これは専ら真言宗におけるスタンダードで、これまで曹洞宗修証義の第三章「受戒入位」にある道元禅師の規定する「十重禁戒」に慣れ親しんできたのでちょっと内容の偏りが気になったりするが、こういう10の戒律もあるという知識として知っておきたいと思いました。
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弟子某甲盡未来際
不殺生
不偸盗
不邪淫
不妄語
不綺語
不両舌
不悪口
不慳貪
不瞋恚
不邪見
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佛道の戒律というのは宗派毎に色々あるのが現状だし、だいたい僧に科せられる戒律は大変に数の多いもの(あくまで小乗の僧かもしれませんが)ですが、在家の我々が心にとめるという点では、道元禅師が正法眼蔵の中で唱えて、修証義の第3章「受戒入位」で示されている「十重禁戒」が内容としては一番しっくり来ます。といいながらもスタンダードな単体の経典としてはこの真言宗の「十善戒」も知っておく必要があろうかと覚えました。どうも「口」を封じる傾向の強い内容であります。
(2006/06/05)
2006年7月4日火曜日
2006年7月3日月曜日
【七仏通戒偈】
仏教を一言で言うとこれです。
「悪い事はしない。善い事をする。すると心は清らかになる。これが仏の教え。」
何とストレートな話でしょうか。
七つの仏が十三仏真言のようには出てこないが・・と思っていたが、これは釈尊の前の仏(釈尊が七番目)から釈尊まで七台に渡って面々と行持されてきた教えですよ、という意味での「七仏通戒偈」であることがわかりました。
ということですから、最後の行は「ぜしょ・ぶっきょう」ではなく、「ぜ・しょぶつ・きょう」です。
-----------------------
諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教
------------------------
今更ここでなぜこの経文・・?というくらいに、仏教宗派どころか大乗・小乗も貫いての根本の教えがこれであります。「悪いことするな、いい事しろ、すると心が清らかになる。これが仏の教え」という強烈な単純メッセージは、子どもへの道徳観植え付けと何ら変わらないようですが、やはり行き着くところはこれしかないのでしょう。これは音のもっていない唯一の暗記お経です。(2006/06/02)
「悪い事はしない。善い事をする。すると心は清らかになる。これが仏の教え。」
何とストレートな話でしょうか。
七つの仏が十三仏真言のようには出てこないが・・と思っていたが、これは釈尊の前の仏(釈尊が七番目)から釈尊まで七台に渡って面々と行持されてきた教えですよ、という意味での「七仏通戒偈」であることがわかりました。
ということですから、最後の行は「ぜしょ・ぶっきょう」ではなく、「ぜ・しょぶつ・きょう」です。
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諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教
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今更ここでなぜこの経文・・?というくらいに、仏教宗派どころか大乗・小乗も貫いての根本の教えがこれであります。「悪いことするな、いい事しろ、すると心が清らかになる。これが仏の教え」という強烈な単純メッセージは、子どもへの道徳観植え付けと何ら変わらないようですが、やはり行き着くところはこれしかないのでしょう。これは音のもっていない唯一の暗記お経です。(2006/06/02)
2006年7月2日日曜日
【大悲心陀羅尼(大悲呪)】
臨済・曹洞の禅宗においてよく読誦されるいわゆる「陀羅尼」です。
陀羅尼は梵語(サンスクリット語)を漢字で音写したものであるために、漢字の経文から意味をとることはできません。そして、その漢字を日本語発音で読んでいるわけですから、「呪」とあるように、ほとんど呪文というか暗号のようなものであります。
「修証義」のように意味を噛みしめながら読むことのできるお経だけではなく、このような呪文もまた仏道の幅の広さ、奥の深さかもしれません。
この大悲呪は『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典の中の陀羅尼部分だけをとり出したものです。
これまでも、「十三仏真言」「光明真言」という真言宗における定番の陀羅尼を覚えたり、般若心経でも有名な「ぎゃーていぎゃーてい」のくだりなどで陀羅尼に接してきたわけですが、今回のこのように本格的な長さをもつ陀羅尼は初挑戦です。
-------------------------------------------
なむからたんのーとらやーやー。
なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー。
ふじさとぼーやーもこさとぼーやー。
もーこーきゃーるにきゃーやー。えん。
さーはらはーえいしゅーたんのーとんしゃー。
なむしきりーといもーおりやー。
ぼりょきーちーしふらーりんとーぼー。
なむのーらー。きんじーきーりー。
もーこーほーどー。しゃーみーさーぼー。
おーとーじょーしゅーべん。おーしゅーいん。
さーぼーさーとーのーもーぼーぎゃー。
もーはーてーちょー。とーじーとー。えん。
おーぼーりょーきーるー。ぎゃーちーきゃーらーちー。
いーきりもーこー。ふじさーとー。
さーぼーさーぼー。もーらーもーらー。
もーきーもーきー。
りーとーいんくーりょーくーりょー。
けーもーとーりょーとーりょー。
ほーじゃーやーちーもーこーほーじゃーやーちー。
とーらーとーらー。ちりにーしふらーやー。
しゃーろーしゃーろー。もーもーはーも-らー。
ほーちーりー。ゆーきーゆーきーしーのーしーのー。
おらさーふらしゃーりー。はーざーはーざ。
ふらしゃーやー。くーりょーくーりょー。
もーらーくーりょーくーりょー。
きーりーしゃーろーしゃーろー。
しーりーしーりー。すーりょーすーりょー。
ふじやーふじやー。ふどやーふどやー。
みーちりやー。のらきんじー。ちりしゅにのー。
ほやものそもこー。しどやーそもこー。
もこしどやーそもこー。
しどゆーきーしふらーやーそもこー。
のらきんじーそもこー。
もーらーのーらーそもこー。
しらすーおもぎゃーやーそもこー。
そぼもこしどやーそもこー。
しゃきらーおしどーやーそもこー。
ほどもぎゃしどやーそもこー。
のらきんじーはーぎゃらやーそもこー。
もーほりしんぎゃらやーそもこー。
なむからたんのーとらやーやー。
なむおりやーぼりょきーちーしふらーやーそもこー。
してどーもどらー。ほどやー。そーもーこー。
-----------------------------------------------
臨済宗といえば大悲心陀羅尼、というくらいメジャーな陀羅尼ですが、曹洞宗大本山永平寺の読経を手本にして覚えました。永平寺の木魚の音の重厚さ、段々加速していくかなりのスピードをもった読経という特徴からも、リズミカルであるが故に、他の経文を繰り返し聞くことに比べて、随分と楽しんでできてしまった印象があります。
また、修証義をはじめとする日本語の意味のしっかりした経文は、いつまでも意味を追いながら読誦するが故に、未だにぶっ通しで諳じられるというには、立ち止まりながらという状態であるのに対して、般若心経もそうでしたが、意味を追わずに完全に音で覚えてしまうという種類のこれは最たるものであります。
実は、このタイプの読経のほうが読んでいてかなり気持ちがいいのです(心がこもらなくなりがちということの裏返しなのですが)。
(2006/05/27)
陀羅尼は梵語(サンスクリット語)を漢字で音写したものであるために、漢字の経文から意味をとることはできません。そして、その漢字を日本語発音で読んでいるわけですから、「呪」とあるように、ほとんど呪文というか暗号のようなものであります。
「修証義」のように意味を噛みしめながら読むことのできるお経だけではなく、このような呪文もまた仏道の幅の広さ、奥の深さかもしれません。
この大悲呪は『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典の中の陀羅尼部分だけをとり出したものです。
これまでも、「十三仏真言」「光明真言」という真言宗における定番の陀羅尼を覚えたり、般若心経でも有名な「ぎゃーていぎゃーてい」のくだりなどで陀羅尼に接してきたわけですが、今回のこのように本格的な長さをもつ陀羅尼は初挑戦です。
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なむからたんのーとらやーやー。
なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー。
ふじさとぼーやーもこさとぼーやー。
もーこーきゃーるにきゃーやー。えん。
さーはらはーえいしゅーたんのーとんしゃー。
なむしきりーといもーおりやー。
ぼりょきーちーしふらーりんとーぼー。
なむのーらー。きんじーきーりー。
もーこーほーどー。しゃーみーさーぼー。
おーとーじょーしゅーべん。おーしゅーいん。
さーぼーさーとーのーもーぼーぎゃー。
もーはーてーちょー。とーじーとー。えん。
おーぼーりょーきーるー。ぎゃーちーきゃーらーちー。
いーきりもーこー。ふじさーとー。
さーぼーさーぼー。もーらーもーらー。
もーきーもーきー。
りーとーいんくーりょーくーりょー。
けーもーとーりょーとーりょー。
ほーじゃーやーちーもーこーほーじゃーやーちー。
とーらーとーらー。ちりにーしふらーやー。
しゃーろーしゃーろー。もーもーはーも-らー。
ほーちーりー。ゆーきーゆーきーしーのーしーのー。
おらさーふらしゃーりー。はーざーはーざ。
ふらしゃーやー。くーりょーくーりょー。
もーらーくーりょーくーりょー。
きーりーしゃーろーしゃーろー。
しーりーしーりー。すーりょーすーりょー。
ふじやーふじやー。ふどやーふどやー。
みーちりやー。のらきんじー。ちりしゅにのー。
ほやものそもこー。しどやーそもこー。
もこしどやーそもこー。
しどゆーきーしふらーやーそもこー。
のらきんじーそもこー。
もーらーのーらーそもこー。
しらすーおもぎゃーやーそもこー。
そぼもこしどやーそもこー。
しゃきらーおしどーやーそもこー。
ほどもぎゃしどやーそもこー。
のらきんじーはーぎゃらやーそもこー。
もーほりしんぎゃらやーそもこー。
なむからたんのーとらやーやー。
なむおりやーぼりょきーちーしふらーやーそもこー。
してどーもどらー。ほどやー。そーもーこー。
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臨済宗といえば大悲心陀羅尼、というくらいメジャーな陀羅尼ですが、曹洞宗大本山永平寺の読経を手本にして覚えました。永平寺の木魚の音の重厚さ、段々加速していくかなりのスピードをもった読経という特徴からも、リズミカルであるが故に、他の経文を繰り返し聞くことに比べて、随分と楽しんでできてしまった印象があります。
また、修証義をはじめとする日本語の意味のしっかりした経文は、いつまでも意味を追いながら読誦するが故に、未だにぶっ通しで諳じられるというには、立ち止まりながらという状態であるのに対して、般若心経もそうでしたが、意味を追わずに完全に音で覚えてしまうという種類のこれは最たるものであります。
実は、このタイプの読経のほうが読んでいてかなり気持ちがいいのです(心がこもらなくなりがちということの裏返しなのですが)。
(2006/05/27)
2006年7月1日土曜日
【宝塔偈(妙法蓮華経見宝塔品第11)】
妙法蓮華経見宝塔品第十一の偈部分です。法華経ですからやはり日蓮宗の定番です。
法華経の世間への布教を推賞するというその中味も正に日蓮の最も狙ったところですから、重宝されるわけです。
法華経の世間への布教を推賞するというその中味も正に日蓮の最も狙ったところですから、重宝されるわけです。
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『宝塔偈』
此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然
如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進
是名持戒 行頭陀者 則為疾得 無上仏道
能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地
仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼
於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養
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前の経文から2日しか経っていないのは初めてでしょう。実は舍利礼文と宝塔偈は同時に聞き始めて、だんだん慣れてきたところで一気に暗記作業を行ったため、こんなに近い暗唱達成となりました。字数も、漢字ばかりの「正信偈」の840字から100に満たない小品に切り替えると、案外覚えるのが早いという印象です。(2006/05/11)
2006年5月29日月曜日
宗教の本質=佛教の本質
これまで、2年近くにわたり佛道を参究し続けてきたところですが、他人の言葉で、宗教の本質・実体をこれほど的確に表現した文章に未だかつてあったことはありませんでした。
とかく綺麗事な言い草の多い、この手の話で、まさにこの内山興正禅師の論法は、(おこがましい表現を承知で申しあげれば)私の宗教に辿り着くまでの道程をそのまま表現してくれたかのようであります。
恐らく、世の良識ある私の周りのほとんどの人々(多くが無宗教というか葬式の場合だけの宗派を心得るだけの宗教家でありますが)は、この内山興正禅師の文章の中段「わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい」という、この心境で毎日を過ごされ、人によってはそのまま年老いていくことと思います。
しかし、そこで人間の精神が止まってしまっては、人間として生を授かったとしても「未熟者」であると言わざるを得ません。その人の語る言葉に、力は感じません。真実を観じることはできないのです。
「何らかの宗教心」それに類するものに辿り着かずに老いている人の言葉に、今、私は説得性をもって受け止めることができません。
それは結局、世の最も重要な法則や真理に背を向けているからに他ならないからです。
「生」を明きらめ「死」を明きらめるところから始めて、「人生の最も重きを置くべき大切なこと」を考えるという作業を怠っているからでしょう。
以下は、内山興正禅師の絶版の名著「観音経十句観音経を味わう」のひとつの章の全文近い分量を抜粋したものですが、あまりに深く共感するところがあったので、重要な部分をすべてここに掲載させていただきたいと思います。
前半は、宗教全般の本質を世の中の冷めた視線の分析も含め、現世利益新興宗教への痛烈批判、後半は宗教に生きる人間の姿勢について、そして釈尊及び道元禅師の仏道が、いかにその姿勢の上でぴったりとマッチするものであるのか・・・あたかもこの自分の宗教に辿り着くまでの思考回路を全部説明したくださったかのようで(というより内山興正禅師の宗教に辿り着いた時の感動が自分のついこの間、仏道に出会ったときの感動と全く同じであることに、鳥肌が立たんばかりに痛く感動をしたのであります(2006/5/29)。
宗教における信仰の心とは、洋の東西をとわず、幼児のごとく素直純心にひざまずく心でなければならないのでしょう。
-それでは宗教に入るには、ほんとうにただ幼児のごとく素直純心でありさえすればいいでしょうか-。
いま「幼児のごとく」ということから思いだすのはルソーのつぎの言葉です。「もし私にもっともなさけない愚行を描けといわれるならば、私は教義問題を子供に教えている衒学の徒を描くであろう。」(エミール)と。
なるほど神経質な宗教マニアみたいな人間が、子供相手に大まじめにむずかしい教義問題を説いている漫画でも想像しながら、このルソーのことばをみてみると、ちょっと思わずふき出させられます。
-「キリスト教を信ずるという子供、かれはいったい何を信じているのか。それは神を信ずるのではなく、世の中には、神と称する或るものがあると、彼に話したピエールやジャックの言葉を信ずるということである」
なお皮肉なるルソーは、さらに「子供らの信仰および多くのひとびとの信仰は、地理の問題である」とかたりはじめることによって、ひじょうに穿った話をかいています。
「かれはメッカに生れないで、ローマに生れたことによって恵まれているであろうか。-
ある人はマホメットは神の預言者であるという話をきく。それで彼は『マホメットは神の預言者である』という。また他の老はマホメットは悪漢だということをきく。それで彼は『マホメットは悪漢である』という。この二人が、もしその位置を代えたならば、何れもが反対のことをいうであろう。投句は二人が斯くもきわめてよく似ているのに、人が天国に、一人が地獄に振り向けられるということがあり得るだろうか」と。
-メッカはマホメット教の本場、ローマはローマカトリックの本場なので、そのおのおのの本場に生れた似かよった人間が、そのおのおのの本場の話をきかされて、同じように鸚鵡返しに、しかしその正反対のことをいうことによって、一人は天国行き、一人は地獄行きとなってしまう奇妙さを曝いて、つまり無邪気、素直な善男善女たちを皮肉っているのです。
ところでわたしがこのルソーの言葉をここに紹介せざるをえないのは、この言葉そのままが、いまの日本では同一画面で、しかも立体的に演ぜられて、われわれに見せていてくれているからです。
いろいろな宗教と称する教団の教祖たちが、さまざまなことをあたかも「権威あるものの如く語って」、「幼児のごとく」すなおな無知性の人々を狂信せしめているからです。「この神さまでなければ救われない」、「この宗教でなければ幸福になれない」、などなどと。
しかしまだ「救われる救われない」の話ならともかく、「これでなければ病気はなおらない」「これを信じなければ一家が死に絶える」などというドギツイ言葉で、まるで競り市のごとく狂気的に、「宗教」と称する雑貨品をセリ売りしているからです。
「端初(はじめ)に神ありき」-こう説きはじめる神話的宗教に対して深い不信の念をいだかざるをえないわたしの気持ちはそこにあります。
そして同時に「病気をなおす」などということは、宗教としてはまったくふさわしくないのだと批判する「幼児ならざる、オトナの知性」をわたしはもたざるをえないのです。
じじつおおくの現代の冷静なる常識人たちも、こうした神話的宗教や我欲的宗教に狂信するひとたちをみて、なにか道化役者に対してのようなアワレミの念をもよおすと同時に、自分だけはせめてそのアワレな道化役者にはなるまいという、オトナの批判精神をわたしと同様もっているのじゃないでしょうか。
極端な狂信者が一方に存往すると同時に、「宗教など偏執者の妄想なのだ」とかたずけて、まったくそれから無関心でいようとする常識人たちが大多数存在するのも、きわめて充分な理由あることとおもわれます。
つまり狂信的宗教の競り市から、宗教という雑貨品を、われわれはなにもあえて買わなくてもいいのだし、その競り市にすら首をつっこまなくてもいい筈だからです。-「そんな競り市に首をつっこむことは下等な人間のやることだ。」と。
しかしもしわれわれが内的要求からすこしでも宗教というものに関心を示さざるをえない場合、イエスさまの「幼児のごとくならずば」の言葉通りうっかり幼児のような心でいたら-現代日本では、そのような善男善女の純心素直な魂はたちまちにして八裂きにされてしまうことでしょう。われわれが宗教という危険地帯にすこしでも関心をもって立入ろうとする場合には、素直純心である以前に、まず充分オトナの知性、オトナの批判精神を身にまとっておかなくてはならないと、わたしはすでに学生時分からそう思っていました。
そして事実わたしの採った態度はつぎの如くでした。すなわちあらゆる我欲的宗教、神話的宗教、教権的宗教にたいしては十把ひとからげにサヨナラしてしまおう。のみならず端初に神話代りに形而上学をおく宗教からも、あるいは心理学をおく宗教からもサヨナラしてしまおう。
さらに釈迦やイエスに関する史実の精確なる研究と称するものをもって真の仏教、キリスト教だというもの、つまり史学や文献学、語学などを前提とする宗教からもサヨナラしてしまおう。
わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい。
わたしはわたしであればよく、ただ「自己の人生の真実」だけを追求しさえすればいいのだ、と-そんな気持で、学生時代以後、わたしは一宗一派の宗教には首をつっこまないという決心をしました。
-ところがこんなふうにわたしが「自己の人生の真実に生きようとするだけだ」とつぶやいたとき、「じつはワシもそうなんだよ」とヌッとわたしの前にあらわれたのが、お釈迦さまであり、道元禅師だったのです。
お釈迦さまは過去の神話のうえにのっかって人生をかんがえたのでもなければ、神話をかたりつつ人々に人生をお教えになったのでもありませんでした。ただ純粋に自己自身の人生の悩みから出発し、自己の人生を悩みつつ、自己の人生の「ゆきつく所」をひとびとにお教えになったのです。
「自己の依りどころは自己のみなり」(法句経)と。
そしてまた道元禅師も「仏道をならふといふは自己をならふなり」といわれます。
つまりお釈迦さまも道元禅師も、いかなる宗教家とも本質的にちがって、この私の行き方に共鳴してくださいました。
ところがこの道元禅師は、こんな態度から出発されておりながら、しかし同時にまったく古人の行履(あんり)に頻倒されます。
-これはいったいどういうことなのでしょう。
道元禅師の言葉によれば 「たとひ知識にもしたがひ、たとひ経巻にもしたがふ。みなこれ自己にしたがふなり。経巻おのれづから自経巻なり。知識おのれづから自知識なり。」(正法眼識自証三味巻)とあります。
「真実の自己を追求する」ということは「真実の自己を追求した先人知識に全傾倒する」ことであり、かかる先人知識に全傾倒することが、そのまま真実の自己を追求することなのだといわれるのです。
「仏祖の大道に自証自悟の調度あり。正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。……しかあるに自証自悟等の道をききて、麁人(そにん)おもはくは、師に伝受すべからず。自学すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり」(同所)。
つまり真実の自己を自証自悟するということは、「誰からも学ばないこと」だとおもっているのは、我執偏見のつっぱっている天然外道の所業でしかないといわれます。むしろ「真実の自己に生きる」ということは、真実の自己に生きた仏祖たちに、どこまでも喰いつき参学せねばならないのであって、それこそが真の「自証自悟」というものだというのです。
-「なるほど、そういえばそうだ。真実の自己に生きることと、我執をつっぱることとは別だ。」と。
-それでとにかくこんなお釈迦さまと道元禅師にヌッと顔を出されたとき、「だれが宗教なんていう雑貨品の競り市に首をつっこむものか」と決心していたわたしも、おもわずそれが仏教という宗教なのだということも忘れて、それにつき従うことに決心してしまったのです。
しかもなお私がめぐまれたことは、そんな決心をした私が、同時にこのお釈迦さま、道元禅師の流れをそのまま汲んで「坐禅とは自己に親しむことである。自分が自分を自分することである」といわれる、沢木興道老師にただちに参ずることができたからです。
そんなことから、学生時代からの決心にもかかわらず、いつのまにか出家してしまって、いま改めて思うのに、じつはこれこそが本当の宗教というものではなかろうかということです。
神話や形而上学やら、心理学や歴史考証を予め先行させたり、あるいはまた教理、教義、教権などが予め存在するような宗教は、曾つての時代には存立することができました。しかしそれは地球上の各地域が交通なしに各々独立に存在し、各地方に一宗教が圧倒的に独占企業でありえた時代の話です。
ルソーはなお、「コンスタンチノーブルにおいて、キリスト教を極めて馬鹿げたものとかんがえているトルコ人たちに、パリにおいてはみんながマホメット教のことを、何んとかんがえているかということを、見せてやりたい」といっていますが、たしかにいまや全地球上が一つになる時代が来、じじつコンスタンチノーブルの人がかんたんにパリで何を見、何を思うかの時代となっています。
してみればもはや宗教はたんに「この地方に生れたがゆえに、この宗教を信ずる」というルソーのいわゆる 「宗教は地理の問題である」時代ではなくなってきてしまいました。マーケットには世界中の 「宗教」が出揃っていて、われわれはいつでもそれらを手にとって見比べることができます。
しかし同時にこんなふうに、マーケットに出揃い、それらの見比べが可能となったとき、それらは何れもが「宗教」とは名づけられるべきでなく、たんに「宗教と名づけられた雑貨品」でしかないことがわかる時代となってしまったのです。
かくて「私は無宗教です」と、オトナの知性をもって云い切る絶対多数の現代人が生れでたことは、けっして不思議ではありません。わたし自身もまさにその幼児ならざるオトナでした。
そしてあらゆる過去の宗教から無関心、無関係になったとき、しかしそれでも「自分自身の人生をモテアマス悩み」はありました。この悩みをわたしは一体どこへ向かってとくべきか-こう悩みを内に抱いてとぼとぼと辿りはじめるべく決心したとき、いま申しあげたように、いままでの雑貨品的宗教とぱまったくことなった、お釈迦さまから道元禅師につながる宗教が、わたしの道として存在していたのです。
わたしが仏法の本筋とよびたいのはまさしくこの契機です。
つまり仏法の本筋とは、まず自己の人生をみつめるところから出発し、そしてどこまでも自己の人生の「ゆきつく所へゆぎついた道」を見いだしてゆくところにこそあるべきです。
自己の人生を掘りさげ深めてゆくところに、人類の普遍な道もあるべきであり、その普遍の道こそが真実の宗教でなければならないからです。
それでわれわれが仏教というものをみてゆく場合、―-仏教はふるい宗教なので、それこそいろいろなゴミクタが付着しておりますが、このゴミクタにかかわらず、かえってこのゴミクタのなかから、もっとも純粋なる宝を、-以上のような仏法の本筋を規準として-拾い上げてゆかねばならないのだと思います。
いまここでわたしが観音経をとりあげ、この観音経を味わってゆく態度も、ただこの仏法の本筋から床わってゆきたいとおもうのです。
とかく綺麗事な言い草の多い、この手の話で、まさにこの内山興正禅師の論法は、(おこがましい表現を承知で申しあげれば)私の宗教に辿り着くまでの道程をそのまま表現してくれたかのようであります。
恐らく、世の良識ある私の周りのほとんどの人々(多くが無宗教というか葬式の場合だけの宗派を心得るだけの宗教家でありますが)は、この内山興正禅師の文章の中段「わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい」という、この心境で毎日を過ごされ、人によってはそのまま年老いていくことと思います。
しかし、そこで人間の精神が止まってしまっては、人間として生を授かったとしても「未熟者」であると言わざるを得ません。その人の語る言葉に、力は感じません。真実を観じることはできないのです。
「何らかの宗教心」それに類するものに辿り着かずに老いている人の言葉に、今、私は説得性をもって受け止めることができません。
それは結局、世の最も重要な法則や真理に背を向けているからに他ならないからです。
「生」を明きらめ「死」を明きらめるところから始めて、「人生の最も重きを置くべき大切なこと」を考えるという作業を怠っているからでしょう。
以下は、内山興正禅師の絶版の名著「観音経十句観音経を味わう」のひとつの章の全文近い分量を抜粋したものですが、あまりに深く共感するところがあったので、重要な部分をすべてここに掲載させていただきたいと思います。
前半は、宗教全般の本質を世の中の冷めた視線の分析も含め、現世利益新興宗教への痛烈批判、後半は宗教に生きる人間の姿勢について、そして釈尊及び道元禅師の仏道が、いかにその姿勢の上でぴったりとマッチするものであるのか・・・あたかもこの自分の宗教に辿り着くまでの思考回路を全部説明したくださったかのようで(というより内山興正禅師の宗教に辿り着いた時の感動が自分のついこの間、仏道に出会ったときの感動と全く同じであることに、鳥肌が立たんばかりに痛く感動をしたのであります(2006/5/29)。
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「観音経十句観音経を味わう」内山興正/柏樹社より
※読みやすいように、改行、強調、編集を行っています
【三、仏法の本筋について】
(略)※読みやすいように、改行、強調、編集を行っています
【三、仏法の本筋について】
宗教における信仰の心とは、洋の東西をとわず、幼児のごとく素直純心にひざまずく心でなければならないのでしょう。
-それでは宗教に入るには、ほんとうにただ幼児のごとく素直純心でありさえすればいいでしょうか-。
いま「幼児のごとく」ということから思いだすのはルソーのつぎの言葉です。「もし私にもっともなさけない愚行を描けといわれるならば、私は教義問題を子供に教えている衒学の徒を描くであろう。」(エミール)と。
なるほど神経質な宗教マニアみたいな人間が、子供相手に大まじめにむずかしい教義問題を説いている漫画でも想像しながら、このルソーのことばをみてみると、ちょっと思わずふき出させられます。
-「キリスト教を信ずるという子供、かれはいったい何を信じているのか。それは神を信ずるのではなく、世の中には、神と称する或るものがあると、彼に話したピエールやジャックの言葉を信ずるということである」
なお皮肉なるルソーは、さらに「子供らの信仰および多くのひとびとの信仰は、地理の問題である」とかたりはじめることによって、ひじょうに穿った話をかいています。
「かれはメッカに生れないで、ローマに生れたことによって恵まれているであろうか。-
ある人はマホメットは神の預言者であるという話をきく。それで彼は『マホメットは神の預言者である』という。また他の老はマホメットは悪漢だということをきく。それで彼は『マホメットは悪漢である』という。この二人が、もしその位置を代えたならば、何れもが反対のことをいうであろう。投句は二人が斯くもきわめてよく似ているのに、人が天国に、一人が地獄に振り向けられるということがあり得るだろうか」と。
-メッカはマホメット教の本場、ローマはローマカトリックの本場なので、そのおのおのの本場に生れた似かよった人間が、そのおのおのの本場の話をきかされて、同じように鸚鵡返しに、しかしその正反対のことをいうことによって、一人は天国行き、一人は地獄行きとなってしまう奇妙さを曝いて、つまり無邪気、素直な善男善女たちを皮肉っているのです。
ところでわたしがこのルソーの言葉をここに紹介せざるをえないのは、この言葉そのままが、いまの日本では同一画面で、しかも立体的に演ぜられて、われわれに見せていてくれているからです。
いろいろな宗教と称する教団の教祖たちが、さまざまなことをあたかも「権威あるものの如く語って」、「幼児のごとく」すなおな無知性の人々を狂信せしめているからです。「この神さまでなければ救われない」、「この宗教でなければ幸福になれない」、などなどと。
しかしまだ「救われる救われない」の話ならともかく、「これでなければ病気はなおらない」「これを信じなければ一家が死に絶える」などというドギツイ言葉で、まるで競り市のごとく狂気的に、「宗教」と称する雑貨品をセリ売りしているからです。
「端初(はじめ)に神ありき」-こう説きはじめる神話的宗教に対して深い不信の念をいだかざるをえないわたしの気持ちはそこにあります。
そして同時に「病気をなおす」などということは、宗教としてはまったくふさわしくないのだと批判する「幼児ならざる、オトナの知性」をわたしはもたざるをえないのです。
じじつおおくの現代の冷静なる常識人たちも、こうした神話的宗教や我欲的宗教に狂信するひとたちをみて、なにか道化役者に対してのようなアワレミの念をもよおすと同時に、自分だけはせめてそのアワレな道化役者にはなるまいという、オトナの批判精神をわたしと同様もっているのじゃないでしょうか。
極端な狂信者が一方に存往すると同時に、「宗教など偏執者の妄想なのだ」とかたずけて、まったくそれから無関心でいようとする常識人たちが大多数存在するのも、きわめて充分な理由あることとおもわれます。
つまり狂信的宗教の競り市から、宗教という雑貨品を、われわれはなにもあえて買わなくてもいいのだし、その競り市にすら首をつっこまなくてもいい筈だからです。-「そんな競り市に首をつっこむことは下等な人間のやることだ。」と。
しかしもしわれわれが内的要求からすこしでも宗教というものに関心を示さざるをえない場合、イエスさまの「幼児のごとくならずば」の言葉通りうっかり幼児のような心でいたら-現代日本では、そのような善男善女の純心素直な魂はたちまちにして八裂きにされてしまうことでしょう。われわれが宗教という危険地帯にすこしでも関心をもって立入ろうとする場合には、素直純心である以前に、まず充分オトナの知性、オトナの批判精神を身にまとっておかなくてはならないと、わたしはすでに学生時分からそう思っていました。
そして事実わたしの採った態度はつぎの如くでした。すなわちあらゆる我欲的宗教、神話的宗教、教権的宗教にたいしては十把ひとからげにサヨナラしてしまおう。のみならず端初に神話代りに形而上学をおく宗教からも、あるいは心理学をおく宗教からもサヨナラしてしまおう。
さらに釈迦やイエスに関する史実の精確なる研究と称するものをもって真の仏教、キリスト教だというもの、つまり史学や文献学、語学などを前提とする宗教からもサヨナラしてしまおう。
わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい。
わたしはわたしであればよく、ただ「自己の人生の真実」だけを追求しさえすればいいのだ、と-そんな気持で、学生時代以後、わたしは一宗一派の宗教には首をつっこまないという決心をしました。
-ところがこんなふうにわたしが「自己の人生の真実に生きようとするだけだ」とつぶやいたとき、「じつはワシもそうなんだよ」とヌッとわたしの前にあらわれたのが、お釈迦さまであり、道元禅師だったのです。
お釈迦さまは過去の神話のうえにのっかって人生をかんがえたのでもなければ、神話をかたりつつ人々に人生をお教えになったのでもありませんでした。ただ純粋に自己自身の人生の悩みから出発し、自己の人生を悩みつつ、自己の人生の「ゆきつく所」をひとびとにお教えになったのです。
「自己の依りどころは自己のみなり」(法句経)と。
そしてまた道元禅師も「仏道をならふといふは自己をならふなり」といわれます。
つまりお釈迦さまも道元禅師も、いかなる宗教家とも本質的にちがって、この私の行き方に共鳴してくださいました。
ところがこの道元禅師は、こんな態度から出発されておりながら、しかし同時にまったく古人の行履(あんり)に頻倒されます。
-これはいったいどういうことなのでしょう。
道元禅師の言葉によれば 「たとひ知識にもしたがひ、たとひ経巻にもしたがふ。みなこれ自己にしたがふなり。経巻おのれづから自経巻なり。知識おのれづから自知識なり。」(正法眼識自証三味巻)とあります。
「真実の自己を追求する」ということは「真実の自己を追求した先人知識に全傾倒する」ことであり、かかる先人知識に全傾倒することが、そのまま真実の自己を追求することなのだといわれるのです。
「仏祖の大道に自証自悟の調度あり。正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。……しかあるに自証自悟等の道をききて、麁人(そにん)おもはくは、師に伝受すべからず。自学すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり」(同所)。
つまり真実の自己を自証自悟するということは、「誰からも学ばないこと」だとおもっているのは、我執偏見のつっぱっている天然外道の所業でしかないといわれます。むしろ「真実の自己に生きる」ということは、真実の自己に生きた仏祖たちに、どこまでも喰いつき参学せねばならないのであって、それこそが真の「自証自悟」というものだというのです。
-「なるほど、そういえばそうだ。真実の自己に生きることと、我執をつっぱることとは別だ。」と。
-それでとにかくこんなお釈迦さまと道元禅師にヌッと顔を出されたとき、「だれが宗教なんていう雑貨品の競り市に首をつっこむものか」と決心していたわたしも、おもわずそれが仏教という宗教なのだということも忘れて、それにつき従うことに決心してしまったのです。
しかもなお私がめぐまれたことは、そんな決心をした私が、同時にこのお釈迦さま、道元禅師の流れをそのまま汲んで「坐禅とは自己に親しむことである。自分が自分を自分することである」といわれる、沢木興道老師にただちに参ずることができたからです。
そんなことから、学生時代からの決心にもかかわらず、いつのまにか出家してしまって、いま改めて思うのに、じつはこれこそが本当の宗教というものではなかろうかということです。
神話や形而上学やら、心理学や歴史考証を予め先行させたり、あるいはまた教理、教義、教権などが予め存在するような宗教は、曾つての時代には存立することができました。しかしそれは地球上の各地域が交通なしに各々独立に存在し、各地方に一宗教が圧倒的に独占企業でありえた時代の話です。
ルソーはなお、「コンスタンチノーブルにおいて、キリスト教を極めて馬鹿げたものとかんがえているトルコ人たちに、パリにおいてはみんながマホメット教のことを、何んとかんがえているかということを、見せてやりたい」といっていますが、たしかにいまや全地球上が一つになる時代が来、じじつコンスタンチノーブルの人がかんたんにパリで何を見、何を思うかの時代となっています。
してみればもはや宗教はたんに「この地方に生れたがゆえに、この宗教を信ずる」というルソーのいわゆる 「宗教は地理の問題である」時代ではなくなってきてしまいました。マーケットには世界中の 「宗教」が出揃っていて、われわれはいつでもそれらを手にとって見比べることができます。
しかし同時にこんなふうに、マーケットに出揃い、それらの見比べが可能となったとき、それらは何れもが「宗教」とは名づけられるべきでなく、たんに「宗教と名づけられた雑貨品」でしかないことがわかる時代となってしまったのです。
かくて「私は無宗教です」と、オトナの知性をもって云い切る絶対多数の現代人が生れでたことは、けっして不思議ではありません。わたし自身もまさにその幼児ならざるオトナでした。
そしてあらゆる過去の宗教から無関心、無関係になったとき、しかしそれでも「自分自身の人生をモテアマス悩み」はありました。この悩みをわたしは一体どこへ向かってとくべきか-こう悩みを内に抱いてとぼとぼと辿りはじめるべく決心したとき、いま申しあげたように、いままでの雑貨品的宗教とぱまったくことなった、お釈迦さまから道元禅師につながる宗教が、わたしの道として存在していたのです。
わたしが仏法の本筋とよびたいのはまさしくこの契機です。
つまり仏法の本筋とは、まず自己の人生をみつめるところから出発し、そしてどこまでも自己の人生の「ゆきつく所へゆぎついた道」を見いだしてゆくところにこそあるべきです。
自己の人生を掘りさげ深めてゆくところに、人類の普遍な道もあるべきであり、その普遍の道こそが真実の宗教でなければならないからです。
それでわれわれが仏教というものをみてゆく場合、―-仏教はふるい宗教なので、それこそいろいろなゴミクタが付着しておりますが、このゴミクタにかかわらず、かえってこのゴミクタのなかから、もっとも純粋なる宝を、-以上のような仏法の本筋を規準として-拾い上げてゆかねばならないのだと思います。
いまここでわたしが観音経をとりあげ、この観音経を味わってゆく態度も、ただこの仏法の本筋から床わってゆきたいとおもうのです。
2006年4月5日水曜日
なぜ仏道か、なぜ宗教か
仏道を如何にして日常に融和させるか
仏道を自覚して早1年半、いや、まだたったの一年半・・映画鑑賞を記録して20年の歳月が経過していることを考えると、仏道の世界ではまだ言葉も話すことができない赤ん坊同様なのが自分であります。
しかし、何か遥か昔から自分の人生の価値判断には仏道があったのではないかと(都合が良いようですが)思うことがあります。
仏道に感銘を受け、毎日読経し、仏道を学ぼうと読書しても、日々の生活・人生にその本人の心、その本人の真髄が落ちていなければ、何にもなりません。
このところ、多くの生活の変化やあまりの日々の多忙さとめまぐるしい生活に、この仏道の根本精神がどうも言動に反映されているとは思えず、頭だけで仏道・仏道・・と唱えるだけの状況に陥っていたようです。
仏教関係本もおよそ200冊を読んできましたが、本当に重要な仏道の精神を端的に言おうとすると、あまりの膨大な体系もあって、どこから思い返していいか途惑う自分がいます。
そこで、あらためて、私が「なぜ仏道であるのか」ということのポイントを要約して、自らの頭を整理し、その精神をしっかりと心に再度落とし込みたいと考えました。
この作業を繰り返すことで、仏道について、ようやく自分の言葉で語ることが出来、生活を営む上での価値判断基準がきちっと無意識に仏道になぞらえているようになると思うのです。
そういう状況を意識的に目指す必要があろうかと思うのです。
人類の叡智の蓄積である宗教だけがキーとなる
親鸞聖人「歎異抄」の冒頭の言葉はこうです。『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり』。
この言わんとすることは、「信じて念仏の心が起こったその瞬間には阿弥陀仏の浄土に救われている」ということです。
つまり、仏道を自分が選択をして「いい教えだから信じよう」というのではなく、信じたいと思ったことは、そうなるように予定されていた。
そう、すべての世界宗教がそうであるように、仏道も予定説「信じる者は救われる」ことになっているのであります。
・・・換言すれば「救われる人間は、必ず信じられるように作られているのだから、本人が何をしようと救われているし、地獄に落ちる人は必ず神を信じないように作られているのだから、本人が何をしようと地獄に墜ちる」という根本があるため、自分が審美眼をもっているから優秀な宗教を選び取ることができたのだ、という思い上がった考え方はお門違いになります。
宗教が、道徳(修身)でもなく呪術でもなく西洋哲学でもなく科学でもない理由はここにあります。そして、これは宗教だけが許される発想であり、最も現代においては日常生活を営む中に「落ちていない」考え方といえます。だからこそ、宗教なのです。宗教しかこの発想を許すものはなく、宗教の発想こそが「なるほど!」と自分の生死を考えたときに回答のヒントを与えてくれる唯一の思考方法(思考という表現も、宗教の前では陳腐で、部分しか表現し切れていないと思いますが、他の表現方法が分からないので、仮にこう書きました)なのであります。
ですから、私が自分の選択により仏道の好き嫌いを語るというのは、宗教の精神・発想に矛盾するようですが、やはり頭の整理なくしては、何が仏道かも分かりません。実践のしようもありません。
私が「仏道」を歩む真の理由
そこで、これこそが仏道だという教えの7つの真髄をピックアップしてみました。
「仏教」の名を語りながらも、その本質は、釈尊に始まる正道の教えからは逸脱していると断ぜざるを得ない(具体的には「檀家制度」「追善供養」「死者への戒名」等)、現代日本における既成仏教(寺)の形式仏教を認めるようなことに甘んじることのない、真の仏法への自分の信心を確認する作業でもそれはあるのです。
一つの既成仏教の宗派に囚われたくない、囚われないからこそ仏道の本質である「出世間」の精神を保つことが出来る、そして仏祖面々の行持ともいえる真の仏道を大切にしていくことができる、という証でもあると自負するのであります。
仏道を自覚して早1年半、いや、まだたったの一年半・・映画鑑賞を記録して20年の歳月が経過していることを考えると、仏道の世界ではまだ言葉も話すことができない赤ん坊同様なのが自分であります。
しかし、何か遥か昔から自分の人生の価値判断には仏道があったのではないかと(都合が良いようですが)思うことがあります。
仏道に感銘を受け、毎日読経し、仏道を学ぼうと読書しても、日々の生活・人生にその本人の心、その本人の真髄が落ちていなければ、何にもなりません。
このところ、多くの生活の変化やあまりの日々の多忙さとめまぐるしい生活に、この仏道の根本精神がどうも言動に反映されているとは思えず、頭だけで仏道・仏道・・と唱えるだけの状況に陥っていたようです。
仏教関係本もおよそ200冊を読んできましたが、本当に重要な仏道の精神を端的に言おうとすると、あまりの膨大な体系もあって、どこから思い返していいか途惑う自分がいます。
そこで、あらためて、私が「なぜ仏道であるのか」ということのポイントを要約して、自らの頭を整理し、その精神をしっかりと心に再度落とし込みたいと考えました。
この作業を繰り返すことで、仏道について、ようやく自分の言葉で語ることが出来、生活を営む上での価値判断基準がきちっと無意識に仏道になぞらえているようになると思うのです。
そういう状況を意識的に目指す必要があろうかと思うのです。
人類の叡智の蓄積である宗教だけがキーとなる
親鸞聖人「歎異抄」の冒頭の言葉はこうです。『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり』。
この言わんとすることは、「信じて念仏の心が起こったその瞬間には阿弥陀仏の浄土に救われている」ということです。
つまり、仏道を自分が選択をして「いい教えだから信じよう」というのではなく、信じたいと思ったことは、そうなるように予定されていた。
そう、すべての世界宗教がそうであるように、仏道も予定説「信じる者は救われる」ことになっているのであります。
・・・換言すれば「救われる人間は、必ず信じられるように作られているのだから、本人が何をしようと救われているし、地獄に落ちる人は必ず神を信じないように作られているのだから、本人が何をしようと地獄に墜ちる」という根本があるため、自分が審美眼をもっているから優秀な宗教を選び取ることができたのだ、という思い上がった考え方はお門違いになります。
宗教が、道徳(修身)でもなく呪術でもなく西洋哲学でもなく科学でもない理由はここにあります。そして、これは宗教だけが許される発想であり、最も現代においては日常生活を営む中に「落ちていない」考え方といえます。だからこそ、宗教なのです。宗教しかこの発想を許すものはなく、宗教の発想こそが「なるほど!」と自分の生死を考えたときに回答のヒントを与えてくれる唯一の思考方法(思考という表現も、宗教の前では陳腐で、部分しか表現し切れていないと思いますが、他の表現方法が分からないので、仮にこう書きました)なのであります。
ですから、私が自分の選択により仏道の好き嫌いを語るというのは、宗教の精神・発想に矛盾するようですが、やはり頭の整理なくしては、何が仏道かも分かりません。実践のしようもありません。
私が「仏道」を歩む真の理由
そこで、これこそが仏道だという教えの7つの真髄をピックアップしてみました。
「仏教」の名を語りながらも、その本質は、釈尊に始まる正道の教えからは逸脱していると断ぜざるを得ない(具体的には「檀家制度」「追善供養」「死者への戒名」等)、現代日本における既成仏教(寺)の形式仏教を認めるようなことに甘んじることのない、真の仏法への自分の信心を確認する作業でもそれはあるのです。
一つの既成仏教の宗派に囚われたくない、囚われないからこそ仏道の本質である「出世間」の精神を保つことが出来る、そして仏祖面々の行持ともいえる真の仏道を大切にしていくことができる、という証でもあると自負するのであります。
1. 「自灯明法灯明」「信心」
仏道が多くの世界宗教と決定的に異なるのは、神を崇拝するという形式ではない宗教であること。ヨーロッパにおいて、かつて「ニヒリズム」とさえ解釈された仏教である。それだけ人類精神史上においても革命的な発想を備えた宗教であることがわかる。
神を崇め信仰するのではなく、自分の心を信じる、自らの仏性を信じるという「信心」が仏道の基本である。
それはいわば「究極の性善説」ともいえる思想であり、先に神ありき、では全くない。
釈尊という人間を神格化することではなく、釈尊の説いた「仏法」を守るのが教義、という、崇拝の対象がない宗教というのが何より素晴らしいではないか。
2. 「不瞋恚戒」
怒りこそがこの世の不幸の源。
これはまさにその通りであるにも拘らず、宗教や思想は必ずそれを正当化できる例外規定を設けてきた。
「喜怒哀楽」として人間の根本的感情の一角として、あって当たり前と、肯定され続けてきた。
しかし、仏道はこれを完全に戒めた。
この「怒り」を戒めることを真向から最も重要なポイントとして説いた思想は他にあるだろうか。
人間の醜い行為、破壊、殺人、戦争の根底にあるのは、ちょっと考えれば「怒り」であることは明白である。そこを徹底して戒めた。
「貧瞋癡」という、欲望を貪り、怒りを露にし、そして己の近視眼的な愚かさを「三毒」として戒めたそのシンプルかつ最も的を言い得た戒律は、他の追随を許さない。
3. 「因縁生起」 すべてのこの世の現象には原因があるということ・・・。
多くの科学者も釈尊の説いた「因縁生起」というこの世の成り立ちを証した根本的な考え方を奉頌したい。
呪術やインチキ宗教が必ずといっていいほど「呪い」「祟り」「悪運」を持ち出して自らの宗教への信仰を強制するという姑息な手段を使うが、それを完膚無きまでに否定しているのがこの因縁生起なのだと思う。
何事も縁が無数に絡み合っているという考え方である。現代の最新科学さえも凌駕する極めて先進的な発想である。『日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。』(「中村元「仏教の真髄」を語る」)
4. 「愛するな」
至る処で「愛」こそが人の生きる道のように賛美してばかりの世の中であるが、そもそも「愛」の根底には常に自己愛・利己心しかないという冷徹な事実を踏まえて「愛するな」と発信しているのが仏道である。
「愛」の美学が蔓延る現代に生きる我々は、この思想の革命性に衝撃を受けないわけがない。
愛は常に「愛憎」という言葉のとおり、憎悪が表裏一体の存在としてあることは、誰しもが経験上自覚できることであろう。
愛の本質がそうである以上、仏道は「人間の愛は汚い。そんな愛と仏の慈悲とは全く違ったものである」と力説する(現代坊主はその点の解釈が甘いが)。
釈尊は「皆自己愛をもっている。だからそれを否定するのではなく、それを他人に対する愛であると錯覚することがいけない。ただ自分が愛おしいと思うように他人も自分が愛おしいと思っていることを知り、遍く他人を傷つけないように心がけよ」ということを説きたかったのである。
5. 「反社会性」
安易に現代社会を容認し妥協した上で宗教論を展開しても、そこで得られるのは単なる一時の慰めでしかない。
聞いて何の解決にもならない人生相談と同じで、悩みは形を変えて無尽蔵に現出しそれに一喜一憂するだけの人生となる。
真の生き方、人生どう生きるべきかを審細に参究するとなると、徹底的に現代社会を批判したときこそ可能になる。
そこに初めて新しい発想による生き方が見えてくる。
「出世間」が仏道の本質である。
この「反社会性」には非常に共感するものがある。
それは、今までの自分の人生を振り返ると、俗世間に対する不信感と限界を今日まで痛いほど感じてきたからなのだろう。
反社会性といえば、一歩狂えばオウム真理教のような攻撃的集団が宗教から生まれるともいえるが、その時代時代の世の常に迎合しないことこそが、その教えが「宗教」たる証であるといえるのではないか。
「出世間」とは、在家か出家かの形態を問わない。
現代に大量に存在する、在家となんら変わらない生活を営む「寺守」坊主は、全く「出世間」を体現していないし、彼らの多くが説く「社会に役立つ人間になれ」といった類いの俗世間迎合型説法はまさに出世間の対極であるのだから。
6. 「はからい」の否定 これこそが宗教の真髄であろう。
仏道では特に「他力」思想として明確にされている。
善悪を人間自らの判断で行って道徳だ宗教だといっても、ところ変われば時代変われば常にその価値判断は変動することは歴史や世界化の現代が証左である。
それを「相対善」「相対悪」とすると、人間が判断できるのはこれだけであり、「絶対善」「絶対悪」は人間以上の存在以外はわかり得ないわけである。
宗教の神・仏道の仏法は「絶対悪」を戒め「絶対善」を奨励する存在であり、そこにこそ神の存在価値がある。
人はただ仏法を守り生を営むことだけである。
その結果結果は因縁によるものであり、業である。
あるとすれば「絶対善」の判断を下すことができる宇宙的存在に判断を任せればよいのである。
本当の善とはどんな時代・世の中においても善である絶対的な善であり、相対善は所詮「偽善」である。絶対悪も然り。
仏道ではそれを知るのは如来だけであるとし、そのような物差しを人間が持ったつもりで人や現象を断じてはならないとする。
つまり「はからい」の否定である。
7. 「生死を明らめる」 人の「生き死に」について明確にすること・・・。
死のテーマは延命医療の視点でしても、暗くなるだけであり、根本的な人間としての苦悩の解決や解釈には何の役にも立たない。
そういう次元で、ガンからの回復記や老人の健康法などが売れているのは、現代人は過去の人間の先輩たちに比べても全く「生死が明らめ」られていない証拠であるといえる。
仏道は道元の言葉にあるように「生を明きらめ死を明きらめることは仏家一大事の因縁なり」と人生をしっかりと捉えて、死を肯定的に捉え(死だけを取り出すのではなく、人間の一人生(光陰と表現される)の自然性を受け入れるということを積極的に行っている。
これこそ宗教にしかできない技と言って過言ではないだろう(断わっておくが死を取り上げるといっても儀式屋としての葬式仏教とは全然関係ない)。
氷は溶けたら水になる。
生と死の関係も然り。
死とは生の連続的変化のようなもの。
本質は変わらない。
これを仏道では「生死一如」という。
生の状態、死の状態とも、トータルに考えれば変わらない。
この移行期を「往生」という。
それが胆に納得いけば、仏の救いがあったことなのである。
以下に、「本物」の僧による、仏道の本質を端的に表現した極めつけの次の言葉を記します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青山俊董禅師「ご利益信仰でもなく、学問や思想などのような観念の遊びでもなく、仏像や伽藍などのような芸術でもなく、まして渡世の職業でもない。たった一度の、かけがえのないこの生命の今を、最高に洗練された生き方で生きる。その生き方を具体的に教え導くもの、それが宗教」
内山興正禅師
「思えば日本は仏教国といわれてき、たしかに事実、その名のもとに膨大な経典書籍を有し、建築彫刻等の美術芸術を持ち、葬式法事をはじめとする風俗習慣行事が生活の中に食い込んで行われています。それはそれで許すとしても、しかしそれらが一体仏教そのものとなんの関係があるというのか。」
「日本人は、過去の歴史においてさえ、いったどれほどの人たちが、自己の人生の真実を求める態度において、仏教を学んできたでしょう。おそらく、ほんのひとにぎりの人たちを除いて、日本社会全体としては、およそ自己の人生の真実追求とは無関係のご祈祷、ご利益、葬式、趣味、観光などという低い次元の関心だけで、それと出会ってきたとしかいいようがありません。そしていまや、それもまったく固形化してしまった形骸の遺物だけが我々の前に存在するのであり、これに対してわれわれは過去のものだと思いこんでいるわけで、とうとう日本人全体としては、仏教そのものと完全にすれ違って出会わないで来てしまっているのだ、といっていいと思います。」
2006年2月27日月曜日
世の誤解
葬式仏教や生臭坊主が仏教を辛気くさくしかも汚れたおかしなイメージを生んでいることは嘆かわしいことです。
世にはびこる仏教に対する誤解が、仏教の真意をねじ曲げており、多くの日本人がそれで当たり前だと深く考えていません。
大変ゆゆしきことであり、仏道に足を踏み入れた自分としては、ここに明確にし、真意から離れてしまっている(所詮現代日本という限定空間の)常識を否定したいと思います。
世にはびこる仏教に対する誤解が、仏教の真意をねじ曲げており、多くの日本人がそれで当たり前だと深く考えていません。
大変ゆゆしきことであり、仏道に足を踏み入れた自分としては、ここに明確にし、真意から離れてしまっている(所詮現代日本という限定空間の)常識を否定したいと思います。
- 寺に賽銭を放り込めば,交通安全を始め合格祈願等のお願いができる
寺では仏に対して感謝をするのである。
願をかけるのは仏教ではない。
仏教はキリスト教やイスラム教といった他の真の宗教と同様ご利益宗教では一切ない。
日常から信仰もないくせに、100円やそこらで安全や健康を買おうなんて、保険会社よりも下劣な発想である。
現世ご利益にすがる蔓延するニセモノ仏教徒については、遠藤誠氏が幾度にも亘って糾弾されていますので、ご参考に。 - お葬式は友引の日にしてはならない、仏滅は結婚式には不向である
先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜は仏教からではなく、室町時代の末期に中国から伝わった、小六壬という時刻の吉凶占いである。
それを誰かが日に転用して、江戸時代に流行したものであると言われている。
これは干支や方角に関係なく、その日の吉凶を表す符号。
友引とは本来「相引きで勝負のない日」という引き分けを意味している。
友を引くからお葬式は禁物というようなものではない。
浄土宗の祖師法然は「仏教には不吉として物事を慎むことはありません(『百四十五箇条問答』)」と明確に答えている。
また、六曜の仏滅は「物滅」から変化していった当字で、仏教とは全く関係ない。 - 戒名は仏教徒の証である
まず、戒名がどんな意味を持つのか、実態として何を示しているのか、それを考えましょう。
敬愛する遠藤誠氏の「真の宗教ニセの宗教」(たま出版)で痛烈に批判がなされていますが、これはいずれ書評にUPさせていただくとして、劇作家でもある島田裕巳氏の『戒名無用』から以下に抜粋をさせてもらいます。その前に、私の戒名についての考え方を述べましょう。
戒名の無意味さ、今更檀家制度の名残りにしがみつく主体性の無さ。
仏道を真剣に考えるという縁に恵まれたが故に、私は、檀家制度の名残りとしての形骸化した戒名とは、決別するべきと確信いたしております。
結論は、葬儀は重要かも知れませんが、今の世の戒名は極めて無駄、ということです。
何も、近くの寺に帰依するというのは悪いことでないと思います。
だから代々その寺へ布施をしている、その寺がきちんとその檀家に対して法施をしていれば、何ら問題はありません。特に近いのだから安心感も大きいでしょう。これはあくまで土地から人が動かない時代、今も田舎については当てはまる話なのかも知れません。基本的に、仏道の教えをしっかりと法施してくれる僧がいれば、それが何宗(何派)であってもよいと私は考えます。
しかし、寺などは観光地としての寺が散在する程度で、その僧の顔も知らないというような大都市やベッドタウンで核家族化して住む人間は、もはや近いからという発想は成り立ちません。田舎があって、いずれそこに戻るなら別ですが、田舎は墓だけ、何て言うのも非常に穢らわしい考えです。
全く信仰とは関係ないと言い切れます。
そのときだけ寺に金を払って、周囲の目・世間体のために葬式を仏教式で挙げ、仏法のぶの字も考えたこともなく知らない人間が、仏道を帰依したことを意味するという戒名を授かるなんて、呆れ果ててモノもいえません。
人生でこれ以上のいい加減な幕切れはありません。
人間の根本である生老病死という存在を蔑ろにした行為といえます。
私の祖父は、日本人の0.5%しかいないと言われる「無宗教」による葬儀でした。今思えば天晴な話です。世間体に固執していない。
私も今から死については考える必要があると、このごろよく思います。大切なことです。
人間、今の目の前のことに忙殺されて大切なことを蔑ろにすることが何よりもいけない。
江戸時代の良寛和尚も、「人は死ぬことさえ忘れなければ、大した過ちもなかろう。」と言っています。
仏教の信心が何か、朧気にわかってきた今としては、いい加減な寺が多いなか、どこかできちんと縁がある「僧」と出遇っておいて、最後は帰依したい、そういう気持ちがあります。
まあ、そんなことも、しっかりと信心を大切にすれば、仏縁が自然となるように手向けてくれることと思います。
島田裕巳
戒名無用/主婦の友社
戒名料は布施でない
葬儀の際に僧侶に渡す金は『布施』である。戒名を賦けてもらったことに対して僧侶に渡す金も布施である。布施とは、布施をする側が自らの信仰に基づいて自発的に行うものである。(略)実際、戒名料が布施ではなく、料金であることを示すデータがある。
本来の戒名とは何か
戒名はこれまで『仏教徒の証し』であると説明されてきた。
戒名とは、戒を授かったときに与えられる仏教徒の証しだというのである。
どの宗派においても、戒名が仏教の信者になった証しである以上、生前に授かっておくことが本来の姿であると主張されている。
しかし、現実には、ほとんどの人が死後に戒名を授かっている。戒の性格から考えて、死者に戒を授けることには意味がないはずである。死者には、生きものを殺すことも、偸むことも、性関係を結ぶことも、嘘をつくことも、酒を飲むことも出来ない。
戒名は仏教徒の証しでは、全くない
戒名が仏教徒の証しであるという前提自体に問題があるのではないだろうか。そういった疑問がわいてくるのも、アジアの他の仏教国には日本の戒名に相当するものが存在しないからである。
死者に戒名を授ける慣習は、仏教の発祥の地インドにも、日本に仏教を伝えた中国や韓国にも、さらには東南アジアの仏教国にも存在しない。
また、死後に戒名を授かることを前提として在家の人間が生きているうちに戒名を授かる慣習も、日本にしかないものである。
戒名の慣習が日本に独自なものであるなら、戒名は仏教の教えとは関係のないものだということになるからである。
これは、戒名が、仏教界の説明とは異なり、仏教徒の証ではないことを意味している。戒名はブッディスト・ネームではないのである。
寺請制度・檀家制度の名残りに過ぎない戒名
かなり不思議なことである。それぞれの宗派には開祖がいて、その教えは異なっている。教えが対立することでさえ珍しいことではない。実際、宗派によって信仰の対象とされる経典は異なっている。
ところが、戒名の形式は、宗派を超えて概ね一致している。それは、戒名が、宗派の教えとは無関係に、寺請制度のもとで成立し、広まったことを示している。
寺請制度自体も作為的で尊いものでも何でもない
江戸時代の檀家関係は、寺請制によって庶民に強制されたものだったのである。十八世紀に入る頃には、徳川家康の名を借りた『神君様御掟目十六箇条宗門檀那請合掟』という文書が作られた。(略)この文書では、禁教とされたキリシタンや日蓮宗の不受不施派の疑いをかけられたくなかったら、檀家関係を結んだ寺との関係を密にし、寺の行事に参加して、寺の建物の修理や建立につとめることが勧められていた。(略)しかし、この文書はニセモノだった。家康が定めたものではなかった。(略)寺の側は、偽の文書を利用するという姑息な手段を使って檀家関係を密にさせようとしたのである。
テキトーに葬式をしている大半の日本人の実態
葬儀の形式は仏教が94.1%、神道が3.4%、キリスト教が0.7%、無宗教が0.5%であった。葬儀の大半は、仏教式で営まれているのである。神道式の葬儀を選ぶのは、神道の信仰を持っている家である。キリスト教の形式を選ぶのは、キリスト教の信仰を持っている家や個人である。(略)ところが、仏教式の葬儀を選ぶのは、仏教への信仰を持っている家や個人だけとはかぎらない。仏教の信仰を持っているのは、日本人全体の五分の一から四分の一程度である。
要するに寺は戒名料に頼るしかない
確固とした経済基盤を持たず、公的な補助をあてに出来ない寺としては、葬儀から上がる収入に頼るしかない。(略)
日本の仏教が本当の意味で葬式仏教になったのは、むしろ戦後になってからのことではないだろうか。そこに、戒名料が高くなり、戒名をめぐって問題が起こるようになった第一の原因があるように思われる。
日本の異常な葬儀料を知れば、皆変わっていけると思うが
日本人は、葬儀に五百万円以上の金がかかったという話を聞いても、さして驚かない。葬儀には金がかかるものだと覚悟しているからである。しかし、日本の葬儀費用が世界でも飛び抜けて高いと言うことを知ったとしたら、その覚悟も少しはゆらぐはずである。(略)イギリスの葬儀費用はわずか十二万三千円である。ドイツでは十九万八千円、韓国では三十七万三千円、そしてアメリカでも四十四万四千円である。他の国に比べてアメリカは高いが、それでも日本の葬儀費用は、アメリカの6.5倍にも達している。(略)友人葬や自然葬などの新しい葬儀の方法が生れ、それが広がっているのも、世界で一番葬儀に金をかけていることへの反省があるからであろう。金をかけることが、本当に個人を手厚く葬ったことになるのか、多くの人たちが疑問を感じるようになってきたのである。
仏道への帰依などとはほど遠い民衆の意識
さすがに私も、宗派のあまりのでたらめさに唖然とした。嫁いできた義理の叔母はともかく、祖父母は生前別々の信仰を持っていたわけではない。たまたま葬儀を挙げ、戒名を授けてくれた僧侶の宗派がちがっただけなのである。(略)
私の実家や母の実家の宗派についての知識は、相当にいい加減である。信仰に厳格な人間から見れば、その姿勢ははなはだ遺憾なものに映るだろう。しかし、それは私の家に限らず、地方から東京に出てきた人間たちの平均的なありかたなのではないだろうか。
最後におまけと言っては何ですが、同著に日蓮系新興宗教の性格についての分かりやすい説明がありましたので補足しましょう。
創価学会とは
戦前に結成された創価教育学会を母体としている。創価教育学会は、地理学者で教育家であった牧口常三郎を中心に結成された教育団体であった。
牧口は日蓮を信奉するようになり、日蓮宗の一派である日蓮正宗と密接な関係を持った。そのため、創価教育学会は、宗教団体としての性格をあわせもっていた。
日蓮正宗は日蓮宗のなかの少数派であったが、他の宗教や宗派を否定する傾向は一般の日蓮宗以上に強かった。創価学会はこの日蓮正宗の影響を受けて、折伏による布教活動を推し進めていった。創価学会が戦闘的な教団となり、社会と激しく衝突してきたのも、日蓮正宗の影響によるところが大きかった。
日蓮宗関係新興宗教と政治
創価学会の場合には、公明党という政党を組織した。公明党の第一の役割は、会員の便宜をはかることにあった。(略)公明党は、創価学会という巨大な相互扶助組織を助けることを政治活動の第一の目的とした。
また、立正佼成会や霊友会も自民党に議員を送り込んだ。
また、彼らについての問題をばっさりと遠藤誠氏がその各著書において指摘しています。 - 仏道は難行である
難行のバラモン教徒として苦行を行っていた釈迦は、苦行を否定して仏教を開いた。
天台宗比叡山の山篭十二年の行や回峰行、日蓮宗法華経寺の荒行、真言宗(一部)の断食などは、難行を是としている点において、本来の仏教とは掛け離れてしまっているといえる。 - 追善供養は仏教のしきたりである
死者の裁判を一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と計13回も増やしたのは室町時代以降のこと。日本独自。インド・中国の仏教にない考え方。
ここにある発想は、子孫や残された人間が供養に時間とカネを費やさないと、死者が極楽へいけない、仏になれない、というものであり、言うまでもなく仏道の発想とは相反するもの。
仏教では、死後の何如は、その人の生前の業がすべてと考える。
追善供養はもともと「中陰」の考え方であり、仏教的には邪道とも断言できるもの。
先祖がそうだから、伝統だから、とそれに固執した結果、邪霊とか祟りとかいう仏教とは大凡インチキ宗教がはびこるのであります。 - 「業・因果」は、たたりや過去の罪による不幸のこと
本人の過去や罪や霊のせいにする「罪を責める」かたちとして利用されてきた。
「業・因果」は、「縁起観」による人間の心や行いへの責任を明らかにする重要な教えである。
一般的に「業」とは、「悪い結果を説明する時に用いられる「言訳」「慰め」「諦め」の言葉として理解されていが、本来の「業」は人間がよりよく生きるために不可欠な思想だった。
つまり今の自分が未来の自分を造る、決定する、というきわめてポジティブな世界観なのである。
自分一人一人がしっかりと生きれば、自分の未来はもとより、自分の属する世界も直接・間接的に変えることが出来るというのが、この業の思想である。 - 葬式の死者のための読経(廻向)は日本仏教古来のもの
親鸞や道元は、死者のために読経をする廻向を、「仏意に反する」と戒め、とくに僧侶が特定の父母のために読経したり念仏を唱えたりすることは、衆生救済の立場と矛盾すると批判している。釈尊はそもそも、人の死後の運命は各人の生前の行為によって定まるのであり、他人がそれに関与することはできないとして、僧侶が死者儀礼に拘わることを厳しく禁止していた。(「仏教の大河」/高瀬広居/より)
2006年2月26日日曜日
一般常識と仏教的解釈
どっぷりと我々が浸りきっている「常識」とは、地域限定・時代限定の全く普遍的とはいえない代物であることは、少し視野を広げたらすぐにわかることであります。それでも、それを「当たり前」という穢らわしいともいえる一言でかたづけて、自分こそが世の常識という面を下げる人間が後を絶ちません。一歩外国へ出ても、ちょっと時代を遡っても通用しないことを平気で主張する、そんな「邪見の輩には群すべからず(道元禅師/修証義・総序)」であります。
ひろさちや/「こころの健康法 苦を苦にするな」/小学館より
- 子育てに関する非常に示唆に富んだ考え方遜文侍の文章世界(essay)の中で、別途抜粋しました。こちらから。
●以下、日本の日常どこにでも見かける普遍的悩み(一般常識)の問いに対する仏教的回答であります - 人間不信の世の中、どうにかならないか・・→ 自分の身は自分で守るしかない
「嘆いてももう手遅れです。日本を経済優先社会に変えようとしたときにわたしたちはこういう日本になることを覚悟しておくべきでした。経済を優先させて都会型社会、競争型社会を作れば、必ず人間不信になるのです。嫌な世の中になるのは目に見えていたのです。では、どうすればよいか。どうしようもありません。(略)
今後ますます「毒入り事件」のようなものが増えるだろうと思います。だって、考えてみてください。もともとスーパーというものは、経済効率だけを考えて作られたものです。本当に人間的な買い物は、客とお店の人が徒話をしながら、心の交流をもちながらなされるものです。(略)
その人間不信の事物を利用しておいて、しかも人間不信を嘆くのは虫が良すぎますよ。疑心暗鬼になって当然です。いや大いに疑心暗鬼になってください。そして、自分の身は自分で守ること。安易に他人を信じてはいけません。それが嫌というなら、まずあなたは、(略)心のこもった会話をしながら、人間的な買い物をしてください。そうすると、人間が信用できるようになります。」 - お手軽料理と家族のバラバラ生活、何とか改善したい・・・→ 家族全員がそろって食事をするために共働きをやめること。極めて単純な世界の常識中の常識
「サラリーマンの家庭で、現在は楽しい食事がないのですね。まことにおかしな現象です。父親は残業、母親はカルチャーセンター、子供は塾に行って、家族揃って食事をする機会が滅多にない。それが日本の平均的な家庭なんでしょう。これは高度経済成長社会がもたらした悲劇なんですが、日本人はその悲劇に気づいていません。悲劇に気づかない悲劇だから、ダブル悲劇です。(略)
こうした日本人の食生活を改善するにはどうしたらよいでしょうか・・・。方法は簡単です。まず、家族の全員が食事をするようにすればいいのです。そのためには、共働きをやめればいい。そして、子供の塾通いをやめるといいのです。そんなことをすれば、収入が減って貧しくなる。美味しい食事ができなくなる、といわれるかも知れません。けれども、おいしいものは食べられなくても、おいしくものは食べられます。(略)家族が笑顔で食事をすれば、どんなものを食べてもおいしくいただけます。それが最高の幸福なんです。」 - (マスコミで日々目にする)環境ホルモン問題に翻弄されているのですが・・→ 環境ホルモン問題などという個人の力の及ばない問題は忘れること。どこが元凶か考えよ
日本型の資本主義は企業中心の資本主義です。個人の生活よりも、企業の利益、企業の存続・発展が優先的に考えられているのが日本型資本主義です。少なくともこの日本型資本主義をぶっ壊さない限り、環境問題の解決はありません。(略)
そうだとすれば、環境問題を個人の力でもって解決することなど、所詮不可能ですよね。では、どうすればよいでしょうか。わたしは、環境問題など放っておけばいいと思っています。資源の節約だとか何とか、いろいろやかましくいう評論家がいますが、資源を浪費しているのは大企業です。それをいわずに、われわれ市民にお説教をたれる彼らの厚顔ぶりにわたしは辟易しています。」 - (青少年の信じがたき短絡的殺人事件が日々報道され)命の尊さがわからなくなっている時代と思うが・・→ 全人格的としてとらえず、「機能」としてしか人間を見ていないためである
「現代の日本社会は、なんだかおかしな社会になってきています。一言でそれを言えば、人間不在なんです。あるは人間が機能化・ロボット化されているといえばよいでしょうか。(略)
家庭も同じ。親が子に期待するのは、勉強をする・いい成績を取る・一流大学にはいるといった「機能」だけ。逆に、子供が親に求めているのも、食わせてくれる・小遣いをくれるといった「機能」だけです。そして、われわれが友人や仲間に求めているのも、話を聞いてくれる・話し相手になってくれる・デートしてくれるといったような「機能」だけです。恋人の存在は、ときに友達に向かって、わたしはこんな恋人を所有しているのよと誇示できさえすればそれでいいのです。こちらの都合に合わせてさっと消えてくれた方が便利がいい。そういう機能として私たちは人間を見ています。」 - ダイエットが続かないなど、三日坊主を何とかしたい・・→ 本当に必要なものではないから三日坊主なのである
ダイエットもする必要はありません。いつか山手線でダイエットに成功した女性を見かけましたが、針金のような足は痛々しくて見ておれませんでした。胸もぺちゃんこ。若い女性なのに老醜が漂っていました。(略)
その必要のないものを、長続きさせようという人は、どう考えても馬鹿の骨頂です。」 - 私は真面目一筋の会社人間です。ストレスで医者にかかり趣味をもてといわれましたが趣味がないのです・・・→ そういう人間は救われない
「まずあなたは、救われませんね。たぶん、ストレスで早死にするでしょう。早死にしたあなたを、それでは会社は殉職者ということで、未亡人にすごい功労金をはらってくれるでしょうか。「ノー」だと思います。(略)
早死にしたって良いとあきらめなさい。(略)
あきらめると、少しはストレスも減るはずです。だってそうでしょう。仕事によってストレスが溜っています。そしてそのストレスをなくすには仕事をやめる以外はないと教わって、ストレスを没くそうとするストレスを感じています。その既往症のストレス(ストレスをなくすためのストレス)が余計なストレスです。そのストレスだけは、明きらめによってなくすことができるのですから、それがいちばん妙策ですよ。まあ、おあきあらめなさい。」 - プラス思考になれなくて困っています・・→ 馬鹿やって下品に笑って自分を売り込むタイプがプラス思考と勘違いしてはいないか
「世間で流行している意味でのプラス思考と、佛教の教えはずいぶん違っています。仏教の教えはむしろ「マイナス思考をするな」といったほうがよさそうです。あるいは、「自分を否定するな、自分を大肯定せよ!」と言った方がよい。(略)
自分を変える必要はありません。自分を変えようとするのは、自分を否定しているのです。自分を大事にせよ、自分を肯定しなさい、というのが仏教の教えです。(略)
仏教の教えを端的に言えば、私は「諸法実相」だと思います。(略)
換言すれば、宇宙に存在するすべてのものが最高の価値を持っているということです。(略)
ちょっと表現を変えると、これは「なんだっていい、どちらでもいい」となります。どんな人間でもいいのです。美人・不美人のどちらでもいい。陽気な性格でもいいし、陰気でもいい。(略)
だとすれば、いわゆるプラス思考の出来る人はそうすればいいし、プラス思考の出来ない人は無理にそうなる必要はありません。」 - セックスレスに悩んでいます・・→ 夫婦を繋げる最尊最上甚深不可思議なものがセックスである。ただ二人で抱擁するだけでいい
「結婚生活においてセックスがいかに重要であるか、わたしは、いくら強調しても物足りないと思います。(略)
人間は動物と違う。だからこそ、人間にとってセックスが大事なのです。(略)
セックスを嫌う夫婦はどこかおかしいのです。もしもかりに、夫婦のどちらかが、疲れたからセックスをしたくないと考えているとすれば、それは疲れるような生活をしている点に問題があります。疲れないように残業をやめるとか家事を減らすとかするべきです。(略)
じつは、日本人はセックスについてもうひとつ大きな誤解をしています。それは、どうやら日本人は、セックスといえば性器の結合及び挿入、よりあからさまにいえば射精のことだと誤解しています。(略)
夫婦が夕食後、しばらく読書をしたり仕事をした後、二人が寝室に入ります。ネグリジェ姿で音楽を聴きながら、軽くブランデーを飲む。そして二人が軽く抱擁する。三十分か一時間、二人がそういう結合の時間をもつ。それが前戯です。そして、それがセックスなのです。それだけで終わってもいいのです。その後は自由です。」 - 不妊により周りからのプレッシャーが辛い・・・→ それだけ人生やって未だに子どもは授かるものであることさえわからぬ、救いがたき低精神性の日本老害衆
「どうしてこんな社会になったのでしょう。その原因の最たるものは、わたしは、親が子どもを「つくる」という考え方にあると思います。いまの日本人は、子どもは親が自分の意思で作るものだと思っています。「結婚したばかりだから、子供をつくるのはまだ早い」とか、「もう、ぼちぼち子どもをつくろうか」といったふうに。しかし、子どもは親がつくるものではありません。昔の人は、子どもはほとけさまから「授かる」ものだと考えていました。だが、最近の日本人に「子どもは仏さまから授かるものですよ」と言いますと、「でも授かった以上は親のものでしょう」と、所有権の主張をしかねません。それでわたしは「授かる」というのものやめて、子どもはほとけさまから「お預かりする」ものだと言っています。ほとけさまは夫婦に、この子を幸福にしてやってね・・と、預けられるのです。」 - ペットの急死から立ち直れません・・→ 現実を受け入れられないことの実体は、何のことはない、自分への執着である
「まず、愛の中にある利己心に気づいてください。夫を自分の都合に合わせて愛する、娘を自分に属するものとして愛する、ペットを自分の所有物として愛する、そのような愛は本質的にエゴイズムだと気づいてください。娘には自由に行動する権利があり、ペットにも自由に行動する権利があります。ということは、ペットには死ぬ自由があるのです。ペットが死んだから悲しむのは、飼い主の傲慢であり、利己心でしかありません。その認識の上に立って、次に、真実の人間関係を築いてください。(略)
真実の人間関係は甘えではありません。また打算的な結びつきでもありません。お互いが相手を人間として認め合って、赦しあっている関係です。」 - ぼけた義母をみていると幸せなことなのかどうか・・→ そのまるごとの存在を肯定することが唯一の幸福への道
「目が見える人は幸福で、目が見えない人は不幸だ、なんてことはありません。目が見える人のうちにも、不幸な人はいっぱいいます。目が見えないけれども、幸福に生きている人もいっぱいいるのです。わたしたちは、どうも人間をロボットのように部品で組み立てられている存在に思っているのではないでしょうか。部品の寄せ集めと見るから、頭の悪い人間より頭のいい人間のほうが上等で、目が見えない人より目が見える人の方がいい、足の不自由な人より健脚の人がよく、心臓の悪い人より健康な心臓の人のほうがよい、といったふうに判断するのです。(略)
人間は「まるごと」の存在です。わたしたちはほとけさまから、この「まるごと」のわたしという存在をお預かりしているのです。(略)
わたしといった存在、自分といった存在は、ほとけさまからお預かりしているものです。(略)わたしたちはお預かりしたままの自分を、そのままお預かりしなければならないのです。(略)
わたしたちはみな、いまある、そのままで幸福に生きることが出来るのです。怠け者は怠け者のそのままで、目の見えない人は目の見えないそのままで、幸福に生きることがでます。それなのに、わたしたちは、ややもすると自分はこのような欠点があるから不幸だ、と考えます。そして他人をうらやましく思うのです。そいういう考え方でいる限り、わたしたちは幸福になれません。」
2006年2月25日土曜日
「他力」という考え方
「本願他力」。
通俗的に使用される他人任せという意味とは全く異なる、その発想の革命、宗教とはこのこと也、ともいえる極めて重要な思想であります。
通俗的に使用される他人任せという意味とは全く異なる、その発想の革命、宗教とはこのこと也、ともいえる極めて重要な思想であります。
- 他力思想は他「人」任せというちっぽけな話ではない
他力本願という揶揄的な表現ははやりの「自己責任」の対極として使用され、その意図するところは他人任せ、自分の行動に責任を持たない無責任、というところでしょう。
少し昔に五木寛之さんの「他力」を読んだときはもう一つ言っている意味が分からなかったのですが、こうして仏道を学ぶ中、特に浄土門の考え方に触れていく中で、他力というのは全くそう云うことではない、非常に宗教的精神世界的には重要な考え方であるということが分かってきたのです。
他力とは、他「人」任せということではありません。人間というような小さな存在ではなく、処により「神」「仏」「大いなる意志」「宇宙意志」と言われるような時間や空間を超えた、目に見えない壮大なる存在の力を認識し、それを肯定して踏まえた上で行動をし生きていく、それが他力思想だということであります。
つまり、他人任せや無責任というような人間同士の社会規範の中での狭義の話ではなく、もっと個々人の内面の思想を意味するのです。 - 計り知れない湧き出るような精神の高揚自力思想の固まりのような考え方で、自分の無能を呪い、自己嫌悪に落ち入り、苦悩しながら今日まで生きてきた私ですが、常に漠然と人間には計り知れない大きな存在については意識をしていました。
ここにきて、他力とは自分の中ではこのことだったのかと、実際の経験の中の例で置き換えることができるようになり、痛く感激した次第です。
私が信条としてきたことに、「これだ、と直感したものは、何よりもそれを優先させてとりかかる」ということがあります。
「思い立ったが吉日」「満を持しての・・・」という言葉に近いのでしょうか。例えば、このサイトの中に詰っている文章、音楽、そしてこのサイトを作ろうと動いたことも含め、みなそういう過程を経て成立したものばかりです。つまり、計画的にいつこれをやってこれをこういう意味があるからこのように今度作ってみよう、というような感じでできたものではありません。何より、心の底から「今こそそれをやるべきた、こうやればよいのだ、やり方がわかったぞ!」という閃き、直感というものがあって、湧き出るような感覚が私を動かしたのであります。
それは激情ともいえる並々ならぬ精神の高揚です。
これは、今夢中になっているものがなくて手持ちぶさただから、○○でもやってみるか、とかこれもおもしろそうだから手を出してみるか、という次元のものではありません。また、夢中になれるものはこれに決めたから頑張るぞ、とか、これに一心に取りかかってみせるぞ、と自ら決断を下しても、その高次元の精神高揚は実現しません。
つまり自力でいくら思いこもうとしても無理なのです。
自分の意志でコントロールできる範囲外の話なのです。 - 他力を感じた瞬間を大切に
ですから、そういう状態が一気に沸いてくるというのはそうざらあることではなく、だからこそその状態が発生したときはその気持ち・モティべーションをいかに大切にするか、その稀少さは痛いほど分かっているのです。実現するためには寝食を忘れてもやる価値があると経験的に認識しているのです。
そしてその行動については未だ一度たりとも失敗の結果に終わったとかやって後悔したとかいう念に捕われたことはございません。満足だけが残るのです。
後で振り返ってみると、いやはやよくもまあこれだけのことをやったものだと、我ながら感心し、自力の120%位が発揮されていることに気づいて驚愕するのであります。曲作りにしても、小説書きにしても、旅にしてもそうです。もっと卑近なものとしては買い物をするときのインスピレーションについても同じような経験があります。
自分のコントロールできないものを明確に自覚し、その前向きな力を得る経験は、頻繁にあるわけではありませんから、その縁を大切にすること、それが重要と考えます。 - 自力と他力は両輪であるただ、一つ言えるのはそれらは無の処から生じたものでは決してないと言うことであります。
今までの自分の蓄積があって、実になるもしくは花が咲く瞬間を迎えることとなった、そんな感じです。
また、思い立った後の実際の行動は、まさに自力がものを言います。頭脳で試行錯誤を反復し、構築するために必要なものを洗い出して順につぶしていく作業は自力そのものです。
早い話が、自力だけ、他力だけ、ということはなく、ここでも仏教の根本原理である中道に行き着くのです。両者の和がすべてです。
我々現代人は特に自力思想に偏りがちです。目に見える科学が優先されすぎた結果だと思います。学校でも他力的な発想を学ぶことはまずありません。自力偏重は結局は競争社会や精神病の根源となっていきます。他力が存在するにも拘らず、それを完全に無視すれば当然の帰結とも言えます。真理が見えていないわけですから。
他力が存在するからこそ、人生は思わぬ展開だらけではないですか。自分の意志だけでコントロールしているなんていう考えは思い上がりであります。そこからは、自分が思い通りにならないのは、他「人」が邪魔するからだという発想しか生まれてきません。または、自分が無能だからだ、努力が足りないからだ、という自分否定の発想です。 - 三毒を制して生きる智慧
三毒の煩悩(貧瞋癡)を考えますと、どれもが実は自分でコントロールできていないことの表層現象であることがわかります。
貧瞋癡は「自分の思い通りにさせる欲望を貪る」「顔や心で怒る」「愚痴を漏らす」という毒でありますが、怒るということを考えてみます。子供を「叱る」ということは必要であり、その際叱る側で大事なのは心は平静にした上で諭すということであります。それに対して「怒る」というのは、感情に振り回されもはや自らコントロールを失っている状況であります。躾と称する児童虐待は言うまでもなく、街中でもしばしばそんな醜態を曝している母親を目にします。そんな怒りに基づく言動は、子供には良い影響を与えるはずはなく、効能もあるはずがありません。
それがオコル、イカルことであります。
この愚鈍な所業を常に自覚し、認識し、内省して生きていくことが、煩悩に振り回されがちな人間の心から自らを解放する唯一の方法ということになるのでしょう。
怒る自由があるんだ、怒鳴りつける自由があるのだ、それは相手が俺に迷惑をかけるからだ、という大馬鹿者がこの日本には蔓延していますが、そんなものがあるわけがありません。
何も束縛というのは、社会制度だけの専売特許ではないのです。社会制度上(法律上)禁止されていなければそれが自由である、といっているのでは、あまりに人間の歴史、この世の普遍の事実を知らなすぎます。木を見て森を見ていません。
自らの内にある愚かな感情、醜い感情の奴隷となってしまい、そのことを自覚せずにしかめっ面をして生きる人間の方がよほど問題は深刻であります。心の平安、幸福というものがその人間に訪れることはまずないでしょう。常に他人及び自分を悪として捕らえ続けるのでしょう。 - 人間の普遍性を思えば、他力思想を思惟せざるを得ない
「fight rom inside」というロジャーテイラー作曲のQUEENの名曲がありますが、人間として生を受けた限り、いつの時代いつの世界でも絶対的なことが一つあります。人間という身体と精神を備えて存在するということであります。仏教では色受想行識の五蘊として明確に規定し、それを前提に皆話を進めています。
当然すぎるこのことを忘れてものを考えるからおかしなことになるのです。
その大原則を押さえているということだけでも、仏教の偉大さ、なぜ数千年の歴史に耐えてきたのか、はっきりします。
それを抑えて、人間の所業を分析すれば、すべての因縁生起により世の中が繋がって存在していることが自ずと明確になり、更にそれを大きく抱擁する何か、自力以外のものがあるという結論に至らざるを得ないと思うのです。
より大きな視点で自分たちは何なのかとらえていく上で、これからの人生を如何生きるかを考える上で、大きなヒントとなる発想の有力なものの一つが、「他力」の思想である、そう私は捉えています。
2005年12月16日金曜日
高瀬広居 ~共感した名文・名文句~
宗派を超えて、今の世に生き残っている真の名僧10人を訪ね歩いて、その声を記録した高瀬広居氏の功績は大きい。また、彼自身が浄土宗の僧籍をもちながら、寺の僧としてというより、本来の僧としての法を説くことに専念(私塾「疎石会」主催)しているところが好感が持てます。
般若心経に対する考察などは深い。そして、正しい。
- 仏教を知るにはその多種多様な発展系を知った上で考える必要あり「「私のウチはナムアミダブツでね」と言っても、いったい浄土宗なのか浄土真宗なのかもわからないまま「仏教はね」と言ったところでなんの意味があるのでしょうか。また、法然や親鸞、道元、あるいは日蓮といった優れた宗教家が求道した仏教が、お釈迦さまの教えのどの部分を吸収し発展させたのかわからずじまいでは、仏教にコミットした人間とはいえません。」
- 日本の文化は仏教が軸となり発展してきたと言っても過言ではない
「源氏物語に登場する怨霊や地獄の思想、愛欲と無常の葛藤、因果応報は、まさに密教と浄土教の文学とさえ言えそうです。平安文学は仏教文学といってもよいでしょう。また、源平の興亡を描いた数々の作品、とくに「平家物語」は鎌倉時代の浄土教文学です。(略)
能の世界も妄執と死霊と暗い人間の魂を密教的な立場からつくりあげたものです。世阿弥の思想は死を見詰め、人間の闇をさぐる鋭い仏教の眼に支えられています。(略)仏教を離れて日本の思想と文化は理解できません。作動も書も、あるいは言葉も文章も、日本独自といわれるすべては仏教の智慧から学びはぐくんだもの。「般若心経」を読み、天台止観を学び、経典や禅を理解せずには日本文化の土台は分からないと言ってもいいでしょう。」 - 現代の名僧を見分ける方法
「怪しげな民間信仰と結びつき、現世利益を願う民衆の願望に取り入り、権力に媚て世俗的な栄誉を貪る。そんな大多数の僧侶や寺院教団の流れとは別に、真の仏法を求めて苦闘し、法脈を生かそうと努力した僧侶の流れは、戦国の世から明治時代にかけても引き継がれていきました。しかし、その数は決して多いとは言えません。(略)
現代はどうでしょうか。名僧とは、地位などの条件とは関わりなく、求道の真剣さ、仏教思想の深さ、教化力の高さ、清潔な生活、権力や世俗やマスコミに媚ないと言った条件から選ばねばなりません。残念ながらその数はたいへん少ないのです。(略)
現代のマスコミに踊らされ、政財界と親しい僧はだいたいが「偽善僧」と見てまちがいありません。」
- (法句経394)髪を結ったり、高価な衣装を身にまとって、それで自分は他の人よりもすぐれている、立派なのだと思いこんでいるのだろうと、ズバリと切り込んでいます。(略)世の中を見ていると、じつにこういう人が多いと思うからです。(略)
もし幼い頃からそういうものを身につけて喜んでいるようなら、中身の空っぽな、虚飾にまみれた高慢な人間に育っていくことでしょう。(略)
外側ばかりを飾るのではなく、心の内の煩悩を断ち切って、内側から清い人間であるようにならなくてはならない、外見や見栄を捨てよ、と教えているのがこの法句です。 - (スッタニパータ98、124)若い夫婦も子供を育てていけば、自分の親たちが自分を育ててくれたときにどんなに大変だったかわかるはずです。その父と母が老いてきた。(略)金銭的、精神的に父母を助けよう、いままでの恩を返そう、そういう気持ちになるのが、人間として当然だと思います。しかし、老いた父母からお金をもらっている三十代、四十代の子供がいます。なぜ平気でいられるのでしょうか。ローン返済にお金が必要だというなら、老親に負担をかけない道を探せば良いではないですか。
- (スッタニパータ205、206)清らかということと汚いということは別のものではないのだということを、お釈迦様は教えておられるのです。美しいから偉い、汚いから悪いという価値観、差別感を持ってはいけないということです。健康で、鍛え上げられて、磨きのかかった素晴らしい肉体というものも、一皮むいてみたらどうだろうか。どろどろとした汚物が充満しているではないか。
- (雑阿含経36)夫と妻、親と子というのは一見別々なもののように思えますが、じつは、夫には妻の影が映っているし、子供には親の姿が反映されているのです。現代の人はあまりそういうことを考えません。(略)
何か事件が起こると、うちの子に限って、といいます。ところが、先生やまわりの人たちは、あの親にしてこの子あり、当然の結果だと見ていることが多いのです。 - (増一阿含経11)「もし人ありて反恩を知る者は、この人はうやまうべし」なぜ、私たちが生きていく世の中には、恩を知るとか、恩を返すということが大切なのでしょうか。それは、私たちがひとりきりでは生きていけないからです。(略)
一枚のシャツでさえも、それをこしらえあげた他人のおかげをこうむって生きているのです。しかもあなたは、それらを誰がつくったのか知らないでしょう。そのように、私たちは全く縁がないと思われている人々の力に支えられて生きているのです。それを仏教では「無縁の慈悲」と呼びます。(略)
そのように互いが恩を知るという気持ちになることが、世の中が円滑に行く最大のキーポイントになるのではないでしょうか。 - (増一阿含経40)「もしわれおよび過去の諸仏を供養するものあらば、我に施すの福徳は病を診るに異なるなし」あちこちの寺へ行って仏像に手を合わせ、お賽銭をあげて、御利益をくださいと祈る閑とお金があるくらいなら、苦しんでいる病人のところへ行って助けてあげなさいと、お釈迦様はいわれているのです。仏教で最も大切な布施行の実践です。
- (スッタニパータ890)相手の言い分を認めず、尊重する心のない姿を愚かというのだ、つまり、聞く耳を持たない人が愚劣なのだ、というところからスタートしているのです。(略)
お釈迦様の愚者、愚劣という教えの中には、自分は愚かであるということに気がつけば、もうその人は賢い人になりうるのであって、決してその二つを別々に分けて考え込み、落ち込むことのないようにという、やさしさの教えがここに含まれているのです。 - (中阿含経67)人生にはいくつかの節目というものがある。もっとも大切なのは、仕事をほぼやり遂げて身の引き際を選ぶ時期を逸しないことである。(略)
おのれの地位権力に強いこだわりと欲を持ち続けるとき、人は引退隠棲の決断を鈍らせるものだ。いつまでも現世欲に縛られて阿修羅の営みを続けるものは愚かといえよう。 - (長阿含経2-4)「七つの滅びざる法あり」お釈迦様が説かれた国家繁栄論であり、それを裏返すと国家滅亡論になります。(略)①みんなが集まって会議を開き、和やかに語り合いながら民主的に運営していくような国、②そして、古くから定められている倫理を守り、年配者を敬い、その知恵を学び取る。③女性や子供のように力弱き人には決して暴力をふるわない。④祖先を大切にし、伝統と歴史の尊さを知る。⑤昔から続いているしきたりや法があったときには無理に廃止せず、これを今の時代に生かしていく。⑥そして学問や知識、知恵のある人々を大切にする。⑦それは他の国からやってきた人であっても同じように住居を提供し、大事にする。これらが守られている国は、繁栄するであろうと、お釈迦様はおっしゃるのです。
- (雑阿含経34)「一切のつくられたるものは無常悉くみな生滅の法なり」無常ということは厳然として、宇宙の中に存在する人間の生命の本質を言い表していることだというように、人間の生き方の原理として、この無常というものを私たちは受け入れていくことが大切です。今の日本人は、生きていることは素晴らしい、元気なのはいいことだというように、たくましく生きることだけに目を注いで、この無常というところから目をそらしているという臆病さ、卑劣さが強くありすぎると私は思います。もっともっと、日本人は無常なるが故に、いまある自分の大切にするというところにスタンスをおいて、生きていかなくてはいけないのです。
- (雑阿含経12)「縁起法とはわれの所作にはあらず また余人の作すところにもあらず 然してかの如来の出世するも出世せざるも 法界は常住なり」ここに、仏教と他の宗教、キリスト教やイスラム教との大きな違いがあります。(略)
仏教というものは、キリスト教やイスラム教のように、神という存在があって、その神の啓示によってひらかれたという宗教ではありません。また、イエスという神の子が、あるいはムハンマドが、神というものの意思と命令に従って、つまり預言者として、この世に出現して教えを説いたというものでもないのです。その違いがお釈迦様の「無師」です。(略)仏教の世界には神は存在しません。(略)これは、仏教が非常に科学的だともいえることです。(略)
人間が生れ生きて死んでいく中で受ける苦というものの根本原因を探し求めようとしたところからスタートして、人間をはじめとして一切の生きとしいけるものすべてを含む広大な自然、さらには夜の星、輝ける太陽といった大宇宙を見つめることによって、これらを動かしているものはこれだというところに行き着いたのです。それが、「全宇宙を貫いている真理は、縁起である」ということでした。(略)
つまり、すべてのものは寄り集まっているということであり、一切は無常であるということの原理を私たち自身が、正しい真理なのだと納得しないと、苦からは離れられないということをおっしゃったわけです。宇宙物理学者が研究を深めていけば、やがてこのお釈迦様の説かれた、仏法という世界が、じつは、全宇宙を貫く真理であり、それは無常と縁起であるというところにやがて到達するのではないかと私は思います。(略)
一神教の世界における絶え間ない争いは、自分の信じている神のみが正しいという信念によって引き起こされていますが、お釈迦様は、一つの特定の神或は仏が正しいなどということは一言も説かれていません。お釈迦様が説かれたのは、自分がつかみ取った真理は「縁起」と「無常」であり、これは宇宙全てが同じ法則の中に存在しているのであって、その理法に背を向ける生き方をすると苦が生ずるのだとおっしゃっているのです。 - (法句経304)不善の人には、(略)教えを聞いても、闇に放たれた矢と同じで見えないのだというのです。(略)
この法句にある不善の人とは、決して道徳的な意味で言っているのではありません。いろんな学問、教養、知識、あるいは自分の持っている名誉、財産、そういったものを、自分自身の最も大切なものであると思いこみをしている人たちのことを、不善の人といっています。つまり不善の人とは、自利に捕われ、自らの利益しか見えない人、そして理性とか知性というものに偏重しすぎている人、さらに情緒的にしかものを見ない人、感情的に行動を起こす人、そういう人をひっくるめて不善の人とお釈迦様はおっしゃっているのです。現代日本は飽食と利欲の世界になっています。こんなに科学やITが発達している世の中であっても、いまだに、あちこちでおまじないをしてもらったり、祈祷をたのみ、おみくじを引き、占いに凝って、もっともっと利益を得よう、自分だけはいい思いをしたいと願う人が大勢います。そういう人にはヒマラヤのような仏法の輝きは見えません。
- 仏音と日本人/PHP研究所
般若心経に対する考察などは深い。そして、正しい。
- 法然の革命~浄土門は果して易行なのでしょうか浄土門は易行道というが、知識・学問のある人がその学識や知恵をすべて捨て去って念仏のみ申すという境涯に行き着くことは、およそ難事といえよう。それはすべての現代人を見れば一目瞭然ではないか。メディアに踊る人々はみな「知者のふるまい」に耽溺しきっている。真言密教や天台教学の深淵高度な仏教哲理や祈祷行法に専念する当時の指導層にとっても、法然の「還愚」と「修行・修法放棄」、さらには神社仏閣さえも捨て去るべしという易行念仏は、まさに邪悪なる教えと映ったのも無理はない。
- 道元「感応道交」の世界~アンチ癒しブームを掲げる私は、この思想に出会った感激は計り知れません道元は「仏性」をみつめ「悉有仏性」の世界観によって、あらゆるこの世の働きを同一化していく。仏をたのむとか、すがるとかいうことではなく、あるがままの全天然、人類がその実相において「仏」であるという仏教哲理は、道元によって日本に確立されたのである。(略)
エコロジーとか自然を大切に、などという浮ついた「癒しの自然愛」などとは比べようもない、人間の根源に目差を向けた哲理である。それを、いまの日本人は忘れ去って人間と自然とを別物とし、そこへ帰るとか、懐かしいとかたわごとをいっている。道元からすれば、いまの自然愛とか自然回帰など唾棄すべき偽善としかいえないだろう。 - 葬儀時だけの形だけの念仏などはまさに無信称名であり、蓮如は白骨の章で厳しく戒めています当時も今もそうだが、口先だけの念仏者は多い。葬儀などで導師が「同称十念」というと、会葬者は声をそろえて念仏を唱える。それが亡き人の冥福を祈ることだと思いこんでいる。もちろん、自分の往生など棚上げにしている。それが「無信称名」である。真宗の信徒にもそうした誤信が広がっていた。蓮如の使命は、祖師親鸞の教えを純粋に伝え広める「親鸞回帰」、真の念仏の復興にあった。
- 大概の宗祖は宗教集団の形成など考えているわけがないのです(新興宗教との歴然とした違い)親鸞には立宗の意志はなく、いうところの「浄土真宗」とは、すべては彌陀の本願力を宗とするの意であって、宗派僧団を意味するものではなかったにもかかわらず、祖師没後二百年を経て、信州新との巨大宗団が形成されてしまっている。いわば親鸞に否定されていた宗団・門徒・流派の弊害が起こり、念仏もまた歪曲されていったのである。蓮如の念願はそれを原点に引き戻すことであった。
- 神道は所詮政治思想であり、霊性を備えた宗教思想としては、鎌倉時代以降の仏教こそである(第二次世界大戦)当時日本は、西欧文化を物質文明のとさげすみ、日本の精神主義を無比のものと誇り、その源泉を皇室神道に求めていた。しかし、大拙は伊勢神道の根拠となる「神道五部書」を厳密に検証し、「神道は元来が政治思想であって・・・霊性そのものの顕現ではない」と否定し、さらに歴史を遡って万葉・平安時代には、まだ霊性を見いだすだけの機会に恵まれていないと断言する。博士のいう「霊性」とは、もっと大地性を持った宗教的、普遍的霊性であり、しかも、その霊性を宗教思想として深め覚醒していくには「外来」といわれている思想や情緒に「接触し、これを摂取して自ら育て上げねばならぬ」と指摘する。(略)
奈良・平安時代に空海や最澄は仏教を学んだが、現世利益と観念的遊技の段階を脱していない。「清明心」はあったろうが、ほんとうの宗教意識の目覚めではない。「鎌倉時代になって、日本人は真の霊性の生活に覚醒されたのである」。その宗教的衝撃とは「禅」と「浄土教思想」である。 - 科学や文明賛美を疑わない現代人に、沢木興道師から一撃「今の科学的文化は、人間のもっとも過当な意識を元として発達しておるにすぎぬということを忘れてはならぬ。文化、文化というけれど、ただ煩悩に念が入っただけのものでしかないじゃないか。煩悩のシワが、いくら念が入っても、仏教からいえば進歩とも文明ともいわぬ。こんな利口ぶって、こんなにバカになってしもうたのが、人間というバカ者である。人間の役に立つものは、みなゆきづまる。偽りとは人為(つくりもの)ということだ。ツクリモノの世界はいつでも変わるに決まっておる。文化とはツクリモノが発達したにすぎぬ。だから文化とは悲劇である。」
- 仏道が在家の宗教として成り立つ理由「人間の宗教」である以上仏教は当然、世俗生活の経済にも目を向け「仏教経済倫理」を展開する。「大品般若経」に「菩薩訶薩は、産業のことの法性に入らざる者を見ず」とあるように大乗仏教でも経済生活に積極的な宗教意義を認めている。(友松)圓諦師はその合理的かつ功利的な現実主義を、より古い「法句経」や「阿含経」をふまえて釈尊の経済生活に対する態度を鮮明にしていった。「中道とは戯論をすて、実際道に生きることである。増一阿含経の中に”一切の衆生はみなに由っての故にその生命を存す、食わなければ命うしなう””衆生に命根あり、形あり、食ありて則ち存す、食非れば、命済せず、sれば一茶衆生に施与すればその報無量なり”と布施の功徳まで力説されている。経済生活を手とし、性欲を肯定する一般大衆に”煩悩を断滅、減去せよ”と説くのは釈尊の教化の道ではない」では、なぜ多くの歴代仏教者は禁欲の精神主義を誇張し物質を賤しみ、在家生活者に無理を強いるのか。師の答えは明快である。在家の人々からの在世をいただき乞食せずに、寺の出家者独立生計できるようになり出世間、脱経済生活を送れるようになったからだという。だが、釈尊の教えは違う。「彼は世間の経済所得の財宝を汚穢なりとはしない」。
- 橋本凝胤師の僧侶腐敗摘発は痛快肉食妻帯の僧侶を似非坊主と罵倒し、二十万人の僧侶を葬っても仏教は滅びないとまで断言し続けてて来た。「食えなんだら食うな、死んだら死んだでええ」師の口癖だった。「日本の坊主を認めん。やつらは仏弟子ではござらぬ。日本の不幸は指導者たるべき僧侶の荒廃にある。自己責任を持たない。西欧人も然りだ。彼らは自業自得ということを知らん。神が人間をつくったと思っとるから自分に悪業の原因をさぐらん。こうした宗教的人間を仏教は否定する」。
- 原始経典を軽んじないことを心においておきたい確かに大乗菩薩道は美しい。その犠牲的行動の描写叙述は神秘的とさえいえよう。しかし、決して教祖たる釈尊の説かれた教法の根幹ー阿含・法句・経集を、軽んじ離れてはならないのである。念仏も禅も題目も「般若心経」の写経も結構だろう。が、つねに阿含、法句に戻って仏陀の真精神を汲み取る「仏祖の大道」を忘却してはならないと思う。「阿含経」は引用法句にもみられるように、まことに平凡きわまりない日常自然の営みのなかから教えを説かれている。私たちと同じ地平線に立って、現実の悩み多き世間の悲喜恩愛のうめきにやさしく応えている。空とか無とかいう哲学的な言葉は出てこない。むしろ倫理的で合理的で常識的でさえある。
- 般若心経は凝縮された抽象的経文故に解釈を誤らないことが重要注意しなくてはならないのは経文の字句解釈はともかく、それらの講話や講義は百人百色、著述者、解説者の宗教的・思想的立場からそれぞれの解釈を下しているということである。(略)
しかも、多くの日本人の手にする「心経」は唐僧玄奘法師の漢訳によるもので、その中には「度一切苦厄」の法句があるけれども梵語原文には見当たらない。「以無所得故」の五字も法隆寺の貝葉梵文には存在しない。ではどうしてそんな細かい専門的なことにこだわるのかといわれるかもしれないが、この経は観自在菩薩が自利の悟りとして「照見五蘊皆空」、つまり一切の現象が因縁によって成り立つという空の真理を智慧の徹底によって(行深般若波羅蜜多)照見したと告げているのであって、いきなり一切衆生の苦を救う利他行を説いているわけではないということを知っていただきたいからだ。もし「度一切苦厄」が「心経」の功徳だと思いこんだら、このお経はたちまちにして狭隘な御利益経に墜ちていってしまう。「心経」は「さとりの経」であって「すくいの経」ではないのである。(略)ほとんどの一般日本人は何十回も何百回も「心経」を棒読みしては「度一切苦厄」の利益を得ようと甘え、僧侶も都合の良いようなありがたや節の俗言を吐いている。(略)
この経は御利益を与えてくれる呪力の書ではない。自己努力による深い叡智の探求を求めた経典である。
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