2015年12月26日土曜日

使いたくない「頑張る」と「努力」。


昨日の「縁」とも密接に関係がある話と思いつつ、こちらはひねくれ者と思われても仕方ないかもしれません。

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どうしても好きになれない、使うのも耳にするのも抵抗がある言葉
「頑張る」と「努力」。

被災地を巡って、必ずといって良いほど目につく言葉が「(災害/被災に)負けるな」「頑張れ」という文字です。

地震等の天災に対して「負ける」「頑張る」というのは何でしょう。
その境遇に悲観したら、絶望したら、負けたことになるのでしょうか。
天災に対して勝ち負けで語ることは思い上がりだと思います。
また、被災者を鞭打つ言葉でしかないと感じます。
被災地自身から出た言葉として「頑張ろう○○」(○○は被災地名)がよく使われますが、自分が被災者だったら正直「違うだろ?」と返したい(実際東日本大震災時、そう思いました)。

仏法にいう「頑張る」は「我を張る=自分への執着」です。

日常に何気なく使っている「頑張る」も決して意味が異なるとは思いません。
「苦しさに負けず努力する」というニュアンスでしょうか。
なぜ苦しさを感じるのかというと「思うがままにならないもの」を「思うままにしようとする」ため。
その苦しさを超えるためにする努力は、ますます思うがままにならないものを思うがままにしようとする「苦」に他ならない。

これは仏法の「精進」とは異なる、人を幸せにしない行為であり心のベクトルだと考えます。これも重要な精神の一つである「中庸」からも離れる方向です。


そこで多くの日本人が大好きな言葉「努力」です。

努力こそ尊いと言ってきたこの国の教育・一般論に対して、私は、

「努力したからこそ報われない 」

という世間常識の逆説が真理ではないかと考える人間です。

思い通りにするため、こういう結果を出してやるという思いがあって「努力」するわけです。

それは言い換えれば、現状に満足できないから。

現状が気に食わないことを公言するのと一緒なのです。
なおここでは、好きで夢中になっていることに「努力」という言葉は使わないとします。

途中経過、プロセスを楽しむ、プロセスにこそ意義を持つ場合、やはり努力とは言いません。

あくまでも、結果のため、今の状況から結果を変えるために、歯を食いしばって取り組んでいる状況が「努力」。
そう「努力」を定義すると、その行為に尊さを感じることができません。

努力至上主義は『自力思想』です。

人は頑張れば目標を実現できる、努力こそ成功の王道、努力こそが道を切り開くってやつです。

対して、流れに身をゆだねつつ、結果ありきではなく、目の前のことに念を入れて取り組む、という姿勢の根底にあるのが『他力思想』だと思います。

『努力は神への宣戦布告』。

作家小林正観氏が言った私の共感する言葉です。

そのとおり、運を味方にできない姿勢。だから報われない。
思いを持たず、流れに身を任せ、夢中になれることは楽しんでやる。

努力「しても」報われない。
のではなく
努力「したから」報われない。

すると必ず、努力なくして人間は進化しない! という反論が聞こえてきます。

でも本当に努力が進化の元なのでしょうか? 
「流れに身をゆだねつつ、結果ありきではなく、目の前のことに念を入れて取り組む」。

これではダメですか? 

努力至上主義が善とされる時代にそろそろ終止符を打つべきと思っているのは私だけではない気がします。

「縁」の他に「他力」も生きる灯火の一つです。

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