2015年5月16日土曜日

古鏡としての経文

経文を学び始めて思えば10年という時間が経過し、日常生活から経文が離れ、繰り返すことを怠ってきたために、40近く暗誦できた経文が、もはや10程度 (しかも短いもの中心)になってしまい、この40代は明らかに試練を呼び込んで、仏教に照らし合わせて解決することもできない状態が続いてきました。ひと えに、仏法離れがなせる業と納得しています。

経典・経文を「護呪」として、いわば祈りのためと捉えることが多く、陀羅尼などはそう捉えるしかない部分はあるが、いくつかの経文については自分は「古鏡(こきょう)」として捉えることを意識したい。

経文の中にある内容と自分の生き方を照らし合わせて、正しく生きるための指針として読むあり方です。修証義などがこのあり方に相応しい経文の一つです。
暗誦が目的ではありませんので、一言一句を味わい、思惟し、日常の落とすことを心がけたい。

2015年5月15日金曜日

ブログの引っ越し

サーバー更新が事情で出来なくなったため、2006年から続けてきた本ブログを、Googleブロガーに引っ越ししました。

残念ながら、過去の投稿日を引き継ぐことができなかったため、過去126本の投稿を、古いものから順に一まとめで2015年5月14日の日付に入れる対応になりました。

2013年8月から更新も止まっていたので、改めて再開したいと思います。

2015年5月14日木曜日

仏法を思惟する

仏法を意識して生きていこうと思って2年、かなり濃密な仏法に浸ることのできた日々を過ごしてきたつもりでも、ここにきて忙殺される毎日に、自分の意識が弱まっていることを自覚しました。
「遜文侍の本日」は毒舌集ですが、こちらは真摯に仏法について考えていきたいと思っています。
(2006.8.29)


法施は僧侶である証でもあるというのに・・・

仏法ブログは、「遜文侍の本日」の毒舌とは一線を画して、自省と人生の日々の生活の中での仏法についての「気づき」を記録するために立ち上げたのですが、立ち上げ直後、悪い意味で衝撃を受けた記事を見てしまい、こんなネガティブなトーンになってしまいました。とにかく唖然とする記事。

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(南日本新聞から編集抜粋)

住職 読経ボランティア/●●寺
月1回老人施設を訪問 入所者「心が洗われる」

町の介護老人福祉施設に毎月、同市内の●●寺から住職が訪れて、ボランティアでお経をあげている。入所者にとっては、亡くなった伴侶や家族らに思いをはせる大切な時間。「お寺さんが来るのが楽しみ」と待ちわびている。
 同苑では自室でお祈りをする入所者が多かったことから、3年前、施設内の一室に大仏壇を置いた。このことが●●寺の住職(58)の耳に入り、毎月1回、約30分間の読経と説法に来るようになった。
 同寺は浄土真宗興正派だが、約20人の入所者は宗派を超えて念仏を唱える。住職は「亡くなった自分の両親と同世代の方々で話していて楽しいし、僧侶としても勉強になる。生きていてよかったと思えるお手伝いができれば」と話している。(略)

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絶句。

読経が「ボランティア」とは何事でしょうか?

これは当たり前の僧侶の姿ではありませんか。これこそ日常の風景ではないでしょうか。

法施は僧侶の本職であり、それは所謂布施の対価としてなされるものでは全くない筈なのに、「ボランティア」とは何?

この僧侶としての姿そのままがどうして記事になり、「ボランティア」になってしまうのか、皆目わかりません。

ここでいう「ボランティア」は本業を無料でやった、という意味以上のものは何もないのでしょうが、これは仏法も僧侶もボランティアもあまりにバカにしています。記事にした人間のお粗末極まりない認識に問題があるが、僧侶はこれを見て怒らないのでしょうか?
ところで、「宗派を越えて」って、浄土真宗は一般的な観音経等の法華経や般若心経等も読経できないと思いますが・・・。

しかし、普段の読経は法施ではないと断言しているようなものであります。

仏教寺院の形骸化と本気で弘法する気がないという堕落の実体は、残念ながら遠藤誠氏の指摘のとおりでありました。

まともにやっていらっしゃる僧侶の皆様には申し訳ありませんが、仏法と民を侮辱した此の記事に一言いわせていただきました。

(2006.8.29)

早く家に帰ること

私は出来る限り毎日早くに家に帰ります。
仕事は山のようにありますが、関係ありません。

4歳と0歳(7か月)の2人の子どもが満面の笑みで迎えてくれることも何よりの楽しみではありますが、結婚した、家庭が出来た、子どもが出来た、これによって人生観が本当に変わったと同時に、どう生きるべきかが実にハッキリしたからです。

自分はどう生きたいのか。

まず人生で自分が何よりも大切にしなければならないものは何か。

これが家族ができたことで実に明確になりました。

自分と運命共同体といえる「家族」であります。
家族といかに幸せな時間を多く持つことが出来るか、どれだけいたわりあい、家庭にいることに幸せを感じる、そんな空間を作ることが出来るか。
特に我が家の二人の子どもは、(上の子も幼稚園に行っていませんから)社会に出ていないため、家庭がすべての世界で生きています。そこが快適でなければ、言ってみればこの世は地獄となります。

「忘己利他」「自未得度先度他」「衆生無辺誓願度」・・・他人を利することを第一に考える、という仏教語は幾らでも出てきます。
これが仏法の根本であります。
仏法の実践をして生きることを決めたからには、仏法を自分の生活に置き換えて、具体的に実践することが大事です。

すべての衆生を救うなんてことは一人の人間にできはしないし、思い上がり以外の何物でもありません。
浄土教は「南無阿弥陀仏」念仏こそが最終的には最も衆生を救う道につながるのだといい、親鸞聖人に至ってはそれを歎異抄でも証明しました。

根っからの真宗純粋同朋にはなれない私です。
そう考えて、何が仏法にかなうか、真理にかなうか。
まず自分の一番近くの有縁の人、そう家族のために生きるということが、最も理にかなっているのは明白です。

歴史的にも世界的にも、家族を大切にしない民族・時代は稀と考えます。そしてそれはどれもこれも病んだ世界でしかありません。
戦後の日本がその代表的な「家族崩壊」系の社会であることは明白です。
それを今も引きずっている人間がどれだけ社会に多いかも仕事をしていればわかります。
フリーターだろうが何だろうが、家族を大事にするという基本姿勢を忘れない人間こそが「まともな」人間である、ということが最近の自分の確信です。

そう思えばこそ、時間中は出来る限りの効率で働きますが、早く帰宅し、子どもたちと入浴し、語らい、ふれあう毎日を繰り返す。
とにかく「寄り添う」ことが何よりも健全な人間の魂を育たせることにつながると信じております。

それが今の自分の最大の実践すべきこと、これが結論であります。

(2006.8.31)

読経の環境

読経をすることを一つの仏法を実践していくための方法として、続けてきているわけですが、なかなかその環境を普段確保することは難しいのです。
一番集中できるのは、実は入浴中です。
しかし、乳呑み児の子育て中の身としては、子どもと一緒に入浴すれば当然無理だし、平日に一人入浴しようとすると、外から子どもたちのちょっかいが始まって、どうにも集中できません。
声に出すことは大切なので、寝静まった後に唱えることもできないし、当然通勤時間や職場で唱えたら危うい人になってしまいます。
特に、今30程の経文を身につけただけに、それらを日々繰り返し唱えないと、記憶は薄れるし、経文が遠いものになってしまったら元も子もありません。
最善策は見あたらない中での日々の工夫のしどころです。

(2006.9.2)

はからいについて

はからい、は生活の中で当たり前のようになされていますが、仏法では「根本無明」といって、それがすべての愚かな争いのもとと捉えています。キリスト教でいうところの「原罪」に近い考え方です。

経文の読み方

抽象的だったり、寓話性に富んだりする経文を読むには、具体的な個人の経験や深く考え悩んだことに落とし込むことで、一挙にその意味が生まれます。
今分からなくても、経文を学び、そらで言えるようにしているのには、それを念頭に置き、忘れないことです。

【延命十句観音経】

我がサイトにおいても「経文を知る」として、覚えてきた経文を列挙していますが、改めて、このブログでもこれまで吸収してきた経文を振り返りたいと思います。

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普段、佛教を常に意識して生活を営むことは困難です。何かあれば腹が立つし、苛立ちます。そんな時、このお経を頭に思い浮かべることで佛教の言わんとする重要な「行き方」が確認でき、短絡的な思考・感情をリセットすることができるのです。42文字という短さが常の暗唱を可能にしています。

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延命十句観音経

観世音 南無仏

与仏有因 与仏有縁

仏法僧縁 常楽我浄

朝念観世音 暮念観世音

念念従心起 念念不離心

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初めて経文を覚えたいということで選んだのが、この短いお経でしたが、当時は「音」に頼ることなく字面をみただけでしたので、僧侶が読誦するような抑揚や語句の長さが解らず、完全自己流でした。後に臨済宗CDで発見して修正をしましたが、経文を暗誦するということは、いざ仏道を心に念じようとするときは、手元に何もないときがほとんどであることからも、自分の頭の中から出てくるということは、非常に有り難いことであると痛感し、これを機に、できるだけ多くの仏道の心を自分の心に染みこませたいと思い、経文の暗誦を始めたのでありました。「朝念観世音暮念観世音、念々従心起念々不離心」という文句は正にその読経人生の最初の誓いとして最も相応しいものでありました。

どう打開するか

仏法に出会って2年を越え、計り知れない精神上の転換が私の中で行われたわけですが、ここに来て、明らかに何かの壁に当たっています。
実生活に全然落ちてこなくなってしまったのです。
このブログを立ち上げたのも、何を隠そう、このいい知れぬ泥沼からの脱出を試みたいということからです。
何がついこの前までと違うのか。
仏法が空虚に響く時さえあります。
久しぶりに得体の知れない鬱感覚が自分を覆っています。