2015年5月14日木曜日

法施は僧侶である証でもあるというのに・・・

仏法ブログは、「遜文侍の本日」の毒舌とは一線を画して、自省と人生の日々の生活の中での仏法についての「気づき」を記録するために立ち上げたのですが、立ち上げ直後、悪い意味で衝撃を受けた記事を見てしまい、こんなネガティブなトーンになってしまいました。とにかく唖然とする記事。

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(南日本新聞から編集抜粋)

住職 読経ボランティア/●●寺
月1回老人施設を訪問 入所者「心が洗われる」

町の介護老人福祉施設に毎月、同市内の●●寺から住職が訪れて、ボランティアでお経をあげている。入所者にとっては、亡くなった伴侶や家族らに思いをはせる大切な時間。「お寺さんが来るのが楽しみ」と待ちわびている。
 同苑では自室でお祈りをする入所者が多かったことから、3年前、施設内の一室に大仏壇を置いた。このことが●●寺の住職(58)の耳に入り、毎月1回、約30分間の読経と説法に来るようになった。
 同寺は浄土真宗興正派だが、約20人の入所者は宗派を超えて念仏を唱える。住職は「亡くなった自分の両親と同世代の方々で話していて楽しいし、僧侶としても勉強になる。生きていてよかったと思えるお手伝いができれば」と話している。(略)

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絶句。

読経が「ボランティア」とは何事でしょうか?

これは当たり前の僧侶の姿ではありませんか。これこそ日常の風景ではないでしょうか。

法施は僧侶の本職であり、それは所謂布施の対価としてなされるものでは全くない筈なのに、「ボランティア」とは何?

この僧侶としての姿そのままがどうして記事になり、「ボランティア」になってしまうのか、皆目わかりません。

ここでいう「ボランティア」は本業を無料でやった、という意味以上のものは何もないのでしょうが、これは仏法も僧侶もボランティアもあまりにバカにしています。記事にした人間のお粗末極まりない認識に問題があるが、僧侶はこれを見て怒らないのでしょうか?
ところで、「宗派を越えて」って、浄土真宗は一般的な観音経等の法華経や般若心経等も読経できないと思いますが・・・。

しかし、普段の読経は法施ではないと断言しているようなものであります。

仏教寺院の形骸化と本気で弘法する気がないという堕落の実体は、残念ながら遠藤誠氏の指摘のとおりでありました。

まともにやっていらっしゃる僧侶の皆様には申し訳ありませんが、仏法と民を侮辱した此の記事に一言いわせていただきました。

(2006.8.29)

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