2004年12月31日金曜日

正思惟(八正道の二)

正思惟(八正道の二)


正しい意思。
正志・正思ともいい、心の行いを正しくする。自己本位に偏らず真理に照らし物事を考える事。
「意の三悪」を捨て去る意思。三毒
①貧欲 ②瞋恚:怒り ③愚痴

貪欲というのは余分な欲という意味です。「金はあるに越したことはない」「クルマは何台あってもいい」というような際限ない欲のために人間は無意味な苦労や悩みを背負いこんでいることに気づかねばなりません。
怒りの基は、結局自分のしたいことを邪魔されるから怒る、つまり底に欲望というものがあるのです。
愚痴を口にすることで解決することは何一つないし、何よりその人は不快臭を撒き散らすことで疎んじられるだけです。
(2004/12/31)


「出離の思い、怒らない思い、不傷害の思い、である」

2004年12月29日水曜日

正見(八正道の一)

正見(八正道の一)

正しい見解。
自己中心的な見方や、偏見をせず中道の見方をすること。ありのまま観ること。正しく四聖諦(苦集滅道=四つの正しい真理)を見きわめる。八正道の他の七つ(七聖道)の目指す目的がこれである。

普段何かをするとき、仕事でもプライベートでも、すべて今のまま存在していくという仮定に基づいて準備や行動をしています。でも、事実は物ごとはそのまま存在するのではなく、常に変化しているもの、つまり「無常」ということを認識して見ていかなければいけないのだというのが正見です。これが至難の業なのです。できないから嫉妬が生れ、苛立ち・怒り、他者(対象)への欲求不満が渦巻くわけです。「正見」とは無常というものを認める心を持つこと、と常々意識したいものです。具体的に何をもって「正見」することといえるのか、生涯考えながら生活をする癖をつけたいと思います。(2004/12/29) 
「四聖諦すなわち、1. 苦しみに関する智、2. 苦しみの生起の原因に関する智、3. 苦しみの消滅に関する智、4. 苦しみの消滅に導く道に関する智、である」

八正道

八正道(はっしょうどう)

釈尊が説いた「苦」を滅する八つの正しい道。正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の8方法。
「正」とは「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさす。
小我「自分本意」にとらわれて、自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断できる人間となる事を示す道をいう。
ものの見方には現象に現れた「差別の見方」や「平等だけの見方」のどちらに偏っても正しい見方とはいえない。物の本質として現象に千差万別の差別の実相を現すには、それなりの原因や条件があり理由があり無視する事はできない。このように「差別」「平等」に偏らない両者を総合したとらえ方が本当の「正しい」見方やとらえ方となる。

仏教でいう「中道」がまさにこれであります。これはちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の真理の条件・立場に合った最善の方法の見方や考え方ということでしょう。(2004/12/29)

2004年12月27日月曜日

一即一切、一切一即

一即一切、一切一即
一がそのまま全体であり、全体が一だという考え方。一人の中に全体があり、全体の中に一人がある。全体の上に独座した尊厳な一人を自覚することが仏教の一面だが、同時にその一人は、全体のためにすべてを奉げて奉仕する一人でなければならない。
因縁にも通ずる考え方だと思いますが、全体の中の独りとして自分を意識することは、結局はせまい利己主義に走ることの戒めになります。
(2004/12/27)

2004年12月26日日曜日

与仏有因与仏有縁/因果応報

与仏有因与仏有縁/因果応報
原因があって結果(現象)がある。当たり前のことだが二千五百年前までは仏教だけがこのことを重視していた。今もわかっているようで正しい因果関係を認識できないで日々頭や心を痛める人間ばかり。因果関係を知ること即ち智慧があることである。現象があれば、即座にそれを「善し悪し」で判断するのではなく、因を明らかにし、それが「愚かなことか、賢明なことか」を考える。
因果は巡ります。現象に囚われて短絡的に流すことが最も危険です。全ては連動している、それが与仏有因与仏有縁であり、因果応報であります。原因を常に認識して冷静に。(2004/12/26)

2004年12月25日土曜日

三毒(貧瞋癡)を取り除く

三毒(貧瞋癡)を取り除く
貪り執着しない、怒らない、目先に捕われない。
貧(とん)とはむさぼり執着の心であり欲望にとらわれること、瞋(じん)とは怒りのことであり感情的になり自分が制御できない状態のこと、癡(ち)とはおろかということであり目先のことにとらわれ大きい視点に立てなくなること。
この三つの根本的煩悩と逆の人生を歩む。
執着・怒り・近視眼的発想、これらが自らもたらす不幸の全てとも言えます。これを自覚させてくれる仏教とは、何と当を得た教えでしょうか。(2004/12/25)

2004年12月21日火曜日

生死事大無常迅速、各宜醒覚慎勿放逸

生死事大無常迅速、各宜醒覚慎勿放逸
生死事大無常迅速(しょうじじだいむじょうじんそく)各宜醒覚慎勿放逸(かくぎせいかくしんもつほういつ)。
生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進につとめ、無為に過ごしてはいけない。
とにかく時間を有効に。無益なことに費やす時間など六道を輪廻する間から考えればわずかな今回の人生、よく考えてしっかり毎日を噛みしめて過ごしたいのです。
正法眼蔵随聞記(2004/12/21)

2004年12月20日月曜日

仏道に順じたることをなし、順ぜずは行ぜず

人はいかにも思はば思へ、狂人とも云へ、我が心に仏道に順じたらんことをばなし、仏法に順ぜずんば行ぜず
世間の目など気にすることは全くない。
世間を持ち出す人間の発言を分析すると、その人間個人の考え方であることがほとんど。
また世間は極めて無責任な存在。
世間がその時だけの価値観であり、超時代的・超国境的には全く通用しない常識も数知れず。
そこで仏道という行動の基準をおいて厳然とする。
世間の顔色を見てやるかやらないかを判断するほどナンセンスなことはないが、今日の日本人はほぼこの範疇に属する。
人がどう思おうと関係ないではないですか。仏法という一つの人生の指針に照らし合わせて考え判断するのみです。
正法眼蔵随聞記(2004/12/20)

2004年12月18日土曜日

莫妄想

莫妄想(まくもうぞう)
禅宗の「妄想するな」という考え。どんな時も妄想する(心配する、不安がる)ことでものごとは善処されることはない。無業和尚が生涯弟子に対して応えた言葉。
明日の仕事に関してでも何でもそうですが、一つ悩みができ、もしこうなったらどうしよう、まずいな・・・そんなことが頭を駆けめぐりだしたら直ちにこの言葉。まさに、それらは自分が生み出した妄想でしかないのであります。「莫妄想」。これで、あれこれと危惧する思考を停止します。無業禅師(2004/12/18)

2004年12月17日金曜日

一切の有情はみなもて世世生生の父母兄弟なり

一切の有情はみなもて世世生生の父母兄弟なり
歎異抄第五節において親鸞は地球上のあらゆる者は自分の父母兄弟だと言っている。 
人口統計学上、先祖の数を数えると、10代前(約350年前)で1024人、700年前(蒙古襲来時)には104万8千人、菅原道真の時代(1050年前)では10億7千万人、聖徳太子(1400年前)には、何と1兆1千万人となる。その頃の総人口は500万人であることを考えると、祖先は皆血縁関係となる。
計算上では25代前(875年前)平安時代末期に共通の祖先となる。
むかつく人間、邪魔な人間、合わない人間と衝突することは日常茶飯事です。腹を立てて取り返しのつかない行動に出てしまう前に、一度立ち止まって考えます。この「先祖共通説」は大変に有効です。皆家族のようにどこかで繋がっていると思うことが大事です。誰にでも親切にしたいと思う気持ちを蘇らせたいものです。歎異抄(2004/12/17)

2004年12月16日木曜日

自灯明・法灯明

自灯明・法灯明
"自分自身をよりどころにし、その上仏の教えをよりどころにする。”
仏教は一切のことについて命令しない。
釈迦は教えを求める人がいれば誰にでも教えを説き、すでに他の信仰を持っている人が申し出たとき、喜んでその申し出を受け入れ説法をしたが、今の信仰を捨てろとは決して言わなかった。
今の信仰を捨てるか捨てないかは、説法を聞いた上でその人自らが決めることだからである。
仏法を一つの灯明(人生の指針)にするのは良く分かるのですが、その前に自分自身を指針にせよというお釈迦様の遺言。これを知って、まさに仏教は本物の宗教だと直感いたしました。現在までの自分の生き方を全くもって肯定してくれたわけですから。 雑阿含経(2004/12/16)

2004年12月15日水曜日

仏法僧縁

仏法僧縁
八万四千(=無数)の仏の教えの中から自分にあったものを選ぶのがよい。
つまり、佛教とは、無数にある教えの中から、自分でこれだと思う教えだけをチョイスして信じていける自由がある。
仏道を志していくには無数の方法があり、どんなアプローチも否定されないという心強さがあることを忘れないでいたいものです。(2004/12/15)

2004年11月2日火曜日

佛教とは何ぞ哉

仏教とは考え方の一方法

仏教とは、世の中の基準をもって「信じれば救われる」「利益を享受できる」(交通安全、家内安全、受験合格他)というものではない。
生きる上での考え方を提示してくれる一種の思想であり、哲学である、ということが分かった。

それが、世俗の常識的な思考方法とかなり異なっているところがあるため、
内容が人に与えるインパクトは大きい(内容については、「真の仏教の要素」「一般常識に対する仏教的解釈」「世の誤解」を参照)。

ある者は、目から鱗が落ちる経験をすることとなり、ある者はだから宗教っていうのは嫌なのだと嫌悪感に結びついたり、ある者は言っていることが理解できない、ということになる。



底なしの深さ


この事実に、34歳という年齢にして気づくことができた、実感をもって目から鱗が落ちる経験ができたという点において、
仏教との出会いに感謝をする次第である(釈迦は29歳の出家・35歳での悟りという展開であることから全く早いとは言えないが、現代に生きる自分としては今出会えたということはまだ人生先があるだろうことを前提に考えると大変に有り難いと思う。まあ、この思考方法自体仏教的でないのは承知の上でだが)。

具体的に言えば、
日々の精神的な苛立ち・焦燥感を自覚してある意味客観視できるようになったこと、心の持ちようで自分をより良い方向(自身にとって気持ちが軽やか・澄んだ・晴れやかな)、ストレスを削ぎ落としたような形に方向転換点を見つけることができたと思う。
他人から私という人間をみたときも、きっとより良くなっていく、そんな気もする。

とにかく、仏教は底なし沼のように深そうだということは、日々本を読み、考え、瞑想(といっても仰々しいものではなく、考えに耽ることを指す)して実感される。

経典を読めるほどの力はまだ備わっておらず、能力的にも未熟なため、現代の人間が仏教について語る本を片っ端から読んでいるのが現状であるが、その深さ故、共感できる本や話ばかりではなく、納得のいかない話もあるし、語っている人間が既に傲慢の固まりであって、仏教の言わんとするところ既に矛盾していることが明確に指摘できるようなものもある。
また、言葉が難解で、得意げに語られても何の話をしているのかついて行くことさえ出来ない(つまり私への語りかけは完全に失敗しているもの、私に限らずほとんどのヒトは理解できないということも事実と思われるのだが)ものなど、所謂ハズレの本も多々でくわす。
4200の経典(そのうち例えば大般若経という一経典を抜き出しても全600巻から成り立っている)という膨大な経典というのは、釈迦以降(釈迦の時代に経典は一つも成立していないし、釈迦は一冊の書物も書いていない)に後進のそれこそ無数の帰依者たちがその一生をかけて作成したものの集成であるわけだし、日本で言えば更に平安時代と鎌倉時代に革命家とも言える決定打が登場し(最澄・空海・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍のことである)、今日に至っているとう日本人いや
人間の『智』と『心』の歴史を背負っているのがまさに仏教であるわけだから、深いのは当たり前である。
夢中になって数ヶ月でわかるという方がおかしい。
普通の生活の中での工夫が得られる程度のものであるならば、
数千年の歴史に耐えうるわけがない。人がそれに動かされてくることもないし、宗教というジャンルで時代を超えることはできない。
そう、考えてもみれば、世の中の倫理・常識というものは、現代でもところ変われば全く変わるというのに、時代が変わればそれ以上の相違があるに違いないのである。
そう思えば、
時代を超越してきた宗教が(宗教以外の文化もそう)現代の価値観に合致するものである可能性はむしろ希薄であって当たり前である。


損得を離れての世界

損得を離れての世界が仏教である


それでも人は宗教を求めるときは損得を勘定しているほうが主流であろう。
だから
現世の御利益新興宗教(=時代を超えることに耐えうらない)は損得勘定の醜悪な人間の集合体になる一方、既存の超時代的宗教は、損得で手を出そうとすると全くこちらの損得勘定に見合うモノではないから、入信の対象から自ずと離れていくのであろう。

そういう意味で、
誰もがおいそれと入っていける世界ではないな、というのが仏教の印象である。

つまりそこにある思想が、今の自分に必要でない場合(これが今までの自分にもあてはまるのであろう)は、わざわざ仏教を学ぼうとは思わないし、やはりその価値に足を踏み入れることにはならないのであろう。
ましてや仏道の人間である多くの職業僧は、入信への布教活動を公にやっていないし、葬式という場で在家の形だけの仏教徒たちと出会っても、彼らを感心させるだけの法話さえしない。
法事を任せる人間たちの口々にささやかれるのは、「この坊主はベンツに乗ってきたヨ」、であるとか「他ではどれくらいのお布施を払っているのかネ」、とか「お経の長さや戒名の善し悪しは坊主への献金額に比例しているらしいよ」だの、全くもって、仏教の教えから最も遠いとさえ言える汚らわしくも俗と欲と打算と世間の目だけを気にする最悪の状況を生んでいるのが現在の仏教と民衆の関係である。

遠藤誠辯護士(『今のお寺に佛教はない』『真の宗教ニセの宗教』等を著作)の言うように、今のお寺に仏教はもはやなく、最も仏道から縁のないやりとりがそこで行われ続けている。
元凶は檀家制度に始まる政治的戦略として開始した寺と民衆の関係であるという説ももっともである。



仏教との出会い
仏教への入信ルートとして考えられる一つは、臨死体験やそれに準ずる生死を彷徨うような常軌を逸した決定的な体験をせざるを得なかった人が、損得を離れてモノを突き詰めて考え、「生」という本能をむき出しにしてそれと向かい合わなければならないという事態の中で、仏教をはじめとする超時代的宗教の言わんとするところにハッとさせられるのではないであろうか。

自分の場合は何だろうか。
現状にはそこそこ満足をしているはずである。
恐ろしい死の現実と具体的に向き合ったこともない。
家族の長となって、賢明に家族の幸せを一心に思って、現状の人間関係を構築してきた。

しかし、
その先に「無常」というものが存在しているという紛れもない現実、現状の関係維持(私は何事も維持するより展開・発展を目指すタイプの「プログレッシブ人間」ではあるつもりだが)をしていくための責任(というより希望)に得体の知れぬ重圧感を感じ続け、それが「怒り」というもののコントロールを時として失うことにつながってしまっている自分に気づいており、それを騙しだましやっていくことに限界を感じていたというところが本音である。

完全に行き詰まった感がある。

そのようなときに、この仏教に出会う機会を持った。
180度といっても過言ではない、発想の大転換ともいえるこの深淵で底の見えない思想に痛く共鳴したのである。

自力信仰にしがみついてきた自分には今まで他力の意味がほとんどわからなかったし、分かろうとしなかった。
必要がなかったのである。
しかし、ここにきてその逆転の発想に驚愕した。勿論、他力思想だけが仏教ではないので、これも一つの例としてあげたまでである。

仏教自体の本を読み始めたことがスタートとすれば、そのきっかけは何かというと、妻の父の法事に出席したことであろう。
実家においては全くこのような習慣がなかったため、非常に興味深く新鮮であったと同時に、仏教(というより坊主・寺)の胡散臭さを観てやろうという穿った見方を心に秘めて出席したその法事は、意外に読経の時間が短く、その後の説法に時間をとってくださったことに感心した。
また、浄土真宗本願寺派と銘打った寺のパンフレットの横に、戦争に巻き込まれていっている日本の現状に危惧して、武力反対のリーフレットを置いていることにも好感をもった。

坊さんの話は、世の中に流布されていて、あたかもそれを遂行することが人間(日本人ではない)の使命とばかりに宣う常識家をぶっている社会人が蔓延しているが、例えば「大安仏滅」なんていうしきたりは邪道も邪道、儒教やその他のゴッタニで、どこにもその根拠はないでたらめである、とか、葬式に死者に向かって魂が戻ってこないように塩を蒔くなんていうこと程死者を軽んじ、侮辱する行為はない、七回忌、十三回忌とやたらと法事を行い、布施を搾取する寺があるが、そういうものは家族が死者に対しての気持ちが大事であって、どれかを漏らしたら大変なことになる、などという形だけを大事にする風潮はおかしい、と言い切ったことに、拍手喝采したくなった。
お世辞にも話し上手な感じの方ではなかったが、堅苦しさのない寺の雰囲気の中で、
迷信を廃し愚かなしきたりや儀式を否定した法話に、大変好感を持ったのである。
後で浄土真宗が特にそういった迷信を嫌う他宗派とは明確にこういった主張を全面に出すスタンスをもつ宗派であることを知って、成る程と納得をしたのだが、こういった
迷信やしきたりに非常に反感をもって生活してきた私としては、常識家ぶってきた人間たちがいかに根拠もなく非常に狭い世界(人間>日本人>その地域>その宗派くらいの狭い狭い世界)でしか通用しないレベルのものを、あたかも世界共通とでもいわんばかり威張り散らしてきた人間に反吐が出る思いをしてきたことを思い出し、この上なく痛快であった。


バブル崩壊後に見えてきた日本人精神面での稚拙さ

とにかく
周囲のモラル低下に目も覆いたくなるような日本の現状は、暮らしていく中で最大といっても言い過ぎではない程のストレスの元となっている

海外へ行くたびに思う。

先進国の西ヨーロッパ諸国にせよ、旧東欧諸国にせよ、バルト三国、旧ユーゴにせよ、東南アジア諸国や南アジア、同胞東アジアの中国・台湾・韓国をみても、彼らの精神的なレベル、暗黙のモラル、価値観、これらには
金や消費の亡者は悪であるという大原則があり、心を大事にしているというのが目に見えてわかるのである。

物欲の固まりが大手を振って肯定されている姿はこの島国以外では目にすることができない。
アメリカ合衆国は行ったことがないから何ともいえないが、映画やメディアを通してみる限り、日本ほど堕落はしていない。一線を守り通そうとしている良識家が主流であるように思う。

この国の、消費第一・金持ち賛歌・商売のノウハウがすべてという資本主義の盲信者たちを観ていると、
湧き出てくる怒りが抑えきれず、本当に苦しくて苦しくて仕方がなかったのである。



無力な自分という存在に納得をする
しかし、自分としては何をすることもできない

大学時代に世間を知らぬまま流れにのって就職した先が、そういった世界からちょっと離れてモノをみることができる、ある意味自分を殺して不必要な一過性の物を売らなければならないような仕事をしないで済んでいるため、何とか今日まで乗り切ってきている。
しかし、日本の大半は、今もバブルからの脱出を祝い、再度経済成長を待つという全く進化していない発想の中で、自ら若しくは勤める会社の金策に日々頭を悩ませ、現在の生活様式を落とさないことだけを心配する人間が、その思考に基づいてモノを生産し、マスメディアでも情報を垂れ流しているという現実は日に日に酷くなっていくのを黙ってみている他ない。

マスコミの取材のごとく、その日その日の話題を追いかけて、そこで善意のボランティアだかNGO活動だかに没頭する人々を全面否定する気はないが、その方法が善策とはどうも思えない。

それが多大なる国民の迷惑に繋がる例も、イラク首チョンパ事件を始め後を絶たない。
結局は自己満足であって本当にその影響が世をより良い方向に向かわせているとは到底思えない。

イラク占領支配問題でいえば、まず、石油の枯渇に備えて暴君国家が大量破壊兵器も持たない疲弊した国家の全土をボロボロにして、10万人殺したという紛れもない事実がある(その地獄絵や10万人の死者の人生ドラマはTV放映されない。されたら我々はいくら涙を流しても日々胸が詰まる思いをせざるを得なくなるだろう)。
それに対して、米国の天領たる日本国は追随するほかなく、憲法を曲解して軍隊まで派遣したという現在がある。
そして、全土は占領者に対する怒りが溢れかえる無法地帯となっている現在、という前提を考えて、その上で今の日本国籍の人間がすべきことは何なのか考える。

自衛隊の任務として現地で日々身を削る思いで働く人々が現地に還元している種々の影響の方が、前者(NGO等善意に燃える反戦家たち)を超える人助けになっているとも考えられる。
イデオロギーを持ち出せば、きっと前者は自分たちが正しいというに決まっているが。
行動する者が常に正しく、傍観する者は卑怯者というレッテルを持ち出すのも、この国の社会的常識となっている。
しかし、本当にそうか? 大いに疑問があった。
とにかく、巨悪(という表現が適切であるかどうかはわからぬが)に対して本当に無力である自分がある。
仏教は、その自分の無力さが何なのかをまず教えてくれた

そして、私を
最大に苦しめる「怒り」の根底が、我が心の内にあるということを知らしめてくれ、自らを過信して肩を張って懸命に背伸びをして、常に目標に届くことがない自分を責め、苦しめてきた自業自得のなせる業を、自省させてくれる役目を果たしてくれたのである。



仏教への道、第一歩目
まだ正直、この道に足を踏み入れてあまりに間もない、生まれたての赤ん坊のような状況であるから、仕事に没頭せざるを得ない状況におかれれば、お経については頭から完全になくなってしまうし、悪態もつくし、心の平安を失うことは毎日である。

しかし、すぐに思い直す。

仏教のいわんとすることを思い出せ。

心の平安を取り戻して、冷静になれ。

片方に傾きすぎた針を反対に戻す役割として、仏教が私の中に存在し始めたという実感はこの頃沸いてきた。
まだまだ身に染み入っているという境地にはほど遠いが、ちょっと人生の強い味方をつけたような気がする今日この頃である。

ここに書いていることも、2004年の11月初日における感想であるが、きっと精進していく中でまた新たな発見があり、反省があり、きっと安堵の世界もあることと信じている。
濫読を重ねてきたところで、初めて自分の言葉で仏教について語りたいと思うことが出来たので、文字にしてみた次第である。

何事でもそうだが、自分の言葉にできるようになって初めてモノになり始めているといえると思うが、今日が第一歩目という感じだ。
まだまだ「仏教とは」を欠片でも理解できるところには手が届いていないのが正直な気持ちだ。

どんな縁によりこれから物事が展開していくのかは今の自分には想像もつかないが、きっとそれは大いなる宇宙意志と言い換えられる阿弥陀さま(阿弥陀さまなのか観音様なのか仏さまなのか、それすら違いがわかっていないのだからお話しになっていませんね、実は)の取り計らいで、私と仏教との関係をはじめ、すべての物事は進んで消えていくのでしょう。