生き方そのものに、基本的な問題があるのではないでしょうか。持ち物よりも、持ち主である私自身、衣装を着る人であるあなた自身の生き方が忘れられていることに、私たちは気づかなくてはならないのではないでしょうか。」
  • 生き、思考した深層が人間そのもの  青山俊董(曹洞宗)「目は口ほどにものを言い」「顔は心の窓」とかいうのがあります。どんなに美しい目や美しい顔立ちを備えていても、その目に光がなく、その顔に生気がなければ、少しも美しさを感じさせない。美しさは造作ではないのです。(略)
    親からいただいた顔や身体を素材として、物心のつくその日から何を思い、何を語り、何をしたか、
    言動には表さない心の深層に秘めたわずかな思いまでも、そして誰も見ていないところでのささやかな行為までもが、一分のごまかしもない彫刻刀となって私やあなたの顔や姿を彫り、人格を作り上げ、衣装や化粧ではごまかしきれない美醜の差となっておんなの顔に表れるのが、40歳代ではないでしょうか。」
  • 苦しみが私を救う  青山俊董(曹洞宗)「心にあたためてきた大切ないくつかの言葉を、あらためておもいおこしました。
    「私が苦しみから救われるのではなく、『苦しみが私を救う』のです」とおっしゃった、ローマ法王の側近尻枝正行神父さまのお言葉と、「傷に大小があっても傷は傷じゃ、自分の傷を大事にする事じゃ」とおっしゃった福井県在住の医博・米沢英雄先生のお言葉の二つです。苦しみに導かれて心にスイッチが入り、ひとつのお話し、一冊の本の中でも同じ波長のところ、同じ苦しみのところに出くわすと、そこで火花が散り、人と教えとの出会いが現成し、
    そこが道へ入る門となり、「鍵」となる。まさに、「苦しみが私を救う」のです。」


  • 禅のことばに生き方を学ぶ/春秋社
  • 仏法の最大の魅力がこの「和顔愛語」の実行にあると思います「「場が人をつくる」ことは間違いないが、一人の人がいることで、その場の雰囲気や環境が一変するということも忘れてはならない。いつも明るく、あたたくほほえみを忘れない人が一人いると、その周辺は、その家庭はつねに明るく楽しい雰囲気に包まれているだろう。つねに暗くイライラしていて、不平不満ばかりという人が一人いると、その人の周辺はいつも暗く、争いも絶えない。場が、環境が人をつくると同時に、人が場や環境を造るという一面を忘れてはならないと思うことである。」
  • 「驕り」を自覚して生きることが人生の最重要事項であると最近頓に思います「お釈迦さまは「若さのおごり、健康のおごり」ということをおっしゃいました。一生懸命にがんばらねばならない。しかし私のがんばりでやったというおごりもまたそこに忍び込む。そのおごりの心は、やらない人、やれない人をせめる刃となりかねません。若さのおごりは老いた人への思いやりに欠け、健康のおごりは病弱な人への思いやりに欠けます。(略)
    ほんとうのモノサシ、仏さまのモノサシは違う。千人千様、
    一つとして生命の世界に比べることができるものはない、授かりの生命の限りにおいて、許された力の限りを尽くして三は三で百点満点、五は五で百点満点。仏さまの世界に合格、不合格はない。とかく速いと、よくやれるとおごり、できないと落ち込む。どちらもつまらない。できておごらず、できなくて落ち込まず、自分が自分に落ち着き、背比べなしのところで歩んでいきたい。」