2006年8月9日水曜日

中村元・保坂俊司 ~共感した名文・名文句~

現代日本の仏教研究で最大の功績者といっても過言ではない中村元先生の言葉には、信心が伴っているのがわかります。だから説得力があるのです。それをいつも補足する保坂氏も、その趣旨を最大に理解する、いわば親鸞における唯円、道元における懐奘なのかもしれません。

  • 中村元「仏教の真髄」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会
  • 自己の中の大宇宙は仏教の根本思想であり、先祖について考えればすぐわかります一人一人の中に偉大な過去が生きていることがわかります。いかなる人も両親から生れたのですから、その両親が自分の中に生きているわけです。その前の世代の両親もまた子孫に何かを残して生きている。千年も遡ったら先祖は何十万の人になるでしょうね。【注:先祖を遡っていくと、約千年前の30世代で先祖の総数は10億人を超える】そういう人がみないまの個人の中に生きている。別な表現で申しますと、多くの人々と同じ祖先を共有している、ということになります。さらにこの考え方を拡大していきますと、「この大宇宙が小さな一人一人の中に生きている」というところまでまいります。まことに偉大な不思議な神秘をそこに認めることが出来ると思うのです。いわば目に見えない祖先が自分の中に生きていて、他の人の中にも同じように生きているのですね。」
  • 西洋の自我観の限界~西洋哲学と仏教の視点の決定的相違
    「めいめいの人がかけがえのない生命、つまり無数に列なる生命の連鎖の最先端に生きていると言うことは、一人一人が他人とは取替えることの出来ない、尊くかつ「絶対に独自の自己」として生きていることです。つまり「自分の自己」は「他人の自己」から截然と明確に異なったものであるのです。デカルトのように「自分が意識する、故に自分が存在する」という自覚だけでは、「自分の自己」が「他人の自己」とは異なった存在であるということを説明し得ません。それは、自分と他人のふたつの自己が物体としては異なったものであることは言い得るかも知れませんが、どちらも共通の「自己」という一種と類概念のようなもので括っているにすぎません。つまりこの説では「甲の自己」と「乙の自己」とは、内容的・質的にも異なったものであるというわけを説明したり証明したりすることが出来ないのです。ここに西洋の近代的思惟の発端にあったデカルトの自我観の決定的な弱点を露呈しています。(略)
    その伝統を受けついだ西洋の思想家、たとえばヘーゲルのような一元論哲学では個体が個として(めいめいの人が個人として)絶対的であるとうことを説明することが出来ません。この点は、マルクスの思想でも、そして思想伝統の全く異なるインドの一元論的なヴェーダーンタ哲学でも、そのほか古今東西の一元論的哲学は、みな同じ難点を持っています。つまり「自己」の多様性を説明できないのです。(略)
    一方、「自分の自己が他人の自己とは全く違った実体ではないか」という思想を述べた哲人も登場しています。西洋におけるその代表的な例はライプニッツです。ライプニッツはその難点を避けるために、無限に多数の個的実体としてのモナド(単子)というものを想定しました。(略)
    ライプニッツはモナドの概念によってこの問題を解決しようとしましたが、もろもろの個が互いに異なったものであるということを、彼はどうしても説明することが出来なかったのです。(略)
    この点はカントも同様です。彼は人格についての抽象的・一般的な議論を述べているだけであり、個々の人格の間の内容・色調・ニュアンスの相違が何故起こるかと言うことを説明していないし、またその立場から説明できないでしょう。(略)
    いずれにしても、
    人格の独自性は仏教が説くように、それぞれの人が受けている無限に多くの原因・条件が異なったものであるとすることによって、はじめて説明がつくのです。もし、それらの原因・諸条件が内容的にまったく同じであったならば、どの人も全く同じ姿、同じ顔をしていて、差異がないということになります。」
  • つくづく、子供の事件に右往左往する大人を観る度、大人の方がよっぽど終わっているじゃないか、と思います
    「一言で表現すれば、「心の喪失」ということになるかと思います。特に、昨今の青少年の引き起こす事件には暗澹たる気持ちにさせられるものが多く、彼らの言動の背後に「心の荒廃」を感じざるを得ません。しかし、病んでいるのは子供たちの心だけではありません。大人達の社会でも事情は同じです。というより子供たちをこのような状況に導いたのは、それを生み育てた大人達であり、
    子供たちは大人達のいわば純粋培養的存在である、と考えるべきでしょう。そう考えれば、いまの日本社会は、何処を見てもエゴイスティックな大人達で溢れています。(略)心の喪失は、孤立感や不安感、焦燥感や怒り、あるいは自己本位の志向を生み、その結果温かい人間関係の欠如した社会を作り出すこととなり、そのために「いのち」を軽視した社会現象が現れると筆者は考えます。」
  • 仏教「因果論」の合理性と、奇跡を求める必要のある宗教の限界について
    「日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。」
  • 世界を全体的に捕らえることをやってきた超最先端思想こそが仏教であります
    「この世界に孤立して存在しているものはなく、すべてが互いに関係しあい、補い合って存在するという考え方は極めて重要な思想です。というのもこの世界を理解するためには、分析のみではなく、「全体からの発想」あるいは「総合的発想」が大切であることを教えているからです。この仏教の基本的思想は、以下に紹介するような最先端の科学の思想に通じています。というより、最先端の科学の方が仏教思想に知らず知らずのうちに近づいてきている、といった方がよいかも知れません。」

  • 中村元が説く仏教のこころ/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会


  • 中村元「老いと死」を語る/中村元・保坂俊司/麗澤大学出版会
  • 「浮世の八つの慣わし」「原始仏教聖典の文句の中では「浮世の八つの慣わし」といって、つぎのようにまとめています。「利益と損失、誉れと毀り、非難と賞賛、楽しみと苦しみ、これらの事柄は人間においては無常であって、恒久的ではない。いつまでも続くものではない。変じ、滅びるものである。知者はそれらを知って、心をとどめて変幻するものを観察する。いとおしい事物に心を乱さず、好ましからぬことだからとて、怒りに赴くこともない。」(「雑一阿含経」)」
  • 今、哲学でも生と死の問題の重要性を忘れてしまっています「哲学のほうでも、死の問題は論議されたりされなかったりしますが、考えてみますと、死から目を背けている哲学の存在意義は非常に限られたものではないかと思います。人の心を動かす哲学とはなり得ません。いまの日本の大学の哲学科で先生は死の問題を教えているのでしょうか。ここに一つの問題があると思うのです。考えてみますと、死の問題は人間にとって最大の問題で、誰にとっても一番重要なことです。ですから哲学でも宗教でも死を問題にするのは当然でしょう。ただ、記号論理学とか分析哲学を中心にした最近の哲学では、死の問題をあまり論じなくなっているのではないかと思います。論理も大事だと思いますが、そういうことは、結局人間の生き死にの問題の周辺に属することであって、生きている人間にとってはやはり生と死の問題が一番大事だということになります。」
  • 死を意識すること「ほとんどの人が、人間は孤独な存在であるという構造に、平生は気づいていません。けれども死の自覚と共にこのことがはっきりと露呈します。日常の感覚では、死は遠ざけたいものとしてありますが、仏教ではこの死を積極的に位置づけます。」
  • 精神文化的には、現代人は原始人レベルまで退化していると断言できます「特に、近代文明という唯物論に毒されている最近の日本人は、死を一切の終わりと考え、無価値なものとして忌嫌い、生きている時間を一刻でも長くしようとします。死を一秒でも先送りすることに心を砕き、確実にやってくる死への準備を怠っています。このように最近の日本人は、死に後ろ向きな文化を形成してしまったと言えましょう。死について学習する機会もなく、死に価値をおく文化も奪われ、唯物論が支配する社会。そうした社会における唯一の生き方は、たとえリンゲル注入のチューブによってスパゲッティ状態にされても、一分一秒でも長くこの世に生きながらえようとすることです。なぜなら、その後の世界を考えることも、またそれに思いをはせることも、それに価値を見いだすこともできないからです。
    しかし、死は誰の元にも確実にやってきます。現在の日本人の多くは、死を迎えるにあたり心の準備も、覚悟もなく、死という未知なる暗黒の淵へ、後ろ向きに投げ込まれるような、不安と恐怖に駆られているのではないでしょうか。そこには死と向かい合い、死に積極的な意味を与え、それによって死を克服してきたかつての日本の文化の積み重ね、民族の智慧は、生かされていないように思えます。まさに
    原始レベルの人間の精神に返った、未熟な死へのおそれのみが支配しています。」
  • 心の豊かさは物質的豊かさに優るのが真理であります「つまり、心の豊かさは、結果的に物質的な豊かさに優るということではないでしょうか。少なくとも老境に入った人間にとって、社会制度を含めた物質的な豊かさのみでは、人間は幸福に人生の最後を迎えられないということです。」
  • 高齢社会と福祉を考える上での仏教の位置づけ総論(決定版!)「日本人にとって仏教は馴染みのある宗教ですが、実は伝統的な仏教と、明治以降の仏教では大きく異なることは、意外に知られていません。というもの、日本が近代社会を迎えた明治維新の時に、国家レベルで廃仏毀釈を行い、仏教信仰を文化的に否定し、神道の国家を作ったからです。そのために多くは仏教への信仰心を失い、その宗教的な世界観を捨ててしまいました。(略)

    以来、日本人には、心から信仰できる宗教、つまり現世と死後の世界を意味づける価値体系、世界観を失ってしまったのです。もっともその代わりに第二次大戦後は、経済発展が心の支えになっていました。(略)

    エコノミック・アニマルと揶揄された日本の経済復興です。しかし、この時代を支えていたのは、「物質的に豊かになればそれでよい」という
    極めて唯物的な発想です。つまり、先述の唯物論が幅をきかす社会、効率を重視する経済優先の社会です。このような社会では、心の問題は扱いません。特に、死の問題はまったくノータッチです。敗戦後の日本人はそれこそ寝食を忘れるほど、経済的な価値を増大させるため、阿修羅のごとく邁進してきました。(略)

    古来、人間は死を恐れながらも、老いや死をさまざまな機会を通して体験し、学習してきました。(略)
    如何に生きるか、如何に日常生活においてよりよく生きるかということは、同時に、如何に死の恐怖を乗り越えるか、それを和らげるか、あるいは死を如何に意味あるものとして理解するか、ということであったと言えるからです。そしてその中心が宗教であったのです。(略)
    したがって、死はこのからだからの決別であっても、決してすべて無に帰すること、つまり生にとって無意味な、そして無価値なものとは考えられなかったのです。いわば、
    生と死は一体であり、連続、あるいは表裏の関係であると考えられていました。(略)

    高齢者社会を迎えた今こそ、我々の祖先が育んできた精神伝統としての仏教の智慧に今一度着目し、それを現在に生かす努力をすべきときがきた、ということではないでしょうか。(略)

    ただ、老いを問題にする場合、現在の日本の議論では、若者から老人への一方的な貢献について議論されます。つまり、保険制度や、福祉の分担金云々といったことがそれです。(略)
    老いとは単に老いを迎える当事者の問題だけではなく、それを取り巻く社会全体の問題でもあります。現在は、この関係性がほとんど議論されず、
    世代ごとに各自の事情(エゴ)を主張するのみで、互いの存在への配慮が感じられません。ここにも心の領域を疎かにしてきたツケが影を落としています。(略)
    現在の高齢者は、老いの価値を評価せず、ひたすら壮健の時代の心持ちに執着し、若さを求め、食物や享楽といった形あるものの欲望の充足を求める傾向にあるように思われます。(略)

    仏教のいう「諸行無常」の教えは、このような状況の変化を深く認識し、それぞれにあった行いをすることの自覚を促すものとして、示唆に富むものではないでしょうか。(略)
    我々は日本の伝統に学ぶ必要があるのです。なぜなら、
    かつての日本社会は超高齢化社会であったからです。(略)
    江戸時代の祖先たちが、生れるものと亡くなるもののほとんど均衡した社会、つまり社会的に見て高齢者の比率が非常に高い社会を平和裏に、しかも文化的にも極めて充実してきた中で形成してきたことを意味します。(略)

    我々の祖先は、われわれを取り巻く環境存在を、死後の世界と関連づけて解釈してきました。具体的には、一切の存在に価値を認め、それそれの場において精一杯生き抜くという生き方です。日本ではこの生き方を「道」と呼んで尊んできました。この道の思想こそ、それぞれの立場において、与えられた生を己の為のみならず社会のため、あるいは世界のために「生き尽くす」教えだといえるのではないでしょうか。ところが、現代社会はこの伝統をすっかりわすれてしまいました。
    その結果、日本人の心の荒廃は、ますますすすみ、仏教的にいえば修羅か餓鬼道の状態にあるといえましょう。しかし、唯物主義の日本からは、これに対する反省はほとんど聞くことが出来ません。言い換えれば、それほど現代日本は心を病んでいるということです。現在のように死を忌嫌い、「死」に意味を見いださないということは、「生」の真の意味をも認識していない、ということです。」


  • 人生を考える/中村元/青土社
  • 日本人が「無財の七施(雑宝蔵経)」の房舎施を失ったとき・・・3年間で明確な没落さえ!「第七は房舎施といいます。他人を自分の家の中に自由に出入りさせて泊まらせることです。(略)
    こういった人の良さというものが日本で崩れたのは、戦時中の買い出しが始まった頃からだということを聞きました。食料がなくなって買い出しが始まり、せちがらくなって人間の心がすさんできた。それで、地方の人でも警戒するようになったのではないでしょうか。そして、今日はご承知のとおりです。(略)
    昔は日本人の間にも、誰でも旅人をもてなすというような精神があったと思うのですが、このごろはどうもそれが失われているようですね。最近私があった中国人の学者は、三年前に来たときといまとでは違うというのです。
    三年前に来たときは、日本人というのは礼儀正しい、人なつこい民族だと思ったのが、今回来てみると、日本の若者は礼儀も知らず、がさつになってきたというのです。」
  • 世の中をよくする人とその在り方はこんなに単純なことなのです「いやな顔をしないで、いつもにこやかに人に接するということも、誰でも出来ることですね。そうすれば、地位の上下を問わず、人々の心がけ次第で和らいだ世の中をつくりだすことができるのではないでしょうか。お金を持っている人でなくても、生き甲斐のある生活が出来るわけです。ことに病気の方などが、清らかな空気とか自然の移り変わりの風景を楽しまれて、今日も一日、楽しませてもらったと思われたなら、やはりそれが生き甲斐になるのではないでしょうか。そうやって喜んでおられたら、その気持ちが自ずから周りの人たちに移っていくわけです。逆に申しますと、いかに力やお金があり偉い人であっても、あまりに荒々しく、とげとげしいことをして争っていると、人々の生き甲斐をそこなうことになるということも言えるわけです。」
  • 自殺は非常なる迷惑行為である「たまたま気づいたときには生きているのであって、生きているということは意味がない。だから捨ててしまおうという人がいる。それは恐らく自由だと思いますが、人が死ぬということ、ことに自らの命を絶つということは、非常に影響を及ぼすことが大きい行為です。それによって、当人の気づかないところで、人に非常に迷惑を及ぼします。これはやはり考えるべきことではないでしょうか。自分の命は自分が勝手にしても良いと思うかもしれませんが、実は自分の命というものは、他人の命でもあるわけです。他人の生命から切り離された自分の生命というものは存在しません。自分の生命と他人の生命とはしっかり結びついています。だから自分の生命を傷つけることは、また他人の生命を傷つけることでもあるのです。他人の生命を害ったり他人を害するということはしてはいけないことです。」
  • 私が仏道に共感したのは自分が親になって初めて理解できた慈悲の心に打たれたからでしょう「相手を強烈に思うという点では、親の子に対する愛も恋人同士の愛も同じですが、しかし、愛と慈悲とは大きく違います。愛というものは、それ自身は美しく、願わしく、尊いものだと思いますが、それは独占性をもっているわけですね。ことに男女の場合にはそうです。そして、いったん裏切られたというときには、愛は矯しい憎しみに変わります。ところが、慈悲は愛憎の対立を越えたものであり、絶対の愛であり、人を憎むということがない。愛憎からの超越ということが慈悲の一つの特徴です。」
  • 仏教の慈悲は一神教の絶対愛を越える「宗教的な愛と慈悲とは同じといえるでしょうか。私はやはり違いがあると思います。というのは、西アジアおよび西洋における宗教的な愛は、信ずるものと信ぜざるものとの区別をたてるからです。その愛は、信ぜざる者に対しては及びません。この頃は違った考え方が出てきていますけれども、過去の長い歴史ではそうでした。ところが、仏教の場合には、異端者を憎むという思想がないのです。異端者を罰するという思想がない。異端者は教団から除かれますけれど、それ以上に罰が及ぶことがない。ところが多くの世界宗教では、異端者を追いかけて、つかまえて火あぶりにするというのが通例でした。この違いは、現代でもまだ、潜在的に残っていると思います。」
  • そして、創造神という考え方「ただ、創造神しての神を、私は人格神としては考えにくいのです。というのは、世の中を見ると非常に悲惨な生涯を送った人がいくらもいるでしょう。もし、愛を持つ神がこの世界をつくったのだったら、どうしてそんな悲惨な運命を人にあてがったのでしょうか。だから私は、世界をつくった「愛の神」というものは考えられないと思うのです。生存している動物はみなそうでしょうけど、人間だって個々の人はみんな別の個体を持っている。そして、それぞれ個体をもちつづけなければならない。だから争いが起こるわけです。自己愛といいますが、これは人間が生きている限り根源にあるもので、これを愛といえるかどうか・・・。むしろ執着に似たものだと思います。(略)
    自分を愛するということは本能的で衝動的です。そしていったん振り返って反省してみて、それに対する制御がなされるわけです。そうして初めて、争いを起こす人間の中に、他の人をいたわり慈しむ気持ちが出てくる。これはやはり不思議なことでして、仏の心という以外には説明がつきません。やはり
    利害損得を越えて出てくるものがあり、それこそが仏の心だと思います。」
  • 家族の結びつきを弱めた元凶がアメリカ文化「人間にいちばん近い社会というと家族です。これは、ゲマインシャフトの内で最もゲマインシャフト的な性格の強いものでしょう。(略)
    ところが近代機械文明がおこった国々では、家族の結びつき、紐帯が弱くなってしまいました。近代文明の最先端を行ったのはやはりアメリカだと思うのですが、アメリカでは三組が結婚するとそのうち一組が壊れるといわれていました。(略)
    この頃のアメリカでは、それが更に進んで二対一だそうです。我が国ではどうかと言いますと、この頃の若い人の考え方は、だんだんアメリカに近くなっていますね。(略)
    若い人は全然違います。離婚なんて平気です。つまり家族というものの結びつきが弱くなっている。その結果として、いわゆる先進諸国では青少年の非行や犯罪が急激に増加しています。ことにいわゆる先進諸国の都会生活では、結婚の形式によらない男女の結合が現れています。それは、いつ壊れても良い、という意味を含めています。そうして、この様式がジャーナリズムによって盛んにもてはやされている。しかし、これは無責任だと思います。文明の進みに応じて家族関係も違ってくるでしょうが、やはり、ある程度は
    家族が安定しているということが必要です。」
  • 人間の高次元の精神文化こそが宗教であった「民族によって考えていることも違うわけですから、神という言葉の意味内容が違うのは当然です。ただ、人々が神のようなものを想定するに至ったということは、なにかしら高次なものを人々が見いだし、それに頼ろうとした個々の人間を越えた動きの結果だと思うのです。全盛期から今世紀に至る唯物論の失敗は、そういう動きに目を閉ざしてしまったところにあると思います。人間のうちに潜む「より高きもの」に目を閉ざしてしまったところから、唯物論的世界観の破綻が来ているのではないでしょうか。」


  • 原始仏典を読む/岩波書店
  • 真理をたたえる「ウダーナヴァルガ」(「ブッダの感興のことば」(岩波文庫中村元訳))「衝突や抗争の多い社会でどう生きていったら良いかという心構えを、この詩句集はよく教えてくれます。
    他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。
    他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は自分と他人と両者のためになることを行っているのである。
    自分と他人のためになることを行っている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。・・・ことわりを省察することもなく。
    愚者は、荒々しい言葉を語りながら「自分が勝っているのだ」と考える。しかし
    謗りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。
    (20・10-3)」
  • シク教徒について「西北インド、ガンジス川の上流地帯、これは昔からバラモン教徒の根拠地でした。(略)
    ガンジス川の上流地帯は、西紀十世紀以降にはイスラムの侵略を受けました。そして、イスラムと戦うためにシク教徒というのが現れたのです。ことにパンジャブ地方(五河地方)がそうです。パンジャブ州は現在シク教徒の本拠地です。山国でヒマラヤに近いというから荒れ地だろうと私は思っていました。これはとんでもない大きな間違いでした。荒れ地というものが全然無いのです。インドの土地は荒れ地が非常に多い。ちょうど西部劇に出てくるような荒野がずっと続いているわけです。ところが、パンジャブに行ってみて驚いたことには、もうあらゆる土地が耕されていまして、ちょうど日本と同じなのです。無駄にされている土地がない。そこでパンジャブ地方は食糧が豊で、インドの穀倉だというので、他の諸州へ食糧をやっているというのです。それから鉄工業など工業が栄えつつある。どうしてかというと、シク教徒というのはターバンを巻いてひげを生やしている連中だ、というぐあいに、異様な習俗だけを私たちは連想しますけれども、その習俗はイスラムの軍他と戦ったためにできてしまったのです。
    シク教徒というのは「世俗の生活がすなわち宗教である」という考え方をとっています。世俗の職業生活の中に宗教が実現される。人々はめいめいの職業を忠実に遂行せよと教えます。現世超越的な傾向に反対するのです。だからシク教には独身の修行者という者がいません。そしてみんな働けというものだからよく働く。だからシク教徒の中にはインド名物の乞食が一人もいない。乞食になるくらいなら餓死せよ、そう教えられているのです。よく働く。だからパンジャブは現在非常に開けております。そうすると、釈尊の頃に遅れていた土地がいま反対に非常に開けているということになります。」
  • 真言密教の護摩焚きの起源は、釈尊が批判したバラモン教の儀式である「日本の仏教でも、護摩を焚くという儀式があり、ことに真言密教では盛んに行います。あればヴェーダの祭りを仏教が取り入れたものなのです。「護摩」というのはサンスクリット語の「ホーマ」という語を音写したものであり、ヴェーダの宗教では火に供物を捧げ、火の中に供物を投ずることをいいます。後代の仏教はそれを取り入れて、護摩を焚くことによってわれわれの内心の煩悩を清らかにする、そういう具合に解釈しているわけです。(略)
    これに対する
    釈尊の批判ですが、「木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかとはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して内部の火をともす。永遠の火によって常に心が静まっている。われは尊敬さるべき行者、阿羅漢であって、清浄な行いを行うものである。良く制御された自己は人間の光である(「サンユッタ・ニカーヤ」)。」
  • 釈尊の態度の見習うべき点「頭からケンカを売るような、そういう態度は示さない。相手が何か固執しているところがあれば、それはなるほどけっこうだ、けれどもその本当の意義を考えてご覧なさいといって、反省させる。それが他の世界宗教の指導者の場合と非常に違うわけですね。たとえば、バイブルなんか見てご覧なさい。(略)相手のやっていることが間違っていると思うとき、いきなりお前さんのやっていることは間違いだぞと言えば、相手の人はムッとなって、無理にでも反抗するわけでしょう。そうではなくて、相手の人がああいうことをやっているのは何か訳があるのだな、これは因縁のいたすところだというので、その因縁をよく見て、ほんとうはこうあるべきだというぐあいに諄々と説くならば、摩擦抗争を起こさないで人を教化することができると言うことになりはしませんか。」
  • 自灯明法灯明究極のよりどころとして<自己にたよれ>ということを教えました。それは同時に、人間が行きてゆくための規範としての<法>にたよることなのです。「それ故にこの世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよろどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ(マハーパリニッパーナ・スッタンタ2・2・6)。これが最高の境地なのです。ニルバーナ(涅槃)というものが別に存在するのではありません。
  • 個人権威(宗祖・教祖)の否定「釈尊が自分は教団の指導者であるということを自ら否定しているのです。釈尊はその教えが永遠の理法、ダルマに基づくものであるという確信をもっていました。だから自分についてきたものは救われる、そういう立場ではないのです。ブッダというのは、法、ダルマを具現化した人です。その資格において、その意義において自分を自覚していた。「おれは世を救うものである、おれに従えば助かるけれどもの、そうでなかったら地獄に落ちるぞよ」というような説き方はしなかったわけです。世の宗教家に時にはある狂熱的な思い上がった、そういう点が釈尊になかったのであります。」
  • その時代や風潮に左右される「法律」の最上位概念が「仏法」であります「法律って変なものですね、といった会話が聞かれます。どうしてそういうことが言われるのか。これはわれわれ人間の理解している普遍的なダルマというものがある。その見地から見てみると、いま行われている法律というのはどうもおかしいということはあるわけです。(略)
    裁判所の判決なんて言うものは、世間の方が、おかしいなと思われることもいろいろあるのではないでしょうか。そういう場合の批判を何によってなすか。これは根本にある人間の理法、法律を越えた本当の法というものに基づいてなすべきだと思うのです。(略)
    基準は何かと申しますと、それは釈尊が説いている慈悲の精神です。人を傷つけてはいけない、これははっきりしていることです。それに関連することで、人をののしったり、悪口をいったりしていはいけなということも当然出てくるわけです。その根本に基づいて一切のことが批判されるべきだと思うのです。(略)
    世間の知識人やジャーナリストがお手本にしている、いわゆる先進国というのは今どうなっていますか。大体、先進諸国というのは地盤沈下しつつある国ですよ。」


  • 仏教とヨーガ/保坂俊司/東京書籍
  • 現代日本の概観はこれに尽きましょう「近代以降の日本社会は、富国強兵や殖産興業といった、経済的繁栄第一主義も言える唯物論的な価値観を重視してきた。特に、第二次世界大戦で敗北してからの戦後日本は、物質的な豊かさを中心に追い求める修羅(あるいは餓鬼)の道を突き進み、現代に至っている。その結果、われわれ日本人は、物質的な豊かさを謳歌する一方で、年間の自殺者が三万人を超えるような、精神面の荒廃による深刻な社会不安に直面している。(略)すべてに通底するものは、心の世界の軽視、あるいはそれへの無関心である。日本社会は、目に見えるもの、数量ではかれる者を追い求めてきた結果として、精神的に疲弊・憔悴する人々、あるいは孤独にさいなまれ、絶望する老若男女に溢れていると考えられる。そして現在の日本人全般にいえることは、心と体のアンバランスである。最近の傾向として、身体の健康には強い関心を示すが、心の問題には全く無関心であったり、あるいは現実社会からの逃避をめざして精神世界、特にオカルト世界へ没入したりする人々も少なくない。どちらも極端に走り、両者のバランスを取ること(中道の実践)の重要性について全く無知・無関心の状態である。」
  • 本来のヨーガは「その心得は「安定した、快適なもの」でなければならなかった。なぜなら、ヨーガによる悟りの状態である三昧は、「緊張を緩和すること」などによって達成されるものと考えられているからである。したがって、ヨーガの坐法は、苦痛や緊張を伴うものではないということになる。いずれにしても、昨今盛んに禅宗で行われているような過度の坐禅主義でもなければ、ハタ・ヨーガのアクロバットのような坐法でもなかった。(略)現代のような、ただ単に若さの保持や見た目の健全性を求めるだけの健康法、エゴ的な欲求の域を出ない健康法は、本来のヨーガではない。本書でいう仏教ヨーガとも似て非なるものである。少なくともそこに精神性をもとめないヨーガは、いかなる意味においてもヨーガの本道ではない。現代に即して言えば、自らの心身の健康を維持し、それを社会に役立てようという意識で、心身の鍛練を行うことが、すなわち正しいヨーガ、仏教ヨーガの基本となる。」
  • 仏教ヨーガの特徴「仏教で実践されたヨーガは、ヒンドゥー教において実践されていたヨーガのような、呪術力の取得といった方向には向かわなかった。仏教におけるヨーガの実践行は、精神集中によって獲得された智慧の完成をめざして練り上げられたものといえる。だからこそ、仏教のヨーガは分析的であり、客観的なものとなっているのであろう。」
  • ヨーガの可能性「おそらくヨーガ的な病気の予防あるいは治療法は、日本社会が抱える医療保健制度の破綻という大問題の解決にも貢献することになろう。なぜならヨーガの普及によって、患者自らが病に抗する肉体的力を養うことができることはもとより、誰にでもやってくる死に対して、日頃よりこれに主体的に向かい合い、これを越える精神力を養う契機が生まれるからである。」

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