2006年2月25日土曜日

「他力」という考え方

「本願他力」。
通俗的に使用される他人任せという意味とは全く異なる、その発想の革命、宗教とはこのこと也、ともいえる極めて重要な思想であります。

  • 他力思想は他「人」任せというちっぽけな話ではない
    他力本願という揶揄的な表現ははやりの「自己責任」の対極として使用され、その意図するところは他人任せ、自分の行動に責任を持たない無責任、というところでしょう。
    少し昔に五木寛之さんの「他力」を読んだときはもう一つ言っている意味が分からなかったのですが、こうして仏道を学ぶ中、特に浄土門の考え方に触れていく中で、他力というのは全くそう云うことではない、非常に宗教的精神世界的には重要な考え方であるということが分かってきたのです。
    他力とは、他「人」任せということではありません。人間というような小さな存在ではなく、処により「神」「仏」「大いなる意志」「宇宙意志」と言われるような時間や空間を超えた、目に見えない壮大なる存在の力を認識し、それを肯定して踏まえた上で行動をし生きていく、それが他力思想だということであります。
    つまり、他人任せや無責任というような人間同士の社会規範の中での狭義の話ではなく、もっと個々人の内面の思想を意味するのです。
  • 計り知れない湧き出るような精神の高揚自力思想の固まりのような考え方で、自分の無能を呪い、自己嫌悪に落ち入り、苦悩しながら今日まで生きてきた私ですが、常に漠然と人間には計り知れない大きな存在については意識をしていました。
    ここにきて、他力とは自分の中ではこのことだったのかと、実際の経験の中の例で置き換えることができるようになり、痛く感激した次第です。
    私が信条としてきたことに、「これだ、と直感したものは、何よりもそれを優先させてとりかかる」ということがあります。
    「思い立ったが吉日」「満を持しての・・・」という言葉に近いのでしょうか。例えば、このサイトの中に詰っている文章、音楽、そしてこのサイトを作ろうと動いたことも含め、みなそういう過程を経て成立したものばかりです。つまり、計画的にいつこれをやってこれをこういう意味があるからこのように今度作ってみよう、というような感じでできたものではありません。何より、心の底から「今こそそれをやるべきた、こうやればよいのだ、やり方がわかったぞ!」という閃き、直感というものがあって、湧き出るような感覚が私を動かしたのであります。
    それは激情ともいえる並々ならぬ精神の高揚です。
    これは、今夢中になっているものがなくて手持ちぶさただから、○○でもやってみるか、とかこれもおもしろそうだから手を出してみるか、という次元のものではありません。また、夢中になれるものはこれに決めたから頑張るぞ、とか、これに一心に取りかかってみせるぞ、と自ら決断を下しても、その高次元の精神高揚は実現しません。
    つまり自力でいくら思いこもうとしても無理なのです。
    自分の意志でコントロールできる範囲外の話なのです。
  • 他力を感じた瞬間を大切に
    ですから、そういう状態が一気に沸いてくるというのはそうざらあることではなく、だからこそその状態が発生したときはその気持ち・モティべーションをいかに大切にするか、その稀少さは痛いほど分かっているのです。実現するためには寝食を忘れてもやる価値があると経験的に認識しているのです。
    そしてその行動については未だ一度たりとも失敗の結果に終わったとかやって後悔したとかいう念に捕われたことはございません。満足だけが残るのです。
    後で振り返ってみると、いやはやよくもまあこれだけのことをやったものだと、我ながら感心し、自力の120%位が発揮されていることに気づいて驚愕するのであります。曲作りにしても、小説書きにしても、旅にしてもそうです。もっと卑近なものとしては買い物をするときのインスピレーションについても同じような経験があります。
    自分のコントロールできないものを明確に自覚し、その前向きな力を得る経験は、頻繁にあるわけではありませんから、その縁を大切にすること、それが重要と考えます。
  • 自力と他力は両輪であるただ、一つ言えるのはそれらは無の処から生じたものでは決してないと言うことであります。
    今までの自分の蓄積があって、実になるもしくは花が咲く瞬間を迎えることとなった、そんな感じです。
    また、思い立った後の実際の行動は、まさに自力がものを言います。頭脳で試行錯誤を反復し、構築するために必要なものを洗い出して順につぶしていく作業は自力そのものです。
    早い話が、自力だけ、他力だけ、ということはなく、ここでも仏教の根本原理である中道に行き着くのです。両者の和がすべてです。
    我々現代人は特に自力思想に偏りがちです。目に見える科学が優先されすぎた結果だと思います。学校でも他力的な発想を学ぶことはまずありません。自力偏重は結局は競争社会や精神病の根源となっていきます。他力が存在するにも拘らず、それを完全に無視すれば当然の帰結とも言えます。真理が見えていないわけですから。
    他力が存在するからこそ、人生は思わぬ展開だらけではないですか。自分の意志だけでコントロールしているなんていう考えは思い上がりであります。そこからは、自分が思い通りにならないのは、他「人」が邪魔するからだという発想しか生まれてきません。または、自分が無能だからだ、努力が足りないからだ、という自分否定の発想です。
  • 三毒を制して生きる智慧
    三毒の煩悩(貧瞋癡)を考えますと、どれもが実は自分でコントロールできていないことの表層現象であることがわかります。
    貧瞋癡は「自分の思い通りにさせる欲望を貪る」「顔や心で怒る」「愚痴を漏らす」という毒でありますが、怒るということを考えてみます。子供を「叱る」ということは必要であり、その際叱る側で大事なのは心は平静にした上で諭すということであります。それに対して「怒る」というのは、感情に振り回されもはや自らコントロールを失っている状況であります。躾と称する児童虐待は言うまでもなく、街中でもしばしばそんな醜態を曝している母親を目にします。そんな怒りに基づく言動は、子供には良い影響を与えるはずはなく、効能もあるはずがありません。
    それがオコル、イカルことであります。
    この愚鈍な所業を常に自覚し、認識し、内省して生きていくことが、煩悩に振り回されがちな人間の心から自らを解放する唯一の方法ということになるのでしょう。
    怒る自由があるんだ、怒鳴りつける自由があるのだ、それは相手が俺に迷惑をかけるからだ、という大馬鹿者がこの日本には蔓延していますが、そんなものがあるわけがありません。
    何も束縛というのは、社会制度だけの専売特許ではないのです。社会制度上(法律上)禁止されていなければそれが自由である、といっているのでは、あまりに人間の歴史、この世の普遍の事実を知らなすぎます。木を見て森を見ていません。
    自らの内にある愚かな感情、醜い感情の奴隷となってしまい、そのことを自覚せずにしかめっ面をして生きる人間の方がよほど問題は深刻であります。心の平安、幸福というものがその人間に訪れることはまずないでしょう。常に他人及び自分を悪として捕らえ続けるのでしょう。
  • 人間の普遍性を思えば、他力思想を思惟せざるを得ない
    「fight rom inside」というロジャーテイラー作曲のQUEENの名曲がありますが、人間として生を受けた限り、いつの時代いつの世界でも絶対的なことが一つあります。人間という身体と精神を備えて存在するということであります。仏教では色受想行識の五蘊として明確に規定し、それを前提に皆話を進めています。
    当然すぎるこのことを忘れてものを考えるからおかしなことになるのです。
    その大原則を押さえているということだけでも、仏教の偉大さ、なぜ数千年の歴史に耐えてきたのか、はっきりします。
    それを抑えて、人間の所業を分析すれば、すべての因縁生起により世の中が繋がって存在していることが自ずと明確になり、更にそれを大きく抱擁する何か、自力以外のものがあるという結論に至らざるを得ないと思うのです。
    より大きな視点で自分たちは何なのかとらえていく上で、これからの人生を如何生きるかを考える上で、大きなヒントとなる発想の有力なものの一つが、「他力」の思想である、そう私は捉えています。

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