2006年5月29日月曜日

宗教の本質=佛教の本質

これまで、2年近くにわたり佛道を参究し続けてきたところですが、他人の言葉で、宗教の本質・実体をこれほど的確に表現した文章に未だかつてあったことはありませんでした。
とかく綺麗事な言い草の多い、この手の話で、まさにこの内山興正禅師の論法は、(おこがましい表現を承知で申しあげれば)私の宗教に辿り着くまでの道程をそのまま表現してくれたかのようであります。


恐らく、世の良識ある私の周りのほとんどの人々(多くが無宗教というか葬式の場合だけの宗派を心得るだけの宗教家でありますが)は、この内山興正禅師の文章の中段「わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい」という、この心境で毎日を過ごされ、人によってはそのまま年老いていくことと思います。

しかし、そこで人間の精神が止まってしまっては、人間として生を授かったとしても「未熟者」であると言わざるを得ません。その人の語る言葉に、力は感じません。真実を観じることはできないのです。
「何らかの宗教心」それに類するものに辿り着かずに老いている人の言葉に、今、私は説得性をもって受け止めることができません。

それは結局、世の最も重要な法則や真理に背を向けているからに他ならないからです。
「生」を明きらめ「死」を明きらめるところから始めて、「人生の最も重きを置くべき大切なこと」を考えるという作業を怠っているからでしょう。

以下は、内山興正禅師の絶版の名著「観音経十句観音経を味わう」のひとつの章の全文近い分量を抜粋したものですが、あまりに深く共感するところがあったので、重要な部分をすべてここに掲載させていただきたいと思います。

前半は、宗教全般の本質を世の中の冷めた視線の分析も含め、現世利益新興宗教への痛烈批判、後半は宗教に生きる人間の姿勢について、そして釈尊及び道元禅師の仏道が、いかにその姿勢の上でぴったりとマッチするものであるのか・・・あたかもこの自分の宗教に辿り着くまでの思考回路を全部説明したくださったかのようで(というより内山興正禅師の宗教に辿り着いた時の感動が自分のついこの間、仏道に出会ったときの感動と全く同じであることに、鳥肌が立たんばかりに痛く感動をしたのであります
(2006/5/29)。

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「観音経十句観音経を味わう」内山興正/柏樹社より
※読みやすいように、改行、強調、編集を行っています


【三、仏法の本筋について】
(略)

 宗教における信仰の心とは、洋の東西をとわず、幼児のごとく素直純心にひざまずく心でなければならないのでしょう。
 -それでは宗教に入るには、ほんとうにただ幼児のごとく素直純心でありさえすればいいでしょうか-。

 いま「幼児のごとく」ということから思いだすのはルソーのつぎの言葉です。「もし私にもっともなさけない愚行を描けといわれるならば、私は教義問題を子供に教えている衒学の徒を描くであろう。」(エミール)と。

 なるほど神経質な宗教マニアみたいな人間が、子供相手に大まじめにむずかしい教義問題を説いている漫画でも想像しながら、このルソーのことばをみてみると、ちょっと思わずふき出させられます。

 -「キリスト教を信ずるという子供、かれはいったい何を信じているのか。それは神を信ずるのではなく、世の中には、神と称する或るものがあると、彼に話したピエールやジャックの言葉を信ずるということである」

 なお皮肉なるルソーは、さらに「子供らの信仰および多くのひとびとの信仰は、地理の問題である」とかたりはじめることによって、ひじょうに穿った話をかいています。
 「かれはメッカに生れないで、ローマに生れたことによって恵まれているであろうか。-
 ある人はマホメットは神の預言者であるという話をきく。それで彼は『マホメットは神の預言者である』という。また他の老はマホメットは悪漢だということをきく。それで彼は『マホメットは悪漢である』という。この二人が、もしその位置を代えたならば、何れもが反対のことをいうであろう。投句は二人が斯くもきわめてよく似ているのに、人が天国に、一人が地獄に振り向けられるということがあり得るだろうか」と。

 -メッカはマホメット教の本場、ローマはローマカトリックの本場なので、そのおのおのの本場に生れた似かよった人間が、そのおのおのの本場の話をきかされて、同じように鸚鵡返しに、しかしその正反対のことをいうことによって、一人は天国行き、一人は地獄行きとなってしまう奇妙さを曝いて、つまり無邪気、素直な善男善女たちを皮肉っているのです。



 ところでわたしがこのルソーの言葉をここに紹介せざるをえないのは、この言葉そのままが、いまの日本では同一画面で、しかも立体的に演ぜられて、われわれに見せていてくれているからです。
 いろいろな
宗教と称する教団の教祖たちが、さまざまなことをあたかも「権威あるものの如く語って」、「幼児のごとく」すなおな無知性の人々を狂信せしめているからです。「この神さまでなければ救われない」、「この宗教でなければ幸福になれない」、などなどと。
 しかしまだ「救われる救われない」の話ならともかく、「これでなければ病気はなおらない」「これを信じなければ一家が死に絶える」などというドギツイ言葉で、まるで競り市のごとく狂気的に、「宗教」と称する雑貨品をセリ売りしているからです。

  
「端初(はじめ)に神ありき」-こう説きはじめる神話的宗教に対して深い不信の念をいだかざるをえないわたしの気持ちはそこにあります
 
 そして同時に
「病気をなおす」などということは、宗教としてはまったくふさわしくないのだと批判する「幼児ならざる、オトナの知性」をわたしはもたざるをえないのです。

 じじつおおくの
現代の冷静なる常識人たちも、こうした神話的宗教や我欲的宗教に狂信するひとたちをみて、なにか道化役者に対してのようなアワレミの念をもよおすと同時に、自分だけはせめてそのアワレな道化役者にはなるまいという、オトナの批判精神をわたしと同様もっているのじゃないでしょうか。
極端な狂信者が一方に存往すると同時に、「宗教など偏執者の妄想なのだ」とかたずけて、まったくそれから無関心でいようとする常識人たちが大多数存在するのも、きわめて充分な理由あることとおもわれます。
 つまり狂信的宗教の競り市から、宗教という雑貨品を、われわれはなにもあえて買わなくてもいいのだし、その競り市にすら首をつっこまなくてもいい筈だからです。-「そんな競り市に首をつっこむことは下等な人間のやることだ。」と。


 しかしもしわれわれが内的要求からすこしでも宗教というものに関心を示さざるをえない場合、イエスさまの「幼児のごとくならずば」の言葉通りうっかり幼児のような心でいたら-現代日本では、そのような善男善女の純心素直な魂はたちまちにして八裂きにされてしまうことでしょう。われわれが宗教という危険地帯にすこしでも関心をもって立入ろうとする場合には、素直純心である以前に、まず充分オトナの知性、オトナの批判精神を身にまとっておかなくてはならないと、わたしはすでに学生時分からそう思っていました。


 そして事実わたしの採った態度はつぎの如くでした。すなわち
あらゆる我欲的宗教、神話的宗教、教権的宗教にたいしては十把ひとからげにサヨナラしてしまおう。のみならず端初に神話代りに形而上学をおく宗教からも、あるいは心理学をおく宗教からもサヨナラしてしまおう
 さらに釈迦やイエスに関する史実の精確なる研究と称するものをもって真の仏教、キリスト教だというもの、つまり史学や文献学、語学などを前提とする宗教からもサヨナラしてしまおう。
 
わたしは宗教などという、出来あがった教義教権から一切わが魂の指図をうけなくてもいい
 わたしはわたしであればよく、ただ「自己の人生の真実」だけを追求しさえすればいいのだ、と-そんな気持で、学生時代以後、わたしは一宗一派の宗教には首をつっこまないという決心をしました。




 -ところがこんなふうにわたしが「自己の人生の真実に生きようとするだけだ」とつぶやいたとき、「じつはワシもそうなんだよ」とヌッとわたしの前にあらわれたのが、お釈迦さまであり、道元禅師だったのです。

 
お釈迦さまは過去の神話のうえにのっかって人生をかんがえたのでもなければ、神話をかたりつつ人々に人生をお教えになったのでもありませんでした。ただ純粋に自己自身の人生の悩みから出発し、自己の人生を悩みつつ、自己の人生の「ゆきつく所」をひとびとにお教えになったのです。
 
 
「自己の依りどころは自己のみなり」(法句経)と。

 そしてまた道元禅師も「
仏道をならふといふは自己をならふなり」といわれます。

 つまりお釈迦さまも道元禅師も、
いかなる宗教家とも本質的にちがって、この私の行き方に共鳴してくださいました
 
 ところがこの道元禅師は、こんな態度から出発されておりながら、しかし同時にまったく古人の行履(あんり)に頻倒されます。
 -これはいったいどういうことなのでしょう。
 道元禅師の言葉によれば 「たとひ知識にもしたがひ、たとひ経巻にもしたがふ。みなこれ自己にしたがふなり。経巻おのれづから自経巻なり。知識おのれづから自知識なり。」(正法眼識自証三味巻)とあります。
 
「真実の自己を追求する」ということは「真実の自己を追求した先人知識に全傾倒する」ことであり、かかる先人知識に全傾倒することが、そのまま真実の自己を追求することなのだといわれるのです。
 
 「仏祖の大道に自証自悟の調度あり。正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。……しかあるに自証自悟等の道をききて、麁人(そにん)おもはくは、師に伝受すべからず。自学すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり」(同所)。
 つまり
真実の自己を自証自悟するということは、「誰からも学ばないこと」だとおもっているのは、我執偏見のつっぱっている天然外道の所業でしかないといわれます。むしろ「真実の自己に生きる」ということは、真実の自己に生きた仏祖たちに、どこまでも喰いつき参学せねばならないのであって、それこそが真の「自証自悟」というものだというのです。
 

 -「なるほど、そういえばそうだ。真実の自己に生きることと、我執をつっぱることとは別だ。」と。

 -それでとにかくこんなお釈迦さまと道元禅師にヌッと顔を出されたとき、「だれが宗教なんていう雑貨品の競り市に首をつっこむものか」と決心していたわたしも、おもわず
それが仏教という宗教なのだということも忘れて、それにつき従うことに決心してしまったのです。

 しかもなお私がめぐまれたことは、そんな決心をした私が、同時にこのお釈迦さま、道元禅師の流れをそのまま汲んで「坐禅とは自己に親しむことである。自分が自分を自分することである」といわれる、沢木興道老師にただちに参ずることができたからです。

 そんなことから、学生時代からの決心にもかかわらず、いつのまにか出家してしまって、いま改めて思うのに、じつはこれこそが本当の宗教というものではなかろうかということです。

 神話や形而上学やら、心理学や歴史考証を予め先行させたり、あるいはまた教理、教義、教権などが予め存在するような宗教は、曾つての時代には存立することができました。しかしそれは地球上の各地域が交通なしに各々独立に存在し、各地方に一宗教が圧倒的に独占企業でありえた時代の話です。


 ルソーはなお、「コンスタンチノーブルにおいて、キリスト教を極めて馬鹿げたものとかんがえているトルコ人たちに、パリにおいてはみんながマホメット教のことを、何んとかんがえているかということを、見せてやりたい」といっていますが、たしかにいまや全地球上が一つになる時代が来、じじつコンスタンチノーブルの人がかんたんにパリで何を見、何を思うかの時代となっています。
 してみればもはや宗教はたんに「この地方に生れたがゆえに、この宗教を信ずる」というルソーのいわゆる 「宗教は地理の問題である」時代ではなくなってきてしまいました。マーケットには世界中の 「宗教」が出揃っていて、われわれはいつでもそれらを手にとって見比べることができます。

 しかし同時にこんなふうに、マーケットに出揃い、それらの見比べが可能となったとき、それらは何れもが「宗教」とは名づけられるべきでなく、たんに「宗教と名づけられた雑貨品」でしかないことがわかる時代となってしまったのです。


 
かくて「私は無宗教です」と、オトナの知性をもって云い切る絶対多数の現代人が生れでたことは、けっして不思議ではありません。わたし自身もまさにその幼児ならざるオトナでした


 そしてあらゆる過去の宗教から無関心、無関係になったとき、しかしそれでも「自分自身の人生をモテアマス悩み」はありました。この悩みをわたしは一体どこへ向かってとくべきか-こう悩みを内に抱いてとぼとぼと辿りはじめるべく決心したとき、いま申しあげたように、いままでの雑貨品的宗教とぱまったくことなった、お釈迦さまから道元禅師につながる宗教が、わたしの道として存在していたのです。

 
わたしが仏法の本筋とよびたいのはまさしくこの契機です。

 つまり
仏法の本筋とは、まず自己の人生をみつめるところから出発し、そしてどこまでも自己の人生の「ゆきつく所へゆぎついた道」を見いだしてゆくところにこそあるべきです。
 
自己の人生を掘りさげ深めてゆくところに、人類の普遍な道もあるべきであり、その普遍の道こそが真実の宗教でなければならないからです。

 それでわれわれが仏教というものをみてゆく場合、―-仏教はふるい宗教なので、それこそいろいろなゴミクタが付着しておりますが、このゴミクタにかかわらず、かえってこのゴミクタのなかから、もっとも純粋なる宝を、-以上のような仏法の本筋を規準として-拾い上げてゆかねばならないのだと思います。

 いまここでわたしが観音経をとりあげ、この観音経を味わってゆく態度も、ただこの仏法の本筋から床わってゆきたいとおもうのです。

2006年4月5日水曜日

なぜ仏道か、なぜ宗教か

仏道を如何にして日常に融和させるか

仏道を自覚して早1年半、いや、まだたったの一年半・・映画鑑賞を記録して20年の歳月が経過していることを考えると、仏道の世界ではまだ言葉も話すことができない赤ん坊同様なのが自分であります。
しかし、何か遥か昔から自分の人生の価値判断には仏道があったのではないかと(都合が良いようですが)思うことがあります。
仏道に感銘を受け、毎日読経し、仏道を学ぼうと読書しても、日々の生活・人生にその本人の心、その本人の真髄が落ちていなければ、何にもなりません。
このところ、多くの生活の変化やあまりの日々の多忙さとめまぐるしい生活に、この仏道の根本精神がどうも言動に反映されているとは思えず、頭だけで仏道・仏道・・と唱えるだけの状況に陥っていたようです。
仏教関係本もおよそ200冊を読んできましたが、本当に重要な仏道の精神を端的に言おうとすると、あまりの膨大な体系もあって、どこから思い返していいか途惑う自分がいます。

そこで、あらためて、私が「なぜ仏道であるのか」ということのポイントを要約して、自らの頭を整理し、その精神をしっかりと心に再度落とし込みたいと考えました。
この作業を繰り返すことで、仏道について、ようやく自分の言葉で語ることが出来、生活を営む上での価値判断基準がきちっと無意識に仏道になぞらえているようになると思うのです。
そういう状況を意識的に目指す必要があろうかと思うのです。


人類の叡智の蓄積である宗教だけがキーとなる

親鸞聖人「歎異抄」の冒頭の言葉はこうです。
『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり』
この言わんとすることは、「信じて念仏の心が起こったその瞬間には阿弥陀仏の浄土に救われている」ということです。
つまり、仏道を自分が選択をして「いい教えだから信じよう」というのではなく、信じたいと思ったことは、そうなるように予定されていた。
そう、すべての世界宗教がそうであるように、仏道も予定説「信じる者は救われる」ことになっているのであります。
・・・換言すれば「救われる人間は、必ず信じられるように作られているのだから、本人が何をしようと救われているし、地獄に落ちる人は必ず神を信じないように作られているのだから、本人が何をしようと地獄に墜ちる」という根本があるため、自分が審美眼をもっているから優秀な宗教を選び取ることができたのだ、という思い上がった考え方はお門違いになります。

宗教が、道徳(修身)でもなく呪術でもなく西洋哲学でもなく科学でもない理由はここにあります。そして、これは宗教だけが許される発想であり、最も現代においては日常生活を営む中に「落ちていない」考え方といえます。だからこそ、宗教なのです。宗教しかこの発想を許すものはなく、宗教の発想こそが「なるほど!」と自分の生死を考えたときに回答のヒントを与えてくれる唯一の思考方法(思考という表現も、宗教の前では陳腐で、部分しか表現し切れていないと思いますが、他の表現方法が分からないので、仮にこう書きました)なのであります。

ですから、私が自分の選択により仏道の好き嫌いを語るというのは、宗教の精神・発想に矛盾するようですが、やはり頭の整理なくしては、何が仏道かも分かりません。実践のしようもありません。

私が「仏道」を歩む真の理由

そこで、これこそが仏道だという教えの
7つの真髄をピックアップしてみました。
「仏教」の名を語りながらも、その本質は、釈尊に始まる正道の教えからは逸脱していると断ぜざるを得ない(具体的には「檀家制度」「追善供養」「死者への戒名」等)、現代日本における既成仏教(寺)の形式仏教を認めるようなことに甘んじることのない、真の仏法への自分の信心を確認する作業でもそれはあるのです。

一つの既成仏教の宗派に囚われたくない、囚われないからこそ仏道の本質である「出世間」の精神を保つことが出来る、そして仏祖面々の行持ともいえる真の仏道を大切にしていくことができる、という証でもあると自負するのであります。



1. 「自灯明法灯明」「信心」


 仏道が多くの世界宗教と決定的に異なるのは、神を崇拝するという形式ではない宗教であること。ヨーロッパにおいて、かつて「ニヒリズム」とさえ解釈された仏教である。それだけ人類精神史上においても革命的な発想を備えた宗教であることがわかる。
 神を崇め信仰するのではなく、自分の心を信じる、自らの仏性を信じるという「信心」が仏道の基本である。
 それはいわば「究極の性善説」ともいえる思想であり、先に神ありき、では全くない。
 釈尊という人間を神格化することではなく、釈尊の説いた「仏法」を守るのが教義、という、崇拝の対象がない宗教というのが何より素晴らしいではないか。

2. 「不瞋恚戒」

 怒りこそがこの世の不幸の源。
 これはまさにその通りであるにも拘らず、宗教や思想は必ずそれを正当化できる例外規定を設けてきた。
 「喜怒哀楽」として人間の根本的感情の一角として、あって当たり前と、肯定され続けてきた。
 しかし、仏道はこれを完全に戒めた。
 この「怒り」を戒めることを真向から最も重要なポイントとして説いた思想は他にあるだろうか。
 人間の醜い行為、破壊、殺人、戦争の根底にあるのは、ちょっと考えれば「怒り」であることは明白である。そこを徹底して戒めた。
 「貧瞋癡」という、欲望を貪り、怒りを露にし、そして己の近視眼的な愚かさを「三毒」として戒めたそのシンプルかつ最も的を言い得た戒律は、他の追随を許さない。

3. 「因縁生起」 すべてのこの世の現象には原因があるということ・・・。
 多くの科学者も釈尊の説いた「因縁生起」というこの世の成り立ちを証した根本的な考え方を奉頌したい。
 呪術やインチキ宗教が必ずといっていいほど「呪い」「祟り」「悪運」を持ち出して自らの宗教への信仰を強制するという姑息な手段を使うが、それを完膚無きまでに否定しているのがこの因縁生起なのだと思う。
 何事も縁が無数に絡み合っているという考え方である。現代の最新科学さえも凌駕する極めて先進的な発想である。
『日本では余り意識されておりませんが、「縁起説」に象徴される仏教の思想は、きわめて合理的であり、その意味で現在の科学思想と全く矛盾しません。その点は、ルネサンス期における宗教と科学の激しい対立をしたキリスト教とは大きく異なるところです。特に、原因と結果の直接の連続性を前提とする「因果論」を基本とする仏教は、客観的な事実に観察からその変化<原因と結果>を理論的に導き出す現代科学のいわば先輩格にあたります。これに対して一神教ではこの因果論を認めると神の介在する余地がなくなり、神による奇跡が認めがたいものとなるので因果論は強調されません。さらに後代の仏教では、因果論の連鎖を考えるようになりました。つまり変化の主体とそれ以外の外的補助要因(これを能作因という)が互いに関係しあっていると考えます。これがすべての存在を「一」として捕らえる思想です。これは仏教の因果的思想の究極的なものといえるでしょう。この思想が現代科学の思想と大きな共通性を持っているのです。』(「中村元「仏教の真髄」を語る」)
4. 「愛するな」

 至る処で「愛」こそが人の生きる道のように賛美してばかりの世の中であるが、そもそも「愛」の根底には常に自己愛・利己心しかないという冷徹な事実を踏まえて「愛するな」と発信しているのが仏道である。
 「愛」の美学が蔓延る現代に生きる我々は、この思想の革命性に衝撃を受けないわけがない。
 愛は常に「愛憎」という言葉のとおり、憎悪が表裏一体の存在としてあることは、誰しもが経験上自覚できることであろう。
 愛の本質がそうである以上、仏道は「人間の愛は汚い。そんな愛と仏の慈悲とは全く違ったものである」と力説する(現代坊主はその点の解釈が甘いが)。
 釈尊は「皆自己愛をもっている。だからそれを否定するのではなく、それを他人に対する愛であると錯覚することがいけない。ただ自分が愛おしいと思うように他人も自分が愛おしいと思っていることを知り、遍く他人を傷つけないように心がけよ」ということを説きたかったのである。



5. 「反社会性」

 安易に現代社会を容認し妥協した上で宗教論を展開しても、そこで得られるのは単なる一時の慰めでしかない。
 聞いて何の解決にもならない人生相談と同じで、悩みは形を変えて無尽蔵に現出しそれに一喜一憂するだけの人生となる。
 真の生き方、人生どう生きるべきかを審細に参究するとなると、徹底的に現代社会を批判したときこそ可能になる。
 そこに初めて新しい発想による生き方が見えてくる。
 「出世間」が仏道の本質である。
 この「反社会性」には非常に共感するものがある。
 それは、今までの自分の人生を振り返ると、俗世間に対する不信感と限界を今日まで痛いほど感じてきたからなのだろう。
 反社会性といえば、一歩狂えばオウム真理教のような攻撃的集団が宗教から生まれるともいえるが、その時代時代の世の常に迎合しないことこそが、その教えが「宗教」たる証であるといえるのではないか。
 「出世間」とは、在家か出家かの形態を問わない。
 現代に大量に存在する、在家となんら変わらない生活を営む「寺守」坊主は、全く「出世間」を体現していないし、彼らの多くが説く「社会に役立つ人間になれ」といった類いの俗世間迎合型説法はまさに出世間の対極であるのだから。



6. 「はからい」の否定 これこそが宗教の真髄であろう。
 仏道では特に「他力」思想として明確にされている。
 善悪を人間自らの判断で行って道徳だ宗教だといっても、ところ変われば時代変われば常にその価値判断は変動することは歴史や世界化の現代が証左である。
 それを「相対善」「相対悪」とすると、人間が判断できるのはこれだけであり、「絶対善」「絶対悪」は人間以上の存在以外はわかり得ないわけである。
 宗教の神・仏道の仏法は「絶対悪」を戒め「絶対善」を奨励する存在であり、そこにこそ神の存在価値がある。
 人はただ仏法を守り生を営むことだけである。
 その結果結果は因縁によるものであり、業である。
 あるとすれば「絶対善」の判断を下すことができる宇宙的存在に判断を任せればよいのである。
 本当の善とはどんな時代・世の中においても善である絶対的な善であり、相対善は所詮「偽善」である。絶対悪も然り。
 仏道ではそれを知るのは如来だけであるとし、そのような物差しを人間が持ったつもりで人や現象を断じてはならないとする。
 つまり「はからい」の否定である。


7. 「生死を明らめる」 人の「生き死に」について明確にすること・・・。
 死のテーマは延命医療の視点でしても、暗くなるだけであり、根本的な人間としての苦悩の解決や解釈には何の役にも立たない。
 そういう次元で、ガンからの回復記や老人の健康法などが売れているのは、現代人は過去の人間の先輩たちに比べても全く「生死が明らめ」られていない証拠であるといえる。
 仏道は道元の言葉にあるように「生を明きらめ死を明きらめることは仏家一大事の因縁なり」と人生をしっかりと捉えて、死を肯定的に捉え(死だけを取り出すのではなく、人間の一人生(光陰と表現される)の自然性を受け入れるということを積極的に行っている。
 これこそ宗教にしかできない技と言って過言ではないだろう(断わっておくが死を取り上げるといっても儀式屋としての葬式仏教とは全然関係ない)。
 氷は溶けたら水になる。
 生と死の関係も然り。
 死とは生の連続的変化のようなもの。
 本質は変わらない。
 これを仏道では「生死一如」という。
 生の状態、死の状態とも、トータルに考えれば変わらない。
 この移行期を「往生」という。
 それが胆に納得いけば、仏の救いがあったことなのである。



以下に、「本物」の僧による、仏道の本質を端的に表現した極めつけの次の言葉を記します。

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青山俊董禅師「ご利益信仰でもなく、学問や思想などのような観念の遊びでもなく、仏像や伽藍などのような芸術でもなく、まして渡世の職業でもない。たった一度の、かけがえのないこの生命の今を、最高に洗練された生き方で生きる。その生き方を具体的に教え導くもの、それが宗教」



内山興正禅師
「思えば日本は仏教国といわれてき、たしかに事実、その名のもとに膨大な経典書籍を有し、建築彫刻等の美術芸術を持ち、葬式法事をはじめとする風俗習慣行事が生活の中に食い込んで行われています。それはそれで許すとしても、しかしそれらが一体仏教そのものとなんの関係があるというのか。」

「日本人は、過去の歴史においてさえ、いったどれほどの人たちが、自己の人生の真実を求める態度において、仏教を学んできたでしょう。おそらく、ほんのひとにぎりの人たちを除いて、
日本社会全体としては、およそ自己の人生の真実追求とは無関係のご祈祷、ご利益、葬式、趣味、観光などという低い次元の関心だけで、それと出会ってきたとしかいいようがありません。そしていまや、それもまったく固形化してしまった形骸の遺物だけが我々の前に存在するのであり、これに対してわれわれは過去のものだと思いこんでいるわけで、とうとう日本人全体としては、仏教そのものと完全にすれ違って出会わないで来てしまっているのだ、といっていいと思います。」

2006年2月27日月曜日

世の誤解

葬式仏教や生臭坊主が仏教を辛気くさくしかも汚れたおかしなイメージを生んでいることは嘆かわしいことです。
世にはびこる仏教に対する誤解が、仏教の真意をねじ曲げており、多くの日本人がそれで当たり前だと深く考えていません。
大変ゆゆしきことであり、仏道に足を踏み入れた自分としては、ここに明確にし、真意から離れてしまっている(所詮現代日本という限定空間の)常識を否定したいと思います。

  • 寺に賽銭を放り込めば,交通安全を始め合格祈願等のお願いができる
    寺では仏に対して感謝をするのである。
    願をかけるのは仏教ではない。
    仏教はキリスト教やイスラム教といった他の真の宗教と同様ご利益宗教では一切ない
    日常から信仰もないくせに、100円やそこらで安全や健康を買おうなんて、保険会社よりも下劣な発想である。

    現世ご利益にすがる蔓延するニセモノ仏教徒については、遠藤誠氏が幾度にも亘って糾弾されていますので、ご参考に。
  • お葬式は友引の日にしてはならない、仏滅は結婚式には不向である
    先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜は仏教からではなく、室町時代の末期に中国から伝わった、小六壬という時刻の吉凶占いである。
    それを誰かが日に転用して、江戸時代に流行したものであると言われている。
    これは干支や方角に関係なく、その日の吉凶を表す符号。

    友引とは本来「相引きで勝負のない日」という引き分けを意味している。
    友を引くからお葬式は禁物というようなものではない。
    浄土宗の祖師法然は「仏教には不吉として物事を慎むことはありません(『百四十五箇条問答』)」と明確に答えている。
    また、六曜の仏滅は「物滅」から変化していった当字で、仏教とは全く関係ない。

  • 戒名は仏教徒の証である
    まず、戒名がどんな意味を持つのか、実態として何を示しているのか、それを考えましょう。
    敬愛する遠藤誠氏の「真の宗教ニセの宗教」(たま出版)で痛烈に批判がなされていますが、これはいずれ書評にUPさせていただくとして、劇作家でもある島田裕巳氏の『戒名無用』から以下に抜粋をさせてもらいます。その前に、私の戒名についての考え方を述べましょう。

    戒名の無意味さ、今更檀家制度の名残りにしがみつく主体性の無さ。
    仏道を真剣に考えるという縁に恵まれたが故に、私は、檀家制度の名残りとしての形骸化した戒名とは、決別するべきと確信いたしております。
    結論は、葬儀は重要かも知れませんが、今の世の戒名は極めて無駄、ということです。

    何も、近くの寺に帰依するというのは悪いことでないと思います。
    だから代々その寺へ布施をしている、その寺がきちんとその檀家に対して法施をしていれば、何ら問題はありません。特に近いのだから安心感も大きいでしょう。これはあくまで土地から人が動かない時代、今も田舎については当てはまる話なのかも知れません。基本的に、仏道の教えをしっかりと法施してくれる僧がいれば、それが何宗(何派)であってもよいと私は考えます。

    しかし、寺などは観光地としての寺が散在する程度で、その僧の顔も知らないというような大都市やベッドタウンで核家族化して住む人間は、もはや近いからという発想は成り立ちません。田舎があって、いずれそこに戻るなら別ですが、田舎は墓だけ、何て言うのも非常に穢らわしい考えです。
    全く信仰とは関係ないと言い切れます。
    そのときだけ寺に金を払って、周囲の目・世間体のために葬式を仏教式で挙げ、仏法のぶの字も考えたこともなく知らない人間が、仏道を帰依したことを意味するという戒名を授かるなんて、呆れ果ててモノもいえません。
    人生でこれ以上のいい加減な幕切れはありません。
    人間の根本である生老病死という存在を蔑ろにした行為といえます。


    私の祖父は、日本人の0.5%しかいないと言われる「無宗教」による葬儀でした。今思えば天晴な話です。世間体に固執していない。
    私も今から死については考える必要があると、このごろよく思います。大切なことです。
    人間、今の目の前のことに忙殺されて大切なことを蔑ろにすることが何よりもいけない。
    江戸時代の良寛和尚も、「人は死ぬことさえ忘れなければ、大した過ちもなかろう。」と言っています。

    仏教の信心が何か、朧気にわかってきた今としては、いい加減な寺が多いなか、どこかできちんと縁がある「僧」と出遇っておいて、最後は帰依したい、そういう気持ちがあります。
    まあ、そんなことも、しっかりと信心を大切にすれば、仏縁が自然となるように手向けてくれることと思います。



    島田裕巳
    戒名無用/主婦の友社


    戒名料は布施でない
    葬儀の際に僧侶に渡す金は『布施』である。戒名を賦けてもらったことに対して僧侶に渡す金も布施である。布施とは、布施をする側が自らの信仰に基づいて自発的に行うものである。(略)実際、戒名料が布施ではなく、料金であることを示すデータがある。

    本来の戒名とは何か
    戒名はこれまで『仏教徒の証し』であると説明されてきた。
    戒名とは、戒を授かったときに与えられる仏教徒の証しだというのである。
    どの宗派においても、戒名が仏教の信者になった証しである以上、生前に授かっておくことが本来の姿であると主張されている。
    しかし、現実には、ほとんどの人が死後に戒名を授かっている。
    戒の性格から考えて、死者に戒を授けることには意味がないはずである。死者には、生きものを殺すことも、偸むことも、性関係を結ぶことも、嘘をつくことも、酒を飲むことも出来ない。

    戒名は仏教徒の証しでは、全くない
    戒名が仏教徒の証しであるという前提自体に問題があるのではないだろうか。そういった疑問がわいてくるのも、アジアの他の仏教国には日本の戒名に相当するものが存在しないからである。
    死者に戒名を授ける慣習は、仏教の発祥の地インドにも、日本に仏教を伝えた中国や韓国にも、さらには東南アジアの仏教国にも存在しない。
    また、死後に戒名を授かることを前提として在家の人間が生きているうちに戒名を授かる慣習も、日本にしかないものである。
    戒名の慣習が日本に
    独自なものであるなら、戒名は仏教の教えとは関係のないものだということになるからである。
    これは、戒名が、仏教界の説明とは異なり、仏教徒の証ではないことを意味している。戒名はブッディスト・ネームではないのである。

    寺請制度・檀家制度の名残りに過ぎない戒名
    かなり不思議なことである。それぞれの宗派には開祖がいて、その教えは異なっている。教えが対立することでさえ珍しいことではない。実際、宗派によって信仰の対象とされる経典は異なっている。
    ところが、戒名の形式は、宗派を超えて概ね一致している。それは、
    戒名が、宗派の教えとは無関係に、寺請制度のもとで成立し、広まったことを示している。

    寺請制度自体も作為的で尊いものでも何でもない
    江戸時代の檀家関係は、寺請制によって庶民に強制されたものだったのである。十八世紀に入る頃には、徳川家康の名を借りた『神君様御掟目十六箇条宗門檀那請合掟』という文書が作られた。(略)この文書では、禁教とされたキリシタンや日蓮宗の不受不施派の疑いをかけられたくなかったら、檀家関係を結んだ寺との関係を密にし、寺の行事に参加して、寺の建物の修理や建立につとめることが勧められていた。(略)しかし、この文書はニセモノだった。家康が定めたものではなかった。(略)寺の側は、偽の文書を利用するという姑息な手段を使って檀家関係を密にさせようとしたのである。

    テキトーに葬式をしている大半の日本人の実態
    葬儀の形式は仏教が94.1%、神道が3.4%、キリスト教が0.7%、無宗教が0.5%であった。葬儀の大半は、仏教式で営まれているのである。神道式の葬儀を選ぶのは、神道の信仰を持っている家である。キリスト教の形式を選ぶのは、キリスト教の信仰を持っている家や個人である。(略)ところが、仏教式の葬儀を選ぶのは、仏教への信仰を持っている家や個人だけとはかぎらない。仏教の信仰を持っているのは、日本人全体の五分の一から四分の一程度である。

    要するに寺は戒名料に頼るしかない
    確固とした経済基盤を持たず、公的な補助をあてに出来ない寺としては、葬儀から上がる収入に頼るしかない。(略)
    日本の仏教が本当の意味で
    葬式仏教になったのは、むしろ戦後になってからのことではないだろうか。そこに、戒名料が高くなり、戒名をめぐって問題が起こるようになった第一の原因があるように思われる。

    日本の異常な葬儀料を知れば、皆変わっていけると思うが
    日本人は、葬儀に五百万円以上の金がかかったという話を聞いても、さして驚かない。葬儀には金がかかるものだと覚悟しているからである。しかし、日本の葬儀費用が世界でも飛び抜けて高いと言うことを知ったとしたら、その覚悟も少しはゆらぐはずである。(略)イギリスの葬儀費用はわずか十二万三千円である。ドイツでは十九万八千円、韓国では三十七万三千円、そしてアメリカでも四十四万四千円である。他の国に比べてアメリカは高いが、それでも日本の葬儀費用は、アメリカの6.5倍にも達している。(略)友人葬や自然葬などの新しい葬儀の方法が生れ、それが広がっているのも、世界で一番葬儀に金をかけていることへの反省があるからであろう。金をかけることが、本当に個人を手厚く葬ったことになるのか、多くの人たちが疑問を感じるようになってきたのである。

    仏道への帰依などとはほど遠い民衆の意識
    さすがに私も、宗派のあまりのでたらめさに唖然とした。嫁いできた義理の叔母はともかく、祖父母は生前別々の信仰を持っていたわけではない。たまたま葬儀を挙げ、戒名を授けてくれた僧侶の宗派がちがっただけなのである。(略)
    私の実家や母の実家の宗派についての知識は、相当にいい加減である。信仰に厳格な人間から見れば、その姿勢ははなはだ遺憾なものに映るだろう。しかし、それは私の家に限らず、地方から東京に出てきた人間たちの平均的なありかたなのではないだろうか。





    最後におまけと言っては何ですが、同著に日蓮系新興宗教の性格についての分かりやすい説明がありましたので補足しましょう。

    創価学会とは
    戦前に結成された創価教育学会を母体としている。創価教育学会は、地理学者で教育家であった牧口常三郎を中心に結成された教育団体であった。
    牧口は日蓮を信奉するようになり、日蓮宗の一派である日蓮正宗と密接な関係を持った。そのため、創価教育学会は、宗教団体としての性格をあわせもっていた。
    日蓮正宗は日蓮宗のなかの少数派であったが、他の宗教や宗派を否定する傾向は一般の日蓮宗以上に強かった。創価学会はこの日蓮正宗の影響を受けて、折伏による布教活動を推し進めていった。創価学会が戦闘的な教団となり、社会と激しく衝突してきたのも、日蓮正宗の影響によるところが大きかった。


    日蓮宗関係新興宗教と政治
    創価学会の場合には、公明党という政党を組織した。公明党の第一の役割は、会員の便宜をはかることにあった。(略)公明党は、創価学会という巨大な相互扶助組織を助けることを政治活動の第一の目的とした。
    また、立正佼成会や霊友会も自民党に議員を送り込んだ。



    また、彼らについての問題をばっさりと遠藤誠氏がその各著書において指摘しています。


  • 仏道は難行である
    難行のバラモン教徒として苦行を行っていた釈迦は、苦行を否定して仏教を開いた
    天台宗比叡山の山篭十二年の行や回峰行、日蓮宗法華経寺の荒行、真言宗(一部)の断食などは、難行を是としている点において、本来の仏教とは掛け離れてしまっているといえる。

  • 追善供養は仏教のしきたりである
    死者の裁判を一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と計13回も増やしたのは室町時代以降のこと。日本独自。インド・中国の仏教にない考え方。
    ここにある発想は、子孫や残された人間が供養に時間とカネを費やさないと、死者が極楽へいけない、仏になれない、というものであり、言うまでもなく仏道の発想とは相反するもの。
    仏教では、死後の何如は、その人の生前の業がすべてと考える。
    追善供養はもともと「中陰」の考え方であり、仏教的には邪道とも断言できるもの。
    先祖がそうだから、伝統だから、とそれに固執した結果、邪霊とか祟りとかいう仏教とは大凡インチキ宗教がはびこるのであります。

  • 「業・因果」は、たたりや過去の罪による不幸のこと
    本人の過去や罪や霊のせいにする「罪を責める」かたちとして利用されてきた。
    「業・因果」は、「縁起観」による人間の心や行いへの責任を明らかにする重要な教えである。
    一般的に「業」とは、「悪い結果を説明する時に用いられる「言訳」「慰め」「諦め」の言葉として理解されていが、本来の「業」は人間がよりよく生きるために不可欠な思想だった。
    つまり今の自分が未来の自分を造る、決定する、というきわめてポジティブな世界観なのである。
    自分一人一人がしっかりと生きれば、自分の未来はもとより、自分の属する世界も直接・間接的に変えることが出来るというのが、この業の思想である。

  • 葬式の死者のための読経(廻向)は日本仏教古来のもの
    親鸞や道元は、死者のために読経をする廻向を、「仏意に反する」と戒め、とくに僧侶が特定の父母のために読経したり念仏を唱えたりすることは、衆生救済の立場と矛盾すると批判している。釈尊はそもそも、人の死後の運命は各人の生前の行為によって定まるのであり、他人がそれに関与することはできないとして、僧侶が死者儀礼に拘わることを厳しく禁止していた。(「仏教の大河」/高瀬広居/より)

2006年2月26日日曜日

一般常識と仏教的解釈

どっぷりと我々が浸りきっている「常識」とは、地域限定・時代限定の全く普遍的とはいえない代物であることは、少し視野を広げたらすぐにわかることであります。それでも、それを「当たり前」という穢らわしいともいえる一言でかたづけて、自分こそが世の常識という面を下げる人間が後を絶ちません。一歩外国へ出ても、ちょっと時代を遡っても通用しないことを平気で主張する、そんな「邪見の輩には群すべからず(道元禅師/修証義・総序)」であります。



ひろさちや/「こころの健康法 苦を苦にするな」/小学館より
  


  • こころの健康法 苦を苦にするな/小学館
  • 子育てに関する非常に示唆に富んだ考え方遜文侍の文章世界(essay)の中で、別途抜粋しました。こちらから。


    ●以下、日本の日常どこにでも見かける普遍的悩み(一般常識)の問いに対する仏教的回答であります
  • 人間不信の世の中、どうにかならないか・・→ 自分の身は自分で守るしかない
    「嘆いてももう手遅れです。日本を経済優先社会に変えようとしたときにわたしたちはこういう日本になることを覚悟しておくべきでした。
    経済を優先させて都会型社会、競争型社会を作れば、必ず人間不信になるのです。嫌な世の中になるのは目に見えていたのです。では、どうすればよいか。どうしようもありません。(略)
    今後ますます「毒入り事件」のようなものが増えるだろうと思います。だって、考えてみてください。もともとスーパーというものは、経済効率だけを考えて作られたものです。本当に人間的な買い物は、客とお店の人が徒話をしながら、心の交流をもちながらなされるものです。(略)
    その
    人間不信の事物を利用しておいて、しかも人間不信を嘆くのは虫が良すぎますよ。疑心暗鬼になって当然です。いや大いに疑心暗鬼になってください。そして、自分の身は自分で守ること。安易に他人を信じてはいけません。それが嫌というなら、まずあなたは、(略)心のこもった会話をしながら、人間的な買い物をしてください。そうすると、人間が信用できるようになります。」
  • お手軽料理と家族のバラバラ生活、何とか改善したい・・・→ 家族全員がそろって食事をするために共働きをやめること。極めて単純な世界の常識中の常識
    「サラリーマンの家庭で、現在は楽しい食事がないのですね。まことにおかしな現象です。父親は残業、母親はカルチャーセンター、子供は塾に行って、
    家族揃って食事をする機会が滅多にない。それが日本の平均的な家庭なんでしょう。これは高度経済成長社会がもたらした悲劇なんですが、日本人はその悲劇に気づいていません。悲劇に気づかない悲劇だから、ダブル悲劇です。(略)
    こうした日本人の食生活を改善するにはどうしたらよいでしょうか・・・。方法は簡単です。まず、家族の全員が食事をするようにすればいいのです。そのためには、共働きをやめればいい。そして、子供の塾通いをやめるといいのです。そんなことをすれば、収入が減って貧しくなる。美味しい食事ができなくなる、といわれるかも知れません。けれども、おいしいものは食べられなくても、おいしくものは食べられます。(略)家族が笑顔で食事をすれば、どんなものを食べてもおいしくいただけます。それが最高の幸福なんです。」
  • (マスコミで日々目にする)環境ホルモン問題に翻弄されているのですが・・→ 環境ホルモン問題などという個人の力の及ばない問題は忘れること。どこが元凶か考えよ
    日本型の資本主義は企業中心の資本主義です。個人の生活よりも、企業の利益、企業の存続・発展が優先的に考えられているのが日本型資本主義です。少なくともこの日本型資本主義をぶっ壊さない限り、環境問題の解決はありません。(略)
    そうだとすれば、環境問題を個人の力でもって解決することなど、所詮不可能ですよね。では、どうすればよいでしょうか。わたしは、環境問題など放っておけばいいと思っています。資源の節約だとか何とか、いろいろやかましくいう評論家がいますが、資源を浪費しているのは大企業です。それをいわずに、われわれ市民にお説教をたれる彼らの厚顔ぶりにわたしは辟易しています。」
  • (青少年の信じがたき短絡的殺人事件が日々報道され)命の尊さがわからなくなっている時代と思うが・・→ 全人格的としてとらえず、「機能」としてしか人間を見ていないためである
    「現代の日本社会は、なんだかおかしな社会になってきています。一言でそれを言えば、人間不在なんです。あるは人間が機能化・ロボット化されているといえばよいでしょうか。(略)
    家庭も同じ。親が子に期待するのは、勉強をする・いい成績を取る・一流大学にはいるといった「機能」だけ。逆に、子供が親に求めているのも、食わせてくれる・小遣いをくれるといった「機能」だけです。そして、われわれが友人や仲間に求めているのも、話を聞いてくれる・話し相手になってくれる・デートしてくれるといったような「機能」だけです。恋人の存在は、ときに友達に向かって、わたしはこんな恋人を所有しているのよと誇示できさえすればそれでいいのです。こちらの都合に合わせてさっと消えてくれた方が便利がいい。そういう機能として私たちは人間を見ています。」
  • ダイエットが続かないなど、三日坊主を何とかしたい・・→ 本当に必要なものではないから三日坊主なのである
    ダイエットもする必要はありません。いつか山手線でダイエットに成功した女性を見かけましたが、針金のような足は痛々しくて見ておれませんでした。胸もぺちゃんこ。若い女性なのに老醜が漂っていました。(略)
    その必要のないものを、長続きさせようという人は、どう考えても馬鹿の骨頂です。」
  • 私は真面目一筋の会社人間です。ストレスで医者にかかり趣味をもてといわれましたが趣味がないのです・・・→ そういう人間は救われない
    「まずあなたは、救われませんね。たぶん、ストレスで早死にするでしょう。早死にしたあなたを、それでは会社は殉職者ということで、未亡人にすごい功労金をはらってくれるでしょうか。「ノー」だと思います。(略)
    早死にしたって良いとあきらめなさい。(略)
    あきらめると、少しはストレスも減るはずです。だってそうでしょう。仕事によってストレスが溜っています。そしてそのストレスをなくすには仕事をやめる以外はないと教わって、ストレスを没くそうとするストレスを感じています。その既往症のストレス(ストレスをなくすためのストレス)が余計なストレスです。そのストレスだけは、明きらめによってなくすことができるのですから、それがいちばん妙策ですよ。まあ、おあきあらめなさい。」
  • プラス思考になれなくて困っています・・→ 馬鹿やって下品に笑って自分を売り込むタイプがプラス思考と勘違いしてはいないか
    「世間で流行している意味でのプラス思考と、佛教の教えはずいぶん違っています。仏教の教えはむしろ「マイナス思考をするな」といったほうがよさそうです。あるいは、「自分を否定するな、自分を大肯定せよ!」と言った方がよい。(略)
    自分を変える必要はありません。
    自分を変えようとするのは、自分を否定しているのです。自分を大事にせよ、自分を肯定しなさい、というのが仏教の教えです。(略)
    仏教の教えを端的に言えば、私は「諸法実相」だと思います。(略)
    換言すれば、宇宙に存在するすべてのものが最高の価値を持っているということです。(略)
    ちょっと表現を変えると、これは「なんだっていい、どちらでもいい」となります。どんな人間でもいいのです。美人・不美人のどちらでもいい。陽気な性格でもいいし、陰気でもいい。(略)
    だとすれば、いわゆるプラス思考の出来る人はそうすればいいし、プラス思考の出来ない人は無理にそうなる必要はありません。」
  • セックスレスに悩んでいます・・→ 夫婦を繋げる最尊最上甚深不可思議なものがセックスである。ただ二人で抱擁するだけでいい
    結婚生活においてセックスがいかに重要であるか、わたしは、いくら強調しても物足りないと思います。(略)
    人間は動物と違う。だからこそ、人間にとってセックスが大事なのです。(略)
    セックスを嫌う夫婦はどこかおかしいのです。もしもかりに、夫婦のどちらかが、疲れたからセックスをしたくないと考えているとすれば、それは疲れるような生活をしている点に問題があります。疲れないように残業をやめるとか家事を減らすとかするべきです。(略)
    じつは、日本人はセックスについてもうひとつ大きな誤解をしています。それは、どうやら日本人は、セックスといえば性器の結合及び挿入、よりあからさまにいえば射精のことだと誤解しています。(略)
    夫婦が夕食後、しばらく読書をしたり仕事をした後、二人が寝室に入ります。ネグリジェ姿で音楽を聴きながら、軽くブランデーを飲む。そして二人が軽く抱擁する。三十分か一時間、二人がそういう結合の時間をもつ。それが前戯です。そして、それがセックスなのです。それだけで終わってもいいのです。その後は自由です。」
  • 不妊により周りからのプレッシャーが辛い・・・→ それだけ人生やって未だに子どもは授かるものであることさえわからぬ、救いがたき低精神性の日本老害衆
    「どうしてこんな社会になったのでしょう。その原因の最たるものは、わたしは、親が子どもを「つくる」という考え方にあると思います。いまの日本人は、子どもは親が自分の意思で作るものだと思っています。「結婚したばかりだから、子供をつくるのはまだ早い」とか、「もう、ぼちぼち子どもをつくろうか」といったふうに。しかし、
    子どもは親がつくるものではありません。昔の人は、子どもはほとけさまから「授かる」ものだと考えていました。だが、最近の日本人に「子どもは仏さまから授かるものですよ」と言いますと、「でも授かった以上は親のものでしょう」と、所有権の主張をしかねません。それでわたしは「授かる」というのものやめて、子どもはほとけさまから「お預かりする」ものだと言っています。ほとけさまは夫婦に、この子を幸福にしてやってね・・と、預けられるのです。」
  • ペットの急死から立ち直れません・・→ 現実を受け入れられないことの実体は、何のことはない、自分への執着である
    「まず、愛の中にある利己心に気づいてください。夫を自分の都合に合わせて愛する、娘を自分に属するものとして愛する、ペットを自分の所有物として愛する、そのような愛は本質的にエゴイズムだと気づいてください。娘には自由に行動する権利があり、ペットにも自由に行動する権利があります。ということは、ペットには死ぬ自由があるのです。ペットが死んだから悲しむのは、飼い主の傲慢であり、利己心でしかありません。その認識の上に立って、次に、真実の人間関係を築いてください。(略)
    真実の人間関係は甘えではありません。また打算的な結びつきでもありません。お互いが相手を人間として認め合って、赦しあっている関係です。」
  • ぼけた義母をみていると幸せなことなのかどうか・・→ そのまるごとの存在を肯定することが唯一の幸福への道
    「目が見える人は幸福で、目が見えない人は不幸だ、なんてことはありません。目が見える人のうちにも、不幸な人はいっぱいいます。目が見えないけれども、幸福に生きている人もいっぱいいるのです。わたしたちは、どうも人間をロボットのように部品で組み立てられている存在に思っているのではないでしょうか。部品の寄せ集めと見るから、頭の悪い人間より頭のいい人間のほうが上等で、目が見えない人より目が見える人の方がいい、足の不自由な人より健脚の人がよく、心臓の悪い人より健康な心臓の人のほうがよい、といったふうに判断するのです。(略)
    人間は「まるごと」の存在です。わたしたちはほとけさまから、この「まるごと」のわたしという存在をお預かりしているのです。(略)
    わたしといった存在、自分といった存在は、ほとけさまからお預かりしているものです。(略)
    わたしたちはお預かりしたままの自分を、そのままお預かりしなければならないのです。(略)
    わたしたちはみな、いまある、そのままで幸福に生きることが出来るのです。怠け者は怠け者のそのままで、目の見えない人は目の見えないそのままで、幸福に生きることがでます。それなのに、わたしたちは、ややもすると自分はこのような欠点があるから不幸だ、と考えます。そして他人をうらやましく思うのです。そいういう考え方でいる限り、わたしたちは幸福になれません。」

2006年2月25日土曜日

「他力」という考え方

「本願他力」。
通俗的に使用される他人任せという意味とは全く異なる、その発想の革命、宗教とはこのこと也、ともいえる極めて重要な思想であります。

  • 他力思想は他「人」任せというちっぽけな話ではない
    他力本願という揶揄的な表現ははやりの「自己責任」の対極として使用され、その意図するところは他人任せ、自分の行動に責任を持たない無責任、というところでしょう。
    少し昔に五木寛之さんの「他力」を読んだときはもう一つ言っている意味が分からなかったのですが、こうして仏道を学ぶ中、特に浄土門の考え方に触れていく中で、他力というのは全くそう云うことではない、非常に宗教的精神世界的には重要な考え方であるということが分かってきたのです。
    他力とは、他「人」任せということではありません。人間というような小さな存在ではなく、処により「神」「仏」「大いなる意志」「宇宙意志」と言われるような時間や空間を超えた、目に見えない壮大なる存在の力を認識し、それを肯定して踏まえた上で行動をし生きていく、それが他力思想だということであります。
    つまり、他人任せや無責任というような人間同士の社会規範の中での狭義の話ではなく、もっと個々人の内面の思想を意味するのです。
  • 計り知れない湧き出るような精神の高揚自力思想の固まりのような考え方で、自分の無能を呪い、自己嫌悪に落ち入り、苦悩しながら今日まで生きてきた私ですが、常に漠然と人間には計り知れない大きな存在については意識をしていました。
    ここにきて、他力とは自分の中ではこのことだったのかと、実際の経験の中の例で置き換えることができるようになり、痛く感激した次第です。
    私が信条としてきたことに、「これだ、と直感したものは、何よりもそれを優先させてとりかかる」ということがあります。
    「思い立ったが吉日」「満を持しての・・・」という言葉に近いのでしょうか。例えば、このサイトの中に詰っている文章、音楽、そしてこのサイトを作ろうと動いたことも含め、みなそういう過程を経て成立したものばかりです。つまり、計画的にいつこれをやってこれをこういう意味があるからこのように今度作ってみよう、というような感じでできたものではありません。何より、心の底から「今こそそれをやるべきた、こうやればよいのだ、やり方がわかったぞ!」という閃き、直感というものがあって、湧き出るような感覚が私を動かしたのであります。
    それは激情ともいえる並々ならぬ精神の高揚です。
    これは、今夢中になっているものがなくて手持ちぶさただから、○○でもやってみるか、とかこれもおもしろそうだから手を出してみるか、という次元のものではありません。また、夢中になれるものはこれに決めたから頑張るぞ、とか、これに一心に取りかかってみせるぞ、と自ら決断を下しても、その高次元の精神高揚は実現しません。
    つまり自力でいくら思いこもうとしても無理なのです。
    自分の意志でコントロールできる範囲外の話なのです。
  • 他力を感じた瞬間を大切に
    ですから、そういう状態が一気に沸いてくるというのはそうざらあることではなく、だからこそその状態が発生したときはその気持ち・モティべーションをいかに大切にするか、その稀少さは痛いほど分かっているのです。実現するためには寝食を忘れてもやる価値があると経験的に認識しているのです。
    そしてその行動については未だ一度たりとも失敗の結果に終わったとかやって後悔したとかいう念に捕われたことはございません。満足だけが残るのです。
    後で振り返ってみると、いやはやよくもまあこれだけのことをやったものだと、我ながら感心し、自力の120%位が発揮されていることに気づいて驚愕するのであります。曲作りにしても、小説書きにしても、旅にしてもそうです。もっと卑近なものとしては買い物をするときのインスピレーションについても同じような経験があります。
    自分のコントロールできないものを明確に自覚し、その前向きな力を得る経験は、頻繁にあるわけではありませんから、その縁を大切にすること、それが重要と考えます。
  • 自力と他力は両輪であるただ、一つ言えるのはそれらは無の処から生じたものでは決してないと言うことであります。
    今までの自分の蓄積があって、実になるもしくは花が咲く瞬間を迎えることとなった、そんな感じです。
    また、思い立った後の実際の行動は、まさに自力がものを言います。頭脳で試行錯誤を反復し、構築するために必要なものを洗い出して順につぶしていく作業は自力そのものです。
    早い話が、自力だけ、他力だけ、ということはなく、ここでも仏教の根本原理である中道に行き着くのです。両者の和がすべてです。
    我々現代人は特に自力思想に偏りがちです。目に見える科学が優先されすぎた結果だと思います。学校でも他力的な発想を学ぶことはまずありません。自力偏重は結局は競争社会や精神病の根源となっていきます。他力が存在するにも拘らず、それを完全に無視すれば当然の帰結とも言えます。真理が見えていないわけですから。
    他力が存在するからこそ、人生は思わぬ展開だらけではないですか。自分の意志だけでコントロールしているなんていう考えは思い上がりであります。そこからは、自分が思い通りにならないのは、他「人」が邪魔するからだという発想しか生まれてきません。または、自分が無能だからだ、努力が足りないからだ、という自分否定の発想です。
  • 三毒を制して生きる智慧
    三毒の煩悩(貧瞋癡)を考えますと、どれもが実は自分でコントロールできていないことの表層現象であることがわかります。
    貧瞋癡は「自分の思い通りにさせる欲望を貪る」「顔や心で怒る」「愚痴を漏らす」という毒でありますが、怒るということを考えてみます。子供を「叱る」ということは必要であり、その際叱る側で大事なのは心は平静にした上で諭すということであります。それに対して「怒る」というのは、感情に振り回されもはや自らコントロールを失っている状況であります。躾と称する児童虐待は言うまでもなく、街中でもしばしばそんな醜態を曝している母親を目にします。そんな怒りに基づく言動は、子供には良い影響を与えるはずはなく、効能もあるはずがありません。
    それがオコル、イカルことであります。
    この愚鈍な所業を常に自覚し、認識し、内省して生きていくことが、煩悩に振り回されがちな人間の心から自らを解放する唯一の方法ということになるのでしょう。
    怒る自由があるんだ、怒鳴りつける自由があるのだ、それは相手が俺に迷惑をかけるからだ、という大馬鹿者がこの日本には蔓延していますが、そんなものがあるわけがありません。
    何も束縛というのは、社会制度だけの専売特許ではないのです。社会制度上(法律上)禁止されていなければそれが自由である、といっているのでは、あまりに人間の歴史、この世の普遍の事実を知らなすぎます。木を見て森を見ていません。
    自らの内にある愚かな感情、醜い感情の奴隷となってしまい、そのことを自覚せずにしかめっ面をして生きる人間の方がよほど問題は深刻であります。心の平安、幸福というものがその人間に訪れることはまずないでしょう。常に他人及び自分を悪として捕らえ続けるのでしょう。
  • 人間の普遍性を思えば、他力思想を思惟せざるを得ない
    「fight rom inside」というロジャーテイラー作曲のQUEENの名曲がありますが、人間として生を受けた限り、いつの時代いつの世界でも絶対的なことが一つあります。人間という身体と精神を備えて存在するということであります。仏教では色受想行識の五蘊として明確に規定し、それを前提に皆話を進めています。
    当然すぎるこのことを忘れてものを考えるからおかしなことになるのです。
    その大原則を押さえているということだけでも、仏教の偉大さ、なぜ数千年の歴史に耐えてきたのか、はっきりします。
    それを抑えて、人間の所業を分析すれば、すべての因縁生起により世の中が繋がって存在していることが自ずと明確になり、更にそれを大きく抱擁する何か、自力以外のものがあるという結論に至らざるを得ないと思うのです。
    より大きな視点で自分たちは何なのかとらえていく上で、これからの人生を如何生きるかを考える上で、大きなヒントとなる発想の有力なものの一つが、「他力」の思想である、そう私は捉えています。

2005年12月16日金曜日

高瀬広居 ~共感した名文・名文句~

宗派を超えて、今の世に生き残っている真の名僧10人を訪ね歩いて、その声を記録した高瀬広居氏の功績は大きい。また、彼自身が浄土宗の僧籍をもちながら、寺の僧としてというより、本来の僧としての法を説くことに専念(私塾「疎石会」主催)しているところが好感が持てます。


  • 日本人のこころを育てた仏教の大河 お釈迦さまから創価学会まで/展望社
  • 仏教を知るにはその多種多様な発展系を知った上で考える必要あり「「私のウチはナムアミダブツでね」と言っても、いったい浄土宗なのか浄土真宗なのかもわからないまま「仏教はね」と言ったところでなんの意味があるのでしょうか。また、法然や親鸞、道元、あるいは日蓮といった優れた宗教家が求道した仏教が、お釈迦さまの教えのどの部分を吸収し発展させたのかわからずじまいでは、仏教にコミットした人間とはいえません。」
  • 日本の文化は仏教が軸となり発展してきたと言っても過言ではない
    「源氏物語に登場する怨霊や地獄の思想、愛欲と無常の葛藤、因果応報は、まさに密教と浄土教の文学とさえ言えそうです。平安文学は仏教文学といってもよいでしょう。また、源平の興亡を描いた数々の作品、とくに「平家物語」は鎌倉時代の浄土教文学です。(略)
    能の世界も妄執と死霊と暗い人間の魂を密教的な立場からつくりあげたものです。世阿弥の思想は死を見詰め、人間の闇をさぐる鋭い仏教の眼に支えられています。(略)
    仏教を離れて日本の思想と文化は理解できません。作動も書も、あるいは言葉も文章も、日本独自といわれるすべては仏教の智慧から学びはぐくんだもの。「般若心経」を読み、天台止観を学び、経典や禅を理解せずには日本文化の土台は分からないと言ってもいいでしょう。」
  • 現代の名僧を見分ける方法
    「怪しげな民間信仰と結びつき、現世利益を願う民衆の願望に取り入り、権力に媚て世俗的な栄誉を貪る。そんな大多数の僧侶や寺院教団の流れとは別に、真の仏法を求めて苦闘し、法脈を生かそうと努力した僧侶の流れは、戦国の世から明治時代にかけても引き継がれていきました。しかし、その数は決して多いとは言えません。(略)
    現代はどうでしょうか。名僧とは、地位などの条件とは関わりなく、
    求道の真剣さ、仏教思想の深さ、教化力の高さ、清潔な生活、権力や世俗やマスコミに媚ないと言った条件から選ばねばなりません。残念ながらその数はたいへん少ないのです。(略)
    現代のマスコミに踊らされ、政財界と親しい僧はだいたいが「偽善僧」と見てまちがいありません。」


  • ブッダの泉 心にひびく50の聖句/展望社
  • (法句経394)髪を結ったり、高価な衣装を身にまとって、それで自分は他の人よりもすぐれている、立派なのだと思いこんでいるのだろうと、ズバリと切り込んでいます。(略)世の中を見ていると、じつにこういう人が多いと思うからです。(略)
    もし幼い頃からそういうものを身につけて喜んでいるようなら、中身の空っぽな、虚飾にまみれた高慢な人間に育っていくことでしょう。(略)
    外側ばかりを飾るのではなく、心の内の煩悩を断ち切って、内側から清い人間であるようにならなくてはならない、外見や見栄を捨てよ、と教えているのがこの法句です。
  • (スッタニパータ98、124)若い夫婦も子供を育てていけば、自分の親たちが自分を育ててくれたときにどんなに大変だったかわかるはずです。その父と母が老いてきた。(略)金銭的、精神的に父母を助けよう、いままでの恩を返そう、そういう気持ちになるのが、人間として当然だと思います。しかし、老いた父母からお金をもらっている三十代、四十代の子供がいます。なぜ平気でいられるのでしょうか。ローン返済にお金が必要だというなら、老親に負担をかけない道を探せば良いではないですか。
  • (スッタニパータ205、206)清らかということと汚いということは別のものではないのだということを、お釈迦様は教えておられるのです。美しいから偉い、汚いから悪いという価値観、差別感を持ってはいけないということです。健康で、鍛え上げられて、磨きのかかった素晴らしい肉体というものも、一皮むいてみたらどうだろうか。どろどろとした汚物が充満しているではないか。
  • (雑阿含経36)夫と妻、親と子というのは一見別々なもののように思えますが、じつは、夫には妻の影が映っているし、子供には親の姿が反映されているのです。現代の人はあまりそういうことを考えません。(略)
    何か事件が起こると、うちの子に限って、といいます。ところが、先生やまわりの人たちは、あの親にしてこの子あり、当然の結果だと見ていることが多いのです。
  • (増一阿含経11)「もし人ありて反恩を知る者は、この人はうやまうべし」なぜ、私たちが生きていく世の中には、恩を知るとか、恩を返すということが大切なのでしょうか。それは、私たちがひとりきりでは生きていけないからです。(略)
    一枚のシャツでさえも、それをこしらえあげた他人のおかげをこうむって生きているのです。しかもあなたは、それらを誰がつくったのか知らないでしょう。そのように、私たちは全く縁がないと思われている人々の力に支えられて生きているのです。それを仏教では「無縁の慈悲」と呼びます。(略)
    そのように互いが恩を知るという気持ちになることが、世の中が円滑に行く最大のキーポイントになるのではないでしょうか。
  • (増一阿含経40)「もしわれおよび過去の諸仏を供養するものあらば、我に施すの福徳は病を診るに異なるなし」あちこちの寺へ行って仏像に手を合わせ、お賽銭をあげて、御利益をくださいと祈る閑とお金があるくらいなら、苦しんでいる病人のところへ行って助けてあげなさいと、お釈迦様はいわれているのです。仏教で最も大切な布施行の実践です。
  • (スッタニパータ890)相手の言い分を認めず、尊重する心のない姿を愚かというのだ、つまり、聞く耳を持たない人が愚劣なのだ、というところからスタートしているのです。(略)
    お釈迦様の愚者、愚劣という教えの中には、
    自分は愚かであるということに気がつけば、もうその人は賢い人になりうるのであって、決してその二つを別々に分けて考え込み、落ち込むことのないようにという、やさしさの教えがここに含まれているのです。
  • (中阿含経67)人生にはいくつかの節目というものがある。もっとも大切なのは、仕事をほぼやり遂げて身の引き際を選ぶ時期を逸しないことである。(略)
    おのれの地位権力に強いこだわりと欲を持ち続けるとき、人は引退隠棲の決断を鈍らせるものだ。
    いつまでも現世欲に縛られて阿修羅の営みを続けるものは愚かといえよう。
  • (長阿含経2-4)「七つの滅びざる法あり」お釈迦様が説かれた国家繁栄論であり、それを裏返すと国家滅亡論になります。(略)みんなが集まって会議を開き、和やかに語り合いながら民主的に運営していくような国、そして、古くから定められている倫理を守り、年配者を敬い、その知恵を学び取る。女性や子供のように力弱き人には決して暴力をふるわない。祖先を大切にし、伝統と歴史の尊さを知る。昔から続いているしきたりや法があったときには無理に廃止せず、これを今の時代に生かしていく。そして学問や知識、知恵のある人々を大切にする。それは他の国からやってきた人であっても同じように住居を提供し、大事にする。これらが守られている国は、繁栄するであろうと、お釈迦様はおっしゃるのです。
  • (雑阿含経34)「一切のつくられたるものは無常悉くみな生滅の法なり」無常ということは厳然として、宇宙の中に存在する人間の生命の本質を言い表していることだというように、人間の生き方の原理として、この無常というものを私たちは受け入れていくことが大切です。今の日本人は、生きていることは素晴らしい、元気なのはいいことだというように、たくましく生きることだけに目を注いで、この無常というところから目をそらしているという臆病さ、卑劣さが強くありすぎると私は思います。もっともっと、日本人は無常なるが故に、いまある自分の大切にするというところにスタンスをおいて、生きていかなくてはいけないのです。
  • (雑阿含経12)「縁起法とはわれの所作にはあらず また余人の作すところにもあらず 然してかの如来の出世するも出世せざるも 法界は常住なり」ここに、仏教と他の宗教、キリスト教やイスラム教との大きな違いがあります。(略)
    仏教というものは、キリスト教やイスラム教のように、神という存在があって、その神の啓示によってひらかれたという宗教ではありません。また、イエスという神の子が、あるいはムハンマドが、神というものの意思と命令に従って、つまり預言者として、この世に出現して教えを説いたというものでもないのです。その違いがお釈迦様の「無師」です。(略)
    仏教の世界には神は存在しません。(略)これは、仏教が非常に科学的だともいえることです。(略)
    人間が生れ生きて死んでいく中で受ける苦というものの根本原因を探し求めようとしたところからスタートして、人間をはじめとして一切の生きとしいけるものすべてを含む広大な自然、さらには夜の星、輝ける太陽といった大宇宙を見つめることによって、これらを動かしているものはこれだというところに行き着いたのです。それが、「
    全宇宙を貫いている真理は、縁起である」ということでした。(略)
    つまり、すべてのものは寄り集まっているということであり、一切は無常であるということの原理を私たち自身が、正しい真理なのだと納得しないと、苦からは離れられないということをおっしゃったわけです。宇宙物理学者が研究を深めていけば、やがてこのお釈迦様の説かれた、仏法という世界が、じつは、全宇宙を貫く真理であり、それは無常と縁起であるというところにやがて到達するのではないかと私は思います。(略)
    一神教の世界における絶え間ない争いは、自分の信じている神のみが正しいという信念によって引き起こされていますが、お釈迦様は、一つの特定の神或は仏が正しいなどということは一言も説かれていません。お釈迦様が説かれたのは、自分がつかみ取った
    真理は「縁起」と「無常」であり、これは宇宙全てが同じ法則の中に存在しているのであって、その理法に背を向ける生き方をすると苦が生ずるのだとおっしゃっているのです。
  • (法句経304)不善の人には、(略)教えを聞いても、闇に放たれた矢と同じで見えないのだというのです。(略)
    この法句にある不善の人とは、決して道徳的な意味で言っているのではありません。いろんな学問、教養、知識、あるいは自分の持っている名誉、財産、そういったものを、自分自身の最も大切なものであると思いこみをしている人たちのことを、不善の人といっています。つまり不善の人とは、
    自利に捕われ、自らの利益しか見えない人、そして理性とか知性というものに偏重しすぎている人、さらに情緒的にしかものを見ない人、感情的に行動を起こす人、そういう人をひっくるめて不善の人とお釈迦様はおっしゃっているのです。現代日本は飽食と利欲の世界になっています。こんなに科学やITが発達している世の中であっても、いまだに、あちこちでおまじないをしてもらったり、祈祷をたのみ、おみくじを引き、占いに凝って、もっともっと利益を得よう、自分だけはいい思いをしたいと願う人が大勢います。そういう人にはヒマラヤのような仏法の輝きは見えません。


  • 仏音と日本人/PHP研究所
    現代日本に蔓延る信心の失われた仏道に対して厳しい視線を投げかける高瀬広居氏の言葉は、やはり本物の言葉である。
    般若心経に対する考察などは深い。そして、正しい。
  • 法然の革命~浄土門は果して易行なのでしょうか浄土門は易行道というが、知識・学問のある人がその学識や知恵をすべて捨て去って念仏のみ申すという境涯に行き着くことは、およそ難事といえよう。それはすべての現代人を見れば一目瞭然ではないか。メディアに踊る人々はみな「知者のふるまい」に耽溺しきっている。真言密教や天台教学の深淵高度な仏教哲理や祈祷行法に専念する当時の指導層にとっても、法然の「還愚」と「修行・修法放棄」、さらには神社仏閣さえも捨て去るべしという易行念仏は、まさに邪悪なる教えと映ったのも無理はない。
  • 道元「感応道交」の世界~アンチ癒しブームを掲げる私は、この思想に出会った感激は計り知れません道元は「仏性」をみつめ「悉有仏性」の世界観によって、あらゆるこの世の働きを同一化していく。仏をたのむとか、すがるとかいうことではなく、あるがままの全天然、人類がその実相において「仏」であるという仏教哲理は、道元によって日本に確立されたのである。(略)
    エコロジーとか自然を大切に、などという浮ついた「癒しの自然愛」などとは比べようもない、人間の根源に目差を向けた哲理である。それを、いまの日本人は忘れ去って
    人間と自然とを別物とし、そこへ帰るとか、懐かしいとかたわごとをいっている。道元からすれば、いまの自然愛とか自然回帰など唾棄すべき偽善としかいえないだろう。
  • 葬儀時だけの形だけの念仏などはまさに無信称名であり、蓮如は白骨の章で厳しく戒めています当時も今もそうだが、口先だけの念仏者は多い。葬儀などで導師が「同称十念」というと、会葬者は声をそろえて念仏を唱える。それが亡き人の冥福を祈ることだと思いこんでいる。もちろん、自分の往生など棚上げにしている。それが「無信称名」である。真宗の信徒にもそうした誤信が広がっていた。蓮如の使命は、祖師親鸞の教えを純粋に伝え広める「親鸞回帰」、真の念仏の復興にあった。
  • 大概の宗祖は宗教集団の形成など考えているわけがないのです(新興宗教との歴然とした違い)親鸞には立宗の意志はなく、いうところの「浄土真宗」とは、すべては彌陀の本願力を宗とするの意であって、宗派僧団を意味するものではなかったにもかかわらず、祖師没後二百年を経て、信州新との巨大宗団が形成されてしまっている。いわば親鸞に否定されていた宗団・門徒・流派の弊害が起こり、念仏もまた歪曲されていったのである。蓮如の念願はそれを原点に引き戻すことであった。
  • 神道は所詮政治思想であり、霊性を備えた宗教思想としては、鎌倉時代以降の仏教こそである(第二次世界大戦)当時日本は、西欧文化を物質文明のとさげすみ、日本の精神主義を無比のものと誇り、その源泉を皇室神道に求めていた。しかし、大拙は伊勢神道の根拠となる「神道五部書」を厳密に検証し、「神道は元来が政治思想であって・・・霊性そのものの顕現ではない」と否定し、さらに歴史を遡って万葉・平安時代には、まだ霊性を見いだすだけの機会に恵まれていないと断言する。博士のいう「霊性」とは、もっと大地性を持った宗教的、普遍的霊性であり、しかも、その霊性を宗教思想として深め覚醒していくには「外来」といわれている思想や情緒に「接触し、これを摂取して自ら育て上げねばならぬ」と指摘する。(略)
    奈良・平安時代に空海や最澄は仏教を学んだが、現世利益と観念的遊技の段階を脱していない。「清明心」はあったろうが、ほんとうの宗教意識の目覚めではない。「鎌倉時代になって、日本人は真の霊性の生活に覚醒されたのである」。その宗教的衝撃とは「禅」と「浄土教思想」である。
  • 科学や文明賛美を疑わない現代人に、沢木興道師から一撃「今の科学的文化は、人間のもっとも過当な意識を元として発達しておるにすぎぬということを忘れてはならぬ。文化、文化というけれど、ただ煩悩に念が入っただけのものでしかないじゃないか。煩悩のシワが、いくら念が入っても、仏教からいえば進歩とも文明ともいわぬ。こんな利口ぶって、こんなにバカになってしもうたのが、人間というバカ者である。人間の役に立つものは、みなゆきづまる。偽りとは人為(つくりもの)ということだ。ツクリモノの世界はいつでも変わるに決まっておる。文化とはツクリモノが発達したにすぎぬ。だから文化とは悲劇である。」
  • 仏道が在家の宗教として成り立つ理由「人間の宗教」である以上仏教は当然、世俗生活の経済にも目を向け「仏教経済倫理」を展開する。「大品般若経」に「菩薩訶薩は、産業のことの法性に入らざる者を見ず」とあるように大乗仏教でも経済生活に積極的な宗教意義を認めている。(友松)圓諦師はその合理的かつ功利的な現実主義を、より古い「法句経」や「阿含経」をふまえて釈尊の経済生活に対する態度を鮮明にしていった。「中道とは戯論をすて、実際道に生きることである。増一阿含経の中に”一切の衆生はみなに由っての故にその生命を存す、食わなければ命うしなう””衆生に命根あり、形あり、食ありて則ち存す、食非れば、命済せず、sれば一茶衆生に施与すればその報無量なり”と布施の功徳まで力説されている。経済生活を手とし、性欲を肯定する一般大衆に”煩悩を断滅、減去せよ”と説くのは釈尊の教化の道ではない」では、なぜ多くの歴代仏教者は禁欲の精神主義を誇張し物質を賤しみ、在家生活者に無理を強いるのか。師の答えは明快である。在家の人々からの在世をいただき乞食せずに、寺の出家者独立生計できるようになり出世間、脱経済生活を送れるようになったからだという。だが、釈尊の教えは違う。「彼は世間の経済所得の財宝を汚穢なりとはしない」。
  • 橋本凝胤師の僧侶腐敗摘発は痛快肉食妻帯の僧侶を似非坊主と罵倒し、二十万人の僧侶を葬っても仏教は滅びないとまで断言し続けてて来た。「食えなんだら食うな、死んだら死んだでええ」師の口癖だった。「日本の坊主を認めん。やつらは仏弟子ではござらぬ。日本の不幸は指導者たるべき僧侶の荒廃にある。自己責任を持たない。西欧人も然りだ。彼らは自業自得ということを知らん。神が人間をつくったと思っとるから自分に悪業の原因をさぐらん。こうした宗教的人間を仏教は否定する」。
  • 原始経典を軽んじないことを心においておきたい確かに大乗菩薩道は美しい。その犠牲的行動の描写叙述は神秘的とさえいえよう。しかし、決して教祖たる釈尊の説かれた教法の根幹ー阿含・法句・経集を、軽んじ離れてはならないのである。念仏も禅も題目も「般若心経」の写経も結構だろう。が、つねに阿含、法句に戻って仏陀の真精神を汲み取る「仏祖の大道」を忘却してはならないと思う。「阿含経」は引用法句にもみられるように、まことに平凡きわまりない日常自然の営みのなかから教えを説かれている。私たちと同じ地平線に立って、現実の悩み多き世間の悲喜恩愛のうめきにやさしく応えている。空とか無とかいう哲学的な言葉は出てこない。むしろ倫理的で合理的で常識的でさえある。
  • 般若心経は凝縮された抽象的経文故に解釈を誤らないことが重要注意しなくてはならないのは経文の字句解釈はともかく、それらの講話や講義は百人百色、著述者、解説者の宗教的・思想的立場からそれぞれの解釈を下しているということである。(略)
    しかも、多くの日本人の手にする「心経」は唐僧玄奘法師の漢訳によるもので、その中には「度一切苦厄」の法句があるけれども梵語原文には見当たらない。「以無所得故」の五字も法隆寺の貝葉梵文には存在しない。ではどうしてそんな細かい専門的なことにこだわるのかといわれるかもしれないが、この経は観自在菩薩が自利の悟りとして「照見五蘊皆空」、つまり一切の現象が因縁によって成り立つという空の真理を智慧の徹底によって(行深般若波羅蜜多)照見したと告げているのであって、いきなり一切衆生の苦を救う利他行を説いているわけではないということを知っていただきたいからだ。もし「度一切苦厄」が「心経」の功徳だと思いこんだら、このお経はたちまちにして狭隘な御利益経に墜ちていってしまう。「
    心経」は「さとりの経」であって「すくいの経」ではないのである。(略)ほとんどの一般日本人は何十回も何百回も「心経」を棒読みしては「度一切苦厄」の利益を得ようと甘え、僧侶も都合の良いようなありがたや節の俗言を吐いている。(略)
    この経は御利益を与えてくれる呪力の書ではない。自己努力による深い叡智の探求を求めた経典である。

2005年11月8日火曜日

「仏音」最後の名僧10人が語る生きる喜び/高瀬広居 ~共感した名文・名文句~

自ら私塾「疎石会」を開き、伝導を行う仏道者高瀬広居氏が、昭和時代に老境に達した明治から時代を駆け抜けてきた名僧たちにインタビューし仏道を問うてきた、貴重な書。サイマル出版から表題で出版され、後に朝日新聞社はじめ文庫本としても「仏音」と銘打ってロングセラーとなった本です。

この本が他と決定的に違うのは、本を書くこととは無縁の超絶した人生を歩んだ本当の仏道者を拾い上げて、その言葉を訪ねていることです。自ら本を書くことは仏教者の条件では全くないため、こういうところに本物がいるのだ、と唸らされます。
宗派は皆違えど、とにかく半端ではない生き様は、その言葉がどれも究極が故に凄まじい迫力と緊張感を伝えてきます。




  • 高瀬広居(私塾「疎石会」主催)
    前書き及び合間の鋭い洞察。宗派を超えた「作家」や「大学教授」として世間に知られるのではない、本物の僧をよくぞ探して記録したと思います。
  • 知識人の代表者司馬遼太郎氏の言葉から「『今の日本の事態が、太平洋戦争に負けた事態よりも、もっと深刻な道徳的、倫理的試練にたたされているということに国民は気づいていない。ここまで闇の世界を作ってしまったら、日本列島という地面の上で国民は暮らしていくだろうが、堅牢な社会を築くことは難しいだろう』
    これは平成8年に急逝された作家司馬遼太郎氏が、亡くなる直前に行われた週刊誌の対談で述べた言葉である。」
  • 戦後の復興の後に残されたもの
    「だが、悲しいことに、その芯部では、人間にとってもっとも大切な利他心や羞恥の心、自責の念や繊細な精神の「炉心」は溶け、名利、打算、エゴイズムが砂漠のような欲望を駆り立てて、人間らしさを引き裂いてきたのだった。豊かになっただけ、それに比例して日本人は精神的空洞化を抱え込まなくてはならなかったのである。(略)
    いじめによる自殺は、戦後の人権と生命尊重の教育がいかに空しい、虚構に満ちたタテマエだけのものであったかを示していたし、マスメディアの無規律、無軌道は「真実の追究と伝達」などとはおよそ程遠い、単なる悦楽のみの機能にすぎないことも物語っていた。(略)
    あるものは氷のように冷たい恥知らずの打算だけである。これは明らかに、戦後日本人が謳歌してきた
    知的合理主義の惨敗であり、知力偏重の思想的破産といっても良いだろう。」
  • この本は本当に珍しい希少価値の本であると思ったのはこの点であります
    「本書は「仏知の宝庫」であり、般若の智慧に満ちている。私はそれを忠実に祖述したにすぎない。私の知る限り、今日このような書は珍しい。いま日本には、自らの血の滲むような求道生活を通して、求法を語る僧はほとんどいない。」
  • 寺の跡継ぎは単なる寺守でしかない。三宝の「僧」では全くなくなってしまっています・・
    「だいたい寺の跡継ぎでだらだらと住職になった人にはろくな坊さんはいない。第一に、なぜ出家の道を選んだか、という内的動機が欠けており、職業として自動的に年回法要儀礼の寺守としておさまっているにすぎない。第二に、迷える人、苦悩する多くの人々に仏法を説かない。説く力もない。」
  • 密教とは初詣でに栄える成田山や川崎大師を指すものではない
    「真言密教はとかく現世利益としてのみ求められることが多い。護摩札を好む日本人の習性もその一つだし、元日に成田山や川崎大師に数百万人もの人々が詣でるのはそのためであろう。しかし、密教とはそんな底の浅いものではない。山本(秀順)氏の説く人間と自然の一体性、一匹の虫にも積極的に生命を見いだしていこうとする利他心、愛他心、それこそが弘法大師の教えなのである。」

  • 【内山興正(曹洞宗・京都宇治能化院)
    早稲田大学西洋哲学科卒、二人の妻を亡くし、その後「宿無し」昭和の徹底的修行の禅僧澤木興道禅師の元40年間修行。
    その後も極貧のもと坐禅に浸る。
    著書は多い。堕落とは無縁の折り紙達人僧。1998年、86歳で遷化
  • 曹洞宗という権威の元でもこのような僧がいることが救いでしょう「この寺は曹洞宗永平寺派に関係のある寺ですけれども、実際には何も関わり合いはない。寺のつきあいも全くゼロ。要するに寺院付き合いっていうのは、早い話が、お葬式の同業組合でしょう。ここは檀家が一軒もない。葬式に関係のない寺ですからな。それに私は世間のことを何も知りません。知る必要もない。坊さん達が何をし、何を考えているか、宗門や宗派がどんなことをしているか知らないし、関心もない。ここにはテレビもラジオも電話もありません。(略)
    坊主の履歴も、
    ただ、澤木興道禅師について禅を学んだだけで、ほかに何もありません。」
  • 文明文化が人間の生活を高めたか、否。「私たちは日々、人類文化の恩恵をうけ、限りない発明、文明、文化の恩恵に浴している。しかし、それによって私たち自身が高められ、尊いものになったか。自分の真実にやすらうことができるようになったか、どうか。そうはいえまい。石のヤジリで戦う代わりに、原水爆やミサイルで大量殺戮できるようになっただけだ。洞穴に住む原始人類がそのまま高層ビルに住み、便利さに浸っているだけではありませんか。」
  • 企業で馬車馬のように働く人生はまさにこのとおりであります「しかし、どうせおだてられて一生懸命働いて、業つくばって、やつらは最後、紙屑のように捨てられる。そんなときね、私はつくづく企業体ってえのはバカなやつらだと思うんだが、早い話が、日本人ってえのは、犬みたいな性格を持っていて、企業に忠誠を誓う。そして捨てられる。使う奴も働く奴も自己が全くわからんのだな。この狂気、正気を失った人間に、正気を取り戻させるのが仏教なのです。」
  • お経を学ぶことの意味について「お経は、私にいわすれば説明書です。効能書ですよ。そう思ってみればよい。(略)
    要するに
    経を読むということは、自己を学ぶこと、生きる態度につきるのですよ。」
  • 親が子どもを育てる意味、人生を教える意味「子どもというのは、親の生き方、人生観の審判者であるとね。もし親の生き方が少しでも歪んでいると、子どもは大きくなってから、必ずそのひずみを指摘し、審判する。(略)
    いったいどう育てるのか。大学に出すために、と答える親がいる。これは白痴的回答です。
    大切なのは生きる態度だ。金が大切という態度を教えれば、子どもは親よりも金を選ぶ。立身出世を示せば、そのことのみに懸命になって人を傷つける。そうではなくて、本当の自分の生命を自覚し、その生命を発現しようとする態度を教えなきゃならん。」
  • 【葉上照澄(天台宗・比叡山延暦寺)
    東京大学哲学科卒、ドイツ語教授として大正大学教授や新聞論説委員を歴任してから、43歳で比叡山入り、44歳から7年かけて回峰行を達成。歴代39人目。年齢は最高齢レベルの大行満であり、全国に異常なまでの衝撃を与えた。1989年、86歳で遷化。
  • 下座のこころ「法華経の第七巻、第二十品にな、「常不軽菩薩品」というお経がある。回峰行の創始者相応和尚も、この菩薩に深く帰依していた。(略)
    仏になるためには、この「下座」を欠いてはならないということです。下座とはあらゆる人間を尊重する、人間礼拝や。(略)
    この自覚は人間自身を謙虚にする。人間を礼拝する心を植え付ける。菩薩はそれを実行した。(略)
    下座のこころとは、なにものにも代え難い積極的人生を生む。傲り高ぶった人間にはそれがない。
    宗教心とは下座心や。宗教とは何ぞやというて議論するインテリには、この心がいつまでたってもわからん。なんぼ知識をひけらかしたって、この心がなくては人間は幸せになれん。私は「もし自分の子どもや下のものに手を合わせてもらいたかったら、黙ってあなた自身が手を合わせなさい」という。手を合わせる心が仏心です。」
  • 一番だめなもの「一番いかんのは、大学教授とジャーナリズム。青年をアホにかりたてとる。もっと大人にならにゃいかんね。世の中の移り変わりの現象面のみとらえて、それを新しい社会像であるかのようにみせつけ、いかにも大衆をキャッチしとるようにいうが、ちっとも人間がみえとらん。それを思うと、私はじいっとしとれん気持ちに駆り立てられるわ。山にいると人間がようみえてくるだけに、苛立ちも強くなる。」
  • 【中川宋淵(臨済宗・静岡三島竜沢寺)
    東京大学インド哲学科卒、飯田蛇笏門下で詩を学んだのち、昭和新憲法の天皇象徴論を作った山本玄峰禅師の元でその後を継ぐ。臨済禅(公案禅)を地でいく海外布教に力を注いだ禅僧。1984年、77歳で遷化。
  • 南無阿弥陀仏は「ハレルヤ!」くらいの明るさを備えた言葉です「南無阿弥陀仏とは、無量寿、無量光の如来の命に帰依することです。計り知れない生命、無量寿ですよ。こんなめでたいことはない。だから、お念仏はめでたい。ところが、結婚式場で南無阿弥陀仏というと嫌われる。」
  • 性の自由について、名僧の回答「フリー・セックス? それで本当に楽しければよい。が、私にはそうは思わない。今日の性は濁っているだけだ。人間にとって欲は大事な力だ。食欲はものを食べる力、性欲は子を産む力、大切です。けれども欲にとらわれてはいけない。性の自由を叫ぶことは、セックスにとらわれてるんじゃね。性欲は他の様々な欲、力の一つの部分にすぎん。チンポコをあたまのうえにのせるようなことばかりしてたらいかん。チンポコは在るべきところにあって使われればよいのだ。」


  • 【塚本善隆(浄土宗・京都嵯峨釈迦堂清涼寺)
    京都大学東洋史学科卒、仏教研究のために6回中国へ渡航。母はインテリだったが無学の祖母の影響で浄土宗に帰依。京都大学名誉教授だが、ぼろ寺に住む。1980年、82歳で遷化。
  • 末法とはハルマゲドンとは全く違います「人間的自覚そのもののうちに末法はある。まえはよくて今は悪い、といった時間的、年代誌的な歴史観で末法をとらえるものではありません。だから、法然上人がいわなくとも、親鸞上人がおっしゃらなくとも、自己の生きる社会と生活に悪と罪とを見いだすならば、それが末法であり、その覚醒が在れば理想を求める心も生じてくる。末法、五濁悪世とは救われざる自己、そのことです。ここにたてば、ユートピアをめざす意欲、宗教的な理想追求の力がわいてくる。それがないということは、本当の終末や末法の自覚はないのだといってもよいでしょう。それが今の日本の現状です。夢のない空ろな「末法遊び」。経済成長に悦楽し、不況になって懊悩する、その変わりゆく妄執の自己を見ずに、終末も末法もありえないのです。(略)日本人にはそうした宗教的教養が残念ながら非常に薄い。」
  • 仏教は全く暗いものではない。暗さは江戸の悪政策の産物「葬式仏教」のイメージでしかない「祖母は無学です。だが、みんなのおかげと、人の仏性を拝む心を持ち、そこに人生の明るさを持っていた。仏教が日本に入ってきたとき、それはそれは明るいものでした。奈良の古寺を見てご覧なさい。朱に塗った舞台や柱があり、中央アジアの雅楽が演奏され、舞踊が繰り広げられた。死者に経を読むことなど在りません。暗いところに勇気はわきません。明るいから理想にもえるのです。信仰は明るく人生を過ごす原動力でなくては全く意味がない。」
  • 最悪は近代以降の宗教を抹消してきた日本の制度「母を見てわかるように、明治社会の近代化が大きな過ち、とりかえしのつかぬ失態をおかしたことです。それは宗教と教育を分離しなければならぬという近代法治国家の原則を表面だけ取り入れてしまったことです。ヨーロッパには日曜日に教会に行くという習慣が何百年も続いていた。日本にはそれがない。にもかかわらず、教育から一切宗教を排除した。これが致命的打撃です。」
  • 浄土宗僧侶への批判と原点回帰「法然上人は釈尊の教えに立っている。浄土宗の坊さん達はそれを忘れている。十万億土だ極楽浄土だと、それだけ確信すればいいなどといっているが、そんなことできるのはまれなことです。釈尊も現実の人間を肯定し、事実を事実として認めるところから出発されているし、法然上人も現実の人間社会を全体的に肯定し、酒を飲みたければ飲め、世の習いだ、目が覚めたら念仏せよ、と無理を強いておられない。釈尊も中道なら、上人も中道です。それが慈悲でしょう。しかも、お二人とも人間を離れて宗教を語っておられません。」

  • 【久保田正文(日蓮宗・東京仙寿院)
    東京大学文学部卒、大正時代に日蓮宗管長命令で英国留学、その後は学僧の道を突き進み法華経研究を究める。著書多数。1986年、90歳で遷化。
  • 日本人の無宗教の恥さらし「アメリカの宗教学者がよく私にいいます。日本の外交官はどうして無宗教であることを誇らしげに語るのだろうか。アメリカでは無宗教であることを決して尊敬しない。なぜなら、宗教心をもたぬ人間は、相手の心が分からぬからだ。」
  • 東大卒は増上慢の人間だらけ「政官界の人には東大卒が多い。(略)
    世間というもの、一般人というものを低く見て、自分だけが選ばれた人間だというエリート意識、増上慢に満ちています。見下した選民意識、これが日本の指導的人間を教育する基本理念だったのですね。だから
    東大コースの出身者にとって、宗教に救いを求めるような民衆は、愚劣、低劣な自分たちがみちびかねばならぬ穢れの人間に映るわけです。この人間蔑視がわが国のリーダーの無宗教を育てたのでしょう。」
  • 「折伏」はどこかの新興宗教の洗脳や強引な勧誘とは全く違います「よく折伏行といいますね。これは改宗、改心を要求することではなく、苦悩に停滞している人々に、まことの救いの道がここにあるのですよ、ともに成仏し、無上等覚の世界に入ろうではありませんかと、肩を叩き、進める行なのです。(略)
    けっして物理的な強圧でも、無理に引き込むことでもない。自分もあなたもそれぞれの苦しみに於いて救われるのだという、その発心を持つことなのです。」
  • 現世安穏とは「現世安穏とは、世の中の苦がなくなるということではない。他からは苦しいように見えても、正しい信仰のある人の心の境地は安穏であり、後の生活もまたやすらかであるということです。(略)
    苦は相対的であるとともに、なかなか人間の浅い智慧ではのぞき知ることができない。いいかえれば、人知を越えた知、仏智というか宗教的叡智を得なくては、現世安穏の真の意味も把握できないし、他人の苦しみも分からぬ。分からなければ、その苦が救いとなりうる相対性を教えた宗教、仏教に帰依し、苦楽一如、外と内の一体性、仏心不二に目覚めねばならない。」
  • 自力・他力、難行・易行を相対的二元的にとらえることは仏道の考え方に反します「一般にそれを自力の法と他力の法とにわけ、法然上人や親鸞聖人は他力、唯識や禅は自力という。しかし、これは違います。自力が難行、他力が易行というのも間違っています。自力で解決できるなら、これは宗教ではなく自然科学です。他力万能なら、懺悔も苦の自覚も不必要です。」
  • 宗教音痴とはこういうことをいう「おそらく宗教を理念や感傷、あるいは文学的感性で捉えている知識人は日本人くらいのものでしょうね。それは、自己無力への自覚、一念三千の自覚がないためです。人間は神にも仏にもなり、同時に地獄、餓鬼、畜生にも墜ちる可能性を持っている。そのいずれを選び取るかという覚悟、しかも、向上して仏になることがいかに困難か、命がけだぞという決心、それが欠けているんでしょう。
  • 日蓮批判に対して・・・「一般に日蓮上人は、その行動の激しさの面からのみうけとられているきらいがありますけれども、聖人が自らを法師と自覚された慈悲の温かい面、いわば利他行の尊さを私たちは見落としてはならないと思います。聖人はけっして自分の主張、我見によって他宗を批判したり、折伏の実践をされた方ではありません。中道間を持った仏とならしめるための法の実践、相手の人を本当に救おうとした情熱、法華経による仏の本位の伝達、それを願ったのです。(略)
    注意しなくてはならないのは、
    近代に於いて、法華経と日蓮聖人の立正安国思想が過激な社会変革の思想、国家革命のイデオロギーとして偏ってうけとられていったことです。しかし、聖人のいう安国の国とは国家を指すのではない。もっとひろい国土です。主権、領土、国民をもった国家という狭い概念でうけとってはなりません。」

  • 【山本秀順(真言宗・高尾山薬王院)
    真言宗智山派智山専門学校卒。学生時代にマルクス主義に傾倒し、満州事変から第二次大戦終戦まで戦争を肯定してきた仏教界に真向から反撥して反戦を唱えた妹尾義郎の「新興仏教運動」に参加。400日の牢獄生活を過ごす。1996年、84歳で遷化。
  • 昆虫採集という教育について「私もしばらくは黙って見過ごしていた。昆虫を欲しがる童心を傷つけたくないと思ったからです。ところが、教師達は、ただ昆虫を捕らえて殺し、標本にすることのみしか教えていないことを知った。知識欲の満足のためにのみ虫を傷つけ殺す。子供らは、何一つ自然を鑑賞することもなく、採集の数の多さのみ競い合っている。私は先生方に注意した。そんなものは人間教育ではない。蝶やトンボの生態を観察するなら、なぜ生き物としての昆虫を見せようとしないのか。薬に沈め、針を刺すことで、生態のいのちは分かるのか。昆虫にも一つ一つの生命がある。その生命のねうちは人間の生命の尊さと少しも変わりないはずだ。(略)
    平気で虫を殺せる少年は、やがて生き物すべてを殺傷するようになる。相手の痛さが分かる子ども、虫のつらさを知る少年が、他人の痛さを自覚するようになるのです。私は、研究のためなら昆虫ぐらい殺しても何でもないという心を、少年に植え付けるのは罪悪だと思います。それは自己本位の人間を育てるだけのことです。
    早く捕まえた方がいい、とったら自分のものだ、という昆虫採集の競争心は、幼い子に所有欲と自分だけというエゴイズムを培うだけだ。(略)
    自然を傷つけ、小動物を殺すのも、水俣病もすべて根は同じです。昆虫採集を喜ぶ心と水銀の垂れ流しに痛みを感じない心とどこがちがうでしょうか。同じことです。」
  • 真言宗僧侶でありながら、禅門と真宗の教えに共感「留置所では広さ三畳のところに十三人の人間と一緒にぶち込まれ、薬を欲しいといえば国賊に付ける薬はないと怒鳴りつけられる。ハゲチョロの碗に盛った食事は、まずくてノドを通らない。ノミとシラミとダニだらけです。(略)
    坐禅をくむと不思議なものだ。三畳の房も広く感じられる。鉄棒や金網、扉の錠前も苦にはならなくなった。食事もいただける。(略)
    私は捕らえられ、ぶち込まれ、その軽信、軽はずみの自己偽態を知ったのです。鉄格子からさしこんでくる陽を見ているうちに、ふと私は南無阿弥陀仏と唱えていたのです。(略)
    私は真言宗の坊主でありながら、
    禅と念仏を遍歴してやっと加持感応の世界に眼が開けたのです。」


  • 【橋本凝胤(法相宗・薬師寺)
    東京大学インド哲学科卒。1943年法相宗の管長に、1968退任。第二次大戦中、日本必敗論を主張。平安時代以降の日本仏教を全否定する保守を通り越して化石のような奈良仏教崇拝者。1978年、82歳で遷化。
  • 仏像は偶像崇拝でしかない
    「橋本長老は話の中でひとことも薬師三尊の功徳や金堂のことに触れず、多少でも寺のことにかかわる話題となるや、ぷいと横を向き、苦り切った顔になる。つまり、橋本長老にとって伽藍とか仏像などというものは、仏さまの教えを学び、おのれの仏性を磨く上で、何の役にも立たぬ無用の長物にすぎないのである。」〔高瀬広居氏談〕
  • 平安時代以降の日本仏教全否定~これは仏教の深さの否定であり、単なる根性主義でしかない気もしますが・・
    「「迷わず自己を仏法に投げ入れて一筋に無垢に生きる」それが氏の宗教的確信であり、その確たる信念に立って、最長や空海の平安仏教の教え、親鸞・道元達の鎌倉仏教、さらには明治以降の近代仏教もことごとくニセモノと断じ、日本仏教千二百年の歴史に痛烈な拒絶と批判を加える。(略)
    人間が仏になりうる可能性を持っていること(仏性)と仏になること(涅槃、正覚)は天と地の違いがある。もし、仏にならんと欲し願うなら、徹底的に自分を責め付け苦しむことである。それを避けて、即身成仏とか煩悩即菩提とか、念仏申せば救われるなどといった甘えの無差別平等間にもたれかかって、どうして貧瞋癡の三惑に穢れた、どうしようもない人間どもが救われようか。そうしたええかげんな教えを説いた最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮を捨てよ! と氏は抑えがたい憤りと蔑みをこめて私たちを叱るのである。」〔高瀬広居氏談〕



  • 山田無文(臨済宗・神戸祥福寺)
    臨済宗大学禅宗学科卒業。チベット探検僧河口慧海に学ぶ。花園大学学長、妙心寺派管長。毎年遺族と赤道直下の島で戦死者の遺骨収集を行う。著書多数。1988年、88歳で遷化。
  • 現代坊主は葬儀屋の親方である
    「法とは何か。人民を拝み民衆に奉仕する実践です。(略)
    寺院住職は葬式と法事で手が回らん。ヘルメットかぶってバイクに乗り、葬式にゆきおる。忙しい。葬儀屋の親方だな。だから寺の息子さんが坊さんになるのを嫌がる。当然だ。こんな不名誉な職業嫌がりますよ。
    つまり今日の仏教教団は、仏教を何も教えないところなのです。立派な本山があり、管長がいる。しかし、管長が何を教えられるのか。儀式に出るだけだ。緋の衣に金襴の袈裟を欠け、ゾロゾロ並んでお経を読む。それだけやないか。ありゃオイラン道中や。私はそういっとる。仏教やない。(略)
    しかも人間平等を説かれた釈尊の教えを継ぐ僧の社会に僧正とか僧都とかいう階級があって、衣の色まで違うとは笑止千万です。(略)
    現在のような坊さんばかり二十万人いたって、仏教は国民のために生きやせん
  • 日本の教育は根幹思想の欠如に問題あり
    「みんながあってこその自己なんです。これが人生の根本だ。この心を押し広めれば、鳥も殺すな、虫一匹殺すな、物を粗末にせず、いのちを大切にせよ、ということになる。(略)
    教育の不毛と、そのよりどころを失った教師に育てられてきたからです。自由主義国にはキリスト教がある。中国には儒教と毛沢東主義がある。アジア・アフリカにはイスラム教があって根幹をなしている。日本には今、なにもない。


  • 【大西良慶(法相宗・清水寺)
    14歳で興福寺に入山、法隆寺勧学院第一期生として唯識を学ぶ。戦時中に法相宗管長に。1914年から遷化した1981年まで67年間清水寺貫主を勤める。著書多数、漢詩・和歌に造詣。1981年、106歳で遷化。
  • 慈悲心を育てるのが仏教
    「いまの人は自己本位なんやね。誤れる自己主義やね。地上にあるものは平等の権利があると仏書には書かれているが、本当や。この世にあるものはすべて平等の権利が集まった合力の世界やからね。動物や魚かて人間に会わなんだら、殺されずにすむ。仏教が殺生を戒めるのは、この殺されずともええものを殺して食う人間に、ああ可哀想にという気持ちを持たせ、平等を気づかせるためなんじゃね。これを慈悲心という。慈悲の心は人と物との間に気を通わせるの。」
  • 戦争の愚かさを訴える僧もいた
    「わしらの半生は戦争や。いくさ好きじゃね。わしも203高地の戦場に従軍僧として参加した。そりゃ、悲惨なものだったの、わずか六日間で死傷者一万六千人にのぼっての。わしは乃木将軍を憎んだ。悪意を持って帰っての、日本中、将軍の悪口いうて歩いた。殺し方がひどい。歩くところみな死骸やった。機関銃で撃ちまくる中を走らせ殺したとな。(略)
    わしは早くから原水爆禁止、軍備廃絶、非核武装の平和運動やってきたの。百歳の坊主がな。不殺生と慈悲、
    仏教は平和主義や。」
  • 日本人へのメッセージ
    「日本人は分厚うならないかんの。すぐカーッとのぼせおる。ねばりがない。このままではもっと悪うなる。利己主義になる。公共概念もないし、親が死んでも皆して財産分けることしか考えん。(略)
    死んだら死んだでしまいやと一代限りの考えやによって、思想は伝わらん。教育もでけんの。」



  • 【友松圓諦(東京神田寺・浄土宗離脱)
    宗教大学卒、慶應義塾大学史学科卒、仏教法制経済研究所を設立。英語、ドイツ語、フランス語、パーリ語、サンスクリット語を自在に操る。大乗小乗仏典をことごとく読破。浄土宗を離脱して神田寺という単立寺院を創建。1973年、78歳で遷化。
  • 釈尊の中道の精神をいまに引き継ぐ重要人物は・・
    「釈尊が説かれた教えの根本は中道。中道とは正しい道。それだけではない。実際の人間生活に役立つ正しい道、現実に即した、空理空論ではない正道、それが中道。ところが、釈尊が亡くなって百年も経つと、仏教は思弁化した。坊さん達が暇になったんだね。これで釈尊の努力がふいになった。釈尊は形而上的、思弁的、観念的で抽象的になったウパニシャッド(古代インドの宗教)哲学を、形而下的、実践的、現実的にするべくつとめられたのにね。またひっくり返してしまった。それを見事に、再び現実化した人は誰か。知る人ぞ知るだね。法然上人です。(略)
    膝をつねって無理に目を覚まして念仏をしろというのではない。眠かったら寝なさい。目覚めたら念仏せよ。すばらしいね。ここに無碍(こだわりのなさ)がある。
    自然法爾です。中道とは、これをいう。」
  • 仏教は極めて現実的
    「仏教は虚無的だ、ニヒルだという人がいる。とんでもない錯覚であり、誤解です。釈尊は脱世間的、非科学的な教えを何一つ説かない。釈尊は死人のためにお経なんか一度も読まなかったし、死ぬことがすばらしいなどと口にしなかった。生きることが第一。そして、現実の大地にしっかと足を踏み下ろして(二足尊)、極端におちいることなく、保守的にならず、たえず前進的に問題に取り組むことを推し進めたのです。
  • 仏教は人間中心主義
    「仏教は人間中心の宗教であり、二足尊の宗教である。原始宗教以来の神話の宗教に対し、人間の宗教としてうまれ生き抜いてきた。火の神でも水の神でも、土の宗教でもない、生命尊重の人間宗教です。ちかごろ、日本人は生き甲斐といっているが、生き甲斐とは、「ありがとう」ということだ。ありがとうとは、「あることかたし(在ること難し)」です。法句経182番に「人の生をうくるはかたく」とある。いのちとは「あることかたし」、すなわちサンキューではない。めったにないことだということだ。これほどまでに生きていることを喜び感謝する心を持てばそれが生き甲斐になる。」

2005年8月6日土曜日

松原泰道 ~共感した名文・名文句~

語り口と文章の美しさ。そして、使用される単語が多岐に亘り表現力に富んでいること。仏教の解釈が鋭く、非常に重く深く洞察されていながら、難解でない。師の言葉として生きているのです。



  • 観音経のこころ/祥伝社
  • 仏像を拝む意味「鏡を見るのと自分を見るのとが同意味になるように、仏像を拝むのとわがこころを拝むのと同じレベルにあるのです。(略)観音さまのお像を拝むのも、またこの道理によるものです。観音像を合掌して拝む営みは、私たちの身中に埋もれている純粋な人間性の存在を信じ、その人間性(人間の本性・仏心)を開発するのが、仏教語の「信心」です。」
  • 他宗教の『信仰』と佛教の『信心』の違い
    「似た言葉に『信仰』がありますが、信仰は私たちの外側の高所、たとえば天のような所にある権威を仰ぐから『信仰』といいます。仏教の場合は、人間が自分の身中に潜む純粋な人間性を信じ、その機能を開発するのが目的ですから
    『信心』と呼ぶのが好ましいのです」
  • ご利益・霊験の考え方
    「ふだん観音さまを信心しながら、火難に遭う人もたくさんいます。そんなとき、とかく信心が揺らぎがちですが、逆境のときこそ、観音さまからメッセージをいただいたのだ、と受け止めたらどうでしょう。たとえば、火事で焼けたのは確かに不幸だが、この不幸がなかったらあるいま生涯わからなかったかも知れない何かの道理に気づくことができたとしたら、今後の自分の生き方に大きなご利益を得たことになりはしないでしょうか。ご利益、霊験といっても、目に見える物質的なものだけではなく、自分が成長し、人間性が豊かになることこそが最上のご利益・霊験でしょう」
  • 人に恨まれるのも、自業自得
    「自分をねらう悪人とは、実は自分なので、多くの場合、自分自身で作った自作自演の所業です。
    無理をしたり、人を傷つけたり、義理を欠いた言動が積み重ねられて、自分で自分を押し落とすのです。他を恨むよりも自分の足許をよく見詰めよ、と観音さまは教えるのです。」
  • 環著於本人
    「人を咒い、世を呪い、あげくには毒を盛るという異常な行動は現代でもよく見受けるところです。この目に見えない迫害を受けても、心配はいりません。必ず救われるのです。『環著於本人』です。(略)要するに、深い意味で
    加害者の『自業自得』の教えです。」
  • 足るを知ることが叡智である
    「『餓鬼』は、飢渇で悩むとともに、飢渇が満たされてもなお満足しない欲求不満をいいます。それどころか、満たされていることに言いようのないいらだたしさを持つ人のことで、現代語のガメツイ・イライラ・ギスギスといった一連のカタカナで象徴される心情が餓鬼です。(略)
    人の好意を好意として受け取れず、すべてを悪意に受け取り、真実と反対に理解して自分も苦しみ、他者をも苦しめる自我意識の強い人のことです。(略)餓鬼は『足るをことを知らない』心情です。すると、餓鬼の苦から救われるためには、『足ることを知る』叡智を身につけることです。(略)欲望追求は文明を生みましたが、足ることを知る叡智は文化を生みます。」
  • 現代人の畜生ぶり
    「(往生要集の)源信は、さらに畜生の特徴に、愚痴と恥知らずを挙げます。愚痴とは、『知らなければならぬことを知ろうともせず、知らなくてよいことは教わらなくとも知っている』ということです。その意味での無知です。いわゆる畜類は『自分が生きているというとはどういうことであるか、何によって生かされているのかを知らないし、また知ろうとの意欲を持たない』のです。
    現代人は、とかく、どうでもいいことはよく知っています。しかし、大切なことを知ろうとはしません。ただ、『空しく生きている』にすぎないので、この『現代のような生き方』が『畜生』というのです。
    畜類は、害しあい、傷つけ合い、殺し合わなければ生きられない。ときには、共食いをしても恥と思わず、その償いをしようともしないのは、永遠の命を知らず、
    多くの縁によって生かされている大切な事実に無知だからです。」
  • 信心とは何かはこれに尽きるのですが正直実感するのは難しい。私はこの度仏教を学んで初めて知りました
    「『観音さまとは、自分のことである』と申しましたが、それは思い上がりではなく、『気づいておくれ、わかっておくれ』との、私たちを包む久遠の大きな願に気づくことなのです。願うことが願われていることであり、信ずることが信じられていることなのです。ここがわかれば『疑う』という余地はありません。それでも、なお疑念を持つ人は『久遠の大きないのちから願われ、信じられているのが、なぜ自分にはわからないのだろうか』・・・と自分自身に疑いをぶつけてみたらいかがでしょうか。他を疑うことに急なあまり、とかく、自分を疑うことを忘れがちです。(略)
    拝むことは拝まれているのです。いや、あなたが拝まなくても、あなたが信じなくても、そんなことに
    おかまいなく、あなたは拝まれ、あなたは信じられているのです。あなたは、ただそれに気づかず、忘れているだけです。あなたが拝めば、あなたが信じたら、この触れ合いがすぐにわかるのです。」


  • 「足るを知る」こころ/プレジデント社
  • 般若心経の位置づけ「釈尊が初めて説いた原始仏教の思想が、時代を経るにつれて次第に加上されて、より高次の思想になりました。これが『大乗仏教』です。その大乗仏教の思想の真髄である『空』の思想を説く経典が『般若心経』なのです。」
  • 『空』とは「空の思想とは存在の原理であると申し上げたい。それが『無常』であり、同時に『無我』であると言っているのです。仏教用語の無我とは、この世のものは、すべて単独で孤立してあるものではなく、みんな互いに関わり合いがなければ存在することが出来ず、相互に依存関係があって、初めて一切は存在するという意味です。『空』の実体は、時間的には『不生不滅』、質の点から見れば『不垢不浄』、量の面から学べば『不増不減』ということなのです。『不生不滅』は永遠に死なないという意味ではありません。『生と死を相対的に考えて、制を喜び死を厭うという境地を超えるなら、生死に心が奪われることはない』ということです。」
  • 「(空とは)『物事に執着するな』ということであろうと、先取りするかもしれません。しかし、そうではないのです。『とらわれるな』『執着するな』という命令ではなく、むしろ肩の力を抜いて『執着なんかしなくてもすむ智慧』を身につけることをすすめるのです。そうでないと、まことに窮屈な教えになってしまい、せっかくの心経のこころが、つかめなくなってしまいます。(略)
    『空』とは
    『執着しないことにも執着しない』状態を指します。ちょっと哲学めいていますが、禅ではその状態のことを『死にきる』とか『大きく死ぬ』という意味を踏まえて、『大死』と言います。
  • 一念は大切に、二念を防ぐ「喜怒哀楽を否定したり、物事に感動するこころを失ったりしては人間失格です。浄土系の教えで一念、二念といった考え方があります。たとえば、きれいな花を見てきれいだと思うのは当然で、これを一念といいます。しかし、その花を手折りたいとか、盗みたいとか思う第二念が起こる、それを防ぎなさい、というのです。きれいなものは素直にきれいであると受け止めて、その次の気持ちを起こすな、というのです。」
  • 他との関わりを深く認識したいものであります「『俺は自分が頑張って努力したから出世したんだ。誰の世話にもならずに一人で偉くなったんだ』と主張するのは『孤立自存』の考え方です。『空』がわかってこそ、『お陰さま』がわかるのです。『お陰さま』という言葉が自然に言えるようになるには、相当に『他との関わり』を深く認識することが必要です。
  • 子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ「人生論で言えば、日本の古い言葉に、
      子供叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ。
    というのがあります。(略)
    この『子供叱るな』は、叱る前によく観察をしてみなさいということです。この観察とは、自分を相手に同化させる、つまり子供の気持ちになってみなさい、あなたも子供の時はよくいたずらをしたでしょう、ということ。そうすれば、小言の言い方も違ってくるのです。『年寄り笑うな、行く道じゃ』は、自分より年配のものを見たら、私も年をとったらあの姿になるのだと、一人称で相手を観察しなさいということ。そう観察すれば自然に思いやりの心が生れてきます。これこそが仏のこころなのです。(略)

    これは会社の上下関係にも適応できる言葉ではないでしょうか。上司は部下に、先輩社員は後輩に対して、この気持ちをもちながら接することが大切です。『俺は部長なんだ』とふんぞり返っていては人はついてこない。部下の恩、目下の者の恩を知ろうと努力しない人物は、ちょっとした失敗がきっかけで失脚してしまうものです。『孤立自存』タイプの人間に、大きな仕事はできません
    『自分さえよければ式』の人物は、時に慢心し、人生の晩節を全うすることは難しいようです。
  • しゃぼんだまとんだ やねまでとんだ やねまでとんで こわれてきえた
    しゃぼんだまきえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
    かぜかぜふくな しゃぼんだまとばそ
    「野口雨情の『しゃぼん玉』という童謡があります。(作者が幼い娘を失った時に作った詩であるということの説明があり・・)
    『しゃぼん玉とんだ、屋根までとんだ』これはしゃぼん玉としては長生きのなかのまた長生きです。しかしその一方『しゃぼん玉消えた、とばずに消えた』、そんなはかない、しゃぼん玉もある。そしてさらに、『うまれてすぐにこわれて消えた』とたたみかけます。この言葉に込められた雨情の悲しい心情を思うと、本当に胸が詰まるものがあります。しかし、そこで終わってしまったら、無常観は消極的な人生観で終わり、また無常観に過ぎません。雨情もこのまま泣き伏してしまってはダメなんだと、自分を励ます気持ちで童謡に祈りを込めます。『風、風吹くな』と。これは同時に無常の風をも指しています。どんなに無常の風が吹かないで欲しいと言ったところで、この浮き世であれば防ぎようもない。だが、だからといって諦めてはいけない。そういう厳しい世の中であればあるほど、『しゃぼん玉とばそ』と、積極的に生きよう、童謡を通じて雨情は、子供たちに強く生きることを念じるのです。」
  • 叱言こそ最上の愛語「確かに、家庭でも職場でも大いに心を配ることが大切なのです。特に、『叱る』という行為は難しい。言葉はたとい荒くとも、内容は温かい呼びかけでないと、相手を真から納得させることはできません。よい叱言こそ、最上の愛語なのです。」
  • 豊かさについての思想の構築が重要「現状といえば、ただものの豊かさに溺れていると言うよりも、豊かさの消化不良の症状を起こしています。それは豊かさの底辺に、新しい思想が構築できずにいるからです。その精神的不安定が、戦前の価値観に郷愁を感じているのではないかと思うのです。今わたしたちに課せられているテーマは、この『豊かさを本当に豊かにする思想』を構築することではないでしょうか。」
  • 『仏道をならふというふは、自己をならふなり』「仏道を学習するとは、自分自身を学習すること。道元の非常に有名な言葉です。習うというと、他から教えを受けるような意味に聞こえますが、そうではありません。この言葉を言い換えると、宇宙と人生とを貫く真理を悟った本当の人間になるためには、自分とは何か、と繰り返し繰り返し、納得がいくまで修練を積み重ね、修行をするという意味になります。
    この言葉の後には、『自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり』と続きます。『自己をならふ』とは、自己を忘れることです。自己を忘れるとは、エゴを捨てよということ。エゴを捨てよとは、万法に証を立ててもらうということです。この『万法に証せらるるなり』の一句は、道元独特の表現ですが、平たい言葉で言うと、あらゆる事柄に支えられて生きているという事実の確認になります。
    信仰に熱心な人は、他人から見ると狂信的に見えることがあります。しかし、本当の信心は、狂信のようであって、実は
    覚めたもう一人の自分とも言うべき本心をしっかりとつかんでいるものなのです。(略)
    信仰する人が、『もう一人の自分』をつかんでいないと、その信仰はアヘンになってしまうのです。道元の言う『仏道をならふというふは、自己をならふなり』は、単に自分が修行をするだけでなく、もう一人の自分に出会える事実を教えているのではないかと思うのです。」
  • 陰徳をつむ「人徳を具えるのは『陰徳』を積むことでもあります。禅では特にこの陰徳を重んじ、私も師匠から陰徳の三原則を教わりました。『目立たぬように、際立たぬように、さりげなく』というのです。この三つの精神で具体的にはどのように陰徳を積めばよいかと言いますと、一言で言えば『ものを大切にする』ということです。物品もそうですし、人間関係で言えば人の好意を無にしないことです。(略)
    人の好意を素直に受け取らないと徳は逃げてしまいます。」
  • 『見取見』が横行する現代「とかく、人の世話にはならないとか、人には迷惑をかけないと言い張るけれど、人間の生活において絶対そんなことはできるはずはないのです。仏教的に、特に禅の立場では、自分の見方に固執する思い上がりを『見取見(けんしゅけん)』といいます。エゴ丸出しで自分中心に考えると、独断や偏見が生まれる。それを慎むことが大事だと思います。(略)
    人間は、一人一人、他から影響を受けているし、他に影響も及ぼしています。そんな繋がりの中に個々の人生があると考えるべきです。
    人間は他に迷惑をかけなければ生きられない、大変弱い存在なのです。(略)」


  • 人生をささえる言葉/主婦の友社
  • 指導に大切なのは『対機説法』です「禅の指導者である師家が相手の修行者の程度をはかって、それに相応した説法をすることを対機説法といいます。(略)
    現代の教育にはこの
    「対機説法」の精神がかけているように思えます。人間は指紋が異なっているように、機根(個性)もそれぞれ違います。それを掘り起こし、発揮させることが指導者には求められているのです。
    機根は誰にでも備わっている能力ですが、しかしそれを発揮する「機会」に恵まれなければ、眠ったままです。その機会のことを、仏教では「機縁」といいます。『機縁』とは、仏の教えを受ける人間の能力(機)と、教えようとする仏の願いが出会うことです。」
  • ご利益欲しさは信心ではない「わたしたちは、よく、信心するとご利益があるとか、病気が治るとかいいます。しかし、こういう目的や打算のある信心は『無功徳』です。もの欲しさ、ごほうび、報酬欲しさ、ご利益欲しさにすることは、どんなにいいことをしても、功徳はないのです。禅では、目的と手段をわけません。目的と手段を分けると、目的がかなえられないと、そこに挫折感があります。しかし目的と手段が一つであれば、たとえ行き詰まっても、満足感、達成感があります。(略)
    『何かのために』という、目的を果たす手段ではなく、
    手段そのものを目的とするのです。手段の中に目的を包み込んでしまえば、手段がそのまま目的となります。」
  • 重要なのは、自力・他力ではなく、縁起を意識することである「自力・他力という考え方があります。仏法の大海の中の生け簀(人間)を外から見れば、仏に抱かれている、仏に生かされている、ということで他力になります。いっぽう生け簀の内側にも仏法は内在するという点にアクセントを置いてみれば、自力になる。しかし、他力も自力も、同じ仏の力であることに変わりはありません。私は、他力と自力を区別して考えるのは間違っていると思います。それは、『仏力』を、外から見るか中からみるかの違いでしかないからです。仏教の根本は『縁起』の思想です。釈尊は、『すべてのものや事柄は、無数の原因と無数の縁が、相互にかかわり合う上にもかかわり合って生じ、成り立つのである。他と関係無しに、そのものだけで、自分だけで孤立しうるものは、この世には何一つない』と言っています。仏教には、独力という発想はありません。およそこの世にあるもので、他と無関係に存在できるものは何一つとしてない以上、『自力』か『他力』かと分けて考えることは、あまり意味がないのです。」


  • 釈尊最後の旅と死-涅槃経を読みとく /祥伝社
  • 仏教は人間崇拝とは一線を画す貴重な宗教です「釈尊は生前、つねに弟子たちに『わたしと言う人間を信心の対象としてはならぬ。人間である痿からに私は必ず死ぬ存在である。幽玄なものを信心の対象にしてはならない。私は有限な存在だが、私の悟った法(真理)は永遠であるから、この法を信じよ』と口癖のように言われました。(略)」
    「釈尊の宗教である
    仏教は、教祖中心でなく法中心です。」
  • 形而上的なことを思い悩むことは無駄である「釈尊は、他からの質問に一言も答えずに、ただ沈黙される場合がしばしばあります。これを仏教語で『無記答』といいます。(略)
    現代人でも聞きたがる、死後に地獄・極楽があるか、あの世はあるのかないのか、といった観念的・形而上的な質問には、釈尊はつねに無記答でした。(略)
    質問者が『より重要な問いとは何か』とつめよると、釈尊は静かに『今という時である。今は再び戻ってはこないいのちである。この
    今をどう生きるか、それを私に問え』と諭されるのです。」
  • 自分自身の『丹誠』が重要「古品が新品よりも価値がある、といっても結局は丹誠の度合いです。(略)
    人間でも同じです。よしんば高齢者であっても、口を開けば人の悪口を言ったり、心が邪悪な老人は、釈尊によれば『これ空しく老いたる人』です。空しく老いないために、充実した老いの生活をするには、自分自身の丹誠が欠かせません。すなわち、正しい法を聞き、正しく思いを深め、自分を整えることです。
    自分自身の丹誠は、日々丹誠しつつ生きる現在進行形で、死ぬまで続けて、初めて意味があるのです。」
  • 釈尊に食あたりをさせて歎く男に対して、死の直前の釈尊の言葉「『人の死の因は、病気や事故ではない、生れたのが死の因である。病気や事故は死の因でなく、死の縁(契機)である。一切が死の縁となるから、生き方に心を配りなさい。』」


  • わたしの歎異抄入門 /祥伝社
  • 仏教は報復を否定する「仏教では「怨みに報ゆるに、怨みをもってするなら、怨みは永久にこの世からなくなることはない」(「法句経五」)と説きます。」
  • 来世の存在するという証拠・理由はズバリ・・・「物事を相対的に、対立的に考えるのは、人間の傲慢なはからいです。現世と来世を相対的に考えると、観念遊戯になります。私は現世の存在を信ずると同じように、来世の存在を信じます。昨日があるから今日が、今日があるから明日があるのです。過去の世があるから現在の世があり、現世があるから来世があるのです。私が来世の存在を信ずるのは、この簡単な理由からです。」
  • この心を忘れないでいつも持っていたい「丹那トンネルを通過するとき、ふと気づきました。(略)この工事が完成するまでに、多くの工事犠牲者が出ました。私はその事実にふと気づかされてからは、丹那トンネルを通過する10分間あまりを、黙読で般若心経と観音経の偈を誦経するようになりました。」
  • 自力本願の誤り「多くの現代人は、自分の力の限界をわきまえず、自分の才能や財力、権力などに驕って、自我を逞しくしています。親鸞の言う『自力作善』の過ちを犯していることを、この条で学ぶべきです。」
  • 愚徳を積むことができるかどうかが人間の徳の高さにつながる「いまここで、自分のすべきことを、めだたぬように、きわだたぬように、さりげなく、心を込めてすること、それが『愚徳』の実践です。愚徳を積む行為などは、現代人には無価値の「愚行」に思えるでしょう。たしかに自分のする仕事の結果に栄光を期待しないというのは異様に聞こえます。が、自分のする行為そのものに意味や価値があるならば、結果は如何あろうと別に気にかける必要はなくなる道理です。すると、たとい挫折しても挫折ではなく、失意も失意と思えなくなるのです。」
  • 人生論と宗教心の違いは正にこれ「生きている限り、煩悩は増えても減ることはないでしょう。人生論で言うなら、気づいた煩悩をその都度整理していくことが、大過なく人生を送る方法です。しかしいくら整理整頓しても、果てしのない煩悩がぞくぞくと起きる事実に、我が身を憫れみ、それにつけても我が身を大切に、と願わずにはおれないところに宗教心・念仏も芽生えるのです。人生論との相違がここにあります。」
  • 自分の現在の存在は無量大数の人間の因縁によるものであることを自覚する「私が今この世にあるためには両親が必要です。両親にはそれぞれ二人の両親、あわせて4人の両親があります。両親の数は、代をさかのぼるごとに等比級数的に増えるので、私の三十代前に限っても、私の先祖は累計十億七千三百七十四万千八百二十四人になるそうです。これが私の誕生前歴に一端です。地球上に始めた人類が生じたとされる第三紀中新世(約六千万年前)からの祖先の数は、とても算定できないでしょう。遠い遠い先祖の血を継承して今の私があるわけです。血だけではありません。『血を引く』といわれるように、先祖がした行為(業)は、目には見えませんが、先祖の血とともに積み重ねられて、わたしたちの誕生前歴を築いたのは確実です。先祖の血と業によって、私の誕生前の経歴が出来ている事実に、思いをいたしましょう。それは私だけでなく、誰にも通じる事実です。」
  • 常識と信じて何も考えずに周りにあわせて行動する信心の欠片もない日本人大多数「信心は純粋でなければなりません。日本人によく見る例ですが、子供が生まれるとまず鎮守さまへの宮参りをします。成人式も鎮守さまで行い、結婚式はキリスト教徒でなくとも教会であげ、葬式は仏式でつとめるという『雑炊的信心』は、信仰や信心の名に値しません
    信心や信仰などというと多くの人は、とくに現実的な日本人は、
    現世において自分の欲望がかなえられることを、信心や信仰のよろこびや利益と考えがちです。(略)
    しかし、『人間性を豊かにする』高次の宗教思想と比べて、
    あまりにも次元が低すぎます。親鸞はきわめて合理的な宗教思想を持っていたので、迷信的な行事を悲しむ和讃を幾首も詠んでいます。
    『かなしきかなや道俗の 良時・吉日えばらしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす』
    『道俗』は僧侶と一般人、『天神・地祇』は天神地神。『卜占祭祀』は占いとまつりですが、このような事例は『涅槃経』で戒められているように、仏教の正道ではないとするのです。」
  • 信心の純粋性を保つことと他宗教・他宗派への寛容性を持つことは相反しない「純粋度を保つためにも、他の宗教思想を理解する寛容性を失うのは、その宗教の自殺行為に等しいでしょう。純粋と寛容という相反する性格を、より高い場で統一するのが望ましい宗教性だと思うのです。このことはけっして容易ではありませんが、一つの宗教・宗派を信ずる人は、他の宗教・宗派の思想を家挙に学ぶことにより、自分の信ずる教義が深められるのは事実です。(略)これも業縁のはたらきです。」


  • 人徳の研究「水五則」に学ぶ人間の在り方・生き方 /大和出版
  • 世界における水に対する価値観「日本では「湯水」は、ありあまる物の存在の形容ですが、ドイツには「水なくば、命なし」、オランダやアメリカには「水は賢く使え」、フィンランドには「水は最古の薬」ということわざが古くから伝えられて、そのことわざどおりに、今も水を大切に用いています。(略)
    いまの日本にあっては、水に対する価値観を変えることが肝要です。」
  • 自殺防止法「人は、一生の間だれしもが自殺を考えるもので、それは人生の通過駅の一つとも言えるでしょうが、近年はその時点が早まっています。こんなときはピントのあった励ましが人を自殺から救うのです。相手とピントを合わせるには、それまでと違ったさまざまな角度で接してみれば、必ず心の通じ合う角度が発見できるでしょう。相手の持つ美点を見つけて、推賞し励ますことです。小沢有作先生が「生きることを励ますのが教育だ」とおっしゃっていますが、至言だと存じます。」
  • 指導者の在り方「指導者自身が、思い上がりを捨てて「自分も不完全な人間だ」との謙虚さを持つことが大事でしょう。「他を教えることは、自分を教えること」ほかになりません。たとえば、五つの事柄を相手に理解させるには、自分自身がその三倍の十五をマスターしていないと、相手を納得させることはできません。他者を指導すると思っていたのが、実は自分を向上進歩させる縁であった、と気づくとき、指導者冥利がこの上なく有り難く感じられて、謙虚になり、人徳にも自然に恵まれてくるでしょう。」
  • 日本人の稚拙な精神の根源「正しい宗教は、導き方と教え方の表現はおのおの異なっても、「人間の生き方」を示す点においては一つです。日本人は恥ずかしく悲しいことに、世界に例を見ない「宗教音痴」です。日本人はとかく「オカルトイコール宗教」と思いこんでいます。こんな宗教知識では、とても日本人は本当の国際人になれないでしょう。「エコノミックアニマル」と言われるのも、要するに信仰や信心を持たないから、傲慢や利己心のとりこになってしまうのです。(略)
    「こだわらない」のと「無関心」とは違いますから、はっきり区別する必要があります。現代人の中には、生れたときは氏神様へ参り、結婚式はキリスト教で挙げ、死んだらお寺の墓へ葬られることに違和感を持たない人もあるようですが、これはこだわらないのではなく、正しい宗教知識を持っておらず、無関心であるというべきです。正しい宗教知識をもって初めて、「こだわらない信心」が得られるのです。というのは、信心は純粋でなければなりませんが、純粋心が高じると排他的になります。排他心は宗教心でないことは明らかです。
    純粋心と排他心とをより高い立場で統一してこそ、高次の宗教心、こだわらない宗教心と宗教的態度が創造されるのです。」
  • 顔形美しく化けても言葉・声・音への無神経さによって醜悪極まりない女が激増している日本「(作曲家で盲目の)宮城道雄さんはこう語られます。「私は、すべてを声で判断する。夫人の美しさ、少女の純な心とかは、その声や言葉によって感ずるわけである。声が美しく発音がきれいであると、話をしている間に、春の花の美しさとか、鳥の声をも想像するのである」
    人間も学問を深く広く修めている人ほど、
    話す声も静かで、決して声高で聞こえよがしに話さないものです。」

  • 沢庵 とらわれない心/廣済堂出版
  • 仏道の法門は無量。その寛容性と他宗教以上に排他性を排除したところに仏道の真髄ありき「人間の宗教心の相性はさまざまです。同じ釈尊の教えを信ずるにも、浄土教の教えにかなう人と、禅門の思想の方が受け入れられる人と、人それぞれの仏縁があります。それは宗旨や宗派の優劣ではありません。(略)
    人間の心はまた複雑です。同一人の身中にも浄土門の教えがとけ込める部分と、禅の教えがわかる部分とが共存します。ですから、浄土とか禅とか、いわゆる自力と他力とかいうふうに、短絡的に、対立的に割り切れるものではありません。この事実がわかれば、
    自分の信奉する宗教を最高だと思いこみ、そして他の教えを劣っていると非難できるわけがありません。(略)
    宗旨宗派それぞれの特異性を具えますから、他宗教の教義や思想を謙虚に学ぶのが、真実の仏教者でしょう。
    宗教の世界でも、自分の信ずる宗旨に変更するのを「宗我」といって好みません。釈尊は常に他の宗教の悪口を言ってはならぬ、と弟子たちに強く戒めておられました。」
  • 禅のテーマはこれである「「自己とは何か」と、外に出はなく常に自分の中に自己を極めるのが禅のテーマです。これを「己事究明」(自己を徹底的に追求して自己を明らかにさとること)といいます。この己事究明のテーマを「胸間に掛在(胸中にたたみ込む)」しなかったら、どんなに寺門が栄えても、多数の参拝者が群れ散じても、長時間の坐禅や読経をしても、苦行をしてみても、それは正しい禅ではない。」
  • 現代の軟弱な風潮の批判「忍耐できない自分の精神構造のひ弱さを、聞き覚えの既成用語でカバーするのが、今の風潮のようです。いわゆる人権は主張できても、それでは自分の完成を自分で放棄することになります。」


  • 人は必ず死ぬ/主婦の友社
  • 私の標榜する「progressive life」は「開発する人生」。それには感動力が重要です「よく、「考え方を変える」といいます。しかし、私は、「変える」のではなく「開発する」ことがたいせつだと思っています。深く自らを開墾し、耕し、切り開くことが大切なのです。そして開発するためには、感動する力が必要です。現代人は物事に感動する力が弱くなっているのではないでしょうか。体力も、使わなければ低下するように、精神力、感動力、忍耐力も、いつも発揮していなければ退化します。だから、ちょっとしたことですぐカッときたり、「キレ」たりするのです。」
  • 死は人ごとではないという自覚を今からもつことが懸命な人生「この世に別れを告げるのは、誰だって悲しいものです。愛する家族も残さなければなりませんし、仕事も中途半端で終わらざるを得ません。しかし、それでも、死は否応なくやってきます。しかも、何の予告もなく突然やってくるのです。その意味では、私たちは死刑執行猶予中の死刑囚であるともいえます。(略)
    結局、死の問題を解決するとは、死を恐れる心の解決です。」
  • 悟りとは心の底から肯定くこと「仏教でいう「悟り」とは、「物事の道理を明らかに知る」ことですが、それはいわゆる知識ではなく心の底から深くうなずくことです。(略)
    人間を救うものは、神や仏ではありません。自分自身が心の底から深くうなずき、「ああ、そうだったのか!」と目覚めること以外に救われる道はないのです。」
  • 先祖の考え方「ご先祖様が全ていい人ばかりとは限りません。私たちの血の中には、いい血も悪い血もいっしょに入っています。ですから、法要とは先祖の過ちを生きている私たちが正すことでもあります。先祖の過ちはただし、よい行いには感謝する。それによって、わたしたちも成長する。さらにそれを、子孫に伝えていくことによって、人間がだんだん良くなっていく。」
  • 仏凡同居(ぶっぽんどうご)「私たちは、自分の中にさまざまな「因」を持っています。素晴らしい人間になれる可能性を秘めているのです。私たちの心の中は、「仏凡同居」というように仏と凡夫が同居しています。私たちの中には、凡夫のままで終わる可能性も、仏となる可能性もあるのです。」