2006年2月27日月曜日

世の誤解

葬式仏教や生臭坊主が仏教を辛気くさくしかも汚れたおかしなイメージを生んでいることは嘆かわしいことです。
世にはびこる仏教に対する誤解が、仏教の真意をねじ曲げており、多くの日本人がそれで当たり前だと深く考えていません。
大変ゆゆしきことであり、仏道に足を踏み入れた自分としては、ここに明確にし、真意から離れてしまっている(所詮現代日本という限定空間の)常識を否定したいと思います。

  • 寺に賽銭を放り込めば,交通安全を始め合格祈願等のお願いができる
    寺では仏に対して感謝をするのである。
    願をかけるのは仏教ではない。
    仏教はキリスト教やイスラム教といった他の真の宗教と同様ご利益宗教では一切ない
    日常から信仰もないくせに、100円やそこらで安全や健康を買おうなんて、保険会社よりも下劣な発想である。

    現世ご利益にすがる蔓延するニセモノ仏教徒については、遠藤誠氏が幾度にも亘って糾弾されていますので、ご参考に。
  • お葬式は友引の日にしてはならない、仏滅は結婚式には不向である
    先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜は仏教からではなく、室町時代の末期に中国から伝わった、小六壬という時刻の吉凶占いである。
    それを誰かが日に転用して、江戸時代に流行したものであると言われている。
    これは干支や方角に関係なく、その日の吉凶を表す符号。

    友引とは本来「相引きで勝負のない日」という引き分けを意味している。
    友を引くからお葬式は禁物というようなものではない。
    浄土宗の祖師法然は「仏教には不吉として物事を慎むことはありません(『百四十五箇条問答』)」と明確に答えている。
    また、六曜の仏滅は「物滅」から変化していった当字で、仏教とは全く関係ない。

  • 戒名は仏教徒の証である
    まず、戒名がどんな意味を持つのか、実態として何を示しているのか、それを考えましょう。
    敬愛する遠藤誠氏の「真の宗教ニセの宗教」(たま出版)で痛烈に批判がなされていますが、これはいずれ書評にUPさせていただくとして、劇作家でもある島田裕巳氏の『戒名無用』から以下に抜粋をさせてもらいます。その前に、私の戒名についての考え方を述べましょう。

    戒名の無意味さ、今更檀家制度の名残りにしがみつく主体性の無さ。
    仏道を真剣に考えるという縁に恵まれたが故に、私は、檀家制度の名残りとしての形骸化した戒名とは、決別するべきと確信いたしております。
    結論は、葬儀は重要かも知れませんが、今の世の戒名は極めて無駄、ということです。

    何も、近くの寺に帰依するというのは悪いことでないと思います。
    だから代々その寺へ布施をしている、その寺がきちんとその檀家に対して法施をしていれば、何ら問題はありません。特に近いのだから安心感も大きいでしょう。これはあくまで土地から人が動かない時代、今も田舎については当てはまる話なのかも知れません。基本的に、仏道の教えをしっかりと法施してくれる僧がいれば、それが何宗(何派)であってもよいと私は考えます。

    しかし、寺などは観光地としての寺が散在する程度で、その僧の顔も知らないというような大都市やベッドタウンで核家族化して住む人間は、もはや近いからという発想は成り立ちません。田舎があって、いずれそこに戻るなら別ですが、田舎は墓だけ、何て言うのも非常に穢らわしい考えです。
    全く信仰とは関係ないと言い切れます。
    そのときだけ寺に金を払って、周囲の目・世間体のために葬式を仏教式で挙げ、仏法のぶの字も考えたこともなく知らない人間が、仏道を帰依したことを意味するという戒名を授かるなんて、呆れ果ててモノもいえません。
    人生でこれ以上のいい加減な幕切れはありません。
    人間の根本である生老病死という存在を蔑ろにした行為といえます。


    私の祖父は、日本人の0.5%しかいないと言われる「無宗教」による葬儀でした。今思えば天晴な話です。世間体に固執していない。
    私も今から死については考える必要があると、このごろよく思います。大切なことです。
    人間、今の目の前のことに忙殺されて大切なことを蔑ろにすることが何よりもいけない。
    江戸時代の良寛和尚も、「人は死ぬことさえ忘れなければ、大した過ちもなかろう。」と言っています。

    仏教の信心が何か、朧気にわかってきた今としては、いい加減な寺が多いなか、どこかできちんと縁がある「僧」と出遇っておいて、最後は帰依したい、そういう気持ちがあります。
    まあ、そんなことも、しっかりと信心を大切にすれば、仏縁が自然となるように手向けてくれることと思います。



    島田裕巳
    戒名無用/主婦の友社


    戒名料は布施でない
    葬儀の際に僧侶に渡す金は『布施』である。戒名を賦けてもらったことに対して僧侶に渡す金も布施である。布施とは、布施をする側が自らの信仰に基づいて自発的に行うものである。(略)実際、戒名料が布施ではなく、料金であることを示すデータがある。

    本来の戒名とは何か
    戒名はこれまで『仏教徒の証し』であると説明されてきた。
    戒名とは、戒を授かったときに与えられる仏教徒の証しだというのである。
    どの宗派においても、戒名が仏教の信者になった証しである以上、生前に授かっておくことが本来の姿であると主張されている。
    しかし、現実には、ほとんどの人が死後に戒名を授かっている。
    戒の性格から考えて、死者に戒を授けることには意味がないはずである。死者には、生きものを殺すことも、偸むことも、性関係を結ぶことも、嘘をつくことも、酒を飲むことも出来ない。

    戒名は仏教徒の証しでは、全くない
    戒名が仏教徒の証しであるという前提自体に問題があるのではないだろうか。そういった疑問がわいてくるのも、アジアの他の仏教国には日本の戒名に相当するものが存在しないからである。
    死者に戒名を授ける慣習は、仏教の発祥の地インドにも、日本に仏教を伝えた中国や韓国にも、さらには東南アジアの仏教国にも存在しない。
    また、死後に戒名を授かることを前提として在家の人間が生きているうちに戒名を授かる慣習も、日本にしかないものである。
    戒名の慣習が日本に
    独自なものであるなら、戒名は仏教の教えとは関係のないものだということになるからである。
    これは、戒名が、仏教界の説明とは異なり、仏教徒の証ではないことを意味している。戒名はブッディスト・ネームではないのである。

    寺請制度・檀家制度の名残りに過ぎない戒名
    かなり不思議なことである。それぞれの宗派には開祖がいて、その教えは異なっている。教えが対立することでさえ珍しいことではない。実際、宗派によって信仰の対象とされる経典は異なっている。
    ところが、戒名の形式は、宗派を超えて概ね一致している。それは、
    戒名が、宗派の教えとは無関係に、寺請制度のもとで成立し、広まったことを示している。

    寺請制度自体も作為的で尊いものでも何でもない
    江戸時代の檀家関係は、寺請制によって庶民に強制されたものだったのである。十八世紀に入る頃には、徳川家康の名を借りた『神君様御掟目十六箇条宗門檀那請合掟』という文書が作られた。(略)この文書では、禁教とされたキリシタンや日蓮宗の不受不施派の疑いをかけられたくなかったら、檀家関係を結んだ寺との関係を密にし、寺の行事に参加して、寺の建物の修理や建立につとめることが勧められていた。(略)しかし、この文書はニセモノだった。家康が定めたものではなかった。(略)寺の側は、偽の文書を利用するという姑息な手段を使って檀家関係を密にさせようとしたのである。

    テキトーに葬式をしている大半の日本人の実態
    葬儀の形式は仏教が94.1%、神道が3.4%、キリスト教が0.7%、無宗教が0.5%であった。葬儀の大半は、仏教式で営まれているのである。神道式の葬儀を選ぶのは、神道の信仰を持っている家である。キリスト教の形式を選ぶのは、キリスト教の信仰を持っている家や個人である。(略)ところが、仏教式の葬儀を選ぶのは、仏教への信仰を持っている家や個人だけとはかぎらない。仏教の信仰を持っているのは、日本人全体の五分の一から四分の一程度である。

    要するに寺は戒名料に頼るしかない
    確固とした経済基盤を持たず、公的な補助をあてに出来ない寺としては、葬儀から上がる収入に頼るしかない。(略)
    日本の仏教が本当の意味で
    葬式仏教になったのは、むしろ戦後になってからのことではないだろうか。そこに、戒名料が高くなり、戒名をめぐって問題が起こるようになった第一の原因があるように思われる。

    日本の異常な葬儀料を知れば、皆変わっていけると思うが
    日本人は、葬儀に五百万円以上の金がかかったという話を聞いても、さして驚かない。葬儀には金がかかるものだと覚悟しているからである。しかし、日本の葬儀費用が世界でも飛び抜けて高いと言うことを知ったとしたら、その覚悟も少しはゆらぐはずである。(略)イギリスの葬儀費用はわずか十二万三千円である。ドイツでは十九万八千円、韓国では三十七万三千円、そしてアメリカでも四十四万四千円である。他の国に比べてアメリカは高いが、それでも日本の葬儀費用は、アメリカの6.5倍にも達している。(略)友人葬や自然葬などの新しい葬儀の方法が生れ、それが広がっているのも、世界で一番葬儀に金をかけていることへの反省があるからであろう。金をかけることが、本当に個人を手厚く葬ったことになるのか、多くの人たちが疑問を感じるようになってきたのである。

    仏道への帰依などとはほど遠い民衆の意識
    さすがに私も、宗派のあまりのでたらめさに唖然とした。嫁いできた義理の叔母はともかく、祖父母は生前別々の信仰を持っていたわけではない。たまたま葬儀を挙げ、戒名を授けてくれた僧侶の宗派がちがっただけなのである。(略)
    私の実家や母の実家の宗派についての知識は、相当にいい加減である。信仰に厳格な人間から見れば、その姿勢ははなはだ遺憾なものに映るだろう。しかし、それは私の家に限らず、地方から東京に出てきた人間たちの平均的なありかたなのではないだろうか。





    最後におまけと言っては何ですが、同著に日蓮系新興宗教の性格についての分かりやすい説明がありましたので補足しましょう。

    創価学会とは
    戦前に結成された創価教育学会を母体としている。創価教育学会は、地理学者で教育家であった牧口常三郎を中心に結成された教育団体であった。
    牧口は日蓮を信奉するようになり、日蓮宗の一派である日蓮正宗と密接な関係を持った。そのため、創価教育学会は、宗教団体としての性格をあわせもっていた。
    日蓮正宗は日蓮宗のなかの少数派であったが、他の宗教や宗派を否定する傾向は一般の日蓮宗以上に強かった。創価学会はこの日蓮正宗の影響を受けて、折伏による布教活動を推し進めていった。創価学会が戦闘的な教団となり、社会と激しく衝突してきたのも、日蓮正宗の影響によるところが大きかった。


    日蓮宗関係新興宗教と政治
    創価学会の場合には、公明党という政党を組織した。公明党の第一の役割は、会員の便宜をはかることにあった。(略)公明党は、創価学会という巨大な相互扶助組織を助けることを政治活動の第一の目的とした。
    また、立正佼成会や霊友会も自民党に議員を送り込んだ。



    また、彼らについての問題をばっさりと遠藤誠氏がその各著書において指摘しています。


  • 仏道は難行である
    難行のバラモン教徒として苦行を行っていた釈迦は、苦行を否定して仏教を開いた
    天台宗比叡山の山篭十二年の行や回峰行、日蓮宗法華経寺の荒行、真言宗(一部)の断食などは、難行を是としている点において、本来の仏教とは掛け離れてしまっているといえる。

  • 追善供養は仏教のしきたりである
    死者の裁判を一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と計13回も増やしたのは室町時代以降のこと。日本独自。インド・中国の仏教にない考え方。
    ここにある発想は、子孫や残された人間が供養に時間とカネを費やさないと、死者が極楽へいけない、仏になれない、というものであり、言うまでもなく仏道の発想とは相反するもの。
    仏教では、死後の何如は、その人の生前の業がすべてと考える。
    追善供養はもともと「中陰」の考え方であり、仏教的には邪道とも断言できるもの。
    先祖がそうだから、伝統だから、とそれに固執した結果、邪霊とか祟りとかいう仏教とは大凡インチキ宗教がはびこるのであります。

  • 「業・因果」は、たたりや過去の罪による不幸のこと
    本人の過去や罪や霊のせいにする「罪を責める」かたちとして利用されてきた。
    「業・因果」は、「縁起観」による人間の心や行いへの責任を明らかにする重要な教えである。
    一般的に「業」とは、「悪い結果を説明する時に用いられる「言訳」「慰め」「諦め」の言葉として理解されていが、本来の「業」は人間がよりよく生きるために不可欠な思想だった。
    つまり今の自分が未来の自分を造る、決定する、というきわめてポジティブな世界観なのである。
    自分一人一人がしっかりと生きれば、自分の未来はもとより、自分の属する世界も直接・間接的に変えることが出来るというのが、この業の思想である。

  • 葬式の死者のための読経(廻向)は日本仏教古来のもの
    親鸞や道元は、死者のために読経をする廻向を、「仏意に反する」と戒め、とくに僧侶が特定の父母のために読経したり念仏を唱えたりすることは、衆生救済の立場と矛盾すると批判している。釈尊はそもそも、人の死後の運命は各人の生前の行為によって定まるのであり、他人がそれに関与することはできないとして、僧侶が死者儀礼に拘わることを厳しく禁止していた。(「仏教の大河」/高瀬広居/より)

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