2005年12月16日金曜日

高瀬広居 ~共感した名文・名文句~

宗派を超えて、今の世に生き残っている真の名僧10人を訪ね歩いて、その声を記録した高瀬広居氏の功績は大きい。また、彼自身が浄土宗の僧籍をもちながら、寺の僧としてというより、本来の僧としての法を説くことに専念(私塾「疎石会」主催)しているところが好感が持てます。


  • 日本人のこころを育てた仏教の大河 お釈迦さまから創価学会まで/展望社
  • 仏教を知るにはその多種多様な発展系を知った上で考える必要あり「「私のウチはナムアミダブツでね」と言っても、いったい浄土宗なのか浄土真宗なのかもわからないまま「仏教はね」と言ったところでなんの意味があるのでしょうか。また、法然や親鸞、道元、あるいは日蓮といった優れた宗教家が求道した仏教が、お釈迦さまの教えのどの部分を吸収し発展させたのかわからずじまいでは、仏教にコミットした人間とはいえません。」
  • 日本の文化は仏教が軸となり発展してきたと言っても過言ではない
    「源氏物語に登場する怨霊や地獄の思想、愛欲と無常の葛藤、因果応報は、まさに密教と浄土教の文学とさえ言えそうです。平安文学は仏教文学といってもよいでしょう。また、源平の興亡を描いた数々の作品、とくに「平家物語」は鎌倉時代の浄土教文学です。(略)
    能の世界も妄執と死霊と暗い人間の魂を密教的な立場からつくりあげたものです。世阿弥の思想は死を見詰め、人間の闇をさぐる鋭い仏教の眼に支えられています。(略)
    仏教を離れて日本の思想と文化は理解できません。作動も書も、あるいは言葉も文章も、日本独自といわれるすべては仏教の智慧から学びはぐくんだもの。「般若心経」を読み、天台止観を学び、経典や禅を理解せずには日本文化の土台は分からないと言ってもいいでしょう。」
  • 現代の名僧を見分ける方法
    「怪しげな民間信仰と結びつき、現世利益を願う民衆の願望に取り入り、権力に媚て世俗的な栄誉を貪る。そんな大多数の僧侶や寺院教団の流れとは別に、真の仏法を求めて苦闘し、法脈を生かそうと努力した僧侶の流れは、戦国の世から明治時代にかけても引き継がれていきました。しかし、その数は決して多いとは言えません。(略)
    現代はどうでしょうか。名僧とは、地位などの条件とは関わりなく、
    求道の真剣さ、仏教思想の深さ、教化力の高さ、清潔な生活、権力や世俗やマスコミに媚ないと言った条件から選ばねばなりません。残念ながらその数はたいへん少ないのです。(略)
    現代のマスコミに踊らされ、政財界と親しい僧はだいたいが「偽善僧」と見てまちがいありません。」


  • ブッダの泉 心にひびく50の聖句/展望社
  • (法句経394)髪を結ったり、高価な衣装を身にまとって、それで自分は他の人よりもすぐれている、立派なのだと思いこんでいるのだろうと、ズバリと切り込んでいます。(略)世の中を見ていると、じつにこういう人が多いと思うからです。(略)
    もし幼い頃からそういうものを身につけて喜んでいるようなら、中身の空っぽな、虚飾にまみれた高慢な人間に育っていくことでしょう。(略)
    外側ばかりを飾るのではなく、心の内の煩悩を断ち切って、内側から清い人間であるようにならなくてはならない、外見や見栄を捨てよ、と教えているのがこの法句です。
  • (スッタニパータ98、124)若い夫婦も子供を育てていけば、自分の親たちが自分を育ててくれたときにどんなに大変だったかわかるはずです。その父と母が老いてきた。(略)金銭的、精神的に父母を助けよう、いままでの恩を返そう、そういう気持ちになるのが、人間として当然だと思います。しかし、老いた父母からお金をもらっている三十代、四十代の子供がいます。なぜ平気でいられるのでしょうか。ローン返済にお金が必要だというなら、老親に負担をかけない道を探せば良いではないですか。
  • (スッタニパータ205、206)清らかということと汚いということは別のものではないのだということを、お釈迦様は教えておられるのです。美しいから偉い、汚いから悪いという価値観、差別感を持ってはいけないということです。健康で、鍛え上げられて、磨きのかかった素晴らしい肉体というものも、一皮むいてみたらどうだろうか。どろどろとした汚物が充満しているではないか。
  • (雑阿含経36)夫と妻、親と子というのは一見別々なもののように思えますが、じつは、夫には妻の影が映っているし、子供には親の姿が反映されているのです。現代の人はあまりそういうことを考えません。(略)
    何か事件が起こると、うちの子に限って、といいます。ところが、先生やまわりの人たちは、あの親にしてこの子あり、当然の結果だと見ていることが多いのです。
  • (増一阿含経11)「もし人ありて反恩を知る者は、この人はうやまうべし」なぜ、私たちが生きていく世の中には、恩を知るとか、恩を返すということが大切なのでしょうか。それは、私たちがひとりきりでは生きていけないからです。(略)
    一枚のシャツでさえも、それをこしらえあげた他人のおかげをこうむって生きているのです。しかもあなたは、それらを誰がつくったのか知らないでしょう。そのように、私たちは全く縁がないと思われている人々の力に支えられて生きているのです。それを仏教では「無縁の慈悲」と呼びます。(略)
    そのように互いが恩を知るという気持ちになることが、世の中が円滑に行く最大のキーポイントになるのではないでしょうか。
  • (増一阿含経40)「もしわれおよび過去の諸仏を供養するものあらば、我に施すの福徳は病を診るに異なるなし」あちこちの寺へ行って仏像に手を合わせ、お賽銭をあげて、御利益をくださいと祈る閑とお金があるくらいなら、苦しんでいる病人のところへ行って助けてあげなさいと、お釈迦様はいわれているのです。仏教で最も大切な布施行の実践です。
  • (スッタニパータ890)相手の言い分を認めず、尊重する心のない姿を愚かというのだ、つまり、聞く耳を持たない人が愚劣なのだ、というところからスタートしているのです。(略)
    お釈迦様の愚者、愚劣という教えの中には、
    自分は愚かであるということに気がつけば、もうその人は賢い人になりうるのであって、決してその二つを別々に分けて考え込み、落ち込むことのないようにという、やさしさの教えがここに含まれているのです。
  • (中阿含経67)人生にはいくつかの節目というものがある。もっとも大切なのは、仕事をほぼやり遂げて身の引き際を選ぶ時期を逸しないことである。(略)
    おのれの地位権力に強いこだわりと欲を持ち続けるとき、人は引退隠棲の決断を鈍らせるものだ。
    いつまでも現世欲に縛られて阿修羅の営みを続けるものは愚かといえよう。
  • (長阿含経2-4)「七つの滅びざる法あり」お釈迦様が説かれた国家繁栄論であり、それを裏返すと国家滅亡論になります。(略)みんなが集まって会議を開き、和やかに語り合いながら民主的に運営していくような国、そして、古くから定められている倫理を守り、年配者を敬い、その知恵を学び取る。女性や子供のように力弱き人には決して暴力をふるわない。祖先を大切にし、伝統と歴史の尊さを知る。昔から続いているしきたりや法があったときには無理に廃止せず、これを今の時代に生かしていく。そして学問や知識、知恵のある人々を大切にする。それは他の国からやってきた人であっても同じように住居を提供し、大事にする。これらが守られている国は、繁栄するであろうと、お釈迦様はおっしゃるのです。
  • (雑阿含経34)「一切のつくられたるものは無常悉くみな生滅の法なり」無常ということは厳然として、宇宙の中に存在する人間の生命の本質を言い表していることだというように、人間の生き方の原理として、この無常というものを私たちは受け入れていくことが大切です。今の日本人は、生きていることは素晴らしい、元気なのはいいことだというように、たくましく生きることだけに目を注いで、この無常というところから目をそらしているという臆病さ、卑劣さが強くありすぎると私は思います。もっともっと、日本人は無常なるが故に、いまある自分の大切にするというところにスタンスをおいて、生きていかなくてはいけないのです。
  • (雑阿含経12)「縁起法とはわれの所作にはあらず また余人の作すところにもあらず 然してかの如来の出世するも出世せざるも 法界は常住なり」ここに、仏教と他の宗教、キリスト教やイスラム教との大きな違いがあります。(略)
    仏教というものは、キリスト教やイスラム教のように、神という存在があって、その神の啓示によってひらかれたという宗教ではありません。また、イエスという神の子が、あるいはムハンマドが、神というものの意思と命令に従って、つまり預言者として、この世に出現して教えを説いたというものでもないのです。その違いがお釈迦様の「無師」です。(略)
    仏教の世界には神は存在しません。(略)これは、仏教が非常に科学的だともいえることです。(略)
    人間が生れ生きて死んでいく中で受ける苦というものの根本原因を探し求めようとしたところからスタートして、人間をはじめとして一切の生きとしいけるものすべてを含む広大な自然、さらには夜の星、輝ける太陽といった大宇宙を見つめることによって、これらを動かしているものはこれだというところに行き着いたのです。それが、「
    全宇宙を貫いている真理は、縁起である」ということでした。(略)
    つまり、すべてのものは寄り集まっているということであり、一切は無常であるということの原理を私たち自身が、正しい真理なのだと納得しないと、苦からは離れられないということをおっしゃったわけです。宇宙物理学者が研究を深めていけば、やがてこのお釈迦様の説かれた、仏法という世界が、じつは、全宇宙を貫く真理であり、それは無常と縁起であるというところにやがて到達するのではないかと私は思います。(略)
    一神教の世界における絶え間ない争いは、自分の信じている神のみが正しいという信念によって引き起こされていますが、お釈迦様は、一つの特定の神或は仏が正しいなどということは一言も説かれていません。お釈迦様が説かれたのは、自分がつかみ取った
    真理は「縁起」と「無常」であり、これは宇宙全てが同じ法則の中に存在しているのであって、その理法に背を向ける生き方をすると苦が生ずるのだとおっしゃっているのです。
  • (法句経304)不善の人には、(略)教えを聞いても、闇に放たれた矢と同じで見えないのだというのです。(略)
    この法句にある不善の人とは、決して道徳的な意味で言っているのではありません。いろんな学問、教養、知識、あるいは自分の持っている名誉、財産、そういったものを、自分自身の最も大切なものであると思いこみをしている人たちのことを、不善の人といっています。つまり不善の人とは、
    自利に捕われ、自らの利益しか見えない人、そして理性とか知性というものに偏重しすぎている人、さらに情緒的にしかものを見ない人、感情的に行動を起こす人、そういう人をひっくるめて不善の人とお釈迦様はおっしゃっているのです。現代日本は飽食と利欲の世界になっています。こんなに科学やITが発達している世の中であっても、いまだに、あちこちでおまじないをしてもらったり、祈祷をたのみ、おみくじを引き、占いに凝って、もっともっと利益を得よう、自分だけはいい思いをしたいと願う人が大勢います。そういう人にはヒマラヤのような仏法の輝きは見えません。


  • 仏音と日本人/PHP研究所
    現代日本に蔓延る信心の失われた仏道に対して厳しい視線を投げかける高瀬広居氏の言葉は、やはり本物の言葉である。
    般若心経に対する考察などは深い。そして、正しい。
  • 法然の革命~浄土門は果して易行なのでしょうか浄土門は易行道というが、知識・学問のある人がその学識や知恵をすべて捨て去って念仏のみ申すという境涯に行き着くことは、およそ難事といえよう。それはすべての現代人を見れば一目瞭然ではないか。メディアに踊る人々はみな「知者のふるまい」に耽溺しきっている。真言密教や天台教学の深淵高度な仏教哲理や祈祷行法に専念する当時の指導層にとっても、法然の「還愚」と「修行・修法放棄」、さらには神社仏閣さえも捨て去るべしという易行念仏は、まさに邪悪なる教えと映ったのも無理はない。
  • 道元「感応道交」の世界~アンチ癒しブームを掲げる私は、この思想に出会った感激は計り知れません道元は「仏性」をみつめ「悉有仏性」の世界観によって、あらゆるこの世の働きを同一化していく。仏をたのむとか、すがるとかいうことではなく、あるがままの全天然、人類がその実相において「仏」であるという仏教哲理は、道元によって日本に確立されたのである。(略)
    エコロジーとか自然を大切に、などという浮ついた「癒しの自然愛」などとは比べようもない、人間の根源に目差を向けた哲理である。それを、いまの日本人は忘れ去って
    人間と自然とを別物とし、そこへ帰るとか、懐かしいとかたわごとをいっている。道元からすれば、いまの自然愛とか自然回帰など唾棄すべき偽善としかいえないだろう。
  • 葬儀時だけの形だけの念仏などはまさに無信称名であり、蓮如は白骨の章で厳しく戒めています当時も今もそうだが、口先だけの念仏者は多い。葬儀などで導師が「同称十念」というと、会葬者は声をそろえて念仏を唱える。それが亡き人の冥福を祈ることだと思いこんでいる。もちろん、自分の往生など棚上げにしている。それが「無信称名」である。真宗の信徒にもそうした誤信が広がっていた。蓮如の使命は、祖師親鸞の教えを純粋に伝え広める「親鸞回帰」、真の念仏の復興にあった。
  • 大概の宗祖は宗教集団の形成など考えているわけがないのです(新興宗教との歴然とした違い)親鸞には立宗の意志はなく、いうところの「浄土真宗」とは、すべては彌陀の本願力を宗とするの意であって、宗派僧団を意味するものではなかったにもかかわらず、祖師没後二百年を経て、信州新との巨大宗団が形成されてしまっている。いわば親鸞に否定されていた宗団・門徒・流派の弊害が起こり、念仏もまた歪曲されていったのである。蓮如の念願はそれを原点に引き戻すことであった。
  • 神道は所詮政治思想であり、霊性を備えた宗教思想としては、鎌倉時代以降の仏教こそである(第二次世界大戦)当時日本は、西欧文化を物質文明のとさげすみ、日本の精神主義を無比のものと誇り、その源泉を皇室神道に求めていた。しかし、大拙は伊勢神道の根拠となる「神道五部書」を厳密に検証し、「神道は元来が政治思想であって・・・霊性そのものの顕現ではない」と否定し、さらに歴史を遡って万葉・平安時代には、まだ霊性を見いだすだけの機会に恵まれていないと断言する。博士のいう「霊性」とは、もっと大地性を持った宗教的、普遍的霊性であり、しかも、その霊性を宗教思想として深め覚醒していくには「外来」といわれている思想や情緒に「接触し、これを摂取して自ら育て上げねばならぬ」と指摘する。(略)
    奈良・平安時代に空海や最澄は仏教を学んだが、現世利益と観念的遊技の段階を脱していない。「清明心」はあったろうが、ほんとうの宗教意識の目覚めではない。「鎌倉時代になって、日本人は真の霊性の生活に覚醒されたのである」。その宗教的衝撃とは「禅」と「浄土教思想」である。
  • 科学や文明賛美を疑わない現代人に、沢木興道師から一撃「今の科学的文化は、人間のもっとも過当な意識を元として発達しておるにすぎぬということを忘れてはならぬ。文化、文化というけれど、ただ煩悩に念が入っただけのものでしかないじゃないか。煩悩のシワが、いくら念が入っても、仏教からいえば進歩とも文明ともいわぬ。こんな利口ぶって、こんなにバカになってしもうたのが、人間というバカ者である。人間の役に立つものは、みなゆきづまる。偽りとは人為(つくりもの)ということだ。ツクリモノの世界はいつでも変わるに決まっておる。文化とはツクリモノが発達したにすぎぬ。だから文化とは悲劇である。」
  • 仏道が在家の宗教として成り立つ理由「人間の宗教」である以上仏教は当然、世俗生活の経済にも目を向け「仏教経済倫理」を展開する。「大品般若経」に「菩薩訶薩は、産業のことの法性に入らざる者を見ず」とあるように大乗仏教でも経済生活に積極的な宗教意義を認めている。(友松)圓諦師はその合理的かつ功利的な現実主義を、より古い「法句経」や「阿含経」をふまえて釈尊の経済生活に対する態度を鮮明にしていった。「中道とは戯論をすて、実際道に生きることである。増一阿含経の中に”一切の衆生はみなに由っての故にその生命を存す、食わなければ命うしなう””衆生に命根あり、形あり、食ありて則ち存す、食非れば、命済せず、sれば一茶衆生に施与すればその報無量なり”と布施の功徳まで力説されている。経済生活を手とし、性欲を肯定する一般大衆に”煩悩を断滅、減去せよ”と説くのは釈尊の教化の道ではない」では、なぜ多くの歴代仏教者は禁欲の精神主義を誇張し物質を賤しみ、在家生活者に無理を強いるのか。師の答えは明快である。在家の人々からの在世をいただき乞食せずに、寺の出家者独立生計できるようになり出世間、脱経済生活を送れるようになったからだという。だが、釈尊の教えは違う。「彼は世間の経済所得の財宝を汚穢なりとはしない」。
  • 橋本凝胤師の僧侶腐敗摘発は痛快肉食妻帯の僧侶を似非坊主と罵倒し、二十万人の僧侶を葬っても仏教は滅びないとまで断言し続けてて来た。「食えなんだら食うな、死んだら死んだでええ」師の口癖だった。「日本の坊主を認めん。やつらは仏弟子ではござらぬ。日本の不幸は指導者たるべき僧侶の荒廃にある。自己責任を持たない。西欧人も然りだ。彼らは自業自得ということを知らん。神が人間をつくったと思っとるから自分に悪業の原因をさぐらん。こうした宗教的人間を仏教は否定する」。
  • 原始経典を軽んじないことを心においておきたい確かに大乗菩薩道は美しい。その犠牲的行動の描写叙述は神秘的とさえいえよう。しかし、決して教祖たる釈尊の説かれた教法の根幹ー阿含・法句・経集を、軽んじ離れてはならないのである。念仏も禅も題目も「般若心経」の写経も結構だろう。が、つねに阿含、法句に戻って仏陀の真精神を汲み取る「仏祖の大道」を忘却してはならないと思う。「阿含経」は引用法句にもみられるように、まことに平凡きわまりない日常自然の営みのなかから教えを説かれている。私たちと同じ地平線に立って、現実の悩み多き世間の悲喜恩愛のうめきにやさしく応えている。空とか無とかいう哲学的な言葉は出てこない。むしろ倫理的で合理的で常識的でさえある。
  • 般若心経は凝縮された抽象的経文故に解釈を誤らないことが重要注意しなくてはならないのは経文の字句解釈はともかく、それらの講話や講義は百人百色、著述者、解説者の宗教的・思想的立場からそれぞれの解釈を下しているということである。(略)
    しかも、多くの日本人の手にする「心経」は唐僧玄奘法師の漢訳によるもので、その中には「度一切苦厄」の法句があるけれども梵語原文には見当たらない。「以無所得故」の五字も法隆寺の貝葉梵文には存在しない。ではどうしてそんな細かい専門的なことにこだわるのかといわれるかもしれないが、この経は観自在菩薩が自利の悟りとして「照見五蘊皆空」、つまり一切の現象が因縁によって成り立つという空の真理を智慧の徹底によって(行深般若波羅蜜多)照見したと告げているのであって、いきなり一切衆生の苦を救う利他行を説いているわけではないということを知っていただきたいからだ。もし「度一切苦厄」が「心経」の功徳だと思いこんだら、このお経はたちまちにして狭隘な御利益経に墜ちていってしまう。「
    心経」は「さとりの経」であって「すくいの経」ではないのである。(略)ほとんどの一般日本人は何十回も何百回も「心経」を棒読みしては「度一切苦厄」の利益を得ようと甘え、僧侶も都合の良いようなありがたや節の俗言を吐いている。(略)
    この経は御利益を与えてくれる呪力の書ではない。自己努力による深い叡智の探求を求めた経典である。

2005年11月8日火曜日

「仏音」最後の名僧10人が語る生きる喜び/高瀬広居 ~共感した名文・名文句~

自ら私塾「疎石会」を開き、伝導を行う仏道者高瀬広居氏が、昭和時代に老境に達した明治から時代を駆け抜けてきた名僧たちにインタビューし仏道を問うてきた、貴重な書。サイマル出版から表題で出版され、後に朝日新聞社はじめ文庫本としても「仏音」と銘打ってロングセラーとなった本です。

この本が他と決定的に違うのは、本を書くこととは無縁の超絶した人生を歩んだ本当の仏道者を拾い上げて、その言葉を訪ねていることです。自ら本を書くことは仏教者の条件では全くないため、こういうところに本物がいるのだ、と唸らされます。
宗派は皆違えど、とにかく半端ではない生き様は、その言葉がどれも究極が故に凄まじい迫力と緊張感を伝えてきます。




  • 高瀬広居(私塾「疎石会」主催)
    前書き及び合間の鋭い洞察。宗派を超えた「作家」や「大学教授」として世間に知られるのではない、本物の僧をよくぞ探して記録したと思います。
  • 知識人の代表者司馬遼太郎氏の言葉から「『今の日本の事態が、太平洋戦争に負けた事態よりも、もっと深刻な道徳的、倫理的試練にたたされているということに国民は気づいていない。ここまで闇の世界を作ってしまったら、日本列島という地面の上で国民は暮らしていくだろうが、堅牢な社会を築くことは難しいだろう』
    これは平成8年に急逝された作家司馬遼太郎氏が、亡くなる直前に行われた週刊誌の対談で述べた言葉である。」
  • 戦後の復興の後に残されたもの
    「だが、悲しいことに、その芯部では、人間にとってもっとも大切な利他心や羞恥の心、自責の念や繊細な精神の「炉心」は溶け、名利、打算、エゴイズムが砂漠のような欲望を駆り立てて、人間らしさを引き裂いてきたのだった。豊かになっただけ、それに比例して日本人は精神的空洞化を抱え込まなくてはならなかったのである。(略)
    いじめによる自殺は、戦後の人権と生命尊重の教育がいかに空しい、虚構に満ちたタテマエだけのものであったかを示していたし、マスメディアの無規律、無軌道は「真実の追究と伝達」などとはおよそ程遠い、単なる悦楽のみの機能にすぎないことも物語っていた。(略)
    あるものは氷のように冷たい恥知らずの打算だけである。これは明らかに、戦後日本人が謳歌してきた
    知的合理主義の惨敗であり、知力偏重の思想的破産といっても良いだろう。」
  • この本は本当に珍しい希少価値の本であると思ったのはこの点であります
    「本書は「仏知の宝庫」であり、般若の智慧に満ちている。私はそれを忠実に祖述したにすぎない。私の知る限り、今日このような書は珍しい。いま日本には、自らの血の滲むような求道生活を通して、求法を語る僧はほとんどいない。」
  • 寺の跡継ぎは単なる寺守でしかない。三宝の「僧」では全くなくなってしまっています・・
    「だいたい寺の跡継ぎでだらだらと住職になった人にはろくな坊さんはいない。第一に、なぜ出家の道を選んだか、という内的動機が欠けており、職業として自動的に年回法要儀礼の寺守としておさまっているにすぎない。第二に、迷える人、苦悩する多くの人々に仏法を説かない。説く力もない。」
  • 密教とは初詣でに栄える成田山や川崎大師を指すものではない
    「真言密教はとかく現世利益としてのみ求められることが多い。護摩札を好む日本人の習性もその一つだし、元日に成田山や川崎大師に数百万人もの人々が詣でるのはそのためであろう。しかし、密教とはそんな底の浅いものではない。山本(秀順)氏の説く人間と自然の一体性、一匹の虫にも積極的に生命を見いだしていこうとする利他心、愛他心、それこそが弘法大師の教えなのである。」

  • 【内山興正(曹洞宗・京都宇治能化院)
    早稲田大学西洋哲学科卒、二人の妻を亡くし、その後「宿無し」昭和の徹底的修行の禅僧澤木興道禅師の元40年間修行。
    その後も極貧のもと坐禅に浸る。
    著書は多い。堕落とは無縁の折り紙達人僧。1998年、86歳で遷化
  • 曹洞宗という権威の元でもこのような僧がいることが救いでしょう「この寺は曹洞宗永平寺派に関係のある寺ですけれども、実際には何も関わり合いはない。寺のつきあいも全くゼロ。要するに寺院付き合いっていうのは、早い話が、お葬式の同業組合でしょう。ここは檀家が一軒もない。葬式に関係のない寺ですからな。それに私は世間のことを何も知りません。知る必要もない。坊さん達が何をし、何を考えているか、宗門や宗派がどんなことをしているか知らないし、関心もない。ここにはテレビもラジオも電話もありません。(略)
    坊主の履歴も、
    ただ、澤木興道禅師について禅を学んだだけで、ほかに何もありません。」
  • 文明文化が人間の生活を高めたか、否。「私たちは日々、人類文化の恩恵をうけ、限りない発明、文明、文化の恩恵に浴している。しかし、それによって私たち自身が高められ、尊いものになったか。自分の真実にやすらうことができるようになったか、どうか。そうはいえまい。石のヤジリで戦う代わりに、原水爆やミサイルで大量殺戮できるようになっただけだ。洞穴に住む原始人類がそのまま高層ビルに住み、便利さに浸っているだけではありませんか。」
  • 企業で馬車馬のように働く人生はまさにこのとおりであります「しかし、どうせおだてられて一生懸命働いて、業つくばって、やつらは最後、紙屑のように捨てられる。そんなときね、私はつくづく企業体ってえのはバカなやつらだと思うんだが、早い話が、日本人ってえのは、犬みたいな性格を持っていて、企業に忠誠を誓う。そして捨てられる。使う奴も働く奴も自己が全くわからんのだな。この狂気、正気を失った人間に、正気を取り戻させるのが仏教なのです。」
  • お経を学ぶことの意味について「お経は、私にいわすれば説明書です。効能書ですよ。そう思ってみればよい。(略)
    要するに
    経を読むということは、自己を学ぶこと、生きる態度につきるのですよ。」
  • 親が子どもを育てる意味、人生を教える意味「子どもというのは、親の生き方、人生観の審判者であるとね。もし親の生き方が少しでも歪んでいると、子どもは大きくなってから、必ずそのひずみを指摘し、審判する。(略)
    いったいどう育てるのか。大学に出すために、と答える親がいる。これは白痴的回答です。
    大切なのは生きる態度だ。金が大切という態度を教えれば、子どもは親よりも金を選ぶ。立身出世を示せば、そのことのみに懸命になって人を傷つける。そうではなくて、本当の自分の生命を自覚し、その生命を発現しようとする態度を教えなきゃならん。」
  • 【葉上照澄(天台宗・比叡山延暦寺)
    東京大学哲学科卒、ドイツ語教授として大正大学教授や新聞論説委員を歴任してから、43歳で比叡山入り、44歳から7年かけて回峰行を達成。歴代39人目。年齢は最高齢レベルの大行満であり、全国に異常なまでの衝撃を与えた。1989年、86歳で遷化。
  • 下座のこころ「法華経の第七巻、第二十品にな、「常不軽菩薩品」というお経がある。回峰行の創始者相応和尚も、この菩薩に深く帰依していた。(略)
    仏になるためには、この「下座」を欠いてはならないということです。下座とはあらゆる人間を尊重する、人間礼拝や。(略)
    この自覚は人間自身を謙虚にする。人間を礼拝する心を植え付ける。菩薩はそれを実行した。(略)
    下座のこころとは、なにものにも代え難い積極的人生を生む。傲り高ぶった人間にはそれがない。
    宗教心とは下座心や。宗教とは何ぞやというて議論するインテリには、この心がいつまでたってもわからん。なんぼ知識をひけらかしたって、この心がなくては人間は幸せになれん。私は「もし自分の子どもや下のものに手を合わせてもらいたかったら、黙ってあなた自身が手を合わせなさい」という。手を合わせる心が仏心です。」
  • 一番だめなもの「一番いかんのは、大学教授とジャーナリズム。青年をアホにかりたてとる。もっと大人にならにゃいかんね。世の中の移り変わりの現象面のみとらえて、それを新しい社会像であるかのようにみせつけ、いかにも大衆をキャッチしとるようにいうが、ちっとも人間がみえとらん。それを思うと、私はじいっとしとれん気持ちに駆り立てられるわ。山にいると人間がようみえてくるだけに、苛立ちも強くなる。」
  • 【中川宋淵(臨済宗・静岡三島竜沢寺)
    東京大学インド哲学科卒、飯田蛇笏門下で詩を学んだのち、昭和新憲法の天皇象徴論を作った山本玄峰禅師の元でその後を継ぐ。臨済禅(公案禅)を地でいく海外布教に力を注いだ禅僧。1984年、77歳で遷化。
  • 南無阿弥陀仏は「ハレルヤ!」くらいの明るさを備えた言葉です「南無阿弥陀仏とは、無量寿、無量光の如来の命に帰依することです。計り知れない生命、無量寿ですよ。こんなめでたいことはない。だから、お念仏はめでたい。ところが、結婚式場で南無阿弥陀仏というと嫌われる。」
  • 性の自由について、名僧の回答「フリー・セックス? それで本当に楽しければよい。が、私にはそうは思わない。今日の性は濁っているだけだ。人間にとって欲は大事な力だ。食欲はものを食べる力、性欲は子を産む力、大切です。けれども欲にとらわれてはいけない。性の自由を叫ぶことは、セックスにとらわれてるんじゃね。性欲は他の様々な欲、力の一つの部分にすぎん。チンポコをあたまのうえにのせるようなことばかりしてたらいかん。チンポコは在るべきところにあって使われればよいのだ。」


  • 【塚本善隆(浄土宗・京都嵯峨釈迦堂清涼寺)
    京都大学東洋史学科卒、仏教研究のために6回中国へ渡航。母はインテリだったが無学の祖母の影響で浄土宗に帰依。京都大学名誉教授だが、ぼろ寺に住む。1980年、82歳で遷化。
  • 末法とはハルマゲドンとは全く違います「人間的自覚そのもののうちに末法はある。まえはよくて今は悪い、といった時間的、年代誌的な歴史観で末法をとらえるものではありません。だから、法然上人がいわなくとも、親鸞上人がおっしゃらなくとも、自己の生きる社会と生活に悪と罪とを見いだすならば、それが末法であり、その覚醒が在れば理想を求める心も生じてくる。末法、五濁悪世とは救われざる自己、そのことです。ここにたてば、ユートピアをめざす意欲、宗教的な理想追求の力がわいてくる。それがないということは、本当の終末や末法の自覚はないのだといってもよいでしょう。それが今の日本の現状です。夢のない空ろな「末法遊び」。経済成長に悦楽し、不況になって懊悩する、その変わりゆく妄執の自己を見ずに、終末も末法もありえないのです。(略)日本人にはそうした宗教的教養が残念ながら非常に薄い。」
  • 仏教は全く暗いものではない。暗さは江戸の悪政策の産物「葬式仏教」のイメージでしかない「祖母は無学です。だが、みんなのおかげと、人の仏性を拝む心を持ち、そこに人生の明るさを持っていた。仏教が日本に入ってきたとき、それはそれは明るいものでした。奈良の古寺を見てご覧なさい。朱に塗った舞台や柱があり、中央アジアの雅楽が演奏され、舞踊が繰り広げられた。死者に経を読むことなど在りません。暗いところに勇気はわきません。明るいから理想にもえるのです。信仰は明るく人生を過ごす原動力でなくては全く意味がない。」
  • 最悪は近代以降の宗教を抹消してきた日本の制度「母を見てわかるように、明治社会の近代化が大きな過ち、とりかえしのつかぬ失態をおかしたことです。それは宗教と教育を分離しなければならぬという近代法治国家の原則を表面だけ取り入れてしまったことです。ヨーロッパには日曜日に教会に行くという習慣が何百年も続いていた。日本にはそれがない。にもかかわらず、教育から一切宗教を排除した。これが致命的打撃です。」
  • 浄土宗僧侶への批判と原点回帰「法然上人は釈尊の教えに立っている。浄土宗の坊さん達はそれを忘れている。十万億土だ極楽浄土だと、それだけ確信すればいいなどといっているが、そんなことできるのはまれなことです。釈尊も現実の人間を肯定し、事実を事実として認めるところから出発されているし、法然上人も現実の人間社会を全体的に肯定し、酒を飲みたければ飲め、世の習いだ、目が覚めたら念仏せよ、と無理を強いておられない。釈尊も中道なら、上人も中道です。それが慈悲でしょう。しかも、お二人とも人間を離れて宗教を語っておられません。」

  • 【久保田正文(日蓮宗・東京仙寿院)
    東京大学文学部卒、大正時代に日蓮宗管長命令で英国留学、その後は学僧の道を突き進み法華経研究を究める。著書多数。1986年、90歳で遷化。
  • 日本人の無宗教の恥さらし「アメリカの宗教学者がよく私にいいます。日本の外交官はどうして無宗教であることを誇らしげに語るのだろうか。アメリカでは無宗教であることを決して尊敬しない。なぜなら、宗教心をもたぬ人間は、相手の心が分からぬからだ。」
  • 東大卒は増上慢の人間だらけ「政官界の人には東大卒が多い。(略)
    世間というもの、一般人というものを低く見て、自分だけが選ばれた人間だというエリート意識、増上慢に満ちています。見下した選民意識、これが日本の指導的人間を教育する基本理念だったのですね。だから
    東大コースの出身者にとって、宗教に救いを求めるような民衆は、愚劣、低劣な自分たちがみちびかねばならぬ穢れの人間に映るわけです。この人間蔑視がわが国のリーダーの無宗教を育てたのでしょう。」
  • 「折伏」はどこかの新興宗教の洗脳や強引な勧誘とは全く違います「よく折伏行といいますね。これは改宗、改心を要求することではなく、苦悩に停滞している人々に、まことの救いの道がここにあるのですよ、ともに成仏し、無上等覚の世界に入ろうではありませんかと、肩を叩き、進める行なのです。(略)
    けっして物理的な強圧でも、無理に引き込むことでもない。自分もあなたもそれぞれの苦しみに於いて救われるのだという、その発心を持つことなのです。」
  • 現世安穏とは「現世安穏とは、世の中の苦がなくなるということではない。他からは苦しいように見えても、正しい信仰のある人の心の境地は安穏であり、後の生活もまたやすらかであるということです。(略)
    苦は相対的であるとともに、なかなか人間の浅い智慧ではのぞき知ることができない。いいかえれば、人知を越えた知、仏智というか宗教的叡智を得なくては、現世安穏の真の意味も把握できないし、他人の苦しみも分からぬ。分からなければ、その苦が救いとなりうる相対性を教えた宗教、仏教に帰依し、苦楽一如、外と内の一体性、仏心不二に目覚めねばならない。」
  • 自力・他力、難行・易行を相対的二元的にとらえることは仏道の考え方に反します「一般にそれを自力の法と他力の法とにわけ、法然上人や親鸞聖人は他力、唯識や禅は自力という。しかし、これは違います。自力が難行、他力が易行というのも間違っています。自力で解決できるなら、これは宗教ではなく自然科学です。他力万能なら、懺悔も苦の自覚も不必要です。」
  • 宗教音痴とはこういうことをいう「おそらく宗教を理念や感傷、あるいは文学的感性で捉えている知識人は日本人くらいのものでしょうね。それは、自己無力への自覚、一念三千の自覚がないためです。人間は神にも仏にもなり、同時に地獄、餓鬼、畜生にも墜ちる可能性を持っている。そのいずれを選び取るかという覚悟、しかも、向上して仏になることがいかに困難か、命がけだぞという決心、それが欠けているんでしょう。
  • 日蓮批判に対して・・・「一般に日蓮上人は、その行動の激しさの面からのみうけとられているきらいがありますけれども、聖人が自らを法師と自覚された慈悲の温かい面、いわば利他行の尊さを私たちは見落としてはならないと思います。聖人はけっして自分の主張、我見によって他宗を批判したり、折伏の実践をされた方ではありません。中道間を持った仏とならしめるための法の実践、相手の人を本当に救おうとした情熱、法華経による仏の本位の伝達、それを願ったのです。(略)
    注意しなくてはならないのは、
    近代に於いて、法華経と日蓮聖人の立正安国思想が過激な社会変革の思想、国家革命のイデオロギーとして偏ってうけとられていったことです。しかし、聖人のいう安国の国とは国家を指すのではない。もっとひろい国土です。主権、領土、国民をもった国家という狭い概念でうけとってはなりません。」

  • 【山本秀順(真言宗・高尾山薬王院)
    真言宗智山派智山専門学校卒。学生時代にマルクス主義に傾倒し、満州事変から第二次大戦終戦まで戦争を肯定してきた仏教界に真向から反撥して反戦を唱えた妹尾義郎の「新興仏教運動」に参加。400日の牢獄生活を過ごす。1996年、84歳で遷化。
  • 昆虫採集という教育について「私もしばらくは黙って見過ごしていた。昆虫を欲しがる童心を傷つけたくないと思ったからです。ところが、教師達は、ただ昆虫を捕らえて殺し、標本にすることのみしか教えていないことを知った。知識欲の満足のためにのみ虫を傷つけ殺す。子供らは、何一つ自然を鑑賞することもなく、採集の数の多さのみ競い合っている。私は先生方に注意した。そんなものは人間教育ではない。蝶やトンボの生態を観察するなら、なぜ生き物としての昆虫を見せようとしないのか。薬に沈め、針を刺すことで、生態のいのちは分かるのか。昆虫にも一つ一つの生命がある。その生命のねうちは人間の生命の尊さと少しも変わりないはずだ。(略)
    平気で虫を殺せる少年は、やがて生き物すべてを殺傷するようになる。相手の痛さが分かる子ども、虫のつらさを知る少年が、他人の痛さを自覚するようになるのです。私は、研究のためなら昆虫ぐらい殺しても何でもないという心を、少年に植え付けるのは罪悪だと思います。それは自己本位の人間を育てるだけのことです。
    早く捕まえた方がいい、とったら自分のものだ、という昆虫採集の競争心は、幼い子に所有欲と自分だけというエゴイズムを培うだけだ。(略)
    自然を傷つけ、小動物を殺すのも、水俣病もすべて根は同じです。昆虫採集を喜ぶ心と水銀の垂れ流しに痛みを感じない心とどこがちがうでしょうか。同じことです。」
  • 真言宗僧侶でありながら、禅門と真宗の教えに共感「留置所では広さ三畳のところに十三人の人間と一緒にぶち込まれ、薬を欲しいといえば国賊に付ける薬はないと怒鳴りつけられる。ハゲチョロの碗に盛った食事は、まずくてノドを通らない。ノミとシラミとダニだらけです。(略)
    坐禅をくむと不思議なものだ。三畳の房も広く感じられる。鉄棒や金網、扉の錠前も苦にはならなくなった。食事もいただける。(略)
    私は捕らえられ、ぶち込まれ、その軽信、軽はずみの自己偽態を知ったのです。鉄格子からさしこんでくる陽を見ているうちに、ふと私は南無阿弥陀仏と唱えていたのです。(略)
    私は真言宗の坊主でありながら、
    禅と念仏を遍歴してやっと加持感応の世界に眼が開けたのです。」


  • 【橋本凝胤(法相宗・薬師寺)
    東京大学インド哲学科卒。1943年法相宗の管長に、1968退任。第二次大戦中、日本必敗論を主張。平安時代以降の日本仏教を全否定する保守を通り越して化石のような奈良仏教崇拝者。1978年、82歳で遷化。
  • 仏像は偶像崇拝でしかない
    「橋本長老は話の中でひとことも薬師三尊の功徳や金堂のことに触れず、多少でも寺のことにかかわる話題となるや、ぷいと横を向き、苦り切った顔になる。つまり、橋本長老にとって伽藍とか仏像などというものは、仏さまの教えを学び、おのれの仏性を磨く上で、何の役にも立たぬ無用の長物にすぎないのである。」〔高瀬広居氏談〕
  • 平安時代以降の日本仏教全否定~これは仏教の深さの否定であり、単なる根性主義でしかない気もしますが・・
    「「迷わず自己を仏法に投げ入れて一筋に無垢に生きる」それが氏の宗教的確信であり、その確たる信念に立って、最長や空海の平安仏教の教え、親鸞・道元達の鎌倉仏教、さらには明治以降の近代仏教もことごとくニセモノと断じ、日本仏教千二百年の歴史に痛烈な拒絶と批判を加える。(略)
    人間が仏になりうる可能性を持っていること(仏性)と仏になること(涅槃、正覚)は天と地の違いがある。もし、仏にならんと欲し願うなら、徹底的に自分を責め付け苦しむことである。それを避けて、即身成仏とか煩悩即菩提とか、念仏申せば救われるなどといった甘えの無差別平等間にもたれかかって、どうして貧瞋癡の三惑に穢れた、どうしようもない人間どもが救われようか。そうしたええかげんな教えを説いた最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮を捨てよ! と氏は抑えがたい憤りと蔑みをこめて私たちを叱るのである。」〔高瀬広居氏談〕



  • 山田無文(臨済宗・神戸祥福寺)
    臨済宗大学禅宗学科卒業。チベット探検僧河口慧海に学ぶ。花園大学学長、妙心寺派管長。毎年遺族と赤道直下の島で戦死者の遺骨収集を行う。著書多数。1988年、88歳で遷化。
  • 現代坊主は葬儀屋の親方である
    「法とは何か。人民を拝み民衆に奉仕する実践です。(略)
    寺院住職は葬式と法事で手が回らん。ヘルメットかぶってバイクに乗り、葬式にゆきおる。忙しい。葬儀屋の親方だな。だから寺の息子さんが坊さんになるのを嫌がる。当然だ。こんな不名誉な職業嫌がりますよ。
    つまり今日の仏教教団は、仏教を何も教えないところなのです。立派な本山があり、管長がいる。しかし、管長が何を教えられるのか。儀式に出るだけだ。緋の衣に金襴の袈裟を欠け、ゾロゾロ並んでお経を読む。それだけやないか。ありゃオイラン道中や。私はそういっとる。仏教やない。(略)
    しかも人間平等を説かれた釈尊の教えを継ぐ僧の社会に僧正とか僧都とかいう階級があって、衣の色まで違うとは笑止千万です。(略)
    現在のような坊さんばかり二十万人いたって、仏教は国民のために生きやせん
  • 日本の教育は根幹思想の欠如に問題あり
    「みんながあってこその自己なんです。これが人生の根本だ。この心を押し広めれば、鳥も殺すな、虫一匹殺すな、物を粗末にせず、いのちを大切にせよ、ということになる。(略)
    教育の不毛と、そのよりどころを失った教師に育てられてきたからです。自由主義国にはキリスト教がある。中国には儒教と毛沢東主義がある。アジア・アフリカにはイスラム教があって根幹をなしている。日本には今、なにもない。


  • 【大西良慶(法相宗・清水寺)
    14歳で興福寺に入山、法隆寺勧学院第一期生として唯識を学ぶ。戦時中に法相宗管長に。1914年から遷化した1981年まで67年間清水寺貫主を勤める。著書多数、漢詩・和歌に造詣。1981年、106歳で遷化。
  • 慈悲心を育てるのが仏教
    「いまの人は自己本位なんやね。誤れる自己主義やね。地上にあるものは平等の権利があると仏書には書かれているが、本当や。この世にあるものはすべて平等の権利が集まった合力の世界やからね。動物や魚かて人間に会わなんだら、殺されずにすむ。仏教が殺生を戒めるのは、この殺されずともええものを殺して食う人間に、ああ可哀想にという気持ちを持たせ、平等を気づかせるためなんじゃね。これを慈悲心という。慈悲の心は人と物との間に気を通わせるの。」
  • 戦争の愚かさを訴える僧もいた
    「わしらの半生は戦争や。いくさ好きじゃね。わしも203高地の戦場に従軍僧として参加した。そりゃ、悲惨なものだったの、わずか六日間で死傷者一万六千人にのぼっての。わしは乃木将軍を憎んだ。悪意を持って帰っての、日本中、将軍の悪口いうて歩いた。殺し方がひどい。歩くところみな死骸やった。機関銃で撃ちまくる中を走らせ殺したとな。(略)
    わしは早くから原水爆禁止、軍備廃絶、非核武装の平和運動やってきたの。百歳の坊主がな。不殺生と慈悲、
    仏教は平和主義や。」
  • 日本人へのメッセージ
    「日本人は分厚うならないかんの。すぐカーッとのぼせおる。ねばりがない。このままではもっと悪うなる。利己主義になる。公共概念もないし、親が死んでも皆して財産分けることしか考えん。(略)
    死んだら死んだでしまいやと一代限りの考えやによって、思想は伝わらん。教育もでけんの。」



  • 【友松圓諦(東京神田寺・浄土宗離脱)
    宗教大学卒、慶應義塾大学史学科卒、仏教法制経済研究所を設立。英語、ドイツ語、フランス語、パーリ語、サンスクリット語を自在に操る。大乗小乗仏典をことごとく読破。浄土宗を離脱して神田寺という単立寺院を創建。1973年、78歳で遷化。
  • 釈尊の中道の精神をいまに引き継ぐ重要人物は・・
    「釈尊が説かれた教えの根本は中道。中道とは正しい道。それだけではない。実際の人間生活に役立つ正しい道、現実に即した、空理空論ではない正道、それが中道。ところが、釈尊が亡くなって百年も経つと、仏教は思弁化した。坊さん達が暇になったんだね。これで釈尊の努力がふいになった。釈尊は形而上的、思弁的、観念的で抽象的になったウパニシャッド(古代インドの宗教)哲学を、形而下的、実践的、現実的にするべくつとめられたのにね。またひっくり返してしまった。それを見事に、再び現実化した人は誰か。知る人ぞ知るだね。法然上人です。(略)
    膝をつねって無理に目を覚まして念仏をしろというのではない。眠かったら寝なさい。目覚めたら念仏せよ。すばらしいね。ここに無碍(こだわりのなさ)がある。
    自然法爾です。中道とは、これをいう。」
  • 仏教は極めて現実的
    「仏教は虚無的だ、ニヒルだという人がいる。とんでもない錯覚であり、誤解です。釈尊は脱世間的、非科学的な教えを何一つ説かない。釈尊は死人のためにお経なんか一度も読まなかったし、死ぬことがすばらしいなどと口にしなかった。生きることが第一。そして、現実の大地にしっかと足を踏み下ろして(二足尊)、極端におちいることなく、保守的にならず、たえず前進的に問題に取り組むことを推し進めたのです。
  • 仏教は人間中心主義
    「仏教は人間中心の宗教であり、二足尊の宗教である。原始宗教以来の神話の宗教に対し、人間の宗教としてうまれ生き抜いてきた。火の神でも水の神でも、土の宗教でもない、生命尊重の人間宗教です。ちかごろ、日本人は生き甲斐といっているが、生き甲斐とは、「ありがとう」ということだ。ありがとうとは、「あることかたし(在ること難し)」です。法句経182番に「人の生をうくるはかたく」とある。いのちとは「あることかたし」、すなわちサンキューではない。めったにないことだということだ。これほどまでに生きていることを喜び感謝する心を持てばそれが生き甲斐になる。」

2005年8月6日土曜日

松原泰道 ~共感した名文・名文句~

語り口と文章の美しさ。そして、使用される単語が多岐に亘り表現力に富んでいること。仏教の解釈が鋭く、非常に重く深く洞察されていながら、難解でない。師の言葉として生きているのです。



  • 観音経のこころ/祥伝社
  • 仏像を拝む意味「鏡を見るのと自分を見るのとが同意味になるように、仏像を拝むのとわがこころを拝むのと同じレベルにあるのです。(略)観音さまのお像を拝むのも、またこの道理によるものです。観音像を合掌して拝む営みは、私たちの身中に埋もれている純粋な人間性の存在を信じ、その人間性(人間の本性・仏心)を開発するのが、仏教語の「信心」です。」
  • 他宗教の『信仰』と佛教の『信心』の違い
    「似た言葉に『信仰』がありますが、信仰は私たちの外側の高所、たとえば天のような所にある権威を仰ぐから『信仰』といいます。仏教の場合は、人間が自分の身中に潜む純粋な人間性を信じ、その機能を開発するのが目的ですから
    『信心』と呼ぶのが好ましいのです」
  • ご利益・霊験の考え方
    「ふだん観音さまを信心しながら、火難に遭う人もたくさんいます。そんなとき、とかく信心が揺らぎがちですが、逆境のときこそ、観音さまからメッセージをいただいたのだ、と受け止めたらどうでしょう。たとえば、火事で焼けたのは確かに不幸だが、この不幸がなかったらあるいま生涯わからなかったかも知れない何かの道理に気づくことができたとしたら、今後の自分の生き方に大きなご利益を得たことになりはしないでしょうか。ご利益、霊験といっても、目に見える物質的なものだけではなく、自分が成長し、人間性が豊かになることこそが最上のご利益・霊験でしょう」
  • 人に恨まれるのも、自業自得
    「自分をねらう悪人とは、実は自分なので、多くの場合、自分自身で作った自作自演の所業です。
    無理をしたり、人を傷つけたり、義理を欠いた言動が積み重ねられて、自分で自分を押し落とすのです。他を恨むよりも自分の足許をよく見詰めよ、と観音さまは教えるのです。」
  • 環著於本人
    「人を咒い、世を呪い、あげくには毒を盛るという異常な行動は現代でもよく見受けるところです。この目に見えない迫害を受けても、心配はいりません。必ず救われるのです。『環著於本人』です。(略)要するに、深い意味で
    加害者の『自業自得』の教えです。」
  • 足るを知ることが叡智である
    「『餓鬼』は、飢渇で悩むとともに、飢渇が満たされてもなお満足しない欲求不満をいいます。それどころか、満たされていることに言いようのないいらだたしさを持つ人のことで、現代語のガメツイ・イライラ・ギスギスといった一連のカタカナで象徴される心情が餓鬼です。(略)
    人の好意を好意として受け取れず、すべてを悪意に受け取り、真実と反対に理解して自分も苦しみ、他者をも苦しめる自我意識の強い人のことです。(略)餓鬼は『足るをことを知らない』心情です。すると、餓鬼の苦から救われるためには、『足ることを知る』叡智を身につけることです。(略)欲望追求は文明を生みましたが、足ることを知る叡智は文化を生みます。」
  • 現代人の畜生ぶり
    「(往生要集の)源信は、さらに畜生の特徴に、愚痴と恥知らずを挙げます。愚痴とは、『知らなければならぬことを知ろうともせず、知らなくてよいことは教わらなくとも知っている』ということです。その意味での無知です。いわゆる畜類は『自分が生きているというとはどういうことであるか、何によって生かされているのかを知らないし、また知ろうとの意欲を持たない』のです。
    現代人は、とかく、どうでもいいことはよく知っています。しかし、大切なことを知ろうとはしません。ただ、『空しく生きている』にすぎないので、この『現代のような生き方』が『畜生』というのです。
    畜類は、害しあい、傷つけ合い、殺し合わなければ生きられない。ときには、共食いをしても恥と思わず、その償いをしようともしないのは、永遠の命を知らず、
    多くの縁によって生かされている大切な事実に無知だからです。」
  • 信心とは何かはこれに尽きるのですが正直実感するのは難しい。私はこの度仏教を学んで初めて知りました
    「『観音さまとは、自分のことである』と申しましたが、それは思い上がりではなく、『気づいておくれ、わかっておくれ』との、私たちを包む久遠の大きな願に気づくことなのです。願うことが願われていることであり、信ずることが信じられていることなのです。ここがわかれば『疑う』という余地はありません。それでも、なお疑念を持つ人は『久遠の大きないのちから願われ、信じられているのが、なぜ自分にはわからないのだろうか』・・・と自分自身に疑いをぶつけてみたらいかがでしょうか。他を疑うことに急なあまり、とかく、自分を疑うことを忘れがちです。(略)
    拝むことは拝まれているのです。いや、あなたが拝まなくても、あなたが信じなくても、そんなことに
    おかまいなく、あなたは拝まれ、あなたは信じられているのです。あなたは、ただそれに気づかず、忘れているだけです。あなたが拝めば、あなたが信じたら、この触れ合いがすぐにわかるのです。」


  • 「足るを知る」こころ/プレジデント社
  • 般若心経の位置づけ「釈尊が初めて説いた原始仏教の思想が、時代を経るにつれて次第に加上されて、より高次の思想になりました。これが『大乗仏教』です。その大乗仏教の思想の真髄である『空』の思想を説く経典が『般若心経』なのです。」
  • 『空』とは「空の思想とは存在の原理であると申し上げたい。それが『無常』であり、同時に『無我』であると言っているのです。仏教用語の無我とは、この世のものは、すべて単独で孤立してあるものではなく、みんな互いに関わり合いがなければ存在することが出来ず、相互に依存関係があって、初めて一切は存在するという意味です。『空』の実体は、時間的には『不生不滅』、質の点から見れば『不垢不浄』、量の面から学べば『不増不減』ということなのです。『不生不滅』は永遠に死なないという意味ではありません。『生と死を相対的に考えて、制を喜び死を厭うという境地を超えるなら、生死に心が奪われることはない』ということです。」
  • 「(空とは)『物事に執着するな』ということであろうと、先取りするかもしれません。しかし、そうではないのです。『とらわれるな』『執着するな』という命令ではなく、むしろ肩の力を抜いて『執着なんかしなくてもすむ智慧』を身につけることをすすめるのです。そうでないと、まことに窮屈な教えになってしまい、せっかくの心経のこころが、つかめなくなってしまいます。(略)
    『空』とは
    『執着しないことにも執着しない』状態を指します。ちょっと哲学めいていますが、禅ではその状態のことを『死にきる』とか『大きく死ぬ』という意味を踏まえて、『大死』と言います。
  • 一念は大切に、二念を防ぐ「喜怒哀楽を否定したり、物事に感動するこころを失ったりしては人間失格です。浄土系の教えで一念、二念といった考え方があります。たとえば、きれいな花を見てきれいだと思うのは当然で、これを一念といいます。しかし、その花を手折りたいとか、盗みたいとか思う第二念が起こる、それを防ぎなさい、というのです。きれいなものは素直にきれいであると受け止めて、その次の気持ちを起こすな、というのです。」
  • 他との関わりを深く認識したいものであります「『俺は自分が頑張って努力したから出世したんだ。誰の世話にもならずに一人で偉くなったんだ』と主張するのは『孤立自存』の考え方です。『空』がわかってこそ、『お陰さま』がわかるのです。『お陰さま』という言葉が自然に言えるようになるには、相当に『他との関わり』を深く認識することが必要です。
  • 子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ「人生論で言えば、日本の古い言葉に、
      子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ。
    というのがあります。(略)
    この『子供叱るな』は、叱る前によく観察をしてみなさいということです。この観察とは、自分を相手に同化させる、つまり子供の気持ちになってみなさい、あなたも子供の時はよくいたずらをしたでしょう、ということ。そうすれば、小言の言い方も違ってくるのです。『年寄り笑うな、行く道じゃ』は、自分より年配のものを見たら、私も年をとったらあの姿になるのだと、一人称で相手を観察しなさいということ。そう観察すれば自然に思いやりの心が生れてきます。これこそが仏のこころなのです。(略)

    これは会社の上下関係にも適応できる言葉ではないでしょうか。上司は部下に、先輩社員は後輩に対して、この気持ちをもちながら接することが大切です。『俺は部長なんだ』とふんぞり返っていては人はついてこない。部下の恩、目下の者の恩を知ろうと努力しない人物は、ちょっとした失敗がきっかけで失脚してしまうものです。『孤立自存』タイプの人間に、大きな仕事はできません
    『自分さえよければ式』の人物は、時に慢心し、人生の晩節を全うすることは難しいようです。
  • しゃぼんだまとんだ やねまでとんだ やねまでとんで こわれてきえた
    しゃぼんだまきえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
    かぜかぜふくな しゃぼんだまとばそ
    「野口雨情の『しゃぼん玉』という童謡があります。(作者が幼い娘を失った時に作った詩であるということの説明があり・・)
    『しゃぼん玉とんだ、屋根までとんだ』これはしゃぼん玉としては長生きのなかのまた長生きです。しかしその一方『しゃぼん玉消えた、とばずに消えた』、そんなはかない、しゃぼん玉もある。そしてさらに、『うまれてすぐにこわれて消えた』とたたみかけます。この言葉に込められた雨情の悲しい心情を思うと、本当に胸が詰まるものがあります。しかし、そこで終わってしまったら、無常観は消極的な人生観で終わり、また無常観に過ぎません。雨情もこのまま泣き伏してしまってはダメなんだと、自分を励ます気持ちで童謡に祈りを込めます。『風、風吹くな』と。これは同時に無常の風をも指しています。どんなに無常の風が吹かないで欲しいと言ったところで、この浮き世であれば防ぎようもない。だが、だからといって諦めてはいけない。そういう厳しい世の中であればあるほど、『しゃぼん玉とばそ』と、積極的に生きよう、童謡を通じて雨情は、子供たちに強く生きることを念じるのです。」
  • 叱言こそ最上の愛語「確かに、家庭でも職場でも大いに心を配ることが大切なのです。特に、『叱る』という行為は難しい。言葉はたとい荒くとも、内容は温かい呼びかけでないと、相手を真から納得させることはできません。よい叱言こそ、最上の愛語なのです。」
  • 豊かさについての思想の構築が重要「現状といえば、ただものの豊かさに溺れていると言うよりも、豊かさの消化不良の症状を起こしています。それは豊かさの底辺に、新しい思想が構築できずにいるからです。その精神的不安定が、戦前の価値観に郷愁を感じているのではないかと思うのです。今わたしたちに課せられているテーマは、この『豊かさを本当に豊かにする思想』を構築することではないでしょうか。」
  • 『仏道をならふというふは、自己をならふなり』「仏道を学習するとは、自分自身を学習すること。道元の非常に有名な言葉です。習うというと、他から教えを受けるような意味に聞こえますが、そうではありません。この言葉を言い換えると、宇宙と人生とを貫く真理を悟った本当の人間になるためには、自分とは何か、と繰り返し繰り返し、納得がいくまで修練を積み重ね、修行をするという意味になります。
    この言葉の後には、『自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり』と続きます。『自己をならふ』とは、自己を忘れることです。自己を忘れるとは、エゴを捨てよということ。エゴを捨てよとは、万法に証を立ててもらうということです。この『万法に証せらるるなり』の一句は、道元独特の表現ですが、平たい言葉で言うと、あらゆる事柄に支えられて生きているという事実の確認になります。
    信仰に熱心な人は、他人から見ると狂信的に見えることがあります。しかし、本当の信心は、狂信のようであって、実は
    覚めたもう一人の自分とも言うべき本心をしっかりとつかんでいるものなのです。(略)
    信仰する人が、『もう一人の自分』をつかんでいないと、その信仰はアヘンになってしまうのです。道元の言う『仏道をならふというふは、自己をならふなり』は、単に自分が修行をするだけでなく、もう一人の自分に出会える事実を教えているのではないかと思うのです。」
  • 陰徳をつむ「人徳を具えるのは『陰徳』を積むことでもあります。禅では特にこの陰徳を重んじ、私も師匠から陰徳の三原則を教わりました。『目立たぬように、際立たぬように、さりげなく』というのです。この三つの精神で具体的にはどのように陰徳を積めばよいかと言いますと、一言で言えば『ものを大切にする』ということです。物品もそうですし、人間関係で言えば人の好意を無にしないことです。(略)
    人の好意を素直に受け取らないと徳は逃げてしまいます。」
  • 『見取見』が横行する現代「とかく、人の世話にはならないとか、人には迷惑をかけないと言い張るけれど、人間の生活において絶対そんなことはできるはずはないのです。仏教的に、特に禅の立場では、自分の見方に固執する思い上がりを『見取見(けんしゅけん)』といいます。エゴ丸出しで自分中心に考えると、独断や偏見が生まれる。それを慎むことが大事だと思います。(略)
    人間は、一人一人、他から影響を受けているし、他に影響も及ぼしています。そんな繋がりの中に個々の人生があると考えるべきです。
    人間は他に迷惑をかけなければ生きられない、大変弱い存在なのです。(略)」


  • 人生をささえる言葉/主婦の友社
  • 指導に大切なのは『対機説法』です「禅の指導者である師家が相手の修行者の程度をはかって、それに相応した説法をすることを対機説法といいます。(略)
    現代の教育にはこの
    「対機説法」の精神がかけているように思えます。人間は指紋が異なっているように、機根(個性)もそれぞれ違います。それを掘り起こし、発揮させることが指導者には求められているのです。
    機根は誰にでも備わっている能力ですが、しかしそれを発揮する「機会」に恵まれなければ、眠ったままです。その機会のことを、仏教では「機縁」といいます。『機縁』とは、仏の教えを受ける人間の能力(機)と、教えようとする仏の願いが出会うことです。」
  • ご利益欲しさは信心ではない「わたしたちは、よく、信心するとご利益があるとか、病気が治るとかいいます。しかし、こういう目的や打算のある信心は『無功徳』です。もの欲しさ、ごほうび、報酬欲しさ、ご利益欲しさにすることは、どんなにいいことをしても、功徳はないのです。禅では、目的と手段をわけません。目的と手段を分けると、目的がかなえられないと、そこに挫折感があります。しかし目的と手段が一つであれば、たとえ行き詰まっても、満足感、達成感があります。(略)
    『何かのために』という、目的を果たす手段ではなく、
    手段そのものを目的とするのです。手段の中に目的を包み込んでしまえば、手段がそのまま目的となります。」
  • 重要なのは、自力・他力ではなく、縁起を意識することである「自力・他力という考え方があります。仏法の大海の中の生け簀(人間)を外から見れば、仏に抱かれている、仏に生かされている、ということで他力になります。いっぽう生け簀の内側にも仏法は内在するという点にアクセントを置いてみれば、自力になる。しかし、他力も自力も、同じ仏の力であることに変わりはありません。私は、他力と自力を区別して考えるのは間違っていると思います。それは、『仏力』を、外から見るか中からみるかの違いでしかないからです。仏教の根本は『縁起』の思想です。釈尊は、『すべてのものや事柄は、無数の原因と無数の縁が、相互にかかわり合う上にもかかわり合って生じ、成り立つのである。他と関係無しに、そのものだけで、自分だけで孤立しうるものは、この世には何一つない』と言っています。仏教には、独力という発想はありません。およそこの世にあるもので、他と無関係に存在できるものは何一つとしてない以上、『自力』か『他力』かと分けて考えることは、あまり意味がないのです。」


  • 釈尊最後の旅と死-涅槃経を読みとく /祥伝社
  • 仏教は人間崇拝とは一線を画す貴重な宗教です「釈尊は生前、つねに弟子たちに『わたしと言う人間を信心の対象としてはならぬ。人間である痿からに私は必ず死ぬ存在である。幽玄なものを信心の対象にしてはならない。私は有限な存在だが、私の悟った法(真理)は永遠であるから、この法を信じよ』と口癖のように言われました。(略)」
    「釈尊の宗教である
    仏教は、教祖中心でなく法中心です。」
  • 形而上的なことを思い悩むことは無駄である「釈尊は、他からの質問に一言も答えずに、ただ沈黙される場合がしばしばあります。これを仏教語で『無記答』といいます。(略)
    現代人でも聞きたがる、死後に地獄・極楽があるか、あの世はあるのかないのか、といった観念的・形而上的な質問には、釈尊はつねに無記答でした。(略)
    質問者が『より重要な問いとは何か』とつめよると、釈尊は静かに『今という時である。今は再び戻ってはこないいのちである。この
    今をどう生きるか、それを私に問え』と諭されるのです。」
  • 自分自身の『丹誠』が重要「古品が新品よりも価値がある、といっても結局は丹誠の度合いです。(略)
    人間でも同じです。よしんば高齢者であっても、口を開けば人の悪口を言ったり、心が邪悪な老人は、釈尊によれば『これ空しく老いたる人』です。空しく老いないために、充実した老いの生活をするには、自分自身の丹誠が欠かせません。すなわち、正しい法を聞き、正しく思いを深め、自分を整えることです。
    自分自身の丹誠は、日々丹誠しつつ生きる現在進行形で、死ぬまで続けて、初めて意味があるのです。」
  • 釈尊に食あたりをさせて歎く男に対して、死の直前の釈尊の言葉「『人の死の因は、病気や事故ではない、生れたのが死の因である。病気や事故は死の因でなく、死の縁(契機)である。一切が死の縁となるから、生き方に心を配りなさい。』」


  • わたしの歎異抄入門 /祥伝社
  • 仏教は報復を否定する「仏教では「怨みに報ゆるに、怨みをもってするなら、怨みは永久にこの世からなくなることはない」(「法句経五」)と説きます。」
  • 来世の存在するという証拠・理由はズバリ・・・「物事を相対的に、対立的に考えるのは、人間の傲慢なはからいです。現世と来世を相対的に考えると、観念遊戯になります。私は現世の存在を信ずると同じように、来世の存在を信じます。昨日があるから今日が、今日があるから明日があるのです。過去の世があるから現在の世があり、現世があるから来世があるのです。私が来世の存在を信ずるのは、この簡単な理由からです。」
  • この心を忘れないでいつも持っていたい「丹那トンネルを通過するとき、ふと気づきました。(略)この工事が完成するまでに、多くの工事犠牲者が出ました。私はその事実にふと気づかされてからは、丹那トンネルを通過する10分間あまりを、黙読で般若心経と観音経の偈を誦経するようになりました。」
  • 自力本願の誤り「多くの現代人は、自分の力の限界をわきまえず、自分の才能や財力、権力などに驕って、自我を逞しくしています。親鸞の言う『自力作善』の過ちを犯していることを、この条で学ぶべきです。」
  • 愚徳を積むことができるかどうかが人間の徳の高さにつながる「いまここで、自分のすべきことを、めだたぬように、きわだたぬように、さりげなく、心を込めてすること、それが『愚徳』の実践です。愚徳を積む行為などは、現代人には無価値の「愚行」に思えるでしょう。たしかに自分のする仕事の結果に栄光を期待しないというのは異様に聞こえます。が、自分のする行為そのものに意味や価値があるならば、結果は如何あろうと別に気にかける必要はなくなる道理です。すると、たとい挫折しても挫折ではなく、失意も失意と思えなくなるのです。」
  • 人生論と宗教心の違いは正にこれ「生きている限り、煩悩は増えても減ることはないでしょう。人生論で言うなら、気づいた煩悩をその都度整理していくことが、大過なく人生を送る方法です。しかしいくら整理整頓しても、果てしのない煩悩がぞくぞくと起きる事実に、我が身を憫れみ、それにつけても我が身を大切に、と願わずにはおれないところに宗教心・念仏も芽生えるのです。人生論との相違がここにあります。」
  • 自分の現在の存在は無量大数の人間の因縁によるものであることを自覚する「私が今この世にあるためには両親が必要です。両親にはそれぞれ二人の両親、あわせて4人の両親があります。両親の数は、代をさかのぼるごとに等比級数的に増えるので、私の三十代前に限っても、私の先祖は累計十億七千三百七十四万千八百二十四人になるそうです。これが私の誕生前歴に一端です。地球上に始めた人類が生じたとされる第三紀中新世(約六千万年前)からの祖先の数は、とても算定できないでしょう。遠い遠い先祖の血を継承して今の私があるわけです。血だけではありません。『血を引く』といわれるように、先祖がした行為(業)は、目には見えませんが、先祖の血とともに積み重ねられて、わたしたちの誕生前歴を築いたのは確実です。先祖の血と業によって、私の誕生前の経歴が出来ている事実に、思いをいたしましょう。それは私だけでなく、誰にも通じる事実です。」
  • 常識と信じて何も考えずに周りにあわせて行動する信心の欠片もない日本人大多数「信心は純粋でなければなりません。日本人によく見る例ですが、子供が生まれるとまず鎮守さまへの宮参りをします。成人式も鎮守さまで行い、結婚式はキリスト教徒でなくとも教会であげ、葬式は仏式でつとめるという『雑炊的信心』は、信仰や信心の名に値しません
    信心や信仰などというと多くの人は、とくに現実的な日本人は、
    現世において自分の欲望がかなえられることを、信心や信仰のよろこびや利益と考えがちです。(略)
    しかし、『人間性を豊かにする』高次の宗教思想と比べて、
    あまりにも次元が低すぎます。親鸞はきわめて合理的な宗教思想を持っていたので、迷信的な行事を悲しむ和讃を幾首も詠んでいます。
    『かなしきかなや道俗の 良時・吉日えばらしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす』
    『道俗』は僧侶と一般人、『天神・地祇』は天神地神。『卜占祭祀』は占いとまつりですが、このような事例は『涅槃経』で戒められているように、仏教の正道ではないとするのです。」
  • 信心の純粋性を保つことと他宗教・他宗派への寛容性を持つことは相反しない「純粋度を保つためにも、他の宗教思想を理解する寛容性を失うのは、その宗教の自殺行為に等しいでしょう。純粋と寛容という相反する性格を、より高い場で統一するのが望ましい宗教性だと思うのです。このことはけっして容易ではありませんが、一つの宗教・宗派を信ずる人は、他の宗教・宗派の思想を家挙に学ぶことにより、自分の信ずる教義が深められるのは事実です。(略)これも業縁のはたらきです。」


  • 人徳の研究「水五則」に学ぶ人間の在り方・生き方 /大和出版
  • 世界における水に対する価値観「日本では「湯水」は、ありあまる物の存在の形容ですが、ドイツには「水なくば、命なし」、オランダやアメリカには「水は賢く使え」、フィンランドには「水は最古の薬」ということわざが古くから伝えられて、そのことわざどおりに、今も水を大切に用いています。(略)
    いまの日本にあっては、水に対する価値観を変えることが肝要です。」
  • 自殺防止法「人は、一生の間だれしもが自殺を考えるもので、それは人生の通過駅の一つとも言えるでしょうが、近年はその時点が早まっています。こんなときはピントのあった励ましが人を自殺から救うのです。相手とピントを合わせるには、それまでと違ったさまざまな角度で接してみれば、必ず心の通じ合う角度が発見できるでしょう。相手の持つ美点を見つけて、推賞し励ますことです。小沢有作先生が「生きることを励ますのが教育だ」とおっしゃっていますが、至言だと存じます。」
  • 指導者の在り方「指導者自身が、思い上がりを捨てて「自分も不完全な人間だ」との謙虚さを持つことが大事でしょう。「他を教えることは、自分を教えること」ほかになりません。たとえば、五つの事柄を相手に理解させるには、自分自身がその三倍の十五をマスターしていないと、相手を納得させることはできません。他者を指導すると思っていたのが、実は自分を向上進歩させる縁であった、と気づくとき、指導者冥利がこの上なく有り難く感じられて、謙虚になり、人徳にも自然に恵まれてくるでしょう。」
  • 日本人の稚拙な精神の根源「正しい宗教は、導き方と教え方の表現はおのおの異なっても、「人間の生き方」を示す点においては一つです。日本人は恥ずかしく悲しいことに、世界に例を見ない「宗教音痴」です。日本人はとかく「オカルトイコール宗教」と思いこんでいます。こんな宗教知識では、とても日本人は本当の国際人になれないでしょう。「エコノミックアニマル」と言われるのも、要するに信仰や信心を持たないから、傲慢や利己心のとりこになってしまうのです。(略)
    「こだわらない」のと「無関心」とは違いますから、はっきり区別する必要があります。現代人の中には、生れたときは氏神様へ参り、結婚式はキリスト教で挙げ、死んだらお寺の墓へ葬られることに違和感を持たない人もあるようですが、これはこだわらないのではなく、正しい宗教知識を持っておらず、無関心であるというべきです。正しい宗教知識をもって初めて、「こだわらない信心」が得られるのです。というのは、信心は純粋でなければなりませんが、純粋心が高じると排他的になります。排他心は宗教心でないことは明らかです。
    純粋心と排他心とをより高い立場で統一してこそ、高次の宗教心、こだわらない宗教心と宗教的態度が創造されるのです。」
  • 顔形美しく化けても言葉・声・音への無神経さによって醜悪極まりない女が激増している日本「(作曲家で盲目の)宮城道雄さんはこう語られます。「私は、すべてを声で判断する。夫人の美しさ、少女の純な心とかは、その声や言葉によって感ずるわけである。声が美しく発音がきれいであると、話をしている間に、春の花の美しさとか、鳥の声をも想像するのである」
    人間も学問を深く広く修めている人ほど、
    話す声も静かで、決して声高で聞こえよがしに話さないものです。」

  • 沢庵 とらわれない心/廣済堂出版
  • 仏道の法門は無量。その寛容性と他宗教以上に排他性を排除したところに仏道の真髄ありき「人間の宗教心の相性はさまざまです。同じ釈尊の教えを信ずるにも、浄土教の教えにかなう人と、禅門の思想の方が受け入れられる人と、人それぞれの仏縁があります。それは宗旨や宗派の優劣ではありません。(略)
    人間の心はまた複雑です。同一人の身中にも浄土門の教えがとけ込める部分と、禅の教えがわかる部分とが共存します。ですから、浄土とか禅とか、いわゆる自力と他力とかいうふうに、短絡的に、対立的に割り切れるものではありません。この事実がわかれば、
    自分の信奉する宗教を最高だと思いこみ、そして他の教えを劣っていると非難できるわけがありません。(略)
    宗旨宗派それぞれの特異性を具えますから、他宗教の教義や思想を謙虚に学ぶのが、真実の仏教者でしょう。
    宗教の世界でも、自分の信ずる宗旨に変更するのを「宗我」といって好みません。釈尊は常に他の宗教の悪口を言ってはならぬ、と弟子たちに強く戒めておられました。」
  • 禅のテーマはこれである「「自己とは何か」と、外に出はなく常に自分の中に自己を極めるのが禅のテーマです。これを「己事究明」(自己を徹底的に追求して自己を明らかにさとること)といいます。この己事究明のテーマを「胸間に掛在(胸中にたたみ込む)」しなかったら、どんなに寺門が栄えても、多数の参拝者が群れ散じても、長時間の坐禅や読経をしても、苦行をしてみても、それは正しい禅ではない。」
  • 現代の軟弱な風潮の批判「忍耐できない自分の精神構造のひ弱さを、聞き覚えの既成用語でカバーするのが、今の風潮のようです。いわゆる人権は主張できても、それでは自分の完成を自分で放棄することになります。」


  • 人は必ず死ぬ/主婦の友社
  • 私の標榜する「progressive life」は「開発する人生」。それには感動力が重要です「よく、「考え方を変える」といいます。しかし、私は、「変える」のではなく「開発する」ことがたいせつだと思っています。深く自らを開墾し、耕し、切り開くことが大切なのです。そして開発するためには、感動する力が必要です。現代人は物事に感動する力が弱くなっているのではないでしょうか。体力も、使わなければ低下するように、精神力、感動力、忍耐力も、いつも発揮していなければ退化します。だから、ちょっとしたことですぐカッときたり、「キレ」たりするのです。」
  • 死は人ごとではないという自覚を今からもつことが懸命な人生「この世に別れを告げるのは、誰だって悲しいものです。愛する家族も残さなければなりませんし、仕事も中途半端で終わらざるを得ません。しかし、それでも、死は否応なくやってきます。しかも、何の予告もなく突然やってくるのです。その意味では、私たちは死刑執行猶予中の死刑囚であるともいえます。(略)
    結局、死の問題を解決するとは、死を恐れる心の解決です。」
  • 悟りとは心の底から肯定くこと「仏教でいう「悟り」とは、「物事の道理を明らかに知る」ことですが、それはいわゆる知識ではなく心の底から深くうなずくことです。(略)
    人間を救うものは、神や仏ではありません。自分自身が心の底から深くうなずき、「ああ、そうだったのか!」と目覚めること以外に救われる道はないのです。」
  • 先祖の考え方「ご先祖様が全ていい人ばかりとは限りません。私たちの血の中には、いい血も悪い血もいっしょに入っています。ですから、法要とは先祖の過ちを生きている私たちが正すことでもあります。先祖の過ちはただし、よい行いには感謝する。それによって、わたしたちも成長する。さらにそれを、子孫に伝えていくことによって、人間がだんだん良くなっていく。」
  • 仏凡同居(ぶっぽんどうご)「私たちは、自分の中にさまざまな「因」を持っています。素晴らしい人間になれる可能性を秘めているのです。私たちの心の中は、「仏凡同居」というように仏と凡夫が同居しています。私たちの中には、凡夫のままで終わる可能性も、仏となる可能性もあるのです。」

2005年6月19日日曜日

美輪明宏 ~共感した名文・名文句~

もともと彼の本には深く共感するところがありましたが、まさか松原泰道師の「南無の会」の主要メンバーであるとは想像できませんでした。後からそれを知って、なぜこの人の書くものに共感できたのか、納得がいったのでありました。根底にあったのは仏道であったのです。


  • ほほえみの首飾り 南無の会辻説法/水書房
  • 信仰をもつのに宗教教団に入る必要はありません「私はかねがね、特定の教団のメンバーになることと信仰を持つということは別ですと申し上げております。というもの信仰はあくまでも個人のものであり、仏教でいうならば、それは釈尊の教えを直接、自分個人の人生に反映させていくことだと思うからです。そして釈尊の教えと私とを結びつけてくれる手助けをするのが教団であったり寺であったりするわけですが、悲しいことに教団にはどうしても自教団中心のエゴがつきまとい、それが人々をかえって仏教から遠ざけてしまうという皮肉な結果をもたらしているのが現状です。」
  • 原宿・六本木の格好だけ中身なし人種について
    「戦時下では鎖国状態になって、美とか教養とか、そういうものは一切的であるということで、全部抹殺されて灰になってしまいました。戦後はそれから立ち上がるはずだったのですが、本当はいまだに立ち上がっていませんね。ファッション一つとってみてもそうです。私は原宿あたりの竹の子族なんというのにうろたえている若い人たちに「あんたたち、ナウいナウいなんて新しぶっているけれど、そんなの古いよ」といったことがあります。昔、戦争前に私が長崎で見ていたファッションの方がもっとすごかったんです。(略)いまはファッション産業だヘチマだといっていますけれども、右を見て左を見て流行を追って、みんなと同じ格好をしなければいけないと思っている。(略)
    戦時中のもんぺ姿や、国民服等の制服を着ているのと同じです。(略)
    私が原宿や六本木あたりの人たちとあまり話があいませんのは、着ているものだけでお洒落をしているつもりになっているからなんです。それでナウぶっているのですが、中身はスッカラカンの方が多いのです。
    着るものの話と人のうわさ話だけで、あとは何もないんです。そしてしゃべる言葉も一色ですし、内容も一色で、何もかも一色なんです。そのくせ、他の街の人たちを見下したようなところがございまして、エリートみたいな意識を持っているわけです。」
  • 言葉の汚さは時代の変化で許されるものではない。下品は時代に関係なく下品である
    「最近では、
    マンガのせいだと思いますが、女の子たちが男言葉でしゃべりますね。しかも、乱暴な非常に次元の低い言葉でお互いに喋り、男の子たちもそれがかわいいみたいに思っていますね。そして家庭でそういう言葉を使っても、親たちが何とも言わない。古いようですが、私はそれは大間違いだと思います。(略)
    日本の言葉というのは、その時その場に合わせていろんな言い方があったり言い回しがあったりという、それほど豊かな言葉なんです。
    言葉というのは豊富にあった方がいいので、いろいろな言葉を生活の中で駆使して、親子でも使いあっていれば、家の中も楽しくなると思いますけれども、最近はどこの家でもみんな一種類の言葉で、言葉を楽しむということがないんですね。そのへんが日本人の心が貧しくなった理由のひとつだというふうにいえると思うのです。」
  • 演歌の醜さ
    「最近はどうでしょう。このごろの演歌の歌詞なんか聴いていると、鳥肌が立ちますね。ちっとも建設的ではないんですね。あの世の世界の浮かばれない霊がいるような歌ですよ。そんな歌を家の中で歌ってご覧なさい。背後霊がいるような顔になってしまいますから。」
  • 自分の中の遥か昔から蓄積された大宇宙を自覚する
    「『父親のあんな血が私の身体に流れていると思うと、ときどき夜も眠れなくなるんです。私もいまにああなるんじゃないかなと思うとノイローゼになりそうです』というのですが、『何いってんの。あなたはお父さん一人の子じゃないでしょう。父方の父方系統だけが先祖じゃないんですよ。あなたの血液の中には何百人何千人というひとの血が流れているのよ。あなたのお父さんにもお母さんにも両親がいるでしょう。その人たちにもまたそれぞれの両親がいるのよ』と答えました。そうやってさかのぼると、日本中に何百人何千人という先祖が出来ますね。中には徳の高い人格者もあれば、馬鹿もいればきちがいもいる。そういうふうにあらゆる人の性癖や因縁や歴史や血が全部自分の中に入り込んで、身体の中をめぐっているわけです。つまり、自分自身が一つの宇宙なのですね。けれどもみんな、自分をたった一個の完結した人間だという風に誤解して考えています。」
  • 結婚は最大級の修行の一つ
    「親子といっても兄弟といっても、たまたま同じ家計の家に前後して生れたにすぎなくて、魂、精神、考え方、人格は全く別々の人間の集合体ですね。そういう二人以上の人間が一つ屋根の下で暮らすということは、もう我慢と忍耐と努力以外の何物でもないわけです。まじめに考えればこれはたいへんな修行です。(略)
    「結婚って大変なのよ。するんだったらよっぽと心構えができてどんなことが起きてもビクともしないという覚悟ができてからしなさいよ。(略)」と私が言いますと「そんな先のことまで分かりませんよ」という返事が返ってきました。(略)
    とにかくすごくイージーなんですね。ままごとのように考えている。(略)
    女性は死にに行くようなつもりで覚悟して行ったものなんです。戦時中の物資がない時代、本当に食べ物もない状況の中で、子供が五人十人とあっても何とかやれた。それははじめから覚悟が出来ていたからですね。そういう覚悟というものができていれば、おいそれと離婚したり、子供をほったらかしにするということはしないわけです。(略)
    けれども最近の若い母親というのは、自分の感情のおもむくままに子供をひっぱたいたり、一緒になってケンカをしていますが、私は、「ああいう母親が殺されるんだな」というふうに思ってみております。」


  • 親子・夫婦も土足でふみいることは許されることではありません
    「何もかもさらけだすのが親子だという方もいらっしゃいますが、それはなれ合いですね。なれ合いをしなければ親しくない、水くさいという変な考え方をする人がいるんですが、それは横着からきているんです。自分がきちっとしていなければいけないのが面倒くさいから、どんなにだらしなくても相手に受け入れさせたい、認めさせたいという横着な、怠け者の心理からきているんです。(略)家庭というものはなれ合いの集団ではありません。相手の心の中に土足でズカズカ踏みいるこということは、他人は自分の持ち物ではないのですから許されないことなんです。」
  • 信頼していることを恩着せがましくいう人間のウラは、こういうことです
    「信頼するということは、相手にべったり頼ってしまうということです。(略)
    「あれだけ信じていたのにあの人はひどいことをした。私を裏切った」とお怒りになったり、嘆かれたり、人を一切信じられなくなったりということをよく言われます。でも、それは信じて頼った、つまり
    信頼した方がおかしいのであって、相手にべったり寄りかかっていたから、そういう結果になったのです。そもそも人間というものは、顔が違うように、考え方も生き方も思想も別々の人間の寄り集まりで、一つの家庭といっても違う人間の寄り集まりにすぎないわけです。みんな別々なのに「私の子供なのに・・」とか「オレの女房なのに・・」などと言いますが、自分の女房だからと言って、全く同じ思想、同じ性癖、同じ好みでないといけないと思うと言うことはファシズムであってヒトラーと同じです。(略)
    「もう人が信じられなくなった」という人がおりますが、自分を信じられない人が他人を信じることが出来るわけもないのです。」

  • 上流階級=大名を美輪明弘氏はこう見る!
    「私は認めませんね。だって考えてもご覧なさい。大名なんていうものは、いま生きていたら首が幾つあっても足りないような人たちですよ。切り取り強盗、婦女暴行で電気椅子間違いなしの犯罪人です。尊属殺人なんて平気でやっているでしょう。徳川家康なんてわが子だって何だって全部殺していますよ。国取りなんて格好言い言い方をするけれども、あれはただ単にやくざの縄張り争いにすぎないじゃないですか。大名が親分です。御台所や側室だとかいうけれども、あれは姐さんですよ。武士道だなんていっているけれど、人を殺すのに何か格好をつけなければいけないから、武士道だとか剣法だとか言っているだけですよ。言葉で飾り立ているけれど、端的に言えばあれはただの人殺しです。」

  • お経とは
    「ほとんどのお経には生きるための方便、つまり考え方が書いてあるわけです。現代風に言えば発想の転換と言うことですね。人生の上に生じた苦しみとか哀しみとか怒りとか、そういう色々な煩悩に対処する考え方です。どうすれば楽に生きられるかと言うことが書いてあるのがお経でございまして、なにもそういう呪文のようなわけのわからないものが書き連ねてあるのではありません。」
  • 鏡を見て我が身我が表情を見直して、和顔愛語を実行したいものです
    「とにかく人の眼を気にしないで、鏡があったら自分を必ず映して、自分の表情がどうなっているか確かめることです。鏡というものはうっとりするためにあると思っている方がありますが、そうではないのです。(略)自分の精神状態がどうなっているかを見るためにも使っていただきたいものです。毎日五回はそうやって鏡をご覧になった方がいいと思います。(略)
    それが自分を高めるための方法にもなるわけです。そして、そのうちに誰が見ても本当にいい顔になっていくのです。」

2005年5月24日火曜日

山田恵諦 ~共感した名文・名文句~

第253代天台座主。近年で一番知名度の高い座主で、瀬戸内寂聴も天台宗で彼女の著書内にも頻出するため、知る人も多いかも。分かりやすい説法です。

  • 人生をゆっくりと/PHP文庫
  • 腹を立てないことが人生の理想である「(心臓は)四十億回ドクンドクンとする力をもっているそうです。(略)
    そのくらい心臓は丈夫に出来ている。心臓を大切に、扱い方を上手にすればの話ですけれども。では、どういう扱い方が下手なのか。心臓を痛めるのか。
    一番悪いのは、怒ること、腹を立てることです。その次に悪いのは、心配事などがあって悲しむこと。そして急ぐこと。腹を立てず、悲しみごとがなく、のんびりと生きておれば、必要以上に心臓の鼓動を早めない。負担がかからないからこれがよい。(略)
    気分良く幸せに暮らしたいと想ったら、何も難しいことを考える必要はない。腹を立てず、毎日ニコニコ笑いを持って生活する。そのように努力を積み重ね、工夫をするしかないのです。それがもっとも人間らしい生き方の理想といえるでしょう。」
  • 親子の因縁はやはり仏教の説明が納得がいく
    「現代の人たちは価額で割りきれないものは全部偶然ということで頓けて、知らぬ顔を決め込んでおる。これでは人間関係の一番基本になる親子関係一つ説明できぬ。親は親でたまたまできてしもうたと思うておる。子にすれば、たまたま仲の良い夫婦の間に生れてくれば結構だが、たまたま喧嘩ばかりしておる夫婦に生れれば気の毒や。そばづえくろうて不運じゃったとなる。たまったものではない。親の因果、子に報い、というが、正確には親の因果ではなく、その親に生まれてくる自分の因縁を考えねばならんのです。そして、その因縁は自分自身が引き受けなければならぬ。一方、親の方としては、生まれた子は自分たちが勝手に造ったもの、たまたま出来たものと考えてはいけない。親の因縁だけで子供をとらえるから間違いが起こる。オレの子供なんだからとなれば勝手放題と考えてしまう。慈しんで育てるのではなく盲愛になる。親が子供を支配してしまう。子供道連れの一家心中が多いが、やはり親が勘違いしとると思います。自分の子は確かに自分の子であろう。だが、その子が生まれる因果を造ったのは夫婦二人であっても、その子がなぜ自分たちの間に生れてきたかということを考えねばならぬ。それが因縁の不思議さや。子は親を選んで生れることは出来んが、本当は親だって子を選んで生むことはできん。」
  • 悪を少しでも減らそうという三世思想が仏教の根本
    「なぜ、この世にはこんなに一杯悪事があるんや」と思う人がいるでしょう。善があるから悪があり、悪があるから善がある。(略)
    悪がまったくなかったら、善という概念は成り立たなくなってくる。悪には悪の存在価値があることになる。この世に存在するものには、すべて価値があるのです。(略)
    いま、地球に生息する人間全部を善にしようとしても、できやしせません。それはそれでいいから、少しでも善を増やす努力をすることです。せめて、地球人類の51%を善にすれば、善が進められる。(略)
    ところが、現在、
    世界にある宗教の多くは、こうしたことを教えていません。人間救済と言うよりも民族救済、三世思想というよりも現世中心思想となっている。(略)
    現世中心思想ということであれば、現世に執着し、自分の生きとる間に、すべての結果を求めようとあせることになる。「忘己利他」どころか、自己中心的な「忘他利己」の傾向がどんどん強まってしまう。
    それぞれの宗教には、それぞれの行き方というものがあります。それぞれの民族に合う教え方もあるでしょう。仏教をもっと広めよう、盛んにしよう、ということではありません。(略)
    お釈迦さまがありがたい、伝教大師がありがたい、仏教経典がありがたい、ではなしに、誰も文句のつけようのない尊い教えであり、今の世にとって、あるはこれからの人類にとって欠くことのできない精神であるから、そういうのです。」
  • 善行は自分へ返る
    「どんなことでも、縁のある人は大切にしなきゃならない。「情けは人のためならず」とはよく言ったもので、必ずいつか自分のもとに返ってくる。(略)
    あまりにも露に、自分に利益が戻ってくるだろうという目的意識を持つのは、結局のところ、情けでも親切でもないことになりますから、そういった不純な動機は捨てた方がよい。
    応報がもたらされるという期待などを抱かずに善を行えば、必ず報恩があるということです。」
  • 生かされているという意識が最も重要「自分を生かそう生かそうと考えたからいうて、自分が生きるものではないのです。自分を生かすんでなくて、「生かされている自分」になりきることが大切なのです。自分を生かし切ろうと思うと、どうしても自我が出てくる。自我が出てくると真実が見えにくくなる。真実がよう見えんでは、真実に対応する所作は取れない。つまり、その場にもっとも適した対応がとれんことになる。そうじゃなしに、生かされていく自分になりきろうとした時に、おのずから生かされていることに対する感謝の念が沸いてくるのです。(略)
    あくまでも素直で穏やかな自分になれる。その曇りない心が、真実を見るのです。それが仏の心であり、仏の教えであり、あなた方が仏になるための大道なのです。」
  • 現代医学・医者のありかたはまさにこれである「まず苦しみを取ることが先決だと、その先生は申されておった。(略)苦を除いてから安楽に死んでいったということと、苦しみながら死んだということには大きな違いがある。だから医者は生命を大切にすることは必要であるが、生命だけに忠実になって患者の苦しみを無視することはいけない。まず患者の苦しみを除いてやり、そのあとに生命をいかに持続せしめるかという方法をとる。生命の持続を第一義におくと苦しみは第二になって、非常に悲惨な状態になってくる。(略)
    技術が発達しても、人間の生命力には限界がある。これを仏教では、「定命」というわけです。」
  • 結婚の因縁について「(昔の考え方は)前世からの因縁で結婚するんだということです。こう教えられとれば、旦那さんを大切にするようになりますな。夫婦関係は円満になる。ところが出会い頭の結婚となると、因縁というものの大切さを考えないから破綻が来ます。最近、離婚が非常に高くなっているのもこれが原因です。(略)三世の因縁というものを大切なものとして考えませんと人心はすさんでくる。いまがよければそれでいいやないか、ということになるのです。(略)
    性格の偏った男女が結婚して、また子供を作って、また別れる。またその子が、となって、因果は巡ることになる。これは迷信でもなんでもなく、科学的事実なのです。
    好いた相手と一緒になる。その時は、これ以上の幸せはないと思う。(略)
    しかし、実際にはほとんどの場合、当初の愛情や幸福感を持続させることはできない。(略)
    それはそうでしょう。生まれも育ちも違う男女が、成人してから突然一緒に生活を始めたわけです。互いの立場を理解して、歩み寄っていくしかない。同ぜずとも和する努力が必要なのです。しかし、相手の立場への理解がないと、そうした努力の芽も生れない。自分の立場からだけ物事を判断するから、何もかも相手が悪いとなる。(略)
    この人と一緒にいても不幸せばかりだから、離婚しようと簡単に考える。(略)
    しかも、離婚によって相手も幸せになるのかどうか、そんなことはアホらしくて考えたくもないという。子供があっても、その
    子に与える影響というものを深くは考えない。これでは不幸の種を撒き散らしているだけです。(略)
    こういう不幸な人を、この世からなくしたい。すべての人を幸せに導きたいということが、お釈迦さまの願いです。」
  • 因縁を考え、間を究めること「人間関係は「間」が大切なのです。だから、「間抜け」な人間はどうしようもないといわれる。間をちゃんととらえて物事を処理する人間が人格者といわれることになるのです。ですから、人間関係にしても、仕事にしても、その場だけのものと考えてしまうと、どうしても良い結果が得られない。場当たり的なものは失敗します。連関するということがないから。すべては連関するという考えに立てば心に余裕が生れる。長期的な視野を持つことが出来る。長期的な視野を持てば、一時的な感情に支配されることなく、物事の処置判断が出来るわけです。私はこの因縁というものの不思議を常に忘れずに持っていることが、人間関係を円滑にさせる大切なよすがであると、いつも思うておる。そのためには自分自身をしっかりさせとかなならんと思うておる。しっかりさせるということは心を定めることです。」
  • 宗教を持つ人間が心に深く留めるべき名言「間違ってならないのは、宗派のための宗派、宗祖のための宗派ではないということです。どうも宗派にとらわれすぎ、宗祖にもたれずぎの人が多いようです。宗祖を大切にするというのは尊いことですが、たとえば親鸞聖人を拝み、日蓮聖人を拝んでおれば信仰が厚いかといえばそうではない。断言できますが、いかなる宗祖も、自分を拝んで欲しいなどと望んでおられるはずがない。そんなことよりも、教えを理解して、いまの生活に生かして欲しいと思うておられる。そして、人間としてもっとも美しく、清らかで喜ばしい幸せな道を、一人でも多くの人に歩んで欲しいと思うておられる。」

2005年5月14日土曜日

荒崎良徳 ~共感した名文・名文句~

曹洞宗僧侶ですが、金沢南無の会会長だけあって、宗派にこだわらないスタンスで、大乗仏教としての本質を、平易に、そしてぶれることなく的確に説いてくれます。

  • 修証義を読む 幸福(しあわせ)への道しるべ/図書刊行会
  • 「一億総餓鬼」日本は間近「現在、私たちの日本という国は、未曾有といわれる豊かさと繁栄の真っ只中にあります。しかし、それは物質面に限ってのことであり、精神面においてはどん底の貧困状態に陥っています。連日のように報道される醜悪極まりない事件の数々がそれを物語っています。(略)
    このまま放置しておけば、精神面の貧困は更に悪化して、取り返しのつかない「一億総餓鬼」の地獄国家に陥ってしまうことは明白です。」
  • 江戸思想管理以来、今も疑問を持たずに形だけを踏襲する、根本的保守人間・精神的奴隷ばかりで構成されるこの国家
    「江戸時代、徳川幕府は自らの権威・権力を維持するために、巧妙な思想管理を行いました。誕生・冠婚などの人生の節目の祝い事には日本古来の神道に従い、生きている間の生活規範としては儒教の教えに従い、そして、死と死後のことに関しては仏教の教えに従うように奨励したのです。」
  • 儒教=道徳先行、自分を問うことを怠った日本思想の流れ「江戸幕府が庶民に対して掲げた、生きるための指針としての儒教は、五倫・五常を説きます。(略)
    この五倫・五常を眺めてみますと、社会の秩序を保っていくためには、利用価値充分の徳目であることがわかります。為政者は、この徳目に従う者を善、反する者を悪と断定し、善を進め悪を懲らしめていくならば、社会の秩序は容易に保つことが出来ます。(略)
    しかし、この五倫・五常は
    道徳の範疇に属するものであり、自分を律することは出来ても、自分を問い続けることは出来ません。(略)
    江戸時代には倫理・道徳は栄えたけれども、宗教・仏教はほんとうのはたらきができなかった、ということになります。」
  • 偶然は世に存在しない「世の中にはこのような巡り会いを「偶然」の一言で片づけてしまう人がいます。そのような人は、まことに悲しむべき哀れな人だと思います。(略)
    仏教では、偶然ということを全面的に否定します。すべては縁によって起こり、縁によって生ずると考えます。一見、突然変異のように出現したり、または、無から有が生じたりしたように見えるものであっても、それが生ずるためには
    さまざまな縁がかかわり合っていると考えます。決して偶然ではないのです。」

  • 上面僧侶が充満する時代、三宝に帰すといっても「僧」を想像するのが難しいかも・・「真実の仏法に巡り会うことは極めて難しいことに違いありません。たとえ、寺で生れ、寺で育ったとしても、真実の仏法から遥かに掛け離れた生活をしている、いわば形だけの僧侶が充満している現代です。いかに生きるかということを真剣に考え、そしてそれを人に説き続けなければならないはずの僧侶、言い換えれば、真実の仏法を広く伝えなければならないはずの僧侶が、死者の冥福を祈ることだけに専念し、しかも、それを企業並みの商売感覚で行っている現代では、(略)遥かに困難かも知れません。」
  • 戒名について「仏教でも同じことで「受戒入位」して本当の仏教徒となった人には所謂「戒名」が授けられます。以上でおわかりのように、「戒名」は生きている内にいただくべき名前であり、具体的にいえば「仏教を信じて仏さまの教えに従って生きていこう」と決意したときにいただく名前なのです。従って、厳密に言えば、呼吸や心臓の動きが停止してから戴いたのでは、いささか手遅れだということです。」
  • 仏教に「自力」思想はない!、と曹洞宗僧侶が断言しておられます「仏教を生齧りした人は、「浄土真宗は他力の教えで、曹洞宗は自力の教えだ」などといいます。これは大きな間違いです。自力の教えなど仏教の何処を探してもありません総て「他力の教え」です。何故ならば、仏教のどの教えでも、先ず最初に「帰依三宝」が説かれているからです。つまり、仏法僧の三宝に心からおすがり(帰依)し、自分のすべてをおあずけした後に、坐禅などの修行に励むのです。」
  • 政治の貧困や責任を他人に押しつけて世を批判しても始まらない「今、私たち日本人に欠落しているものを数えれば限りがありませんが、中でも最も欠落しているものこそ、この「三聚浄戒」(摂律儀戒:すべての悪をおこなわない、摂善法戒:すべての善事を進んで行う、摂衆生戒:すべての人々のために尽す)に違いないと思います。(略)
    この三聚浄戒は、仏教徒であろうがなかろうが、人間であるならば何としても守らなければならない根本のルールであるはずです。それを忘れ去り、それをなおざりにしているところに現代の乱れが発生したと思うのです。(略)
    この憂うべき傾向に対して、いわゆる世の識者達はさまざまな提言をしています。しかし、どの提言を聞いても、ほとんど上辺だけの言葉の遊びに過ぎないように感じられます。(略)
    退廃した原因の追求に言及したときは、きまって政治の貧困などをとりあげ、責任者不在の形で処理しようとしてしまいがちです。情けないことです。人間が人間として生きていくための根本理念である「
    悪いことをするな! 善いことをしろ! 人々のために力を尽くせ! それを幼児の頃からたたき込め!」という簡単明瞭なことを簡単明瞭に発言される方はほとんどありません。

2005年5月3日火曜日

中沢新一・河合隼雄 ~共感した名文・名文句~

団塊の世代代表でチベット仏教体得者として特異な位置づけである中沢新一教師と、ずっと上の世代でユングの権威である河合隼雄生徒による肩の凝らない、仏教に関する対話シリーズがあります。

  • 仏教が好き!/朝日新聞社
  • 後段が重要「仏教とは、堅苦しく学ぶものではない、と思う。途方もない誠実さを要求するものではあるが。」
  • 幸福と「安心(あんじん)」は全く別
    最近ではお坊さんも平気で『幸福』という言葉を使っています。よくお坊さんが『人間はどうしたら幸福になれるでしょう』という質問をされているのを見かけます。そこでお坊さんは少し当惑してくれればいいのだけれど、しないんですね。さも当然のごとく『我執を捨てれば、あなたは幸福になれる』と答えるのですが、我執を捨てれば安心は得られるかも知れないけれども、ハッピーになったりはしないだろうに」
  • 金イコール幸福と思っているのが、未だにうじゃうじゃ
    大きい遺産をもらってしっかり安心して生きている人は、もらわなくとも安心している人です。そうでなかったら、絶対何かおかしくなる。
    ところが、みんな漠然と幸福を考えていてよくわからないから、何か金がぽーんと入ってきたら幸福になるというイメージを持っています。現代人は金イコール幸福と考えすぎです。」
  • 人間が最初に思う疑問と最後に到達する疑問を包有するのが仏教
    なぜ仏教が大事かというと、人間の思考の一番の始まりの状態と一番発達した状態というのを、一つに結合できる長所があるからです。この点は、キリスト教などはなかなか頑に出来ていますから、そういう人類の自然な叡智に、すんなりと辿り着くのが難しい。(略)
    イスラム教にもそういう弱点がありますね。仏教の現代性といったら、こういうことなんじゃないでしょうか。」
  •  仏教は一言でいうとこうであるその思想は、常識を粉砕し、権力をものともしない批判力を内蔵している。」

岡本かの子 ~共感した名文・名文句~

岡本太郎の母、という方がとおりが良くても、その息子以上に波瀾万丈の人生を生きた革新的女性は、深い大乗仏教徒でもありました。現代の我々からみても、遠く足許にも及ばない偉大な明治生まれ女性がここにもいたという事実に敬服するとともに、戦前日本人の精神世界の深さと頭脳に触れると、改めて現代人の堕落と人間力の低下に暗澹たる気持ちにならざるを得ません。


  • 仏教聖典を語る/潮文社
  • 因果律の平等なる支配により偶然は存在しない「生命は絶対に自在である。そしてその自在さのままで物とも現れ宇宙間万物を形作っている。このことを仏教の述語では物心一如といいます。(略)
    自在に堪えている何にでも平等に行きわたっている筈の生命がどうして一々の形を取るのであろうか。差別の個性を帯びてくるのであろうか。このことは仏教の方で最も大事なことであります。(略)
    これは
    因果律の支配を受ける為です。そのものになる原因があり、これを助成する縁があって、その結果、そういう特色になって現れるのです。(略)
    この見方からすればどんな瑣末な物事でもその歴史となる因と縁とを排する訳にはいかない。
    世の中に何一つ偶然ということはないのであります。」
  • 世のすべてにおいて、自分と無関係な物は存在しない
    「一つの物事は、宇宙の物事といつも互いに影響し合っている。ただわれわれ人間の洞察力ではその実に何十億分の一しか見えないだけであります。これが華厳経で説明する宇宙の生命の網であります。このことは何を教えるのでしょうか。善にまれ悪にまれすべての物事が自分にも関係がありとするなら総ての物事に対して自分も一分の責任がある。おろそかには出来ない。善に対してはいよいよ助力を惜しむことなく、悪に対してはただ無闇に憎しみ捨てず、自分の一分としてその矯正に努力する。」
  • 岡本流法華経の位置づけ
    「仏教の思想とて一時に完全に出来上ったとはいえないのであります。時にはあまりに冷たい思索に入り込みすぎ人間を化石にしてしまいそうな経文もあります。または、あまりに人情におもねり過ぎ甘い未来偏重の極楽思想で人間の現実生活の価値を捨ててしまうおそれのある経典もあります。かくてさまざまの思索と体験の矛盾に打突かったあと、要するに人間が人間であってみれば、人間中心の現実に踵をちゃんとつけた
    当面の生活に生活の意義を十分置く思想でなければ人間用の思想ではないということに気づき、ここに完成されたのが法華経であります。何といっても仏教では中心となる思想ですから、どの宗派でも多少この思想を取り入れない仏教宗派はなく、ただ以上のような理由からまともにこの思想を振りかざしていくのを敬遠しているだけです。法華経そのものは大文学であって規模の大きいこと、組み立ての複雑なこと、戯曲的であって色彩の華やかな事実で素人には中々要領が掴み悪うございます。」
  • 生死(しょうじ)の問題
    「われわれ生物は母の胎内に宿ったときが生の始め、肉体の生理的機能が泊まって再びとは働かぬ時が生の終わり、すなわち死とみておるようであります。しかし事実そうでありましょうか。われわれを形作っている物質方面の筋道をすこし手繰ってみましても、われわれが母の胎内に宿る前は、両親の肉体の細胞であり、その細胞はまた両親の両親から伝えられた細胞が栄養をとって増やした仲間の細胞であります。殖えた細胞の元となった栄養物といえば皆、体外の物質であります。(略)
    こうして調べてみますと、
    われわれの生の始まりに物質的方面だけでも、いくらでも過去に遡ることが出来、大げさにいえば我々の肉体は神代の瑞穂の稲からできているといっても理は通らないことはありません。(略)
    物質不滅の法則によって、生れたといってこの世界に水素、一原子、減りもせず、死んだといって酸素、一原子、増しもせずただ形を変えるだけの話です。」
  • 一切衆生悉有仏性
    「この言葉は涅槃経にありまして、涅槃の獅子吼説といって、大乗仏教のもっとも円熟した思想の表現された言葉です。くだいて申しますと、この世の中の人間は、一人残らず円満無欠の人格者になる素質を絶対に備えているのだということです。つまり満点の幸福に与る予備資格は必ず持っているのだということです。たださしあたりそうでないのは迷いがあり、修養が足りないからです。(略)
    仏教におけるこの言葉は、
    理智が卓越しており、直感の鋭い釈尊並びにその後継者が身命をかけて哲学し、究理し、全直覚を働かせて捉えた人類の素質の真髄ですから絶対的なものです。外れっこないはずです。ただその結果が現れるのには、人々の修養の程度、因縁の厚薄によって時間的に差ができるだけです。」

2005年4月30日土曜日

隻手音声

隻手音声
(せきしゅおんじょう)。
片手から出る音を聞け、ということ。
声なき声を聞け、という意味。理屈や現象に捕われる人間には至難の業。言葉の裏の意味を読み取ること。
人に説明の努力をさせる前にわかろうとする努力をしましょう。
白隠禅師の公案(2005/04/30)

一切衆生悉有仏性

一切衆生、ことごとく如来の智慧徳相を具有する
(一切衆生悉有仏性)

全てのこの世に存在するものは仏性を具有する。
子育てをしていて、本当に子供の可能性に日々驚嘆の連続であります。子の目覚ましい成長を見ていて、保護者(飽くまで社会通念上の)としての親の教育したもののは欠片程度、生来「仏性」を持っていなければなし得ない、そんな驚異的な、自分の力など微々たるものであり、生まれついての力を持っているのが人間なのだと、思う他、納得できる回答はありません。正にこのことの自覚なくして子育てはできません。そう考えれば私の子育て期に仏道に痛く共感することになったのは、因縁生起に他なりません。
涅槃経(2005/01/08、2005/4/30)

2005年3月1日火曜日

明珠在掌

明珠在掌
明珠掌にあり(みょうじゅたなごころにあり)。自分は既に手の中に宝を持っている。手の中を見ようとせずに、まだ遠くに取りにでかけようとしている。(2005/03/01)

知足

知足
足るを知る。これが最も幸せに近い人間である。
現状が不十分であると苛立ちを覚えたら、不満を言う前に、この一言を思うことです。足るを知るのです。
足を知ることは分を知ることでもあります。分限を知るのであってケチではありません。足を知るには「少欲」を知ることが必要。豊かさの消化不良を起こさず、豊かさを十二分にいかして行くには、積極的にものを生かすことに心がける。一枚の紙にも一滴の水にもいのちがあると知ることです。
(2004/12/23、2005/03/01)

2005年2月19日土曜日

四苦八苦

四苦八苦(2005/02/19)

すべては苦であるということを認識してから、仏教の思想は始ります。それを明確に分けたのがこの四苦八苦です。日常で使われていても、中身はあまり知りません。
釈尊は、人間は「必ず移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、無理な執着をつくりだすのだと説いています。
「人生は苦である。」と断定したことは決して悲観的・厭世的(えんせいてき)なものの見方を教えたわけではなく、「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうという事を断ぜられた真意はここにあります。
現代生活に即して云えば、酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その
原因を見つめる態度が大事であるという事です。このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが仏道をならうことにほかなりません。


  • 生きるということは苦である。

  • 老いていくいうことは苦である。

  • 病気にかかるということは苦である。

  • 死んでいくということは苦である。
  • 愛別離苦(あいべつりく)
    愛するものと別れるのは苦である。
  • 怨憎会苦(おんぞうえく) 
    怨み憎む者と会うのは苦である。
  • 求不得苦(ぐふとっく)
    求めても得られないのは苦である。
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく) 
    五蘊とは色・受・想・行・識のこだわりの苦しみ。人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)で感じるものや心で感じる人間の肉体や精神活動すべてが物事にこだわりをつくる苦しみ。 

2005年2月15日火曜日

百不知百不得

百不知百不得百不知百不得(ひゃくふちひゃくふえ).。
何でも知っているとか何も知らないということを超越した人のこと。知らないということにコンプレクスを持たないこと。
分からないということを隠さないことが大事です。知らないことは尋ねれば良いし調べれば良いのです。その知識こそ、実際はどうでも良いものかもしれませんし。知らないと恥だとか、これは常識だとか、自分で勝手に作り上げていないでしょうか。知ったかぶりが最悪なのであります。(2005/02/15)

2005年2月14日月曜日

智恵波羅蜜(般若波羅蜜)

智恵波羅蜜(般若波羅蜜)(2005/02/14)

迷いを断ち、真理を悟ること。または諸法の究極的な実相を見極めること。深い洞察力、物事を正しく見る力。前述の五波羅蜜の実収の結果得られるものといえる。

波羅蜜それぞれを実践するには、これまで私たちが常識だと信じてやってきたことを、もう一度別の視点で見直すことが必要だといえます。常識や世間体にがんじがらめになった生活を、もっと風通しのよい生活にする。これが本当の智慧ということなのでしょう。

2005年2月10日木曜日

禅定波羅蜜(禅波羅蜜)

禅定波羅蜜(禅波羅蜜)(2005/02/10)

心の動揺・散乱を対冶して心を集中し安定させ、真理を思惟すること。「禅」とは「静かな心」、「不動の心」という意味。「定」は心が落ち着いて動揺しない状態を指す。一般的に禅定の意味は、坐って心を静かに落ち着け集中すること、坐禅など瞑想すること。
日常のすべての立ち居振る舞いを、座禅と同じように集中して、そのものになりきってせよ、という事でしょうか。

2005年2月8日火曜日

精進波羅蜜(毘梨耶波羅蜜)

精進波羅蜜(毘梨耶波羅蜜)(2005/02/08)

別名、毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)。懈怠の心を対冶して、身心を精励して、他の五波羅蜜を修行すること。「精」という言葉は「まじりけのない」という意味。
「頑張れ」、というのがお決まりの台詞となった戦後の日本人。何につけても自力で立ち上がれという、自力思想ですが、これは「他力」でも書いたようにもはや限界があり、また他力というすべてのものの縁を考えたときに、大いなる勘違いをする元になるあまり好ましくない考えです。精進するというのは、頑張ることと似て非なるものと私は解釈します。他の五波羅蜜をこころに守って日々を過ごすこと、ということであり、怠惰は許されなくとも、「頑張る」必要はないのでしょう。
ただ、一生懸命に努力をする、というのはちょっと違います。静かな落ち着いた心で世の中のことをジックリと見て考えることが精進であると考えます。そうでないと、物事の本当の姿が見えてきませんし、誤った方向へ力を注ぎかねないことになります。
本当の精進、本当の努力とは、当たり前の事を当たり前にし、ゆっくりと着実に努力する事です。
釈迦は必死で苦行を重ねた結果、「中道」に気づかれました。人間らしいゆっくりとした生き方がこれです。

2005年2月2日水曜日

佛教の特異性

宗教比較論は簡単にはできませんが、世界宗教として長い年月の人類の歴史に耐えてきた偉大なる宗教の中で、やはり佛教にしかない特異性というものがあるはずです。それを列記してみると以下のような要素が考えられるのです。



  • 神ではなく人間が主役の宗教である
    仏教は、唯一絶対の神で世界を創造したとするキリスト教やイスラム教の神のような、人間を超越した神の教え(命令)を人々に説き聞かすという形式の宗教ではありません。
    あくまでも人間釈尊が、自らの努力によって到達した心の絶対的安穏(悟り)の体験を人々に示し、またその境地へ至る道筋を自らの言葉で語ったものであるといういわけです。

  • 王子の宗教であることが決定的な違い
    (釈尊の出家までの半生は)王子であるということは、学問や武芸等もキッチリ身につけた、ということを意味します。この点は、仏教の宗教としての性格を方向付ける大変大きな特徴だと思われます。
    というもの、同様に世界宗教とされるキリスト教やイスラム教では、教祖たちはそれぞれの出生や育ちにおいて恵まれることなく、読み書きも出来なかったようです。しかも、彼らは、釈尊のように哲学的思索や人生への反省などは、根本的に問題としておりません。
    それは彼らが絶対神の預言者、つまり神の言葉を人々に伝えるためのスピーカーであり、聖典に収められている教えが、彼ら自身の言葉として語られたものではないという位置づけからも明らかです。(略)
    釈尊の立場は、常に人間の側からの発想なのです。その点が自分を「神の預言者」、「神によって選ばれた人」と位置づけるイエス・キリストやムハンマドとは違うのです。

  • 仏教の現実性仏教はヒンドゥー教のような神や物事を生み出す何か(学問的には根本原理、あるいは第一原因といいます)を認めません。そういう一つの大前提に逃げ込まないと言うことです。
    仏教は、「世界はなぜ存在するか」「自分がなぜここに存在しているか」というような疑問(形而上学的学問に答えを与えない。そういう議論に対しては意義を認めない。

  • 仏教伝播の原因、地域の信仰とぶつからなかった理由悟りの世界、真実の世界は言葉で表現可能であるという仏教の基本姿勢は、その後数々の言葉に仏典が翻訳されることを可能とし、仏教が世界各地に伝播する原動力となった最大の理由です。
    また仏教の誕生に他の宗教の神が深く関わったと言うことは、仏教が世界各地に伝播したとき、それぞれの地域の固有の信仰と争うことなく、共存或いは融合することを可能にしたのではないでしょうか。
    このような形は、ユダヤ・キリスト・イスラムというセム的一神教の宗教では難しいのです。
    イスラムでは「コーラン」は決して翻訳してはならず、また翻訳したものは宗教的に無意味なものとされます。イスラム教が勢力を伸ばせば、それは同時に他の宗教の排除、消滅と言うことになります。
    キリスト教の聖書も中世においてはラテン語から英語、ドイツ語、フランス語などに訳されることはありませんでした。
    これらの宗教は同一の唯一絶対神を共有しておりますが、他の宗教の神の存在は原則として認めないので、しばしば宗教あるいは宗派間のすさまじいばかりの抗争を引き起こします。

  • 「あの世」ではなく、この世の日常生活に焦点
    釈尊の目は常に日常生活に向けられ、その関心はこの世における修行であったことは誤りないでしょう。
    これと比較すると、神の国への再生をひたすら願うキリスト教やイスラム教と、仏教(少なくとも釈尊の仏教)とは大いに異なることがわかります。また常に天下国家の在り方を論ずる儒教とも違います。

  • 仏教には宗教戦争は存在しない
    仏教でいう悪魔とは、心のなかに住む煩悩のことで、「仏教の修行を妨害するもの」という意味で用いる。キリスト教やイスラム教の「サタン」のような、神に対決する絶対悪を意味するものではない。
    したがって、仏教にはキリスト教やイスラム教のように殺害することを善とする宗教的敵対者が存在しない
    だから、仏教には宗教戦争が存在しない。

  • 仏教ほど女性が重視される宗教はない
    日本では、仏教は女性を差別したなどといわれますが、仏教ほど宗教の核心部分で女性が重視され、また活躍する世界宗教はありません。
    なぜなら仏教では「勝鬘経」のように女性が教えを説くなどということは珍しくないからです。このようなことは他に例がありません。

2005年2月1日火曜日

忍辱波羅蜜(孱提波羅蜜)

忍辱波羅蜜(孱提波羅蜜)(2005/02/01)

瞋恚(怒り)の心を対冶して、迫害困苦や侮辱等を忍受すること。何かにつけて腹を立てたり、人を恨んだり、また、その怒りや恨みを相手にぶっつけたりすることはおぞましい。忍辱というのは寛容ということ。それは、人に対してだけでなく、この忍辱の修行を積むことによって、天地のあらゆる事象に対して、腹を立てたり、恨んだりすることがなくなることをいう。
自分に侮辱や損害を与え人を裏切るような相手というのがいるものです。親戚に、会社に、近所に、必ず現れます。
そんな非道な人間に対しても、単に怒りや恨みの心を抱かずに、慈悲心から、そういう不幸から救ってあげようとする気持ちが起きるようになる、こういう境地が忍辱行の極致なのでしょう。
無理なことをしてくる相手に対して、仏の教えを知らない理解できない可哀想な人だ、と考えるぐらいの境地までは何とか進みたいものです。この忍辱という精神的習慣が人々の心に浸透できたら、それだけで世の中も平和になることでしょう。

2005年1月23日日曜日

持戒波羅蜜(尸羅波羅蜜)

持戒波羅蜜(尸羅波羅蜜)(2005/01/23)

仏から与えられた戒めによって、悪業の心を対冶して心の迷いを去り、身心を清浄にすることで戒を守る。これらの教えを守り、身を慎むことを律という。総じて「戒律」という。
戒の具体的なものとして五戒十戒がある

「善悪は宗教によってしか教えられない原理です。逆に言えば善悪の原理を教えるのが宗教なのですね。」~ひろさちや「自分が変わる」より~
ここにあるように、時代やその場所によって変わることのない不動の善悪の絶対原則を五戒及び十戒で明確にしているわけです。


十戒=十重禁戒(初めの五つが「在家の五戒」です)(2005/02/01)
1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)     殺さない
2. 
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)     盗まない   
3. 
不邪淫戒(ふじゃいんかい)      邪まな淫欲を犯さない
4. 
不妄語戒(ふもうごかい)       嘘、偽りをつかない
5. 
不飲酒戒(ふおんじゅかい)      酒を飲まない、売買しない
6. 
不説過罪戒(ふせつかざいかい)    他人の過ちや罪を言いふらしてはならない
7. 
不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)   自分を誉めない、他人を謗らない
8. 
不慳貪戒(ふけんどんかい)      財や法を施すのを惜しまない
9. 
不瞋恚戒(ふしんにかい)       怒って相手が謝っても許さない事のない様に
10. 
不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)   三宝(佛、法、僧)を謗る事を許さない