2015年5月14日木曜日

日めくり法話3  すべては「授かり」

「それにしても今の日本人は、まったく生活に追われ、生活に苦しんでいると思う。生活、生活と、生活のことばかり考えていると思う。これに対して、われわれ宗教に生きる人間は、まず生活というものに決定的な態度を確立しておかなければいけない。生活に追い回され、振り回されているのは、ほんとうの宗教に生きる人間のやることではない。では、生活に対する決定的な態度とはなにか。それは一口に言うと「授かりものだ」という言葉に尽きます。だいたいわれわれがこの生理的肉体を保っていくうえに一番大切なものは何か。エコノミック・アニマルどもはすぐ「カネだ」という。しかし真実はそうではない。一番大切なものはまず空気です。空気がなければたちどころに死ぬ。次には水、あるいは光、温度、重力、気圧、それから食べ物がくる。カネなどはずうっとあとの何番目か何十番目にあげられるべきものだ。われわれ生きものは、なによりも大自然の恩恵の中に生かされているのです。これは「授かり」という以外にいいようがない。いくら貪っても、貯めても、空気が余計にあるわけではない。この俺がカネを出して貯えておればこそ気圧や重力があるというのでもない。もし適当な重力がなければ身体はふわふわと浮いて困るだろうし、適当な気圧がなければ身体が破裂するか押しつぶされてしまう。温度も、光も然りです。ここのところをまず心に刻みつけておかねばならないと思います。それから社会の恩ということです。(略)
��学生が)「僕たちの世代の人間は、誰だって社会の恩なんて考えていやしませんよ」と付け足した。(略)
私が教師の立場でその場にいたとしたら、ただちにいってやります。「面白い。社会の恩なんて全然感じないというなら、いますぐお前を素っ裸にして、なにももたせずに山の中に放り出してやる。そこで一人で生き抜いてみろ」と。(略)
人類社会の恩というものは、そんな浅薄な表づらだけのものではない。早い話がわれわれの身体にまとう布一切れ、食べる飯一杯、住む畳一枚、どれ一つをとっても、長い年月と大変な手数をかけてこそ与えられた、人類社会のたまものです。一枚の布を作るために綿の木を栽培し、糸を紡ぎ、布を織る。そこまでくるのに、人類の歴史において、どれほど長い年月の奥行きがあったか、米や麦にしても然り。木材や鉄にしても然り。金を出して買えばいいというものではない。(略)
人間社会において昔からの智慧や財産をただで使わせてもらっている有り難さ、またこれらをお互いに融通し合う有り難さだけは、決して忘れてはならないと思います。(略)
自分一人だけで生きておられるものでは絶対ないのだ。
(略)
われわれがもし「自分のもの」が一つでもあると思うなら、それだけですでに盗人をしていることになる。ほんとうに俺のものというものは一つもありません。にもかかわらず俺のモノと思いこむのは盗人に他ならない。実際に他にむかって貪りの対象となるものは、あったにしてもたかが知れている。まず九十九パーセント、九分九厘九毛までは「授かり」です。だから全くの手放しでも、九分九厘までの授かりで結構生きていかれるのだ。」



天地いっぱいの人生/内山興正/春秋社


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