2005年6月19日日曜日

美輪明宏 ~共感した名文・名文句~

もともと彼の本には深く共感するところがありましたが、まさか松原泰道師の「南無の会」の主要メンバーであるとは想像できませんでした。後からそれを知って、なぜこの人の書くものに共感できたのか、納得がいったのでありました。根底にあったのは仏道であったのです。


  • ほほえみの首飾り 南無の会辻説法/水書房
  • 信仰をもつのに宗教教団に入る必要はありません「私はかねがね、特定の教団のメンバーになることと信仰を持つということは別ですと申し上げております。というもの信仰はあくまでも個人のものであり、仏教でいうならば、それは釈尊の教えを直接、自分個人の人生に反映させていくことだと思うからです。そして釈尊の教えと私とを結びつけてくれる手助けをするのが教団であったり寺であったりするわけですが、悲しいことに教団にはどうしても自教団中心のエゴがつきまとい、それが人々をかえって仏教から遠ざけてしまうという皮肉な結果をもたらしているのが現状です。」
  • 原宿・六本木の格好だけ中身なし人種について
    「戦時下では鎖国状態になって、美とか教養とか、そういうものは一切的であるということで、全部抹殺されて灰になってしまいました。戦後はそれから立ち上がるはずだったのですが、本当はいまだに立ち上がっていませんね。ファッション一つとってみてもそうです。私は原宿あたりの竹の子族なんというのにうろたえている若い人たちに「あんたたち、ナウいナウいなんて新しぶっているけれど、そんなの古いよ」といったことがあります。昔、戦争前に私が長崎で見ていたファッションの方がもっとすごかったんです。(略)いまはファッション産業だヘチマだといっていますけれども、右を見て左を見て流行を追って、みんなと同じ格好をしなければいけないと思っている。(略)
    戦時中のもんぺ姿や、国民服等の制服を着ているのと同じです。(略)
    私が原宿や六本木あたりの人たちとあまり話があいませんのは、着ているものだけでお洒落をしているつもりになっているからなんです。それでナウぶっているのですが、中身はスッカラカンの方が多いのです。
    着るものの話と人のうわさ話だけで、あとは何もないんです。そしてしゃべる言葉も一色ですし、内容も一色で、何もかも一色なんです。そのくせ、他の街の人たちを見下したようなところがございまして、エリートみたいな意識を持っているわけです。」
  • 言葉の汚さは時代の変化で許されるものではない。下品は時代に関係なく下品である
    「最近では、
    マンガのせいだと思いますが、女の子たちが男言葉でしゃべりますね。しかも、乱暴な非常に次元の低い言葉でお互いに喋り、男の子たちもそれがかわいいみたいに思っていますね。そして家庭でそういう言葉を使っても、親たちが何とも言わない。古いようですが、私はそれは大間違いだと思います。(略)
    日本の言葉というのは、その時その場に合わせていろんな言い方があったり言い回しがあったりという、それほど豊かな言葉なんです。
    言葉というのは豊富にあった方がいいので、いろいろな言葉を生活の中で駆使して、親子でも使いあっていれば、家の中も楽しくなると思いますけれども、最近はどこの家でもみんな一種類の言葉で、言葉を楽しむということがないんですね。そのへんが日本人の心が貧しくなった理由のひとつだというふうにいえると思うのです。」
  • 演歌の醜さ
    「最近はどうでしょう。このごろの演歌の歌詞なんか聴いていると、鳥肌が立ちますね。ちっとも建設的ではないんですね。あの世の世界の浮かばれない霊がいるような歌ですよ。そんな歌を家の中で歌ってご覧なさい。背後霊がいるような顔になってしまいますから。」
  • 自分の中の遥か昔から蓄積された大宇宙を自覚する
    「『父親のあんな血が私の身体に流れていると思うと、ときどき夜も眠れなくなるんです。私もいまにああなるんじゃないかなと思うとノイローゼになりそうです』というのですが、『何いってんの。あなたはお父さん一人の子じゃないでしょう。父方の父方系統だけが先祖じゃないんですよ。あなたの血液の中には何百人何千人というひとの血が流れているのよ。あなたのお父さんにもお母さんにも両親がいるでしょう。その人たちにもまたそれぞれの両親がいるのよ』と答えました。そうやってさかのぼると、日本中に何百人何千人という先祖が出来ますね。中には徳の高い人格者もあれば、馬鹿もいればきちがいもいる。そういうふうにあらゆる人の性癖や因縁や歴史や血が全部自分の中に入り込んで、身体の中をめぐっているわけです。つまり、自分自身が一つの宇宙なのですね。けれどもみんな、自分をたった一個の完結した人間だという風に誤解して考えています。」
  • 結婚は最大級の修行の一つ
    「親子といっても兄弟といっても、たまたま同じ家計の家に前後して生れたにすぎなくて、魂、精神、考え方、人格は全く別々の人間の集合体ですね。そういう二人以上の人間が一つ屋根の下で暮らすということは、もう我慢と忍耐と努力以外の何物でもないわけです。まじめに考えればこれはたいへんな修行です。(略)
    「結婚って大変なのよ。するんだったらよっぽと心構えができてどんなことが起きてもビクともしないという覚悟ができてからしなさいよ。(略)」と私が言いますと「そんな先のことまで分かりませんよ」という返事が返ってきました。(略)
    とにかくすごくイージーなんですね。ままごとのように考えている。(略)
    女性は死にに行くようなつもりで覚悟して行ったものなんです。戦時中の物資がない時代、本当に食べ物もない状況の中で、子供が五人十人とあっても何とかやれた。それははじめから覚悟が出来ていたからですね。そういう覚悟というものができていれば、おいそれと離婚したり、子供をほったらかしにするということはしないわけです。(略)
    けれども最近の若い母親というのは、自分の感情のおもむくままに子供をひっぱたいたり、一緒になってケンカをしていますが、私は、「ああいう母親が殺されるんだな」というふうに思ってみております。」


  • 親子・夫婦も土足でふみいることは許されることではありません
    「何もかもさらけだすのが親子だという方もいらっしゃいますが、それはなれ合いですね。なれ合いをしなければ親しくない、水くさいという変な考え方をする人がいるんですが、それは横着からきているんです。自分がきちっとしていなければいけないのが面倒くさいから、どんなにだらしなくても相手に受け入れさせたい、認めさせたいという横着な、怠け者の心理からきているんです。(略)家庭というものはなれ合いの集団ではありません。相手の心の中に土足でズカズカ踏みいるこということは、他人は自分の持ち物ではないのですから許されないことなんです。」
  • 信頼していることを恩着せがましくいう人間のウラは、こういうことです
    「信頼するということは、相手にべったり頼ってしまうということです。(略)
    「あれだけ信じていたのにあの人はひどいことをした。私を裏切った」とお怒りになったり、嘆かれたり、人を一切信じられなくなったりということをよく言われます。でも、それは信じて頼った、つまり
    信頼した方がおかしいのであって、相手にべったり寄りかかっていたから、そういう結果になったのです。そもそも人間というものは、顔が違うように、考え方も生き方も思想も別々の人間の寄り集まりで、一つの家庭といっても違う人間の寄り集まりにすぎないわけです。みんな別々なのに「私の子供なのに・・」とか「オレの女房なのに・・」などと言いますが、自分の女房だからと言って、全く同じ思想、同じ性癖、同じ好みでないといけないと思うと言うことはファシズムであってヒトラーと同じです。(略)
    「もう人が信じられなくなった」という人がおりますが、自分を信じられない人が他人を信じることが出来るわけもないのです。」

  • 上流階級=大名を美輪明弘氏はこう見る!
    「私は認めませんね。だって考えてもご覧なさい。大名なんていうものは、いま生きていたら首が幾つあっても足りないような人たちですよ。切り取り強盗、婦女暴行で電気椅子間違いなしの犯罪人です。尊属殺人なんて平気でやっているでしょう。徳川家康なんてわが子だって何だって全部殺していますよ。国取りなんて格好言い言い方をするけれども、あれはただ単にやくざの縄張り争いにすぎないじゃないですか。大名が親分です。御台所や側室だとかいうけれども、あれは姐さんですよ。武士道だなんていっているけれど、人を殺すのに何か格好をつけなければいけないから、武士道だとか剣法だとか言っているだけですよ。言葉で飾り立ているけれど、端的に言えばあれはただの人殺しです。」

  • お経とは
    「ほとんどのお経には生きるための方便、つまり考え方が書いてあるわけです。現代風に言えば発想の転換と言うことですね。人生の上に生じた苦しみとか哀しみとか怒りとか、そういう色々な煩悩に対処する考え方です。どうすれば楽に生きられるかと言うことが書いてあるのがお経でございまして、なにもそういう呪文のようなわけのわからないものが書き連ねてあるのではありません。」
  • 鏡を見て我が身我が表情を見直して、和顔愛語を実行したいものです
    「とにかく人の眼を気にしないで、鏡があったら自分を必ず映して、自分の表情がどうなっているか確かめることです。鏡というものはうっとりするためにあると思っている方がありますが、そうではないのです。(略)自分の精神状態がどうなっているかを見るためにも使っていただきたいものです。毎日五回はそうやって鏡をご覧になった方がいいと思います。(略)
    それが自分を高めるための方法にもなるわけです。そして、そのうちに誰が見ても本当にいい顔になっていくのです。」

2005年5月24日火曜日

山田恵諦 ~共感した名文・名文句~

第253代天台座主。近年で一番知名度の高い座主で、瀬戸内寂聴も天台宗で彼女の著書内にも頻出するため、知る人も多いかも。分かりやすい説法です。

  • 人生をゆっくりと/PHP文庫
  • 腹を立てないことが人生の理想である「(心臓は)四十億回ドクンドクンとする力をもっているそうです。(略)
    そのくらい心臓は丈夫に出来ている。心臓を大切に、扱い方を上手にすればの話ですけれども。では、どういう扱い方が下手なのか。心臓を痛めるのか。
    一番悪いのは、怒ること、腹を立てることです。その次に悪いのは、心配事などがあって悲しむこと。そして急ぐこと。腹を立てず、悲しみごとがなく、のんびりと生きておれば、必要以上に心臓の鼓動を早めない。負担がかからないからこれがよい。(略)
    気分良く幸せに暮らしたいと想ったら、何も難しいことを考える必要はない。腹を立てず、毎日ニコニコ笑いを持って生活する。そのように努力を積み重ね、工夫をするしかないのです。それがもっとも人間らしい生き方の理想といえるでしょう。」
  • 親子の因縁はやはり仏教の説明が納得がいく
    「現代の人たちは価額で割りきれないものは全部偶然ということで頓けて、知らぬ顔を決め込んでおる。これでは人間関係の一番基本になる親子関係一つ説明できぬ。親は親でたまたまできてしもうたと思うておる。子にすれば、たまたま仲の良い夫婦の間に生れてくれば結構だが、たまたま喧嘩ばかりしておる夫婦に生れれば気の毒や。そばづえくろうて不運じゃったとなる。たまったものではない。親の因果、子に報い、というが、正確には親の因果ではなく、その親に生まれてくる自分の因縁を考えねばならんのです。そして、その因縁は自分自身が引き受けなければならぬ。一方、親の方としては、生まれた子は自分たちが勝手に造ったもの、たまたま出来たものと考えてはいけない。親の因縁だけで子供をとらえるから間違いが起こる。オレの子供なんだからとなれば勝手放題と考えてしまう。慈しんで育てるのではなく盲愛になる。親が子供を支配してしまう。子供道連れの一家心中が多いが、やはり親が勘違いしとると思います。自分の子は確かに自分の子であろう。だが、その子が生まれる因果を造ったのは夫婦二人であっても、その子がなぜ自分たちの間に生れてきたかということを考えねばならぬ。それが因縁の不思議さや。子は親を選んで生れることは出来んが、本当は親だって子を選んで生むことはできん。」
  • 悪を少しでも減らそうという三世思想が仏教の根本
    「なぜ、この世にはこんなに一杯悪事があるんや」と思う人がいるでしょう。善があるから悪があり、悪があるから善がある。(略)
    悪がまったくなかったら、善という概念は成り立たなくなってくる。悪には悪の存在価値があることになる。この世に存在するものには、すべて価値があるのです。(略)
    いま、地球に生息する人間全部を善にしようとしても、できやしせません。それはそれでいいから、少しでも善を増やす努力をすることです。せめて、地球人類の51%を善にすれば、善が進められる。(略)
    ところが、現在、
    世界にある宗教の多くは、こうしたことを教えていません。人間救済と言うよりも民族救済、三世思想というよりも現世中心思想となっている。(略)
    現世中心思想ということであれば、現世に執着し、自分の生きとる間に、すべての結果を求めようとあせることになる。「忘己利他」どころか、自己中心的な「忘他利己」の傾向がどんどん強まってしまう。
    それぞれの宗教には、それぞれの行き方というものがあります。それぞれの民族に合う教え方もあるでしょう。仏教をもっと広めよう、盛んにしよう、ということではありません。(略)
    お釈迦さまがありがたい、伝教大師がありがたい、仏教経典がありがたい、ではなしに、誰も文句のつけようのない尊い教えであり、今の世にとって、あるはこれからの人類にとって欠くことのできない精神であるから、そういうのです。」
  • 善行は自分へ返る
    「どんなことでも、縁のある人は大切にしなきゃならない。「情けは人のためならず」とはよく言ったもので、必ずいつか自分のもとに返ってくる。(略)
    あまりにも露に、自分に利益が戻ってくるだろうという目的意識を持つのは、結局のところ、情けでも親切でもないことになりますから、そういった不純な動機は捨てた方がよい。
    応報がもたらされるという期待などを抱かずに善を行えば、必ず報恩があるということです。」
  • 生かされているという意識が最も重要「自分を生かそう生かそうと考えたからいうて、自分が生きるものではないのです。自分を生かすんでなくて、「生かされている自分」になりきることが大切なのです。自分を生かし切ろうと思うと、どうしても自我が出てくる。自我が出てくると真実が見えにくくなる。真実がよう見えんでは、真実に対応する所作は取れない。つまり、その場にもっとも適した対応がとれんことになる。そうじゃなしに、生かされていく自分になりきろうとした時に、おのずから生かされていることに対する感謝の念が沸いてくるのです。(略)
    あくまでも素直で穏やかな自分になれる。その曇りない心が、真実を見るのです。それが仏の心であり、仏の教えであり、あなた方が仏になるための大道なのです。」
  • 現代医学・医者のありかたはまさにこれである「まず苦しみを取ることが先決だと、その先生は申されておった。(略)苦を除いてから安楽に死んでいったということと、苦しみながら死んだということには大きな違いがある。だから医者は生命を大切にすることは必要であるが、生命だけに忠実になって患者の苦しみを無視することはいけない。まず患者の苦しみを除いてやり、そのあとに生命をいかに持続せしめるかという方法をとる。生命の持続を第一義におくと苦しみは第二になって、非常に悲惨な状態になってくる。(略)
    技術が発達しても、人間の生命力には限界がある。これを仏教では、「定命」というわけです。」
  • 結婚の因縁について「(昔の考え方は)前世からの因縁で結婚するんだということです。こう教えられとれば、旦那さんを大切にするようになりますな。夫婦関係は円満になる。ところが出会い頭の結婚となると、因縁というものの大切さを考えないから破綻が来ます。最近、離婚が非常に高くなっているのもこれが原因です。(略)三世の因縁というものを大切なものとして考えませんと人心はすさんでくる。いまがよければそれでいいやないか、ということになるのです。(略)
    性格の偏った男女が結婚して、また子供を作って、また別れる。またその子が、となって、因果は巡ることになる。これは迷信でもなんでもなく、科学的事実なのです。
    好いた相手と一緒になる。その時は、これ以上の幸せはないと思う。(略)
    しかし、実際にはほとんどの場合、当初の愛情や幸福感を持続させることはできない。(略)
    それはそうでしょう。生まれも育ちも違う男女が、成人してから突然一緒に生活を始めたわけです。互いの立場を理解して、歩み寄っていくしかない。同ぜずとも和する努力が必要なのです。しかし、相手の立場への理解がないと、そうした努力の芽も生れない。自分の立場からだけ物事を判断するから、何もかも相手が悪いとなる。(略)
    この人と一緒にいても不幸せばかりだから、離婚しようと簡単に考える。(略)
    しかも、離婚によって相手も幸せになるのかどうか、そんなことはアホらしくて考えたくもないという。子供があっても、その
    子に与える影響というものを深くは考えない。これでは不幸の種を撒き散らしているだけです。(略)
    こういう不幸な人を、この世からなくしたい。すべての人を幸せに導きたいということが、お釈迦さまの願いです。」
  • 因縁を考え、間を究めること「人間関係は「間」が大切なのです。だから、「間抜け」な人間はどうしようもないといわれる。間をちゃんととらえて物事を処理する人間が人格者といわれることになるのです。ですから、人間関係にしても、仕事にしても、その場だけのものと考えてしまうと、どうしても良い結果が得られない。場当たり的なものは失敗します。連関するということがないから。すべては連関するという考えに立てば心に余裕が生れる。長期的な視野を持つことが出来る。長期的な視野を持てば、一時的な感情に支配されることなく、物事の処置判断が出来るわけです。私はこの因縁というものの不思議を常に忘れずに持っていることが、人間関係を円滑にさせる大切なよすがであると、いつも思うておる。そのためには自分自身をしっかりさせとかなならんと思うておる。しっかりさせるということは心を定めることです。」
  • 宗教を持つ人間が心に深く留めるべき名言「間違ってならないのは、宗派のための宗派、宗祖のための宗派ではないということです。どうも宗派にとらわれすぎ、宗祖にもたれずぎの人が多いようです。宗祖を大切にするというのは尊いことですが、たとえば親鸞聖人を拝み、日蓮聖人を拝んでおれば信仰が厚いかといえばそうではない。断言できますが、いかなる宗祖も、自分を拝んで欲しいなどと望んでおられるはずがない。そんなことよりも、教えを理解して、いまの生活に生かして欲しいと思うておられる。そして、人間としてもっとも美しく、清らかで喜ばしい幸せな道を、一人でも多くの人に歩んで欲しいと思うておられる。」

2005年5月14日土曜日

荒崎良徳 ~共感した名文・名文句~

曹洞宗僧侶ですが、金沢南無の会会長だけあって、宗派にこだわらないスタンスで、大乗仏教としての本質を、平易に、そしてぶれることなく的確に説いてくれます。

  • 修証義を読む 幸福(しあわせ)への道しるべ/図書刊行会
  • 「一億総餓鬼」日本は間近「現在、私たちの日本という国は、未曾有といわれる豊かさと繁栄の真っ只中にあります。しかし、それは物質面に限ってのことであり、精神面においてはどん底の貧困状態に陥っています。連日のように報道される醜悪極まりない事件の数々がそれを物語っています。(略)
    このまま放置しておけば、精神面の貧困は更に悪化して、取り返しのつかない「一億総餓鬼」の地獄国家に陥ってしまうことは明白です。」
  • 江戸思想管理以来、今も疑問を持たずに形だけを踏襲する、根本的保守人間・精神的奴隷ばかりで構成されるこの国家
    「江戸時代、徳川幕府は自らの権威・権力を維持するために、巧妙な思想管理を行いました。誕生・冠婚などの人生の節目の祝い事には日本古来の神道に従い、生きている間の生活規範としては儒教の教えに従い、そして、死と死後のことに関しては仏教の教えに従うように奨励したのです。」
  • 儒教=道徳先行、自分を問うことを怠った日本思想の流れ「江戸幕府が庶民に対して掲げた、生きるための指針としての儒教は、五倫・五常を説きます。(略)
    この五倫・五常を眺めてみますと、社会の秩序を保っていくためには、利用価値充分の徳目であることがわかります。為政者は、この徳目に従う者を善、反する者を悪と断定し、善を進め悪を懲らしめていくならば、社会の秩序は容易に保つことが出来ます。(略)
    しかし、この五倫・五常は
    道徳の範疇に属するものであり、自分を律することは出来ても、自分を問い続けることは出来ません。(略)
    江戸時代には倫理・道徳は栄えたけれども、宗教・仏教はほんとうのはたらきができなかった、ということになります。」
  • 偶然は世に存在しない「世の中にはこのような巡り会いを「偶然」の一言で片づけてしまう人がいます。そのような人は、まことに悲しむべき哀れな人だと思います。(略)
    仏教では、偶然ということを全面的に否定します。すべては縁によって起こり、縁によって生ずると考えます。一見、突然変異のように出現したり、または、無から有が生じたりしたように見えるものであっても、それが生ずるためには
    さまざまな縁がかかわり合っていると考えます。決して偶然ではないのです。」

  • 上面僧侶が充満する時代、三宝に帰すといっても「僧」を想像するのが難しいかも・・「真実の仏法に巡り会うことは極めて難しいことに違いありません。たとえ、寺で生れ、寺で育ったとしても、真実の仏法から遥かに掛け離れた生活をしている、いわば形だけの僧侶が充満している現代です。いかに生きるかということを真剣に考え、そしてそれを人に説き続けなければならないはずの僧侶、言い換えれば、真実の仏法を広く伝えなければならないはずの僧侶が、死者の冥福を祈ることだけに専念し、しかも、それを企業並みの商売感覚で行っている現代では、(略)遥かに困難かも知れません。」
  • 戒名について「仏教でも同じことで「受戒入位」して本当の仏教徒となった人には所謂「戒名」が授けられます。以上でおわかりのように、「戒名」は生きている内にいただくべき名前であり、具体的にいえば「仏教を信じて仏さまの教えに従って生きていこう」と決意したときにいただく名前なのです。従って、厳密に言えば、呼吸や心臓の動きが停止してから戴いたのでは、いささか手遅れだということです。」
  • 仏教に「自力」思想はない!、と曹洞宗僧侶が断言しておられます「仏教を生齧りした人は、「浄土真宗は他力の教えで、曹洞宗は自力の教えだ」などといいます。これは大きな間違いです。自力の教えなど仏教の何処を探してもありません。総て「他力の教え」です。何故ならば、仏教のどの教えでも、先ず最初に「帰依三宝」が説かれているからです。つまり、仏法僧の三宝に心からおすがり(帰依)し、自分のすべてをおあずけした後に、坐禅などの修行に励むのです。」
  • 政治の貧困や責任を他人に押しつけて世を批判しても始まらない「今、私たち日本人に欠落しているものを数えれば限りがありませんが、中でも最も欠落しているものこそ、この「三聚浄戒」(摂律儀戒:すべての悪をおこなわない、摂善法戒:すべての善事を進んで行う、摂衆生戒:すべての人々のために尽す)に違いないと思います。(略)
    この三聚浄戒は、仏教徒であろうがなかろうが、人間であるならば何としても守らなければならない根本のルールであるはずです。それを忘れ去り、それをなおざりにしているところに現代の乱れが発生したと思うのです。(略)
    この憂うべき傾向に対して、いわゆる世の識者達はさまざまな提言をしています。しかし、どの提言を聞いても、ほとんど上辺だけの言葉の遊びに過ぎないように感じられます。(略)
    退廃した原因の追求に言及したときは、きまって政治の貧困などをとりあげ、責任者不在の形で処理しようとしてしまいがちです。情けないことです。人間が人間として生きていくための根本理念である「
    悪いことをするな! 善いことをしろ! 人々のために力を尽くせ! それを幼児の頃からたたき込め!」という簡単明瞭なことを簡単明瞭に発言される方はほとんどありません。

2005年5月3日火曜日

中沢新一・河合隼雄 ~共感した名文・名文句~

団塊の世代代表でチベット仏教体得者として特異な位置づけである中沢新一教師と、ずっと上の世代でユングの権威である河合隼雄生徒による肩の凝らない、仏教に関する対話シリーズがあります。

  • 仏教が好き!/朝日新聞社
  • 後段が重要「仏教とは、堅苦しく学ぶものではない、と思う。途方もない誠実さを要求するものではあるが。」
  • 幸福と「安心(あんじん)」は全く別
    「最近ではお坊さんも平気で『幸福』という言葉を使っています。よくお坊さんが『人間はどうしたら幸福になれるでしょう』という質問をされているのを見かけます。そこでお坊さんは少し当惑してくれればいいのだけれど、しないんですね。さも当然のごとく『我執を捨てれば、あなたは幸福になれる』と答えるのですが、我執を捨てれば安心は得られるかも知れないけれども、ハッピーになったりはしないだろうに」
  • 金イコール幸福と思っているのが、未だにうじゃうじゃ
    「
    大きい遺産をもらってしっかり安心して生きている人は、もらわなくとも安心している人です。そうでなかったら、絶対何かおかしくなる。
    ところが、みんな漠然と幸福を考えていてよくわからないから、何か金がぽーんと入ってきたら幸福になるというイメージを持っています。現代人は金イコール幸福と考えすぎです。」
  • 人間が最初に思う疑問と最後に到達する疑問を包有するのが仏教
    「なぜ仏教が大事かというと、人間の思考の一番の始まりの状態と一番発達した状態というのを、一つに結合できる長所があるからです。この点は、キリスト教などはなかなか頑に出来ていますから、そういう人類の自然な叡智に、すんなりと辿り着くのが難しい。(略)
    イスラム教にもそういう弱点がありますね。仏教の現代性といったら、こういうことなんじゃないでしょうか。」
  •  仏教は一言でいうとこうである「その思想は、常識を粉砕し、権力をものともしない批判力を内蔵している。」

岡本かの子 ~共感した名文・名文句~

岡本太郎の母、という方がとおりが良くても、その息子以上に波瀾万丈の人生を生きた革新的女性は、深い大乗仏教徒でもありました。現代の我々からみても、遠く足許にも及ばない偉大な明治生まれ女性がここにもいたという事実に敬服するとともに、戦前日本人の精神世界の深さと頭脳に触れると、改めて現代人の堕落と人間力の低下に暗澹たる気持ちにならざるを得ません。


  • 仏教聖典を語る/潮文社
  • 因果律の平等なる支配により偶然は存在しない「生命は絶対に自在である。そしてその自在さのままで物とも現れ宇宙間万物を形作っている。このことを仏教の述語では物心一如といいます。(略)
    自在に堪えている何にでも平等に行きわたっている筈の生命がどうして一々の形を取るのであろうか。差別の個性を帯びてくるのであろうか。このことは仏教の方で最も大事なことであります。(略)
    これは
    因果律の支配を受ける為です。そのものになる原因があり、これを助成する縁があって、その結果、そういう特色になって現れるのです。(略)
    この見方からすればどんな瑣末な物事でもその歴史となる因と縁とを排する訳にはいかない。
    世の中に何一つ偶然ということはないのであります。」
  • 世のすべてにおいて、自分と無関係な物は存在しない
    「一つの物事は、宇宙の物事といつも互いに影響し合っている。ただわれわれ人間の洞察力ではその実に何十億分の一しか見えないだけであります。これが華厳経で説明する宇宙の生命の網であります。このことは何を教えるのでしょうか。善にまれ悪にまれすべての物事が自分にも関係がありとするなら総ての物事に対して自分も一分の責任がある。おろそかには出来ない。善に対してはいよいよ助力を惜しむことなく、悪に対してはただ無闇に憎しみ捨てず、自分の一分としてその矯正に努力する。」
  • 岡本流法華経の位置づけ
    「仏教の思想とて一時に完全に出来上ったとはいえないのであります。時にはあまりに冷たい思索に入り込みすぎ人間を化石にしてしまいそうな経文もあります。または、あまりに人情におもねり過ぎ甘い未来偏重の極楽思想で人間の現実生活の価値を捨ててしまうおそれのある経典もあります。かくてさまざまの思索と体験の矛盾に打突かったあと、要するに人間が人間であってみれば、人間中心の現実に踵をちゃんとつけた
    当面の生活に生活の意義を十分置く思想でなければ人間用の思想ではないということに気づき、ここに完成されたのが法華経であります。何といっても仏教では中心となる思想ですから、どの宗派でも多少この思想を取り入れない仏教宗派はなく、ただ以上のような理由からまともにこの思想を振りかざしていくのを敬遠しているだけです。法華経そのものは大文学であって規模の大きいこと、組み立ての複雑なこと、戯曲的であって色彩の華やかな事実で素人には中々要領が掴み悪うございます。」
  • 生死(しょうじ)の問題
    「われわれ生物は母の胎内に宿ったときが生の始め、肉体の生理的機能が泊まって再びとは働かぬ時が生の終わり、すなわち死とみておるようであります。しかし事実そうでありましょうか。われわれを形作っている物質方面の筋道をすこし手繰ってみましても、われわれが母の胎内に宿る前は、両親の肉体の細胞であり、その細胞はまた両親の両親から伝えられた細胞が栄養をとって増やした仲間の細胞であります。殖えた細胞の元となった栄養物といえば皆、体外の物質であります。(略)
    こうして調べてみますと、
    われわれの生の始まりに物質的方面だけでも、いくらでも過去に遡ることが出来、大げさにいえば我々の肉体は神代の瑞穂の稲からできているといっても理は通らないことはありません。(略)
    物質不滅の法則によって、生れたといってこの世界に水素、一原子、減りもせず、死んだといって酸素、一原子、増しもせずただ形を変えるだけの話です。」
  • 「一切衆生悉有仏性」
    「この言葉は涅槃経にありまして、涅槃の獅子吼説といって、大乗仏教のもっとも円熟した思想の表現された言葉です。くだいて申しますと、この世の中の人間は、一人残らず円満無欠の人格者になる素質を絶対に備えているのだということです。つまり満点の幸福に与る予備資格は必ず持っているのだということです。たださしあたりそうでないのは迷いがあり、修養が足りないからです。(略)
    仏教におけるこの言葉は、
    理智が卓越しており、直感の鋭い釈尊並びにその後継者が身命をかけて哲学し、究理し、全直覚を働かせて捉えた人類の素質の真髄ですから絶対的なものです。外れっこないはずです。ただその結果が現れるのには、人々の修養の程度、因縁の厚薄によって時間的に差ができるだけです。」

2005年4月30日土曜日

隻手音声

隻手音声
(せきしゅおんじょう)。
片手から出る音を聞け、ということ。
声なき声を聞け、という意味。理屈や現象に捕われる人間には至難の業。言葉の裏の意味を読み取ること。
人に説明の努力をさせる前にわかろうとする努力をしましょう。
白隠禅師の公案(2005/04/30)

一切衆生悉有仏性

一切衆生、ことごとく如来の智慧徳相を具有する
(一切衆生悉有仏性)

全てのこの世に存在するものは仏性を具有する。
子育てをしていて、本当に子供の可能性に日々驚嘆の連続であります。子の目覚ましい成長を見ていて、保護者(飽くまで社会通念上の)としての親の教育したもののは欠片程度、生来「仏性」を持っていなければなし得ない、そんな驚異的な、自分の力など微々たるものであり、生まれついての力を持っているのが人間なのだと、思う他、納得できる回答はありません。正にこのことの自覚なくして子育てはできません。そう考えれば私の子育て期に仏道に痛く共感することになったのは、因縁生起に他なりません。
涅槃経(2005/01/08、2005/4/30)

2005年3月1日火曜日

明珠在掌

明珠在掌
明珠掌にあり(みょうじゅたなごころにあり)。自分は既に手の中に宝を持っている。手の中を見ようとせずに、まだ遠くに取りにでかけようとしている。(2005/03/01)

知足

知足
足るを知る。これが最も幸せに近い人間である。
現状が不十分であると苛立ちを覚えたら、不満を言う前に、この一言を思うことです。足るを知るのです。
足を知ることは分を知ることでもあります。分限を知るのであってケチではありません。足を知るには「少欲」を知ることが必要。豊かさの消化不良を起こさず、豊かさを十二分にいかして行くには、積極的にものを生かすことに心がける。一枚の紙にも一滴の水にもいのちがあると知ることです。
(2004/12/23、2005/03/01)

2005年2月19日土曜日

四苦八苦

四苦八苦(2005/02/19)

すべては苦であるということを認識してから、仏教の思想は始ります。それを明確に分けたのがこの四苦八苦です。日常で使われていても、中身はあまり知りません。
釈尊は、人間は「必ず移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、無理な執着をつくりだすのだと説いています。
「人生は苦である。」と断定したことは決して悲観的・厭世的(えんせいてき)なものの見方を教えたわけではなく、「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうという事を断ぜられた真意はここにあります。
現代生活に即して云えば、酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その
原因を見つめる態度が大事であるという事です。このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが仏道をならうことにほかなりません。

  • 生
    生きるということは苦である。
  • 老
    老いていくいうことは苦である。
  • 病
    病気にかかるということは苦である。
  • 死
    死んでいくということは苦である。
  • 愛別離苦(あいべつりく)
    愛するものと別れるのは苦である。
  • 怨憎会苦(おんぞうえく) 
    怨み憎む者と会うのは苦である。
  • 求不得苦(ぐふとっく)
    求めても得られないのは苦である。
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく) 
    五蘊とは色・受・想・行・識のこだわりの苦しみ。人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)で感じるものや心で感じる人間の肉体や精神活動すべてが物事にこだわりをつくる苦しみ。