2006年10月31日火曜日

【白骨の章(蓮如御文章)】

宗教家として行き着くところまで行ったと言える親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。蓮如の弟子への手紙が次の実如により五帖目八十通に編纂されたのが御文章(本願寺派の呼び名。大谷派では「御文(おふみ)」)です。今でこそ、「歎異抄」が浄土真宗=親鸞教の真髄のように言われますが、歎異抄が日の目を見たのはつい明治時代のことであり、浄土真宗が民衆に広く深く受け入れられていった最大の貢献者はこの「御文章」があったからといっても過言ではありません。
この「白骨の章」は、五帖目第十六通に位置し、生死の「死」を考えるには、実にストレートで強烈な印象を与える一節であります。

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて、
夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。


あなかしこ、あなかしこ。

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御文章は、「聖人一流の章」以来、2年近くぶりの挑戦でした。浄土真宗本願寺派のある寺のホームページにすべての御文章がmp3で掲載されているのを発見して、ようやくこの気になる「白骨の章」の音源を手に入れて、今回の暗唱に辿り着きました。しかし、五木寛之氏、肉親の葬儀の時に、最も心に響いたという「白骨の章」は、その死のとらえ方がしっかりと仏教の考え方であるのですが、空しさが強調された作で、葬儀で耳にすれば、(意味がしっかりとわかるが故に)、いたたまれない気持ちになるのもよくわかります。(2006/10/31)




2006年10月23日月曜日

【三帰礼文】

仏法僧の三宝に帰依するということは、宗派に拘らず仏教徒の基本事項ですが、三宝に帰依し礼拝するというのがこの三帰礼文です。
道元禅師は特にことのことを強調した日本仏教の祖師の一人で、「三帰礼文」は私は曹洞宗から学びました。
他、「三帰」といったり、読み下しだったりとほとんどの宗派で読誦しているようです。

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自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意

自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海

自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙

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曹洞宗の読経方法はあたかも化け物が出てこんばかりに荘厳(おかしな表現ですが、異常に重々しく、特に大人数で地の底から這うような暗さを持つ読誦法をするときは本当にこの表現に詐りありません)なのであります。この三帰礼文も大した迫力でした。(2006/10/23)



2006年10月11日水曜日

内山興正 ~共感した名文・名文句~

昭和の傑僧「宿無し興道」の愛弟子にあたる方ですが、元々キリスト教を極めてから仏道に辿り着いたインテリ出身だけに、深遠な洞察と、実践第一の姿勢が名僧ぶりを伝えます。曹洞宗と臨済宗の根本的な相違点を明らかにしたのは、この方以外に知りません。
人間の業の洞察と宗教とは何かと徹底的に突き詰めた答えを求めた僧としては、最先端を行っているといってもよい、今日の露出度の高い○内○聴や△有△久とは対極にある、富や名声を実生活で否定し続けたまさに「本物の僧」です。


  • 坐禅の意味と実際~生命の実物を生きる/大法輪閣
  • 真の仏教がない日本「思えば、今の日本社会にとって、仏教という宗教はまことに奇妙な関係に立っているといわねばなりません。(略)
    「仏教という名の元に」すばらしく多くの事柄が登場してきましたし、同時に仏教という名の元に大変多くの文化財がのこされてきております。そしてまた
    仏教という宗派の元には、現在でも葬式や祈祷などの伝統的因習がひろく伝承されてきています。しかし、それらが真実の宗教としての仏教そのものと、一体何の関係があるのか。もし人生を導くところの真実の宗教としての仏教というものから見たら、おそらくそれらは、ほとんどすべて無関係だといわなければならないでしょう。そして事実いまどき、なお、自分は仏教徒であると任じている人たちにおいてさえも、「では仏教徒はどういう宗教ですか」とたずねてごらんなさい。ほとんどまったくそれに応えられる人はいないのが実情です。(略)
    日本人全体としては、仏教という名の元に真実の仏教とはおよそ無関係なことを、あまりにもたくさん行いすぎていて、ついに仏教そのものとは完全にすれちがって、出会わなかったのだといった方があたっているでしょう。」
  • いくら人生の意義を語っても、所詮は玩具遊びの延長であることを知る「我々の一生は玩具遊びの一生であるように思われます。赤ちゃんとしてホギャアと生れる。そのときからミルク瓶の乳首が玩具遊び第一号でしょう。少し大きくなればぬいぐるみの動物とか人形とか。さらに大きくなれば組立機械、カメラ、自動車など。それに年頃になれば異性。さらに勉強とか研究とか、商売熱心とか、名利追求とか。あるいは競争、スポーツ。すべて玩具遊びならざるはありません。そうして死に至るまで、玩具を持ち替え持ち替え、一生玩具遊びだけで終わってゆきます。いま坐禅は、こうした一切の玩具遊びなし、ただ「自己ぎりの自己」という生命の実物であることです。」
  • 生命の実物としての我々は、我々の思い以上のところで存在しているという事実を認識する、それが坐禅「生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、普段の我々は小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)それが坐禅なのです。」
  • 他人と自分との関係「われわれ人間がすべて同じ世界に住み、同じ考えでいると思いこむとしたらそれは大間違いです。たとえ同じ言葉を使って話が通じているようにみえるときにさえ、通じているのはまったく抽象された一応の意味だけなのであって、現ナマの生命体験としてはまったく異なった世界に住み、おのおの自己ぎりの自己の世界を生きているのだといわなければなりません。」
  • 権威は一切認めないのが仏道「禅仏教は、自己以外のいかなる権威も認めません。これは釈迦以来の伝統です。釈迦自身、彼の最後の教えとして、「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依することなかれ」と弟子たちに教えました。(略)彼は彼の生を生きるのみであって、決して彼が多くの帰依者や弟子たちの信仰の対象となることを拒んでいます。これが彼の根本的な人生態度でした。」

  • 普勧坐禅儀を読む 宗教としての道元禅 / 大法輪閣
  • 坐禅は功徳を求めるためにやるものではない「坐禅についての色々な功徳についても同じことがいえます。度胸が良くなる、頭が良くなる、健康になる、頑張りがきく、勝負に強くなる、スタミナがつく・・・そういうようないろいろな功徳も、一応みんな結構に聞こえるかも知れませんが、同時に誠に中途半端、不徹底だということも事実です。そういうことは、すべて浅薄な我々凡夫の欲望の延長でしかないからです。(略)
    たとえば、金持ちになりたい、そういうことをあなたが一生の願いにしていらっしゃるなら、そのあなたの願いは、大財閥の御曹司に生まれた人にとっては、フギャアと生まれたとたんから成就されているでしょう。貧乏生まれのあなたは誠に不運で、お気の毒だったといわねばなりませんが、その運の悪さを取り返すために、一生を費やすということは、人の一生としてあまりにもばからしい気がするじゃありませんか。(略)
    しかもそういう生き方において、もう一つばからしいことは、今あなたが金持ちになりたい、出世したい、頭がよくなりたいと思って一生懸命努力なさってもせっかくそれが実現した頃には、それらすべてをこの娑婆世界に置き去りにして死んでいかねばならないのだから、まったくお気の毒です。そう考えてみればこれらの
    望みがいかに中途半端、不徹底であるかということが、よくわかります。」
  • キリスト教等は契約の宗教とすると仏道は自覚の宗教であります「仏教の根本とは何か・・・。「自己の拠り所は自己のみなり」(法句経)(略)
    「自己が自己を拠り所として、そこに落ち着き、そこに安らう」ということは、仏教としてはもっとも初めからのあり方であって、いわゆる教理や教義成立以前の根本姿勢です。これは
    キリスト教やその他の神話的宗教が「神の前にひれふす」姿勢であるのとは、本質的に異なる姿勢だということがいえます。」
  • 座禅=仏道の本質がこの坐禅方法解説文にみられます「坐禅をするには環境としては、静かなところ(夏は涼しく、冬はあたたかく、刺激の少ないところ)がよろしい。坐禅は決して苦行ではないからです。着物はゆったりとして・・・(略)
    半跏跌座は、ただ左の足を右の腿の上にのせるだけです。結跏趺坐も半跏跌座も、おのおのその反対の組み方をしても結構です。(略)
    人の身体の格好というものは、おのおの一人一人違うのですから、決して坐禅は鋳型に入れたようにあるべきではありません。その人なりに楽々としていながら、しかも正しく気のはいった姿勢であるべきであり、正しく気が入っていながら楽々としていなければなりません。(略)
    坐禅というのはどこまでも宗教であり、宗教というのは全く自己の内面の問題です。(略)
    反則して「ヘンな坐禅」を長年続けていると人格そのものがヘンになってしまいますから、全く恐ろしいことです。(略)
    宗教としての坐禅は、どこまでも自己の内面の問題だということに、ことに気をつけて、絶対に反則しないよう、自己自ら正しい坐禅をしてください。」
  • 宗教の本質宗教が無差別無階級であるべきだということを、金の話までもってきていうと、一番わかりやすいと思うからです(略)。
    金のかかる宗教・・たとえば立派な神殿や寺院建築、およびそれを荘厳する彫刻や絵画などの美術が前提とならねばならぬというような宗教は、本当の宗教からはほど遠くなっていくこともわかるのではないでしょうか。」
  • 臨済禅と曹洞禅についての決定的な分析論!「今日、日本で「禅」といえばすぐ「悟り」と反応するほどに、禅と悟りとは結びついて考えられておりますが、補棟の宗教としての坐禅修行というものは、世人が考えるほどかんたんに「坐禅して悟る」という在り方をしているものではないことは、以上述べたとおりです。それなのに、この両者を「坐禅して悟る」「悟るための坐禅」というふうにかんたんに結びつけて日本人に考えられるようになったのは、なんといっても日本臨済禅の影響によるものだといわなければならないでしょう。(略)臨済禅は悟りのために坐禅するのであって、悟りが第一義である。それに反し曹洞禅(道元禅)は坐禅を第一義としている。それなのに実際に坐禅を良くしてきたのは臨済宗の人たちであって、坐禅を第一意義としている曹洞宗の人たちではなかった。(略)
    曹洞宗において、只管打坐の道元禅を純粋に強く打ち出されたのは(略)澤木興道老師なのであって、それ以前の洞門の人たちはほとんど道元禅を座っていなかったのが残念ながら実情でした。(略)
    とにかく「悟り」というものを高く掲げて、この「悟りのための坐禅」ということで、臨済の人たちは宗旨実際の坐禅を続けてきており、そしてまた、実際に世の中に働く人材もたくさん打出してきました。そのかぎり「悟りのための坐禅」という臨済禅の言葉の方が世間に広く行きわたり「禅」といえば「悟り」と反応するほどになってしまったのだと思われます。(略)
    しかしまた今日の臨済禅は、上に私のいった「普く誰にでも安心が得られ、救われる」ということが絶対条件であるとする、宗教の定義から外れていることも事実です。(略)
    禅を「自分というものの能力をギリギリの最極限にまで磨く道」にまで高めていったとき、日本臨済禅はそれこそ独特の全文かを展開していったといっていいと思います。それで室町戦国時代を通じて、ことに武士たちが好んだ武芸、仕舞、茶の湯、墨蹟、水墨画等を始め、もろもろの技芸、芸道の修行においても、その自らの精神及び能力を極限にまでに鍛錬するという応用の道を開き、ついにはそうしたもろもろの武芸や技芸、芸道における根本精神の本家本物ととして、そn堂央ともなる「悟り」を確立していったのです。(略)
    ところでこのような臨済禅は、はたして宗教であるのかどうか・・・これは結局、宗教というものをいかに定義づけるかに依るでしょう。たとえば、宗教とは死に対する安心立命のところだとすれば、臨済禅はまさにおのがいのちを賭けすることを鍛錬する道であるのですから、勿論宗教であるというべきでしょうが、しかし、もし私が上にのべたような、
    普く安らいを得させ救うというような大慈大悲の門、絶対愛の道こそが純粋宗教であると定義づけるとすれば、少なくとも臨済禅はそのような純粋宗教の道ではない、といわねばならないでしょう。(略)
    それぞれの道において、自分の能力を極限にまで磨き上げるべく修行をしている人たちは多いと思いますが、これらの道においてさえも、その堂央に達する名人、達人といわれる人は、まったく選び抜かれた一、二のひとたちだけではないでしょうか。(略)これはもはや一般庶民には到底およびもつかぬ高嶺の花というより他はありません。もしそうだとすれば、このような禅の道は、とても普門をひらいた純粋宗教とは言えないでしょう。(略)
    日本臨済禅が、自分を極限にまで磨き上げる「極限禅」であり、ただ少数の選ばれた人にのみ許される「達人禅」であるといったのでしたが、これに対し、道元禅師の教えられる坐禅は、どこまでも普く一切衆生のために門を開いた「純粋宗教禅」であるといっていいのでないでしょうか。その点、昔から「臨済将軍、曹洞土民」という言葉がいい慣らされてきましたが、たしかにこの言葉はあたっているのであって、いやそこにはむしろ単なる家風の相違というよりも、もっと本質的な相違があるのだと思います。」
  • ここでいう道元禅の行き着いた先はまさに親鸞の絶対他力に重なります「他宗門でもよく信仰告白とか、法悦を語るとかいって、その人自身のアタマをモノサシとして味わった「いいお話し」をとくとくとしゃべっている人がありますが、じつは自分のお粗末なアタマをモノサシとして考えた話は、いくら「いいお話し」でも、つまり妄想をいっているのでしかないでしょう。こんな信心や法悦、サトリは、それこそちょっとした逆境や危機にでも出会うと、とたんに「信心や坐禅どころの騒ぎじゃない」「神も仏もあるものか」などとひっくり返ってしまいます。本当に「わが思い」をモノサシとして観ることは、どんなよいこと、神仏サトリでさえも危ないものなので、このことをまず徹底的に自分自身において知ることが大切です。(略)
    しかし本当はこの「徹底的に自分自身において知る」ということさえも、まさに自分をモノサシとしていっているのであって、危ないことだといわねばなりません。というのは「自分はそのことを良く思い知った」と言い切った途端に、自分自身のアタマをモノサシとしていっているのでしかないからです。・・・では、まったくの自分の視点をモノサシにせぬ、絶対真実はどこにあるのでしょう・・・結局、私の思いとはどんな場合でも全く偶然の集積でしかないと決定して、和阿ツィの思いを手放しにして坐禅するよりほかはない、ということです。」


  • 天地いっぱいの人生 / 春秋社
  • 何と痛烈な過去仏教批判でありましょう! 感動に眼が潤みました「世の中、物覚えのいい馬鹿もあり、謙遜という形の傲慢もあり、拝まれたいという演技者もあり、聖人君子といわれるひとが盗みをすることもあり、けっして表面的な平面情報を真に受けて、平面思考していて、事が済むものではありません。「一生の姿」という立体思考をせぬ、単調な「有り難や」を善男善女といい、こんな善男善女だけを相手に、きらびやかな伽藍を建て、金のかかった芸術品で飾り立ててきたのが、過去の宗教ではないでしょうか。とにかくわけのわからぬ経を読み、仏教述語で説教し、摩訶不思議の陀羅尼をさずけ、響きだけの禅語で応酬して、それで一体自己の人生と何の関係があるというのでしょう。これに対し、裏も表もあり、どんなことでも起こってくる「この世の中に生きる自分の人生」それぐるみとして、この自己がどう片付くか、これを問題にすることこそが、今後われわれ悪男悪女どもの宗教の問題でなくてはならぬ、と思うのです。」
  • 盲信者たちを一刀両断「周知のように、西洋文明というものは分別工夫を根本にしています。(略)
    しかし、分別知を学ぶ過程で大切なことは、あれかこれかを分別すると同時に、その相互関係を考えるということです。明治以来の学びかたはこの点でも決して悪くはなかった。ところが戦後、アメリカのやりかたをまねするようになって、おかしくなってきた。というのは、かつてアメリカ人たちは一刻も早くヨーロッパ列強と肩を並べるために、科学文明の能率を高めようと、あれか、これか、○か、×か、という方法をあみだした。このやりかたには、あれとこれとの関係を考える手数が省かれている。戦後の日本はこのやりかたをうのみにして、まず教育に採り入れたので、いまの若い人たちの顛には○か×しかない。大切な「相互関係を考える」という能力が抜きになっている。これは皆さんも痛感しておられると思う。
     しかもこの傾向は若い人たちばかりではない。戦後流行してきた
    新興宗教・・・仏教系を自称するものからキリスト教系を名のるものまでいろいろさまざまにあるが、あの連中の考えかたも同じだ。要するに○か×か、○とつけたものは盲信するが、×とつけたものには耳も貨さない。また共産主義者と称する連中も同じだ。もう忘れられかけた浅間山荘事件の連合赤軍の連中は、自分たちだけの閉鎖状態のなかで、互いに○か×かをつけ合って一人ずつ消していった。
    あのまま放置されれば最後にオレー人というのが現れたかも知れない。今日の共産主義かぶれの学生たちにしても、新興宗教の連中にしても、ロをひらけば理屈ばかり並べたてているが、頭の中味はいたって単純、○か×かだけ。あげくのはてか狂信性という共通点まで持っている。(略)
  • これが今退職を迎える2007年問題の「団塊」の若き日の姿であります「おかしくてしようがないのは、近ごろのゲバ学生たちだ。あの連中は口をひらけば「オレの考えでは」というが、その実はどこかで聞いたことか、読んだことばかりだ。二十歳そこそこなら、せいぜい十四、五からあとに覚えたのだから、ほんの五、六年のあいだに聞いたこと読んだことだけでアタマの考えを適当にまとめて、偉そうに「オレの考えでは」などという。そんな連中が「オレの考え」を振りまわし、しかも○か×かできめつけて、おまけに人の意見を聞こうともしないのだから始末が悪い。
  • 学校で会社で、このことがいつも非常に不愉快であります「なるほど日本人はいつも社会的存在としての自分ばかりを気にしている。つまり社会分の一としての自分だけを考えている。しかし、本当の「自分」は一分の一です。」
  • 「仏」とは仏像のことだと思っている人間に対して・・・ こう言い切ることの出来る僧は内山興正禅師しかいない!「仏像はね、これ、お人形ですよ。私も坊主になる前は仏像も多生は有り難いものかと思っていたが、坊主になってみるとさっぱり有り難くなくなった。坊主という奴は悪い奴でね、人前では偉そうに拝んだりしているが、本堂掃除の時には仏さんの顔にぱたぱたはたきをかける。アタマなんか布きれで磨き上げる。なんのことはない。仏像なんて京人形や博多人形とちっとも変わりはしないのだ。京都や奈良では仏像鑑賞ブームが続いているが、あれば本物の仏に出会ったことがないから偽物を有り難がるので、本物を知ったら偽物など見るに堪えなくなる。本当の仏さんは人形ではない。木偶ではない。」
  • 数十年前の成長期に今の日本の惨澹たる価値観の汚泥化を予見していたかのようです生存競争という言葉は実にくだらない言葉だと思う。今の学校教育がくだらないのは、競り合わせて生存競争の稽古ばかりさせていることだ。会社というのはその実践をするところだ。だからあんなグラフのようなものを張り出して競り合わせている。」
  • 子どもを育てる立場になって目覚めた自分が待っていた言葉はここにありました!子供を産んだ、ということを、「これは、とんだことをしたのだ」と思わなければならないということです。「とんだことをした」と思う気持ちがないから、ただ惰性だけでわが子を育てている。これでは困る。子供を産んだことがなぜ「とんだこと」なのか。それは「新しい生命をこの世に送り出した」からです。それも自分たちが夫婦になって勝手に産んでしまった。生まれてくる気があるのかどうか、子どもに聞いて承諾を得たわけではない。子どもにとってはこの世に出ることは甚だ迷惑だったかも知れない。つまり「とんだこと」をしでかしたわけです。(略)
    まっさらな目でみれば、子どもにとって自分が生まれたと言うことは、まったく自分の意思ではなく、ただ親たちの勝手な行為から一方的にそうさせられたわけです。(略)
    いずれにせよ子どもという新しい生命をこの世に送り出しのだから、いま申しあげたことをよく考えて、十分に責任を感じ、この新しい真の生命としてつらぬかせるだけの地盤は、どうしても作ってやらなければならいという覚悟をもっていただきたい。そんな覚悟もなしに、ただなんとなく生んでしまった。かわいらしいからかわいがる。わるさをするから叱る。勉強しないから塾へ通わせるといった無方針な育て方でいいはずはありません。ここのところを誤るなら、その報いは、だれでもない、親であるあなた方ご自身が受けねばならないと言うことを考えるなら、
    これは子どもだけの問題ではなく、あなた自身の問題でもあるのです。事実、子どもというものは、親の人生観、親の生活姿勢、親の生き方に対して、だれよりも厳しい審判者だと言うことを心得るべきです。これが少しでも歪んでおれば、やがて子どもたちは、「お父さん、お母さんの人生観、生き方はここが歪んでいる」とハッキリ突きつけるようになるのです。たとえば、あなたがいつも金、金といいながら生きているなら、子どもはやがてそんな生き方はくだらないと批判して家出するか、それだけの批判力のないつまらない子どもなら、親の貯めた金で身を持ち崩して親を泣かせるでしょうし、そんな親の人生観に共鳴するような愚かな子であれば、やがて親より金の方が大切だと、親を金以下に扱うようになる。これは火を見るよりも明らかです。また、見栄っ張りでいつも世間体のいいことが一番いいことだと思っているような親なら、もし子どもが優秀な子であれば親を批判して出て行くに違いありませんが、子どもが親に似て見栄っ張りなら、当然「親や家族より出世の方が大切」という人間になるはずだし、本人がお粗末で出世できないとすると、ノイローゼになって精神病院のやっかいになるか、あるいはアクの強い人間なら出世のためにやりすぎて、汚職などをしでかして牢屋にはいるようなはめとなる。」
  • 社会というちっぽけな体系の部品にならない「あなたもあなたのお子さんも、個々の人間としては、みな生まれてきて六、七十年、長くても八十年か九十年のいのちを生き、そして死んでいく生命です。しかも社会というのは何千年、何万年前にもやはり人間社会はあった。何千年、何万年後にもあるでしょう。つまり生まれも師にもしない、一つの妙な約束事の体系なのです。とくに現今の日本の社会は変に歪んだ癖のついている約束事的体系で、こんな歪んだものに迎合して、その部品を作ることに専念しているのが、いまの日本の学校なのだといってさしつかえありません。(略)
    階級づけて社会の部品としてはめ込もうというのだから、人をバカにするにもほどがある。これではま
    るっきり人間を生命扱いしていない。まったく社会という体系の部品扱いです。」
  • 受験勉強をまじめにやる人間は最低「受験勉強などをまじめにやっているような子どもは、私に言わせれば「もの覚えのいいバカ」で、しかも闘争性のある獣的人間です。受験勉強のような馬鹿なことは、バカでなければやるはずはないのだし、人と競り合って、人を蹴落とすことに血道をあげるような受験勉強は、獣的人間でなければできるはずはない。子どもにそのような受験勉強をさせるにも、いまの親たちは、まるで電灯のスイッチでもひねるようなつもりでいるとしか思えない。」
  • 知的障害児をもった親に対して「知恵遅れの子や孫をもって不憫に思うのは当然です。しかし、よその子どもたちと比べて、親までが悩んでは、子どもさんがあまりにかわいそうではないか。知恵遅れに生まれついていると言うことは、世間並みからみていうわけで、子どもさん当人にとってはそれが「いのちのすべて」だ。他の子どもたちと比較してどうこういうべき問題ではない。(略)
    そういう子どもの親としては、その子の「自己自身」「生命自身」の立場に立って、子どもを励ましながら、ともに生きるべきではないか。それにはまず「世間並み」を標準とする目をはずして、そうではなしに、いま与えられている生命を自己自らとし、この自己自らの生命を精一杯生きるという「生命力そのものの目」にまで転換させるべきではないか。」
  • 仏法の仏法たるゆえん(私の「なぜ仏道なのか」参照)がここにも明きらめられています「仏教のお経として最古のものといわれる「ダンマ・パダ(法句経)」には「自己の依りどころは自己のみなり」とある。これば仏教という宗教の根本姿勢です。仏教はこの「自己の依りどころは自己のみなり」から出発しています。そこがキリスト教をはじめ他の宗教と全く違うところだ。キリスト教もその他の宗教もまず「神」に依ろうというところから始まる。これが仏教以外の宗教の姿勢です。だが仏教の根本姿勢は「神」を描かない。自己の依りどころは自己のみ、これだ。坐禅もむろん他に依止しない。自己ぎりの自己になることだ。」
  • 生活を考える一つの決定的態度~そして生かされている自分を深く認識する「それにしても今の日本人は、まったく生活に追われ、生活に苦しんでいると思う。生活、生活と、生活のことばかり考えていると思う。これに対して、われわれ宗教に生きる人間は、まず生活というものに決定的な態度を確立しておかなければいけない。生活に追い回され、振り回されているのは、ほんとうの宗教に生きる人間のやることではない。では、生活に対する決定的な態度とはなにか。それは一口に言うと「授かりものだ」という言葉に尽きます。だいたいわれわれがこの生理的肉体を保っていくうえに一番大切なものは何か。エコノミック・アニマルどもはすぐ「カネだ」という。しかし真実はそうではない。一番大切なものはまず空気です。空気がなければたちどころに死ぬ。次には水、あるいは光、温度、重力、気圧、それから食べ物がくる。カネなどはずうっとあとの何番目か何十番目にあげられるべきものだ。われわれ生きものは、なによりも大自然の恩恵の中に生かされているのです。これは「授かり」という以外にいいようがない。いくら貪っても、貯めても、空気が余計にあるわけではない。この俺がカネを出して貯えておればこそ気圧や重力があるというのでもない。もし適当な重力がなければ身体はふわふわと浮いて困るだろうし、適当な気圧がなければ身体が破裂するか押しつぶされてしまう。温度も、光も然りです。ここのところをまず心に刻みつけておかねばならないと思います。それから社会の恩ということです。(略)
    (学生が)「僕たちの世代の人間は、誰だって社会の恩なんて考えていやしませんよ」と付け足した。(略)
    私が教師の立場でその場にいたとしたら、ただちにいってやります。「面白い。社会の恩なんて全然感じないというなら、いますぐお前を素っ裸にして、なにももたせずに山の中に放り出してやる。そこで一人で生き抜いてみろ」と。(略)
    人類社会の恩というものは、そんな浅薄な表づらだけのものではない。早い話がわれわれの身体にまとう布一切れ、食べる飯一杯、住む畳一枚、どれ一つをとっても、長い年月と大変な手数をかけてこそ与えられた、人類社会のたまものです。一枚の布を作るために綿の木を栽培し、糸を紡ぎ、布を織る。そこまでくるのに、人類の歴史において、どれほど長い年月の奥行きがあったか、米や麦にしても然り。木材や鉄にしても然り。金を出して買えばいいというものではない。(略)
    人間社会において昔からの智慧や財産をただで使わせてもらっている有り難さ、またこれらをお互いに融通し合う有り難さだけは、決して忘れてはならないと思います。
    (略)
    自分一人だけで生きておられるものでは絶対ないのだ。
    (略)
    われわれがもし「自分のもの」が一つでもあると思うなら、それだけですでに盗人をしていることになる。ほんとうに俺のものというものは一つもありません。にもかかわらず俺のモノと思いこむのは盗人に他ならない。実際に他にむかって貪りの対象となるものは、あったにしてもたかが知れている。まず九十九パーセント、九分九厘九毛までは「授かり」です。だから全くの手放しでも、九分九厘までの授かりで結構生きていかれるのだ。」
  • 思想であってはならない仏法「「坐禅はアタマの思いをいっさい手放しにするというが、やはり正義とか、平和とか、愛とか、慈悲とか大切ではないか。こういうものを手放しにせずに、よくつかんでおいて坐禅すべきではないか」私はそれは、いけないと答えた。正義を考えるという。ところが正義という観念には中味がある。あなたはなにを正義と考えるか、私はこれを正義と考える、というように、私とあなたとの正義の中味に食い違いが出てきて、はてはお互いに正義の名のもとに殺し合いまでするようになる。現に近頃の世の中では「平和」という名のもとにゲバ棒をふるったり、戦争したりしている。思想というものは必ず見方に食い違いで生ずるのです。仏教ではこれを「見」という。「坐り」といい「証上の修」といっても、決して思想であってはならない。「仏見法見をも立てず」ということが大切です。たとえ仏さま、仏法でも、見として、思想として立てれば必ず食い違ってくる。キリスト教の歴史をみても、キリスト教徒が「愛」という言葉のもとにいかに多くの人々を殺してきたか。(略)
    だから「愛」ということでも、思想として捉えたらもう駄目です。慈悲ということでも同様。ぶっつづきの生命でも、それはどういうことかと考えたら話が食い違ってくる。あくまでもどこまでも、アタマ手放しの「行」でなければならない。思想であってはならない。尽大地、尽衆生、尽一切とは、そのことを示した言葉です。」


  • 正法眼蔵 山水経・古鏡を味わう / 柏樹社
  • 死後の葬式の無意味さは釈尊が既に言っていたことですが、内山興正禅師は見事に僧侶でありながらこのことを断言しています
    「私は師匠である澤木老師の葬式をしなかった。澤木老師は、葬式をするなと言われた。(略)
    だから私は、老師が亡くなってこの方、自慢じゃないがお経を読んだことがない。ただ私のところに、額にはまった老師の写真があるだけです。名前も、安泰寺時代に老師がご自分で書かれた表札をそのまま持ってきて額の横に置いてあるだけ。
    「澤木興道」だけで、戒名もない。私は寝る前にそこに坐り、備えたお膳をかたづけて三拝する。それだけです。要するに、天地いっぱいのものが天地いっぱいのところに帰って行くのだから、別に大袈裟にチンドンジャランと葬式をしてみたってしようがない。だから、死んでから後のことを心配しなくてもいいのだ。死ねば死んだで、どうせどうにかなる。」
  • 生を明きらめ死を明きらめる一つの法「どこかのお寺さんが「水子供養の寺」という広告を出しているが、このごろではまたそいういう生まれる以前に堕ろされる風潮を、金儲けの手段にする奴が流行している。要するに今も昔も、生まれる以前に堕ろされるというのが多いのです。だからわれわれも、これを自己の話として考えるべきだ。この自分も生まれる以前に堕ろされていたら・・というところからみる。これが大切です。みんな一人前の顔をして、偉そうなことを言ったりしているが、なあに、生まれる以前に堕ろされたってどうってことはないんだ。だからあらゆることは、俺が生まれる以前に堕ろされていたら・・・という地盤からみれば、万事解決する。借金作って追い回されて、もう死ぬより他にしようがないという。死ねばいい。生まれる前に堕ろされていれば、何も文句はないのだから。それによくある嫁さんと姑さんの戦いでも左様です。あらゆるもめごと、悩みも苦しみも、生まれる以前に堕ろされたというところから見渡すと何でもない。そこが修行のしどころです。」
  • 昭和の高度成長期にこれだけの洞察力「昔の教育勅語は、「天上無窮の皇運を扶翼すべし」という文句があった。(略)
    この天皇家の家運が天上無窮であるという概念を地盤として、忠孝の道というものが確然として存在し、天皇家に忠節であるということで、その直系の軍人や完了が威張り、さらに親に孝でなければならないということでオヤジが厳然と威張っていたし、学校の先生方も、教育勅語を奉じて教育しているというわけで、当然のように威張っていた。ところが、あの戦争に大敗して、大日本帝国が崩壊したことで、すべてがひっくり返ったしまった。天皇も神ではなくなり、軍人は戦争犯罪者となり、どうにか生き残った役人も、親や教師たちも威張れない世の中になってしまった。だいたい「天上無窮」などという概念が間違いのもとなのです。そういう存在は、あるわけがない。
    すべては無常なのだ。ところがこういう経験を経た現在でも、この天上無窮という概念だけは残っている。昔の天皇概念に替わって、「平和」とか「豊かな生活」とかいう概念がそれです。現在こういうお題目に異議を唱えるものは誰もいない。(略)
    今のお粗末な先生たちは喰うこと、より豊かに生活することが天上無窮だと思っているから、教師も生活のための労働者であると自分から言う始末だ。(略)」
    親たちも同じです。豊かな生活を天上無窮と思いこんでいるから、子どもには不自由をさせまいと、欲しがるものは何でも買い与える。そして高校、大学を出すまでは、
    無理をしても学費を出さねばならないと、子どもを鍵っ子にしてまで共稼ぎをする。そんなことだけが親のつとめだと思っている。これじゃ子どもがうまく育つはずはない。一歩間違うと親を殺しかねないのも当然でしょう。殴られる教師、殺される親、この二つは今の時代の象徴だと思う。」


  • 観音経・延命十句観音経を味わう / 柏樹社
  • 何よりも「人生の行き着くところ」を考えることが即ち人生ではありませんか「自分というものを「当座の生活理想」「当座の幸福」のなかに住まわせる代わりに、「自分の一生の畢竟帰処」「ゆきつく所へゆきついた人生」というものをハッキリさせておくということは、けっしてヨソゴトではないと思うのです。それにもかかわらず現代人は、商売に対する工夫、学問に対する研究、技術に対する研鑽、ないしさまざまな研究工夫のためには、何年も何十年も、あるいは一生をささげるまでやっていますが、自分の一生の畢竟帰処についてだけは、寸暇の時間もさくことを厭うのはどうしたことか。(略)
    まことに現代という時代が、外面的に華華しい文化を咲かせているようにみえながら、その実中味は、原始的野蛮時代から一歩も出ていない象徴的出来事のように思われます。」
  • そしてその「人生」を考えるのが宗教であります「宗教とは何よりもまず、この地上に現れては消えてゆく、無数の生命存在の流れのうちの単なる一個でしかない私が、その流れの中から「私自身」を取り上げて、いったい「わたしの一生の営みは何であったか」「何であるのか」「何であるべきか」と問い起こす、この問題にかかわるものではないかと思われます。」
  • 「真の苦悩」と「金不足」の区別をまずつけること「もしここにお金が沢山あれば片付くような苦悩は、じつは「真の苦悩」というべきではなく、たんに「金不足」と呼ぶべきです。そして真に人生にとっての苦悩とは、たとえどんなにお金があっても「金では解決できぬ苦悩」をいうのでなければなりません。」
  • これも「自分様」の別形態かもしれません「先日も、ナヤミに耐えかねて自殺未遂をいままでに何遍やったとか言う人がやってきました。この人の話をきいてたら、一から十まで自分自身のナヤミのことばかり言っていて少しも人の立場を考えたり、人の立場から自分自身を見直してみる気持ちがないのだという特徴をわたしは発見しました。よくもまあ、こう恥ずかしくもなく自分、自分と自分のナヤミばかりを中心に、すべてをみていられるものだと感心しました。こうも自分、自分といっているのだから、その自分一人くらい何とかしてもよさそうなものですが、実はこう自分、自分とそのナヤミをいとしめばいとしむほど、なおその苦悩は増長し、ますます深く自分自身をもてあまし、愚図ることになってしまうのだから妙なものです。」
  • 本当に「食えない」人はかなり少ないと思います「「わたしの今の収入ではとうてい食えません」と絶望したような顔してやってきた人がありました。「そりゃお気の毒ですね。まあたっぷり食ってください」と玄米の雑炊を作ってすすめたら、妙な顔をして「いや食えないって腹が減っているという意味ではないのです」といいます。「だって食えなければ腹が減っているでしょう」と押し問答の末、だんだん聞いてみたら、何のことはない、その人の家族はお母さん奥さんとの三人暮らしだが、わたしたち寺の生活より二倍以上の収入があり、べつに生理的には腹の減ることはないが、体面や虚栄心がまかなえないというのです。・・・それじゃ「食えない」なんてへんな言葉の評価を自分におしつけ、自分をノッピキナラヌモノにする必要はないじゃありませんか。わたしはその愚かさに対して演説しました。「ごらんなさい。私たち寺の生活も三人で、しかもあなたの半分以下の費用で事実食っていてナントモナイ」と。たしかに人間の構造上、ただ「自分している自分」という正体の他に、世間相場というものをたて、それに浮き身をやつし怒ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりしている私がいることは事実です。しかしそんな大騒ぎをしているわたしを「自己の正体」と思いこむことこそが無明惑というものです。わたしの正体とは三界唯一心・・・そうしたあらゆる世間相場に対してナントモナイところで、ただ「自分している自分」がそれであることは知っておく必要があります。しかもこのただ自分している自己の正体は、世間相場に対してナントモナイばかりでなく、わたしがわたしにむかってする評価に対してすらもナントモナイのだから愉快です」
  • 経文に対する二種類の誤解「(観音経をばからしいという人に対して)なるほどその人に「火」という言葉の中に「物質を焼く火」以上の意味を読み取る能力がなかったとしたら、たしかにわたしがお経の読誦をおすすめしたことは無理でした。(略)
    (火事場で観音経を読誦したら風向きが変わって自分の家でなく向こうの家が焼けて助かった、アリガタイ、という話に対して)「テメエ達の家なんか勝手に焼けやがれ。オレの家だけは助かった。有り難い!」という「信仰実話」なのですから。とにかく
    観音経にでてくる火を「物質を焼く火」以上の意味にとることができないとしたら「バカらしい」といっても「アリガタイ」といってもまったく見当外れすぎることは事実です。」
  • 私の読経の心がここにあります「日々我々のやっていることが、いかなることなのか・・・その容積に拘らず、その組織にかかわらず、またその利口そうな技術にかかわらず、ただ世をあげて三毒の営みに狂奔し、それにひきずりまわされているのでしかないことを見抜くためにも、わたしたちそれこそ一日一度くらいは心静かに「経を読む」習慣を持ちたいものです。」
  • 欲望の充足だけが結局の目的「神仏を信心しているつもりか知らないが、家内安全、身体健全、商売繁盛といっている・・・その限りその拝みさげている心のマトは神さま仏さまではなく、家内安全、身体健全、商売繁盛でしかないといわねばなりません。多くの信心していると思っている人たちも、神仏にそのご利益をカケトリにゆくので、残念ながらもはや「神仏におがみさげる」のでなく、自分の欲望に拝み奉げることになってしまうのです。これにくらべて静寂の禅寺に一日中、ただ黙々として坐禅修行している・・・はなはだ家内安全、商売繁盛より超俗的に見えますが、これも「サトリがほしい」ためにそうしているなら、なんのことはない「サトリがほしい」という欲望他のためにおがみささげているのであって、「サトリ」そのものとはかかわりはありません。(略)
    「わたしなんかは無宗教でしてね。なんにもおがまずなんにもささげないことにしています」・・・結構です。ご立派です。しかしあなたは何を尊しとし、何にあなたの生きている時間を奉げていらっしゃいますか。・・・そう。今はやはり「自由」ですね。ご自分の自由、ご自分の幸福のために、あなたの一生の時間を奉げていらっしゃる。・・・はなはだご立派です。ただしおそらく動物に言葉がありとすれば(略)そういうに違いない。(略)なにが真の自由であり、何が真の幸福なのだか、あなたはよくお考えになっておられるでしょうか。」
  • 「自分」の存在は「自力」では全くないことを自覚する重要性
    「お釈迦様はまず「自分というものをはじめに考えてみろ」とおっしゃいます。・・・だれでも母親の胎内から生まれてきているわけだが、そのだれでもが母親の胎内に自覚的意思を持ってはいり込んだものはないじゃないかとおっしゃるのです。つまり自分というものの、そもそものはじめは「ナントナクわからぬままま」(『無明』)で、ある母の胎内に飛び込んでしまった(『行』)のです。(略)(『識』)そしていまだ肉体と言うほどでないまでも一応自分というものの形が母体のなかで形成し(『名色』)それがだんだんいろいろな機能まで備わってきて、ついに出生してしまう(『六処』)。ところがさあ大変。出生と言うことは、この世に顔を出すことですが、このときまでにもはや男女の性別も出来ており、親からの遺伝までもちゃんと決定しています。しかもこの世に顔を出した途端には、ときには皇太子であったとか、不義の子であったとか、日本人であったとか、ユダヤ人であったとか、癩(らい)患者の子であったとか、先天性小児麻痺であったとか、・・・じつにその人の一生を左右するような大問題まで簡単に、しかし決定的に背負わされていることがよくあります。・・ずいぶんバカにしていやがると思っても仕方がない。(略)
    普通の家庭、普通の人間として生まれた場合・・・いかにも成長以降は、自分というものの自覚的意思を持って「みずからの生き方」を自由に選択することが許されているかのごとくにおもわれます。けれど
    成長以後、はたしてわたしたちは完全に「他からの制約なき自分の意志」をもつことができるかどうか・・・。これは十分考え直してみるべきです。というのはわれわれこの世への出生において、同時に既にうまれた境遇、育つ環境、うける教育、時代の風潮、社会の情勢、その土地の風土、食物などという・・・いわばわれわれが出生以後に触れるあらゆる条件(『触』)というものがほとんど決定的となり、したがってそのなかで経験する生活体験(『受』)もまた決定されてしまっていて、「それらの条件から全く独立した自己」などというものが一体どれほど残される余地があるか・・・これははなはだ疑問とせねばなりませんから。(略)
    とにかくわたしたち他からの制約や強制にしばられて自由を失っているときは、自らが自由を失っているとも分からぬほど他からの強制によって「考えさせられている」ことがしばしばです。・・・ただその一事のためにそれから以後は、まったくオートメーション的ベルトにのせられたまま、結構現在の自分というものにまで至っているのではないこということは、我が身に当てはめて十分考えてみておきたいところです。なるほど私自身としてはいままでの生活体験の中にあって、結構一人前のつもりでいろいろと価値判断し(『愛』)、みずからの生きる道をえらびつつ(『取』)、今日の自分を築いてきた(『有』)つもりでおります。しかしその価値判断、取捨選択するアタマそれぐるみが、じつは過去の遺伝的天賦や性格、教育的吹き込みや境遇環境などの「寄せ集め」であるとすれば、やはり
    結局は、そのはじめの「無明、行」の一事が、すべてのすべてにおいて決定的であるようです。しかもここまでおもいいたれば、これからさきのわたしの生涯もしれているでしょう。やはり「無明、行」の続きで生き(『生』)、またそのつづきで老い死んでゆく(『老死』)だろうという・・・そのことです。お釈迦さまは以上の「無明、行、色、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」という十二因縁の形式で、つぎのことをお教えになりました。つまりわれわれが普段自分、自分といっているところのものが、けっして「自分」という梅干しの種みたいにかちんとしてあるものではなく、じつば
    (一)諸処の条件がよせあつめられてつくられたものでしかないということ(縁起生)
    (二)しかもそのゆうおうによせあつめてつくる主体となるものは、単に「わからぬまま、ウゴイタ」という・・・ただこの一事に始まるものであるということ(無明行)。
    (三)したがってこのままでは、私の一生というものは、すべてこの無明の繋がり的出来事でしかないということ。(流転輪廻)
    この十二因縁の教えは、四聖諦とならんでお釈迦さまの根本教説なのですが、まことにおもえばおもうほど宗教内省としてふかい意味を持っているものです。このことは学問的知識ではありません。おそらく人間が生命をつくりだす程に学問がすすまない限り、このことの学問的立証は出来ないのではないでしょうか。」
  • コントロールをしているつもりが人生・世を無方向にかき回しているのが真実「ダルマ大師は決してこの偶然の中に、自己の生命を托してあがくようなことはなさいませんでした。たしかにダルマ大師の生きる方向は、衆生に法を伝え、迷情を救うということではありましたが、それが実際にどれ程の成果をあげるかと言うことは、まった『偶然に属すること』であって、大師はそんな偶然を、相手にもアテにも決してなさいませんでしたから。(略)
    それに反し英雄達は・・・いや英雄に限らず、今日その辺のどこにでもころがっているボス達は、こんな尽十方界自己のなかに遊ぶところか、躍起となって、目の前の相手を押しのけ突き倒し、
    小さい自己の名誉や地位や金のためにあがきながら、畢竟は無方向に、世の中をひっかきまわしています。」
  • 私の読経の心がここにあります「十句観音経は、中国の六朝時代から随時代にかけて、涅槃宗という涅槃経を所依とした宗派があり、この涅槃宗でつくられた偽経だと言われています。しかし、その中身としてはなかなか偽経どころではない。大乗の修行の極意を圧縮して言っており、すばらしいものです。何もお経はインドで作られたからホンモノで、支那で作られたからウソものというものではない。日本で作られたって、ホンモノと言うこともあってもいいわけです。要は仏法の中身がいかに説かれてあるかということにあるわけですが、その点から言えば、この十句観音経は短いけれど本当によく大乗の修行の極意が説いてあります。」
  • 無宗教は「人間の恥」と思います「いまの日本人達は、じつはいつの瞬間、そのようなことに出会わなければならないのかさえも知らず、得意になって「私は無宗教です」などと胸を張って生きている馬鹿が多すぎる。かわいそうなものだ。無宗教ということ、いまの日本人は知的なことぐらいに思っているけれど、これほど馬鹿なことはない。そんな「私は無宗教だ」と得意になって言っている人が、いま「あなたは癌だ。あと何ヶ月のいのちだ」などと宣告された場合、いったいどこへ自分の心を置いたらいいのか・・・もはやどうしようもない。」