2015年5月14日木曜日

ひろさちや氏近作の痛快

敬愛するひろさちや氏の論調は、最近になって冴えが鋭くなっており、嬉しい限りである。氏の本を50冊以上読んできてその論旨に変化はないし、特別な仕掛が本によって創られているというほど、インパクトの差は感じないのだが、集英社新書の「狂いのすすめ」がなぜか他の本より売れたらしい。それ以上に、編者との対談形式の近作「南無そのまんま」が良かった。

~「狂い」のすすめ~
「目的主義」「生き甲斐」が当たり前のようにまかりとおる現代の生き方は結局不幸なのだろう
人生の旅には目的地があってはならないのです。目的地に到達できるかできないか、わからないからです。目的地というのは「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何かの目的を設定し、その目的を達成するために生きようとするのは、最悪の生き方です。

趣味なし・居酒屋ばか騒ぎの大学生たちの中で呆れると同時に、常に居場所のなさに憂鬱だった学生時代を思い出し、携帯こそなかったが、これがまさにそのまんまの分析と納得
最近の若者たちは、すぐに携帯電話をかけます。あれば孤独を生きる訓練が出来ていないからです。さびしいものだから、誰かとつながっていないと安心できない。しかし、相手と酒を酌み交わすことはできません。酒を酌み交わすには、共通の話題がなければなりません。高尚な趣味がないと、会話はできません。でも、若者たちには若者だけではなしに大多数の日本人には、そのような趣味がない。それで、2人で静かに酒を酌み交わすことはできず、パーティを開いて大勢で騒ぐか、居酒屋でおだをあげるほか能がありません。そうでなければ、携帯電話で誰かにメールを送ることによって、自分は孤独ではないのだと自己説得せねばならないのです。

~南無そのまんま~
宗教は「信じる」ものではない
私はよく「どうしたら信仰心をもつことができますか」とか、「どうしたら宗教を信じられるようになりますか」という質問を受けます。でも、これぐらい馬鹿げた質問はありません。というのも「宗教を信じる」というのは、「誰かが誰かを信じるという人間関係とは全然慈眼が違う話だからです。(略)長年の付き合いの中で醸し出されるのが友情であり、信頼関係である。これが人間関係の基本だとすれば、宗教の基本は「信じさせてもらうこと」。宗教における「信」というのは、人と人との関係ではないからです。あたかも人間関係を語るかのように「私はどうすれば神や仏を信じられるでしょうか」と聞くのは、まさに自分の判断で信じようとしていることです。それは間違いです。宗教というのはそんなものではありません。神であれ仏であれ、絶対者が「私」をして信じさせてくれる、それが宗教です。私が信じるのではなく、信じさせてもらうのです。それが宗教の本質です。(略)仏教というのは「自覚宗教」であるということができます。自分が仏教者、仏教徒であると自覚したとき、われわれは仏教者、仏教徒になれるのです。そのとき、仏教を生活原理、生活の指針とするようになるのです。

老人の生き方のあり方はまさにこのとおり
いまの年寄りはよく「老いても明るく生きたい」なんていいますが、そんなのは、自分は馬鹿だと告白しているようなものですよ。(略)私は機会あるごとに、「日野原(重明)さんみたいな生き方をしようと思うな」と忠告しています。あえて暴論を吐けば、日野原さんのような生き方はもっと馬鹿にしたほうがいいと思います。年を取ってから、どうしてあんなに頑張らなければならないのか。各界で活躍している高齢者はできるだけ軽蔑した方がいいというのがわたしの考えです。マスコミの論調もそっちの方向にもっていかないといけません。そうでないと、「若さ」はプラスで「老い」はマイナスだ、あるいはエラければいいんだ、強ければいいんだ、カネさえあればいいんだ・・・という「畜生の価値観」はいつまでもなくなりません。

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