2006年5月29日月曜日

宗教の本質=佛教の本質

これまで、2年近くにわたり佛道を参究し続けてきたところですが、他人の言葉で、宗教の本質・実体をこれほど的確に表現した文章に未だかつてあったことはありませんでした。
とかく綺麗事な言い草の多い、この手の話で、まさにこの内山興正禅師の論法は、(おこがましい表現を承知で申しあげれば)私の宗教に辿り着くまでの道程をそのまま表現してくれたかのようであります。


恐らく、世の良識ある私の周りのほとんどの人々(多くが無宗教というか葬式の場合だけの宗派を心得るだけの宗教家でありますが)は、この内山興正禅師の文章の中段「わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい」という、この心境で毎日を過ごされ、人によってはそのまま年老いていくことと思います。

しかし、そこで人間の精神が止まってしまっては、人間として生を授かったとしても「未熟者」であると言わざるを得ません。その人の語る言葉に、力は感じません。真実を観じることはできないのです。
「何らかの宗教心」それに類するものに辿り着かずに老いている人の言葉に、今、私は説得性をもって受け止めることができません。

それは結局、世の最も重要な法則や真理に背を向けているからに他ならないからです。
「生」を明きらめ「死」を明きらめるところから始めて、「人生の最も重きを置くべき大切なこと」を考えるという作業を怠っているからでしょう。

以下は、内山興正禅師の絶版の名著「観音経十句観音経を味わう」のひとつの章の全文近い分量を抜粋したものですが、あまりに深く共感するところがあったので、重要な部分をすべてここに掲載させていただきたいと思います。

前半は、宗教全般の本質を世の中の冷めた視線の分析も含め、現世利益新興宗教への痛烈批判、後半は宗教に生きる人間の姿勢について、そして釈尊及び道元禅師の仏道が、いかにその姿勢の上でぴったりとマッチするものであるのか・・・あたかもこの自分の宗教に辿り着くまでの思考回路を全部説明したくださったかのようで(というより内山興正禅師の宗教に辿り着いた時の感動が自分のついこの間、仏道に出会ったときの感動と全く同じであることに、鳥肌が立たんばかりに痛く感動をしたのであります
(2006/5/29)。

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「観音経十句観音経を味わう」内山興正/柏樹社より
※読みやすいように、改行、強調、編集を行っています


【三、仏法の本筋について】
(略)

 宗教における信仰の心とは、洋の東西をとわず、幼児のごとく素直純心にひざまずく心でなければならないのでしょう。
 -それでは宗教に入るには、ほんとうにただ幼児のごとく素直純心でありさえすればいいでしょうか-。

 いま「幼児のごとく」ということから思いだすのはルソーのつぎの言葉です。「もし私にもっともなさけない愚行を描けといわれるならば、私は教義問題を子供に教えている衒学の徒を描くであろう。」(エミール)と。

 なるほど神経質な宗教マニアみたいな人間が、子供相手に大まじめにむずかしい教義問題を説いている漫画でも想像しながら、このルソーのことばをみてみると、ちょっと思わずふき出させられます。

 -「キリスト教を信ずるという子供、かれはいったい何を信じているのか。それは神を信ずるのではなく、世の中には、神と称する或るものがあると、彼に話したピエールやジャックの言葉を信ずるということである」

 なお皮肉なるルソーは、さらに「子供らの信仰および多くのひとびとの信仰は、地理の問題である」とかたりはじめることによって、ひじょうに穿った話をかいています。
 「かれはメッカに生れないで、ローマに生れたことによって恵まれているであろうか。-
 ある人はマホメットは神の預言者であるという話をきく。それで彼は『マホメットは神の預言者である』という。また他の老はマホメットは悪漢だということをきく。それで彼は『マホメットは悪漢である』という。この二人が、もしその位置を代えたならば、何れもが反対のことをいうであろう。投句は二人が斯くもきわめてよく似ているのに、人が天国に、一人が地獄に振り向けられるということがあり得るだろうか」と。

 -メッカはマホメット教の本場、ローマはローマカトリックの本場なので、そのおのおのの本場に生れた似かよった人間が、そのおのおのの本場の話をきかされて、同じように鸚鵡返しに、しかしその正反対のことをいうことによって、一人は天国行き、一人は地獄行きとなってしまう奇妙さを曝いて、つまり無邪気、素直な善男善女たちを皮肉っているのです。



 ところでわたしがこのルソーの言葉をここに紹介せざるをえないのは、この言葉そのままが、いまの日本では同一画面で、しかも立体的に演ぜられて、われわれに見せていてくれているからです。
 いろいろな
宗教と称する教団の教祖たちが、さまざまなことをあたかも「権威あるものの如く語って」、「幼児のごとく」すなおな無知性の人々を狂信せしめているからです。「この神さまでなければ救われない」、「この宗教でなければ幸福になれない」、などなどと。
 しかしまだ「救われる救われない」の話ならともかく、「これでなければ病気はなおらない」「これを信じなければ一家が死に絶える」などというドギツイ言葉で、まるで競り市のごとく狂気的に、「宗教」と称する雑貨品をセリ売りしているからです。

  
「端初(はじめ)に神ありき」-こう説きはじめる神話的宗教に対して深い不信の念をいだかざるをえないわたしの気持ちはそこにあります
 
 そして同時に
「病気をなおす」などということは、宗教としてはまったくふさわしくないのだと批判する「幼児ならざる、オトナの知性」をわたしはもたざるをえないのです。

 じじつおおくの
現代の冷静なる常識人たちも、こうした神話的宗教や我欲的宗教に狂信するひとたちをみて、なにか道化役者に対してのようなアワレミの念をもよおすと同時に、自分だけはせめてそのアワレな道化役者にはなるまいという、オトナの批判精神をわたしと同様もっているのじゃないでしょうか。
極端な狂信者が一方に存往すると同時に、「宗教など偏執者の妄想なのだ」とかたずけて、まったくそれから無関心でいようとする常識人たちが大多数存在するのも、きわめて充分な理由あることとおもわれます。
 つまり狂信的宗教の競り市から、宗教という雑貨品を、われわれはなにもあえて買わなくてもいいのだし、その競り市にすら首をつっこまなくてもいい筈だからです。-「そんな競り市に首をつっこむことは下等な人間のやることだ。」と。


 しかしもしわれわれが内的要求からすこしでも宗教というものに関心を示さざるをえない場合、イエスさまの「幼児のごとくならずば」の言葉通りうっかり幼児のような心でいたら-現代日本では、そのような善男善女の純心素直な魂はたちまちにして八裂きにされてしまうことでしょう。われわれが宗教という危険地帯にすこしでも関心をもって立入ろうとする場合には、素直純心である以前に、まず充分オトナの知性、オトナの批判精神を身にまとっておかなくてはならないと、わたしはすでに学生時分からそう思っていました。


 そして事実わたしの採った態度はつぎの如くでした。すなわち
あらゆる我欲的宗教、神話的宗教、教権的宗教にたいしては十把ひとからげにサヨナラしてしまおう。のみならず端初に神話代りに形而上学をおく宗教からも、あるいは心理学をおく宗教からもサヨナラしてしまおう
 さらに釈迦やイエスに関する史実の精確なる研究と称するものをもって真の仏教、キリスト教だというもの、つまり史学や文献学、語学などを前提とする宗教からもサヨナラしてしまおう。
 
わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい
 わたしはわたしであればよく、ただ「自己の人生の真実」だけを追求しさえすればいいのだ、と-そんな気持で、学生時代以後、わたしは一宗一派の宗教には首をつっこまないという決心をしました。




 -ところがこんなふうにわたしが「自己の人生の真実に生きようとするだけだ」とつぶやいたとき、「じつはワシもそうなんだよ」とヌッとわたしの前にあらわれたのが、お釈迦さまであり、道元禅師だったのです。

 
お釈迦さまは過去の神話のうえにのっかって人生をかんがえたのでもなければ、神話をかたりつつ人々に人生をお教えになったのでもありませんでした。ただ純粋に自己自身の人生の悩みから出発し、自己の人生を悩みつつ、自己の人生の「ゆきつく所」をひとびとにお教えになったのです。
 
 
「自己の依りどころは自己のみなり」(法句経)と。

 そしてまた道元禅師も「
仏道をならふといふは自己をならふなり」といわれます。

 つまりお釈迦さまも道元禅師も、
いかなる宗教家とも本質的にちがって、この私の行き方に共鳴してくださいました
 
 ところがこの道元禅師は、こんな態度から出発されておりながら、しかし同時にまったく古人の行履(あんり)に頻倒されます。
 -これはいったいどういうことなのでしょう。
 道元禅師の言葉によれば 「たとひ知識にもしたがひ、たとひ経巻にもしたがふ。みなこれ自己にしたがふなり。経巻おのれづから自経巻なり。知識おのれづから自知識なり。」(正法眼識自証三味巻)とあります。
 
「真実の自己を追求する」ということは「真実の自己を追求した先人知識に全傾倒する」ことであり、かかる先人知識に全傾倒することが、そのまま真実の自己を追求することなのだといわれるのです。
 
 「仏祖の大道に自証自悟の調度あり。正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。……しかあるに自証自悟等の道をききて、麁人(そにん)おもはくは、師に伝受すべからず。自学すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり」(同所)。
 つまり
真実の自己を自証自悟するということは、「誰からも学ばないこと」だとおもっているのは、我執偏見のつっぱっている天然外道の所業でしかないといわれます。むしろ「真実の自己に生きる」ということは、真実の自己に生きた仏祖たちに、どこまでも喰いつき参学せねばならないのであって、それこそが真の「自証自悟」というものだというのです。
 

 -「なるほど、そういえばそうだ。真実の自己に生きることと、我執をつっぱることとは別だ。」と。

 -それでとにかくこんなお釈迦さまと道元禅師にヌッと顔を出されたとき、「だれが宗教なんていう雑貨品の競り市に首をつっこむものか」と決心していたわたしも、おもわず
それが仏教という宗教なのだということも忘れて、それにつき従うことに決心してしまったのです。

 しかもなお私がめぐまれたことは、そんな決心をした私が、同時にこのお釈迦さま、道元禅師の流れをそのまま汲んで「坐禅とは自己に親しむことである。自分が自分を自分することである」といわれる、沢木興道老師にただちに参ずることができたからです。

 そんなことから、学生時代からの決心にもかかわらず、いつのまにか出家してしまって、いま改めて思うのに、じつはこれこそが本当の宗教というものではなかろうかということです。

 神話や形而上学やら、心理学や歴史考証を予め先行させたり、あるいはまた教理、教義、教権などが予め存在するような宗教は、曾つての時代には存立することができました。しかしそれは地球上の各地域が交通なしに各々独立に存在し、各地方に一宗教が圧倒的に独占企業でありえた時代の話です。


 ルソーはなお、「コンスタンチノーブルにおいて、キリスト教を極めて馬鹿げたものとかんがえているトルコ人たちに、パリにおいてはみんながマホメット教のことを、何んとかんがえているかということを、見せてやりたい」といっていますが、たしかにいまや全地球上が一つになる時代が来、じじつコンスタンチノーブルの人がかんたんにパリで何を見、何を思うかの時代となっています。
 してみればもはや宗教はたんに「この地方に生れたがゆえに、この宗教を信ずる」というルソーのいわゆる 「宗教は地理の問題である」時代ではなくなってきてしまいました。マーケットには世界中の 「宗教」が出揃っていて、われわれはいつでもそれらを手にとって見比べることができます。

 しかし同時にこんなふうに、マーケットに出揃い、それらの見比べが可能となったとき、それらは何れもが「宗教」とは名づけられるべきでなく、たんに「宗教と名づけられた雑貨品」でしかないことがわかる時代となってしまったのです。


 
かくて「私は無宗教です」と、オトナの知性をもって云い切る絶対多数の現代人が生れでたことは、けっして不思議ではありません。わたし自身もまさにその幼児ならざるオトナでした


 そしてあらゆる過去の宗教から無関心、無関係になったとき、しかしそれでも「自分自身の人生をモテアマス悩み」はありました。この悩みをわたしは一体どこへ向かってとくべきか-こう悩みを内に抱いてとぼとぼと辿りはじめるべく決心したとき、いま申しあげたように、いままでの雑貨品的宗教とぱまったくことなった、お釈迦さまから道元禅師につながる宗教が、わたしの道として存在していたのです。

 
わたしが仏法の本筋とよびたいのはまさしくこの契機です。

 つまり
仏法の本筋とは、まず自己の人生をみつめるところから出発し、そしてどこまでも自己の人生の「ゆきつく所へゆぎついた道」を見いだしてゆくところにこそあるべきです。
 
自己の人生を掘りさげ深めてゆくところに、人類の普遍な道もあるべきであり、その普遍の道こそが真実の宗教でなければならないからです。

 それでわれわれが仏教というものをみてゆく場合、―-仏教はふるい宗教なので、それこそいろいろなゴミクタが付着しておりますが、このゴミクタにかかわらず、かえってこのゴミクタのなかから、もっとも純粋なる宝を、-以上のような仏法の本筋を規準として-拾い上げてゆかねばならないのだと思います。

 いまここでわたしが観音経をとりあげ、この観音経を味わってゆく態度も、ただこの仏法の本筋から床わってゆきたいとおもうのです。