2006年7月17日月曜日

仏教者からの子育て名言・名文句

仏法に照らしての「子育て」への一言は実に重みがあり、人類悠久の歴史に耐えうる普遍性を感じさせます。
「子育て名言・名文句」から独立させてここに抽出してみました。



  • 天地いっぱいの人生/内山興正/春秋社
  • 子どもを育てる立場になって目覚めた自分が待っていた言葉はここにありました!子供を産んだ、ということを、「これは、とんだことをしたのだ」と思わなければならないということです。「とんだことをした」と思う気持ちがないから、ただ惰性だけでわが子を育てている。これでは困る。子供を産んだことがなぜ「とんだこと」なのか。それは「新しい生命をこの世に送り出した」からです。それも自分たちが夫婦になって勝手に産んでしまった。生まれてくる気があるのかどうか、子どもに聞いて承諾を得たわけではない。子どもにとってはこの世に出ることは甚だ迷惑だったかも知れない。つまり「とんだこと」をしでかしたわけです。(略)
    まっさらな目でみれば、
    子どもにとって自分が生まれたということは、まったく自分の意思ではなく、ただ親たちの勝手な行為から一方的にそうさせられたわけです。(略)
    いずれにせよ子どもという新しい生命をこの世に送り出しのだから、いま申しあげたことをよく考えて、十分に責任を感じ、この新しい真の生命としてつらぬかせるだけの地盤は、どうしても作ってやらなければならいという覚悟をもっていただきたい。そんな覚悟もなしに、ただなんとなく生んでしまった。かわいらしいからかわいがる。わるさをするから叱る。勉強しないから塾へ通わせるといった無方針な育て方でいいはずはありません。ここのところを誤るなら、
    その報いは、だれでもない、親であるあなた方ご自身が受けねばならないと言うことを考えるなら、これは子どもだけの問題ではなく、あなた自身の問題でもあるのです。事実、子どもというものは、親の人生観、親の生活姿勢、親の生き方に対して、だれよりも厳しい審判者だと言うことを心得るべきです。これが少しでも歪んでおれば、やがて子どもたちは、「お父さん、お母さんの人生観、生き方はここが歪んでいる」とハッキリ突きつけるようになるのです。たとえば、あなたがいつも金、金といいながら生きているなら、子どもはやがてそんな生き方はくだらないと批判して家出するか、それだけの批判力のないつまらない子どもなら、親の貯めた金で身を持ち崩して親を泣かせるでしょうし、そんな親の人生観に共鳴するような愚かな子であれば、やがて親より金の方が大切だと、親を金以下に扱うようになる。これは火を見るよりも明らかです。また、見栄っ張りでいつも世間体のいいことが一番いいことだと思っているような親なら、もし子どもが優秀な子であれば親を批判して出て行くに違いありませんが、子どもが親に似て見栄っ張りなら、当然「親や家族より出世の方が大切」という人間になるはずだし、本人がお粗末で出世できないとすると、ノイローゼになって精神病院のやっかいになるか、あるいはアクの強い人間なら出世のためにやりすぎて、汚職などをしでかして牢屋にはいるようなはめとなる。」


  • 悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/青山俊董/光文社
  • 私が常日頃から「子育て」を捉えてきた考え方がそのままここにありました「子どもが生まれなければ親にはなれないものです。子どもが生まれると同時に、親も誕生するのです。子どもも零歳なら親も零歳。子どもと一緒に年齢を重ねてゆくものです。(略)
    子どもの信に答えうる親になるためには、子どもの成長と共に日に日に成長してゆくことを忘れてはならないと思うのです。(略)
    「子どもこそ、大人の親ぞ」という言葉があります。
    親を親として、また一人の人間として育て上げてくれるのは子どもだといういうのです。(略)
    子どもを鑑として自らの生き方をかえりみるとき、親として、人として、落第でしかない私がそこにいる。わが子の前に「勘弁してくれ」と詫び、しかしながら、「この子の信に応えうる親にならなければならない」と子の前に姿勢を立て直し、立て直し、生きようとする。そういう人こそ、親らしき親になれる人ではないでしょうか。そいういう親の元にあって初めて、良き子も育つというものではないでしょうか。(略)
    よき育児と「育自」によって、いまの混乱した日本も、必ずよくなります。」


  • 生かし生かされて生きる/青山俊董/春秋社
  • 乳幼児の育児への心構えはやはりこの通りです「家庭の雰囲気、親子、兄弟、夫婦の愛情、嫁と姑の間の感情のしがらみ、一見の中での雰囲気がどんなふうかという、それがどれほどに子どものこころに影響を及ぼすか。それは子どもの将来を左右するほど大きな力を与えるのです。親の心の僅かなゆらぎ、家庭内の雰囲気のあらゆる形が、子どもの心の健全な成長にひびくことを忘れてはなりません。人間の一番大切な心の形成というものは、三、四歳までで百パーセント完成だそうです。この一番大事なこころを育てるときに、最新の注意を払って、育ててやっていただきたい。何も分からないからといっていい加減なことをいってはいけない。子どもの前で、口争いも、恐ろしい思いもさせたくない。その親の目の動き、心の揺らぎ、全部を真っ白い心の印画紙にやきとり、読み取って育っていくのですから、それがその子の生涯を支配するほどの力になるのです。二度と書き直しの出来ない文字を、切れば血の出るこの体で、毎日刻々と書き与えてやる、それが子どもの周りに立つ親の姿であり、親たちの責任です。」
  • 親は子にとってこういう存在であることを自覚し続けなければ「お母さんになる日が来たら、お母さんのようなお母さんに、お父さんになる日が来たら、お父さんのようなお父さんになりたいと胸を張って言える子どもは幸せです。今日食べるものが少なかろうが、栄養が少し足りなかろうが、着るものがボロであろうが、そんなことで子どもの心は歪みはしないと思うのです。(略)
    たった一人のお母さん、お父さんを誇り高きものに思うといった、最高の心の栄養をちょうだいしているのです。こういう子は、絶対に横を向かないでしょう。非行に走らないでしょう。(略)
    子どもにとってかけがえのない、世にたった一人の父、世にたった一人の母が、最高に尊敬できる人、すばらしい人であることが、子どもにとってどんなに大切なことか。毎日食卓にのぼせる食事、毎日着せる着物もさることながら、父母の生き様そのものという精神的食物が、どんな内容であるかを考えなければならないと思うことです。(略)
    教え子が(略)離婚したいと言ってきました。私は一言だけ言いました。「あなたはご主人をとりかえることができるかもしれないけれど、子どもさんはお父さんを取替えることができないのよ。子どもさんにとっては、世界中にたった一人のお父さんであることだけは忘れずに行動してね」」
  • 共働きを選択する夫婦(母だけでは当然ない)に絶対必要な視点「(郡山の全盲の詩人)佐藤浩さんは、30年間の児童詩誌「青い窓」の編集を通じて改めて気づいたこととして「遠ざかったのは母親の笑顔だけではなく、その前に母親の目が子どもの実像から遠ざかっているということを指摘しておられます。これは一大事です。女性が家を出て社会進出し、また職業を持つことで生きがいある人生を送ることは結構なことでありますが、そのことのかげに子どもや家庭が犠牲になっていはしないか、明日の世代を背負う子どもを育てるということにシワヨセがいっていはしないか、反省してみる必要があると思うのです。」

2006年7月7日金曜日

【阿弥陀如来 根本陀羅尼】

大悲心陀羅尼」と類似した出だし、「あみりたー」の繰り返しが特徴の、別名「十甘露咒」「無量寿如来根本陀羅尼」「阿弥陀大咒」ともよばれる陀羅尼です。

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のうぼう あらたんのう 
たらやぁや のうまく ありや みたばやあ
たたぎゃたや あらかてぃ 
さんみゃく さんぼだや 
たにやた おん あみりてい あみりとう 
どばべい あみりた 
さんばべい あみりた 
ぎゃらべい あみりた 
しってい あみりた 
ていぜい あみりた 
びぎゃらんてい あみりた 
びぎゃらんだ ぎゃみねぃ あみりた 
ぎゃぎゃのぅ きちきゃれぃ あみりた 
どんどび そばれぃ さらば あらた 
さだねぃ さらば ぎゃらま 
ぎれぃ しゃきしゃ よぅ
きゃれぃ そわか

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陀羅尼だけに、基本的には「密教」である天台宗(台密)と真言宗(東密)が、この経文を読誦する代表的宗派のようですが、一方で阿弥陀如来を賛える内容ですから、浄土系も読誦します。といっても、何かと独自性の強い浄土真宗では登場しないようです(時宗は資料が少なく現時点ではよくわかりません)。

(2006/06/25)


2006年7月6日木曜日

【破地獄偈】

短くも「地獄」を破る偈文というだけに、見事仏法のエッセンスが凝縮されています。
もし過去現在未来の仏(つまりこの世の道理)を知りたければ、仏法の性質を見定めよといいいます。そして「地獄」とは「すべては心が造っている」ものに過ぎない・・・。
心が乱れたときは、すぐにもこの言葉を思い起こすことが大きな功徳を与えてくれるといえましょう。
お盆の先祖供養に読誦することにどんな意味があるのか、もう一つ不明ですが。
仏法はこの経文に限らず皆そうですが、追善供養という仏法に関係ないところ話ではなく、自己を見詰めるときに必要となるのです。


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若人欲了知
三世一切佛
應觀法界性
一切唯心造

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新たに購入した浄土宗CDからの第一弾。浄土宗は木魚の裏打ちに加えて、読誦のスピードの遅さが特徴かも知れません。20字の中に深い響きがあり、これも自分によく響いてくる経文のひとつとなりました。(2006/06/19)

2006年7月5日水曜日

【山家学生式】

日本仏教は比叡山延暦寺を母として皆誕生してきたといって過言ではありません。
その本家本元天台宗の開祖傳教大師最澄の代表著作からの経文「山家学生式」は、国宝というキーワードを用いて、大乗仏教の「忘己利他(もうこりた)」の精神を説きます。

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国の宝とは何物ぞ。
宝とは道心なり。
道心ある人を名づけて国宝と為す。
故に古人言わく、
径寸十枚、是れ国宝にあらず、
一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、
能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、
能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、
能く行い能く言うは国の宝なり。
三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。
乃ち道心あるの仏子、
西には菩薩と称し、東には君子と号す。
悪事を己に向え、好事を他に与え、
己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。

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総本山中の総本山ともいえる傳教大師最澄開山の比叡山延暦寺の読経CDからの一つ目となる。天台宗は「円・密・禅・戒の四種相承」というだけに、何でもありというイメージで、逆に天台宗ならではというものが見えてこないという印象ですが、この山家学生式は最澄の代表著作のエッセンスであり、「国宝」というキーワードがちょっと目新しく平安仏教らしい発想も伺え、しかし「大乗」仏教のまさに日本の夜明けという強い決心が伝わってきて感動的であります。(2006/06/14)

2006年7月4日火曜日

【十善戒】

これは専ら真言宗におけるスタンダードで、これまで曹洞宗修証義の第三章「受戒入位」にある道元禅師の規定する「十重禁戒」に慣れ親しんできたのでちょっと内容の偏りが気になったりするが、こういう10の戒律もあるという知識として知っておきたいと思いました。

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弟子某甲盡未来際

不殺生
不偸盗
不邪淫
不妄語
不綺語
不両舌
不悪口
不慳貪
不瞋恚
不邪見

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佛道の戒律というのは宗派毎に色々あるのが現状だし、だいたい僧に科せられる戒律は大変に数の多いもの(あくまで小乗の僧かもしれませんが)ですが、在家の我々が心にとめるという点では、道元禅師が正法眼蔵の中で唱えて、修証義の第3章「受戒入位」で示されている「十重禁戒」が内容としては一番しっくり来ます。といいながらもスタンダードな単体の経典としてはこの真言宗の「十善戒」も知っておく必要があろうかと覚えました。どうも「口」を封じる傾向の強い内容であります。

(2006/06/05)

2006年7月3日月曜日

【七仏通戒偈】

仏教を一言で言うとこれです。
「悪い事はしない。善い事をする。すると心は清らかになる。これが仏の教え。」
何とストレートな話でしょうか。

七つの仏が十三仏真言のようには出てこないが・・と思っていたが、これは釈尊の前の仏(釈尊が七番目)から釈尊まで七台に渡って面々と行持されてきた教えですよ、という意味での「七仏通戒偈」であることがわかりました。
ということですから、最後の行は「ぜしょ・ぶっきょう」ではなく、「ぜ・しょぶつ・きょう」です。

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諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教

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今更ここでなぜこの経文・・?というくらいに、仏教宗派どころか大乗・小乗も貫いての根本の教えがこれであります。「悪いことするな、いい事しろ、すると心が清らかになる。これが仏の教え」という強烈な単純メッセージは、子どもへの道徳観植え付けと何ら変わらないようですが、やはり行き着くところはこれしかないのでしょう。これは音のもっていない唯一の暗記お経です。(2006/06/02)

2006年7月2日日曜日

【大悲心陀羅尼(大悲呪)】

臨済・曹洞の禅宗においてよく読誦されるいわゆる「陀羅尼」です。
陀羅尼は梵語(サンスクリット語)を漢字で音写したものであるために、漢字の経文から意味をとることはできません。そして、その漢字を日本語発音で読んでいるわけですから、「呪」とあるように、ほとんど呪文というか暗号のようなものであります。
「修証義」のように意味を噛みしめながら読むことのできるお経だけではなく、このような呪文もまた仏道の幅の広さ、奥の深さかもしれません。
この大悲呪は『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典の中の陀羅尼部分だけをとり出したものです。
これまでも、「十三仏真言」「光明真言」という真言宗における定番の陀羅尼を覚えたり、般若心経でも有名な「ぎゃーていぎゃーてい」のくだりなどで陀羅尼に接してきたわけですが、今回のこのように本格的な長さをもつ陀羅尼は初挑戦です。

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なむからたんのーとらやーやー。
なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー。
ふじさとぼーやーもこさとぼーやー。
もーこーきゃーるにきゃーやー。えん。
さーはらはーえいしゅーたんのーとんしゃー。
なむしきりーといもーおりやー。
ぼりょきーちーしふらーりんとーぼー。
なむのーらー。きんじーきーりー。
もーこーほーどー。しゃーみーさーぼー。
おーとーじょーしゅーべん。おーしゅーいん。
さーぼーさーとーのーもーぼーぎゃー。
もーはーてーちょー。とーじーとー。えん。
おーぼーりょーきーるー。ぎゃーちーきゃーらーちー。
いーきりもーこー。ふじさーとー。
さーぼーさーぼー。もーらーもーらー。
もーきーもーきー。
りーとーいんくーりょーくーりょー。
けーもーとーりょーとーりょー。
ほーじゃーやーちーもーこーほーじゃーやーちー。
とーらーとーらー。ちりにーしふらーやー。
しゃーろーしゃーろー。もーもーはーも-らー。
ほーちーりー。ゆーきーゆーきーしーのーしーのー。
おらさーふらしゃーりー。はーざーはーざ。
ふらしゃーやー。くーりょーくーりょー。
もーらーくーりょーくーりょー。
きーりーしゃーろーしゃーろー。
しーりーしーりー。すーりょーすーりょー。
ふじやーふじやー。ふどやーふどやー。
みーちりやー。のらきんじー。ちりしゅにのー。
ほやものそもこー。しどやーそもこー。
もこしどやーそもこー。
しどゆーきーしふらーやーそもこー。
のらきんじーそもこー。
もーらーのーらーそもこー。
しらすーおもぎゃーやーそもこー。
そぼもこしどやーそもこー。
しゃきらーおしどーやーそもこー。
ほどもぎゃしどやーそもこー。
のらきんじーはーぎゃらやーそもこー。
もーほりしんぎゃらやーそもこー。
なむからたんのーとらやーやー。
なむおりやーぼりょきーちーしふらーやーそもこー。
してどーもどらー。ほどやー。そーもーこー。


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臨済宗といえば大悲心陀羅尼、というくらいメジャーな陀羅尼ですが、曹洞宗大本山永平寺の読経を手本にして覚えました。永平寺の木魚の音の重厚さ、段々加速していくかなりのスピードをもった読経という特徴からも、リズミカルであるが故に、他の経文を繰り返し聞くことに比べて、随分と楽しんでできてしまった印象があります。
また、修証義をはじめとする日本語の意味のしっかりした経文は、いつまでも意味を追いながら読誦するが故に、未だにぶっ通しで諳じられるというには、立ち止まりながらという状態であるのに対して、般若心経もそうでしたが、意味を追わずに完全に音で覚えてしまうという種類のこれは最たるものであります。
実は、このタイプの読経のほうが読んでいてかなり気持ちがいいのです(心がこもらなくなりがちということの裏返しなのですが)。

(2006/05/27)

2006年7月1日土曜日

【宝塔偈(妙法蓮華経見宝塔品第11)】

妙法蓮華経見宝塔品第十一の偈部分です。法華経ですからやはり日蓮宗の定番です。
法華経の世間への布教を推賞するというその中味も正に日蓮の最も狙ったところですから、重宝されるわけです。

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『宝塔偈』

此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然
如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進
是名持戒 行頭陀者 則為疾得 無上仏道
能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地
仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼
於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養

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前の経文から2日しか経っていないのは初めてでしょう。実は舍利礼文と宝塔偈は同時に聞き始めて、だんだん慣れてきたところで一気に暗記作業を行ったため、こんなに近い暗唱達成となりました。字数も、漢字ばかりの「正信偈」の840字から100に満たない小品に切り替えると、案外覚えるのが早いという印象です。(2006/05/11)

2006年5月29日月曜日

宗教の本質=佛教の本質

これまで、2年近くにわたり佛道を参究し続けてきたところですが、他人の言葉で、宗教の本質・実体をこれほど的確に表現した文章に未だかつてあったことはありませんでした。
とかく綺麗事な言い草の多い、この手の話で、まさにこの内山興正禅師の論法は、(おこがましい表現を承知で申しあげれば)私の宗教に辿り着くまでの道程をそのまま表現してくれたかのようであります。


恐らく、世の良識ある私の周りのほとんどの人々(多くが無宗教というか葬式の場合だけの宗派を心得るだけの宗教家でありますが)は、この内山興正禅師の文章の中段「わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい」という、この心境で毎日を過ごされ、人によってはそのまま年老いていくことと思います。

しかし、そこで人間の精神が止まってしまっては、人間として生を授かったとしても「未熟者」であると言わざるを得ません。その人の語る言葉に、力は感じません。真実を観じることはできないのです。
「何らかの宗教心」それに類するものに辿り着かずに老いている人の言葉に、今、私は説得性をもって受け止めることができません。

それは結局、世の最も重要な法則や真理に背を向けているからに他ならないからです。
「生」を明きらめ「死」を明きらめるところから始めて、「人生の最も重きを置くべき大切なこと」を考えるという作業を怠っているからでしょう。

以下は、内山興正禅師の絶版の名著「観音経十句観音経を味わう」のひとつの章の全文近い分量を抜粋したものですが、あまりに深く共感するところがあったので、重要な部分をすべてここに掲載させていただきたいと思います。

前半は、宗教全般の本質を世の中の冷めた視線の分析も含め、現世利益新興宗教への痛烈批判、後半は宗教に生きる人間の姿勢について、そして釈尊及び道元禅師の仏道が、いかにその姿勢の上でぴったりとマッチするものであるのか・・・あたかもこの自分の宗教に辿り着くまでの思考回路を全部説明したくださったかのようで(というより内山興正禅師の宗教に辿り着いた時の感動が自分のついこの間、仏道に出会ったときの感動と全く同じであることに、鳥肌が立たんばかりに痛く感動をしたのであります
(2006/5/29)。

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「観音経十句観音経を味わう」内山興正/柏樹社より
※読みやすいように、改行、強調、編集を行っています


【三、仏法の本筋について】
(略)

 宗教における信仰の心とは、洋の東西をとわず、幼児のごとく素直純心にひざまずく心でなければならないのでしょう。
 -それでは宗教に入るには、ほんとうにただ幼児のごとく素直純心でありさえすればいいでしょうか-。

 いま「幼児のごとく」ということから思いだすのはルソーのつぎの言葉です。「もし私にもっともなさけない愚行を描けといわれるならば、私は教義問題を子供に教えている衒学の徒を描くであろう。」(エミール)と。

 なるほど神経質な宗教マニアみたいな人間が、子供相手に大まじめにむずかしい教義問題を説いている漫画でも想像しながら、このルソーのことばをみてみると、ちょっと思わずふき出させられます。

 -「キリスト教を信ずるという子供、かれはいったい何を信じているのか。それは神を信ずるのではなく、世の中には、神と称する或るものがあると、彼に話したピエールやジャックの言葉を信ずるということである」

 なお皮肉なるルソーは、さらに「子供らの信仰および多くのひとびとの信仰は、地理の問題である」とかたりはじめることによって、ひじょうに穿った話をかいています。
 「かれはメッカに生れないで、ローマに生れたことによって恵まれているであろうか。-
 ある人はマホメットは神の預言者であるという話をきく。それで彼は『マホメットは神の預言者である』という。また他の老はマホメットは悪漢だということをきく。それで彼は『マホメットは悪漢である』という。この二人が、もしその位置を代えたならば、何れもが反対のことをいうであろう。投句は二人が斯くもきわめてよく似ているのに、人が天国に、一人が地獄に振り向けられるということがあり得るだろうか」と。

 -メッカはマホメット教の本場、ローマはローマカトリックの本場なので、そのおのおのの本場に生れた似かよった人間が、そのおのおのの本場の話をきかされて、同じように鸚鵡返しに、しかしその正反対のことをいうことによって、一人は天国行き、一人は地獄行きとなってしまう奇妙さを曝いて、つまり無邪気、素直な善男善女たちを皮肉っているのです。



 ところでわたしがこのルソーの言葉をここに紹介せざるをえないのは、この言葉そのままが、いまの日本では同一画面で、しかも立体的に演ぜられて、われわれに見せていてくれているからです。
 いろいろな
宗教と称する教団の教祖たちが、さまざまなことをあたかも「権威あるものの如く語って」、「幼児のごとく」すなおな無知性の人々を狂信せしめているからです。「この神さまでなければ救われない」、「この宗教でなければ幸福になれない」、などなどと。
 しかしまだ「救われる救われない」の話ならともかく、「これでなければ病気はなおらない」「これを信じなければ一家が死に絶える」などというドギツイ言葉で、まるで競り市のごとく狂気的に、「宗教」と称する雑貨品をセリ売りしているからです。

  
「端初(はじめ)に神ありき」-こう説きはじめる神話的宗教に対して深い不信の念をいだかざるをえないわたしの気持ちはそこにあります
 
 そして同時に
「病気をなおす」などということは、宗教としてはまったくふさわしくないのだと批判する「幼児ならざる、オトナの知性」をわたしはもたざるをえないのです。

 じじつおおくの
現代の冷静なる常識人たちも、こうした神話的宗教や我欲的宗教に狂信するひとたちをみて、なにか道化役者に対してのようなアワレミの念をもよおすと同時に、自分だけはせめてそのアワレな道化役者にはなるまいという、オトナの批判精神をわたしと同様もっているのじゃないでしょうか。
極端な狂信者が一方に存往すると同時に、「宗教など偏執者の妄想なのだ」とかたずけて、まったくそれから無関心でいようとする常識人たちが大多数存在するのも、きわめて充分な理由あることとおもわれます。
 つまり狂信的宗教の競り市から、宗教という雑貨品を、われわれはなにもあえて買わなくてもいいのだし、その競り市にすら首をつっこまなくてもいい筈だからです。-「そんな競り市に首をつっこむことは下等な人間のやることだ。」と。


 しかしもしわれわれが内的要求からすこしでも宗教というものに関心を示さざるをえない場合、イエスさまの「幼児のごとくならずば」の言葉通りうっかり幼児のような心でいたら-現代日本では、そのような善男善女の純心素直な魂はたちまちにして八裂きにされてしまうことでしょう。われわれが宗教という危険地帯にすこしでも関心をもって立入ろうとする場合には、素直純心である以前に、まず充分オトナの知性、オトナの批判精神を身にまとっておかなくてはならないと、わたしはすでに学生時分からそう思っていました。


 そして事実わたしの採った態度はつぎの如くでした。すなわち
あらゆる我欲的宗教、神話的宗教、教権的宗教にたいしては十把ひとからげにサヨナラしてしまおう。のみならず端初に神話代りに形而上学をおく宗教からも、あるいは心理学をおく宗教からもサヨナラしてしまおう
 さらに釈迦やイエスに関する史実の精確なる研究と称するものをもって真の仏教、キリスト教だというもの、つまり史学や文献学、語学などを前提とする宗教からもサヨナラしてしまおう。
 
わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい
 わたしはわたしであればよく、ただ「自己の人生の真実」だけを追求しさえすればいいのだ、と-そんな気持で、学生時代以後、わたしは一宗一派の宗教には首をつっこまないという決心をしました。




 -ところがこんなふうにわたしが「自己の人生の真実に生きようとするだけだ」とつぶやいたとき、「じつはワシもそうなんだよ」とヌッとわたしの前にあらわれたのが、お釈迦さまであり、道元禅師だったのです。

 
お釈迦さまは過去の神話のうえにのっかって人生をかんがえたのでもなければ、神話をかたりつつ人々に人生をお教えになったのでもありませんでした。ただ純粋に自己自身の人生の悩みから出発し、自己の人生を悩みつつ、自己の人生の「ゆきつく所」をひとびとにお教えになったのです。
 
 
「自己の依りどころは自己のみなり」(法句経)と。

 そしてまた道元禅師も「
仏道をならふといふは自己をならふなり」といわれます。

 つまりお釈迦さまも道元禅師も、
いかなる宗教家とも本質的にちがって、この私の行き方に共鳴してくださいました
 
 ところがこの道元禅師は、こんな態度から出発されておりながら、しかし同時にまったく古人の行履(あんり)に頻倒されます。
 -これはいったいどういうことなのでしょう。
 道元禅師の言葉によれば 「たとひ知識にもしたがひ、たとひ経巻にもしたがふ。みなこれ自己にしたがふなり。経巻おのれづから自経巻なり。知識おのれづから自知識なり。」(正法眼識自証三味巻)とあります。
 
「真実の自己を追求する」ということは「真実の自己を追求した先人知識に全傾倒する」ことであり、かかる先人知識に全傾倒することが、そのまま真実の自己を追求することなのだといわれるのです。
 
 「仏祖の大道に自証自悟の調度あり。正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。……しかあるに自証自悟等の道をききて、麁人(そにん)おもはくは、師に伝受すべからず。自学すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり」(同所)。
 つまり
真実の自己を自証自悟するということは、「誰からも学ばないこと」だとおもっているのは、我執偏見のつっぱっている天然外道の所業でしかないといわれます。むしろ「真実の自己に生きる」ということは、真実の自己に生きた仏祖たちに、どこまでも喰いつき参学せねばならないのであって、それこそが真の「自証自悟」というものだというのです。
 

 -「なるほど、そういえばそうだ。真実の自己に生きることと、我執をつっぱることとは別だ。」と。

 -それでとにかくこんなお釈迦さまと道元禅師にヌッと顔を出されたとき、「だれが宗教なんていう雑貨品の競り市に首をつっこむものか」と決心していたわたしも、おもわず
それが仏教という宗教なのだということも忘れて、それにつき従うことに決心してしまったのです。

 しかもなお私がめぐまれたことは、そんな決心をした私が、同時にこのお釈迦さま、道元禅師の流れをそのまま汲んで「坐禅とは自己に親しむことである。自分が自分を自分することである」といわれる、沢木興道老師にただちに参ずることができたからです。

 そんなことから、学生時代からの決心にもかかわらず、いつのまにか出家してしまって、いま改めて思うのに、じつはこれこそが本当の宗教というものではなかろうかということです。

 神話や形而上学やら、心理学や歴史考証を予め先行させたり、あるいはまた教理、教義、教権などが予め存在するような宗教は、曾つての時代には存立することができました。しかしそれは地球上の各地域が交通なしに各々独立に存在し、各地方に一宗教が圧倒的に独占企業でありえた時代の話です。


 ルソーはなお、「コンスタンチノーブルにおいて、キリスト教を極めて馬鹿げたものとかんがえているトルコ人たちに、パリにおいてはみんながマホメット教のことを、何んとかんがえているかということを、見せてやりたい」といっていますが、たしかにいまや全地球上が一つになる時代が来、じじつコンスタンチノーブルの人がかんたんにパリで何を見、何を思うかの時代となっています。
 してみればもはや宗教はたんに「この地方に生れたがゆえに、この宗教を信ずる」というルソーのいわゆる 「宗教は地理の問題である」時代ではなくなってきてしまいました。マーケットには世界中の 「宗教」が出揃っていて、われわれはいつでもそれらを手にとって見比べることができます。

 しかし同時にこんなふうに、マーケットに出揃い、それらの見比べが可能となったとき、それらは何れもが「宗教」とは名づけられるべきでなく、たんに「宗教と名づけられた雑貨品」でしかないことがわかる時代となってしまったのです。


 
かくて「私は無宗教です」と、オトナの知性をもって云い切る絶対多数の現代人が生れでたことは、けっして不思議ではありません。わたし自身もまさにその幼児ならざるオトナでした


 そしてあらゆる過去の宗教から無関心、無関係になったとき、しかしそれでも「自分自身の人生をモテアマス悩み」はありました。この悩みをわたしは一体どこへ向かってとくべきか-こう悩みを内に抱いてとぼとぼと辿りはじめるべく決心したとき、いま申しあげたように、いままでの雑貨品的宗教とぱまったくことなった、お釈迦さまから道元禅師につながる宗教が、わたしの道として存在していたのです。

 
わたしが仏法の本筋とよびたいのはまさしくこの契機です。

 つまり
仏法の本筋とは、まず自己の人生をみつめるところから出発し、そしてどこまでも自己の人生の「ゆきつく所へゆぎついた道」を見いだしてゆくところにこそあるべきです。
 
自己の人生を掘りさげ深めてゆくところに、人類の普遍な道もあるべきであり、その普遍の道こそが真実の宗教でなければならないからです。

 それでわれわれが仏教というものをみてゆく場合、―-仏教はふるい宗教なので、それこそいろいろなゴミクタが付着しておりますが、このゴミクタにかかわらず、かえってこのゴミクタのなかから、もっとも純粋なる宝を、-以上のような仏法の本筋を規準として-拾い上げてゆかねばならないのだと思います。

 いまここでわたしが観音経をとりあげ、この観音経を味わってゆく態度も、ただこの仏法の本筋から床わってゆきたいとおもうのです。

2006年4月5日水曜日

なぜ仏道か、なぜ宗教か

仏道を如何にして日常に融和させるか

仏道を自覚して早1年半、いや、まだたったの一年半・・映画鑑賞を記録して20年の歳月が経過していることを考えると、仏道の世界ではまだ言葉も話すことができない赤ん坊同様なのが自分であります。
しかし、何か遥か昔から自分の人生の価値判断には仏道があったのではないかと(都合が良いようですが)思うことがあります。
仏道に感銘を受け、毎日読経し、仏道を学ぼうと読書しても、日々の生活・人生にその本人の心、その本人の真髄が落ちていなければ、何にもなりません。
このところ、多くの生活の変化やあまりの日々の多忙さとめまぐるしい生活に、この仏道の根本精神がどうも言動に反映されているとは思えず、頭だけで仏道・仏道・・と唱えるだけの状況に陥っていたようです。
仏教関係本もおよそ200冊を読んできましたが、本当に重要な仏道の精神を端的に言おうとすると、あまりの膨大な体系もあって、どこから思い返していいか途惑う自分がいます。

そこで、あらためて、私が「なぜ仏道であるのか」ということのポイントを要約して、自らの頭を整理し、その精神をしっかりと心に再度落とし込みたいと考えました。
この作業を繰り返すことで、仏道について、ようやく自分の言葉で語ることが出来、生活を営む上での価値判断基準がきちっと無意識に仏道になぞらえているようになると思うのです。
そういう状況を意識的に目指す必要があろうかと思うのです。


人類の叡智の蓄積である宗教だけがキーとなる

親鸞聖人「歎異抄」の冒頭の言葉はこうです。
『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり』
この言わんとすることは、「信じて念仏の心が起こったその瞬間には阿弥陀仏の浄土に救われている」ということです。
つまり、仏道を自分が選択をして「いい教えだから信じよう」というのではなく、信じたいと思ったことは、そうなるように予定されていた。
そう、すべての世界宗教がそうであるように、仏道も予定説「信じる者は救われる」ことになっているのであります。
・・・換言すれば「救われる人間は、必ず信じられるように作られているのだから、本人が何をしようと救われているし、地獄に落ちる人は必ず神を信じないように作られているのだから、本人が何をしようと地獄に墜ちる」という根本があるため、自分が審美眼をもっているから優秀な宗教を選び取ることができたのだ、という思い上がった考え方はお門違いになります。

宗教が、道徳(修身)でもなく呪術でもなく西洋哲学でもなく科学でもない理由はここにあります。そして、これは宗教だけが許される発想であり、最も現代においては日常生活を営む中に「落ちていない」考え方といえます。だからこそ、宗教なのです。宗教しかこの発想を許すものはなく、宗教の発想こそが「なるほど!」と自分の生死を考えたときに回答のヒントを与えてくれる唯一の思考方法(思考という表現も、宗教の前では陳腐で、部分しか表現し切れていないと思いますが、他の表現方法が分からないので、仮にこう書きました)なのであります。

ですから、私が自分の選択により仏道の好き嫌いを語るというのは、宗教の精神・発想に矛盾するようですが、やはり頭の整理なくしては、何が仏道かも分かりません。実践のしようもありません。

私が「仏道」を歩む真の理由

そこで、これこそが仏道だという教えの
7つの真髄をピックアップしてみました。
「仏教」の名を語りながらも、その本質は、釈尊に始まる正道の教えからは逸脱していると断ぜざるを得ない(具体的には「檀家制度」「追善供養」「死者への戒名」等)、現代日本における既成仏教(寺)の形式仏教を認めるようなことに甘んじることのない、真の仏法への自分の信心を確認する作業でもそれはあるのです。

一つの既成仏教の宗派に囚われたくない、囚われないからこそ仏道の本質である「出世間」の精神を保つことが出来る、そして仏祖面々の行持ともいえる真の仏道を大切にしていくことができる、という証でもあると自負するのであります。



1. 「自灯明法灯明」「信心」


 仏道が多くの世界宗教と決定的に異なるのは、神を崇拝するという形式ではない宗教であること。ヨーロッパにおいて、かつて「ニヒリズム」とさえ解釈された仏教である。それだけ人類精神史上においても革命的な発想を備えた宗教であることがわかる。
 神を崇め信仰するのではなく、自分の心を信じる、自らの仏性を信じるという「信心」が仏道の基本である。
 それはいわば「究極の性善説」ともいえる思想であり、先に神ありき、では全くない。
 釈尊という人間を神格化することではなく、釈尊の説いた「仏法」を守るのが教義、という、崇拝の対象がない宗教というのが何より素晴らしいではないか。

2. 「不瞋恚戒」

 怒りこそがこの世の不幸の源。
 これはまさにその通りであるにも拘らず、宗教や思想は必ずそれを正当化できる例外規定を設けてきた。
 「喜怒哀楽」として人間の根本的感情の一角として、あって当たり前と、肯定され続けてきた。
 しかし、仏道はこれを完全に戒めた。
 この「怒り」を戒めることを真向から最も重要なポイントとして説いた思想は他にあるだろうか。
 人間の醜い行為、破壊、殺人、戦争の根底にあるのは、ちょっと考えれば「怒り」であることは明白である。そこを徹底して戒めた。
 「貧瞋癡」という、欲望を貪り、怒りを露にし、そして己の近視眼的な愚かさを「三毒」として戒めたそのシンプルかつ最も的を言い得た戒律は、他の追随を許さない。

3. 「因縁生起」 すべてのこの世の現象には原因があるということ・・・。
 多くの科学者も釈尊の説いた「因縁生起」というこの世の成り立ちを証した根本的な考え方を奉頌したい。
 呪術やインチキ宗教が必ずといっていいほど「呪い」「祟り」「悪運」を持ち出して自らの宗教への信仰を強制するという姑息な手段を使うが、それを完膚無きまでに否定しているのがこの因縁生起なのだと思う。
 何事も縁が無数に絡み合っているという考え方である。現代の最新科学さえも凌駕する極めて先進的な発想である。
『日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。』(「中村元「仏教の真髄」を語る」)
4. 「愛するな」

 至る処で「愛」こそが人の生きる道のように賛美してばかりの世の中であるが、そもそも「愛」の根底には常に自己愛・利己心しかないという冷徹な事実を踏まえて「愛するな」と発信しているのが仏道である。
 「愛」の美学が蔓延る現代に生きる我々は、この思想の革命性に衝撃を受けないわけがない。
 愛は常に「愛憎」という言葉のとおり、憎悪が表裏一体の存在としてあることは、誰しもが経験上自覚できることであろう。
 愛の本質がそうである以上、仏道は「人間の愛は汚い。そんな愛と仏の慈悲とは全く違ったものである」と力説する(現代坊主はその点の解釈が甘いが)。
 釈尊は「皆自己愛をもっている。だからそれを否定するのではなく、それを他人に対する愛であると錯覚することがいけない。ただ自分が愛おしいと思うように他人も自分が愛おしいと思っていることを知り、遍く他人を傷つけないように心がけよ」ということを説きたかったのである。



5. 「反社会性」

 安易に現代社会を容認し妥協した上で宗教論を展開しても、そこで得られるのは単なる一時の慰めでしかない。
 聞いて何の解決にもならない人生相談と同じで、悩みは形を変えて無尽蔵に現出しそれに一喜一憂するだけの人生となる。
 真の生き方、人生どう生きるべきかを審細に参究するとなると、徹底的に現代社会を批判したときこそ可能になる。
 そこに初めて新しい発想による生き方が見えてくる。
 「出世間」が仏道の本質である。
 この「反社会性」には非常に共感するものがある。
 それは、今までの自分の人生を振り返ると、俗世間に対する不信感と限界を今日まで痛いほど感じてきたからなのだろう。
 反社会性といえば、一歩狂えばオウム真理教のような攻撃的集団が宗教から生まれるともいえるが、その時代時代の世の常に迎合しないことこそが、その教えが「宗教」たる証であるといえるのではないか。
 「出世間」とは、在家か出家かの形態を問わない。
 現代に大量に存在する、在家となんら変わらない生活を営む「寺守」坊主は、全く「出世間」を体現していないし、彼らの多くが説く「社会に役立つ人間になれ」といった類いの俗世間迎合型説法はまさに出世間の対極であるのだから。



6. 「はからい」の否定 これこそが宗教の真髄であろう。
 仏道では特に「他力」思想として明確にされている。
 善悪を人間自らの判断で行って道徳だ宗教だといっても、ところ変われば時代変われば常にその価値判断は変動することは歴史や世界化の現代が証左である。
 それを「相対善」「相対悪」とすると、人間が判断できるのはこれだけであり、「絶対善」「絶対悪」は人間以上の存在以外はわかり得ないわけである。
 宗教の神・仏道の仏法は「絶対悪」を戒め「絶対善」を奨励する存在であり、そこにこそ神の存在価値がある。
 人はただ仏法を守り生を営むことだけである。
 その結果結果は因縁によるものであり、業である。
 あるとすれば「絶対善」の判断を下すことができる宇宙的存在に判断を任せればよいのである。
 本当の善とはどんな時代・世の中においても善である絶対的な善であり、相対善は所詮「偽善」である。絶対悪も然り。
 仏道ではそれを知るのは如来だけであるとし、そのような物差しを人間が持ったつもりで人や現象を断じてはならないとする。
 つまり「はからい」の否定である。


7. 「生死を明らめる」 人の「生き死に」について明確にすること・・・。
 死のテーマは延命医療の視点でしても、暗くなるだけであり、根本的な人間としての苦悩の解決や解釈には何の役にも立たない。
 そういう次元で、ガンからの回復記や老人の健康法などが売れているのは、現代人は過去の人間の先輩たちに比べても全く「生死が明らめ」られていない証拠であるといえる。
 仏道は道元の言葉にあるように「生を明きらめ死を明きらめることは仏家一大事の因縁なり」と人生をしっかりと捉えて、死を肯定的に捉え(死だけを取り出すのではなく、人間の一人生(光陰と表現される)の自然性を受け入れるということを積極的に行っている。
 これこそ宗教にしかできない技と言って過言ではないだろう(断わっておくが死を取り上げるといっても儀式屋としての葬式仏教とは全然関係ない)。
 氷は溶けたら水になる。
 生と死の関係も然り。
 死とは生の連続的変化のようなもの。
 本質は変わらない。
 これを仏道では「生死一如」という。
 生の状態、死の状態とも、トータルに考えれば変わらない。
 この移行期を「往生」という。
 それが胆に納得いけば、仏の救いがあったことなのである。



以下に、「本物」の僧による、仏道の本質を端的に表現した極めつけの次の言葉を記します。

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青山俊董禅師「ご利益信仰でもなく、学問や思想などのような観念の遊びでもなく、仏像や伽藍などのような芸術でもなく、まして渡世の職業でもない。たった一度の、かけがえのないこの生命の今を、最高に洗練された生き方で生きる。その生き方を具体的に教え導くもの、それが宗教」



内山興正禅師
「思えば日本は仏教国といわれてき、たしかに事実、その名のもとに膨大な経典書籍を有し、建築彫刻等の美術芸術を持ち、葬式法事をはじめとする風俗習慣行事が生活の中に食い込んで行われています。それはそれで許すとしても、しかしそれらが一体仏教そのものとなんの関係があるというのか。」

「日本人は、過去の歴史においてさえ、いったどれほどの人たちが、自己の人生の真実を求める態度において、仏教を学んできたでしょう。おそらく、ほんのひとにぎりの人たちを除いて、
日本社会全体としては、およそ自己の人生の真実追求とは無関係のご祈祷、ご利益、葬式、趣味、観光などという低い次元の関心だけで、それと出会ってきたとしかいいようがありません。そしていまや、それもまったく固形化してしまった形骸の遺物だけが我々の前に存在するのであり、これに対してわれわれは過去のものだと思いこんでいるわけで、とうとう日本人全体としては、仏教そのものと完全にすれ違って出会わないで来てしまっているのだ、といっていいと思います。」