2006年2月26日日曜日

一般常識と仏教的解釈

どっぷりと我々が浸りきっている「常識」とは、地域限定・時代限定の全く普遍的とはいえない代物であることは、少し視野を広げたらすぐにわかることであります。それでも、それを「当たり前」という穢らわしいともいえる一言でかたづけて、自分こそが世の常識という面を下げる人間が後を絶ちません。一歩外国へ出ても、ちょっと時代を遡っても通用しないことを平気で主張する、そんな「邪見の輩には群すべからず(道元禅師/修証義・総序)」であります。



ひろさちや/「こころの健康法 苦を苦にするな」/小学館より
  


  • こころの健康法 苦を苦にするな/小学館
  • 子育てに関する非常に示唆に富んだ考え方遜文侍の文章世界(essay)の中で、別途抜粋しました。こちらから。


    ●以下、日本の日常どこにでも見かける普遍的悩み(一般常識)の問いに対する仏教的回答であります
  • 人間不信の世の中、どうにかならないか・・→ 自分の身は自分で守るしかない
    「嘆いてももう手遅れです。日本を経済優先社会に変えようとしたときにわたしたちはこういう日本になることを覚悟しておくべきでした。
    経済を優先させて都会型社会、競争型社会を作れば、必ず人間不信になるのです。嫌な世の中になるのは目に見えていたのです。では、どうすればよいか。どうしようもありません。(略)
    今後ますます「毒入り事件」のようなものが増えるだろうと思います。だって、考えてみてください。もともとスーパーというものは、経済効率だけを考えて作られたものです。本当に人間的な買い物は、客とお店の人が徒話をしながら、心の交流をもちながらなされるものです。(略)
    その
    人間不信の事物を利用しておいて、しかも人間不信を嘆くのは虫が良すぎますよ。疑心暗鬼になって当然です。いや大いに疑心暗鬼になってください。そして、自分の身は自分で守ること。安易に他人を信じてはいけません。それが嫌というなら、まずあなたは、(略)心のこもった会話をしながら、人間的な買い物をしてください。そうすると、人間が信用できるようになります。」
  • お手軽料理と家族のバラバラ生活、何とか改善したい・・・→ 家族全員がそろって食事をするために共働きをやめること。極めて単純な世界の常識中の常識
    「サラリーマンの家庭で、現在は楽しい食事がないのですね。まことにおかしな現象です。父親は残業、母親はカルチャーセンター、子供は塾に行って、
    家族揃って食事をする機会が滅多にない。それが日本の平均的な家庭なんでしょう。これは高度経済成長社会がもたらした悲劇なんですが、日本人はその悲劇に気づいていません。悲劇に気づかない悲劇だから、ダブル悲劇です。(略)
    こうした日本人の食生活を改善するにはどうしたらよいでしょうか・・・。方法は簡単です。まず、家族の全員が食事をするようにすればいいのです。そのためには、共働きをやめればいい。そして、子供の塾通いをやめるといいのです。そんなことをすれば、収入が減って貧しくなる。美味しい食事ができなくなる、といわれるかも知れません。けれども、おいしいものは食べられなくても、おいしくものは食べられます。(略)家族が笑顔で食事をすれば、どんなものを食べてもおいしくいただけます。それが最高の幸福なんです。」
  • (マスコミで日々目にする)環境ホルモン問題に翻弄されているのですが・・→ 環境ホルモン問題などという個人の力の及ばない問題は忘れること。どこが元凶か考えよ
    日本型の資本主義は企業中心の資本主義です。個人の生活よりも、企業の利益、企業の存続・発展が優先的に考えられているのが日本型資本主義です。少なくともこの日本型資本主義をぶっ壊さない限り、環境問題の解決はありません。(略)
    そうだとすれば、環境問題を個人の力でもって解決することなど、所詮不可能ですよね。では、どうすればよいでしょうか。わたしは、環境問題など放っておけばいいと思っています。資源の節約だとか何とか、いろいろやかましくいう評論家がいますが、資源を浪費しているのは大企業です。それをいわずに、われわれ市民にお説教をたれる彼らの厚顔ぶりにわたしは辟易しています。」
  • (青少年の信じがたき短絡的殺人事件が日々報道され)命の尊さがわからなくなっている時代と思うが・・→ 全人格的としてとらえず、「機能」としてしか人間を見ていないためである
    「現代の日本社会は、なんだかおかしな社会になってきています。一言でそれを言えば、人間不在なんです。あるは人間が機能化・ロボット化されているといえばよいでしょうか。(略)
    家庭も同じ。親が子に期待するのは、勉強をする・いい成績を取る・一流大学にはいるといった「機能」だけ。逆に、子供が親に求めているのも、食わせてくれる・小遣いをくれるといった「機能」だけです。そして、われわれが友人や仲間に求めているのも、話を聞いてくれる・話し相手になってくれる・デートしてくれるといったような「機能」だけです。恋人の存在は、ときに友達に向かって、わたしはこんな恋人を所有しているのよと誇示できさえすればそれでいいのです。こちらの都合に合わせてさっと消えてくれた方が便利がいい。そういう機能として私たちは人間を見ています。」
  • ダイエットが続かないなど、三日坊主を何とかしたい・・→ 本当に必要なものではないから三日坊主なのである
    ダイエットもする必要はありません。いつか山手線でダイエットに成功した女性を見かけましたが、針金のような足は痛々しくて見ておれませんでした。胸もぺちゃんこ。若い女性なのに老醜が漂っていました。(略)
    その必要のないものを、長続きさせようという人は、どう考えても馬鹿の骨頂です。」
  • 私は真面目一筋の会社人間です。ストレスで医者にかかり趣味をもてといわれましたが趣味がないのです・・・→ そういう人間は救われない
    「まずあなたは、救われませんね。たぶん、ストレスで早死にするでしょう。早死にしたあなたを、それでは会社は殉職者ということで、未亡人にすごい功労金をはらってくれるでしょうか。「ノー」だと思います。(略)
    早死にしたって良いとあきらめなさい。(略)
    あきらめると、少しはストレスも減るはずです。だってそうでしょう。仕事によってストレスが溜っています。そしてそのストレスをなくすには仕事をやめる以外はないと教わって、ストレスを没くそうとするストレスを感じています。その既往症のストレス(ストレスをなくすためのストレス)が余計なストレスです。そのストレスだけは、明きらめによってなくすことができるのですから、それがいちばん妙策ですよ。まあ、おあきあらめなさい。」
  • プラス思考になれなくて困っています・・→ 馬鹿やって下品に笑って自分を売り込むタイプがプラス思考と勘違いしてはいないか
    「世間で流行している意味でのプラス思考と、佛教の教えはずいぶん違っています。仏教の教えはむしろ「マイナス思考をするな」といったほうがよさそうです。あるいは、「自分を否定するな、自分を大肯定せよ!」と言った方がよい。(略)
    自分を変える必要はありません。
    自分を変えようとするのは、自分を否定しているのです。自分を大事にせよ、自分を肯定しなさい、というのが仏教の教えです。(略)
    仏教の教えを端的に言えば、私は「諸法実相」だと思います。(略)
    換言すれば、宇宙に存在するすべてのものが最高の価値を持っているということです。(略)
    ちょっと表現を変えると、これは「なんだっていい、どちらでもいい」となります。どんな人間でもいいのです。美人・不美人のどちらでもいい。陽気な性格でもいいし、陰気でもいい。(略)
    だとすれば、いわゆるプラス思考の出来る人はそうすればいいし、プラス思考の出来ない人は無理にそうなる必要はありません。」
  • セックスレスに悩んでいます・・→ 夫婦を繋げる最尊最上甚深不可思議なものがセックスである。ただ二人で抱擁するだけでいい
    結婚生活においてセックスがいかに重要であるか、わたしは、いくら強調しても物足りないと思います。(略)
    人間は動物と違う。だからこそ、人間にとってセックスが大事なのです。(略)
    セックスを嫌う夫婦はどこかおかしいのです。もしもかりに、夫婦のどちらかが、疲れたからセックスをしたくないと考えているとすれば、それは疲れるような生活をしている点に問題があります。疲れないように残業をやめるとか家事を減らすとかするべきです。(略)
    じつは、日本人はセックスについてもうひとつ大きな誤解をしています。それは、どうやら日本人は、セックスといえば性器の結合及び挿入、よりあからさまにいえば射精のことだと誤解しています。(略)
    夫婦が夕食後、しばらく読書をしたり仕事をした後、二人が寝室に入ります。ネグリジェ姿で音楽を聴きながら、軽くブランデーを飲む。そして二人が軽く抱擁する。三十分か一時間、二人がそういう結合の時間をもつ。それが前戯です。そして、それがセックスなのです。それだけで終わってもいいのです。その後は自由です。」
  • 不妊により周りからのプレッシャーが辛い・・・→ それだけ人生やって未だに子どもは授かるものであることさえわからぬ、救いがたき低精神性の日本老害衆
    「どうしてこんな社会になったのでしょう。その原因の最たるものは、わたしは、親が子どもを「つくる」という考え方にあると思います。いまの日本人は、子どもは親が自分の意思で作るものだと思っています。「結婚したばかりだから、子供をつくるのはまだ早い」とか、「もう、ぼちぼち子どもをつくろうか」といったふうに。しかし、
    子どもは親がつくるものではありません。昔の人は、子どもはほとけさまから「授かる」ものだと考えていました。だが、最近の日本人に「子どもは仏さまから授かるものですよ」と言いますと、「でも授かった以上は親のものでしょう」と、所有権の主張をしかねません。それでわたしは「授かる」というのものやめて、子どもはほとけさまから「お預かりする」ものだと言っています。ほとけさまは夫婦に、この子を幸福にしてやってね・・と、預けられるのです。」
  • ペットの急死から立ち直れません・・→ 現実を受け入れられないことの実体は、何のことはない、自分への執着である
    「まず、愛の中にある利己心に気づいてください。夫を自分の都合に合わせて愛する、娘を自分に属するものとして愛する、ペットを自分の所有物として愛する、そのような愛は本質的にエゴイズムだと気づいてください。娘には自由に行動する権利があり、ペットにも自由に行動する権利があります。ということは、ペットには死ぬ自由があるのです。ペットが死んだから悲しむのは、飼い主の傲慢であり、利己心でしかありません。その認識の上に立って、次に、真実の人間関係を築いてください。(略)
    真実の人間関係は甘えではありません。また打算的な結びつきでもありません。お互いが相手を人間として認め合って、赦しあっている関係です。」
  • ぼけた義母をみていると幸せなことなのかどうか・・→ そのまるごとの存在を肯定することが唯一の幸福への道
    「目が見える人は幸福で、目が見えない人は不幸だ、なんてことはありません。目が見える人のうちにも、不幸な人はいっぱいいます。目が見えないけれども、幸福に生きている人もいっぱいいるのです。わたしたちは、どうも人間をロボットのように部品で組み立てられている存在に思っているのではないでしょうか。部品の寄せ集めと見るから、頭の悪い人間より頭のいい人間のほうが上等で、目が見えない人より目が見える人の方がいい、足の不自由な人より健脚の人がよく、心臓の悪い人より健康な心臓の人のほうがよい、といったふうに判断するのです。(略)
    人間は「まるごと」の存在です。わたしたちはほとけさまから、この「まるごと」のわたしという存在をお預かりしているのです。(略)
    わたしといった存在、自分といった存在は、ほとけさまからお預かりしているものです。(略)
    わたしたちはお預かりしたままの自分を、そのままお預かりしなければならないのです。(略)
    わたしたちはみな、いまある、そのままで幸福に生きることが出来るのです。怠け者は怠け者のそのままで、目の見えない人は目の見えないそのままで、幸福に生きることがでます。それなのに、わたしたちは、ややもすると自分はこのような欠点があるから不幸だ、と考えます。そして他人をうらやましく思うのです。そいういう考え方でいる限り、わたしたちは幸福になれません。」

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