2007年10月14日日曜日

アルボムッレ・スマナサーラ ~共感した名文・名文句~

スリランカから学生として来日して以来、日本の奇妙な仏教国ぶりに目をつけ、釈迦直伝といえる小乗仏教ととかく勘違いをされてしまう原始仏教宗派「テーラワーダ仏教」を布教して20年、ここに来て一気に存在が知られるようになり、出版物が激増。かなり乱暴な説明でげんなりする部分に目をつぶると重要な指摘をしてくれる貴重な存在です。


  • 恐れることは何もない 嘘のない自分で生きていくために/泉書房
  • 以下、全くの同感。私が常日頃最も強く感じることをすべて代弁くださっています「仏教を学んでいくとその教えの新鮮さ、科学性、合理性にはただ驚くばかりです。(略)
    ところが、現在の日本ではこの偉大なる智慧を全く利用しようともしていないのです。(略)

    一度でも仏教の智慧に接したならば、その日から生き方が変わるに違いありません。でも、仏教を学ぼう、知ってみようという人は非常に少ないと言わなければならない。それはハッキリ言ってしまえば、仏教に対する知識、認識が極めて低いからに他ありません。(略)
    一年を通してその生活習慣の中で、仏教的行事は何の抵抗もなく受け入れているというのに、日本では仏教にそして宗教というものに対してある種の偏見が大手を振って歩いているという現実もあるのです。それは、
    宗教に頼るものは心の弱い人間であり、自力で生きることのできない人間であるという誤ったレッテルを貼ってしまうからです。この世に、誰の力も借りずにひとりで生きていけるような人間などどこにもいるはずがありません。人間はもちろんのこと、動物も植物もみな生きとし生けるものはなんらかのかたちで他に寄りかかってこそ生きることが可能となっているのです。」
  • 原始仏教から仏教は退化したというこの論は、形骸化しただけの現在の宗教すべてへの批判であり、それらは全く持って宗教の本質ではないという大変嬉しい解釈を提示してくれています
    「仏教は長い歴史があり、その時の流れの中で様々な宗派が出てきました。(略)
    頭を剃っただけで、心が浄化されたように(略)解釈する仏教の仲間がいます。そのような解釈で格好良さそうな話をしゃべりますが、結局それはお釈迦様の合理的な考え方を形而上学的、神学的に説明するだけです。証拠も根拠もなしに解釈していますから、聞いている人々はただ信じる以外ありません。そういうことから、
    お釈迦様の考え方がひとつ退化して、論理性も実証性もない単なる信仰というものが残ります。衣にしても同じことで、衣を縫うことや染めることが大変な修行であると言い張る仏教の仲間がいます。彼らは衣を縫う前に衣に合掌したり、頭上に掲げてお経を唱えたりという儀式を行います。そういうところから、お釈迦様の教えた合理性や実践性が失われていくのです。」
  • これを日本中に叫びたい気持ちです「お釈迦様はシャラという木の下でなくなったのだから死んだときはシャラの木にならって白色の花を飾るべきだなどといって、お釈迦様の真似をしていったいどうなるのですか。なんの意味もないでしょう。ただ、バカバカしいだけです。(略)
    仏教をちょっとかじっただけの人たちが、お釈迦様は沙羅双樹の下で涅槃に入ったのだ、と牽強付会もはなはだしい
    いかにも宗教的な解釈のように持ち出して、勝手に決まりを作ってしまっただけのことなのです。これは仏教でも何でもない。ただの勝手な解釈です。第一、死んで仏になるなどということもまったくのでっち上げだし、死ぬことはただ単にだれかさんが亡くなったというだけのことでしょう。」
  • 仏法(宗教)を学ぶことは常識を破ることであることの分かりやすい説明「服を着るときも自分を隠す。お化粧するときも自分を隠す。すべてがそうなのです。人間の美学というものは、そういうところに端を発しているのです。なんでも美しくすると言うのは、なんでも本当の姿を隠して嘘の世界を構成することです。これが、人間が生み出した芸術であり文化なのです。仏教を勉強するためには、まずこの人間の文化の概念を破らなくてはなりません。といって、私は人間の文化、この社会というものを否定せよと言っているのではありません。社会は社会、文化は文化でいいのです。それはそれとして、心の勉強はまったく違う次元であるということを理解して欲しいのです。心の勉強、すなわち仏教の勉強では、そういう嘘の世界では理解できません。どんなにきつかろうと、どんなんい汚い自分や恐ろしい現実を見せられても、それに真っ正面から対峙していかなければならないのです。」

  • 感情・心を知る「いちばんかんたんでやりやすい感情を優先して行動を起こす、それが心の性質です。仏教では、そのすぐにやりやすい感情、なんの苦労もなくかんたんにできてしまう感情を、悪、専門用語でいえば「不善」といって戒めているのです。人間の感情には大きく分ければ二つあって、ひとつが何かの現象にすぐ反応する感情です。もうひとつは或る現象が起こってから時間が経過してから出てくる感情、つまり少し落ち着いてからでてくる感情があります。この、時間が経過してから出てくる感情は、だいたいいい感情で「善」というのですが、しかし、この「善」なる感情は大変つくりにくい。(略)
    心の育成の最初の訓練は、基本的に本来産まれてくる感情を使わないことです。そのためには、ちょっとした知恵を使わなくてはならない。仏教の勉強とはまさにその「ちょっとした知恵」を学ぶことなのです。ちょっとした知恵を用いると、正しい感情の使い方が分かってくる。正しい感情というものがどういうものなのかが理解できるようになってくる。
    正しい感情、それはどういうことかといえば、欲張らないことであり、怒らないでやさしい心をつくることであり、人のことを良く理解することであり、人のことを嫉妬したり、うらやましく思ったりしないことです。人間はみんなそれぞれ努力して、それなりの結果を得ているのだから、それでいいではないかという、ごく波静かな感情を持つことです。(略)
    こころを育てるというのは、つまり「ちょっとした知恵を使って不善の言動をしないで、善の感情が生まれるようにする」ということなのです。」
  • 新興宗教等が邪教の理由「お釈迦さまは、人間が育っていくのは、その求める刺激への執着から離れない限り方法はない、という立場でさまざまなことを言われているのですが、日本のある信仰宗教やあるいは日本でも人気のあるチベット仏教の一部など、その人気の秘密は、お釈迦様が「いけない、離れろ」と言われている刺激を、信者に与える方法をとっているのです。これは、実に危険なことなのです。」
  • そして日本の旧来仏教の修行方法が誤っている理由「お釈迦様が戒めたというもう一つの道、難行苦行を極める道を考えてみましょう。(略)
    宗教に対する大きな誤解がここにもあるのです。(略)日本の仏教の中にもよくみられる現象です。(略)
    宗教の中には、断食やら滝行やら、真冬に水を浴びて沐浴することやら、色々な行があるのです。(略)
    宗教に限らず、日本にある文化の中で修行という世界をみると、修行している人々が何をやっているかというと、一般にはやらないことをやっているだけなのです。(略)
    ふだんやらないこと、常識ではバカバカしいこと、結果として大変なことをして、それが宗教の厳粛な行であると威張っているのです。普通の人間にはできないことをするからこそ、それがほんとうの修行、宗教の実践方法だと思いこんでいるのです。そんなことも、ふつうの人間がふつうに考え出したレベルの修行にすぎません。(略)
    この現代でもはびこっているふたつの極端とでも言うべき宗教の選択した道について、お釈迦様は、その教えの最初ではっきりと明言しているのです。真理を知り、正しく生きるための修行は「そのどっちでもありません。からだを苦しませることは修行ではありません。からだを楽しませることは修行ではありません」とおっしゃっているのです。「からだのことは放っておいてください」ということなのです。」
  • 争いをなくす方法=自分が正しいという考えを捨てること、それだけ「世の中には釈迦のありとあらゆる争い、子どもから大人まで、老人まで、ありとあらゆる争いがあるのです。「それをどうするか」と喧嘩を押さえるために、膨大な量の本やら哲学やら生き方があり、施設まであるのですが、それで喧嘩がなくなったかというとそんなことはありません。そんな問題ではないのです。「自分が正しい」というまったくバカバカしい概念を捨てさえすればなんの問題も起こらないのです。そして「自分が正しい」という概念を追い出したとき、そこにまったく違う道が見えてくるのです。もうひとつ別の頭でものをみるということなのです。
  • 人生の目的=なし「我々は人生というものをごまかして生きているのです。嘘で塗り固めて生きている。(略)
    人生には大事な目的があります。その大切な役目を果たすために、あなたは産まれてきたのですよ」という嘘を。もし、これが嘘でなくほんとうのことなら、自分が何のために生まれてきたのかを知っていていいはずでしょう。(略)
    端的に言えば、「人間も動物もこの世に生まれてきたのは死ぬためである」ということになります。」
  • 子どもを見る目「(駅のロープを超えて遊んでいる子どもをみて)
    頭のコチコチの大人たちは、そういう子どもの無邪気な遊びを認めないのです。ロープの張ってあるところは入ってはいけないのだ、それを子どもに教えないで黙って遊ばせるのは躾もできないなんとも情けない親だ、と親をい攻撃するのです。慈しみの目でみれば、子どものなんと可愛い光景であるかをすぐに理解できるでしょう。入ってはいけないところにロープをまたいで入ろうが、
    そんなことはどうということもないでしょう。そんなことにも怒りの心を持ち出して、非難するというのは、私に言わせればもう殺伐とした光景としか目に映りません。」