2015年5月14日木曜日

【修証義・総序】

日本人の祖師による「経・律・論」の論にあたるところも、今日、お経として読経されています。
日本曹洞宗の開祖とされる道元禅師の正法眼蔵全95巻は大著ですが、そのダイジェストともいうべきものが、この「修証義」であります。
そしてその修証義の中でも、総論として「生死」「三時の報」というところに主眼をおいて佛教の考え方を明確にしたのがこの総序です。

この修証義の第一章「総序」は、仏道の基本的立場を生死の問題から導入するというインパクトのある幕開けとなります。人身及び仏法には中々会えないという「難値難遇」、「諸行無常」、「三時の業因と果報」といったことが、余すことなく説かれているのであります。

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修証義・総序

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、
生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、
生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、
是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、
己に受け難き人身を受けたるのみに非らず、遭ひ難き仏法に値ひ奉れり、
生死の中の善生、最勝の生なるべし、
最勝の善身を徒らにして、露命を無常の風に任すること勿れ。

無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、
身己に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、
紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親?従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、
己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。

今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、
大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
豪釐もたがわざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、
諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。

善悪の報に三時あり、一者順現報受、ニ者順次生受、三者順後次受、
これを三時という、仏祖の道を修習するには、
其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、
但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。

当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、
徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、惜しからざらめや、
悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて
悪の報を感得せざるには非ず。


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漢文そのまま読みの、これまで覚えてきたお経とは違い、古文とはいえ日本語には違いありませんので、やはり意味がそのまま頭に入ってくる分、覚えやすいのは確かです。

曹洞宗の所謂おつとめで読まれる修証義ですが、私の場合は言うまでもなく、曹洞宗を特別視しての経文の読経ではありません。
宗派を超えて、素晴らしい感ずるところのある「経・律・論」は積極的に読経する対象にしていきたい、そう思って総ゆる宗派における経文をあたってみているのです。


遜文侍の仏道世界
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