2006年8月16日水曜日

【念仏法語(横川法語)】

恵心僧都源信は、日本における念仏仏教の初期の高僧として知られ、浄土真宗の七高僧の一人にも数えられていることから、浄土教(浄土宗・浄土真宗)で馴染みが深いようですが、実はれっきとした天台宗の僧であり、天台宗では今も念仏法語として、源信の有名な「横川法語」を読誦しているのです。

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恵心僧都念仏法語に宣わく。
それ一切衆生、三悪道をのがれて人間に生るること、おほいなるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや。家まづしくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもふことかなはずとも地獄の苦しみにはくらぶべからず。
世の住み憂きはいとふたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは菩提を願うしるべなり。
このゆゑに人間に生るることをよろこぶべし。

信心あさくとも本願ふかきがゆゑに、たのめばかならず往生す。
念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる功徳莫大なり。
このゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。

また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別の心もなきなり。
臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、
来迎にあづかりて、蓮台に乗るときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにして、決定往生疑いあるべからず。

妄念をいとわずして信心のあさきをなげき、こころを深くして常に名号を唱うべし。

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全く現代語訳・意訳が入手できない中での暗記となりましたが、この念仏法語は内容が分かりやすいのが特徴です。しかも、平安仏教時代のものだからなのか、念仏宗初期のものだからなのか、浄土宗開祖法然房源空の「一枚起請文」などに比べると、実に単純な論理構成だし、所謂深い話がないのです。比較でものを語る語り口も、甘いと言えば甘く、宗教たるパラドックスなどは全く見られません。といいつつも、「妄念」というキーワードは他にあまり見かけないだけに、新たな視点を提供してくれた一つの経文であります。(2006/08/16)


2006年8月14日月曜日

山田無文 ~共感した名文・名文句~

妙心寺派の歴代管長でも、かなり有名な部類に入るのがこの方。無文さんと親しまれたというが、かなりの厳格さが文章からにじみ出ています。道徳という言葉をしばしば口にすることが、ひろさちや氏の「仏教は道徳ではない」という説を信奉する自分には違和感があるのですが、その他の基本的な仏道の心得はしっかり心に届きます。「遺教経」「無門関」といった解説本の少ない仏典を講釈していることでも貴重です。

  • 死にともない しんじん文庫第二集/春秋社
  • 苦境に思い出すべきこの名言「(最もありがたいものは何かという問いに)「独坐大雄峰」。わしがいま一人ここに坐っておる。このことが一番ありがたい。百丈禅師は、そう答えられたと申すのであります。わたくしは、このくらい自信のある言葉、このくらい人間を尊重した言葉はないと思うのであります。(略)
    いま現に生きてそこに坐っていらっしゃることが、一番ありがたい。まちがいないことだと思うのであります。財産のあることも結構ですが、それは自分が生きておるから必要なのです。きれいな服のあることも、りっぱな家屋敷のあることも結構ですが、それはみなさんが生きているから必要なのです。身分も地位も大切でしょうが、それはみな、生きておるためのアクセサリーではありますまいか。
    いまそこに、生きて坐っていらっしゃるというこの事実が、みなさんにとって、一番尊いことであります。」
  • 目の前のものを拝める人になることが仏への道「明恵上人と申しあげるお方は、道を歩いておられて、何かを見つけられると、じっと立ち止まって手を合わせられ、そのうちにぼろぼろと涙を流されました。お弟子が不思議に思って「お上人はなにを見てござるか、何を泣いてござるか」とおたずねしたら、「ほら、そこに可愛い花が咲いておるじゃろう。その可愛い花を、いったいだれが咲かせたのじゃ。その美しい姿を、だれがこしらえたのじゃ。どうしてここに咲いておるのじゃ。この一茎草の花、不可説、不可思議、不可商量じゃ。人間の知恵では説明できんぞ。人間の力ではこしらえられんぞ。これがこのまま仏の姿じゃないか。もったいないじゃないか。」と野辺の菫の花を見て、涙をこぼして拝まれたということであります。そういう直観が開けますならば、「一色一香、中道にあらざるなし」何を見ても、何を聞いても、みな尊く、ありがたくてしかたがないということになります。死んでからのお浄土じゃない。今日ただ今がお浄土であり、死んでから成仏するのではない、今日ただ今、仏にしていただくのであります。」
  • これが宗教の発想であり、今日の大多数が忘れている根本的真理でしょう「今日、「自我を尊重せよ」とか「個性を尊重せよ」ということがよくいわれますが、わたくしは、自我は尊重しなければならないかも知れませんが、けっして尊厳ではないと思います。自我は未完成な、恥ずかしいものだと思うのであります。個性も尊重しなければなりませんが、そんなに権威のあるものだとは思います。それはわずかな経験と知識と出積み上げたものであって、ひとりびとり違うものであります。ひとりびとりが違うようなものは、普遍的真理ではないと思うのであります。自我の奥に、個性のもう一つ奥に、自我を越え、個性を越えた、人間だれでもそうなくてはならない、普遍的な人間性というものがなくてはならんと思うのであります。」
  • 「本来無一物」を納得して生きている人が如何に社会(特に会社世界)に少ないか「一体この世の中に、自分のものだと主張できる何ものがありましょう。(略)
    自分の身体が本当に自分のものなら、髪が白くなったのを黒くできなければなりませんし、皺も伸ばさなければなりません。何一つとして、自分がそれに対して力を持たないところを見ますと、自分のものだなどといえるものはこの世の中に何もない、自分の生命さえ自分の自由にならないのです。本来無一物、お母さんのお腹に宿ったときは顕微鏡で見なければ分からないような単細胞であったのに、それが今日、六尺のおとなになって生きておられるのは、
    まったく生きておるのではなくて、生かされておるのだと、こう徹することが、わたくしは宗教というものの大切な入口ではないかと思うのであります。」
  • この言葉は、なぜ私がわが子の誕生に合わせるかのように仏道に帰依したかを明解に説明しておられます「赤子の心とはどんなこころでしょうか。人間が生れたままの心は、みな純粋で美しい、けがれのない心であったと思います。(略)
    生れたばかりの赤子の時は、人間はみな神さまのような清らかな心だったと、そうわかることが、わたくしは宗教というものだと思うのであります。(略)
    自分と他人の区別がないという真実の愛情は、親子の間で最もハッキリと自覚することができるものでございます。そういう愛情が人間の純粋なものだとわからなければならぬと思うのでございます。今日の忙しい世の中には、この大事なものがどこかに置き忘れられておるようであります。そういう基本的な人間そのものを教育することが今日大切じゃないかと思うのでございます。(略)純粋な親子の愛情が分かってこそ、自分と他人の区別のない心が広く社会に広められて、ほんとうに大衆を愛する、りっぱな社会的な人格が形成されるのだと思うのであります。そう7いう純粋な生れたままの人間性が分かることが、最も大切なことでありますが、それは教育以前の問題で、すなわち宗教の問題であって、今日、日本人に最も欠けておるもの、もっとも欲しいものは、宗教心ではないかと思うのであります。(略)
    戦後の日本には、社会もなければ国家もない、人間尊重ということが、自分さえよければよいという利己主義に受け取られておるのじゃないかと思うのであります。これで良いものでしょうか。仏教本来の考え方は、自己を全く忘却して、ひたすら大衆を愛するところにあります。これを菩提心と申します。菩提心とは「自未得度先度他なり」と示されております。」



  • 心に花を しんじん文庫第一集/春秋社

    ~昭和30年代後半(1960年代前半)の日本の世相がこれであります~
  • 無宗教が心の荒廃を招いていることが明確であったのはもう50年も昔からだったのです「このごろ阪神間で家裁に提訴される事件は、老人から「子供たちにもう少し小遣いを増やすように話してくれ」という問題が一番多いそうである。さびしい世相ではあるまいか。(略)
    そういう老人に「あなた方は何か宗教をお持ちですか」とたずねると、ほとんどが無宗教だということである。(略)
    (趣味はと)たずねると、これまた九分九厘「趣味もありませんのや」と応えられるそうである。
    宗教的情緒も芸術的素養もなく、ただ金だけで子どもをそだて、金だけで生きてきた人たちが、ついに金で困るのだ、と申しては残酷であろうか。宗教や趣味をもつ余裕さえない、社会の底辺のような環境が、いまもあることを考えねばならぬであろう。「我が親は大事にするが、よその親はどうでもいい、我が子はかわいがるが、よその子どもはどうなってもかまわない」という偏狭な家族主義は誠に困るが、だからといって、家族的な温かい愛情が、今の社会にはいらない、ということにはならないであろう。」
  • だれも正しくない、が宗教への道「一億国民がみんなそれぞれ違った意見を持っておる。そして自分だけが正しいと思っておる。そしてそれを通そうと我を張っておる。世の中が平和にゆくはずがなかろうではないか。正しい意見というものが一億もあるはずはない。とすれば、一体誰の意見が一番正しいであろう。不完全な人間たちの考えることだ。誰の意見も正しくない、とわかることが一番正しいのではなかろうか。」
  • 何かが歪んでいる「”人間を尊重せよ、個人の自由と権利を守れ”と教えられると、自分という人間だけを尊重して、他人という人間はすこしも尊重しようとしない。自分の権利と自由だけをしっかり守って、他人の権利と自由には、全く無関心である。どこかが狂っておる。どこかがゆがんでいる。何かがたりない。」



  • 手をあわせる しんじん文庫第三集/春秋社
  • 大いなる存在に深く感謝をする気持ちを胸にすることが、宗教心の第一歩(著者が結核で悩んでいるとき)
    「そうだ!空気というものがあったんだ!空気があったんだ」と気がつくと同時にとめどもなく涙がにじんでくるのをどうすることもできませんでした。(略)
    人はけっして自分一人で生きているのではない。大きな力に生かされておるのである。身分のある人もないひとも、学問のある人もない人も、働く人も働かない人も、男も女も、人は誰でも
    決して自分一人で生きているのではない。大きな力に、たくさんの人々の情けに、あるいはおびただしい犠牲に生かされておるのである。(略)
    大切な空気に、生まれ落ちるから今日まで、夜となく昼となく、やすみなく抱かれておったのです。働いているときも遊んでいるときも、寝ているときも、こちらは空気などと思ったこともないのに、空気の方はわたくしを忘れずに、しっくりと抱きしめていてくれたのです。」
  • 食事に感謝する気持ちを育てる禅僧の生活「刑務所の献立が出ておりますが、あれをみてわたくし「なんと刑務所というところは、ごちそうを食べるところだなあ」と思って感心したことがあります。ご飯や汁は十分だし、一周に何度か魚があったり、ときには肉飯があったりするようです。そう考えますと、僧堂の食べ物は人間の社会でおそらく最低の食べ物であります。しかもその最低の食べ物を食べておる雲水が、一番手を合わせて感謝をしているのです。これは実に不思議な現象だと思います。手を合わせていただくから、そういう粗末な食べ物でもありがたく戴かれ、また滋養にもなるのでありましょうか。雲水たちは、元気溌剌としております。
  • 現代日本人の宗教の発想が無文師のいう「きわめて原始的」なレベルであることは間違いありません。そしてそれが人間の退廃と宗教を儀式や慣習でしか捉えられない低い精神構造の元凶となっています。「米といってはいけない、お米といえ、水といってはいけない、お水といえ、茶といってはいけない、お茶といえ、茶碗といってはいけない、お茶碗といえ、箸といってはいけない、お箸といえ、すべてのものに敬語をつけて、尊敬して呼ぶことが仏法の教えであり、日本民族の永いならわしであります。しかしそれは、どんなものにも人間のような魂があるから、それで尊敬するというわけではけっしてありません。こちらの感謝の心が、そうせずにはおられぬからそうするのであります。(略)
    粗末にして、もし祟るといけないから、注連縄を張ったり、油揚げをあげたりして祭るというのとは全く意味が違うのであります。そういう、
    すべてものに霊があると見て拝んでゆくのは、きわめて原始的な宗教であります。すべてものに霊があるから拝むのではない。これを拝まないとたたるから拝むのでもない。これを祭るとご利益があるから拝むのでももちろんない。自分が生かされておることを思うとき、手を合わさずにはおられないから、そうするのであります。拝まずにはおられないから、そうするのであります。
  • 仏道の心の根本は親心「すべてを生かしてゆこうというやさしい親心を、仏心と申します。わたくしたちはすべてに対して感謝の心を持つと共に、この大きな仏心を起こしてすべてを愛さねばなりません。むかしから、「子を持って知る親の恩」という言葉もありますが、すべてを生かしてゆこうという、やさしい親心を起こしてみると、すべてのものの生命の尊さがしみじみとわかってきます。そして自らが育てられ生かされておることを、あらためて感謝せずにはおられなくなります。
  • キリスト教の祈りの感覚と仏道の相違点「わたくしがキリスト教に、限りなく愛着を感じながら、どうしてもついていけなかったのは、「いのり」であった。わたくしにはいのりの言葉がどうしても出ないのである。出せばすべてが偽りの言葉となり、浅薄な感傷にすぎなくなってしまうのである。(略)
    キリストも、偽善者のように、群衆の前で声を上げて祈るなといわれたはずである。密室の中で、神とただ二人のところでいのれ、と示されたはずである。それならもう、
    いのる言葉さえ不要のように思われる。神はすべてを知りたもうからである。わたくしは坐禅をするようになってから、坐禅こそ信のいのりであると思うようになった。絶対者の前に正しく自己を坐らせること、そして自己を全く忘却すること、そして一念の念もきざさない無心の状態にはいること、すなわち絶対者の中に自己の心身をささげつくすこと、そして絶対者と自己を全く冥合すること、ああ、これ以上のいのりがあろうか。
  • (河口慧海老師のテキストの言葉)・・まさにこの考え方が人生を前向きに歩む発想転換です「この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由に何処へでも跣足で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴を履けば、世界中を皮で覆ったと同じことである。この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを奉げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったに等しい


  • わたしは誰か しんじん文庫第四集/春秋社
  • 人生の一大事は社会生活を営むだけのことではないでしょう「お釈迦様がこの世にお出ましになった目的は、一大事、人生の最も大事な問題をひっさげて、この世の中へお出ましになったのである。
    それは皆さんに仏と少しも違わん智慧の目を開かしめ、仏と少しも違わん智慧を示し、仏と少しも違わん智慧を悟らせ、仏と同じ智慧の日暮らしをして頂くために、お釈迦様はこの世へお出ましになったのである。それが、お釈迦様がこの世へお出ましになった、たった一つの目的であると示されるのであります。すわ一大事などと皆さんもよくおっしゃるが、
    この世の中で、一体何が一大事でありましょう。お互いの心の名kに仏と少しも違わん立派な心のあることを教えて頂くこと、それを悟らせて頂くこと、そういう日暮らしをさして頂くこと、これが一大事でなくて何が一大事でありましょう。銭を儲けたり、うまいものを食べたり、立派な屋敷に暮らしたり、身分が出来たり、享楽にふけったり、そういうことは人生の一大事ではありません。それは人生の道草であります。そういう道草を食って一生を終わってしまっては無駄でありませんか。人生の一大事は、一人一人が仏にして頂く、生まれたでもない死ぬでもない、迷いでもない悟りでもない、完成された人格を悟らせて頂く、それが一番大事なことではありませんか。」
  • 日本仏教の二つの到達点「禅と浄土門とは、全く立場が逆のようでありますが、学問を十分しつくして学問を捨てていくところに、禅があり浄土門があると思います。」
  • 一切衆生悉有仏性を知る「(東条内閣の軍務局長佐藤氏がA級戦犯として巣鴨の拘留所へ入った行く末)
    そこでしみじみ考えられたことは、(略)結局、人間はこの世へ何しに生まれてきたのであろうか。人生の目的は何かと考えさせられた。(略)そして結論として、人間がこの世へ生まれたのは、自己を完成するためだったと気づかされた。(略)
    人間は人間として立派な人間になるだけが目的である。名誉だの、財産だのは、人生のアクセサリーに過ぎない。人生の目的は自己の人格を完成すること、それ以外に目的はない。そう気が付いたらアメリカに食わしてもらうのも結構だ。毎日じっと坐って坐禅をし、お経を読み、時には写経をし、哲学宗教の本も読み、少しでも自己を完成させればいいと、こう気が付いたので、このごろは拘留所の中が実に愉快で楽しい。何も不自由はない、ごらんのように良く肥っておりますと、元気に話されたことでした。まことに人生の一大事は、人間として完成されることだと申して間違いないことでありましょう。しかも
    完成されるとはこれから完成するのではなくて、生まれたときから完成されておったと、わからして頂くことであります。」
  • 仏教の受戒とは、当然、死んで戒名を貰うことではありません「めいめいが自分の心の中に生まれたときから頂いて居る者を明確に悟らせて頂くことが、お受戒でなければなりません。人を殺してはいかんのではない、虫一匹でもよう殺しませんというこころをわからしてもらうことであります。(略)
    男女の交わりは綺麗でなければいかんではない、
    真実の愛情が分かれば綺麗な夫婦関係にならざるを得んということであります。そういう心を分からして頂くことが、お受戒でなければなりません。」
  • 賓主互換こそが平等「どうですか、人間は平等だ、同じことだといいますが、ここまで徹底できますかね。あなたの仏性も私の仏性も同じことだから、おまえさんと私と入れ替わったって同じことだという塩梅です。(略)人間が本当に平等だと分かったら、そこまでいかなければならん。(略)
    このごろはよく、一日市長だの、一日駅長だのといって名士や映画俳優などを連れてきてやらせることが流行りますが、そんな女優や名士を連れてきて一日市長にさせるよりは、
    そこらの不平不満を言う分子を一日市長にしてみたらどうでしょう。市長というものが、どんな気持ちでおったらやれるものか、どんなにいそがしいものかよく分かるでしょう。」
  • 自分のことを知らないからすぐに安易な見当違いの自分探しをしたがる現代人「英国の歴史学者のトインビーという人が「現代人は何でも知っておるが、自分のことだけは知らない」と言われたそうですが、確かにそういうところがあります。(略)
    自分というものが、どうしたらいいのか、どっちへ向いていったらいいのか、何をしに生れてきたのかさえさっぱりわからんというのです。(略)
    だから簡単に人を殺してしまう、簡単に自分も死んでしまう、死ぬほど楽なことはありませんが、それでは本当の解決ではないと思います。そこで真
    実の自己とは何かと見極めておくことが、現代人にとって最も大切なことだと申さねばなりません。そういうことをはっきりわからしていただくものが仏法だとしますと、今日、仏法ほど求められねばならぬものはないと思います。」
  • 人生は進歩をしなければならないが安らぐ家も同時に必要という金言「永遠なる途中にあって日々「家舎を離れず」。毎日が前向きで、まだ足らぬまだ足らぬと進歩しながら、毎日がこのままで結構でございます、おかげさまでと、感謝と安心の境地が開ければならんと思います。」
  • 臨済の注意した悟りとは「外界の一切を否定して、お山の大将俺一人と悟りますことは、一応誰にもできますが、自己の内側の愛欲と執着を断ち切ることは容易なことではありません。煩悩を全く断ち切れではございません。煩悩に使われるなということであります。煩悩を使っていく堅実な自主性を自覚せよ、ということであります。」
  • 仏道を学んでいてこれだけは忘れてはならないことであります「学問だけでは、われわれは救われません。それはたとえて言えば、薬の効能書であり、栄養学でありまして、私どもは万巻の栄養書よりも、事実自分たちの口に入る一斤のパンの方が必要なのであります。それを身近に自分のものにし、直接、生活のなかに味わっていくところに、真実の意味の宗教がなければならんと思うのであります。」
  • 儒教のように子が親を拝むだけでなく、親が子どもを拝むのが仏道であります「子どもに親を拝めということは当然ですが、親に子どもを拝んでいけと教えられているのです。これほど人間尊重の言葉はないと思うのであります。なんで子どもを拝まんならん、わしがこしらえてやったじゃないか、という考え方に間違いがあると思うのであります。子どもはたとい赤ん坊でも、立派な対等の人格を備えておるものとして、尊重していかなければなりません。しかも自分たちが作ろうとおもって出来るものではない。子どもには子どもの歴史があります。子どもには子どもの過去があります。親は音楽など嫌いなのに、音楽の上手な子どもが生れたり、親は絵など描いたことがないのに絵の上手な子どもが生れたりということは、親と別な過去を持っておるからだと思います。仏教の古い言葉ですが、二元には全盛というものがあるということを考えますと、前世は、どこのどちらさまか知りませんが、よく私どものような貧しい家へ生れてくださいました。ありがとう。良く私のようなつまらん男の子どもに生れてくださいました。あなたがうまれてくださったおかけで私どもが親になれましたと、子どもに感謝せねばならんと思います。純真な子どもに親がどれだけ教えられることがありましょう。生まれたての子どもをそのまま仏として拝んでいける、そういう人格尊重の教育がなされますならば、必ず立派な子どもさんが育つと思うのです。」


  • 中道をいく しんじん文庫第六集/春秋社
  • 大の大人が自覚しない現代の謝った教育の落とし穴「自分の人生は自ら切り開いていけ」「他人に迷惑をかけるな」こういう人生観は一応社会人として立派なことのようですが、実は非常に偏頗な個人主義で、これが一歩間違いますと、きわめてせまい利己主義になってしまいます。(略)
    「自分の人生は自ら切り開いていけ」などといってみたところで、事実、人生が自分一人で切り開いていけるものでしょうか。親や先生や、先輩、友人、そして社会の皆さんのおかげではありませんか。なぜ、社会の皆さんに感謝する人間になれ」と教えられないのでしょうか。「他人に迷惑をかけるような人間になるな」といってみたところで、お互い凡夫のことですから、つねに失敗して人様に迷惑をかけることばかりです。ですから、
    「人に迷惑をおかけするが、そのかわり人の迷惑も喜んで引き受けるような人間になれ」となぜ希望されないのでしょうか。」
  • 貴賤の衆生に蔓延した拝金主義が家庭崩壊となり現代の有様になったのです「家庭を捨ててまで働きに出るお母さんたちが、明日食べる米を買うお金のないような人もないとはいいませんが、多くは自分の自由に使える金が欲しいのです。(略)
    パートタイムで奥さん方が働きに出られると、時間の都合で、ご主人が帰ってこられてもすれ違うことがある。夫婦も親子も、ゆっくりと話し合う時間がない。この
    行き過ぎた物質文明のために、健康がおかされ、家庭がこわされ、そして精神までもがおかされているのであります。」
  • 昭和40年代に既に利己主義の増幅が懸念されていた若者が今退職を迎える「団塊の世代」です「自由主義の国には一応キリスト教的教育があり、共産圏の国には社会主義的ヒューマニズムがありますのに、今日の日本の教育には、そういう精神的指導内容というものが何もないのであります。『人間を尊重せよ』『個人を尊重せよ』『自我を自覚せよ』という、いわゆる民主主義的教育は行われてはおりますが、その、人間は何をなすべきか、自我の内容は何かという、もっとも大切な問題がすこしも示されていない。きわめてせまい個人主義者、利己主義者ばかりが、今日の若い世代には多いのではないかと思うのであります。」
  • 現代人のあまりに空しい一生「(現代人は)人間を尊重せよ、個人を尊重せよ、自我を自覚せよといわれると、人間を尊重せよとは私を大切にすることだ、個人を尊重せよというと、自分が何をしてもいいことだ、自我を自覚せよといわれると、自分の幸福を自分がしっかり掴むことだと受け取られているようであります。しかし、そういう自分のためだけの狭い意味の個人主義、利己主義的人生観には意味も価値もないと思う。なぜならば、自分のためということは、自分の欲望を満たすことで、欲望というマイナスを、一生かかって「もの」でプラスするだけの人生にすぎません。つまり、プラスマイナスゼロということになり、人生の価値は刹那的享楽以外何も残らんのであります。」
  • 自分様が一番醜悪。我を忘れることが理想と思うこのごろです「自分と他人の区別がなくなって、相手の気持ちになれる心、そういう清らかな心が、人間の生まれたままの、幼子のごとき心であります。(略)
    自分を忘れて人のことばかり考えていたのでは自分が成り立たないじゃないかと、すぐ反駁されそうですが、けっしてそうではありません。自分のことばかり考えるから自分が成り立たないので、
    他のことさえ考えていたら、他はみな何千何万の目でこちらを見てくれているのだから、自分が成り立たんはずは絶対にありません。
  • 宗教を考えるタイミングは死に際ではありません「死ぬか生きるかの境にのぞんでからでは、宗教も役には立たんと思います。宗教というものは、健康なときに、若いときに、生活の楽なときにやっておいて、はじめて死に際にまにあうでありましょう。」


  • 不二の妙道 しんじん文庫第八集/春秋社
  • 神道について~宗教や哲学と言えるのか「日本の神さまの教えは、清浄の二字に尽きると思います。ただそれだけの、実にハッキリした教えですが、「言挙げさせざるの道」といって、理論がない、神学がないのです。幕末になって、本居宣長や平田篤胤というような国学者が、仏教に対抗して神学を編み出しましたけれども、本来そういうものを必要としないほど純粋の民族が日本民族なのです。」
  • 檀家制度以来の堕落仏教が今も残る「徳川幕府は天草のキリシタン一揆に懲りて、宗教ほど恐ろしいものはない、武力も政治力も及ばんということに気がつきまして、『宗門帳』といって檀家制度というものを決め、新しい宗教の起こらん措置を執りました。それは一見非常に仏教を保護してくれたようですが、実はすっかり仏教を堕落させてしまいました。お寺と檀家とは離れることのできん組織ですから、坊さんはなまけておっても遊んでおっても、勉強せんでも修行せんでも、布教をせんでも檀家は離れやしません。うまく檀家の機嫌気褄をとって、上手に葬式と法事さえしとりゃ喰っていける。ことに大名の帰依を受けた、いわゆる名僧知識が、大名たちの趣向におもねった悪風が今日も残っているように思います。儀式、法要ともとなると、大和尚方が凛然たる衣装を着飾って行列なさる姿は、まるで花魁道中そっくりじゃないかと思うのであります。」
  • 今も話題の靖国神社のとらえ方はこうも考えられます「(昭和45年の靖国神社法案に対してキリスト教や仏教系大学がこぞって反対署名をしたことに対して)私が学長をつとめさせていただいております花園大学にも、「反対の署名をしていただきたい」といってこられました。そこで、「私は靖国神社法案には賛成ですから、署名はよういたしません」とお断り申したら、「政府が特定の宗教を公式のところに使うのは重大な憲法違反です。だからわれわれは反対し、こうやって署名のお願いに参ったのです」とおっしゃいました。私は、「靖国神社を宗教だと思っていらっしゃる高僧方や牧師さん方の宗教観を疑います。『宗教だ』とおっしゃる以上は、その宗派のご開祖がおられなければならんはずです。その宗派の聖典、経典がなければならんはずです。その宗派の信仰箇条がなければならんはずです。ところが靖国神社の、ご開山とはどなたですか。宗祖がおられますか。靖国神社に聖典かバイブルがありますか。靖国神社の信仰箇条とはどういうものですか。靖国神社がこれまで一度でも信者を増やす運動をしたことがありますか。靖国神社を別立して国家が祀ってくだされば宗教ではありません。日本人の国民儀礼です。私は賛成です。外国に行けば、どこに国にいっても、無名戦士の墓というものがあるではありませんか。クリスチャンであろうがなかろうが、すべては十字架の下に祀られてある。それと同様に、日本民族は神事で祀っていただくのが習慣なのです。靖国神社法案、まことに結構じゃありませんか」


  • 鶏は暁の五更に鳴く しんじん文庫第七集/春秋社
  • 今の日本人では考えられないが昭和にはまだこういう日本人像が生きていたのでしょう「トインビー博士も「龍安寺の石庭を観てきました」と話しておられますが、庭のことには何も触れず、「あの庭を見ておった日本人の姿を見て、私は胸を打たれました。彼らは霊的感激に浸っておりました」と語っておられるのであります。何十人おったかしりませんが、男も女も、年寄りも若い者も、あのお寺の縁側にベターッと坐ってしまって数十分の間、咳払い一つせず、ウンともスンとも言わず、じっと庭に見とれておる。トインビー博士が驚いたのだと思うのです。ヨーロッパでは恐らく見られない光景だと思うのです。何十人もの人間が、数十分の間、一言も発せずに何かに見とれておる。(略)
    「日本人は無宗教だと聞いていたが、あの姿は宗教的だ」とトインビー博士は感嘆しておられる」
  • 人間の生きる意味の本質はここら辺にある(ここら辺にしかない)と思うこのごろ「あるとき、若いお母さんが投書しておられました。『私はぼんやり学校を卒業して、ありふれた結婚をしました平凡な家庭の主婦です。人生だの、自分の価値だのということを、一度も考えたことはありません。ところが、赤ちゃんができましてお乳を飲ませたとき、はじめて自分の価値がわかりました。この赤ちゃんは、私がいなければ育たないな。育つかも知れないが、幸せにはなれないな。私という人間は、平凡なつまらない女ですけれども、この赤ちゃんにとっては、日本一なくてはならない女だと言うことがわかりました。赤ちゃんにお乳を飲ませて、私ははじめて自分の価値がわかりました。はじめて生き甲斐を感じました』とありましたが、私は体験からでた真実の言葉だと思います。」
  • 先祖の読経は仏道ではない(世の誤解参照)「先祖の霊を崇厳懇切にお祀りすることは、日本民族の美風として悪いことではありませんが、これがはたして仏教であろうかどうかということを私は考えます。お釈迦様は、一度も死んだ人のお葬式をなさったこともないし、なくなった人たちのために読経や回向をなさったこともなかったのです。なくなった人たちのためにお祈りをすれば、地獄に墜ちた霊が天国に登るということを教える外道が、お釈迦様の時代にもありました。(略)仏教とは、生きた人間を救う教えでなければなりません。仏教が中国に入りましてから、儒教、老荘、その他中国の民俗、習慣と密接に結びつきました。お位牌を祀ることも中国の風俗で、仏教にはなかったことです。(略)
    これは儒教の思想によるものであり、さらにまた、日本人本来の民族精神と結びついて、発展し来たったものだと思いますが、しかしこれは、仏教本来の精神ではないと思うのです。」


  • 遺教経講話/春秋社
  • 仏道の真髄「預言をするとか、先祖の霊がのりうつるとか、何か変わったことをしたがるのが宗教ですが、お釈迦さまの教えは「ただこれ平常なり」、当たり前で、人間が当たり前になることがお釈迦さまの教えで、キリストのような奇蹟は、お釈迦さまは一つもなさっておりません。当たり前が一番尊い。」
  • 無意識にこの状況に陥る自分を戒めたいものです「「人生は自分のためにある」これが戦後の教育であります。(略)
    いかにも自由なようですけれども、人生は自分のためにあるといわれると何をしていいかわからん、これが本当です。ヨットに乗って世界中の海を二百七十五日と十三時間十分かかって回ってきたという人がおりますが、人のためには、何にもならん。
    自分のためにはどんなことでもやる。これが今の世の中です。(略)
    国民の八十パーセントがみんな勝手放題に生きている。まさにこれは、一億総無責任時代だと思うのであります。(略)
    せいぜい人に迷惑をかけんだけが、道徳であるというのが今の世の中であります。お釈迦さまは、まず戒律を守れ、自分の行動を慎め、そこからよい行動が出てくる、明るい世界がそこから開けてくる、とおっしゃった。」
  • 六根清浄を考える「五根というのは眼耳鼻舌身であります。(略)
    この五根がなかったら、人間は何の働きもできません。五根があるお陰で毎日生活できるのでありますから、五根ほど大切なものはないのであります。
    悪いのは五根ではなくして、その上にある心であります。五根と申しますその上に、意根というのがあります。眼耳鼻舌身意であります。(略)
    五根を制するということになりますと、最も大事なのは、五根の根本である心を制するということになります。(略)
    主人公は意識であります。意識の主人公は、さらに奥深くある仏心であります。仏心が意識をとりひしいで勝手に動かないようにしてゆくことが大切なことであります。(略)
    意識というやつが間違うと、とんでもないことをいたします。人間の命を失い、魂を失い、功徳を失い、健康を失い、宝を失い、最後には身体を失い、人間のすべての良いものを失ってしまう。そういう恐ろしいものが意識でございますから、意識をしっかり抑えつけて、これを勝手に動かないように使っていく主体性が大事であります。」
  • 名言です「人間は裸でおることを恥ずかしいと思う。どんな南の方のニューギニアやインドネシアの山の中にいっても、さすがに前は隠してあります。(略)
    どんなきれいなご婦人の着られる着物よりも、
    一番大事な着物は、恥ずかしいという着物であります。心の中に恥ずかしいという心を持つことが、どんな美しい着物を上から飾るよりも、人間の心を飾っていく、心の醜さを隠していく一番大事な着物でなくてはならんのでございます。」
  • 不瞋恚戒、一生の最大の課題であります「「和顔愛語」という言葉が『観無量寿経』の中にございますが、いつもニコニコして、やさしい言葉を使え、和やかな顔をして、愛情のある言葉を使え、腹を立てて憎たらしい口を聞いたらいかん。(略)
    不瞋恚戒、腹を立てないということが菩薩の十戒の一つ。(略)
    腹の立つ内は、心の中に我がある、俺がある。私がという観念がとれんから、腹が立つ。その私を捨てることが、仏法ですよ、と。「仏法は無我にて候」と蓮如上人も言われます。生れたときには私がなかった。みんなきれいな鏡のような心をいだいておったとわかれば、どんな事件が起こっても腹の立つようなことはありません。」
  • 四智(唯識)を考える「お互いの生れたままの奇麗な心を大圓鏡智とお釈迦さまはおっしゃいます。大きなまるい鏡のような智慧。奇麗な心は前に来た姿を、どんな姿でも受け入れていく。すべてを受け入れていく奇麗な心とは、すべてを受け入れる広い心で、しかも鏡は平等でございます。平等に映すということは平等に尊敬する。」

2006年8月9日水曜日

中村元・保坂俊司 ~共感した名文・名文句~

現代日本の仏教研究で最大の功績者といっても過言ではない中村元先生の言葉には、信心が伴っているのがわかります。だから説得力があるのです。それをいつも補足する保坂氏も、その趣旨を最大に理解する、いわば親鸞における唯円、道元における懐奘なのかもしれません。

  • 中村元「仏教の真髄」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会
  • 自己の中の大宇宙は仏教の根本思想であり、先祖について考えればすぐわかります一人一人の中に偉大な過去が生きていることがわかります。いかなる人も両親から生れたのですから、その両親が自分の中に生きているわけです。その前の世代の両親もまた子孫に何かを残して生きている。千年も遡ったら先祖は何十万の人になるでしょうね。【注:先祖を遡っていくと、約千年前の30世代で先祖の総数は10億人を超える】そういう人がみないまの個人の中に生きている。別な表現で申しますと、多くの人々と同じ祖先を共有している、ということになります。さらにこの考え方を拡大していきますと、「この大宇宙が小さな一人一人の中に生きている」というところまでまいります。まことに偉大な不思議な神秘をそこに認めることが出来ると思うのです。いわば目に見えない祖先が自分の中に生きていて、他の人の中にも同じように生きているのですね。」
  • 西洋の自我観の限界~西洋哲学と仏教の視点の決定的相違
    「めいめいの人がかけがえのない生命、つまり無数に列なる生命の連鎖の最先端に生きていると言うことは、一人一人が他人とは取替えることの出来ない、尊くかつ「絶対に独自の自己」として生きていることです。つまり「自分の自己」は「他人の自己」から截然と明確に異なったものであるのです。デカルトのように「自分が意識する、故に自分が存在する」という自覚だけでは、「自分の自己」が「他人の自己」とは異なった存在であるということを説明し得ません。それは、自分と他人のふたつの自己が物体としては異なったものであることは言い得るかも知れませんが、どちらも共通の「自己」という一種と類概念のようなもので括っているにすぎません。つまりこの説では「甲の自己」と「乙の自己」とは、内容的・質的にも異なったものであるというわけを説明したり証明したりすることが出来ないのです。ここに西洋の近代的思惟の発端にあったデカルトの自我観の決定的な弱点を露呈しています。(略)
    その伝統を受けついだ西洋の思想家、たとえばヘーゲルのような一元論哲学では個体が個として(めいめいの人が個人として)絶対的であるとうことを説明することが出来ません。この点は、マルクスの思想でも、そして思想伝統の全く異なるインドの一元論的なヴェーダーンタ哲学でも、そのほか古今東西の一元論的哲学は、みな同じ難点を持っています。つまり「自己」の多様性を説明できないのです。(略)
    一方、「自分の自己が他人の自己とは全く違った実体ではないか」という思想を述べた哲人も登場しています。西洋におけるその代表的な例はライプニッツです。ライプニッツはその難点を避けるために、無限に多数の個的実体としてのモナド(単子)というものを想定しました。(略)
    ライプニッツはモナドの概念によってこの問題を解決しようとしましたが、もろもろの個が互いに異なったものであるということを、彼はどうしても説明することが出来なかったのです。(略)
    この点はカントも同様です。彼は人格についての抽象的・一般的な議論を述べているだけであり、個々の人格の間の内容・色調・ニュアンスの相違が何故起こるかと言うことを説明していないし、またその立場から説明できないでしょう。(略)
    いずれにしても、
    人格の独自性は仏教が説くように、それぞれの人が受けている無限に多くの原因・条件が異なったものであるとすることによって、はじめて説明がつくのです。もし、それらの原因・諸条件が内容的にまったく同じであったならば、どの人も全く同じ姿、同じ顔をしていて、差異がないということになります。」
  • つくづく、子供の事件に右往左往する大人を観る度、大人の方がよっぽど終わっているじゃないか、と思います
    「一言で表現すれば、「心の喪失」ということになるかと思います。特に、昨今の青少年の引き起こす事件には暗澹たる気持ちにさせられるものが多く、彼らの言動の背後に「心の荒廃」を感じざるを得ません。しかし、病んでいるのは子供たちの心だけではありません。大人達の社会でも事情は同じです。というより子供たちをこのような状況に導いたのは、それを生み育てた大人達であり、
    子供たちは大人達のいわば純粋培養的存在である、と考えるべきでしょう。そう考えれば、いまの日本社会は、何処を見てもエゴイスティックな大人達で溢れています。(略)心の喪失は、孤立感や不安感、焦燥感や怒り、あるいは自己本位の志向を生み、その結果温かい人間関係の欠如した社会を作り出すこととなり、そのために「いのち」を軽視した社会現象が現れると筆者は考えます。」
  • 仏教「因果論」の合理性と、奇跡を求める必要のある宗教の限界について
    「日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。」
  • 世界を全体的に捕らえることをやってきた超最先端思想こそが仏教であります
    「この世界に孤立して存在しているものはなく、すべてが互いに関係しあい、補い合って存在するという考え方は極めて重要な思想です。というのもこの世界を理解するためには、分析のみではなく、「全体からの発想」あるいは「総合的発想」が大切であることを教えているからです。この仏教の基本的思想は、以下に紹介するような最先端の科学の思想に通じています。というより、最先端の科学の方が仏教思想に知らず知らずのうちに近づいてきている、といった方がよいかも知れません。」

  • 中村元が説く仏教のこころ/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会


  • 中村元「老いと死」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会
  • 「浮世の八つの慣わし」「原始仏教聖典の文句の中では「浮世の八つの慣わし」といって、つぎのようにまとめています。「利益と損失、誉れと毀り、非難と賞賛、楽しみと苦しみ、これらの事柄は人間においては無常であって、恒久的ではない。いつまでも続くものではない。変じ、滅びるものである。知者はそれらを知って、心をとどめて変幻するものを観察する。いとおしい事物に心を乱さず、好ましからぬことだからとて、怒りに赴くこともない。」(「雑一阿含経」)」
  • 今、哲学でも生と死の問題の重要性を忘れてしまっています「哲学のほうでも、死の問題は論議されたりされなかったりしますが、考えてみますと、死から目を背けている哲学の存在意義は非常に限られたものではないかと思います。人の心を動かす哲学とはなり得ません。いまの日本の大学の哲学科で先生は死の問題を教えているのでしょうか。ここに一つの問題があると思うのです。考えてみますと、死の問題は人間にとって最大の問題で、誰にとっても一番重要なことです。ですから哲学でも宗教でも死を問題にするのは当然でしょう。ただ、記号論理学とか分析哲学を中心にした最近の哲学では、死の問題をあまり論じなくなっているのではないかと思います。論理も大事だと思いますが、そういうことは、結局人間の生き死にの問題の周辺に属することであって、生きている人間にとってはやはり生と死の問題が一番大事だということになります。」
  • 死を意識すること「ほとんどの人が、人間は孤独な存在であるという構造に、平生は気づいていません。けれども死の自覚と共にこのことがはっきりと露呈します。日常の感覚では、死は遠ざけたいものとしてありますが、仏教ではこの死を積極的に位置づけます。」
  • 精神文化的には、現代人は原始人レベルまで退化していると断言できます「特に、近代文明という唯物論に毒されている最近の日本人は、死を一切の終わりと考え、無価値なものとして忌嫌い、生きている時間を一刻でも長くしようとします。死を一秒でも先送りすることに心を砕き、確実にやってくる死への準備を怠っています。このように最近の日本人は、死に後ろ向きな文化を形成してしまったと言えましょう。死について学習する機会もなく、死に価値をおく文化も奪われ、唯物論が支配する社会。そうした社会における唯一の生き方は、たとえリンゲル注入のチューブによってスパゲッティ状態にされても、一分一秒でも長くこの世に生きながらえようとすることです。なぜなら、その後の世界を考えることも、またそれに思いをはせることも、それに価値を見いだすこともできないからです。
    しかし、死は誰の元にも確実にやってきます。現在の日本人の多くは、死を迎えるにあたり心の準備も、覚悟もなく、死という未知なる暗黒の淵へ、後ろ向きに投げ込まれるような、不安と恐怖に駆られているのではないでしょうか。そこには死と向かい合い、死に積極的な意味を与え、それによって死を克服してきたかつての日本の文化の積み重ね、民族の智慧は、生かされていないように思えます。まさに
    原始レベルの人間の精神に返った、未熟な死へのおそれのみが支配しています。」
  • 心の豊かさは物質的豊かさに優るのが真理であります「つまり、心の豊かさは、結果的に物質的な豊かさに優るということではないでしょうか。少なくとも老境に入った人間にとって、社会制度を含めた物質的な豊かさのみでは、人間は幸福に人生の最後を迎えられないということです。」
  • 高齢社会と福祉を考える上での仏教の位置づけ総論(決定版!)「日本人にとって仏教は馴染みのある宗教ですが、実は伝統的な仏教と、明治以降の仏教では大きく異なることは、意外に知られていません。というもの、日本が近代社会を迎えた明治維新の時に、国家レベルで廃仏毀釈を行い、仏教信仰を文化的に否定し、神道の国家を作ったからです。そのために多くは仏教への信仰心を失い、その宗教的な世界観を捨ててしまいました。(略)

    以来、日本人には、心から信仰できる宗教、つまり現世と死後の世界を意味づける価値体系、世界観を失ってしまったのです。もっともその代わりに第二次大戦後は、経済発展が心の支えになっていました。(略)

    エコノミック・アニマルと揶揄された日本の経済復興です。しかし、この時代を支えていたのは、「物質的に豊かになればそれでよい」という
    極めて唯物的な発想です。つまり、先述の唯物論が幅をきかす社会、効率を重視する経済優先の社会です。このような社会では、心の問題は扱いません。特に、死の問題はまったくノータッチです。敗戦後の日本人はそれこそ寝食を忘れるほど、経済的な価値を増大させるため、阿修羅のごとく邁進してきました。(略)

    古来、人間は死を恐れながらも、老いや死をさまざまな機会を通して体験し、学習してきました。(略)
    如何に生きるか、如何に日常生活においてよりよく生きるかということは、同時に、如何に死の恐怖を乗り越えるか、それを和らげるか、あるいは死を如何に意味あるものとして理解するか、ということであったと言えるからです。そしてその中心が宗教であったのです。(略)
    したがって、死はこのからだからの決別であっても、決してすべて無に帰すること、つまり生にとって無意味な、そして無価値なものとは考えられなかったのです。いわば、
    生と死は一体であり、連続、あるいは表裏の関係であると考えられていました。(略)

    高齢者社会を迎えた今こそ、我々の祖先が育んできた精神伝統としての仏教の智慧に今一度着目し、それを現在に生かす努力をすべきときがきた、ということではないでしょうか。(略)

    ただ、老いを問題にする場合、現在の日本の議論では、若者から老人への一方的な貢献について議論されます。つまり、保険制度や、福祉の分担金云々といったことがそれです。(略)
    老いとは単に老いを迎える当事者の問題だけではなく、それを取り巻く社会全体の問題でもあります。現在は、この関係性がほとんど議論されず、
    世代ごとに各自の事情(エゴ)を主張するのみで、互いの存在への配慮が感じられません。ここにも心の領域を疎かにしてきたツケが影を落としています。(略)
    現在の高齢者は、老いの価値を評価せず、ひたすら壮健の時代の心持ちに執着し、若さを求め、食物や享楽といった形あるものの欲望の充足を求める傾向にあるように思われます。(略)

    仏教のいう「諸行無常」の教えは、このような状況の変化を深く認識し、それぞれにあった行いをすることの自覚を促すものとして、示唆に富むものではないでしょうか。(略)
    我々は日本の伝統に学ぶ必要があるのです。なぜなら、
    かつての日本社会は超高齢化社会であったからです。(略)
    江戸時代の祖先たちが、生れるものと亡くなるもののほとんど均衡した社会、つまり社会的に見て高齢者の比率が非常に高い社会を平和裏に、しかも文化的にも極めて充実してきた中で形成してきたことを意味します。(略)

    我々の祖先は、われわれを取り巻く環境存在を、死後の世界と関連づけて解釈してきました。具体的には、一切の存在に価値を認め、それそれの場において精一杯生き抜くという生き方です。日本ではこの生き方を「道」と呼んで尊んできました。この道の思想こそ、それぞれの立場において、与えられた生を己の為のみならず社会のため、あるいは世界のために「生き尽くす」教えだといえるのではないでしょうか。ところが、現代社会はこの伝統をすっかりわすれてしまいました。
    その結果、日本人の心の荒廃は、ますますすすみ、仏教的にいえば修羅か餓鬼道の状態にあるといえましょう。しかし、唯物主義の日本からは、これに対する反省はほとんど聞くことが出来ません。言い換えれば、それほど現代日本は心を病んでいるということです。現在のように死を忌嫌い、「死」に意味を見いださないということは、「生」の真の意味をも認識していない、ということです。」


  • 人生を考える/中村元/青土社
  • 日本人が「無財の七施(雑宝蔵経)」の房舎施を失ったとき・・・3年間で明確な没落さえ!「第七は房舎施といいます。他人を自分の家の中に自由に出入りさせて泊まらせることです。(略)
    こういった人の良さというものが日本で崩れたのは、戦時中の買い出しが始まった頃からだということを聞きました。食料がなくなって買い出しが始まり、せちがらくなって人間の心がすさんできた。それで、地方の人でも警戒するようになったのではないでしょうか。そして、今日はご承知のとおりです。(略)
    昔は日本人の間にも、誰でも旅人をもてなすというような精神があったと思うのですが、このごろはどうもそれが失われているようですね。最近私があった中国人の学者は、三年前に来たときといまとでは違うというのです。
    三年前に来たときは、日本人というのは礼儀正しい、人なつこい民族だと思ったのが、今回来てみると、日本の若者は礼儀も知らず、がさつになってきたというのです。」
  • 世の中をよくする人とその在り方はこんなに単純なことなのです「いやな顔をしないで、いつもにこやかに人に接するということも、誰でも出来ることですね。そうすれば、地位の上下を問わず、人々の心がけ次第で和らいだ世の中をつくりだすことができるのではないでしょうか。お金を持っている人でなくても、生き甲斐のある生活が出来るわけです。ことに病気の方などが、清らかな空気とか自然の移り変わりの風景を楽しまれて、今日も一日、楽しませてもらったと思われたなら、やはりそれが生き甲斐になるのではないでしょうか。そうやって喜んでおられたら、その気持ちが自ずから周りの人たちに移っていくわけです。逆に申しますと、いかに力やお金があり偉い人であっても、あまりに荒々しく、とげとげしいことをして争っていると、人々の生き甲斐をそこなうことになるということも言えるわけです。」
  • 自殺は非常なる迷惑行為である「たまたま気づいたときには生きているのであって、生きているということは意味がない。だから捨ててしまおうという人がいる。それは恐らく自由だと思いますが、人が死ぬということ、ことに自らの命を絶つということは、非常に影響を及ぼすことが大きい行為です。それによって、当人の気づかないところで、人に非常に迷惑を及ぼします。これはやはり考えるべきことではないでしょうか。自分の命は自分が勝手にしても良いと思うかもしれませんが、実は自分の命というものは、他人の命でもあるわけです。他人の生命から切り離された自分の生命というものは存在しません。自分の生命と他人の生命とはしっかり結びついています。だから自分の生命を傷つけることは、また他人の生命を傷つけることでもあるのです。他人の生命を害ったり他人を害するということはしてはいけないことです。」
  • 私が仏道に共感したのは自分が親になって初めて理解できた慈悲の心に打たれたからでしょう「相手を強烈に思うという点では、親の子に対する愛も恋人同士の愛も同じですが、しかし、愛と慈悲とは大きく違います。愛というものは、それ自身は美しく、願わしく、尊いものだと思いますが、それは独占性をもっているわけですね。ことに男女の場合にはそうです。そして、いったん裏切られたというときには、愛は矯しい憎しみに変わります。ところが、慈悲は愛憎の対立を越えたものであり、絶対の愛であり、人を憎むということがない。愛憎からの超越ということが慈悲の一つの特徴です。」
  • 仏教の慈悲は一神教の絶対愛を越える「宗教的な愛と慈悲とは同じといえるでしょうか。私はやはり違いがあると思います。というのは、西アジアおよび西洋における宗教的な愛は、信ずるものと信ぜざるものとの区別をたてるからです。その愛は、信ぜざる者に対しては及びません。この頃は違った考え方が出てきていますけれども、過去の長い歴史ではそうでした。ところが、仏教の場合には、異端者を憎むという思想がないのです。異端者を罰するという思想がない。異端者は教団から除かれますけれど、それ以上に罰が及ぶことがない。ところが多くの世界宗教では、異端者を追いかけて、つかまえて火あぶりにするというのが通例でした。この違いは、現代でもまだ、潜在的に残っていると思います。」
  • そして、創造神という考え方「ただ、創造神しての神を、私は人格神としては考えにくいのです。というのは、世の中を見ると非常に悲惨な生涯を送った人がいくらもいるでしょう。もし、愛を持つ神がこの世界をつくったのだったら、どうしてそんな悲惨な運命を人にあてがったのでしょうか。だから私は、世界をつくった「愛の神」というものは考えられないと思うのです。生存している動物はみなそうでしょうけど、人間だって個々の人はみんな別の個体を持っている。そして、それぞれ個体をもちつづけなければならない。だから争いが起こるわけです。自己愛といいますが、これは人間が生きている限り根源にあるもので、これを愛といえるかどうか・・・。むしろ執着に似たものだと思います。(略)
    自分を愛するということは本能的で衝動的です。そしていったん振り返って反省してみて、それに対する制御がなされるわけです。そうして初めて、争いを起こす人間の中に、他の人をいたわり慈しむ気持ちが出てくる。これはやはり不思議なことでして、仏の心という以外には説明がつきません。やはり
    利害損得を越えて出てくるものがあり、それこそが仏の心だと思います。」
  • 家族の結びつきを弱めた元凶がアメリカ文化「人間にいちばん近い社会というと家族です。これは、ゲマインシャフトの内で最もゲマインシャフト的な性格の強いものでしょう。(略)
    ところが近代機械文明がおこった国々では、家族の結びつき、紐帯が弱くなってしまいました。近代文明の最先端を行ったのはやはりアメリカだと思うのですが、アメリカでは三組が結婚するとそのうち一組が壊れるといわれていました。(略)
    この頃のアメリカでは、それが更に進んで二対一だそうです。我が国ではどうかと言いますと、この頃の若い人の考え方は、だんだんアメリカに近くなっていますね。(略)
    若い人は全然違います。離婚なんて平気です。つまり家族というものの結びつきが弱くなっている。その結果として、いわゆる先進諸国では青少年の非行や犯罪が急激に増加しています。ことにいわゆる先進諸国の都会生活では、結婚の形式によらない男女の結合が現れています。それは、いつ壊れても良い、という意味を含めています。そうして、この様式がジャーナリズムによって盛んにもてはやされている。しかし、これは無責任だと思います。文明の進みに応じて家族関係も違ってくるでしょうが、やはり、ある程度は
    家族が安定しているということが必要です。」
  • 人間の高次元の精神文化こそが宗教であった「民族によって考えていることも違うわけですから、神という言葉の意味内容が違うのは当然です。ただ、人々が神のようなものを想定するに至ったということは、なにかしら高次なものを人々が見いだし、それに頼ろうとした個々の人間を越えた動きの結果だと思うのです。全盛期から今世紀に至る唯物論の失敗は、そういう動きに目を閉ざしてしまったところにあると思います。人間のうちに潜む「より高きもの」に目を閉ざしてしまったところから、唯物論的世界観の破綻が来ているのではないでしょうか。」


  • 原始仏典を読む/岩波書店
  • 真理をたたえる「ウダーナヴァルガ」(「ブッダの感興のことば」(岩波文庫中村元訳))「衝突や抗争の多い社会でどう生きていったら良いかという心構えを、この詩句集はよく教えてくれます。
    他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。
    他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は自分と他人と両者のためになることを行っているのである。
    自分と他人のためになることを行っている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。・・・ことわりを省察することもなく。
    愚者は、荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と考える。しかし
    謗りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。
    (20・10-3)」
  • シク教徒について「西北インド、ガンジス川の上流地帯、これは昔からバラモン教徒の根拠地でした。(略)
    ガンジス川の上流地帯は、西紀十世紀以降にはイスラムの侵略を受けました。そして、イスラムと戦うためにシク教徒というのが現れたのです。ことにパンジャブ地方(五河地方)がそうです。パンジャブ州は現在シク教徒の本拠地です。山国でヒマラヤに近いというから荒れ地だろうと私は思っていました。これはとんでもない大きな間違いでした。荒れ地というものが全然無いのです。インドの土地は荒れ地が非常に多い。ちょうど西部劇に出てくるような荒野がずっと続いているわけです。ところが、パンジャブに行ってみて驚いたことには、もうあらゆる土地が耕されていまして、ちょうど日本と同じなのです。無駄にされている土地がない。そこでパンジャブ地方は食糧が豊で、インドの穀倉だというので、他の諸州へ食糧をやっているというのです。それから鉄工業など工業が栄えつつある。どうしてかというと、シク教徒というのはターバンを巻いてひげを生やしている連中だ、というぐあいに、異様な習俗だけを私たちは連想しますけれども、その習俗はイスラムの軍他と戦ったためにできてしまったのです。
    シク教徒というのは「世俗の生活がすなわち宗教である」という考え方をとっています。世俗の職業生活の中に宗教が実現される。人々はめいめいの職業を忠実に遂行せよと教えます。現世超越的な傾向に反対するのです。だからシク教には独身の修行者という者がいません。そしてみんな働けというものだからよく働く。だからシク教徒の中にはインド名物の乞食が一人もいない。乞食になるくらいなら餓死せよ、そう教えられているのです。よく働く。だからパンジャブは現在非常に開けております。そうすると、釈尊の頃に遅れていた土地がいま反対に非常に開けているということになります。」
  • 真言密教の護摩焚きの起源は、釈尊が批判したバラモン教の儀式である「日本の仏教でも、護摩を焚くという儀式があり、ことに真言密教では盛んに行います。あればヴェーダの祭りを仏教が取り入れたものなのです。「護摩」というのはサンスクリット語の「ホーマ」という語を音写したものであり、ヴェーダの宗教では火に供物を捧げ、火の中に供物を投ずることをいいます。後代の仏教はそれを取り入れて、護摩を焚くことによってわれわれの内心の煩悩を清らかにする、そういう具合に解釈しているわけです。(略)
    これに対する
    釈尊の批判ですが、「木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかとはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して内部の火をともす。永遠の火によって常に心が静まっている。われは尊敬さるべき行者、阿羅漢であって、清浄な行いを行うものである。良く制御された自己は人間の光である(「サンユッタ・ニカーヤ」)。」
  • 釈尊の態度の見習うべき点「頭からケンカを売るような、そういう態度は示さない。相手が何か固執しているところがあれば、それはなるほどけっこうだ、けれどもその本当の意義を考えてご覧なさいといって、反省させる。それが他の世界宗教の指導者の場合と非常に違うわけですね。たとえば、バイブルなんか見てご覧なさい。(略)相手のやっていることが間違っていると思うとき、いきなりお前さんのやっていることは間違いだぞと言えば、相手の人はムッとなって、無理にでも反抗するわけでしょう。そうではなくて、相手の人がああいうことをやっているのは何か訳があるのだな、これは因縁のいたすところだというので、その因縁をよく見て、ほんとうはこうあるべきだというぐあいに諄々と説くならば、摩擦抗争を起こさないで人を教化することができると言うことになりはしませんか。」
  • 自灯明法灯明究極のよりどころとして<自己にたよれ>ということを教えました。それは同時に、人間が行きてゆくための規範としての<法>にたよることなのです。「それ故にこの世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよろどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ(マハーパリニッパーナ・スッタンタ2・2・6)。これが最高の境地なのです。ニルバーナ(涅槃)というものが別に存在するのではありません。
  • 個人権威(宗祖・教祖)の否定「釈尊が自分は教団の指導者であるということを自ら否定しているのです。釈尊はその教えが永遠の理法、ダルマに基づくものであるという確信をもっていました。だから自分についてきたものは救われる、そういう立場ではないのです。ブッダというのは、法、ダルマを具現化した人です。その資格において、その意義において自分を自覚していた。「おれは世を救うものである、おれに従えば助かるけれどもの、そうでなかったら地獄に落ちるぞよ」というような説き方はしなかったわけです。世の宗教家に時にはある狂熱的な思い上がった、そういう点が釈尊になかったのであります。」
  • その時代や風潮に左右される「法律」の最上位概念が「仏法」であります「法律って変なものですね、といった会話が聞かれます。どうしてそういうことが言われるのか。これはわれわれ人間の理解している普遍的なダルマというものがある。その見地から見てみると、いま行われている法律というのはどうもおかしいということはあるわけです。(略)
    裁判所の判決なんて言うものは、世間の方が、おかしいなと思われることもいろいろあるのではないでしょうか。そういう場合の批判を何によってなすか。これは根本にある人間の理法、法律を越えた本当の法というものに基づいてなすべきだと思うのです。(略)
    基準は何かと申しますと、それは釈尊が説いている慈悲の精神です。人を傷つけてはいけない、これははっきりしていることです。それに関連することで、人をののしったり、悪口をいったりしていはいけなということも当然出てくるわけです。その根本に基づいて一切のことが批判されるべきだと思うのです。(略)
    世間の知識人やジャーナリストがお手本にしている、いわゆる先進国というのは今どうなっていますか。大体、先進諸国というのは地盤沈下しつつある国ですよ。」


  • 仏教とヨーガ/保坂俊司/東京書籍
  • 現代日本の概観はこれに尽きましょう「近代以降の日本社会は、富国強兵や殖産興業といった、経済的繁栄第一主義も言える唯物論的な価値観を重視してきた。特に、第二次世界大戦で敗北してからの戦後日本は、物質的な豊かさを中心に追い求める修羅(あるいは餓鬼)の道を突き進み、現代に至っている。その結果、われわれ日本人は、物質的な豊かさを謳歌する一方で、年間の自殺者が三万人を超えるような、精神面の荒廃による深刻な社会不安に直面している。(略)すべてに通底するものは、心の世界の軽視、あるいはそれへの無関心である。日本社会は、目に見えるもの、数量ではかれる者を追い求めてきた結果として、精神的に疲弊・憔悴する人々、あるいは孤独にさいなまれ、絶望する老若男女に溢れていると考えられる。そして現在の日本人全般にいえることは、心と体のアンバランスである。最近の傾向として、身体の健康には強い関心を示すが、心の問題には全く無関心であったり、あるいは現実社会からの逃避をめざして精神世界、特にオカルト世界へ没入したりする人々も少なくない。どちらも極端に走り、両者のバランスを取ること(中道の実践)の重要性について全く無知・無関心の状態である。」
  • 本来のヨーガは「その心得は「安定した、快適なもの」でなければならなかった。なぜなら、ヨーガによる悟りの状態である三昧は、「緊張を緩和すること」などによって達成されるものと考えられているからである。したがって、ヨーガの坐法は、苦痛や緊張を伴うものではないということになる。いずれにしても、昨今盛んに禅宗で行われているような過度の坐禅主義でもなければ、ハタ・ヨーガのアクロバットのような坐法でもなかった。(略)現代のような、ただ単に若さの保持や見た目の健全性を求めるだけの健康法、エゴ的な欲求の域を出ない健康法は、本来のヨーガではない。本書でいう仏教ヨーガとも似て非なるものである。少なくともそこに精神性をもとめないヨーガは、いかなる意味においてもヨーガの本道ではない。現代に即して言えば、自らの心身の健康を維持し、それを社会に役立てようという意識で、心身の鍛練を行うことが、すなわち正しいヨーガ、仏教ヨーガの基本となる。」
  • 仏教ヨーガの特徴「仏教で実践されたヨーガは、ヒンドゥー教において実践されていたヨーガのような、呪術力の取得といった方向には向かわなかった。仏教におけるヨーガの実践行は、精神集中によって獲得された智慧の完成をめざして練り上げられたものといえる。だからこそ、仏教のヨーガは分析的であり、客観的なものとなっているのであろう。」
  • ヨーガの可能性「おそらくヨーガ的な病気の予防あるいは治療法は、日本社会が抱える医療保健制度の破綻という大問題の解決にも貢献することになろう。なぜならヨーガの普及によって、患者自らが病に抗する肉体的力を養うことができることはもとより、誰にでもやってくる死に対して、日頃よりこれに主体的に向かい合い、これを越える精神力を養う契機が生まれるからである。」