2015年6月29日月曜日

今、必要な『同事』の心

「『同事』というは、自にも不違なり他にも不違なり。」
と修証義発願利生における四枚の般若のうちの四つ目でいうように、仏法において、自他一如の考え方を同事と言います。

初め、布施、愛語、利行にくらべてどこかその重要性が伝わるインパクトが弱く感じられた同事でしたが、戦争や軍隊を賛美したりする勢力が日本に跋扈するようになった今、特にこの同事の大切さを思います。

自他一如は非常に難しい考え方であり実践であると思います。
他人への思いを、自分への思いと同じところまで昇華させることが同事とすると、果たしてそのような思いを持つことができるのか、と思います。

人生の歩みを追いかけて見てみますと、同事を試されるその第一歩が、まずは両親や兄弟を思う心ではないかと思います。
しかしこれはなかなか難しく、生まれた時から既に存在していた父母への思いは、父母が持つ子への思いの足元にも及ばず、成長過程で客観視することは困難で、倫理的・道徳的な尊敬としての思いが普通でしょう。親のために死ねる、という子どもは普通いない。
兄弟姉妹へ強い同事の心を持つことも正直難しいでしょう。

その後、友情という経験を経ますが、実際朝から晩まで一緒に何年もいる友人というシチュエーションは考えにくく、やはり配偶者を迎えて初めて肉親以外に同事を実感できる他人との遭遇となります。
しかし、この配偶者という存在も相性が悪ければ離婚だ家庭内別居だというケースが山ほどあることを考えると、配偶者への同事心もどこまでの人が持てているかは疑問があります。

そして、人生の最大のステージであると私が考える「我が子を持つこと」。
ここに至って、人は自分よりいつまでも大事だといえる存在に会います。
まさに同事の心が我が子には自ずと湧き上がってきます。

何が言いたいのかというと、同事心を持って生きるには、本当に大事な人が身近にいることが必要なのではないかということです。
それを家族(子ども)を持たずして実践するには、極めて宗教的な自覚を持って生きない限り困難だと思うのです。

そして、同事の心をもし持てるのであれば、戦争を心から反対するほかなくなります。軍隊を賛美することなど有り得ないばずなのです。

大事なのは自分だけ、もしくは自分も含めて大事でない、と思っている人と、同事の心を持つ人との最大の違いは、ヤケを起こせないということだと思うのです。

自分一人で生きている錯覚をもっている人、人生や生活に自分という範囲以上の責任を持たずに過ごしている人は、間違い無く、状況の悪化と追い詰められた場面において、ヤケを起こすことにつながります。
自分を省みると、独身時代、明らかにそうでした。

ただ、 家族の絆以上に外に出られない人間も多いなか、同事は子どもがいればクリアというものではなく、すべての他人にも自分と同じ命があり、大事な関係があり、ドラマがあるということを腹の底から理解できる人生となったときに、初めて同事の心が広く他人に及び始めるのだと思います。

2015年6月26日金曜日

鎌倉寺巡礼 第二段(材木座編)


鎌倉駅に着いてすぐ東口から路線バス(40番)に飛び乗って材木座方面へ。

浄土宗関東の大本山光明寺。
先週の北鎌倉とは全く様相が違って、観光客がほぼ皆無。地元の若いお母さんがよちよちの男の子を連れて散歩しているのが、別々に二組いて、とても微笑ましい。きっと心の優しい子に育つだろうな…。

観光としての拝観料もパンフレットもないのに、本当に荘厳。大殿にも関らずゆったりと歩ける。

百を超える訪問寺院の中で三本指に入る感激。まさか初めからこんな感覚になるとは。とにかく、心が洗われ、いつまでも滞在したい気持ちに。

高台に登りながら、この有り難さに思わぬことに涙が溢れてきた。この瞬間に、鎌倉巡礼の目的はすべて果たされたことを確信した。

そのあとの寺院も一つ残らず観光客はほとんどおらず、道しるべがない寺も多いことから迷いながらの巡礼になった。北鎌倉とは対照的な旅になった。

続いては、早速迷いながら、今回も唯一の真言宗寺院(大覚寺派)補陀洛寺。ガイドにも掲載されるが、道案内もなく、極めてこぢんまりしたたたずまい。

九品寺はバス停がわかっても寺がわからずパス。

時宗の向福寺は入口さえわからないような小ささ。

少し戻って日蓮宗実相寺。奥まっているだけに、落ち着いた雰囲気。

ふたたび時宗の来迎寺。時宗の寺は飾らず小さい。一般寺院と浄土真宗寺院の間の印象。

日蓮宗長勝寺は、遠くからも威厳あるたたずまい。日蓮聖人像のインパクトが大きい。

続く日蓮宗安国論寺は名前通り存在感はありつつも、とても落ち着いた雰囲気が素晴らしく、日蓮宗では一番の好印象を持つ。サザンカの時期、混むらしい。

並ぶ日蓮宗妙法寺は苔寺(階段)で有名なだけに、写真撮影目的はおことわり、となかなか強気。300円。
雨が降る中、やはり人はほとんどおらず、その空間に浸ることができた。
ここの階段ですれ違った一人旅の女性が最後まで何度も顔を合わせることに。

ツツジの名所らしい北条政子と縁の深い安養院へ。浄土宗。

そのすぐ前に不思議な字体が寺中にある怪しい佇まいの日蓮宗上行寺。厄除け、鬼子母神の身代わり祈願専門という感じ。

またすぐ近くには時宗別願寺があるが、ほとんど寺か民家かわからないくらい。

ここでまた大きく道を行き過ぎて、予定外の時宗教恩寺に。時宗寺院では一番寺らしい雰囲気で、大木にリスが走り回っていて、思わず撮影。

戻って、八雲神社を通り過ぎて、ぼたもち寺として知られる常栄寺へ。これもいかにも日蓮宗らしい雰囲気。

そして妙本寺は門前から構えがしっかりしていて、見応えのある日蓮宗寺院。駅に近いと思えない程自然の中を感じられる。ここにも立派な日蓮聖人像が。やはり個人崇拝を感じさせずにはいられない日蓮宗である。

そして駅に一番近い東身延と書かれた日蓮宗本覚寺は、本堂改修が続いていてまだ拝観できず外から。

最後に、安産祈願で女性参拝者ばかりの大巧寺は、裏から入ると小ささを感じていたが、面へ抜けると、若宮大路の鎌倉駅前に出て、急に現実に戻された。

結局2時まで昼食の機会を得られず、駅前でちょっと高価なカフェでのランチに。三度目の正直で鳩サブレーを入手して帰途につく。

日蓮宗、続いて時宗、浄土宗の寺院で構成される材木座大町地域。第二段は合計十六もの寺院巡りが実現した。

ここまできて、自分の心に響く寺院が京都での知恩院、浦安で大蓮寺、鎌倉でも光明寺と、確実に浄土宗との縁を感じることに気づかされた。法然上人とのご縁である。

雨の苔寺

妙法寺

浄土宗大本山光明寺

大本山とは思えない静けさと佇まい。
これまで訪問した寺社でも格別な風情があります。
この観光地化していない雰囲気は何でしょうか。

2015年6月19日金曜日

死ぬことは不幸ではない

多くの人たちが何の疑問も持たずに、特に正義感の塊のような人が強く決めつけて思い込んでいるのが、

「死は悪であり不幸である」

ということです。
多くの社会生活の常識や行動原理が、ここに軸をおいていると言っても過言ではありません。

これに対して、私は異議を唱えます。

医療も福祉も、いかに死なないようにするか、少しでもあらゆる人間の寿命を人為的に延命させるか、ということに何の疑問も持たずに邁進しており、その業界に身を置く人間として、とても違和感を感じ続けています。
私は、苦痛が嫌です。何よりも嫌で恐れています。
医療や福祉は、死をマイナスの結果として捉えたり、延命を目的化するようなことはせず、少しでも生きる上での苦痛を軽減するための方策として発展することが、そのあるべき姿と思います。

災害支援関係者にも、死なずにいられる対策があるはずと、災害死を人為的対策不足として喧伝する人がいますが、これも余計な干渉であり、傲慢だと思います。
天災はそんな人間の知恵の範囲で収まるものなどほとんどないと思います。
防災でなく減災と言ったりしますが、災害支援は、被災してしまった方の苦痛を少しでも軽減するために行うものだと思って自分は取り組んでいます。

勿論、防災に関する知識を持つことがリスク回避につながることはわかりますが、年がら年中災害の場面を想定して生きるなんてまっぴらごめん、という考え方はあって然るべきだし、それによりもし亡くなっても、それを選択する人生はその人の人生で誰も咎めて良い筈はない。
過去の津波被災よりもその日その日の沿岸での生活を大切にして、あえて海沿いに住んで津波に遭遇したとしても、誰も責めては決していけない。

「死は悪であり不幸である」
と捉えてしまうには、死に対して恐怖感があることに起因するのだと思います。

勿論、本能的にも死は怖いです。死に際して多くは苦痛を伴うと考える故に死が怖いとも言えます。

しかし、苦痛は自分にとって悪ですが、「死」は良いとか悪いとか評価などするものではなく、ただただ受け入れるべきものだと思うのです。
いや、「べき論」もこの件については不要です。

世の中に「当然」なものはほとんどありませんが、死は数少ない「必然」の現象です。人間として生を受けた限り、致死率100%ですので。

ですから、早世されたり突然の死が訪れたりすることに対して、異常に死を呪うような言葉を吐く人や、知人の葬式の二次会で「いやあ、健康が第一だよ、ハッハッハ」などと言うがいますが、ああ、この人は生きていることを当たり前と思い込んでいる、死を心の底から自分ごととして捉えられていない、人生に対する思慮の浅い方だな、と思います。

確かに辛い死に出会うことはあります。
自分の身近なましてや誕生が自分より後の人が先に亡くなるのは、やはり悲しさが大きくなるのは事実でしょう。

しかし、繰り返しますが、死は悪でも不幸でもありません。

輪廻や三世の業法を信じるかは別にしても、今生の生が比較的短かっただけなのです。
それを不幸というのは、生き残り側の思い上がり以外の何ものでもありません。ある程度(平均寿命程度)は生きるだろう前提で物事を考えていることに疑いすら持っていない証拠です。

人間は「魂」があって、今生ではこの肉体を借りて人生を営んでいる、と考えることが最も理にかなっており、実際それに違いないと私は強く信じています。

魂は心に直結(イコール?)であり、魂が幸福(しあわせ)を感じることに、この魂の唯一と言ってもよい存在意義ではないかと考えます。

それを突き詰めれば、その人の寿命(どんな死因であれ)に従って、死の到来は受け入れるということだけに尽きると思うのです。

死に方も選べません。死に方の良し悪しも評価対象にするような性質のものではありません。
自分の誕生を自分で評価しようがないのと同様に、死も100%自分ごとでありながら本人は評価しようのないものです。
だから、誰に訪れる死についても、その到来は理由の如何に関らず、そういうものとして、完全中立に受け入れるものなのだと思います。

「死」を完全に中立的に捉えること。
人生のテーマとして、この上なく難しいことですが、最大級に重要な視点ではないかと私は考えています。


『生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。その時初めて生死を離るる分あり。』(正法眼蔵/道元禅師)
『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』(御文章・白骨の章/蓮如聖人)

2015年6月18日木曜日

鎌倉寺巡礼 第一段(北鎌倉編)


北鎌倉の駅で降りたところから渋滞。アジサイの季節の鎌倉は噂通りの人。恐らく、多くが目指すのは、アジサイ寺の明月院。

目の前の円覚寺に入るに、大渋滞が起こっている状態。

反対に進んで、まずは時宗の光照寺へ。
人もまばらで良い感じ。アットホームな小寺。

戻って、円覚寺へ。大変な賑わい(写真)。塔頭が多い。

それから駆け込み寺として知られた東慶寺へ。心なしか、参拝者は女性ばかり。寺の風情も女性的な繊細さを感じる。アジサイも美しい(写真)。

続いて隣の浄智寺へ。拝観料を払ってまでして中へは入らず。

それから、どこまで見られるかは期待せず、大量の人の流れに乗って明月院へ。入り口手前のアジサイもそれなりに綺麗だが、入り口まで来て、どうにもならない人だかりに、すぐきびすを返した。

昼を食べ損わないように、早めの昼。
漢方薬膳のお洒落な如何にも女性対象のお店へ。奥まっているのもあって空いていた。雨が降り出す。

建長寺に向かう。三門他、威容は鎌倉随一。

亀ヶ谷坂の切り通しルートへ。足の疲れを感じたら既に一万歩を超えていた。

人の量が減り、更にマイナーな方向へ。折伏して真言宗を日蓮宗に改宗させたという薬王寺に寄る。

その後、海蔵寺へ。ひっそりして良い感じ。

それから、本日の異端、真言宗泉涌寺派の浄光明寺へ。
寺守のおじさんがしゃべりすぎで、こちらが阿弥陀佛に手を合わせていても、構わず話しかけてくる。階段上の地蔵尊に一人手を合わせられた(写真)。

尼寺の英勝寺へ行くと門が閉まって入れず。外から少しだけ垣間見る。

後、残すは寿福寺だが、その前に、日蓮正宗護国寺の大きな看板が。しかし不可思議な近代建築しか見えず、興味本位で近づいて、何だこの建物?と見ていたら大雨になり、そこへ「どうぞ雨宿りして下さい」と関係者らしき紳士に声をかけられ、これは助かったと、言葉に乗って本堂に入った。
少し世間話をしたところに袈裟を着た住職が登場。
すると、色々な宗派を勉強するのは良いが、どうして仏教が沢山訣れたか歴史的経緯を知っているか、正しいのは一つだけであり、日蓮正宗以外は邪道だ、と始めたので、その考え方には同意できない!と論争してしまうことに。
「あなたに必要なのは信仰であり特定の宗派に絞らなければならない」「いやそれは違う!」という具合に。
あまりにイメージしていた日蓮正宗とそのままの展開に、内心可笑しくて仕方ない楽しい思いをした。
いきなり、そんな話の入り方したら、拒絶反応しか起こらないことがわからないのかな(それともそれに納得して従う人もいるのか?)。

でも、こちらに寸分の迷いもなく、頑迷さが伝わったからか、しつこさは全くなく、直接お話できたことが何よりも良かったですと、気持ちよく退出できた。
時間がなくなり、寿福寺は次回。

ということで、今回は入り口までを含めると合計11箇所の寺をじっくりと見てこられた。

建長寺三門と紫陽花

2015年6月5日金曜日

喜び方の達人になる/マイナスオーラからの脱却

幸福な人に幸福が次々現れる。
その逆もまた然り。

幸せの定義は何度となく書きましたが、幸せを感じられる、つまり、喜び上手な人に幸せが集中していきます。
でも、よく冷静にその現象をみると、同じことがあっても喜べない人もいて、結果その人からはそういう現象は減っていく。
幸福者はドンドン幸福を感じる幅も増えるために、益々幸福が増える。
そして、その人から出るオーラが幸福や善人を引き寄せるのでしょう。

喜び上手に福は集まる。

これは真理と思います。

喜び上手の人は必ずプラスの言葉を発しますから、周辺に幸せ感を充満させます。
片や、文句、課題提起、悪人の糾弾、自己嫌悪、自己卑下、こういう言葉を出し続ければ、間違いなくマイナスのオーラが撒き散らされます。

40年間、真面目に生きることを優先させて、短絡的な正義感を肯定してきたことから、周りにマイナスオーラを出し続けた自分だからこそ、今のこういう自分であり環境なのでしょう。
とても説明がつきます。

しかし、34歳で仏教と出会えて、ものすごくまともに軌道修正されたことは間違いありません。
でも、まだまだ信心も仏道としての実践の甘さが、マイナス要素を消せずにいます。

さあ、ではこれからどう生きていくか。それだけに尽きます。

2015年6月2日火曜日

「刹那主義」で生きる

刹那主義というと、一般には、今さえ良ければ後は知らないという無責任な生き方であり、自分の快楽だけを追求する、決して良い使われ方をしません。

しかし、刹那という言葉自体は仏教用語で、人生にあるのは刹那だけであり、人生はその刹那の積み重ねで構成される、という考え方の根本です。
つまり、本来的には、今、その瞬間を大切にして歩んでいくことが「刹那主義」ということになります。

考えてみれば、我々は今目の前のこと、目の前の人以外、対峙出来るものはないことがわかります。色々先のことを想像したり、勝手に予測したりすることはできても、実際には目の前、刹那としか対峙しえないのです。

そうなると、一瞬、一瞬の刹那、目の前のことをどれだけ大事にできるかどうかが、極論すれば人生のすべてとさえ言えるのです。

「莫妄想」というあまりに有名な禅語がありますが、年を重ねることによって、刹那を大事にできなくなってあれこれと繰り返されるのが「妄想」であり、ほとんど年がら年中妄想の中にいる状態の大人も少なくないと思います。

刹那的な快楽を求めて違法行為とまで行かなくとも、ゲームにレジャーに、と時間の浪費に思えるような過ごし方をする人々も、その最中には「妄想」から解放されるという大きな効用があることを自覚するしないに関らず感じているからという一面があるのではないでしょうか。

妄想からの解放は、私の中では常に意識的な課題でありますが、この刹那を大事にすること、目の前の人、事象を大事にすること以外に、集中すべきものはないと、心得て日々を過ごす姿勢については、日常的には忘れてしまって意識化できていないことの一つです。

これからは、本来の意味での「刹那主義」を意識したいと思います。