2005年8月6日土曜日

松原泰道 ~共感した名文・名文句~

語り口と文章の美しさ。そして、使用される単語が多岐に亘り表現力に富んでいること。仏教の解釈が鋭く、非常に重く深く洞察されていながら、難解でない。師の言葉として生きているのです。



  • 観音経のこころ/祥伝社
  • 仏像を拝む意味「鏡を見るのと自分を見るのとが同意味になるように、仏像を拝むのとわがこころを拝むのと同じレベルにあるのです。(略)観音さまのお像を拝むのも、またこの道理によるものです。観音像を合掌して拝む営みは、私たちの身中に埋もれている純粋な人間性の存在を信じ、その人間性(人間の本性・仏心)を開発するのが、仏教語の「信心」です。」
  • 他宗教の『信仰』と佛教の『信心』の違い
    「似た言葉に『信仰』がありますが、信仰は私たちの外側の高所、たとえば天のような所にある権威を仰ぐから『信仰』といいます。仏教の場合は、人間が自分の身中に潜む純粋な人間性を信じ、その機能を開発するのが目的ですから
    『信心』と呼ぶのが好ましいのです」
  • ご利益・霊験の考え方
    「ふだん観音さまを信心しながら、火難に遭う人もたくさんいます。そんなとき、とかく信心が揺らぎがちですが、逆境のときこそ、観音さまからメッセージをいただいたのだ、と受け止めたらどうでしょう。たとえば、火事で焼けたのは確かに不幸だが、この不幸がなかったらあるいま生涯わからなかったかも知れない何かの道理に気づくことができたとしたら、今後の自分の生き方に大きなご利益を得たことになりはしないでしょうか。ご利益、霊験といっても、目に見える物質的なものだけではなく、自分が成長し、人間性が豊かになることこそが最上のご利益・霊験でしょう」
  • 人に恨まれるのも、自業自得
    「自分をねらう悪人とは、実は自分なので、多くの場合、自分自身で作った自作自演の所業です。
    無理をしたり、人を傷つけたり、義理を欠いた言動が積み重ねられて、自分で自分を押し落とすのです。他を恨むよりも自分の足許をよく見詰めよ、と観音さまは教えるのです。」
  • 環著於本人
    「人を咒い、世を呪い、あげくには毒を盛るという異常な行動は現代でもよく見受けるところです。この目に見えない迫害を受けても、心配はいりません。必ず救われるのです。『環著於本人』です。(略)要するに、深い意味で
    加害者の『自業自得』の教えです。」
  • 足るを知ることが叡智である
    「『餓鬼』は、飢渇で悩むとともに、飢渇が満たされてもなお満足しない欲求不満をいいます。それどころか、満たされていることに言いようのないいらだたしさを持つ人のことで、現代語のガメツイ・イライラ・ギスギスといった一連のカタカナで象徴される心情が餓鬼です。(略)
    人の好意を好意として受け取れず、すべてを悪意に受け取り、真実と反対に理解して自分も苦しみ、他者をも苦しめる自我意識の強い人のことです。(略)餓鬼は『足るをことを知らない』心情です。すると、餓鬼の苦から救われるためには、『足ることを知る』叡智を身につけることです。(略)欲望追求は文明を生みましたが、足ることを知る叡智は文化を生みます。」
  • 現代人の畜生ぶり
    「(往生要集の)源信は、さらに畜生の特徴に、愚痴と恥知らずを挙げます。愚痴とは、『知らなければならぬことを知ろうともせず、知らなくてよいことは教わらなくとも知っている』ということです。その意味での無知です。いわゆる畜類は『自分が生きているというとはどういうことであるか、何によって生かされているのかを知らないし、また知ろうとの意欲を持たない』のです。
    現代人は、とかく、どうでもいいことはよく知っています。しかし、大切なことを知ろうとはしません。ただ、『空しく生きている』にすぎないので、この『現代のような生き方』が『畜生』というのです。
    畜類は、害しあい、傷つけ合い、殺し合わなければ生きられない。ときには、共食いをしても恥と思わず、その償いをしようともしないのは、永遠の命を知らず、
    多くの縁によって生かされている大切な事実に無知だからです。」
  • 信心とは何かはこれに尽きるのですが正直実感するのは難しい。私はこの度仏教を学んで初めて知りました
    「『観音さまとは、自分のことである』と申しましたが、それは思い上がりではなく、『気づいておくれ、わかっておくれ』との、私たちを包む久遠の大きな願に気づくことなのです。願うことが願われていることであり、信ずることが信じられていることなのです。ここがわかれば『疑う』という余地はありません。それでも、なお疑念を持つ人は『久遠の大きないのちから願われ、信じられているのが、なぜ自分にはわからないのだろうか』・・・と自分自身に疑いをぶつけてみたらいかがでしょうか。他を疑うことに急なあまり、とかく、自分を疑うことを忘れがちです。(略)
    拝むことは拝まれているのです。いや、あなたが拝まなくても、あなたが信じなくても、そんなことに
    おかまいなく、あなたは拝まれ、あなたは信じられているのです。あなたは、ただそれに気づかず、忘れているだけです。あなたが拝めば、あなたが信じたら、この触れ合いがすぐにわかるのです。」


  • 「足るを知る」こころ/プレジデント社
  • 般若心経の位置づけ「釈尊が初めて説いた原始仏教の思想が、時代を経るにつれて次第に加上されて、より高次の思想になりました。これが『大乗仏教』です。その大乗仏教の思想の真髄である『空』の思想を説く経典が『般若心経』なのです。」
  • 『空』とは「空の思想とは存在の原理であると申し上げたい。それが『無常』であり、同時に『無我』であると言っているのです。仏教用語の無我とは、この世のものは、すべて単独で孤立してあるものではなく、みんな互いに関わり合いがなければ存在することが出来ず、相互に依存関係があって、初めて一切は存在するという意味です。『空』の実体は、時間的には『不生不滅』、質の点から見れば『不垢不浄』、量の面から学べば『不増不減』ということなのです。『不生不滅』は永遠に死なないという意味ではありません。『生と死を相対的に考えて、制を喜び死を厭うという境地を超えるなら、生死に心が奪われることはない』ということです。」
  • 「(空とは)『物事に執着するな』ということであろうと、先取りするかもしれません。しかし、そうではないのです。『とらわれるな』『執着するな』という命令ではなく、むしろ肩の力を抜いて『執着なんかしなくてもすむ智慧』を身につけることをすすめるのです。そうでないと、まことに窮屈な教えになってしまい、せっかくの心経のこころが、つかめなくなってしまいます。(略)
    『空』とは
    『執着しないことにも執着しない』状態を指します。ちょっと哲学めいていますが、禅ではその状態のことを『死にきる』とか『大きく死ぬ』という意味を踏まえて、『大死』と言います。
  • 一念は大切に、二念を防ぐ「喜怒哀楽を否定したり、物事に感動するこころを失ったりしては人間失格です。浄土系の教えで一念、二念といった考え方があります。たとえば、きれいな花を見てきれいだと思うのは当然で、これを一念といいます。しかし、その花を手折りたいとか、盗みたいとか思う第二念が起こる、それを防ぎなさい、というのです。きれいなものは素直にきれいであると受け止めて、その次の気持ちを起こすな、というのです。」
  • 他との関わりを深く認識したいものであります「『俺は自分が頑張って努力したから出世したんだ。誰の世話にもならずに一人で偉くなったんだ』と主張するのは『孤立自存』の考え方です。『空』がわかってこそ、『お陰さま』がわかるのです。『お陰さま』という言葉が自然に言えるようになるには、相当に『他との関わり』を深く認識することが必要です。
  • 子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ「人生論で言えば、日本の古い言葉に、
      子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ。
    というのがあります。(略)
    この『子供叱るな』は、叱る前によく観察をしてみなさいということです。この観察とは、自分を相手に同化させる、つまり子供の気持ちになってみなさい、あなたも子供の時はよくいたずらをしたでしょう、ということ。そうすれば、小言の言い方も違ってくるのです。『年寄り笑うな、行く道じゃ』は、自分より年配のものを見たら、私も年をとったらあの姿になるのだと、一人称で相手を観察しなさいということ。そう観察すれば自然に思いやりの心が生れてきます。これこそが仏のこころなのです。(略)

    これは会社の上下関係にも適応できる言葉ではないでしょうか。上司は部下に、先輩社員は後輩に対して、この気持ちをもちながら接することが大切です。『俺は部長なんだ』とふんぞり返っていては人はついてこない。部下の恩、目下の者の恩を知ろうと努力しない人物は、ちょっとした失敗がきっかけで失脚してしまうものです。『孤立自存』タイプの人間に、大きな仕事はできません
    『自分さえよければ式』の人物は、時に慢心し、人生の晩節を全うすることは難しいようです。
  • しゃぼんだまとんだ やねまでとんだ やねまでとんで こわれてきえた
    しゃぼんだまきえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
    かぜかぜふくな しゃぼんだまとばそ
    「野口雨情の『しゃぼん玉』という童謡があります。(作者が幼い娘を失った時に作った詩であるということの説明があり・・)
    『しゃぼん玉とんだ、屋根までとんだ』これはしゃぼん玉としては長生きのなかのまた長生きです。しかしその一方『しゃぼん玉消えた、とばずに消えた』、そんなはかない、しゃぼん玉もある。そしてさらに、『うまれてすぐにこわれて消えた』とたたみかけます。この言葉に込められた雨情の悲しい心情を思うと、本当に胸が詰まるものがあります。しかし、そこで終わってしまったら、無常観は消極的な人生観で終わり、また無常観に過ぎません。雨情もこのまま泣き伏してしまってはダメなんだと、自分を励ます気持ちで童謡に祈りを込めます。『風、風吹くな』と。これは同時に無常の風をも指しています。どんなに無常の風が吹かないで欲しいと言ったところで、この浮き世であれば防ぎようもない。だが、だからといって諦めてはいけない。そういう厳しい世の中であればあるほど、『しゃぼん玉とばそ』と、積極的に生きよう、童謡を通じて雨情は、子供たちに強く生きることを念じるのです。」
  • 叱言こそ最上の愛語「確かに、家庭でも職場でも大いに心を配ることが大切なのです。特に、『叱る』という行為は難しい。言葉はたとい荒くとも、内容は温かい呼びかけでないと、相手を真から納得させることはできません。よい叱言こそ、最上の愛語なのです。」
  • 豊かさについての思想の構築が重要「現状といえば、ただものの豊かさに溺れていると言うよりも、豊かさの消化不良の症状を起こしています。それは豊かさの底辺に、新しい思想が構築できずにいるからです。その精神的不安定が、戦前の価値観に郷愁を感じているのではないかと思うのです。今わたしたちに課せられているテーマは、この『豊かさを本当に豊かにする思想』を構築することではないでしょうか。」
  • 『仏道をならふというふは、自己をならふなり』「仏道を学習するとは、自分自身を学習すること。道元の非常に有名な言葉です。習うというと、他から教えを受けるような意味に聞こえますが、そうではありません。この言葉を言い換えると、宇宙と人生とを貫く真理を悟った本当の人間になるためには、自分とは何か、と繰り返し繰り返し、納得がいくまで修練を積み重ね、修行をするという意味になります。
    この言葉の後には、『自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり』と続きます。『自己をならふ』とは、自己を忘れることです。自己を忘れるとは、エゴを捨てよということ。エゴを捨てよとは、万法に証を立ててもらうということです。この『万法に証せらるるなり』の一句は、道元独特の表現ですが、平たい言葉で言うと、あらゆる事柄に支えられて生きているという事実の確認になります。
    信仰に熱心な人は、他人から見ると狂信的に見えることがあります。しかし、本当の信心は、狂信のようであって、実は
    覚めたもう一人の自分とも言うべき本心をしっかりとつかんでいるものなのです。(略)
    信仰する人が、『もう一人の自分』をつかんでいないと、その信仰はアヘンになってしまうのです。道元の言う『仏道をならふというふは、自己をならふなり』は、単に自分が修行をするだけでなく、もう一人の自分に出会える事実を教えているのではないかと思うのです。」
  • 陰徳をつむ「人徳を具えるのは『陰徳』を積むことでもあります。禅では特にこの陰徳を重んじ、私も師匠から陰徳の三原則を教わりました。『目立たぬように、際立たぬように、さりげなく』というのです。この三つの精神で具体的にはどのように陰徳を積めばよいかと言いますと、一言で言えば『ものを大切にする』ということです。物品もそうですし、人間関係で言えば人の好意を無にしないことです。(略)
    人の好意を素直に受け取らないと徳は逃げてしまいます。」
  • 『見取見』が横行する現代「とかく、人の世話にはならないとか、人には迷惑をかけないと言い張るけれど、人間の生活において絶対そんなことはできるはずはないのです。仏教的に、特に禅の立場では、自分の見方に固執する思い上がりを『見取見(けんしゅけん)』といいます。エゴ丸出しで自分中心に考えると、独断や偏見が生まれる。それを慎むことが大事だと思います。(略)
    人間は、一人一人、他から影響を受けているし、他に影響も及ぼしています。そんな繋がりの中に個々の人生があると考えるべきです。
    人間は他に迷惑をかけなければ生きられない、大変弱い存在なのです。(略)」


  • 人生をささえる言葉/主婦の友社
  • 指導に大切なのは『対機説法』です「禅の指導者である師家が相手の修行者の程度をはかって、それに相応した説法をすることを対機説法といいます。(略)
    現代の教育にはこの
    「対機説法」の精神がかけているように思えます。人間は指紋が異なっているように、機根(個性)もそれぞれ違います。それを掘り起こし、発揮させることが指導者には求められているのです。
    機根は誰にでも備わっている能力ですが、しかしそれを発揮する「機会」に恵まれなければ、眠ったままです。その機会のことを、仏教では「機縁」といいます。『機縁』とは、仏の教えを受ける人間の能力(機)と、教えようとする仏の願いが出会うことです。」
  • ご利益欲しさは信心ではない「わたしたちは、よく、信心するとご利益があるとか、病気が治るとかいいます。しかし、こういう目的や打算のある信心は『無功徳』です。もの欲しさ、ごほうび、報酬欲しさ、ご利益欲しさにすることは、どんなにいいことをしても、功徳はないのです。禅では、目的と手段をわけません。目的と手段を分けると、目的がかなえられないと、そこに挫折感があります。しかし目的と手段が一つであれば、たとえ行き詰まっても、満足感、達成感があります。(略)
    『何かのために』という、目的を果たす手段ではなく、
    手段そのものを目的とするのです。手段の中に目的を包み込んでしまえば、手段がそのまま目的となります。」
  • 重要なのは、自力・他力ではなく、縁起を意識することである「自力・他力という考え方があります。仏法の大海の中の生け簀(人間)を外から見れば、仏に抱かれている、仏に生かされている、ということで他力になります。いっぽう生け簀の内側にも仏法は内在するという点にアクセントを置いてみれば、自力になる。しかし、他力も自力も、同じ仏の力であることに変わりはありません。私は、他力と自力を区別して考えるのは間違っていると思います。それは、『仏力』を、外から見るか中からみるかの違いでしかないからです。仏教の根本は『縁起』の思想です。釈尊は、『すべてのものや事柄は、無数の原因と無数の縁が、相互にかかわり合う上にもかかわり合って生じ、成り立つのである。他と関係無しに、そのものだけで、自分だけで孤立しうるものは、この世には何一つない』と言っています。仏教には、独力という発想はありません。およそこの世にあるもので、他と無関係に存在できるものは何一つとしてない以上、『自力』か『他力』かと分けて考えることは、あまり意味がないのです。」


  • 釈尊最後の旅と死-涅槃経を読みとく /祥伝社
  • 仏教は人間崇拝とは一線を画す貴重な宗教です「釈尊は生前、つねに弟子たちに『わたしと言う人間を信心の対象としてはならぬ。人間である痿からに私は必ず死ぬ存在である。幽玄なものを信心の対象にしてはならない。私は有限な存在だが、私の悟った法(真理)は永遠であるから、この法を信じよ』と口癖のように言われました。(略)」
    「釈尊の宗教である
    仏教は、教祖中心でなく法中心です。」
  • 形而上的なことを思い悩むことは無駄である「釈尊は、他からの質問に一言も答えずに、ただ沈黙される場合がしばしばあります。これを仏教語で『無記答』といいます。(略)
    現代人でも聞きたがる、死後に地獄・極楽があるか、あの世はあるのかないのか、といった観念的・形而上的な質問には、釈尊はつねに無記答でした。(略)
    質問者が『より重要な問いとは何か』とつめよると、釈尊は静かに『今という時である。今は再び戻ってはこないいのちである。この
    今をどう生きるか、それを私に問え』と諭されるのです。」
  • 自分自身の『丹誠』が重要「古品が新品よりも価値がある、といっても結局は丹誠の度合いです。(略)
    人間でも同じです。よしんば高齢者であっても、口を開けば人の悪口を言ったり、心が邪悪な老人は、釈尊によれば『これ空しく老いたる人』です。空しく老いないために、充実した老いの生活をするには、自分自身の丹誠が欠かせません。すなわち、正しい法を聞き、正しく思いを深め、自分を整えることです。
    自分自身の丹誠は、日々丹誠しつつ生きる現在進行形で、死ぬまで続けて、初めて意味があるのです。」
  • 釈尊に食あたりをさせて歎く男に対して、死の直前の釈尊の言葉「『人の死の因は、病気や事故ではない、生れたのが死の因である。病気や事故は死の因でなく、死の縁(契機)である。一切が死の縁となるから、生き方に心を配りなさい。』」


  • わたしの歎異抄入門 /祥伝社
  • 仏教は報復を否定する「仏教では「怨みに報ゆるに、怨みをもってするなら、怨みは永久にこの世からなくなることはない」(「法句経五」)と説きます。」
  • 来世の存在するという証拠・理由はズバリ・・・「物事を相対的に、対立的に考えるのは、人間の傲慢なはからいです。現世と来世を相対的に考えると、観念遊戯になります。私は現世の存在を信ずると同じように、来世の存在を信じます。昨日があるから今日が、今日があるから明日があるのです。過去の世があるから現在の世があり、現世があるから来世があるのです。私が来世の存在を信ずるのは、この簡単な理由からです。」
  • この心を忘れないでいつも持っていたい「丹那トンネルを通過するとき、ふと気づきました。(略)この工事が完成するまでに、多くの工事犠牲者が出ました。私はその事実にふと気づかされてからは、丹那トンネルを通過する10分間あまりを、黙読で般若心経と観音経の偈を誦経するようになりました。」
  • 自力本願の誤り「多くの現代人は、自分の力の限界をわきまえず、自分の才能や財力、権力などに驕って、自我を逞しくしています。親鸞の言う『自力作善』の過ちを犯していることを、この条で学ぶべきです。」
  • 愚徳を積むことができるかどうかが人間の徳の高さにつながる「いまここで、自分のすべきことを、めだたぬように、きわだたぬように、さりげなく、心を込めてすること、それが『愚徳』の実践です。愚徳を積む行為などは、現代人には無価値の「愚行」に思えるでしょう。たしかに自分のする仕事の結果に栄光を期待しないというのは異様に聞こえます。が、自分のする行為そのものに意味や価値があるならば、結果は如何あろうと別に気にかける必要はなくなる道理です。すると、たとい挫折しても挫折ではなく、失意も失意と思えなくなるのです。」
  • 人生論と宗教心の違いは正にこれ「生きている限り、煩悩は増えても減ることはないでしょう。人生論で言うなら、気づいた煩悩をその都度整理していくことが、大過なく人生を送る方法です。しかしいくら整理整頓しても、果てしのない煩悩がぞくぞくと起きる事実に、我が身を憫れみ、それにつけても我が身を大切に、と願わずにはおれないところに宗教心・念仏も芽生えるのです。人生論との相違がここにあります。」
  • 自分の現在の存在は無量大数の人間の因縁によるものであることを自覚する「私が今この世にあるためには両親が必要です。両親にはそれぞれ二人の両親、あわせて4人の両親があります。両親の数は、代をさかのぼるごとに等比級数的に増えるので、私の三十代前に限っても、私の先祖は累計十億七千三百七十四万千八百二十四人になるそうです。これが私の誕生前歴に一端です。地球上に始めた人類が生じたとされる第三紀中新世(約六千万年前)からの祖先の数は、とても算定できないでしょう。遠い遠い先祖の血を継承して今の私があるわけです。血だけではありません。『血を引く』といわれるように、先祖がした行為(業)は、目には見えませんが、先祖の血とともに積み重ねられて、わたしたちの誕生前歴を築いたのは確実です。先祖の血と業によって、私の誕生前の経歴が出来ている事実に、思いをいたしましょう。それは私だけでなく、誰にも通じる事実です。」
  • 常識と信じて何も考えずに周りにあわせて行動する信心の欠片もない日本人大多数「信心は純粋でなければなりません。日本人によく見る例ですが、子供が生まれるとまず鎮守さまへの宮参りをします。成人式も鎮守さまで行い、結婚式はキリスト教徒でなくとも教会であげ、葬式は仏式でつとめるという『雑炊的信心』は、信仰や信心の名に値しません
    信心や信仰などというと多くの人は、とくに現実的な日本人は、
    現世において自分の欲望がかなえられることを、信心や信仰のよろこびや利益と考えがちです。(略)
    しかし、『人間性を豊かにする』高次の宗教思想と比べて、
    あまりにも次元が低すぎます。親鸞はきわめて合理的な宗教思想を持っていたので、迷信的な行事を悲しむ和讃を幾首も詠んでいます。
    『かなしきかなや道俗の 良時・吉日えばらしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす』
    『道俗』は僧侶と一般人、『天神・地祇』は天神地神。『卜占祭祀』は占いとまつりですが、このような事例は『涅槃経』で戒められているように、仏教の正道ではないとするのです。」
  • 信心の純粋性を保つことと他宗教・他宗派への寛容性を持つことは相反しない「純粋度を保つためにも、他の宗教思想を理解する寛容性を失うのは、その宗教の自殺行為に等しいでしょう。純粋と寛容という相反する性格を、より高い場で統一するのが望ましい宗教性だと思うのです。このことはけっして容易ではありませんが、一つの宗教・宗派を信ずる人は、他の宗教・宗派の思想を家挙に学ぶことにより、自分の信ずる教義が深められるのは事実です。(略)これも業縁のはたらきです。」


  • 人徳の研究「水五則」に学ぶ人間の在り方・生き方 /大和出版
  • 世界における水に対する価値観「日本では「湯水」は、ありあまる物の存在の形容ですが、ドイツには「水なくば、命なし」、オランダやアメリカには「水は賢く使え」、フィンランドには「水は最古の薬」ということわざが古くから伝えられて、そのことわざどおりに、今も水を大切に用いています。(略)
    いまの日本にあっては、水に対する価値観を変えることが肝要です。」
  • 自殺防止法「人は、一生の間だれしもが自殺を考えるもので、それは人生の通過駅の一つとも言えるでしょうが、近年はその時点が早まっています。こんなときはピントのあった励ましが人を自殺から救うのです。相手とピントを合わせるには、それまでと違ったさまざまな角度で接してみれば、必ず心の通じ合う角度が発見できるでしょう。相手の持つ美点を見つけて、推賞し励ますことです。小沢有作先生が「生きることを励ますのが教育だ」とおっしゃっていますが、至言だと存じます。」
  • 指導者の在り方「指導者自身が、思い上がりを捨てて「自分も不完全な人間だ」との謙虚さを持つことが大事でしょう。「他を教えることは、自分を教えること」ほかになりません。たとえば、五つの事柄を相手に理解させるには、自分自身がその三倍の十五をマスターしていないと、相手を納得させることはできません。他者を指導すると思っていたのが、実は自分を向上進歩させる縁であった、と気づくとき、指導者冥利がこの上なく有り難く感じられて、謙虚になり、人徳にも自然に恵まれてくるでしょう。」
  • 日本人の稚拙な精神の根源「正しい宗教は、導き方と教え方の表現はおのおの異なっても、「人間の生き方」を示す点においては一つです。日本人は恥ずかしく悲しいことに、世界に例を見ない「宗教音痴」です。日本人はとかく「オカルトイコール宗教」と思いこんでいます。こんな宗教知識では、とても日本人は本当の国際人になれないでしょう。「エコノミックアニマル」と言われるのも、要するに信仰や信心を持たないから、傲慢や利己心のとりこになってしまうのです。(略)
    「こだわらない」のと「無関心」とは違いますから、はっきり区別する必要があります。現代人の中には、生れたときは氏神様へ参り、結婚式はキリスト教で挙げ、死んだらお寺の墓へ葬られることに違和感を持たない人もあるようですが、これはこだわらないのではなく、正しい宗教知識を持っておらず、無関心であるというべきです。正しい宗教知識をもって初めて、「こだわらない信心」が得られるのです。というのは、信心は純粋でなければなりませんが、純粋心が高じると排他的になります。排他心は宗教心でないことは明らかです。
    純粋心と排他心とをより高い立場で統一してこそ、高次の宗教心、こだわらない宗教心と宗教的態度が創造されるのです。」
  • 顔形美しく化けても言葉・声・音への無神経さによって醜悪極まりない女が激増している日本「(作曲家で盲目の)宮城道雄さんはこう語られます。「私は、すべてを声で判断する。夫人の美しさ、少女の純な心とかは、その声や言葉によって感ずるわけである。声が美しく発音がきれいであると、話をしている間に、春の花の美しさとか、鳥の声をも想像するのである」
    人間も学問を深く広く修めている人ほど、
    話す声も静かで、決して声高で聞こえよがしに話さないものです。」

  • 沢庵 とらわれない心/廣済堂出版
  • 仏道の法門は無量。その寛容性と他宗教以上に排他性を排除したところに仏道の真髄ありき「人間の宗教心の相性はさまざまです。同じ釈尊の教えを信ずるにも、浄土教の教えにかなう人と、禅門の思想の方が受け入れられる人と、人それぞれの仏縁があります。それは宗旨や宗派の優劣ではありません。(略)
    人間の心はまた複雑です。同一人の身中にも浄土門の教えがとけ込める部分と、禅の教えがわかる部分とが共存します。ですから、浄土とか禅とか、いわゆる自力と他力とかいうふうに、短絡的に、対立的に割り切れるものではありません。この事実がわかれば、
    自分の信奉する宗教を最高だと思いこみ、そして他の教えを劣っていると非難できるわけがありません。(略)
    宗旨宗派それぞれの特異性を具えますから、他宗教の教義や思想を謙虚に学ぶのが、真実の仏教者でしょう。
    宗教の世界でも、自分の信ずる宗旨に変更するのを「宗我」といって好みません。釈尊は常に他の宗教の悪口を言ってはならぬ、と弟子たちに強く戒めておられました。」
  • 禅のテーマはこれである「「自己とは何か」と、外に出はなく常に自分の中に自己を極めるのが禅のテーマです。これを「己事究明」(自己を徹底的に追求して自己を明らかにさとること)といいます。この己事究明のテーマを「胸間に掛在(胸中にたたみ込む)」しなかったら、どんなに寺門が栄えても、多数の参拝者が群れ散じても、長時間の坐禅や読経をしても、苦行をしてみても、それは正しい禅ではない。」
  • 現代の軟弱な風潮の批判「忍耐できない自分の精神構造のひ弱さを、聞き覚えの既成用語でカバーするのが、今の風潮のようです。いわゆる人権は主張できても、それでは自分の完成を自分で放棄することになります。」


  • 人は必ず死ぬ/主婦の友社
  • 私の標榜する「progressive life」は「開発する人生」。それには感動力が重要です「よく、「考え方を変える」といいます。しかし、私は、「変える」のではなく「開発する」ことがたいせつだと思っています。深く自らを開墾し、耕し、切り開くことが大切なのです。そして開発するためには、感動する力が必要です。現代人は物事に感動する力が弱くなっているのではないでしょうか。体力も、使わなければ低下するように、精神力、感動力、忍耐力も、いつも発揮していなければ退化します。だから、ちょっとしたことですぐカッときたり、「キレ」たりするのです。」
  • 死は人ごとではないという自覚を今からもつことが懸命な人生「この世に別れを告げるのは、誰だって悲しいものです。愛する家族も残さなければなりませんし、仕事も中途半端で終わらざるを得ません。しかし、それでも、死は否応なくやってきます。しかも、何の予告もなく突然やってくるのです。その意味では、私たちは死刑執行猶予中の死刑囚であるともいえます。(略)
    結局、死の問題を解決するとは、死を恐れる心の解決です。」
  • 悟りとは心の底から肯定くこと「仏教でいう「悟り」とは、「物事の道理を明らかに知る」ことですが、それはいわゆる知識ではなく心の底から深くうなずくことです。(略)
    人間を救うものは、神や仏ではありません。自分自身が心の底から深くうなずき、「ああ、そうだったのか!」と目覚めること以外に救われる道はないのです。」
  • 先祖の考え方「ご先祖様が全ていい人ばかりとは限りません。私たちの血の中には、いい血も悪い血もいっしょに入っています。ですから、法要とは先祖の過ちを生きている私たちが正すことでもあります。先祖の過ちはただし、よい行いには感謝する。それによって、わたしたちも成長する。さらにそれを、子孫に伝えていくことによって、人間がだんだん良くなっていく。」
  • 仏凡同居(ぶっぽんどうご)「私たちは、自分の中にさまざまな「因」を持っています。素晴らしい人間になれる可能性を秘めているのです。私たちの心の中は、「仏凡同居」というように仏と凡夫が同居しています。私たちの中には、凡夫のままで終わる可能性も、仏となる可能性もあるのです。」