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2015年6月26日金曜日

鎌倉寺巡礼 第二段(材木座編)


鎌倉駅に着いてすぐ東口から路線バス(40番)に飛び乗って材木座方面へ。

浄土宗関東の大本山光明寺。
先週の北鎌倉とは全く様相が違って、観光客がほぼ皆無。地元の若いお母さんがよちよちの男の子を連れて散歩しているのが、別々に二組いて、とても微笑ましい。きっと心の優しい子に育つだろうな…。

観光としての拝観料もパンフレットもないのに、本当に荘厳。大殿にも関らずゆったりと歩ける。

百を超える訪問寺院の中で三本指に入る感激。まさか初めからこんな感覚になるとは。とにかく、心が洗われ、いつまでも滞在したい気持ちに。

高台に登りながら、この有り難さに思わぬことに涙が溢れてきた。この瞬間に、鎌倉巡礼の目的はすべて果たされたことを確信した。

そのあとの寺院も一つ残らず観光客はほとんどおらず、道しるべがない寺も多いことから迷いながらの巡礼になった。北鎌倉とは対照的な旅になった。

続いては、早速迷いながら、今回も唯一の真言宗寺院(大覚寺派)補陀洛寺。ガイドにも掲載されるが、道案内もなく、極めてこぢんまりしたたたずまい。

九品寺はバス停がわかっても寺がわからずパス。

時宗の向福寺は入口さえわからないような小ささ。

少し戻って日蓮宗実相寺。奥まっているだけに、落ち着いた雰囲気。

ふたたび時宗の来迎寺。時宗の寺は飾らず小さい。一般寺院と浄土真宗寺院の間の印象。

日蓮宗長勝寺は、遠くからも威厳あるたたずまい。日蓮聖人像のインパクトが大きい。

続く日蓮宗安国論寺は名前通り存在感はありつつも、とても落ち着いた雰囲気が素晴らしく、日蓮宗では一番の好印象を持つ。サザンカの時期、混むらしい。

並ぶ日蓮宗妙法寺は苔寺(階段)で有名なだけに、写真撮影目的はおことわり、となかなか強気。300円。
雨が降る中、やはり人はほとんどおらず、その空間に浸ることができた。
ここの階段ですれ違った一人旅の女性が最後まで何度も顔を合わせることに。

ツツジの名所らしい北条政子と縁の深い安養院へ。浄土宗。

そのすぐ前に不思議な字体が寺中にある怪しい佇まいの日蓮宗上行寺。厄除け、鬼子母神の身代わり祈願専門という感じ。

またすぐ近くには時宗別願寺があるが、ほとんど寺か民家かわからないくらい。

ここでまた大きく道を行き過ぎて、予定外の時宗教恩寺に。時宗寺院では一番寺らしい雰囲気で、大木にリスが走り回っていて、思わず撮影。

戻って、八雲神社を通り過ぎて、ぼたもち寺として知られる常栄寺へ。これもいかにも日蓮宗らしい雰囲気。

そして妙本寺は門前から構えがしっかりしていて、見応えのある日蓮宗寺院。駅に近いと思えない程自然の中を感じられる。ここにも立派な日蓮聖人像が。やはり個人崇拝を感じさせずにはいられない日蓮宗である。

そして駅に一番近い東身延と書かれた日蓮宗本覚寺は、本堂改修が続いていてまだ拝観できず外から。

最後に、安産祈願で女性参拝者ばかりの大巧寺は、裏から入ると小ささを感じていたが、面へ抜けると、若宮大路の鎌倉駅前に出て、急に現実に戻された。

結局2時まで昼食の機会を得られず、駅前でちょっと高価なカフェでのランチに。三度目の正直で鳩サブレーを入手して帰途につく。

日蓮宗、続いて時宗、浄土宗の寺院で構成される材木座大町地域。第二段は合計十六もの寺院巡りが実現した。

ここまできて、自分の心に響く寺院が京都での知恩院、浦安で大蓮寺、鎌倉でも光明寺と、確実に浄土宗との縁を感じることに気づかされた。法然上人とのご縁である。

雨の苔寺

妙法寺

浄土宗大本山光明寺

大本山とは思えない静けさと佇まい。
これまで訪問した寺社でも格別な風情があります。
この観光地化していない雰囲気は何でしょうか。

2015年6月19日金曜日

死ぬことは不幸ではない

多くの人たちが何の疑問も持たずに、特に正義感の塊のような人が強く決めつけて思い込んでいるのが、

「死は悪であり不幸である」

ということです。
多くの社会生活の常識や行動原理が、ここに軸をおいていると言っても過言ではありません。

これに対して、私は異議を唱えます。

医療も福祉も、いかに死なないようにするか、少しでもあらゆる人間の寿命を人為的に延命させるか、ということに何の疑問も持たずに邁進しており、その業界に身を置く人間として、とても違和感を感じ続けています。
私は、苦痛が嫌です。何よりも嫌で恐れています。
医療や福祉は、死をマイナスの結果として捉えたり、延命を目的化するようなことはせず、少しでも生きる上での苦痛を軽減するための方策として発展することが、そのあるべき姿と思います。

災害支援関係者にも、死なずにいられる対策があるはずと、災害死を人為的対策不足として喧伝する人がいますが、これも余計な干渉であり、傲慢だと思います。
天災はそんな人間の知恵の範囲で収まるものなどほとんどないと思います。
防災でなく減災と言ったりしますが、災害支援は、被災してしまった方の苦痛を少しでも軽減するために行うものだと思って自分は取り組んでいます。

勿論、防災に関する知識を持つことがリスク回避につながることはわかりますが、年がら年中災害の場面を想定して生きるなんてまっぴらごめん、という考え方はあって然るべきだし、それによりもし亡くなっても、それを選択する人生はその人の人生で誰も咎めて良い筈はない。
過去の津波被災よりもその日その日の沿岸での生活を大切にして、あえて海沿いに住んで津波に遭遇したとしても、誰も責めては決していけない。

「死は悪であり不幸である」
と捉えてしまうには、死に対して恐怖感があることに起因するのだと思います。

勿論、本能的にも死は怖いです。死に際して多くは苦痛を伴うと考える故に死が怖いとも言えます。

しかし、苦痛は自分にとって悪ですが、「死」は良いとか悪いとか評価などするものではなく、ただただ受け入れるべきものだと思うのです。
いや、「べき論」もこの件については不要です。

世の中に「当然」なものはほとんどありませんが、死は数少ない「必然」の現象です。人間として生を受けた限り、致死率100%ですので。

ですから、早世されたり突然の死が訪れたりすることに対して、異常に死を呪うような言葉を吐く人や、知人の葬式の二次会で「いやあ、健康が第一だよ、ハッハッハ」などと言うがいますが、ああ、この人は生きていることを当たり前と思い込んでいる、死を心の底から自分ごととして捉えられていない、人生に対する思慮の浅い方だな、と思います。

確かに辛い死に出会うことはあります。
自分の身近なましてや誕生が自分より後の人が先に亡くなるのは、やはり悲しさが大きくなるのは事実でしょう。

しかし、繰り返しますが、死は悪でも不幸でもありません。

輪廻や三世の業法を信じるかは別にしても、今生の生が比較的短かっただけなのです。
それを不幸というのは、生き残り側の思い上がり以外の何ものでもありません。ある程度(平均寿命程度)は生きるだろう前提で物事を考えていることに疑いすら持っていない証拠です。

人間は「魂」があって、今生ではこの肉体を借りて人生を営んでいる、と考えることが最も理にかなっており、実際それに違いないと私は強く信じています。

魂は心に直結(イコール?)であり、魂が幸福(しあわせ)を感じることに、この魂の唯一と言ってもよい存在意義ではないかと考えます。

それを突き詰めれば、その人の寿命(どんな死因であれ)に従って、死の到来は受け入れるということだけに尽きると思うのです。

死に方も選べません。死に方の良し悪しも評価対象にするような性質のものではありません。
自分の誕生を自分で評価しようがないのと同様に、死も100%自分ごとでありながら本人は評価しようのないものです。
だから、誰に訪れる死についても、その到来は理由の如何に関らず、そういうものとして、完全中立に受け入れるものなのだと思います。

「死」を完全に中立的に捉えること。
人生のテーマとして、この上なく難しいことですが、最大級に重要な視点ではないかと私は考えています。


『生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。その時初めて生死を離るる分あり。』(正法眼蔵/道元禅師)
『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』(御文章・白骨の章/蓮如聖人)

2015年6月18日木曜日

鎌倉寺巡礼 第一段(北鎌倉編)


北鎌倉の駅で降りたところから渋滞。アジサイの季節の鎌倉は噂通りの人。恐らく、多くが目指すのは、アジサイ寺の明月院。

目の前の円覚寺に入るに、大渋滞が起こっている状態。

反対に進んで、まずは時宗の光照寺へ。
人もまばらで良い感じ。アットホームな小寺。

戻って、円覚寺へ。大変な賑わい(写真)。塔頭が多い。

それから駆け込み寺として知られた東慶寺へ。心なしか、参拝者は女性ばかり。寺の風情も女性的な繊細さを感じる。アジサイも美しい(写真)。

続いて隣の浄智寺へ。拝観料を払ってまでして中へは入らず。

それから、どこまで見られるかは期待せず、大量の人の流れに乗って明月院へ。入り口手前のアジサイもそれなりに綺麗だが、入り口まで来て、どうにもならない人だかりに、すぐきびすを返した。

昼を食べ損わないように、早めの昼。
漢方薬膳のお洒落な如何にも女性対象のお店へ。奥まっているのもあって空いていた。雨が降り出す。

建長寺に向かう。三門他、威容は鎌倉随一。

亀ヶ谷坂の切り通しルートへ。足の疲れを感じたら既に一万歩を超えていた。

人の量が減り、更にマイナーな方向へ。折伏して真言宗を日蓮宗に改宗させたという薬王寺に寄る。

その後、海蔵寺へ。ひっそりして良い感じ。

それから、本日の異端、真言宗泉涌寺派の浄光明寺へ。
寺守のおじさんがしゃべりすぎで、こちらが阿弥陀佛に手を合わせていても、構わず話しかけてくる。階段上の地蔵尊に一人手を合わせられた(写真)。

尼寺の英勝寺へ行くと門が閉まって入れず。外から少しだけ垣間見る。

後、残すは寿福寺だが、その前に、日蓮正宗護国寺の大きな看板が。しかし不可思議な近代建築しか見えず、興味本位で近づいて、何だこの建物?と見ていたら大雨になり、そこへ「どうぞ雨宿りして下さい」と関係者らしき紳士に声をかけられ、これは助かったと、言葉に乗って本堂に入った。
少し世間話をしたところに袈裟を着た住職が登場。
すると、色々な宗派を勉強するのは良いが、どうして仏教が沢山訣れたか歴史的経緯を知っているか、正しいのは一つだけであり、日蓮正宗以外は邪道だ、と始めたので、その考え方には同意できない!と論争してしまうことに。
「あなたに必要なのは信仰であり特定の宗派に絞らなければならない」「いやそれは違う!」という具合に。
あまりにイメージしていた日蓮正宗とそのままの展開に、内心可笑しくて仕方ない楽しい思いをした。
いきなり、そんな話の入り方したら、拒絶反応しか起こらないことがわからないのかな(それともそれに納得して従う人もいるのか?)。

でも、こちらに寸分の迷いもなく、頑迷さが伝わったからか、しつこさは全くなく、直接お話できたことが何よりも良かったですと、気持ちよく退出できた。
時間がなくなり、寿福寺は次回。

ということで、今回は入り口までを含めると合計11箇所の寺をじっくりと見てこられた。

建長寺三門と紫陽花

2015年6月5日金曜日

喜び方の達人になる/マイナスオーラからの脱却

幸福な人に幸福が次々現れる。
その逆もまた然り。

幸せの定義は何度となく書きましたが、幸せを感じられる、つまり、喜び上手な人に幸せが集中していきます。
でも、よく冷静にその現象をみると、同じことがあっても喜べない人もいて、結果その人からはそういう現象は減っていく。
幸福者はドンドン幸福を感じる幅も増えるために、益々幸福が増える。
そして、その人から出るオーラが幸福や善人を引き寄せるのでしょう。

喜び上手に福は集まる。

これは真理と思います。

喜び上手の人は必ずプラスの言葉を発しますから、周辺に幸せ感を充満させます。
片や、文句、課題提起、悪人の糾弾、自己嫌悪、自己卑下、こういう言葉を出し続ければ、間違いなくマイナスのオーラが撒き散らされます。

40年間、真面目に生きることを優先させて、短絡的な正義感を肯定してきたことから、周りにマイナスオーラを出し続けた自分だからこそ、今のこういう自分であり環境なのでしょう。
とても説明がつきます。

しかし、34歳で仏教と出会えて、ものすごくまともに軌道修正されたことは間違いありません。
でも、まだまだ信心も仏道としての実践の甘さが、マイナス要素を消せずにいます。

さあ、ではこれからどう生きていくか。それだけに尽きます。

2015年6月2日火曜日

「刹那主義」で生きる

刹那主義というと、一般には、今さえ良ければ後は知らないという無責任な生き方であり、自分の快楽だけを追求する、決して良い使われ方をしません。

しかし、刹那という言葉自体は仏教用語で、人生にあるのは刹那だけであり、人生はその刹那の積み重ねで構成される、という考え方の根本です。
つまり、本来的には、今、その瞬間を大切にして歩んでいくことが「刹那主義」ということになります。

考えてみれば、我々は今目の前のこと、目の前の人以外、対峙出来るものはないことがわかります。色々先のことを想像したり、勝手に予測したりすることはできても、実際には目の前、刹那としか対峙しえないのです。

そうなると、一瞬、一瞬の刹那、目の前のことをどれだけ大事にできるかどうかが、極論すれば人生のすべてとさえ言えるのです。

「莫妄想」というあまりに有名な禅語がありますが、年を重ねることによって、刹那を大事にできなくなってあれこれと繰り返されるのが「妄想」であり、ほとんど年がら年中妄想の中にいる状態の大人も少なくないと思います。

刹那的な快楽を求めて違法行為とまで行かなくとも、ゲームにレジャーに、と時間の浪費に思えるような過ごし方をする人々も、その最中には「妄想」から解放されるという大きな効用があることを自覚するしないに関らず感じているからという一面があるのではないでしょうか。

妄想からの解放は、私の中では常に意識的な課題でありますが、この刹那を大事にすること、目の前の人、事象を大事にすること以外に、集中すべきものはないと、心得て日々を過ごす姿勢については、日常的には忘れてしまって意識化できていないことの一つです。

これからは、本来の意味での「刹那主義」を意識したいと思います。

2015年5月14日木曜日

仏法を思惟する

仏法を意識して生きていこうと思って2年、かなり濃密な仏法に浸ることのできた日々を過ごしてきたつもりでも、ここにきて忙殺される毎日に、自分の意識が弱まっていることを自覚しました。
「遜文侍の本日」は毒舌集ですが、こちらは真摯に仏法について考えていきたいと思っています。
(2006.8.29)


法施は僧侶である証でもあるというのに・・・

仏法ブログは、「遜文侍の本日」の毒舌とは一線を画して、自省と人生の日々の生活の中での仏法についての「気づき」を記録するために立ち上げたのですが、立ち上げ直後、悪い意味で衝撃を受けた記事を見てしまい、こんなネガティブなトーンになってしまいました。とにかく唖然とする記事。

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(南日本新聞から編集抜粋)

住職 読経ボランティア/●●寺
月1回老人施設を訪問 入所者「心が洗われる」

町の介護老人福祉施設に毎月、同市内の●●寺から住職が訪れて、ボランティアでお経をあげている。入所者にとっては、亡くなった伴侶や家族らに思いをはせる大切な時間。「お寺さんが来るのが楽しみ」と待ちわびている。
 同苑では自室でお祈りをする入所者が多かったことから、3年前、施設内の一室に大仏壇を置いた。このことが●●寺の住職(58)の耳に入り、毎月1回、約30分間の読経と説法に来るようになった。
 同寺は浄土真宗興正派だが、約20人の入所者は宗派を超えて念仏を唱える。住職は「亡くなった自分の両親と同世代の方々で話していて楽しいし、僧侶としても勉強になる。生きていてよかったと思えるお手伝いができれば」と話している。(略)

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絶句。

読経が「ボランティア」とは何事でしょうか?

これは当たり前の僧侶の姿ではありませんか。これこそ日常の風景ではないでしょうか。

法施は僧侶の本職であり、それは所謂布施の対価としてなされるものでは全くない筈なのに、「ボランティア」とは何?

この僧侶としての姿そのままがどうして記事になり、「ボランティア」になってしまうのか、皆目わかりません。

ここでいう「ボランティア」は本業を無料でやった、という意味以上のものは何もないのでしょうが、これは仏法も僧侶もボランティアもあまりにバカにしています。記事にした人間のお粗末極まりない認識に問題があるが、僧侶はこれを見て怒らないのでしょうか?
ところで、「宗派を越えて」って、浄土真宗は一般的な観音経等の法華経や般若心経等も読経できないと思いますが・・・。

しかし、普段の読経は法施ではないと断言しているようなものであります。

仏教寺院の形骸化と本気で弘法する気がないという堕落の実体は、残念ながら遠藤誠氏の指摘のとおりでありました。

まともにやっていらっしゃる僧侶の皆様には申し訳ありませんが、仏法と民を侮辱した此の記事に一言いわせていただきました。

(2006.8.29)

早く家に帰ること

私は出来る限り毎日早くに家に帰ります。
仕事は山のようにありますが、関係ありません。

4歳と0歳(7か月)の2人の子どもが満面の笑みで迎えてくれることも何よりの楽しみではありますが、結婚した、家庭が出来た、子どもが出来た、これによって人生観が本当に変わったと同時に、どう生きるべきかが実にハッキリしたからです。

自分はどう生きたいのか。

まず人生で自分が何よりも大切にしなければならないものは何か。

これが家族ができたことで実に明確になりました。

自分と運命共同体といえる「家族」であります。
家族といかに幸せな時間を多く持つことが出来るか、どれだけいたわりあい、家庭にいることに幸せを感じる、そんな空間を作ることが出来るか。
特に我が家の二人の子どもは、(上の子も幼稚園に行っていませんから)社会に出ていないため、家庭がすべての世界で生きています。そこが快適でなければ、言ってみればこの世は地獄となります。

「忘己利他」「自未得度先度他」「衆生無辺誓願度」・・・他人を利することを第一に考える、という仏教語は幾らでも出てきます。
これが仏法の根本であります。
仏法の実践をして生きることを決めたからには、仏法を自分の生活に置き換えて、具体的に実践することが大事です。

すべての衆生を救うなんてことは一人の人間にできはしないし、思い上がり以外の何物でもありません。
浄土教は「南無阿弥陀仏」念仏こそが最終的には最も衆生を救う道につながるのだといい、親鸞聖人に至ってはそれを歎異抄でも証明しました。

根っからの真宗純粋同朋にはなれない私です。
そう考えて、何が仏法にかなうか、真理にかなうか。
まず自分の一番近くの有縁の人、そう家族のために生きるということが、最も理にかなっているのは明白です。

歴史的にも世界的にも、家族を大切にしない民族・時代は稀と考えます。そしてそれはどれもこれも病んだ世界でしかありません。
戦後の日本がその代表的な「家族崩壊」系の社会であることは明白です。
それを今も引きずっている人間がどれだけ社会に多いかも仕事をしていればわかります。
フリーターだろうが何だろうが、家族を大事にするという基本姿勢を忘れない人間こそが「まともな」人間である、ということが最近の自分の確信です。

そう思えばこそ、時間中は出来る限りの効率で働きますが、早く帰宅し、子どもたちと入浴し、語らい、ふれあう毎日を繰り返す。
とにかく「寄り添う」ことが何よりも健全な人間の魂を育たせることにつながると信じております。

それが今の自分の最大の実践すべきこと、これが結論であります。

(2006.8.31)

はからいについて

はからい、は生活の中で当たり前のようになされていますが、仏法では「根本無明」といって、それがすべての愚かな争いのもとと捉えています。キリスト教でいうところの「原罪」に近い考え方です。

どう打開するか

仏法に出会って2年を越え、計り知れない精神上の転換が私の中で行われたわけですが、ここに来て、明らかに何かの壁に当たっています。
実生活に全然落ちてこなくなってしまったのです。
このブログを立ち上げたのも、何を隠そう、このいい知れぬ泥沼からの脱出を試みたいということからです。
何がついこの前までと違うのか。
仏法が空虚に響く時さえあります。
久しぶりに得体の知れない鬱感覚が自分を覆っています。

宗教の本質

宗教が道徳やいわゆる倫理と決定的に異なるのが、次の言葉に凝縮されています。もちろん、その先の言葉を要しますが、ここではあえて強調して抜粋します。
「一言で言ってしまえば全然評価のない世界、それが宗教の世界なのです。背が低かろうが高かろうがそんなこと別に関係ない。頭が良くても悪くても、役に立ってもたたんでもそんなこと関係ない世界が宗教の世界というものです。」
��余語翠厳禅師「修証義講話」より)

宗教が生活の中にあること

今日(昨日)の昼、あるところで横須賀基督教社会館の館長である阿部志郎先生の話を感動して聞いたのですが、それを今、夢で自分が他人に熱く説明をする場面を見て目覚めたので、記したいと思います。

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アフリカはカメルーンのある村で起こったエピソードです。
ゴリラの赤ちゃんが村で発見されました。あまりに可愛いので村人が飼おうとして家におきました。
その夜、ゴリラたちが村を襲撃しました。村人は猟銃で追い払いました。
しかし、その翌晩もまたゴリラたちは大群で村を襲ってきます。
村長の判断で、赤ん坊をゴリラに返した方がよいとなり、ゴリラに赤ん坊を返しました。そして、ゴリラは二度と襲ってくることはなくなりました。
この時、やってきたゴリラの数は60匹。
たった一人の赤ん坊を守ろうと、60匹の大人が、いのちを捨てる覚悟で、闘ったのです。

今、私たちは、一人の赤ちゃんをこれだけの数の大人が命がけで守っているでしょうか。
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この問いかけにがつんと来たのであります。
自分もそうだろうが、可愛くて仕方無いわが子、尊い命と心から思えるそのわが子を同じ気持ちで守ろうとしているのは、両親とその両親、・・おしまい。何と薄情な風景でしょうか。何と命が粗末にされている風景でしょうか。人間はここまで墜ちたのです。自分(及び近親者)のことだけしか考えないで生きる姿であります。
顔の見える関係者が親身になって一人の赤ちゃん(新たに生まれた尊い生命)を祝福する・・・共同体が生きている日本以外のどこかでは、また昔の日本では、きっとそんな多くの人が一人のいのちを見守る美しい風景があると思います。それができるはずの人間が、ここまで人間のいのちを貶めました。

これも阿部志郎先生の話のひとつ

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インドのある村の結婚式に呼ばれました。田舎の村であります。
その青年たちを祝福するのに集まった人は、何と4000人でありました。
4000人が一堂に会して祝福をするその光景は、圧巻というより、底知れぬ感動を私に与えました・・・。
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まさに、これであります。
人々が一人の人生を、一人の命を、見守る姿であります。
ここに孤独はありません。それは、4000人も集まればいろんな人間がいるに違いありません。
しかし、孤立したところでしか発生しない類いの、今の日本で日々繰り返される児童虐待や、引きこもって狂気の行動にでる青年たちのような人間は生み得ない、そんな社会です。

そこまで人間関係の希薄さが、現代を人間が住むには、人生を全うするには、あまりに殺風景なものにしてしまった、その真理を見せつけられるエピソードです。

「幸福とは何か」「歩んでいきたい人生とは何か」・・・人生について考えれば、自ずとここに答えは見えてくると思うがいかがでしょうか。


最後に、講演の重要なポイントが私の現在の価値観と100%重なるので、記します。次の5番目が最大の理由と思うからです。

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タイでは登校拒否(ドロップアウト)がありません。
その理由を5つ説明しています。
1. 進学競争・受験戦争が存在しない
2. 子どもが思いきり遊べる自然が残っている 
3. 親がしっかりと子育てをしている(家庭が機能している)
4. 地域が子どもを見守っている
5. 社会(生活)の中に仏教が生きている
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宗教が生活の中にあること。これに尽きます。

日本が宗教観を国民で統一して持つことはもはや不可能な上、やってはならないことである以上、自らが仏法に気づいた今日、これから仏法をますます意識して生きていくことを固く誓うことになった一日でありました。

遜文侍の仏道世界

少欲知足・自灯明

仏法の少欲知足こそが「幸福な生き方」の基本と思うし、仏法の最重要事項が「自灯明・法灯明」であると思う。
相田みつを氏の次の言葉は「自灯明」を分かりやすく表現したものと思う。
「道はじぶんで/つくる/道は自分で/ひらく/人のつくったものは/じぶんの道には/ならない」
「しあわせ/はいつも/自分の/心がき/める」

そして、キリスト者であり子育てに携わり続けてきた精神か臨床医の佐々木正美先生の言葉は、まさに仏法の少欲知足を説明している。宗教こそが、いや宗教のみが根本的な人生の指針になりうるという証左である。
「私たちはこれまで、生産(物質)と消費(欲望)が次々と生み出される社会に生きてきた。際限のない欲求や欲望を植え付けられて、必要とするより多くのものを持っているのに、これで十分だとは感じられないでいる。商品の速度と量についていけないで、いつも貧しいと感じている。食事についてダイエットを心がけなくてはならないほどなのに、いつも不足を感じている。このような受動的な生き方からは、永久に幸せはみつけられない。幸福は能動的・主体的に、自分で感じ取るものである。テレビのコマーシャルに左右されるだけのような生き方は、人間の心を嫉妬、貪欲、無力感、劣等感で満たしてしまう。食事をするにも、テレビを見るにも、家庭で会話をするにも、しっかり自分の心できめる習慣を身につけなければ、幸福にたどり着くことなどできるはずはないと、フロムも教えてくれている。」

本物の僧侶との出会い

そもそも仏教に入っていったきっかけは、妻の父の法要先で、浄土真宗のお坊さんの説法にいたく感動したからでしたが、思えば実際にその後は本の中でしか名僧との接点はありませんでした。
しかし思いがけないことに、仕事の流れの中で、気さくな近づきやすさを備えていらして、しかも仏法を体現すべく自ら身を粉にして「衆生無辺誓願度」とばかりに活躍されている曹洞宗のお坊さんと知り合うことができたのです。
 曹洞宗・高雲寺
この上ない喜びでああります。
仏法とは掛け離れた、善男善女から戒名代をせしめるだけの意地汚い葬儀屋僧侶の悪い話ばかりが聞こえてくる中で、しっかりと仏法を背負って活動されている僧侶がいらっしゃることを具体的に知り、嬉しいばかりでありました。
「僧侶」というその「職」が、災害の現場では「僧侶」にしかなし得ない大変な力を発揮できるとことが多々あるということも改めて知ることが出来たのが、つい昨日のこと。
今後もこういった素晴らしい僧侶の方からの聞法を深めていければ、きっと自分の中の仏法に対する思いも精進していけるのではないかと思った一日でした。

ナイトスタンド仏教徒

面白くもしゃれてもいない名称だが、6/14朝日夕刊で花園大の教授が書いた文章にある仏教徒は、紛れもない自分の姿であった。
アメリカには、こういった仏教徒を自認する人間が何と250万人もいるという。
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日本のように、家が代々仏教だから、法事・葬式の時だけ、なんとなくお寺さんの世話になる、といった人たちではない。自分で悩んで考えて、「仏教がいい」と判断し、実際に仏教世界へ入ってきた、本当の仏教徒である。
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まさに自分。我が家はとくに家が代々、というしがらみがないが故にこれに近い環境だ。私はこの太字のとおりだから、「本当の仏教徒」なのだろう。

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この仏教徒たちは、「なになに宗」といった特定の宗派、教団に属しているのではない。そういった生臭い人間組織に嫌気がさしたからこそ、仏教を選んだ人たちである。
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あまりにそのとおりなので言うことはない。
自分そのままである。
アメリカでしかその形態は存在しないのか。
少なくとも、どこの寺ともつながりがなく、受戒の儀式を踏んでもいない私は仏教徒とは日本では言わないのかも知れないが、ほとんどの日本人は死んで戒名をもらっているようなところで、そんなものは仏教徒でも何でもないので、自称仏教徒である以上に何が必要だろう。
少なくとも葬式仏教に何の疑問も持たず、またそれが仏教と思いこんで仏法の欠片も学んだことのない(というか参究しようとしたことのない)凡百の日本人よりは自分はよほど「仏教徒」であることは間違いない。
まあ、他人との相対性は何にも意味がないので、とにかくどこまで自覚して、どこまで生活に仏法を落としていくか、それに尽きる。

アメリカのナイトスタンド仏教徒は、多くはチベット仏教をはじめとする、小乗仏教の発想であるらしいが、私は「大乗仏教」が熟成された日本にいるのだから、大乗仏教の素晴らしさを念頭において生活に落としたい。
いくら今の仏事や行事の仏法が本筋から離れていても、その元となるところには必ず仏法があったのだ。せっかく日本にいるのだからそれを学ばない手はない。





スリランカからの代弁者

以下、スリランカからやってきて日本に長いアルボムッレ・スマナサーラ師の言葉は、私が常日頃最も強く感じることをすべて代弁くださっています。
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仏教を学んでいくとその教えの新鮮さ、科学性、合理性にはただ驚ばかりです。(略)ところが、現在の日本ではこの偉大なる智慧を全く利用しようともしていないのです。(略)一度でも仏教の智慧に接したならば、その日から生き方が変わるに違いありません。でも、仏教を学ぼう、知ってみようという人は非常に少ないと言わなければならない。それはハッキリ言ってしまえば、仏教に対する知識、認識が極めて低いからに他ありません。(略)一年を通してその生活習慣の中で、仏教的行事は何の抵抗もなく受け入れているというのに、日本では仏教にそして宗教というものに対してある種の偏見が大手を振って歩いているという現実もあるのです。それは、宗教に頼るものは心の弱い人間であり、自力で生きることのできない人間であるという誤ったレッテルを貼ってしまうからです。この世に、誰の力も借りずにひとりで生きていけるような人間などどこにもいるはずがありません。人間はもちろんのこと、動物も植物もみな生きとし生けるものはなんらかのかたちで他に寄りかかってこそ生きることが可能となっているのです。

��恐れることは何もない 嘘のない自分で生きていくために/アルボムッレ・スマナサーラ/泉書房)

日本が何故不寛容な社会か

ひろさちやさんが上手くまとめていた。

世界の数多い宗教に共通している特色は何かと言えば、「人間というものは、弱くて、愚かで、不完全な生き物である」と考えているところにある。そう考えるのが宗教の宗教たるゆえんである。だが、日本人は総じて無宗教である。裏を返せば、人間が無力で愚かで不完全な存在と思っていないのである。

この指摘は至極的を得ていると思う。

無宗教ということの意味は、人間は賢く完全であるべきだという信念を持った人間と規定できそうだ。
自分の無力さに気づかず、あらゆる環境や脈々たる縁が長大な歴史を刻んできた結果、自分が存在するというあまりに明確な事実さえ自覚できない、心臓の動き一つ操縦できないのが人間であり、自分の意志で生まれた人間など、金輪際存在し得ないということさえ自覚できない、言わば人類史上最も根本がわからない究極の愚か者の規定することも可能だろう。
口が裂けても、自分は無宗教とは言いたくないものである。