2015年5月14日木曜日

【一枚起請文】

浄土教の祖師として、釈迦牟尼仏に始まり日本に伝わり現在に至る歴史を振り返っても、極めて革命的な位置を占めると思われる宗教家法然の最期の言葉です。
浄土宗という宗派の祖師であり、むしろその思想の完成者は浄土真宗の祖師親鸞聖人であるという認識が常識かも知れません。
しかし私は、日本の数々の偉大なる仏教における宗教家で、最も偉大であり、重大な位置を占める人は、この法然上人であると信じて疑いません。
また、その伝えられる人柄や言葉からも、非常に共感する、というか最も自分が帰依したいと思えるのもこの法然上人のような気がしてなりません。
そんな上人が死の2日前に残した短いが、浄土教の思想が集約された重要なエッセンスがこの「一枚起請文」であります。

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【一枚起請文】

唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。

ただし三心四修と申すことの候うは、
皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。

この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらに同じうにして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

証の為に両手印をもってす。

浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。

源空が所存、この外に全く別義を存ぜず。
滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

建暦二年正月二十三日 大師在御判

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法然上人のご遺訓ですから勿論浄土宗のCDから覚えました。
覚えてしまえばもう違和感はないのですが、はじめはどうもその構成及び言い回しに何か違和感を感じ、どうしても流れるように覚えられず、意外にも倍の文字数がある「修証義」第1章の総序以上に苦労しました。
内容が念仏に専念することに尽きますので、所謂南無阿弥陀仏だけに専念して仏法に帰依しているとは言えない自分としては、これをいざ自分の日常で思い起こして心の支えにしていけるかというと、ちょっと疑問符がついてしまいます。
浄土真宗の経文類も同様なことが言えます。

遜文侍の仏道世界
経文を知る


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