経文を学び始めて思えば10年という時間が経過し、日常生活から経文が離れ、繰り返すことを怠ってきたために、40近く暗誦できた経文が、もはや10程度
(しかも短いもの中心)になってしまい、この40代は明らかに試練を呼び込んで、仏教に照らし合わせて解決することもできない状態が続いてきました。ひと
えに、仏法離れがなせる業と納得しています。
経典・経文を「護呪」として、いわば祈りのためと捉えることが多く、陀羅尼などはそう捉えるしかない部分はあるが、いくつかの経文については自分は「古鏡(こきょう)」として捉えることを意識したい。
経文の中にある内容と自分の生き方を照らし合わせて、正しく生きるための指針として読むあり方です。修証義などがこのあり方に相応しい経文の一つです。
暗誦が目的ではありませんので、一言一句を味わい、思惟し、日常の落とすことを心がけたい。
2015年5月16日土曜日
2015年5月14日木曜日
読経の環境
読経をすることを一つの仏法を実践していくための方法として、続けてきているわけですが、なかなかその環境を普段確保することは難しいのです。
一番集中できるのは、実は入浴中です。
しかし、乳呑み児の子育て中の身としては、子どもと一緒に入浴すれば当然無理だし、平日に一人入浴しようとすると、外から子どもたちのちょっかいが始まって、どうにも集中できません。
声に出すことは大切なので、寝静まった後に唱えることもできないし、当然通勤時間や職場で唱えたら危うい人になってしまいます。
特に、今30程の経文を身につけただけに、それらを日々繰り返し唱えないと、記憶は薄れるし、経文が遠いものになってしまったら元も子もありません。
最善策は見あたらない中での日々の工夫のしどころです。
(2006.9.2)
一番集中できるのは、実は入浴中です。
しかし、乳呑み児の子育て中の身としては、子どもと一緒に入浴すれば当然無理だし、平日に一人入浴しようとすると、外から子どもたちのちょっかいが始まって、どうにも集中できません。
声に出すことは大切なので、寝静まった後に唱えることもできないし、当然通勤時間や職場で唱えたら危うい人になってしまいます。
特に、今30程の経文を身につけただけに、それらを日々繰り返し唱えないと、記憶は薄れるし、経文が遠いものになってしまったら元も子もありません。
最善策は見あたらない中での日々の工夫のしどころです。
(2006.9.2)
経文の読み方
抽象的だったり、寓話性に富んだりする経文を読むには、具体的な個人の経験や深く考え悩んだことに落とし込むことで、一挙にその意味が生まれます。
今分からなくても、経文を学び、そらで言えるようにしているのには、それを念頭に置き、忘れないことです。
今分からなくても、経文を学び、そらで言えるようにしているのには、それを念頭に置き、忘れないことです。
【延命十句観音経】
我がサイトにおいても「経文を知る」として、覚えてきた経文を列挙していますが、改めて、このブログでもこれまで吸収してきた経文を振り返りたいと思います。
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普段、佛教を常に意識して生活を営むことは困難です。何かあれば腹が立つし、苛立ちます。そんな時、このお経を頭に思い浮かべることで佛教の言わんとする重要な「行き方」が確認でき、短絡的な思考・感情をリセットすることができるのです。42文字という短さが常の暗唱を可能にしています。
------------------------
「延命十句観音経」
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
-------------------------
初めて経文を覚えたいということで選んだのが、この短いお経でしたが、当時は「音」に頼ることなく字面をみただけでしたので、僧侶が読誦するような抑揚や語句の長さが解らず、完全自己流でした。後に臨済宗CDで発見して修正をしましたが、経文を暗誦するということは、いざ仏道を心に念じようとするときは、手元に何もないときがほとんどであることからも、自分の頭の中から出てくるということは、非常に有り難いことであると痛感し、これを機に、できるだけ多くの仏道の心を自分の心に染みこませたいと思い、経文の暗誦を始めたのでありました。「朝念観世音暮念観世音、念々従心起念々不離心」という文句は正にその読経人生の最初の誓いとして最も相応しいものでありました。
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普段、佛教を常に意識して生活を営むことは困難です。何かあれば腹が立つし、苛立ちます。そんな時、このお経を頭に思い浮かべることで佛教の言わんとする重要な「行き方」が確認でき、短絡的な思考・感情をリセットすることができるのです。42文字という短さが常の暗唱を可能にしています。
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「延命十句観音経」
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
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初めて経文を覚えたいということで選んだのが、この短いお経でしたが、当時は「音」に頼ることなく字面をみただけでしたので、僧侶が読誦するような抑揚や語句の長さが解らず、完全自己流でした。後に臨済宗CDで発見して修正をしましたが、経文を暗誦するということは、いざ仏道を心に念じようとするときは、手元に何もないときがほとんどであることからも、自分の頭の中から出てくるということは、非常に有り難いことであると痛感し、これを機に、できるだけ多くの仏道の心を自分の心に染みこませたいと思い、経文の暗誦を始めたのでありました。「朝念観世音暮念観世音、念々従心起念々不離心」という文句は正にその読経人生の最初の誓いとして最も相応しいものでありました。
【仏説摩訶般若波羅蜜多心経】
難解でありながら、何とも呪文のような不思議な魅力で引きつけるこの短いお経「般若心経」。
片っ端から小乗の教えを否定しまくる大胆不敵なお経であるから、とてもポピュラーになりうるはずがない内容なのですが、浄土真宗系と日蓮宗系列を除いて、スタンダードなものとして最も在家の人間が諳誦して知られているお経です。
空海の解釈が評判が高いことからもわかるように、真言密教が一番しっくり来る、そんなお経であります。
------------------------------------------
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舍利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是
舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無限界乃至無意識界
無無明亦無無明尽
乃至無老死亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩多 依般若波羅蜜多故
心無けい礙 無けい礙故 無有恐怖
厭離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿縟多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神咒
是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
掲諦掲諦 波羅掲諦
波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
-------------------------------
276文字と暗誦お経の王者的な言い方をされる般若心経ですが、いざ覚えようとするとこの漢字だらけでただそれを読み下しただけの字の羅列にどう手をつけていいか、当時は困惑しました。
般若心経にかかる多くの本を読んでそのいわんとする心を掴もうとし、また、心経の4つの読経CDをひたすら聞いて耳から覚えようとしました。
最終的には、意味を徹底するよりも、やはり繰り返し耳で聞くということが、語学の学習と同様に一番効果的であることを確信し、以降、経文の暗誦に向けてはすべて耳から入るようにしています。
結局、意味は覚えた後で更に何度も繰り返して考えて、理解を深化させていくということを経て、血となり肉となりものになっていくのだなということがわかるようになってきました。
後に学んだ妙法蓮華経関係とあまり文言か重ならないこともあり、またこの経文が散文的な構成であることが、実は記憶するには混乱を呼ばない作りであることも、あとで分かりました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
片っ端から小乗の教えを否定しまくる大胆不敵なお経であるから、とてもポピュラーになりうるはずがない内容なのですが、浄土真宗系と日蓮宗系列を除いて、スタンダードなものとして最も在家の人間が諳誦して知られているお経です。
空海の解釈が評判が高いことからもわかるように、真言密教が一番しっくり来る、そんなお経であります。
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「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舍利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是
舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無限界乃至無意識界
無無明亦無無明尽
乃至無老死亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩多 依般若波羅蜜多故
心無けい礙 無けい礙故 無有恐怖
厭離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿縟多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神咒
是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
掲諦掲諦 波羅掲諦
波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
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276文字と暗誦お経の王者的な言い方をされる般若心経ですが、いざ覚えようとするとこの漢字だらけでただそれを読み下しただけの字の羅列にどう手をつけていいか、当時は困惑しました。
般若心経にかかる多くの本を読んでそのいわんとする心を掴もうとし、また、心経の4つの読経CDをひたすら聞いて耳から覚えようとしました。
最終的には、意味を徹底するよりも、やはり繰り返し耳で聞くということが、語学の学習と同様に一番効果的であることを確信し、以降、経文の暗誦に向けてはすべて耳から入るようにしています。
結局、意味は覚えた後で更に何度も繰り返して考えて、理解を深化させていくということを経て、血となり肉となりものになっていくのだなということがわかるようになってきました。
後に学んだ妙法蓮華経関係とあまり文言か重ならないこともあり、またこの経文が散文的な構成であることが、実は記憶するには混乱を呼ばない作りであることも、あとで分かりました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【四弘誓願】
仏道に生きるための四つの誓い。
各宗門により微妙に言葉が違うようですが、私が好きなのがこの四つであります(曹洞宗より)。
まさにこの四点を心に刻んで仏道と接することが、何よりも重要と思われるのです。
-------------------------------------------
「四弘誓願」
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
-----------------------------------------
仏道の根本思想を噛みしめるのにとてもよい、つまり分かりやすい四句だと思って暗誦しました。
事あるごとにこの四句は思い出され、日常でもその心を忘れずにいることが出来ます。
短くとも意味するところを噛みしめれば噛みしめるほど、自分の血となり肉となることを実感できるのです。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
各宗門により微妙に言葉が違うようですが、私が好きなのがこの四つであります(曹洞宗より)。
まさにこの四点を心に刻んで仏道と接することが、何よりも重要と思われるのです。
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「四弘誓願」
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
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仏道の根本思想を噛みしめるのにとてもよい、つまり分かりやすい四句だと思って暗誦しました。
事あるごとにこの四句は思い出され、日常でもその心を忘れずにいることが出来ます。
短くとも意味するところを噛みしめれば噛みしめるほど、自分の血となり肉となることを実感できるのです。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25)】
般若心経に次いで世でよく読誦される「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」、所謂、観音経の偈の部分(後半)であります。これも、宗派を越えて、多くの宗門において読誦されているスタンダードな経文であります。
般若心経が哲学的・知的・観念的・抽象的であるのに対して、観音経普門品偈は情緒的・・現世利益的発想・具体的という、全く雰囲気の異なる様相を呈しています。
般若心経とは全く内容も説くアプローチの方法も異なるため、般若心経を学ぶときとはまた違った気持ちでこのお経に接することができました。
-------------------------------
観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者
当知是人 功徳不少 佛説是普門品時 衆中八萬四千衆生
皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
----------------------------------
長さが594文字と、漢文読み下し経文の定番でも取り立ててとても長いため、自分で構成を何部にも作り出して、意味を捉えながらの暗記となりました。
特に「念彼観音力」というフレーズが15程あるため、意味を追っかけているときは良かったのですが、実際一言一句の意味を考えずに暗誦できる段階になると、その繰り返しがかえって邪魔をして、「念彼観音力」に来るたびにつかえてしまう、ということが生じてしまうのが、この経文の特徴です。
曹洞宗における読誦を耳にして覚えました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
般若心経が哲学的・知的・観念的・抽象的であるのに対して、観音経普門品偈は情緒的・・現世利益的発想・具体的という、全く雰囲気の異なる様相を呈しています。
般若心経とは全く内容も説くアプローチの方法も異なるため、般若心経を学ぶときとはまた違った気持ちでこのお経に接することができました。
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観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者
当知是人 功徳不少 佛説是普門品時 衆中八萬四千衆生
皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
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長さが594文字と、漢文読み下し経文の定番でも取り立ててとても長いため、自分で構成を何部にも作り出して、意味を捉えながらの暗記となりました。
特に「念彼観音力」というフレーズが15程あるため、意味を追っかけているときは良かったのですが、実際一言一句の意味を考えずに暗誦できる段階になると、その繰り返しがかえって邪魔をして、「念彼観音力」に来るたびにつかえてしまう、ということが生じてしまうのが、この経文の特徴です。
曹洞宗における読誦を耳にして覚えました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【開経偈】
四弘誓願と同様、仏道を知るための四つの誓いともいえましょう。
経文を読誦するにあたって、導入を飾るに相応しい文言ですが、出典は(私は)よくわかりません。
各宗門により読み下し文だったり、このように漢文読みだったりするようです。
私はこの浄土宗の漢文の響きがしっくりきています。
ここでも、仏道の深さ、仏道に出遇うことの尊さを確認しています。
----------------------------------------
【開経偈】
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義
----------------------------------------
すべての宗派で若干の文字面が異なるとはいえ、読経の前に、この「開経偈」にあたる位置づけの経文を読誦していることを知り、真っ先に覚えました。
四フレーズというのは、ほとんど苦労せず覚えられる量です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
経文を読誦するにあたって、導入を飾るに相応しい文言ですが、出典は(私は)よくわかりません。
各宗門により読み下し文だったり、このように漢文読みだったりするようです。
私はこの浄土宗の漢文の響きがしっくりきています。
ここでも、仏道の深さ、仏道に出遇うことの尊さを確認しています。
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【開経偈】
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義
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すべての宗派で若干の文字面が異なるとはいえ、読経の前に、この「開経偈」にあたる位置づけの経文を読誦していることを知り、真っ先に覚えました。
四フレーズというのは、ほとんど苦労せず覚えられる量です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【懺悔文】
三毒といわれる「貧瞋癡」、三業といわれる「身口意」、これらが諸悪の根源となり、悪い結果をもたらす原因であることをよく明らかにして、常に自分がそこに陥っていないか、自省し、一切を懺悔(さんげ)する、そんな時に読経したいのがこの懺悔文です。
出典は、『華厳経』普賢行願品第四十から。普賢菩薩が毘廬遮那仏の前で自分が気づかずにおかしてきた過ちを反省して、許しを請う偈文です。
---------------------------------------
【懺悔文】
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生
一切我今皆懺悔
----------------------------------------
私の使った浄土宗CDでは三句目が「従身語意之所生」となっていますが、「従身口意之所生」と身口意とされる方が一般的と思い、そちらで覚えました。
出典は、『華厳経』普賢行願品第四十から。普賢菩薩が毘廬遮那仏の前で自分が気づかずにおかしてきた過ちを反省して、許しを請う偈文です。
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【懺悔文】
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生
一切我今皆懺悔
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私の使った浄土宗CDでは三句目が「従身語意之所生」となっていますが、「従身口意之所生」と身口意とされる方が一般的と思い、そちらで覚えました。
【妙法蓮華経方便品第二】(十如是)
法華経の二大柱の一つがこの方便品第二(十如是)です。
法蓮華経を所依の経典とする天台宗や日蓮宗が非常に重要視するのがこの方便品第二、最後に十の如是(十如是)が登場するこれであります。
何度も諸仏・如来の偉大さを語り、方便を駆使して衆生に語りかけてきたというのだが、でもわかっちゃもらえないほど難しいんだよ、と諦めてみたりする、言いたいことの定まらない不思議な経文であります。
なお、経文を覚えるために私が独自に意味分けしたため、一般とは異なるところに句読点が入っていることをお断りしておきます。
----------------------------------------------
【妙法蓮華経方便品第二】
爾時世尊、従三昧安詳而起。
告舎利弗、諸仏智慧甚深無量。其智慧門難解難入。
一切声聞、辟支仏、所不能知。
所以者何、仏曾親近百千万億無数諸仏、
尽行諸仏無量道法勇猛精進名称普聞、
成就甚深未曾有法、随宜所説意趣解難。
舎利弗、吾従成仏已来、種種因縁種種譬喩、
広演言教無数方便、引導衆生令離諸著。
所以者何、如来方便知見波羅蜜皆已具足。
舎利弗、如来知見広大深遠、無量無碍、
力、無所畏、禅定、解脱、三昧、深入無際、
成就一切未曾有法。
舎利弗、如来能種種分別、巧説諸法、言辞柔軟、悦可衆心。
舎利弗、取要言之、無量無辺未曾有法仏悉成就。
止、舎利弗。不須復説。
所以者何、仏所成就第一希有難解之法。
唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。
所謂諸法、
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・
如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。
---------------------------------------
法華経の専門宗派である日蓮宗CDにより、覚えました。
「お経に帰依する」宗派だけに、経文を読む僧侶の声と張りが、他の宗派に比して一番歯切れがよい、という印象です。
法華経独特の繰り返しの主張と論理構成が、暗誦するにあたって障壁となり、般若心経などに比べると、内容が頭に入りにくく、中々苦労しました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
法蓮華経を所依の経典とする天台宗や日蓮宗が非常に重要視するのがこの方便品第二、最後に十の如是(十如是)が登場するこれであります。
何度も諸仏・如来の偉大さを語り、方便を駆使して衆生に語りかけてきたというのだが、でもわかっちゃもらえないほど難しいんだよ、と諦めてみたりする、言いたいことの定まらない不思議な経文であります。
なお、経文を覚えるために私が独自に意味分けしたため、一般とは異なるところに句読点が入っていることをお断りしておきます。
----------------------------------------------
【妙法蓮華経方便品第二】
爾時世尊、従三昧安詳而起。
告舎利弗、諸仏智慧甚深無量。其智慧門難解難入。
一切声聞、辟支仏、所不能知。
所以者何、仏曾親近百千万億無数諸仏、
尽行諸仏無量道法勇猛精進名称普聞、
成就甚深未曾有法、随宜所説意趣解難。
舎利弗、吾従成仏已来、種種因縁種種譬喩、
広演言教無数方便、引導衆生令離諸著。
所以者何、如来方便知見波羅蜜皆已具足。
舎利弗、如来知見広大深遠、無量無碍、
力、無所畏、禅定、解脱、三昧、深入無際、
成就一切未曾有法。
舎利弗、如来能種種分別、巧説諸法、言辞柔軟、悦可衆心。
舎利弗、取要言之、無量無辺未曾有法仏悉成就。
止、舎利弗。不須復説。
所以者何、仏所成就第一希有難解之法。
唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。
所謂諸法、
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・
如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。
---------------------------------------
法華経の専門宗派である日蓮宗CDにより、覚えました。
「お経に帰依する」宗派だけに、経文を読む僧侶の声と張りが、他の宗派に比して一番歯切れがよい、という印象です。
法華経独特の繰り返しの主張と論理構成が、暗誦するにあたって障壁となり、般若心経などに比べると、内容が頭に入りにくく、中々苦労しました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【一枚起請文】
浄土教の祖師として、釈迦牟尼仏に始まり日本に伝わり現在に至る歴史を振り返っても、極めて革命的な位置を占めると思われる宗教家法然の最期の言葉です。
浄土宗という宗派の祖師であり、むしろその思想の完成者は浄土真宗の祖師親鸞聖人であるという認識が常識かも知れません。
しかし私は、日本の数々の偉大なる仏教における宗教家で、最も偉大であり、重大な位置を占める人は、この法然上人であると信じて疑いません。
また、その伝えられる人柄や言葉からも、非常に共感する、というか最も自分が帰依したいと思えるのもこの法然上人のような気がしてなりません。
そんな上人が死の2日前に残した短いが、浄土教の思想が集約された重要なエッセンスがこの「一枚起請文」であります。
-------------------------------------------
【一枚起請文】
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、
皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらに同じうにして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義を存ぜず。
滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判
-----------------------------------------
法然上人のご遺訓ですから勿論浄土宗のCDから覚えました。
覚えてしまえばもう違和感はないのですが、はじめはどうもその構成及び言い回しに何か違和感を感じ、どうしても流れるように覚えられず、意外にも倍の文字数がある「修証義」第1章の総序以上に苦労しました。
内容が念仏に専念することに尽きますので、所謂南無阿弥陀仏だけに専念して仏法に帰依しているとは言えない自分としては、これをいざ自分の日常で思い起こして心の支えにしていけるかというと、ちょっと疑問符がついてしまいます。
浄土真宗の経文類も同様なことが言えます。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
浄土宗という宗派の祖師であり、むしろその思想の完成者は浄土真宗の祖師親鸞聖人であるという認識が常識かも知れません。
しかし私は、日本の数々の偉大なる仏教における宗教家で、最も偉大であり、重大な位置を占める人は、この法然上人であると信じて疑いません。
また、その伝えられる人柄や言葉からも、非常に共感する、というか最も自分が帰依したいと思えるのもこの法然上人のような気がしてなりません。
そんな上人が死の2日前に残した短いが、浄土教の思想が集約された重要なエッセンスがこの「一枚起請文」であります。
-------------------------------------------
【一枚起請文】
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、
皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらに同じうにして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義を存ぜず。
滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判
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法然上人のご遺訓ですから勿論浄土宗のCDから覚えました。
覚えてしまえばもう違和感はないのですが、はじめはどうもその構成及び言い回しに何か違和感を感じ、どうしても流れるように覚えられず、意外にも倍の文字数がある「修証義」第1章の総序以上に苦労しました。
内容が念仏に専念することに尽きますので、所謂南無阿弥陀仏だけに専念して仏法に帰依しているとは言えない自分としては、これをいざ自分の日常で思い起こして心の支えにしていけるかというと、ちょっと疑問符がついてしまいます。
浄土真宗の経文類も同様なことが言えます。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【御文章:聖人一流の章】
浄土真宗教団の祖といえる蓮如上人が、「御文(御文章)」において、親鸞聖人の思想を語っています。
宗教家として行き着くところまで行ったといえる親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。
------------------------------------------------------
【御文章:聖人一流の章】
聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心をもって本とせられそうろう。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたより往生は治定せしめたもう。
そのくらいを、一念発起入正定之聚とも釋し、
そのうえの称名念仏は
如来わが往生をさだめたまいし
御恩報盡の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。
----------------------------------------------
浄土真宗中興の祖である蓮如上人の御文章(御文)であります。
私は御文章と呼んでいるお西さんこと浄土真宗本願寺派(御文というのはお東さんこと真宗大谷派)に準じて覚えました。
浄土真宗の読経は明らかに他宗派とは異なり、親鸞上人の正信偈などを聞けば明白ですが、音程が大切で、非常に音楽的なのがその特徴です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
宗教家として行き着くところまで行ったといえる親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。
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【御文章:聖人一流の章】
聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心をもって本とせられそうろう。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたより往生は治定せしめたもう。
そのくらいを、一念発起入正定之聚とも釋し、
そのうえの称名念仏は
如来わが往生をさだめたまいし
御恩報盡の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。
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浄土真宗中興の祖である蓮如上人の御文章(御文)であります。
私は御文章と呼んでいるお西さんこと浄土真宗本願寺派(御文というのはお東さんこと真宗大谷派)に準じて覚えました。
浄土真宗の読経は明らかに他宗派とは異なり、親鸞上人の正信偈などを聞けば明白ですが、音程が大切で、非常に音楽的なのがその特徴です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【仏説無量寿経四誓偈】
法然の定めた浄土三部経の一つ、無量寿経(別名大経:三部経で一番長い)の偈の部分は「四誓偈」または「重誓偈」とも呼ばれ、主に浄土教の浄土宗・浄土真宗・時宗において読経されているものです。
法蔵菩薩が阿弥陀仏になる前まとめた四十八項目の誓願を四十八願といい、それを成就したことで阿弥陀仏になったといわれます。これが仏になる本であったので「本願」というわけです。
その本願を要約して四つにまとめたものとして知られ、読経されるのが四誓偈であります。
-------------------------------------------
【仏説無量寿経四誓偈】
我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚
我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓不成正覚
我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚
離欲深正念 浄慧修梵行 志求無上道 為所天人師
神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難
開披智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道 通達善趣門
功祚成満足 威曜朗十方 日月しゅう重暉 天光隠不現
為衆開法蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法師子吼
供養一切仏 具足衆徳本 願慧悉成満 得為三界雄
如仏無碍智 通達靡不照 願我功慧力 等此最勝尊
斯願若尅果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華
----------------------------------------------
浄土宗CDを利用して暗誦に臨みましたが、浄土宗における読経の大きな特徴が一つあって、木魚を「裏打ち」(!)で挿入するのです。
ですから、日蓮宗や曹洞宗のように「縦ノリ」でスピードアップすることができず、まさにロックに対するレゲエのように、スピードが非常に遅くなります。
それがまた記憶するには大きな障壁であり、耳からの覚えが非常に悪くなるということを学びました。
長さは般若心経以下でありましたが、耳にあまり頼れないというのは苦労しました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
法蔵菩薩が阿弥陀仏になる前まとめた四十八項目の誓願を四十八願といい、それを成就したことで阿弥陀仏になったといわれます。これが仏になる本であったので「本願」というわけです。
その本願を要約して四つにまとめたものとして知られ、読経されるのが四誓偈であります。
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【仏説無量寿経四誓偈】
我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚
我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓不成正覚
我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚
離欲深正念 浄慧修梵行 志求無上道 為所天人師
神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難
開披智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道 通達善趣門
功祚成満足 威曜朗十方 日月しゅう重暉 天光隠不現
為衆開法蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法師子吼
供養一切仏 具足衆徳本 願慧悉成満 得為三界雄
如仏無碍智 通達靡不照 願我功慧力 等此最勝尊
斯願若尅果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華
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浄土宗CDを利用して暗誦に臨みましたが、浄土宗における読経の大きな特徴が一つあって、木魚を「裏打ち」(!)で挿入するのです。
ですから、日蓮宗や曹洞宗のように「縦ノリ」でスピードアップすることができず、まさにロックに対するレゲエのように、スピードが非常に遅くなります。
それがまた記憶するには大きな障壁であり、耳からの覚えが非常に悪くなるということを学びました。
長さは般若心経以下でありましたが、耳にあまり頼れないというのは苦労しました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【光明真言】
仏の言葉たる「真言」。真言宗の中でも最も重視されるのがこの二十三字の光明真言です。
光明真言は真言宗のみならず、天台系、禅系でも読誦されているポピュラーなものです。
空海(弘法大師)は「真言は不思議なり。観誦(かんじゅ)すれば無明を除く、一字に千里を含み、即身に法如を証す」と述べたといわれています。
-------------------------------
【光明真言】
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん
-----------------------------
真言宗ではこれを繰り返し繰り返し唱えています。
思うに、真言宗の読経の感じが、一番坊さんが悦に入っているような一種呪術的印象を与えます。
これはこれで、本来の仏教と言うよりも、呪術的な方面に発展した仏教の別なる形ともいえそうで、何ともユニークであります。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
光明真言は真言宗のみならず、天台系、禅系でも読誦されているポピュラーなものです。
空海(弘法大師)は「真言は不思議なり。観誦(かんじゅ)すれば無明を除く、一字に千里を含み、即身に法如を証す」と述べたといわれています。
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【光明真言】
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん
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真言宗ではこれを繰り返し繰り返し唱えています。
思うに、真言宗の読経の感じが、一番坊さんが悦に入っているような一種呪術的印象を与えます。
これはこれで、本来の仏教と言うよりも、呪術的な方面に発展した仏教の別なる形ともいえそうで、何ともユニークであります。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)】
法華経に帰依する、経文専門宗派である日蓮宗において、その中でも最高の仏道の教えの真髄とされるのが、この如来寿量品第十六であります。
------------------------------------------
【妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)】
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道
爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃
而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山
我時語衆生
常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅
余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法
汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 没在於苦海
故不為現身 令其生渇仰
因其心恋慕 乃出為説法
神通力如是
於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多花果
衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆
我浄土不毀 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満
是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名
諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法
或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値
我智力如是
慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得
汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽 仏語実不虚
如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄
我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅
以常見我故 而生橋恣心 放逸著五欲 墮於悪道中
我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
------------------------------------------
仏は衆生のためを思って、普段は見えないよう姿を隠しているが実はいつもいる、ということを何度も何度も繰り返すだけなので、ストーリーを追って覚えるという手法が効かないのがこの経文の特徴でした。
ともかく、法華経(妙法蓮華経)の前半部分で最重要視される方便品第二、また法華経中最もポピュラーな観世音菩薩普門品第二十五、そして法華経中欠かすことのできない如来寿量品第十六というこの3つが法華経の教えを考える上で、優先されることと思い、日々読経・暗唱しています。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
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【妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)】
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道
爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃
而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山
我時語衆生
常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅
余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法
汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 没在於苦海
故不為現身 令其生渇仰
因其心恋慕 乃出為説法
神通力如是
於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多花果
衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆
我浄土不毀 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満
是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名
諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法
或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値
我智力如是
慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得
汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽 仏語実不虚
如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄
我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅
以常見我故 而生橋恣心 放逸著五欲 墮於悪道中
我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
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仏は衆生のためを思って、普段は見えないよう姿を隠しているが実はいつもいる、ということを何度も何度も繰り返すだけなので、ストーリーを追って覚えるという手法が効かないのがこの経文の特徴でした。
ともかく、法華経(妙法蓮華経)の前半部分で最重要視される方便品第二、また法華経中最もポピュラーな観世音菩薩普門品第二十五、そして法華経中欠かすことのできない如来寿量品第十六というこの3つが法華経の教えを考える上で、優先されることと思い、日々読経・暗唱しています。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【白隠禅師坐禅和讃】
仏道の歴史から言えば最近といってもよい江戸時代において、妙心寺派の末寺から登場して臨済宗全体を一気に復活させた白隠禅師。その坐禅和讃は、とても意味が捉えやすい上に、仏道の真意を余すことなくおさえています
----------------------------------------------------
【白隠禅師坐禅和讃】
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
それ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳に触るる時
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証ずれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
----------------------------------------------------
衆生こそが仏なのですよ、でもすぐにそれを忘れてしまうのがいかんのです、とやさしく説いています。
和讃というだけに、声に出して読誦すると、全体のトーンは明るく楽しいもので、また鎌倉時代の道元禅師のような難解な言い回しではなく、我々に近い時代の白隠禅師の言葉は理解しやすいのが特徴です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
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【白隠禅師坐禅和讃】
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
それ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳に触るる時
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証ずれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
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衆生こそが仏なのですよ、でもすぐにそれを忘れてしまうのがいかんのです、とやさしく説いています。
和讃というだけに、声に出して読誦すると、全体のトーンは明るく楽しいもので、また鎌倉時代の道元禅師のような難解な言い回しではなく、我々に近い時代の白隠禅師の言葉は理解しやすいのが特徴です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【十三仏真言】
十三仏信仰というのは、年回廻向(初七日、七回忌・・・三十三回忌)という日本特有の仏教本来の教えとは言い難い(中国を経由しているときにその土着信仰がひっついてきたものともいえますが)ものであります。
しかし、仏の言葉で仏を唱える「真言」というものに興味がわきます。
専ら、真言宗の僧侶の唱えるものとのことですが、それぞれを翻訳することなく、ただ音を耳にして味わっていたこれらの言葉、初めは滑稽(失礼)ともいえる響きでしたが・・・。
-----------------------------------------------
【十三仏真言】
��一 不動明王)
のうまくさんまんだ、ばざらだん、せんだん、まかろしゃだ、
そわたやうんたらた、かんまん。
��二 釈迦如来)
のうまくさんまんだ、ぼだなん、ばく。
��三 文殊菩薩)
おん、あらはしゃのう。
��四 普賢菩薩)
おん、さんまや、さとばん。
��五 地蔵菩薩)
おん、かかか、びさんまえい、そわか。
��六 弥勒菩薩)
おん、まいたれいや、そわか。
��七 薬師如来)
おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか。
��八 観世音菩薩)
おん、あろりきゃ、そわか。
��九 勢至菩薩)
おん、さんざんさく、そわか。
��十 阿弥陀如来)
おん、あみりた、ていせい、からうん。
��十一 阿しゅく如来)
おん、あきしゅびや、うん。
��十二 大日如来)
おん、あびらうんけん、ばざら、だどばん。
��十三 虚空蔵菩薩)
のうぼう、あきゃしゃ、ぎゃらばや、おんありきゃ
まりぼり、そわか。
-------------------------------------------------
真言宗も大きく分けて総本山高野山の高野山真言宗等の「古義真言宗」と、成田山新勝寺や川崎大師といった大所の智山派、長谷寺の豊山派といった「新義真言宗」に別れ、例に漏れずそれによって、唱える経文の文字面が変わってきます。
上記は「高野山真言宗」の読経のパターンです。
こればかりは意味を追うことができないものですので、耳からの丸暗記です。しかし、中々暗号のような真言というのも、何か興味をかき立てる要素を潜在させているようで、意外にもあっという間に覚えることができました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
しかし、仏の言葉で仏を唱える「真言」というものに興味がわきます。
専ら、真言宗の僧侶の唱えるものとのことですが、それぞれを翻訳することなく、ただ音を耳にして味わっていたこれらの言葉、初めは滑稽(失礼)ともいえる響きでしたが・・・。
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【十三仏真言】
��一 不動明王)
のうまくさんまんだ、ばざらだん、せんだん、まかろしゃだ、
そわたやうんたらた、かんまん。
��二 釈迦如来)
のうまくさんまんだ、ぼだなん、ばく。
��三 文殊菩薩)
おん、あらはしゃのう。
��四 普賢菩薩)
おん、さんまや、さとばん。
��五 地蔵菩薩)
おん、かかか、びさんまえい、そわか。
��六 弥勒菩薩)
おん、まいたれいや、そわか。
��七 薬師如来)
おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか。
��八 観世音菩薩)
おん、あろりきゃ、そわか。
��九 勢至菩薩)
おん、さんざんさく、そわか。
��十 阿弥陀如来)
おん、あみりた、ていせい、からうん。
��十一 阿しゅく如来)
おん、あきしゅびや、うん。
��十二 大日如来)
おん、あびらうんけん、ばざら、だどばん。
��十三 虚空蔵菩薩)
のうぼう、あきゃしゃ、ぎゃらばや、おんありきゃ
まりぼり、そわか。
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真言宗も大きく分けて総本山高野山の高野山真言宗等の「古義真言宗」と、成田山新勝寺や川崎大師といった大所の智山派、長谷寺の豊山派といった「新義真言宗」に別れ、例に漏れずそれによって、唱える経文の文字面が変わってきます。
上記は「高野山真言宗」の読経のパターンです。
こればかりは意味を追うことができないものですので、耳からの丸暗記です。しかし、中々暗号のような真言というのも、何か興味をかき立てる要素を潜在させているようで、意外にもあっという間に覚えることができました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【修証義・総序】
日本人の祖師による「経・律・論」の論にあたるところも、今日、お経として読経されています。
日本曹洞宗の開祖とされる道元禅師の正法眼蔵全95巻は大著ですが、そのダイジェストともいうべきものが、この「修証義」であります。
そしてその修証義の中でも、総論として「生死」「三時の報」というところに主眼をおいて佛教の考え方を明確にしたのがこの総序です。
この修証義の第一章「総序」は、仏道の基本的立場を生死の問題から導入するというインパクトのある幕開けとなります。人身及び仏法には中々会えないという「難値難遇」、「諸行無常」、「三時の業因と果報」といったことが、余すことなく説かれているのであります。
-----------------------------------------
【修証義・総序】
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、
生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、
生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、
是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。
人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、
己に受け難き人身を受けたるのみに非らず、遭ひ難き仏法に値ひ奉れり、
生死の中の善生、最勝の生なるべし、
最勝の善身を徒らにして、露命を無常の風に任すること勿れ。
無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、
身己に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、
紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親?従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、
己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。
今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、
大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
豪釐もたがわざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、
諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
善悪の報に三時あり、一者順現報受、ニ者順次生受、三者順後次受、
これを三時という、仏祖の道を修習するには、
其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、
但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、
徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、惜しからざらめや、
悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて
悪の報を感得せざるには非ず。
-----------------------------------------
漢文そのまま読みの、これまで覚えてきたお経とは違い、古文とはいえ日本語には違いありませんので、やはり意味がそのまま頭に入ってくる分、覚えやすいのは確かです。
曹洞宗の所謂おつとめで読まれる修証義ですが、私の場合は言うまでもなく、曹洞宗を特別視しての経文の読経ではありません。
宗派を超えて、素晴らしい感ずるところのある「経・律・論」は積極的に読経する対象にしていきたい、そう思って総ゆる宗派における経文をあたってみているのです。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
日本曹洞宗の開祖とされる道元禅師の正法眼蔵全95巻は大著ですが、そのダイジェストともいうべきものが、この「修証義」であります。
そしてその修証義の中でも、総論として「生死」「三時の報」というところに主眼をおいて佛教の考え方を明確にしたのがこの総序です。
この修証義の第一章「総序」は、仏道の基本的立場を生死の問題から導入するというインパクトのある幕開けとなります。人身及び仏法には中々会えないという「難値難遇」、「諸行無常」、「三時の業因と果報」といったことが、余すことなく説かれているのであります。
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【修証義・総序】
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、
生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、
生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、
是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。
人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、
己に受け難き人身を受けたるのみに非らず、遭ひ難き仏法に値ひ奉れり、
生死の中の善生、最勝の生なるべし、
最勝の善身を徒らにして、露命を無常の風に任すること勿れ。
無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、
身己に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、
紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親?従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、
己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。
今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、
大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
豪釐もたがわざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、
諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
善悪の報に三時あり、一者順現報受、ニ者順次生受、三者順後次受、
これを三時という、仏祖の道を修習するには、
其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、
但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、
徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、惜しからざらめや、
悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて
悪の報を感得せざるには非ず。
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漢文そのまま読みの、これまで覚えてきたお経とは違い、古文とはいえ日本語には違いありませんので、やはり意味がそのまま頭に入ってくる分、覚えやすいのは確かです。
曹洞宗の所謂おつとめで読まれる修証義ですが、私の場合は言うまでもなく、曹洞宗を特別視しての経文の読経ではありません。
宗派を超えて、素晴らしい感ずるところのある「経・律・論」は積極的に読経する対象にしていきたい、そう思って総ゆる宗派における経文をあたってみているのです。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【修証義・懺悔滅罪】
修証義第二章の懺悔滅罪は、自力信仰にしがみつく者や科学信奉者である限りでは、絶対に達することができない境地、「偉大なるもの」に対する懺悔の心を起こすという宗教信仰の根本的な入口ともいえる心を説きます。
この内容に反撥しているうちは、信心をもつことはあり得ないといっても過言ではありません。
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【修証義・懺悔滅罪】
仏祖憐みの余り広大の慈門を開きおけり。
是れ一切衆生を証入せしめんが為なり。
人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、
懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、
又滅罪清浄ならしむるなり。
然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし。
恁麼するとき前佛懺悔の功徳力
我を拯いて清浄ならしむ。
此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり。
浄信一現するとき、自佗同じく転ぜらるるなり。
其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。
其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、
仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、
学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん。
哀れみを我に分布すべし。
仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。
我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔
是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり。
心念身儀発露白仏すべし。
発露の力罪根をして銷殞(しょういん)せしむるなり。
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懺悔することによって過去の悪業から解脱できるという前向きの話ですが、修証義前5章の中でもこの第2章が特に短く、存在感としても薄いとされる(「修証義を読む」/荒崎良徳)そうです。
しかし、ともすれば自分は正しいと思いがち(そう信じることでこの世の不安を払拭しようとするのでしょうが)なところ「増上慢」を戒め、謙虚たらんとさせてくれる重要な章です。
「功徳」「利益」という言葉が繰り返し出てくるところが、暗記における関門となりました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
この内容に反撥しているうちは、信心をもつことはあり得ないといっても過言ではありません。
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【修証義・懺悔滅罪】
仏祖憐みの余り広大の慈門を開きおけり。
是れ一切衆生を証入せしめんが為なり。
人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、
懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、
又滅罪清浄ならしむるなり。
然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし。
恁麼するとき前佛懺悔の功徳力
我を拯いて清浄ならしむ。
此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり。
浄信一現するとき、自佗同じく転ぜらるるなり。
其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。
其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、
仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、
学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん。
哀れみを我に分布すべし。
仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。
我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔
是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり。
心念身儀発露白仏すべし。
発露の力罪根をして銷殞(しょういん)せしむるなり。
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懺悔することによって過去の悪業から解脱できるという前向きの話ですが、修証義前5章の中でもこの第2章が特に短く、存在感としても薄いとされる(「修証義を読む」/荒崎良徳)そうです。
しかし、ともすれば自分は正しいと思いがち(そう信じることでこの世の不安を払拭しようとするのでしょうが)なところ「増上慢」を戒め、謙虚たらんとさせてくれる重要な章です。
「功徳」「利益」という言葉が繰り返し出てくるところが、暗記における関門となりました。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
【修証義・受戒入位】
修証義第三章は、受戒入位です。ここでは、「帰依三宝」「三聚浄戒」「十重禁戒」という、所謂「十六条戒」が明らかにされます。これらの戒は、普段の自分の言動を正す上で、この上なく具体的な指針となり、為になるものであります。
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【修証義・受戒入位】
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、
生を易え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、
西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。
若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、
何に況や帰依し奉ることを得んや、
徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、
彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に
帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。
其帰依三宝とは正に浄心を専らにして或いは如来現在世にもあれ、
或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、
仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、
仏弟子となること必ず三帰に依る、
何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、
然あれば即ち三帰に依りて得戒あるなり。
此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、
設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、
己に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、
阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、
知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、
世尊己に証明しまします衆生当に信受すべし。
次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、
第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、
次には応に十重禁戒を受け奉るべし、
第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、
第五不鍼酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗戒、
第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、
上来三帰三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、
誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし己る、真に是れ諸仏の子なりと。
諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、
群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、
是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以って、
其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟りを顕わす、
是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是発菩提心なり。
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修証義の第三章は長編でした。単純文字数では今迄のなかでは最長です。覚えるのには時間を要しましたが、論理構成は必ずしも不可解ではないところが救いです。十重禁戒のような決まり事はなぜかすぐに覚えられます。
後半の「諸仏の常にこの中に住持たる・・」から最後までのくだりは、色々現代語訳を読んでもどうも意味が飲み込めません。いつかなるほど、と思える日が来るのだろう、と思って丸暗記です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
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【修証義・受戒入位】
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、
生を易え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、
西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。
若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、
何に況や帰依し奉ることを得んや、
徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、
彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に
帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。
其帰依三宝とは正に浄心を専らにして或いは如来現在世にもあれ、
或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、
仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、
仏弟子となること必ず三帰に依る、
何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、
然あれば即ち三帰に依りて得戒あるなり。
此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、
設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、
己に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、
阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、
知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、
世尊己に証明しまします衆生当に信受すべし。
次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、
第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、
次には応に十重禁戒を受け奉るべし、
第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、
第五不鍼酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗戒、
第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、
上来三帰三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、
誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし己る、真に是れ諸仏の子なりと。
諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、
群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、
是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以って、
其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟りを顕わす、
是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是発菩提心なり。
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修証義の第三章は長編でした。単純文字数では今迄のなかでは最長です。覚えるのには時間を要しましたが、論理構成は必ずしも不可解ではないところが救いです。十重禁戒のような決まり事はなぜかすぐに覚えられます。
後半の「諸仏の常にこの中に住持たる・・」から最後までのくだりは、色々現代語訳を読んでもどうも意味が飲み込めません。いつかなるほど、と思える日が来るのだろう、と思って丸暗記です。
「遜文侍の仏道世界」
「経文を知る」
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