2015年5月14日木曜日

やりなおし

「我々が、人を叱るとか、人に注意するとかいう場合によく考えてみますと、口先ではいろいろ『お前のために言っているんだ』とか言っておっても、腹の中では、自分の顔に泥を塗られたとか、或は、相手の人が自分の思うとおりにならないことに対する怒りとか、不満とか、或は自分の立場を無視されたことに対する怒りとか、そういったものが、本当は自分の中にあって、それで相手に対して『このヤロー』とか『そんなのやめろ』とか『こうやれ』とか言って、呵責きしをやっている場合が、少なくない。」

遠藤誠「道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門/現代書館」


「この戯論やくだらない諍論が、非常に多いですね。(略)
お互いに後味の悪い煩悩だけが残ってしまいます。(略)
いずれにしても、人が人を説得するという点から見れば、言葉というものは無力なものです。人を説得するのに最もいい方法は、言葉ではなく、行動であります。(略)
今の日本人は、すぐ『切れて』人の悪口を言い、人を責め立てて、怒り狂った目をして人をにらみつけますが、それはすべてアホのやることなのです。だいたい、相手に対して『馬鹿野郎』と言ったり、『怒目を以って人を』にらみつけたりすることによって、相手が心の底から改心したり、事態が好転したりすることはないですね。おおむね、その結果は、まずいことになります。(略)
怒りは、結局は怒った人を滅ぼす敵なのです。お釈迦さまも言っています。『人間の心をむしばむ三つの猛毒は、貧すなわち欲と、瞋すなわち怒りと、癡すなわちバカである』と。」


遠藤誠 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第四巻/現代書館

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本日の発見でも毒づきでもないし、子育て記録にもいれたくない。
「仏法」に書くしかない、と思うと同時に、自分から仏法が遊離してしまっている事実を自覚し愕然とした。

最低の気分である。

長男は祖父母の家に泊まるといつも反抗的になって帰ってくるのだが、この2泊後、迎えにいって帰らずに公園で遊ぶために出掛けると、やはり娘と自分が来たことが気に食わんばかりとなった。

あらためて怒らないことを実践してきた自分の中で何かがキレた。

正直、公園なんか行かなくてよいなら、誰がこんなところに行くか。
息子の顔色伺ってまで娘とのバランスを取ったり、自分の休日の時間を全部返上して、やりたいことが全く遅々として進まない状態に耐え続ける必要があるのか。

怒り狂った自分の声は広大な公園の多くを固まらせ、息子をど突き、罵詈雑言を浴びせ、どっかに行ってしまえと吐き捨てた。
公園の家族達が茫然自失となる中、泣いて謝る息子を後に、自分は娘の手を引き退散した。
誰もがまさに虐待親を目の前に観たと思ったことは間違いない。
それい値する行為と情景であった。
この時の周囲の人間の表情を私は一生忘れられないだろう。

祖父母の家で事態は収拾したが、自分の腹の中とこのかつてない最悪の後味は消えるどころか、重さを増して、今に至っている。

息子はけろっとしていつもの夜を過ごして一緒に寝ることを単純に喜んでいたが、私は自分の愚かさ、怒りの制御の失敗、これまでの自分の心構え・精神性がすべて水の泡になった気分である。

実際そうである。

本当にどうしようもない親であり、人間であり、感情の発露の仕方であり、これが自分の最低最悪の汚点である。
自分の精神制御術を本格的に再考する必要があると思う。
こんな繰り返し(今回は制御期間が長かった分最悪の出方だった)はもうダメである。絶対に許される話ではない。

いつかその感情の流れに随うが故に、人殺し沙汰の渦中に身を置く最も愚かなことさえ制御できずに呼び起こす可能性が自分には内包されていることが昔から自覚している、というのが正直な自己分析だ。
これを戒め精進するために出会った教えは最早自分の中では完全に形骸化してしまっている。この弱さ愚かさには教えは「ほら、言ったとおりだろう」という見解しかださないだろう。
実践が伴っていない頭の中だけの教えなど百害あって一利なし。

さあ、どうする? 本当に自分の身の処し方がわからなくなった。
贖罪のために何ができるのか。今はただこの身体と精神をもてあましている自分がいる。
子どもに迎合しすぎ、自分の限界を超えたといえばそれまでだが、そんな単純な話ではないだろう。実際、迎合しているつもりはなかったし、自分の仕事外の現在の時間の過ごし方はこれしかない、という状況に落ち着いたのが現在の自分であり、実際子どもたちは誰よりも自分を頼りにしている。その自分の不甲斐なさはそのまま子どもに跳ね返ることも必至である。
羅針盤が狂ったら御仕舞いだ。でも明らかに狂っている。それは許される範囲の社会的人間像からははみ出し過ぎている。

これを救う唯一の行き方である宗教心・信心を形骸化せず、行為と一体化し、それをすべての人生に置き換えるためには、自分は今何をすべきなのか。

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「「喧嘩をしようと思ったら、まず合掌してから始めろ」と。これはいい。「まず合掌」、合掌したらいやでも合掌の世界がそこに開かれ喧嘩にはならない。つのる思いを、暴走しそうになる自分の思いや行動を一瞬押さえて、「先ず合掌」をする。これができれば、展開する人生の景色は随分と変わってゆくことであろう。」

青山俊董 「般若心経ものがたり/彌生書房」


「お母さんになる日が来たら、お母さんのようなお母さんに、お父さんになる日が来たら、お父さんのようなお父さんになりたいと胸を張って言える子どもは幸せです。今日食べるものが少なかろうが、栄養が少し足りなかろうが、着るものがボロであろうが、そんなことで子どもの心は歪みはしないと思うのです。(略)
たった一人のお母さん、お父さんを誇り高きものに思うといった、最高の心の栄養をちょうだいしているのです。こういう子は、絶対に横を向かないでしょう。非行に走らないでしょう。(略)
子どもにとってかけがえのない、世にたった一人の父、世にたった一人の母が、最高に尊敬できる人、すばらしい人であることが、子どもにとってどんなに大切なことか。毎日食卓にのぼせる食事、毎日着せる着物もさることながら、父母の生き様そのものという精神的食物が、どんな内容であるかを考えなければならないと思うことです。」


青山俊董 生かし生かされて生きる/春秋社


「子どもを鑑として自らの生き方をかえりみるとき、親として、人として、落第でしかない私がそこにいる。わが子の前に「勘弁してくれ」と詫び、しかしながら、「この子の信に応えうる親にならなければならない」と子の前に姿勢を立て直し、立て直し、生きようとする。そういう人こそ、親らしき親になれる人ではないでしょうか。そいういう親の元にあって初めて、良き子も育つというものではないでしょうか。」

青山俊董 悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/光文社






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