2005年5月24日火曜日

山田恵諦 ~共感した名文・名文句~

第253代天台座主。近年で一番知名度の高い座主で、瀬戸内寂聴も天台宗で彼女の著書内にも頻出するため、知る人も多いかも。分かりやすい説法です。

  • 人生をゆっくりと/PHP文庫
  • 腹を立てないことが人生の理想である「(心臓は)四十億回ドクンドクンとする力をもっているそうです。(略)
    そのくらい心臓は丈夫に出来ている。心臓を大切に、扱い方を上手にすればの話ですけれども。では、どういう扱い方が下手なのか。心臓を痛めるのか。
    一番悪いのは、怒ること、腹を立てることです。その次に悪いのは、心配事などがあって悲しむこと。そして急ぐこと。腹を立てず、悲しみごとがなく、のんびりと生きておれば、必要以上に心臓の鼓動を早めない。負担がかからないからこれがよい。(略)
    気分良く幸せに暮らしたいと想ったら、何も難しいことを考える必要はない。腹を立てず、毎日ニコニコ笑いを持って生活する。そのように努力を積み重ね、工夫をするしかないのです。それがもっとも人間らしい生き方の理想といえるでしょう。」
  • 親子の因縁はやはり仏教の説明が納得がいく
    「現代の人たちは価額で割りきれないものは全部偶然ということで頓けて、知らぬ顔を決め込んでおる。これでは人間関係の一番基本になる親子関係一つ説明できぬ。親は親でたまたまできてしもうたと思うておる。子にすれば、たまたま仲の良い夫婦の間に生れてくれば結構だが、たまたま喧嘩ばかりしておる夫婦に生れれば気の毒や。そばづえくろうて不運じゃったとなる。たまったものではない。親の因果、子に報い、というが、正確には親の因果ではなく、その親に生まれてくる自分の因縁を考えねばならんのです。そして、その因縁は自分自身が引き受けなければならぬ。一方、親の方としては、生まれた子は自分たちが勝手に造ったもの、たまたま出来たものと考えてはいけない。親の因縁だけで子供をとらえるから間違いが起こる。オレの子供なんだからとなれば勝手放題と考えてしまう。慈しんで育てるのではなく盲愛になる。親が子供を支配してしまう。子供道連れの一家心中が多いが、やはり親が勘違いしとると思います。自分の子は確かに自分の子であろう。だが、その子が生まれる因果を造ったのは夫婦二人であっても、その子がなぜ自分たちの間に生れてきたかということを考えねばならぬ。それが因縁の不思議さや。子は親を選んで生れることは出来んが、本当は親だって子を選んで生むことはできん。」
  • 悪を少しでも減らそうという三世思想が仏教の根本
    「なぜ、この世にはこんなに一杯悪事があるんや」と思う人がいるでしょう。善があるから悪があり、悪があるから善がある。(略)
    悪がまったくなかったら、善という概念は成り立たなくなってくる。悪には悪の存在価値があることになる。この世に存在するものには、すべて価値があるのです。(略)
    いま、地球に生息する人間全部を善にしようとしても、できやしせません。それはそれでいいから、少しでも善を増やす努力をすることです。せめて、地球人類の51%を善にすれば、善が進められる。(略)
    ところが、現在、
    世界にある宗教の多くは、こうしたことを教えていません。人間救済と言うよりも民族救済、三世思想というよりも現世中心思想となっている。(略)
    現世中心思想ということであれば、現世に執着し、自分の生きとる間に、すべての結果を求めようとあせることになる。「忘己利他」どころか、自己中心的な「忘他利己」の傾向がどんどん強まってしまう。
    それぞれの宗教には、それぞれの行き方というものがあります。それぞれの民族に合う教え方もあるでしょう。仏教をもっと広めよう、盛んにしよう、ということではありません。(略)
    お釈迦さまがありがたい、伝教大師がありがたい、仏教経典がありがたい、ではなしに、誰も文句のつけようのない尊い教えであり、今の世にとって、あるはこれからの人類にとって欠くことのできない精神であるから、そういうのです。」
  • 善行は自分へ返る
    「どんなことでも、縁のある人は大切にしなきゃならない。「情けは人のためならず」とはよく言ったもので、必ずいつか自分のもとに返ってくる。(略)
    あまりにも露に、自分に利益が戻ってくるだろうという目的意識を持つのは、結局のところ、情けでも親切でもないことになりますから、そういった不純な動機は捨てた方がよい。
    応報がもたらされるという期待などを抱かずに善を行えば、必ず報恩があるということです。」
  • 生かされているという意識が最も重要「自分を生かそう生かそうと考えたからいうて、自分が生きるものではないのです。自分を生かすんでなくて、「生かされている自分」になりきることが大切なのです。自分を生かし切ろうと思うと、どうしても自我が出てくる。自我が出てくると真実が見えにくくなる。真実がよう見えんでは、真実に対応する所作は取れない。つまり、その場にもっとも適した対応がとれんことになる。そうじゃなしに、生かされていく自分になりきろうとした時に、おのずから生かされていることに対する感謝の念が沸いてくるのです。(略)
    あくまでも素直で穏やかな自分になれる。その曇りない心が、真実を見るのです。それが仏の心であり、仏の教えであり、あなた方が仏になるための大道なのです。」
  • 現代医学・医者のありかたはまさにこれである「まず苦しみを取ることが先決だと、その先生は申されておった。(略)苦を除いてから安楽に死んでいったということと、苦しみながら死んだということには大きな違いがある。だから医者は生命を大切にすることは必要であるが、生命だけに忠実になって患者の苦しみを無視することはいけない。まず患者の苦しみを除いてやり、そのあとに生命をいかに持続せしめるかという方法をとる。生命の持続を第一義におくと苦しみは第二になって、非常に悲惨な状態になってくる。(略)
    技術が発達しても、人間の生命力には限界がある。これを仏教では、「定命」というわけです。」
  • 結婚の因縁について「(昔の考え方は)前世からの因縁で結婚するんだということです。こう教えられとれば、旦那さんを大切にするようになりますな。夫婦関係は円満になる。ところが出会い頭の結婚となると、因縁というものの大切さを考えないから破綻が来ます。最近、離婚が非常に高くなっているのもこれが原因です。(略)三世の因縁というものを大切なものとして考えませんと人心はすさんでくる。いまがよければそれでいいやないか、ということになるのです。(略)
    性格の偏った男女が結婚して、また子供を作って、また別れる。またその子が、となって、因果は巡ることになる。これは迷信でもなんでもなく、科学的事実なのです。
    好いた相手と一緒になる。その時は、これ以上の幸せはないと思う。(略)
    しかし、実際にはほとんどの場合、当初の愛情や幸福感を持続させることはできない。(略)
    それはそうでしょう。生まれも育ちも違う男女が、成人してから突然一緒に生活を始めたわけです。互いの立場を理解して、歩み寄っていくしかない。同ぜずとも和する努力が必要なのです。しかし、相手の立場への理解がないと、そうした努力の芽も生れない。自分の立場からだけ物事を判断するから、何もかも相手が悪いとなる。(略)
    この人と一緒にいても不幸せばかりだから、離婚しようと簡単に考える。(略)
    しかも、離婚によって相手も幸せになるのかどうか、そんなことはアホらしくて考えたくもないという。子供があっても、その
    子に与える影響というものを深くは考えない。これでは不幸の種を撒き散らしているだけです。(略)
    こういう不幸な人を、この世からなくしたい。すべての人を幸せに導きたいということが、お釈迦さまの願いです。」
  • 因縁を考え、間を究めること「人間関係は「間」が大切なのです。だから、「間抜け」な人間はどうしようもないといわれる。間をちゃんととらえて物事を処理する人間が人格者といわれることになるのです。ですから、人間関係にしても、仕事にしても、その場だけのものと考えてしまうと、どうしても良い結果が得られない。場当たり的なものは失敗します。連関するということがないから。すべては連関するという考えに立てば心に余裕が生れる。長期的な視野を持つことが出来る。長期的な視野を持てば、一時的な感情に支配されることなく、物事の処置判断が出来るわけです。私はこの因縁というものの不思議を常に忘れずに持っていることが、人間関係を円滑にさせる大切なよすがであると、いつも思うておる。そのためには自分自身をしっかりさせとかなならんと思うておる。しっかりさせるということは心を定めることです。」
  • 宗教を持つ人間が心に深く留めるべき名言「間違ってならないのは、宗派のための宗派、宗祖のための宗派ではないということです。どうも宗派にとらわれすぎ、宗祖にもたれずぎの人が多いようです。宗祖を大切にするというのは尊いことですが、たとえば親鸞聖人を拝み、日蓮聖人を拝んでおれば信仰が厚いかといえばそうではない。断言できますが、いかなる宗祖も、自分を拝んで欲しいなどと望んでおられるはずがない。そんなことよりも、教えを理解して、いまの生活に生かして欲しいと思うておられる。そして、人間としてもっとも美しく、清らかで喜ばしい幸せな道を、一人でも多くの人に歩んで欲しいと思うておられる。」

2005年5月14日土曜日

荒崎良徳 ~共感した名文・名文句~

曹洞宗僧侶ですが、金沢南無の会会長だけあって、宗派にこだわらないスタンスで、大乗仏教としての本質を、平易に、そしてぶれることなく的確に説いてくれます。

  • 修証義を読む 幸福(しあわせ)への道しるべ/図書刊行会
  • 「一億総餓鬼」日本は間近「現在、私たちの日本という国は、未曾有といわれる豊かさと繁栄の真っ只中にあります。しかし、それは物質面に限ってのことであり、精神面においてはどん底の貧困状態に陥っています。連日のように報道される醜悪極まりない事件の数々がそれを物語っています。(略)
    このまま放置しておけば、精神面の貧困は更に悪化して、取り返しのつかない「一億総餓鬼」の地獄国家に陥ってしまうことは明白です。」
  • 江戸思想管理以来、今も疑問を持たずに形だけを踏襲する、根本的保守人間・精神的奴隷ばかりで構成されるこの国家
    「江戸時代、徳川幕府は自らの権威・権力を維持するために、巧妙な思想管理を行いました。誕生・冠婚などの人生の節目の祝い事には日本古来の神道に従い、生きている間の生活規範としては儒教の教えに従い、そして、死と死後のことに関しては仏教の教えに従うように奨励したのです。」
  • 儒教=道徳先行、自分を問うことを怠った日本思想の流れ「江戸幕府が庶民に対して掲げた、生きるための指針としての儒教は、五倫・五常を説きます。(略)
    この五倫・五常を眺めてみますと、社会の秩序を保っていくためには、利用価値充分の徳目であることがわかります。為政者は、この徳目に従う者を善、反する者を悪と断定し、善を進め悪を懲らしめていくならば、社会の秩序は容易に保つことが出来ます。(略)
    しかし、この五倫・五常は
    道徳の範疇に属するものであり、自分を律することは出来ても、自分を問い続けることは出来ません。(略)
    江戸時代には倫理・道徳は栄えたけれども、宗教・仏教はほんとうのはたらきができなかった、ということになります。」
  • 偶然は世に存在しない「世の中にはこのような巡り会いを「偶然」の一言で片づけてしまう人がいます。そのような人は、まことに悲しむべき哀れな人だと思います。(略)
    仏教では、偶然ということを全面的に否定します。すべては縁によって起こり、縁によって生ずると考えます。一見、突然変異のように出現したり、または、無から有が生じたりしたように見えるものであっても、それが生ずるためには
    さまざまな縁がかかわり合っていると考えます。決して偶然ではないのです。」

  • 上面僧侶が充満する時代、三宝に帰すといっても「僧」を想像するのが難しいかも・・「真実の仏法に巡り会うことは極めて難しいことに違いありません。たとえ、寺で生れ、寺で育ったとしても、真実の仏法から遥かに掛け離れた生活をしている、いわば形だけの僧侶が充満している現代です。いかに生きるかということを真剣に考え、そしてそれを人に説き続けなければならないはずの僧侶、言い換えれば、真実の仏法を広く伝えなければならないはずの僧侶が、死者の冥福を祈ることだけに専念し、しかも、それを企業並みの商売感覚で行っている現代では、(略)遥かに困難かも知れません。」
  • 戒名について「仏教でも同じことで「受戒入位」して本当の仏教徒となった人には所謂「戒名」が授けられます。以上でおわかりのように、「戒名」は生きている内にいただくべき名前であり、具体的にいえば「仏教を信じて仏さまの教えに従って生きていこう」と決意したときにいただく名前なのです。従って、厳密に言えば、呼吸や心臓の動きが停止してから戴いたのでは、いささか手遅れだということです。」
  • 仏教に「自力」思想はない!、と曹洞宗僧侶が断言しておられます「仏教を生齧りした人は、「浄土真宗は他力の教えで、曹洞宗は自力の教えだ」などといいます。これは大きな間違いです。自力の教えなど仏教の何処を探してもありません総て「他力の教え」です。何故ならば、仏教のどの教えでも、先ず最初に「帰依三宝」が説かれているからです。つまり、仏法僧の三宝に心からおすがり(帰依)し、自分のすべてをおあずけした後に、坐禅などの修行に励むのです。」
  • 政治の貧困や責任を他人に押しつけて世を批判しても始まらない「今、私たち日本人に欠落しているものを数えれば限りがありませんが、中でも最も欠落しているものこそ、この「三聚浄戒」(摂律儀戒:すべての悪をおこなわない、摂善法戒:すべての善事を進んで行う、摂衆生戒:すべての人々のために尽す)に違いないと思います。(略)
    この三聚浄戒は、仏教徒であろうがなかろうが、人間であるならば何としても守らなければならない根本のルールであるはずです。それを忘れ去り、それをなおざりにしているところに現代の乱れが発生したと思うのです。(略)
    この憂うべき傾向に対して、いわゆる世の識者達はさまざまな提言をしています。しかし、どの提言を聞いても、ほとんど上辺だけの言葉の遊びに過ぎないように感じられます。(略)
    退廃した原因の追求に言及したときは、きまって政治の貧困などをとりあげ、責任者不在の形で処理しようとしてしまいがちです。情けないことです。人間が人間として生きていくための根本理念である「
    悪いことをするな! 善いことをしろ! 人々のために力を尽くせ! それを幼児の頃からたたき込め!」という簡単明瞭なことを簡単明瞭に発言される方はほとんどありません。

2005年5月3日火曜日

中沢新一・河合隼雄 ~共感した名文・名文句~

団塊の世代代表でチベット仏教体得者として特異な位置づけである中沢新一教師と、ずっと上の世代でユングの権威である河合隼雄生徒による肩の凝らない、仏教に関する対話シリーズがあります。

  • 仏教が好き!/朝日新聞社
  • 後段が重要「仏教とは、堅苦しく学ぶものではない、と思う。途方もない誠実さを要求するものではあるが。」
  • 幸福と「安心(あんじん)」は全く別
    最近ではお坊さんも平気で『幸福』という言葉を使っています。よくお坊さんが『人間はどうしたら幸福になれるでしょう』という質問をされているのを見かけます。そこでお坊さんは少し当惑してくれればいいのだけれど、しないんですね。さも当然のごとく『我執を捨てれば、あなたは幸福になれる』と答えるのですが、我執を捨てれば安心は得られるかも知れないけれども、ハッピーになったりはしないだろうに」
  • 金イコール幸福と思っているのが、未だにうじゃうじゃ
    大きい遺産をもらってしっかり安心して生きている人は、もらわなくとも安心している人です。そうでなかったら、絶対何かおかしくなる。
    ところが、みんな漠然と幸福を考えていてよくわからないから、何か金がぽーんと入ってきたら幸福になるというイメージを持っています。現代人は金イコール幸福と考えすぎです。」
  • 人間が最初に思う疑問と最後に到達する疑問を包有するのが仏教
    なぜ仏教が大事かというと、人間の思考の一番の始まりの状態と一番発達した状態というのを、一つに結合できる長所があるからです。この点は、キリスト教などはなかなか頑に出来ていますから、そういう人類の自然な叡智に、すんなりと辿り着くのが難しい。(略)
    イスラム教にもそういう弱点がありますね。仏教の現代性といったら、こういうことなんじゃないでしょうか。」
  •  仏教は一言でいうとこうであるその思想は、常識を粉砕し、権力をものともしない批判力を内蔵している。」

岡本かの子 ~共感した名文・名文句~

岡本太郎の母、という方がとおりが良くても、その息子以上に波瀾万丈の人生を生きた革新的女性は、深い大乗仏教徒でもありました。現代の我々からみても、遠く足許にも及ばない偉大な明治生まれ女性がここにもいたという事実に敬服するとともに、戦前日本人の精神世界の深さと頭脳に触れると、改めて現代人の堕落と人間力の低下に暗澹たる気持ちにならざるを得ません。


  • 仏教聖典を語る/潮文社
  • 因果律の平等なる支配により偶然は存在しない「生命は絶対に自在である。そしてその自在さのままで物とも現れ宇宙間万物を形作っている。このことを仏教の述語では物心一如といいます。(略)
    自在に堪えている何にでも平等に行きわたっている筈の生命がどうして一々の形を取るのであろうか。差別の個性を帯びてくるのであろうか。このことは仏教の方で最も大事なことであります。(略)
    これは
    因果律の支配を受ける為です。そのものになる原因があり、これを助成する縁があって、その結果、そういう特色になって現れるのです。(略)
    この見方からすればどんな瑣末な物事でもその歴史となる因と縁とを排する訳にはいかない。
    世の中に何一つ偶然ということはないのであります。」
  • 世のすべてにおいて、自分と無関係な物は存在しない
    「一つの物事は、宇宙の物事といつも互いに影響し合っている。ただわれわれ人間の洞察力ではその実に何十億分の一しか見えないだけであります。これが華厳経で説明する宇宙の生命の網であります。このことは何を教えるのでしょうか。善にまれ悪にまれすべての物事が自分にも関係がありとするなら総ての物事に対して自分も一分の責任がある。おろそかには出来ない。善に対してはいよいよ助力を惜しむことなく、悪に対してはただ無闇に憎しみ捨てず、自分の一分としてその矯正に努力する。」
  • 岡本流法華経の位置づけ
    「仏教の思想とて一時に完全に出来上ったとはいえないのであります。時にはあまりに冷たい思索に入り込みすぎ人間を化石にしてしまいそうな経文もあります。または、あまりに人情におもねり過ぎ甘い未来偏重の極楽思想で人間の現実生活の価値を捨ててしまうおそれのある経典もあります。かくてさまざまの思索と体験の矛盾に打突かったあと、要するに人間が人間であってみれば、人間中心の現実に踵をちゃんとつけた
    当面の生活に生活の意義を十分置く思想でなければ人間用の思想ではないということに気づき、ここに完成されたのが法華経であります。何といっても仏教では中心となる思想ですから、どの宗派でも多少この思想を取り入れない仏教宗派はなく、ただ以上のような理由からまともにこの思想を振りかざしていくのを敬遠しているだけです。法華経そのものは大文学であって規模の大きいこと、組み立ての複雑なこと、戯曲的であって色彩の華やかな事実で素人には中々要領が掴み悪うございます。」
  • 生死(しょうじ)の問題
    「われわれ生物は母の胎内に宿ったときが生の始め、肉体の生理的機能が泊まって再びとは働かぬ時が生の終わり、すなわち死とみておるようであります。しかし事実そうでありましょうか。われわれを形作っている物質方面の筋道をすこし手繰ってみましても、われわれが母の胎内に宿る前は、両親の肉体の細胞であり、その細胞はまた両親の両親から伝えられた細胞が栄養をとって増やした仲間の細胞であります。殖えた細胞の元となった栄養物といえば皆、体外の物質であります。(略)
    こうして調べてみますと、
    われわれの生の始まりに物質的方面だけでも、いくらでも過去に遡ることが出来、大げさにいえば我々の肉体は神代の瑞穂の稲からできているといっても理は通らないことはありません。(略)
    物質不滅の法則によって、生れたといってこの世界に水素、一原子、減りもせず、死んだといって酸素、一原子、増しもせずただ形を変えるだけの話です。」
  • 一切衆生悉有仏性
    「この言葉は涅槃経にありまして、涅槃の獅子吼説といって、大乗仏教のもっとも円熟した思想の表現された言葉です。くだいて申しますと、この世の中の人間は、一人残らず円満無欠の人格者になる素質を絶対に備えているのだということです。つまり満点の幸福に与る予備資格は必ず持っているのだということです。たださしあたりそうでないのは迷いがあり、修養が足りないからです。(略)
    仏教におけるこの言葉は、
    理智が卓越しており、直感の鋭い釈尊並びにその後継者が身命をかけて哲学し、究理し、全直覚を働かせて捉えた人類の素質の真髄ですから絶対的なものです。外れっこないはずです。ただその結果が現れるのには、人々の修養の程度、因縁の厚薄によって時間的に差ができるだけです。」