2006年8月16日水曜日

【念仏法語(横川法語)】

恵心僧都源信は、日本における念仏仏教の初期の高僧として知られ、浄土真宗の七高僧の一人にも数えられていることから、浄土教(浄土宗・浄土真宗)で馴染みが深いようですが、実はれっきとした天台宗の僧であり、天台宗では今も念仏法語として、源信の有名な「横川法語」を読誦しているのです。

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恵心僧都念仏法語に宣わく。
それ一切衆生、三悪道をのがれて人間に生るること、おほいなるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや。家まづしくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもふことかなはずとも地獄の苦しみにはくらぶべからず。
世の住み憂きはいとふたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは菩提を願うしるべなり。
このゆゑに人間に生るることをよろこぶべし。

信心あさくとも本願ふかきがゆゑに、たのめばかならず往生す。
念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる功徳莫大なり。
このゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。

また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別の心もなきなり。
臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、
来迎にあづかりて、蓮台に乗るときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにして、決定往生疑いあるべからず。

妄念をいとわずして信心のあさきをなげき、こころを深くして常に名号を唱うべし。

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全く現代語訳・意訳が入手できない中での暗記となりましたが、この念仏法語は内容が分かりやすいのが特徴です。しかも、平安仏教時代のものだからなのか、念仏宗初期のものだからなのか、浄土宗開祖法然房源空の「一枚起請文」などに比べると、実に単純な論理構成だし、所謂深い話がないのです。比較でものを語る語り口も、甘いと言えば甘く、宗教たるパラドックスなどは全く見られません。といいつつも、「妄念」というキーワードは他にあまり見かけないだけに、新たな視点を提供してくれた一つの経文であります。(2006/08/16)


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