2010年8月17日火曜日

【末代無智の章(蓮如御文章)】

浄土真宗教団の祖といえる蓮如が、「御文章(御文)」において、親鸞の思想を語る

宗教家として行き着くところまで行ったと言える親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。蓮如の弟子への手紙が次の実如により五帖目八十通に編纂されたのが御文章(本願寺派の呼び名。大谷派では「御文(おふみ)」)です。今でこそ、「歎異抄」が浄土真宗=親鸞教の真髄のように言われますが、歎異抄が日の目を見たのはつい明治時代のことであり、浄土真宗が民衆に広く深く受け入れられていった最大の貢献者はこの「御文章」があったからといっても過言ではありません。
この「末代無智の章」は、真宗の神髄を余すところなく伝えている一節です。

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末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、
こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、
さらに余のかたへこころをふらず。
一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、
たとひ罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来はすくひましますべし。

これすなはち第十八の念仏往生の請願のこころなり。
かくのごとく決定したうえは、ねてもさめても、命のあらんかぎりは、
称名念仏すべきものなり。

あなかしこあなかしこ。

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「白骨の章」も、「聖人一流の章」以来、2年近くぶりの挑戦とありますが、ようやく3つめの御文章「末代無智の章」が身につきました。大変素晴らしい神髄を語る内容の経文です。よく親しまれる御文章としては、あとは信心獲得の章で一応網羅することになろうかと思います。それはまた数年後のことでしょうが。(2010/08/17)



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