2006年8月14日月曜日

山田無文 ~共感した名文・名文句~

妙心寺派の歴代管長でも、かなり有名な部類に入るのがこの方。無文さんと親しまれたというが、かなりの厳格さが文章からにじみ出ています。道徳という言葉をしばしば口にすることが、ひろさちや氏の「仏教は道徳ではない」という説を信奉する自分には違和感があるのですが、その他の基本的な仏道の心得はしっかり心に届きます。「遺教経」「無門関」といった解説本の少ない仏典を講釈していることでも貴重です。

  • 死にともない しんじん文庫第二集/春秋社
  • 苦境に思い出すべきこの名言「(最もありがたいものは何かという問いに)「独坐大雄峰」。わしがいま一人ここに坐っておる。このことが一番ありがたい。百丈禅師は、そう答えられたと申すのであります。わたくしは、このくらい自信のある言葉、このくらい人間を尊重した言葉はないと思うのであります。(略)
    いま現に生きてそこに坐っていらっしゃることが、一番ありがたい。まちがいないことだと思うのであります。財産のあることも結構ですが、それは自分が生きておるから必要なのです。きれいな服のあることも、りっぱな家屋敷のあることも結構ですが、それはみなさんが生きているから必要なのです。身分も地位も大切でしょうが、それはみな、生きておるためのアクセサリーではありますまいか。
    いまそこに、生きて坐っていらっしゃるというこの事実が、みなさんにとって、一番尊いことであります。」
  • 目の前のものを拝める人になることが仏への道「明恵上人と申しあげるお方は、道を歩いておられて、何かを見つけられると、じっと立ち止まって手を合わせられ、そのうちにぼろぼろと涙を流されました。お弟子が不思議に思って「お上人はなにを見てござるか、何を泣いてござるか」とおたずねしたら、「ほら、そこに可愛い花が咲いておるじゃろう。その可愛い花を、いったいだれが咲かせたのじゃ。その美しい姿を、だれがこしらえたのじゃ。どうしてここに咲いておるのじゃ。この一茎草の花、不可説、不可思議、不可商量じゃ。人間の知恵では説明できんぞ。人間の力ではこしらえられんぞ。これがこのまま仏の姿じゃないか。もったいないじゃないか。」と野辺の菫の花を見て、涙をこぼして拝まれたということであります。そういう直観が開けますならば、「一色一香、中道にあらざるなし」何を見ても、何を聞いても、みな尊く、ありがたくてしかたがないということになります。死んでからのお浄土じゃない。今日ただ今がお浄土であり、死んでから成仏するのではない、今日ただ今、仏にしていただくのであります。」
  • これが宗教の発想であり、今日の大多数が忘れている根本的真理でしょう「今日、「自我を尊重せよ」とか「個性を尊重せよ」ということがよくいわれますが、わたくしは、自我は尊重しなければならないかも知れませんが、けっして尊厳ではないと思います。自我は未完成な、恥ずかしいものだと思うのであります。個性も尊重しなければなりませんが、そんなに権威のあるものだとは思います。それはわずかな経験と知識と出積み上げたものであって、ひとりびとり違うものであります。ひとりびとりが違うようなものは、普遍的真理ではないと思うのであります。自我の奥に、個性のもう一つ奥に、自我を越え、個性を越えた、人間だれでもそうなくてはならない、普遍的な人間性というものがなくてはならんと思うのであります。」
  • 「本来無一物」を納得して生きている人が如何に社会(特に会社世界)に少ないか「一体この世の中に、自分のものだと主張できる何ものがありましょう。(略)
    自分の身体が本当に自分のものなら、髪が白くなったのを黒くできなければなりませんし、皺も伸ばさなければなりません。何一つとして、自分がそれに対して力を持たないところを見ますと、自分のものだなどといえるものはこの世の中に何もない、自分の生命さえ自分の自由にならないのです。本来無一物、お母さんのお腹に宿ったときは顕微鏡で見なければ分からないような単細胞であったのに、それが今日、六尺のおとなになって生きておられるのは、
    まったく生きておるのではなくて、生かされておるのだと、こう徹することが、わたくしは宗教というものの大切な入口ではないかと思うのであります。」
  • この言葉は、なぜ私がわが子の誕生に合わせるかのように仏道に帰依したかを明解に説明しておられます「赤子の心とはどんなこころでしょうか。人間が生れたままの心は、みな純粋で美しい、けがれのない心であったと思います。(略)
    生れたばかりの赤子の時は、人間はみな神さまのような清らかな心だったと、そうわかることが、わたくしは宗教というものだと思うのであります。(略)
    自分と他人の区別がないという真実の愛情は、親子の間で最もハッキリと自覚することができるものでございます。そういう愛情が人間の純粋なものだとわからなければならぬと思うのでございます。今日の忙しい世の中には、この大事なものがどこかに置き忘れられておるようであります。そういう基本的な人間そのものを教育することが今日大切じゃないかと思うのでございます。(略)純粋な親子の愛情が分かってこそ、自分と他人の区別のない心が広く社会に広められて、ほんとうに大衆を愛する、りっぱな社会的な人格が形成されるのだと思うのであります。そう7いう純粋な生れたままの人間性が分かることが、最も大切なことでありますが、それは教育以前の問題で、すなわち宗教の問題であって、今日、日本人に最も欠けておるもの、もっとも欲しいものは、宗教心ではないかと思うのであります。(略)
    戦後の日本には、社会もなければ国家もない、人間尊重ということが、自分さえよければよいという利己主義に受け取られておるのじゃないかと思うのであります。これで良いものでしょうか。仏教本来の考え方は、自己を全く忘却して、ひたすら大衆を愛するところにあります。これを菩提心と申します。菩提心とは「自未得度先度他なり」と示されております。」



  • 心に花を しんじん文庫第一集/春秋社

    ~昭和30年代後半(1960年代前半)の日本の世相がこれであります~
  • 無宗教が心の荒廃を招いていることが明確であったのはもう50年も昔からだったのです「このごろ阪神間で家裁に提訴される事件は、老人から「子供たちにもう少し小遣いを増やすように話してくれ」という問題が一番多いそうである。さびしい世相ではあるまいか。(略)
    そういう老人に「あなた方は何か宗教をお持ちですか」とたずねると、ほとんどが無宗教だということである。(略)
    (趣味はと)たずねると、これまた九分九厘「趣味もありませんのや」と応えられるそうである。
    宗教的情緒も芸術的素養もなく、ただ金だけで子どもをそだて、金だけで生きてきた人たちが、ついに金で困るのだ、と申しては残酷であろうか。宗教や趣味をもつ余裕さえない、社会の底辺のような環境が、いまもあることを考えねばならぬであろう。「我が親は大事にするが、よその親はどうでもいい、我が子はかわいがるが、よその子どもはどうなってもかまわない」という偏狭な家族主義は誠に困るが、だからといって、家族的な温かい愛情が、今の社会にはいらない、ということにはならないであろう。」
  • だれも正しくない、が宗教への道「一億国民がみんなそれぞれ違った意見を持っておる。そして自分だけが正しいと思っておる。そしてそれを通そうと我を張っておる。世の中が平和にゆくはずがなかろうではないか。正しい意見というものが一億もあるはずはない。とすれば、一体誰の意見が一番正しいであろう。不完全な人間たちの考えることだ。誰の意見も正しくない、とわかることが一番正しいのではなかろうか。」
  • 何かが歪んでいる「”人間を尊重せよ、個人の自由と権利を守れ”と教えられると、自分という人間だけを尊重して、他人という人間はすこしも尊重しようとしない。自分の権利と自由だけをしっかり守って、他人の権利と自由には、全く無関心である。どこかが狂っておる。どこかがゆがんでいる。何かがたりない。」



  • 手をあわせる しんじん文庫第三集/春秋社
  • 大いなる存在に深く感謝をする気持ちを胸にすることが、宗教心の第一歩(著者が結核で悩んでいるとき)
    「そうだ!空気というものがあったんだ!空気があったんだ」と気がつくと同時にとめどもなく涙がにじんでくるのをどうすることもできませんでした。(略)
    人はけっして自分一人で生きているのではない。大きな力に生かされておるのである。身分のある人もないひとも、学問のある人もない人も、働く人も働かない人も、男も女も、人は誰でも
    決して自分一人で生きているのではない。大きな力に、たくさんの人々の情けに、あるいはおびただしい犠牲に生かされておるのである。(略)
    大切な空気に、生まれ落ちるから今日まで、夜となく昼となく、やすみなく抱かれておったのです。働いているときも遊んでいるときも、寝ているときも、こちらは空気などと思ったこともないのに、空気の方はわたくしを忘れずに、しっくりと抱きしめていてくれたのです。」
  • 食事に感謝する気持ちを育てる禅僧の生活「刑務所の献立が出ておりますが、あれをみてわたくし「なんと刑務所というところは、ごちそうを食べるところだなあ」と思って感心したことがあります。ご飯や汁は十分だし、一周に何度か魚があったり、ときには肉飯があったりするようです。そう考えますと、僧堂の食べ物は人間の社会でおそらく最低の食べ物であります。しかもその最低の食べ物を食べておる雲水が、一番手を合わせて感謝をしているのです。これは実に不思議な現象だと思います。手を合わせていただくから、そういう粗末な食べ物でもありがたく戴かれ、また滋養にもなるのでありましょうか。雲水たちは、元気溌剌としております。
  • 現代日本人の宗教の発想が無文師のいう「きわめて原始的」なレベルであることは間違いありません。そしてそれが人間の退廃と宗教を儀式や慣習でしか捉えられない低い精神構造の元凶となっています。「米といってはいけない、お米といえ、水といってはいけない、お水といえ、茶といってはいけない、お茶といえ、茶碗といってはいけない、お茶碗といえ、箸といってはいけない、お箸といえ、すべてのものに敬語をつけて、尊敬して呼ぶことが仏法の教えであり、日本民族の永いならわしであります。しかしそれは、どんなものにも人間のような魂があるから、それで尊敬するというわけではけっしてありません。こちらの感謝の心が、そうせずにはおられぬからそうするのであります。(略)
    粗末にして、もし祟るといけないから、注連縄を張ったり、油揚げをあげたりして祭るというのとは全く意味が違うのであります。そういう、
    すべてものに霊があると見て拝んでゆくのは、きわめて原始的な宗教であります。すべてものに霊があるから拝むのではない。これを拝まないとたたるから拝むのでもない。これを祭るとご利益があるから拝むのでももちろんない。自分が生かされておることを思うとき、手を合わさずにはおられないから、そうするのであります。拝まずにはおられないから、そうするのであります。
  • 仏道の心の根本は親心「すべてを生かしてゆこうというやさしい親心を、仏心と申します。わたくしたちはすべてに対して感謝の心を持つと共に、この大きな仏心を起こしてすべてを愛さねばなりません。むかしから、「子を持って知る親の恩」という言葉もありますが、すべてを生かしてゆこうという、やさしい親心を起こしてみると、すべてのものの生命の尊さがしみじみとわかってきます。そして自らが育てられ生かされておることを、あらためて感謝せずにはおられなくなります。
  • キリスト教の祈りの感覚と仏道の相違点「わたくしがキリスト教に、限りなく愛着を感じながら、どうしてもついていけなかったのは、「いのり」であった。わたくしにはいのりの言葉がどうしても出ないのである。出せばすべてが偽りの言葉となり、浅薄な感傷にすぎなくなってしまうのである。(略)
    キリストも、偽善者のように、群衆の前で声を上げて祈るなといわれたはずである。密室の中で、神とただ二人のところでいのれ、と示されたはずである。それならもう、
    いのる言葉さえ不要のように思われる。神はすべてを知りたもうからである。わたくしは坐禅をするようになってから、坐禅こそ信のいのりであると思うようになった。絶対者の前に正しく自己を坐らせること、そして自己を全く忘却すること、そして一念の念もきざさない無心の状態にはいること、すなわち絶対者の中に自己の心身をささげつくすこと、そして絶対者と自己を全く冥合すること、ああ、これ以上のいのりがあろうか。
  • (河口慧海老師のテキストの言葉)・・まさにこの考え方が人生を前向きに歩む発想転換です「この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由に何処へでも跣足で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴を履けば、世界中を皮で覆ったと同じことである。この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを奉げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったに等しい


  • わたしは誰か しんじん文庫第四集/春秋社
  • 人生の一大事は社会生活を営むだけのことではないでしょう「お釈迦様がこの世にお出ましになった目的は、一大事、人生の最も大事な問題をひっさげて、この世の中へお出ましになったのである。
    それは皆さんに仏と少しも違わん智慧の目を開かしめ、仏と少しも違わん智慧を示し、仏と少しも違わん智慧を悟らせ、仏と同じ智慧の日暮らしをして頂くために、お釈迦様はこの世へお出ましになったのである。それが、お釈迦様がこの世へお出ましになった、たった一つの目的であると示されるのであります。すわ一大事などと皆さんもよくおっしゃるが、
    この世の中で、一体何が一大事でありましょう。お互いの心の名kに仏と少しも違わん立派な心のあることを教えて頂くこと、それを悟らせて頂くこと、そういう日暮らしをさして頂くこと、これが一大事でなくて何が一大事でありましょう。銭を儲けたり、うまいものを食べたり、立派な屋敷に暮らしたり、身分が出来たり、享楽にふけったり、そういうことは人生の一大事ではありません。それは人生の道草であります。そういう道草を食って一生を終わってしまっては無駄でありませんか。人生の一大事は、一人一人が仏にして頂く、生まれたでもない死ぬでもない、迷いでもない悟りでもない、完成された人格を悟らせて頂く、それが一番大事なことではありませんか。」
  • 日本仏教の二つの到達点「禅と浄土門とは、全く立場が逆のようでありますが、学問を十分しつくして学問を捨てていくところに、禅があり浄土門があると思います。」
  • 一切衆生悉有仏性を知る「(東条内閣の軍務局長佐藤氏がA級戦犯として巣鴨の拘留所へ入った行く末)
    そこでしみじみ考えられたことは、(略)結局、人間はこの世へ何しに生まれてきたのであろうか。人生の目的は何かと考えさせられた。(略)そして結論として、人間がこの世へ生まれたのは、自己を完成するためだったと気づかされた。(略)
    人間は人間として立派な人間になるだけが目的である。名誉だの、財産だのは、人生のアクセサリーに過ぎない。人生の目的は自己の人格を完成すること、それ以外に目的はない。そう気が付いたらアメリカに食わしてもらうのも結構だ。毎日じっと坐って坐禅をし、お経を読み、時には写経をし、哲学宗教の本も読み、少しでも自己を完成させればいいと、こう気が付いたので、このごろは拘留所の中が実に愉快で楽しい。何も不自由はない、ごらんのように良く肥っておりますと、元気に話されたことでした。まことに人生の一大事は、人間として完成されることだと申して間違いないことでありましょう。しかも
    完成されるとはこれから完成するのではなくて、生まれたときから完成されておったと、わからして頂くことであります。」
  • 仏教の受戒とは、当然、死んで戒名を貰うことではありません「めいめいが自分の心の中に生まれたときから頂いて居る者を明確に悟らせて頂くことが、お受戒でなければなりません。人を殺してはいかんのではない、虫一匹でもよう殺しませんというこころをわからしてもらうことであります。(略)
    男女の交わりは綺麗でなければいかんではない、
    真実の愛情が分かれば綺麗な夫婦関係にならざるを得んということであります。そういう心を分からして頂くことが、お受戒でなければなりません。」
  • 賓主互換こそが平等「どうですか、人間は平等だ、同じことだといいますが、ここまで徹底できますかね。あなたの仏性も私の仏性も同じことだから、おまえさんと私と入れ替わったって同じことだという塩梅です。(略)人間が本当に平等だと分かったら、そこまでいかなければならん。(略)
    このごろはよく、一日市長だの、一日駅長だのといって名士や映画俳優などを連れてきてやらせることが流行りますが、そんな女優や名士を連れてきて一日市長にさせるよりは、
    そこらの不平不満を言う分子を一日市長にしてみたらどうでしょう。市長というものが、どんな気持ちでおったらやれるものか、どんなにいそがしいものかよく分かるでしょう。」
  • 自分のことを知らないからすぐに安易な見当違いの自分探しをしたがる現代人「英国の歴史学者のトインビーという人が「現代人は何でも知っておるが、自分のことだけは知らない」と言われたそうですが、確かにそういうところがあります。(略)
    自分というものが、どうしたらいいのか、どっちへ向いていったらいいのか、何をしに生れてきたのかさえさっぱりわからんというのです。(略)
    だから簡単に人を殺してしまう、簡単に自分も死んでしまう、死ぬほど楽なことはありませんが、それでは本当の解決ではないと思います。そこで真
    実の自己とは何かと見極めておくことが、現代人にとって最も大切なことだと申さねばなりません。そういうことをはっきりわからしていただくものが仏法だとしますと、今日、仏法ほど求められねばならぬものはないと思います。」
  • 人生は進歩をしなければならないが安らぐ家も同時に必要という金言「永遠なる途中にあって日々「家舎を離れず」。毎日が前向きで、まだ足らぬまだ足らぬと進歩しながら、毎日がこのままで結構でございます、おかげさまでと、感謝と安心の境地が開ければならんと思います。」
  • 臨済の注意した悟りとは「外界の一切を否定して、お山の大将俺一人と悟りますことは、一応誰にもできますが、自己の内側の愛欲と執着を断ち切ることは容易なことではありません。煩悩を全く断ち切れではございません。煩悩に使われるなということであります。煩悩を使っていく堅実な自主性を自覚せよ、ということであります。」
  • 仏道を学んでいてこれだけは忘れてはならないことであります「学問だけでは、われわれは救われません。それはたとえて言えば、薬の効能書であり、栄養学でありまして、私どもは万巻の栄養書よりも、事実自分たちの口に入る一斤のパンの方が必要なのであります。それを身近に自分のものにし、直接、生活のなかに味わっていくところに、真実の意味の宗教がなければならんと思うのであります。」
  • 儒教のように子が親を拝むだけでなく、親が子どもを拝むのが仏道であります「子どもに親を拝めということは当然ですが、親に子どもを拝んでいけと教えられているのです。これほど人間尊重の言葉はないと思うのであります。なんで子どもを拝まんならん、わしがこしらえてやったじゃないか、という考え方に間違いがあると思うのであります。子どもはたとい赤ん坊でも、立派な対等の人格を備えておるものとして、尊重していかなければなりません。しかも自分たちが作ろうとおもって出来るものではない。子どもには子どもの歴史があります。子どもには子どもの過去があります。親は音楽など嫌いなのに、音楽の上手な子どもが生れたり、親は絵など描いたことがないのに絵の上手な子どもが生れたりということは、親と別な過去を持っておるからだと思います。仏教の古い言葉ですが、二元には全盛というものがあるということを考えますと、前世は、どこのどちらさまか知りませんが、よく私どものような貧しい家へ生れてくださいました。ありがとう。良く私のようなつまらん男の子どもに生れてくださいました。あなたがうまれてくださったおかけで私どもが親になれましたと、子どもに感謝せねばならんと思います。純真な子どもに親がどれだけ教えられることがありましょう。生まれたての子どもをそのまま仏として拝んでいける、そういう人格尊重の教育がなされますならば、必ず立派な子どもさんが育つと思うのです。」


  • 中道をいく しんじん文庫第六集/春秋社
  • 大の大人が自覚しない現代の謝った教育の落とし穴「自分の人生は自ら切り開いていけ」「他人に迷惑をかけるな」こういう人生観は一応社会人として立派なことのようですが、実は非常に偏頗な個人主義で、これが一歩間違いますと、きわめてせまい利己主義になってしまいます。(略)
    「自分の人生は自ら切り開いていけ」などといってみたところで、事実、人生が自分一人で切り開いていけるものでしょうか。親や先生や、先輩、友人、そして社会の皆さんのおかげではありませんか。なぜ、社会の皆さんに感謝する人間になれ」と教えられないのでしょうか。「他人に迷惑をかけるような人間になるな」といってみたところで、お互い凡夫のことですから、つねに失敗して人様に迷惑をかけることばかりです。ですから、
    「人に迷惑をおかけするが、そのかわり人の迷惑も喜んで引き受けるような人間になれ」となぜ希望されないのでしょうか。」
  • 貴賤の衆生に蔓延した拝金主義が家庭崩壊となり現代の有様になったのです「家庭を捨ててまで働きに出るお母さんたちが、明日食べる米を買うお金のないような人もないとはいいませんが、多くは自分の自由に使える金が欲しいのです。(略)
    パートタイムで奥さん方が働きに出られると、時間の都合で、ご主人が帰ってこられてもすれ違うことがある。夫婦も親子も、ゆっくりと話し合う時間がない。この
    行き過ぎた物質文明のために、健康がおかされ、家庭がこわされ、そして精神までもがおかされているのであります。」
  • 昭和40年代に既に利己主義の増幅が懸念されていた若者が今退職を迎える「団塊の世代」です「自由主義の国には一応キリスト教的教育があり、共産圏の国には社会主義的ヒューマニズムがありますのに、今日の日本の教育には、そういう精神的指導内容というものが何もないのであります。『人間を尊重せよ』『個人を尊重せよ』『自我を自覚せよ』という、いわゆる民主主義的教育は行われてはおりますが、その、人間は何をなすべきか、自我の内容は何かという、もっとも大切な問題がすこしも示されていない。きわめてせまい個人主義者、利己主義者ばかりが、今日の若い世代には多いのではないかと思うのであります。」
  • 現代人のあまりに空しい一生「(現代人は)人間を尊重せよ、個人を尊重せよ、自我を自覚せよといわれると、人間を尊重せよとは私を大切にすることだ、個人を尊重せよというと、自分が何をしてもいいことだ、自我を自覚せよといわれると、自分の幸福を自分がしっかり掴むことだと受け取られているようであります。しかし、そういう自分のためだけの狭い意味の個人主義、利己主義的人生観には意味も価値もないと思う。なぜならば、自分のためということは、自分の欲望を満たすことで、欲望というマイナスを、一生かかって「もの」でプラスするだけの人生にすぎません。つまり、プラスマイナスゼロということになり、人生の価値は刹那的享楽以外何も残らんのであります。」
  • 自分様が一番醜悪。我を忘れることが理想と思うこのごろです「自分と他人の区別がなくなって、相手の気持ちになれる心、そういう清らかな心が、人間の生まれたままの、幼子のごとき心であります。(略)
    自分を忘れて人のことばかり考えていたのでは自分が成り立たないじゃないかと、すぐ反駁されそうですが、けっしてそうではありません。自分のことばかり考えるから自分が成り立たないので、
    他のことさえ考えていたら、他はみな何千何万の目でこちらを見てくれているのだから、自分が成り立たんはずは絶対にありません。
  • 宗教を考えるタイミングは死に際ではありません「死ぬか生きるかの境にのぞんでからでは、宗教も役には立たんと思います。宗教というものは、健康なときに、若いときに、生活の楽なときにやっておいて、はじめて死に際にまにあうでありましょう。」


  • 不二の妙道 しんじん文庫第八集/春秋社
  • 神道について~宗教や哲学と言えるのか「日本の神さまの教えは、清浄の二字に尽きると思います。ただそれだけの、実にハッキリした教えですが、「言挙げさせざるの道」といって、理論がない、神学がないのです。幕末になって、本居宣長や平田篤胤というような国学者が、仏教に対抗して神学を編み出しましたけれども、本来そういうものを必要としないほど純粋の民族が日本民族なのです。」
  • 檀家制度以来の堕落仏教が今も残る「徳川幕府は天草のキリシタン一揆に懲りて、宗教ほど恐ろしいものはない、武力も政治力も及ばんということに気がつきまして、『宗門帳』といって檀家制度というものを決め、新しい宗教の起こらん措置を執りました。それは一見非常に仏教を保護してくれたようですが、実はすっかり仏教を堕落させてしまいました。お寺と檀家とは離れることのできん組織ですから、坊さんはなまけておっても遊んでおっても、勉強せんでも修行せんでも、布教をせんでも檀家は離れやしません。うまく檀家の機嫌気褄をとって、上手に葬式と法事さえしとりゃ喰っていける。ことに大名の帰依を受けた、いわゆる名僧知識が、大名たちの趣向におもねった悪風が今日も残っているように思います。儀式、法要ともとなると、大和尚方が凛然たる衣装を着飾って行列なさる姿は、まるで花魁道中そっくりじゃないかと思うのであります。」
  • 今も話題の靖国神社のとらえ方はこうも考えられます「(昭和45年の靖国神社法案に対してキリスト教や仏教系大学がこぞって反対署名をしたことに対して)私が学長をつとめさせていただいております花園大学にも、「反対の署名をしていただきたい」といってこられました。そこで、「私は靖国神社法案には賛成ですから、署名はよういたしません」とお断り申したら、「政府が特定の宗教を公式のところに使うのは重大な憲法違反です。だからわれわれは反対し、こうやって署名のお願いに参ったのです」とおっしゃいました。私は、「靖国神社を宗教だと思っていらっしゃる高僧方や牧師さん方の宗教観を疑います。『宗教だ』とおっしゃる以上は、その宗派のご開祖がおられなければならんはずです。その宗派の聖典、経典がなければならんはずです。その宗派の信仰箇条がなければならんはずです。ところが靖国神社の、ご開山とはどなたですか。宗祖がおられますか。靖国神社に聖典かバイブルがありますか。靖国神社の信仰箇条とはどういうものですか。靖国神社がこれまで一度でも信者を増やす運動をしたことがありますか。靖国神社を別立して国家が祀ってくだされば宗教ではありません。日本人の国民儀礼です。私は賛成です。外国に行けば、どこに国にいっても、無名戦士の墓というものがあるではありませんか。クリスチャンであろうがなかろうが、すべては十字架の下に祀られてある。それと同様に、日本民族は神事で祀っていただくのが習慣なのです。靖国神社法案、まことに結構じゃありませんか」


  • 鶏は暁の五更に鳴く しんじん文庫第七集/春秋社
  • 今の日本人では考えられないが昭和にはまだこういう日本人像が生きていたのでしょう「トインビー博士も「龍安寺の石庭を観てきました」と話しておられますが、庭のことには何も触れず、「あの庭を見ておった日本人の姿を見て、私は胸を打たれました。彼らは霊的感激に浸っておりました」と語っておられるのであります。何十人おったかしりませんが、男も女も、年寄りも若い者も、あのお寺の縁側にベターッと坐ってしまって数十分の間、咳払い一つせず、ウンともスンとも言わず、じっと庭に見とれておる。トインビー博士が驚いたのだと思うのです。ヨーロッパでは恐らく見られない光景だと思うのです。何十人もの人間が、数十分の間、一言も発せずに何かに見とれておる。(略)
    「日本人は無宗教だと聞いていたが、あの姿は宗教的だ」とトインビー博士は感嘆しておられる」
  • 人間の生きる意味の本質はここら辺にある(ここら辺にしかない)と思うこのごろ「あるとき、若いお母さんが投書しておられました。『私はぼんやり学校を卒業して、ありふれた結婚をしました平凡な家庭の主婦です。人生だの、自分の価値だのということを、一度も考えたことはありません。ところが、赤ちゃんができましてお乳を飲ませたとき、はじめて自分の価値がわかりました。この赤ちゃんは、私がいなければ育たないな。育つかも知れないが、幸せにはなれないな。私という人間は、平凡なつまらない女ですけれども、この赤ちゃんにとっては、日本一なくてはならない女だと言うことがわかりました。赤ちゃんにお乳を飲ませて、私ははじめて自分の価値がわかりました。はじめて生き甲斐を感じました』とありましたが、私は体験からでた真実の言葉だと思います。」
  • 先祖の読経は仏道ではない(世の誤解参照)「先祖の霊を崇厳懇切にお祀りすることは、日本民族の美風として悪いことではありませんが、これがはたして仏教であろうかどうかということを私は考えます。お釈迦様は、一度も死んだ人のお葬式をなさったこともないし、なくなった人たちのために読経や回向をなさったこともなかったのです。なくなった人たちのためにお祈りをすれば、地獄に墜ちた霊が天国に登るということを教える外道が、お釈迦様の時代にもありました。(略)仏教とは、生きた人間を救う教えでなければなりません。仏教が中国に入りましてから、儒教、老荘、その他中国の民俗、習慣と密接に結びつきました。お位牌を祀ることも中国の風俗で、仏教にはなかったことです。(略)
    これは儒教の思想によるものであり、さらにまた、日本人本来の民族精神と結びついて、発展し来たったものだと思いますが、しかしこれは、仏教本来の精神ではないと思うのです。」


  • 遺教経講話/春秋社
  • 仏道の真髄「預言をするとか、先祖の霊がのりうつるとか、何か変わったことをしたがるのが宗教ですが、お釈迦さまの教えは「ただこれ平常なり」、当たり前で、人間が当たり前になることがお釈迦さまの教えで、キリストのような奇蹟は、お釈迦さまは一つもなさっておりません。当たり前が一番尊い。」
  • 無意識にこの状況に陥る自分を戒めたいものです「「人生は自分のためにある」これが戦後の教育であります。(略)
    いかにも自由なようですけれども、人生は自分のためにあるといわれると何をしていいかわからん、これが本当です。ヨットに乗って世界中の海を二百七十五日と十三時間十分かかって回ってきたという人がおりますが、人のためには、何にもならん。
    自分のためにはどんなことでもやる。これが今の世の中です。(略)
    国民の八十パーセントがみんな勝手放題に生きている。まさにこれは、一億総無責任時代だと思うのであります。(略)
    せいぜい人に迷惑をかけんだけが、道徳であるというのが今の世の中であります。お釈迦さまは、まず戒律を守れ、自分の行動を慎め、そこからよい行動が出てくる、明るい世界がそこから開けてくる、とおっしゃった。」
  • 六根清浄を考える「五根というのは眼耳鼻舌身であります。(略)
    この五根がなかったら、人間は何の働きもできません。五根があるお陰で毎日生活できるのでありますから、五根ほど大切なものはないのであります。
    悪いのは五根ではなくして、その上にある心であります。五根と申しますその上に、意根というのがあります。眼耳鼻舌身意であります。(略)
    五根を制するということになりますと、最も大事なのは、五根の根本である心を制するということになります。(略)
    主人公は意識であります。意識の主人公は、さらに奥深くある仏心であります。仏心が意識をとりひしいで勝手に動かないようにしてゆくことが大切なことであります。(略)
    意識というやつが間違うと、とんでもないことをいたします。人間の命を失い、魂を失い、功徳を失い、健康を失い、宝を失い、最後には身体を失い、人間のすべての良いものを失ってしまう。そういう恐ろしいものが意識でございますから、意識をしっかり抑えつけて、これを勝手に動かないように使っていく主体性が大事であります。」
  • 名言です「人間は裸でおることを恥ずかしいと思う。どんな南の方のニューギニアやインドネシアの山の中にいっても、さすがに前は隠してあります。(略)
    どんなきれいなご婦人の着られる着物よりも、
    一番大事な着物は、恥ずかしいという着物であります。心の中に恥ずかしいという心を持つことが、どんな美しい着物を上から飾るよりも、人間の心を飾っていく、心の醜さを隠していく一番大事な着物でなくてはならんのでございます。」
  • 不瞋恚戒、一生の最大の課題であります「「和顔愛語」という言葉が『観無量寿経』の中にございますが、いつもニコニコして、やさしい言葉を使え、和やかな顔をして、愛情のある言葉を使え、腹を立てて憎たらしい口を聞いたらいかん。(略)
    不瞋恚戒、腹を立てないということが菩薩の十戒の一つ。(略)
    腹の立つ内は、心の中に我がある、俺がある。私がという観念がとれんから、腹が立つ。その私を捨てることが、仏法ですよ、と。「仏法は無我にて候」と蓮如上人も言われます。生れたときには私がなかった。みんなきれいな鏡のような心をいだいておったとわかれば、どんな事件が起こっても腹の立つようなことはありません。」
  • 四智(唯識)を考える「お互いの生れたままの奇麗な心を大圓鏡智とお釈迦さまはおっしゃいます。大きなまるい鏡のような智慧。奇麗な心は前に来た姿を、どんな姿でも受け入れていく。すべてを受け入れていく奇麗な心とは、すべてを受け入れる広い心で、しかも鏡は平等でございます。平等に映すということは平等に尊敬する。」

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