2006年10月31日火曜日

【白骨の章(蓮如御文章)】

宗教家として行き着くところまで行ったと言える親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。蓮如の弟子への手紙が次の実如により五帖目八十通に編纂されたのが御文章(本願寺派の呼び名。大谷派では「御文(おふみ)」)です。今でこそ、「歎異抄」が浄土真宗=親鸞教の真髄のように言われますが、歎異抄が日の目を見たのはつい明治時代のことであり、浄土真宗が民衆に広く深く受け入れられていった最大の貢献者はこの「御文章」があったからといっても過言ではありません。
この「白骨の章」は、五帖目第十六通に位置し、生死の「死」を考えるには、実にストレートで強烈な印象を与える一節であります。

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて、
夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。


あなかしこ、あなかしこ。

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御文章は、「聖人一流の章」以来、2年近くぶりの挑戦でした。浄土真宗本願寺派のある寺のホームページにすべての御文章がmp3で掲載されているのを発見して、ようやくこの気になる「白骨の章」の音源を手に入れて、今回の暗唱に辿り着きました。しかし、五木寛之氏、肉親の葬儀の時に、最も心に響いたという「白骨の章」は、その死のとらえ方がしっかりと仏教の考え方であるのですが、空しさが強調された作で、葬儀で耳にすれば、(意味がしっかりとわかるが故に)、いたたまれない気持ちになるのもよくわかります。(2006/10/31)




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