2008年9月7日日曜日

青山俊董 ~共感した名文・名文句~

尼僧の中でも傑出した洞察(有名な某尼僧は世間にどこか迎合した俗の臭いが消えないのであまり好かんのです・・)によって仏法のエッセンスを伝えてくださる希有の人。曹洞宗ならではの教えの尊さを説いてくれます。

  • 道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ / NHKライブラリー
  • 仏とは「お寺のご本堂の須弥壇の上に、金色燦然としたお姿で座っておられる阿弥陀様や薬師如来様、大日如来さま、そういう方を思い浮かべる人もあるかと思います。ああいうお姿をした方が見張っておられて、私どものお参りの仕方のいい悪い、お供えの多い少ないで、功徳を増やしたり減らしたり、罰を与えたりする、そんな仏様がどこかにおられるような勘違いをしている人もおられるのではないでしょうか。こうして私がお話をさせていただくことができる、皆さんに聞いていただくことができる。その間も、私を生かし続けてくれいているそのはたらき、それを名付けて仏と呼ぶのです。(略)
    あるいは「仏性」と呼ぶのです。」
  • 「宗教なんて大嫌いだ、人間が作ったものに縛られるなど」という人間に対しての回答
    ~人間の文化の営みで唯一超時代・超国境性をもつもの=真理=それが宗教なのです
    宗教は人間が作ったものではありません。人間が見つけ出そうと出すまいとにかかわらず、行われている天地悠久の真理です。そのことに、気づき、目覚め、その中で私どものいのちは、このように生かされている。だから、こう生きていこうじゃないかと教えられた。それが宗教というものであって、誰かが作り出したものではありません。ないものから作り出したというのなら、どんなにお釈迦様がご立派であっても、あるいはキリスト様がご立派でも、二千五百年前という、二千年前という時代的制約、あるいは、インドとか、イスラエルという地理的制約から、一歩も出ることはできなかったでしょう。誰かが見つけ出そうと見つけ出すまいとに関わらず、発見しようとしないとにかかわらず、行われている天地悠久の真理そのものが「宗教」の一番の元になっているのです。」
  • 人間の文化を、地球ができてからの流れで鳥瞰する「地球ができて四十六億年といわれていますが、この地球の歴史を一年にたとえてみますと、いのちらしきもの、微生物が誕生したのは、四月か五月なのだそうです。そのいのちを育み続けて、やがて人類が誕生するのは、十二月三十一日の夜十時過ぎだということです。そして、この人類が地球上に生まれて四十五万年、その人類の中で、文化らしきものを持ち得たのは、ようやくにして一万年だといいます。現在、世界をリードしている三大宗教と呼ばれるものも、たとえば仏法は二千五百年、キリスト教は二千年、イスラム教は千四、五百年の歴史があります。四十五万年の人類の歴史のなkで、わずかに一万年の文化、そして一万年の文化の歴史の中の、わずかに二千五百年、二千年、千四、五百年といいますと、ついこの間ということです。天地悠久の真理を見つけ出して、こうなっているんだよとお説きになった教えというものは、ついこの間のものであり、その教えの一番もとになったのは、発見する、しないにかかわらず行われてきた天地の姿です。そういう天地の姿、お釈迦様が見つけたものを「仏法」と呼んでいます。(略)
    そこに教えが生まれ、それが「仏教」という言葉で表されています。その教えが人の道でもあり、私どもの
    毎日の、今ここで生きる実践道でもありますから、道元禅師はまた「仏道」と呼び変えられました。仏法、仏教、仏道と呼び変えられている道元禅師の深いお心を心していただきたいと思います。」
  • 仏道は自覚の宗教「仏陀とは梵語で、訳して覚者、真理に目覚めた人という意味で、お釈迦様お一人の専売特許ではないのです。誰しもが自覚すれば仏陀なのです。「自覚する」、少し表現を身近な親しいものに替えてみれば「気づく」ということにはなりはしませんか。仏法はもともと仏のお命を生きていることに自覚して生きる教えといわれ、キリスト教が創造の神との契約の宗教といわれるのに対し、自覚の宗教と呼ばれるゆえんもここにあります。」
  • 「五味禅」は宗教とはいえぬ「ヨガのグループにお話にいったこともございます。この人たちも坐禅に似たことをします。たしかに新人の健康のために紅花はあるでしょう。けれども結果としておのずからそうなるのと、それがほしくて、それを目的として坐禅を組むのとでははじめから全く姿勢が違います。何かがほしいための坐禅、、あるいは何年坐禅をしたということを自分を飾る衣装にしている人もおります。これらを味付けされた禅、五味禅といいます。(略)
    肝っ玉を太くしたい、健康がほしい、悟りがほしい、受験に合格したい・・・。凡夫が真ん中に腰を下ろしていて、その凡夫がほしいほしいほしいの坐禅、これが餓鬼坐。あの人に負けたくない、この人に負けて悔しいと競り合いの坐禅が修羅坐。悟った、いい境涯になった、合格したと酔っぱらって有頂天になる禅が天上坐。とにかく、私だけが悟ればよい、私だけが立派に行いすませばよいというのが声聞坐・・・。そういう坐禅をしてはならないというのです。ほしがったり、キョロキョロしない。今やっていることを何かの足しにしようと思わない。今やっているそこへいろいろなもを持ち込まない。おごりたかぶったり、ひがんで落ち込まない。
    ひたすらにまっすぐに、無所得、無条件でそれに立ち向かう。そのこと自体を目的として打ち込んでゆく。そういうあり方を、純一の行、一色の弁道、一味禅などというのです。」
  • 仏道でいう善悪は超時代・超国境性を備えるもの「立場が変わると善悪が逆転するような善悪は、ほんとうの善でも悪でもない。時と所を超え、立場を超えて変わらぬものがほんとうの善であり悪であるべきものです。私どもの善悪はどこまでも自分の都合中心で、そこを良寛様は「人間の是非一夢の中」とおっしゃり、道元禅師は、凡情や凡眼でみたり考えたりしてはならい、お示しになりました。(略)
    お金や名誉、役に立つとか立たぬとか、そういうものさしを当ててつまるとかつまらんとかいう序列をつけるのが、凡眼であり凡情なのです。凡眼凡情では、計算に合うこと、名誉になることが価値あることとされます。そのようなことをはなばなしくやるのは誰にだって出来ることです。」
  • 子育ての一つの大原則「「百人の子どもを若人とも勉強嫌いにするたった一つの方法は、朝から晩まで『勉強しろ、勉強しろ』とがなりたてることです。間違いなく勉強嫌いの子どもができるでしょう。そんなことより、むしろ生きてゆくということはどういうことか、自分の足で生きてゆくということはどういうことか、親は一度の食事のために、一枚の着物のためにどれだけの汗を流しているか、子どもと一緒に仕事をすることで、身体で子どもにわからせることの方が大慈大悲なのです。」(略)
    子育てはそのまま自分を育てること。子どものお陰で親が親として、また大人として育ってゆくんですね。育ててやったんだという姿勢ではなく、子どもに私が育てられたと、子を拝む姿勢で子育てをしてはじめて、ほんとうの子育てができるというものでしょうね。」」
  • 仏道は「実相」であって、主義思想ではない「一度文字や言葉という文化が生まれると、その母体であった天地の実相から浮き上がり、言葉や文字だけが一人歩きを始めます。それが思想や主義などと呼ばれるものではないでしょうか。天地の事実、実相は一つですが、それをどう受け止め、どう表現するか。そこに違いが生じ、事実を切り離して表現されたものだけを相手に論じ合ってゆくとますます違いはひどくなり、たとえばそこに宗論のような争いも起きてくるというものでしょう。」
  • 僧のあるべき姿「『法輪転ずるところ食輪転ず』といってな、坊さんは仏法を学び、それを一つでも二つでも実践し、また人々にお伝えする。そのことだけを考えていれば、自分が食べてゆくこと、生活してゆくことなど考えなくとも、自然に授かるものなんだよ。』」
  • 道徳ではなく仏道の観点からも指摘できる話「(電車内で中学生と教師の集団がばか騒ぎをしているのにでくわし・・)「引率の先生はいったい何をしているんだろう?」とたまりかねて立ち上がってみると、どの先生も全く無関心といった表情で新聞を読んだりおしゃべりをしています。校外へ社会教育か何かで連れ出したときこそ、日本人にとかく欠けている社会道徳や常識的な心得を実際に身につけさせる絶好の機会なのに、この先生方は校外教育を何と心得ているのだろうと、いっそう腹が立ってきました。今、私のしていることが、周囲にどんな影響を及ぼしているか、眠れないでいる人はいないか、本が読めないでいる人はいないか、赤ちゃんが泣き出したのはわれわれのせいではなかろうか、という心の働きの出来る人が一人もいないのです。生徒はともかくとして、それを教えるべき先生がそれに気づかない。恐ろしいことです。自分さえ楽しければよい。そのために他人はどんなに迷惑しても一向にかまわない。自分にしか目が向けられていないため、他人の迷惑していることが見えないのです。見る目が最初から育てられていないのです。自分のことしか考えられないという、自己中心的な利己主義の芽だけをどんどん伸ばしているというのが、今の日本の社会のありようではないでしょうか。」
  • 他人に合わせることを口実に生きる人間のその日々の行為も、イコール紛れもない自分の人格となるのです「善いことであろうと悪いことであろうと、たとえそのことが人とのおつきあいでしぶしぶやったことであろうと、あるいは強制的にやらされたことであろうと、行為をしたという事実は事実として、間違いなく私の人生の一頁に永遠に刻み込まれてゆくのです。一瞬一瞬の行為の集積が一日となり、一ヶ月となり、一年となり、一生となり、またその行為が私の人格をごまかしようもなく刻みあげてゆくものなのです。」
  • すべてを自分の責任として引き受ける「愚かなもの、心ないものは、自分の人生を他人事のように白けてみているが、心あるものは、他人のどんな姿からも、私のこととしていただき、反省し、学んでゆくというのです。(略)
    都合の良いことは自分の手柄といたしますが、都合の悪いこととなりますと、責任を周り中に転嫁します。相手が悪かったからとか、社会が悪い、時代が悪い、運が悪い、先祖が祟っている、などといって。ときどき、「家族に不幸が続いて、あるところへいって見てもらったら先祖がたたっているといわれたので、先祖供養をしてくれ」という人がやって参ります。そんなとき、私は声を強めていいます。「思うようにいかない人生を先祖の責任に転嫁しないことです。ご先祖様は子孫の幸せこそ願え、不幸になるようになどとたたるはずがないじゃないですか。思うようにいかない原因は、他ならない自分自身の生き方にあったのではなかったかと、謙虚に自分の責任として反省し、思うようにいかないことをむしろ跳躍台とし、肥料と転じてこそ行くべきものでしょう。それに、
    たたってもらいたくないための条件付の先祖供養などは、先祖供養でも何でもありはしません。責任を転嫁した上に、先祖を脅迫しているだけです。供養は供養として、純粋に報恩行としてつとめなさい。うまくいかない現実は、自分の責任として引き受け、逆にプラスに転じてゆきなさい」と。」
  • 「仕事に生き甲斐を持つ」という嘘くさい美談に痛快な一石~この思考こそ佛道の真髄と思います「(モーレツ仕事人間の女性タクシードライバーとの会話で、女性タクシードライバー曰く)「私、少しでもじっとしているのがいやなんです。とにかく身体を動かして働くことがたのしいので、朝晩、それから日曜には畑仕事をやり、その合間を縫ってタクシーの運転手にも傭ってもらっているんですよ。毎日がとても生き甲斐があって、たのしいです」(略)
    (師曰く)「身体を張ってバリバリと仕事に取り組む、そのことから生き甲斐をちょうだいして、いきいきと生きることは素晴らしいことだけれど、それだけを生き甲斐としていたら、動けなくなったとき、目も当てられないほどみじめになりますよ。身体を張って仕事をする、結果がどんどん出る。子どもを育てる。野菜作りをする。やっただけは正直に答えが出て、たのしく、やりがいもあるでしょう。けれども、ほんとうの生き甲斐や人生の取り組みというのはね、気に入ったことだけに向かって、身体を張って剃れと取り組むということだけに生き甲斐や喜びを感ずるのではなく、病気になったら、病気に取り組み、寝たきりになったら寝たきりという、今ここの一歩にいのちがけで取り組むことをもって生き甲斐とする、というのでなければ本物じゃないのよ。夢中になって働き、働くことにのみ生き甲斐を感じていた人ほど、病気になったとき、はたらけなくなったとき、一気に生き甲斐を失い、虚脱したようになってしまいがちですからね」身体を動かすことによって生き甲斐を感ずることの方が楽なことなのです。(略)
    ほんとうの生き方、ほんとうの生き甲斐というのは、自分に与えられたそのことが、我が心にかなうことか、かなわなぬことかを問うことなく、今出会っているそのことを、全力を尽くしてつとめあげる、そういう生き方自身よりいただくというものでなければなりません。(略)
    「こうなったら幸せ」という条件付ではなく、「どうなっても幸せ」という在り方とは何なのか、を心にきちんといただいておかないといけないと思うことです。」
  • 四諦を説き、八苦を説いた釈尊の偉大さ「求める心を起こし、そういう生き方をするようになるためには、教えが聞けなければならないわけです。教えが聞けるようになるためには、アンテナがたち、スイッチが入らねばなりません。そのアンテナやスイッチは苦に導かれることによって入るというのです。求道心を起こせと説く前に、求道心を起こす原動力となる苦の自覚をお解きになったところがすばらしいですよね。」
  • 「真理は一つ、切り口の違いで争わぬ」(余語翠巌老師の言葉)「道元さまはひたむきにお釈迦さまを慕い、宗派根性を排し、自らは「仏法房」と称せられ、「自法愛染の故に他を棄しすることなかれ」とつまり自分を良しとし他を誹謗してはならないと戒められました。その道元さまの法孫が、永平寺派や、総持寺派といったように、本山護持の名の元にそれぞれの勢力を競い合っているのは、まことに哀しいものでございます。人間は弱いもので、何かに依っていないと安心できないのですね。(略)
    暴走族も一人一人バラにすれば、気の弱い、みんないい子たちです。むしろ一人では何もできない、自分の確固たる信念がないからこそ、グループに頼ろうとし、確たる信念がないから簡単にグループの信条に染まり、それを自分の信条と思いこみ、軽率に行動に移す。怖いことです。これを澤木興道老師はグループぼけと呼んでいらっしゃる。(略)
    お釈迦さまが「
    他を拠り所とせず、自らを拠り所とせよ(自帰依)」とおっしゃったのがそれなのですね。これは天地の法をしっかりと見据え、そこに腰を据えて生きる(法を拠り所とする=法帰依)というバックボーンがあってはじめて確立する生き様なのかも知れません。」
  • 「仏道とは」というのに最上の答えの一つがこれであります!「澤木興道老師の言葉に「宗教は生活である」という一句があります。ご利益信仰でもなく、学問や思想などのような観念の遊びでもなく、仏像や伽藍などのような芸術でもなく、まして渡世の職業でもない。たった一度の、かけがえのないこの生命の今を、最高に洗練された生き方で生きる。その生き方を具体的に教え導くもの、それが宗教であり、特に道元禅師の教えがそれだというのです。」


  • 仏のいのちを生死する / 春秋社
  • がむしゃらを妙に神聖視する世俗に対して、仏法はその目的と中身を問います「仏法での「おこたり」というのは「放逸」という字を当てまして、自分のわがままな生き方、自分のエゴを中心とした生き方をすることを指します。欲の満足を追いかけての生き方を「おこたり」というのです。また、仏法で言う「はげみ」とは、自分の欲の満足のために寝もやらず努力することではありません。天地の道理に従って、仏に引っ張られての歩みを、精進というのです。」
  • 健康な人間は時として傲慢であります
    健康であるがばかりに耳が開けず、目が見えず、アンテナが立たず、話を聞いても聞こえず、教えを読んでも目に入らず、その人に出会っても会えない。そいういう偽物の私として長生きするよりも、苦と対決するそのおかげで、アンテナがたち、耳が開け、そのおかげで仏法が聞けての半年や一年の命の方がいいんだというこの受け止め方は素晴らしいことです。」
  • 仏法を学んでいる自分が最も自戒せねばならない落とし穴「法をかざしての「俺はちゃんと法のとおり生きている、仏さまのモノサシ通り生きている」という自信は、裏を返すと、やらない人や出来ない人を切る刃になってしまいます。人を非難する材料になってしまうのです。こうしたところに気をつけたいと思います。」
    「俺が苦労して手に入れた、俺の道心で悟った、絶対に間違いのないものを捕まえたという思いが、いつの間にかおごりのこころを育て、悟らない人や修行をしない人を非難する刃になりかねません。法の灯火をかざし、法のモノサシに従って生きることは大切ですが、その灯は私の内を照らし、私の足許を照らすものでなくてはならないと言うことです。他の非を暴き出し、他の非を責め立てるために法をふりまわしてはなりません。」
  • 結婚する人間が心に留めておくべき、と師は語ります「私の方がやわらかい心であなたの方がセトモノだと思ったら、その心がセトモノの証拠です。私がセトモノだったなあと気づかせてもらう心が柔らかい心なのです。(略)
    しかし、自分の顔を直接自分の眼で観ることが出来ないように、自分がセトモノであることは、自分では観ることができません。仏さまの明るい大きな光に照らし出していただかないと、私のセトモノには気づかせていただけないのです。(略)
    私どもは、あらゆるところで我が身可愛い思いを中心にして生きています。その自分の姿に気づくのは、自分を照らしてくださる教えに出会えたお陰なのです。
    自分でも目を背けたくなるような私を見せていただけるというのは、私を照らしてくださる光が明るい証拠です。」
  • 慢心を戒める「仏教の深層心理学「唯識」の権威であられる太田久紀先生は「慢の心所のやっかいなのは、慢心を克服したと想う瞬間、慢心を克服したという慢心が起こる」と語っておられます。(略)
    ことわざに「自慢高慢馬鹿のうち」などというのがあったり、驕慢、我慢、増上慢、傲慢、慢心など、慢の字のつく言葉は多くあります。(略)
    「慢」は、「他の人と自分とを比較して、自分を少しでも高く位置づけようとする心の働き」をいい、「あいつに比べておれのほうがえらいと思う」心で、「相手を意識すること自体が狂いの元」だとおっしゃっています。その心の深みには「おれが」という我が身可愛い思いが毒蛇のようにとぐろをまいていることを、するどく指摘されておるのです。(略)
    「唯識」ではこの「驕」を、無病驕(健康への驕り)、少年驕(若さへの驕り)、長寿驕(長寿への驕り)、族姓驕(氏素性への驕り)、色力驕(セックスへの驕り)富貴驕(財力への驕り)、多聞驕(博学多才への驕り)、善行驕(善いことをしたことへの驕り)の八項目に分けて説いています。いずれもいずれも思い当たることばかり。仏教が人の心の深奥をいかにするどく見据えているかに、改めて思いをいたすことです。」
  • 死ななかったら困る「凡夫の私どもは一生懸命しがみついて、「死んだらかなわん」と思いますが、よくよく考えてみると、みんなが生きていたら困ります。「死ぬからいいんじゃ」というのは、純粋客観の立場から、仏の目の角度から観て初めて言える一言であり、ちょうだいできる世界だと思います。
    いろいろと考えさせていただきましたが、「
    死を見据える眼が深まるほどに、生を見据える心も深まる。死を忘れたとき、生も忘れる」ということに気づきました。逃げようのない死との対決を通じ、死を見据える眼が深まるほどに、命の大切さや今生きていることの意味、あるいはどのように生きたらよいかということの答えなども確かに得ることができるのだということに気づかせていただいたのです。」


  • 悲しみはあした花咲く 摂心日めくり法話/光文社
  • 真の美しさ「本当に美しい人とはどんな人でしょう。美しく生きるとは、どんな生き方なのでしょう。(略)
    おしゃれというと私たちは、すぐ服装や持ち物や化粧のことを考え、言葉のお洒落ということは、ほとんど忘れております。美しく着飾った淑女が汚い言葉を使ったら、せっかくの衣装も色あせて見えるものです。しかもこの言葉のおしゃれは一夜漬けが全くききません。(略)
    声は、その声を出す人柄によって決まるとなると、昨日今日身につけた演技ではなく、生涯に渡って培ってきた、その人の全人格に帰着するということになります。人格は一日で教えていただいたり、一年や二年で育てていただくこともできません。
    毎日、毎日、それも長い年月をかけて育て上げていくのが、人格であり、言葉なのです。(略)
    若いだけの美しさや、親からいただいてきたうつくしさには、私は何の魅力も感じません。若さや天性の美しさは、自慢できることでないばかりか、かえって自惚の材料になりかねません。(略)
    生まれついていただいてきた美しさとか、醜さというものは、自慢することでもなければ、また恥ずべきことでもありません。問題はこの素材を三十歳なら三十年の歳月をかけ、五十歳なら五十年の歳月をかけ、七十歳なら七十年の歳月をかけて、どう刻んできたかです。この年月、何を思い、何を語り、どう行為してきたか。心に思っただけで言葉に出さず、具体的行為に表れなくとも、心に思ったという事実は事実として、一刀のノミとなって私を刻んでいきます。まして言葉に出し、行為として実践にうつせば、たとえそれが周囲の目や耳にふれなくとも、行為したという事実は、私の人格を刻みあげてゆきます。三十歳の人は三十年の歳月の生き方の総決算の姿が今の姿であり、七十歳の人は七十年の歳月をどう生きたかの総決算の姿が、いまこの私なのです。みる人がみれば、あなたの姿を生み出したそれまでの歳月の有り様は、手の内をみるように読み取れ、また明日の展望さえ出来てしまいます。(略)
    原因結果の遅速こそあれ、因果歴然の法則はごまかいしょうのない天地の法則なのです。早合点してはいけません。因果論は動かしがたいとあきらめる宿命論とは違います。「因」に何の「縁」を加えるかで「果」はいかようにも変わってゆきます。」
  • 勝ち組負け組という愚かな現代の流行に対して一石「人生という土俵にあって、我々はとかく負け状態になるとダウンしてしまいがちです。そういう人は逆に勝ったとき、高慢になります。高慢になるのと劣等感で落ち込むのとは、同じ心の構造の裏表ですから、勝って奢らない修行、負けて落ち込まない修行の方が、勝ち負けの技を磨くよりもっと取り組みがいのある人生修行と申せましょう。(略)
    「負けるが勝ち」といいますけれど、負けることができるというのは、精神的に大人でなければできません。(略)これは心が柔らかで、大きくなければ出来ることではありません。(略)
    小人にとって大切なことは私のメンツであり、従って勝ち負けだが大問題なのですが、精神的に円熟した大人にとって問題なのは、そのことが是か非かであって、私が勝つか負けるかなどということはどうでも良いことなのです。」
  • 私が常日頃から「子育て」を捉えてきた考え方がそのままここにありました「子どもが生まれなければ親にはなれないものです。子どもが生まれると同時に、親も誕生するのです。子どもも零歳なら親も零歳。子どもと一緒に年齢を重ねてゆくものです。(略)
    子どもの信に答えうる親になるためには、
    子どもの成長と共に日に日に成長してゆくことを忘れてはならないと思うのです。(略)
    「子どもこそ、大人の親ぞ」という言葉があります。親を親として、また一人の人間として育て上げてくれるのは子どもだといういうのです。(略)
    子どもを鑑として自らの生き方をかえりみるとき、親として、人として、落第でしかない私がそこにいる。わが子の前に「勘弁してくれ」と詫び、しかしながら、「この子の信に応えうる親にならなければならない」と子の前に姿勢を立て直し、立て直し、生きようとする。そういう人こそ、親らしき親になれる人ではないでしょうか。そいういう親の元にあって初めて、良き子も育つというものではないでしょうか。(略)
    よき育児と「育自」によって、いまの混乱した日本も、必ずよくなります。」
  • そして夫婦についてはこう捉えるのが一番と思います「夫婦というものは、一千万人の中からたった一人選び出した「修行の相手」と思ってはいかがでしょうか。時たま会っているだけというときは、よそゆきもできましょう。初めのうちは何とかなるでしょう。しかし一日24時間、1年365日を、何得十年も一緒にいるということは大変なことです。愛だ、恋だ、楽しくって楽しくってという時間もあるでしょうけれども、精神的な面で時に友となり、時に師となり、弟子となりあいながら、共に成長し続けるのが結婚生活です。(略)
    大切なことは、いってはならぬことを言い、やってはならぬことをやってしまうことによって、お互いに傷つけ合ったその痛みを、さらに限りなく突き合うことによって、傷をいっそう深いものにしてゆくという悪循環を繰り返さないということです。」
  • 「賢い人」「正しい人」ばかりが集まると地獄化する「光に照らされてこそ知ることができる私自身の闇であり、私自身の愚であり、偽物でしかない私の姿なのです。光に照らされて、私は愚か者、偽物と知ることが出来た人同士が集まるところに争いはありません。光に照らされない人ほど、おのれの闇や愚に気づかないまま、私は賢いと思い、私は絶対に間違っていないと思いこむ。そういう人の多い世界、例えば職場、集団、サークル、家庭などではいつも争いは絶えず、その人のゆくところに必ず地獄絵が展開されています。」
  • この種の手合いが多いのが福祉業界か、ボランティアか「私もあなたも「なくてはならぬ人間になりたい」と思います。しかし、ここでよく考えなければならないのは「なくてはならぬ人」というのは第三者がいってくれることであって、自分から自分の功を読み上げて、名乗り出ることではないということ。「あなたたちは私のお陰で大きくなることができたのよ」「この仕事も私のお陰でここまで成功した」「このクラブ活動や市民活動も私の力で」と、自分から名乗り出て、「私こそなくてはならぬ人間だ」という顔をしたとき、その傲慢さ故に、周囲から「いないほうがいい人」とされていることに、どうぞ気づいてください。「『なくてはならない人になろう』とどんなに努力しても、なかなか思うようにゆかず、まわりじゅうに迷惑ばかりかけて、ほんとうは『いないほうがいい人間』なんだけれども、みなさんにがまんしていただき、許していただき、生かしていただいている。・・そのご恩返しとしてできるだけのことをさせていただきましょう」という謙虚な姿勢で生きている人こそが、人々から「なくてはならぬ人」といわれる人なのです。」
  • 慢心を戒める「諺に「自慢高慢馬鹿のうち」などというのがあったり、驕慢、我慢、増上慢、傲慢、慢心など、慢のつく言葉は意外と沢山あります。(略)
    「慢」は「他の人と自分とを比較して、自分を少しでも高く位置づけようとする心の動き」をいい、「あいつに比べておれのほうが偉いと思う」心で、「相手を意識すること自体が狂いのもと」だとおっしゃる。その心の深みには「おれが」という我が身可愛い思いが、毒蛇のようにとぐろをまいていることを、するどく見逃しません。」
  • ニセの宗教のポイント=青山俊董禅師版「間違った教えにのめりこんだばかりに、本人の人生を狂わせてしまうばかりでなく、家族や親戚までにも迷惑を及ぼし、言葉を尽くしての説得も「法難」と称して聞く耳は全く開かれないという例は数知れません。(略)
    その宗教が本物かインチキかを見分けるモノサシをいくつかあげてみましょう。
    第一に、正しい宗教は科学を超えるもの、あるいは科学を包み込むものであるけれど、科学に反するものではありません。ですから
    あまりに非科学的なことをいう宗教は迷信と考えて良いでしょう。
    第二には、無条件ですべてをいだきとってくださるのが本当の神仏というものです。お参りの仕方や、お供えの多少によって、ご利益に増減があったり、その宗教にとって不都合なことをすると「罰が当たる」という形でおどしにかかるものは、インチキ宗教です。従って
    先祖が祟っているとか、水子の霊が邪魔しているとかいって、序霊とか縁切りとかをしきりに持ち出してむやみに金がかかるのも眉唾物と思ったらよいでしょう。
    第三には、超能力というよな言葉が象徴するような、たとえば空中浮揚をしてみせるとか、そいういうことが出てきたら、これも用心してください。
    第四に
    教祖とか会長と呼ばれる方が、生き仏、生き神の座に君臨している宗教も要注意です。(略)お釈迦様さえ、「私はお前たちの師ではない」とおっしゃり、「法を師とせよ」と示され「法の前に皆兄弟である」と説いておられます。
    第五に人間社会という共同体の調和を壊していくような在り方を強制するのは、やはり本当の宗教ではありません。(略)健全な常識ではちょっと考えられないような反社会性、反倫理的行為があったら、これも要注意です。正しい宗教は倫理を包み、
    倫理を越えるものであっても、反倫理ではありません。」


  • 生かし生かされて生きる/春秋社
  • 無常を心得ること・・・現代の全人類の人生観そのものが誤っている、という結論です「よくよく考えてみますに、私ども凡夫が幸せと考えているものは、みな物なんですね。一生生きてゆく上での、年齢とともに持ち替えてゆく持ち物であり、年齢と共に着がえてゆく衣装なのですね。(略)
    私どもがかけがえのないいのちを代償として追い求めていたものは、年と共に持ち替え、年と共に着がえてゆく衣装にすぎなかったということです。肝心な持ち主そのものが忘れ去られていたということです。持ち主を忘れて、持ち物を追いかけることだけにうつつをぬかし、それを得たことに酔いしれていたということです。持ち物である限り、物というものは無常であるということ、移ろうものであるということは天地の道理であります。(略)
    その
    移ろうと止まぬものに、変わらぬ幸せを求めようとすること自体が間違っているのです。人生観そのものが根本的に間違っている。一刻も早く間違いに気づき、一刻も早くこの酔いから覚め、持ち主そのもののありようを問わねばならない。(略)
    ところが今や、
    国を挙げて、人類をあげて、この持ち物を得ることの幸せへと狂奔しているのではないのでしょうか。政治も経済も科学も、すべてこの人間の持ち物への欲求の満足のために、ひた走りに走っているというのが、現代の姿ではありませんか。文化と呼ばれるものの内容も、おおかたこの方向に向かって走っているようです。(略)
    このへんで人類は本気になって、生きる姿勢の、一切の方向の転換をしなきゃならんのじゃないかと思うのです。持ち主、私は一体どう生きたらいいのか。真っ裸になった私自身はどうしたらいいのか。そのことを問わなきゃ駄目なんじゃなかろうかと思うんです。持ち主、私の、今の、ここの生き様なんですよ。その持ち主、私のこの命も無常なんですから。明日ではない、どこかではない、今日ただ今、この足許をどうしたらよいのかを問わねばらならないのです。」
  • 本物の僧の口からは必ずこういう現代葬式仏教への批判が出ます(それが本物を見分ける一つの基準ともいえます)「いつのまにか仏教というもの、お経というものが、生きた人にはお尻を向け、亡くなった人に向かって読むもの、読んでいる人自身も分からぬようなお経を、呪文めいて読むのがお経のような錯覚を覚えてしまっていることは、残念なことでございます。(略)どう生きるべきかを問う、人生の道しるべとして読むのがお経であり、今日の私の生きる姿勢の乱れをただす鏡として読むのがお経でなくてはならないのです。死んでからの話ではないのです。」
  • 「生きがい」というような特別なものは存在しません「生きがいといいますと、私どもは何か特別のことをしないと生きがいを感じられないかのようにぼけてしまっております。お忙しいのにこう云うところへこられてお話しを聞いてみるとか、あるいは修行道場へ行って痛い足を組んで警策でぶっ叩かれてみるとか、なにか特別のことをしないと生きがいが感じられないかのようにぼけてしまっております。(略)
    しかし平凡に過ごす一刻も、特別のことをして過ごす一刻も、かけがえのない私のいのちを生きている一刻であることに変わりはない。
    どの一刻も私の命の重みに変わりはない。となれば、平凡なこととして、つまらぬこととして何気なく過ごしている人生の大方の時間の、そのひとつひとつを精一杯大事に生きるより他に、燃えさしを大事に生きる生き方はないということになりますね。(略)
    病気で辛いのは当たり前。当たり前のことは悩まないのだ。是が大事ですね。病気で辛いというのと悩むというのとは世界が違います。次元が違います。(略)
    それよりもせっかく病気をしたんだから、健康ではわからない、病んでみなければ気づかせてもらえない、生かされている命の姿というものを見詰めさせていただきましょう、学ばせていただきましょう。(略)
    どうせ病まねばならないのなら、「病むことを得たり」といえるような、この病気にかかったおかげでこんな人生への目が開けた、こんな人生の展開が出来たというような病み方、病気の受け止めかたがでkちあら、病気をしながらも、病気を越え、病気が財産にさえなっているのではありませんか。」
  • 乳幼児の育児への心構えはやはりこの通りです「家庭の雰囲気、親子、兄弟、夫婦の愛情、嫁と姑の間の感情のしがらみ、一見の中での雰囲気がどんなふうかという、それがどれほどに子どものこころに影響を及ぼすか。それは子どもの将来を左右するほど大きな力を与えるのです。親の心の僅かなゆらぎ、家庭内の雰囲気のあらゆる形が、子どもの心の健全な成長にひびくことを忘れてはなりません。人間の一番大切な心の形成というものは、三、四歳までで百パーセント完成だそうです。この一番大事なこころを育てるときに、最新の注意を払って、育ててやっていただきたい。何も分からないからといっていい加減なことをいってはいけない。子どもの前で、口争いも、恐ろしい思いもさせたくない。その親の目の動き、心の揺らぎ、全部を真っ白い心の印画紙にやきとり、読み取って育っていくのですから、それがその子の生涯を支配するほどの力になるのです。二度と書き直しの出来ない文字を、切れば血の出るこの体で、毎日刻々と書き与えてやる、それが子どもの周りに立つ親の姿であり、親たちの責任です。」
  • 親は子にとってこういう存在であることを自覚し続けなければ「お母さんになる日が来たら、お母さんのようなお母さんに、お父さんになる日が来たら、お父さんのようなお父さんになりたいと胸を張って言える子どもは幸せです。今日食べるものが少なかろうが、栄養が少し足りなかろうが、着るものがボロであろうが、そんなことで子どもの心は歪みはしないと思うのです。(略)
    たった一人のお母さん、お父さんを誇り高きものに思うといった、最高の心の栄養をちょうだいしているのです。こういう子は、絶対に横を向かないでしょう。非行に走らないでしょう。(略)
    子どもにとってかけがえのない、世にたった一人の父、世にたった一人の母が、最高に尊敬できる人、すばらしい人であることが、子どもにとってどんなに大切なことか。毎日食卓にのぼせる食事、毎日着せる着物もさることながら、父母の生き様そのものという精神的食物が、どんな内容であるかを考えなければならないと思うことです。(略)
    教え子が(略)離婚したいと言ってきました。私は一言だけ言いました。「あなたはご主人をとりかえることができるかもしれないけれど、子どもさんはお父さんを取替えることができないのよ。子どもさんにとっては、世界中にたった一人のお父さんであることだけは忘れずに行動してね」」
  • 共働きを選択する夫婦(母だけでは当然ない)に絶対必要な視点「(郡山の全盲の詩人)佐藤浩さんは、30年間の児童詩誌「青い窓」の編集を通じて改めて気づいたこととして「遠ざかったのは母親の笑顔だけではなく、その前に母親の目が子どもの実像から遠ざかっているということを指摘しておられます。これは一大事です。女性が家を出て社会進出し、また職業を持つことで生きがいある人生を送ることは結構なことでありますが、そのことのかげに子どもや家庭が犠牲になっていはしないか、明日の世代を背負う子どもを育てるということにシワヨセがいっていはしないか、反省してみる必要があると思うのです。」
  • 一大事(生死)への心構え「「寝たきりは、本人も大変、看病する方も大変だから、できたら私はコロッと逝きたいです。」という言葉が出てきました。そこで私はこう云いました。「それは誰しもの願いだけれど、いくら頼んでみても祈ってみても、寝たきりになるかも知れない。どうなるかわからないことを祈ることよりも、もっと大切なことは、いまここの生き方、死に方に、条件をつけないということです。いくら条件をつけたって、その通りになりはしないんだから。(略)」
    人生全部、健康も病気も、失敗も成功も、天気も雨も、平等に揃っているのが人生の道具立て。その中で、人間だけが勝手に、失敗はかなわない、病気はかなわない、いい方だけ欲しいと願うわけですが、それは身勝手な話ですね。大事なことは、降っても良し、やんでもよし、寝たきりでもよし、いっさい条件をつけない。あくまで無条件で受けて立ちましょうという覚悟が決まることです。この生き様を私の好きな句で言い換えますと、「投げられたところで起きる小法師かな」ということになりましょうか。(略)
    寝たきりになったら、寝たきりを修行する。逃げずにまっすぐに、寝たきりを受けて立ちましょう。寝たきりになってみなければわからない人生の姿を、見せてもらいましょう。味合わせてもらいましょう、と腰を据える。失敗してみなきゃわからないその世界、病んでみなきゃわからないその世界を積極的に学ばせていただきましょうという姿勢。」
  • 僧侶はこうあるべきと思うのです「大切な人、身近な人を失う悲しみも体験しないとわからないものでございます。私は母や師匠をなくしたどうしようもない悲しみを通して、ようやくお葬式にゆく資格が出来たなと思ったことでした。しかし、あまりに身につまされてお経を読んでいても一緒に泣けてきたり、法話をしながら泣いてしまったりして、しばらく困ったことがありました。でも、喪主の方は、一緒に泣いてくださったと言って、むしろ感激してくださいましてね。思いやると言うことは体験しなければわからないことで、そこでお釈迦様は口癖のように「我が身にひきくらべて」とおっしゃるんですね。」


  • 禅の智慧 正法眼蔵随聞記に学ぶ/ひろさちや・青山俊董/すずき出版
  • とにかく若年者は老年者の言葉を聞くこと、そして老年者は語ることが大切「おばあさんやおじいさんの言うことを、いまの若い人がわからないのは当たり前なのです。お年寄りは六十年、七十年生きてきたその寸法で話をされます。二十年、三十年の人がわからないのは当たり前なのです。嫌がられるからやめるというのは、自分がかわいいだけなのでしょう。嫌われてもいいから、いま言おうということが真実で相手のためになるか、ここは徹底的に点検した上での話ですが、そのうえで言うべきことであったら、嫌われてもよい、この子たちが私の年になったときに分かってくれればよい。そういう切なる思いで、言うべきことは言っていただきたいと思います。真実に古い新しいはないばずです。(略)真実は、時を越えて存在するものなのですから。(青山俊董)」
  • ひろさちや氏部分はこちら



  • 般若心経ものがたり/彌生書房
  • この自覚を持つ僧侶が果してどれだけ現代日本にいるのか「威勢のよい祈祷太鼓の音と、願主の願いを読み上げる導師の声が限りなく交互に続く。商売繁盛、交通無難、病魔退散、身体健康、良縁満足、入試合格、工事安穏・・・。足ることを知らない人間の、限りない欲望の一覧表を見る思いで興味深く聞き入りながら、思った。人間の欲望を満足させるためのお手伝いをするのが仏教の本命ではない。どこまでも方便の世界であることを忘れてはならないと。」
  • 真理が何かを思い起こすに良い言葉「澤木興道老師はあるとき、「飲み方に流儀はあっても、胃の消化の仕方に流儀はない」とおっしゃった。胸の空くようなお言葉である。茶の湯の流儀には、表千家とか裏千家とか、いろいろあり、一服のお茶をいただくのにも、お茶碗を右へ回せとか、左に回せとか、むずかしいことをいう。しかしそれは入口の話であり、人間世界の、もっといえば小さなグループの中の約束事にすぎないのであって、胃が表千家流に消化するとか、裏千家流に消化すると言うことはない。人間の約束事、これは時代により、所により変わる。(略)
    これに対し、胃の消化の仕方、これは人間の約束事ではない。天地の道理であり、真理そのものである。この定業に変わらない真理そのものを「経」または「法」という言葉で表し、「たていと」にたとえるのに対し、律は「よこいと」にたとえることができよう。」
  • 自力思想が蔓延る今、大切な生きた言葉であります「「私の親や姉たちは大変信心深いんですが私は無神論者でした。ところが数年前、心筋梗塞を起こして九死に一生を得てから、人生観ががらりと変わりました。心筋梗塞によって機能を失ってしまった方向へ、働きの残っているほうの毛細血管がどんどん伸びてゆくんですね。映画の画面を見せるようにその映像を見せてもらって感動いたしました。私は何もしていやしない。私の知らないところで、私の生命をいっしょうけんめい生かそうとしてくれている働きのあることをまのあたりに見せてもらって、頭をぶんなぐられた思いでした。『だれの世話にもならん俺の力で生きている』という高慢の鼻がへし折られました」(略)やる気、本気はよいが、私の努力でやったという驕りの心が忍び込みやすい。この驕りの心は、やらない人を責める刃となりかねない。どんなにやる気があっても、天地いっぱいのお働きをいただかなければ、呼吸一つ、笑うこと一つ、手を握り返すことさえできないんだということ、一つ一つがすべて天地いっぱいのからの働きかけをいただいて始めて出来るのだということに気づかせてもらうことができたというのである。」
  • これも澤木興道老師の名言であります「夫婦喧嘩をしようと思ったら、まず合掌してから始めろ」と。これはいい。「まず合掌」、合掌したらいやでも合掌の世界がそこに開かれ喧嘩にはならない。つのる思いを、暴走しそうになる自分の思いや行動を一瞬押さえて、「先ず合掌」をする。これができれば、展開する人生の景色は随分と変わってゆくことであろう。」
  • 仏道の本来の布施を考える「お寺や公共団体などのでの寄付行為でも、寄付者ご芳名などとして書き出すか出さないかで、寄付額が大きく違ってくる。これは浄財でも何でもなく、寄付という形でわが名誉をむさぼっているにすぎない。しかもそのことに気づいていない。または、同じ一つのものをさしあげるのにもよろこんでくださる人に、あるいは自分にとって有利な方に、大切に思う方に差し上げようと思う。そこに計算の心やへつらいの心がひそかに動いていることに気づいていない。「布施というはむさぼらざるなり。むさぼらざるというはへつらわざるなり」の道元禅師のお言葉の何ときびしいことか。」
  • 仏道のいう「安心(アンジン)」とは「凡夫のアンシンは、自分のわがままな願いが叶ってアンシン。手術の結果や検査の結果が良くてアンシン。そんな条件つきのアンシンは、いつでも崩れ去る中途半端なもの。病んでも、死んでも仏さまの御手からこぼれおちっこないんだからだいじょうぶ、という無条件のところに落ち着き得て初めてアンジンといえる。このとき「こうなってもらわないと困る」という「けいげ」はなくなり、おのずから怖れもなくなる。アンシンとアンジンの違いを心に深く留めておきたい。」


  • 幸せは急がないで 尼僧が語る「愛の法話」45編/青山俊董・瀬戸内寂聴編/光文社文庫
  • 悪口を言うことが人格判断の決定打  小笠原日凰(日蓮宗)「昔から「その人が他人の悪口をいうかいわないかで人格を判断できる」といわれます。悪口というものは、たとえそれが事実であっても、他の人を批判する結果になります。しかも必ず自分自身の欠点は棚にあげ、まったく自分を省みない自分勝手が幅をきかすことになってしまいます。なぜなら、本当に自分を省みれば、とても他人の悪口や批判をする権利などあろうはずはないからです。しかし私たち凡夫はその自分勝手に気づかない。」
  • 増上慢こそが悪縁  日野西徳明(浄土宗)「法然上人は、思い上がりが大嫌いなおかたでした。いかに熱心に信心していても、思い上がりがあればそれが悪縁となって絶対によい結果はでないと、いつも戒めていらっしゃいました。人間には自身は必要ですが、自身と思い上がりは全く別物です。(略)」
  • 詰るところは「自身の生き方」  青山俊董(曹洞宗)「ひどい言い方かも知れませんが、恋人も、旦那様も、子どもでさえも持ち物であり付属品であることには代わりはなく、いざというとき老いてゆかねばならないものに変わりはありません。持ち物である限り、時の流れと共にうつろうてゆくのは当たり前のこと。山と積まれた財産が借金に変わるのも当たり前の道理。「二人の愛は永遠に」なんて馬鹿なことがあるはずがない。愛が薄くなり、やがて憎悪に変わる日が来るのも当たり前。若さは老いへ、命あるものはやがて死んでゆきます。「諸行無常」という道理の前に、すべて当たり前のことばかりです。そんな浮き草のようにひとところにとどまらず、うつろうてゆくものに、幸せの依りどころを求めているという生き方そのものに、基本的な問題があるのではないでしょうか。持ち物よりも、持ち主である私自身、衣装を着る人であるあなた自身の生き方が忘れられていることに、私たちは気づかなくてはならないのではないでしょうか。」
  • 生き、思考した深層が人間そのもの  青山俊董(曹洞宗)「目は口ほどにものを言い」「顔は心の窓」とかいうのがあります。どんなに美しい目や美しい顔立ちを備えていても、その目に光がなく、その顔に生気がなければ、少しも美しさを感じさせない。美しさは造作ではないのです。(略)
    親からいただいた顔や身体を素材として、物心のつくその日から何を思い、何を語り、何をしたか、
    言動には表さない心の深層に秘めたわずかな思いまでも、そして誰も見ていないところでのささやかな行為までもが、一分のごまかしもない彫刻刀となって私やあなたの顔や姿を彫り、人格を作り上げ、衣装や化粧ではごまかしきれない美醜の差となっておんなの顔に表れるのが、40歳代ではないでしょうか。」
  • 苦しみが私を救う  青山俊董(曹洞宗)「心にあたためてきた大切ないくつかの言葉を、あらためておもいおこしました。
    「私が苦しみから救われるのではなく、『苦しみが私を救う』のです」とおっしゃった、ローマ法王の側近尻枝正行神父さまのお言葉と、「傷に大小があっても傷は傷じゃ、自分の傷を大事にする事じゃ」とおっしゃった福井県在住の医博・米沢英雄先生のお言葉の二つです。苦しみに導かれて心にスイッチが入り、ひとつのお話し、一冊の本の中でも同じ波長のところ、同じ苦しみのところに出くわすと、そこで火花が散り、人と教えとの出会いが現成し、
    そこが道へ入る門となり、「鍵」となる。まさに、「苦しみが私を救う」のです。」


  • 禅のことばに生き方を学ぶ/春秋社
  • 仏法の最大の魅力がこの「和顔愛語」の実行にあると思います「「場が人をつくる」ことは間違いないが、一人の人がいることで、その場の雰囲気や環境が一変するということも忘れてはならない。いつも明るく、あたたくほほえみを忘れない人が一人いると、その周辺は、その家庭はつねに明るく楽しい雰囲気に包まれているだろう。つねに暗くイライラしていて、不平不満ばかりという人が一人いると、その人の周辺はいつも暗く、争いも絶えない。場が、環境が人をつくると同時に、人が場や環境を造るという一面を忘れてはならないと思うことである。」
  • 「驕り」を自覚して生きることが人生の最重要事項であると最近頓に思います「お釈迦さまは「若さのおごり、健康のおごり」ということをおっしゃいました。一生懸命にがんばらねばならない。しかし私のがんばりでやったというおごりもまたそこに忍び込む。そのおごりの心は、やらない人、やれない人をせめる刃となりかねません。若さのおごりは老いた人への思いやりに欠け、健康のおごりは病弱な人への思いやりに欠けます。(略)
    ほんとうのモノサシ、仏さまのモノサシは違う。千人千様、
    一つとして生命の世界に比べることができるものはない、授かりの生命の限りにおいて、許された力の限りを尽くして三は三で百点満点、五は五で百点満点。仏さまの世界に合格、不合格はない。とかく速いと、よくやれるとおごり、できないと落ち込む。どちらもつまらない。できておごらず、できなくて落ち込まず、自分が自分に落ち着き、背比べなしのところで歩んでいきたい。」

2007年10月14日日曜日

アルボムッレ・スマナサーラ ~共感した名文・名文句~

スリランカから学生として来日して以来、日本の奇妙な仏教国ぶりに目をつけ、釈迦直伝といえる小乗仏教ととかく勘違いをされてしまう原始仏教宗派「テーラワーダ仏教」を布教して20年、ここに来て一気に存在が知られるようになり、出版物が激増。かなり乱暴な説明でげんなりする部分に目をつぶると重要な指摘をしてくれる貴重な存在です。


  • 恐れることは何もない 嘘のない自分で生きていくために/泉書房
  • 以下、全くの同感。私が常日頃最も強く感じることをすべて代弁くださっています「仏教を学んでいくとその教えの新鮮さ、科学性、合理性にはただ驚くばかりです。(略)
    ところが、現在の日本ではこの偉大なる智慧を全く利用しようともしていないのです。(略)

    一度でも仏教の智慧に接したならば、その日から生き方が変わるに違いありません。でも、仏教を学ぼう、知ってみようという人は非常に少ないと言わなければならない。それはハッキリ言ってしまえば、仏教に対する知識、認識が極めて低いからに他ありません。(略)
    一年を通してその生活習慣の中で、仏教的行事は何の抵抗もなく受け入れているというのに、日本では仏教にそして宗教というものに対してある種の偏見が大手を振って歩いているという現実もあるのです。それは、
    宗教に頼るものは心の弱い人間であり、自力で生きることのできない人間であるという誤ったレッテルを貼ってしまうからです。この世に、誰の力も借りずにひとりで生きていけるような人間などどこにもいるはずがありません。人間はもちろんのこと、動物も植物もみな生きとし生けるものはなんらかのかたちで他に寄りかかってこそ生きることが可能となっているのです。」
  • 原始仏教から仏教は退化したというこの論は、形骸化しただけの現在の宗教すべてへの批判であり、それらは全く持って宗教の本質ではないという大変嬉しい解釈を提示してくれています
    「仏教は長い歴史があり、その時の流れの中で様々な宗派が出てきました。(略)
    頭を剃っただけで、心が浄化されたように(略)解釈する仏教の仲間がいます。そのような解釈で格好良さそうな話をしゃべりますが、結局それはお釈迦様の合理的な考え方を形而上学的、神学的に説明するだけです。証拠も根拠もなしに解釈していますから、聞いている人々はただ信じる以外ありません。そういうことから、
    お釈迦様の考え方がひとつ退化して、論理性も実証性もない単なる信仰というものが残ります。衣にしても同じことで、衣を縫うことや染めることが大変な修行であると言い張る仏教の仲間がいます。彼らは衣を縫う前に衣に合掌したり、頭上に掲げてお経を唱えたりという儀式を行います。そういうところから、お釈迦様の教えた合理性や実践性が失われていくのです。」
  • これを日本中に叫びたい気持ちです「お釈迦様はシャラという木の下でなくなったのだから死んだときはシャラの木にならって白色の花を飾るべきだなどといって、お釈迦様の真似をしていったいどうなるのですか。なんの意味もないでしょう。ただ、バカバカしいだけです。(略)
    仏教をちょっとかじっただけの人たちが、お釈迦様は沙羅双樹の下で涅槃に入ったのだ、と牽強付会もはなはだしい
    いかにも宗教的な解釈のように持ち出して、勝手に決まりを作ってしまっただけのことなのです。これは仏教でも何でもない。ただの勝手な解釈です。第一、死んで仏になるなどということもまったくのでっち上げだし、死ぬことはただ単にだれかさんが亡くなったというだけのことでしょう。」
  • 仏法(宗教)を学ぶことは常識を破ることであることの分かりやすい説明「服を着るときも自分を隠す。お化粧するときも自分を隠す。すべてがそうなのです。人間の美学というものは、そういうところに端を発しているのです。なんでも美しくすると言うのは、なんでも本当の姿を隠して嘘の世界を構成することです。これが、人間が生み出した芸術であり文化なのです。仏教を勉強するためには、まずこの人間の文化の概念を破らなくてはなりません。といって、私は人間の文化、この社会というものを否定せよと言っているのではありません。社会は社会、文化は文化でいいのです。それはそれとして、心の勉強はまったく違う次元であるということを理解して欲しいのです。心の勉強、すなわち仏教の勉強では、そういう嘘の世界では理解できません。どんなにきつかろうと、どんなんい汚い自分や恐ろしい現実を見せられても、それに真っ正面から対峙していかなければならないのです。」

  • 感情・心を知る「いちばんかんたんでやりやすい感情を優先して行動を起こす、それが心の性質です。仏教では、そのすぐにやりやすい感情、なんの苦労もなくかんたんにできてしまう感情を、悪、専門用語でいえば「不善」といって戒めているのです。人間の感情には大きく分ければ二つあって、ひとつが何かの現象にすぐ反応する感情です。もうひとつは或る現象が起こってから時間が経過してから出てくる感情、つまり少し落ち着いてからでてくる感情があります。この、時間が経過してから出てくる感情は、だいたいいい感情で「善」というのですが、しかし、この「善」なる感情は大変つくりにくい。(略)
    心の育成の最初の訓練は、基本的に本来産まれてくる感情を使わないことです。そのためには、ちょっとした知恵を使わなくてはならない。仏教の勉強とはまさにその「ちょっとした知恵」を学ぶことなのです。ちょっとした知恵を用いると、正しい感情の使い方が分かってくる。正しい感情というものがどういうものなのかが理解できるようになってくる。
    正しい感情、それはどういうことかといえば、欲張らないことであり、怒らないでやさしい心をつくることであり、人のことを良く理解することであり、人のことを嫉妬したり、うらやましく思ったりしないことです。人間はみんなそれぞれ努力して、それなりの結果を得ているのだから、それでいいではないかという、ごく波静かな感情を持つことです。(略)
    こころを育てるというのは、つまり「ちょっとした知恵を使って不善の言動をしないで、善の感情が生まれるようにする」ということなのです。」
  • 新興宗教等が邪教の理由「お釈迦さまは、人間が育っていくのは、その求める刺激への執着から離れない限り方法はない、という立場でさまざまなことを言われているのですが、日本のある信仰宗教やあるいは日本でも人気のあるチベット仏教の一部など、その人気の秘密は、お釈迦様が「いけない、離れろ」と言われている刺激を、信者に与える方法をとっているのです。これは、実に危険なことなのです。」
  • そして日本の旧来仏教の修行方法が誤っている理由「お釈迦様が戒めたというもう一つの道、難行苦行を極める道を考えてみましょう。(略)
    宗教に対する大きな誤解がここにもあるのです。(略)日本の仏教の中にもよくみられる現象です。(略)
    宗教の中には、断食やら滝行やら、真冬に水を浴びて沐浴することやら、色々な行があるのです。(略)
    宗教に限らず、日本にある文化の中で修行という世界をみると、修行している人々が何をやっているかというと、一般にはやらないことをやっているだけなのです。(略)
    ふだんやらないこと、常識ではバカバカしいこと、結果として大変なことをして、それが宗教の厳粛な行であると威張っているのです。普通の人間にはできないことをするからこそ、それがほんとうの修行、宗教の実践方法だと思いこんでいるのです。そんなことも、ふつうの人間がふつうに考え出したレベルの修行にすぎません。(略)
    この現代でもはびこっているふたつの極端とでも言うべき宗教の選択した道について、お釈迦様は、その教えの最初ではっきりと明言しているのです。真理を知り、正しく生きるための修行は「そのどっちでもありません。からだを苦しませることは修行ではありません。からだを楽しませることは修行ではありません」とおっしゃっているのです。「からだのことは放っておいてください」ということなのです。」
  • 争いをなくす方法=自分が正しいという考えを捨てること、それだけ「世の中には釈迦のありとあらゆる争い、子どもから大人まで、老人まで、ありとあらゆる争いがあるのです。「それをどうするか」と喧嘩を押さえるために、膨大な量の本やら哲学やら生き方があり、施設まであるのですが、それで喧嘩がなくなったかというとそんなことはありません。そんな問題ではないのです。「自分が正しい」というまったくバカバカしい概念を捨てさえすればなんの問題も起こらないのです。そして「自分が正しい」という概念を追い出したとき、そこにまったく違う道が見えてくるのです。もうひとつ別の頭でものをみるということなのです。
  • 人生の目的=なし「我々は人生というものをごまかして生きているのです。嘘で塗り固めて生きている。(略)
    人生には大事な目的があります。その大切な役目を果たすために、あなたは産まれてきたのですよ」という嘘を。もし、これが嘘でなくほんとうのことなら、自分が何のために生まれてきたのかを知っていていいはずでしょう。(略)
    端的に言えば、「人間も動物もこの世に生まれてきたのは死ぬためである」ということになります。」
  • 子どもを見る目「(駅のロープを超えて遊んでいる子どもをみて)
    頭のコチコチの大人たちは、そういう子どもの無邪気な遊びを認めないのです。ロープの張ってあるところは入ってはいけないのだ、それを子どもに教えないで黙って遊ばせるのは躾もできないなんとも情けない親だ、と親をい攻撃するのです。慈しみの目でみれば、子どものなんと可愛い光景であるかをすぐに理解できるでしょう。入ってはいけないところにロープをまたいで入ろうが、
    そんなことはどうということもないでしょう。そんなことにも怒りの心を持ち出して、非難するというのは、私に言わせればもう殺伐とした光景としか目に映りません。」

2007年6月7日木曜日

遠藤誠 ~共感した名文・名文句~

本業仏教徒、趣味弁護士。怪物弁護士と仇名され、オウム真理教青山弁護士の弁護人を務めて、世から誤解を受ける。一貫した仏道の原則に従って、真摯に生きた生き様が時には人から後ろ指をさされても、極めて筋が通った自称「釈迦マル(釈迦+マルクス)主義者」。ユニークだが的を射た指摘で世を叩き斬る痛快文章が堪りませんナ。


  • 今のお寺に仏教はない/現代書館
  • 誰もが僅かな賽銭に期待をかけ、法事に坊主に金を払って安心するこの発想。これが心底嫌である
    新興宗教についてどう考えるか・・・・
    「まやかしですね。(略)真の宗教というのは、拝んだから病気が治ったり、交通事故が防げたりというような迷信ではない。病気になろうが貧乏になろうが、配偶者に裏切られようが、へとも思わない自分になることが本当の信仰なのです。今の新興宗教は、八百屋に行って金を出して野菜を買うのと同じで、金を払って拝んでもらって反対給付を得るという、物の売り買いを宗教的な装いでカモフラージュしただけのもので、まさにサギだね。」
  • 寺が拝観料とって当たり前の顔をしていていいのか?
    「いったい、仏教徒が、それぞれのお寺のご本尊を通じて如来に対し合掌し頭を下げるのに、どうしてカネが要るのか。これは、見物小屋や観光株式会社以外の何物でもない。」「フザケルナと言いたい。いったい、見世物小屋のどこに「信仰」があるというのか。如来と衆生とが、自由に会うことをへだてている者は、いったい誰なのか」
  • 現状の堕落した葬式仏教と民衆の関係を作った元凶「寺請制度・檀家制度により、日本国中の寺に、庶民の信仰を統制する権限が与えられると、檀家にたいする寺の横暴は、その極みに達した。(略)生まれたときから自分の葬式寺がきまっているということになった。(略)そのお寺の教義に対する信仰とは何の関係もないというパターンが形成されるに至ったのである。」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門/現代書館
  • 些末なご利益を期待して周りとただ足並みをそろえて車に札を貼る厚顔無恥な連中は極めて不愉快である。
    「道元さんから、二十世紀のわれわれ現代人が訓えられる点は、仏教というものに対して、物欲しさでもって対してはならないということです。」「成田山に行って、ぜにを上げて護摩をたいてもらって、お札をもらった。お札には、「交通安全」と書いてあるからもうあとは余り注意をしなくても絶対大丈夫とか、あるいは「家内安全」のお札をもらったから、女房には尽すべきことを尽さなくても死ぬまで女房とけんかしなくて済むとか、あるはい「受験合格」と書いてあったから、きょうからは寝ていてもいいわいとか、いったようなものが仏教だと思ったら大間違いだ。」
  • 我による叱りはいけません。
    「我々が、人を叱るとか、人に注意するとかいう場合によく考えてみますと、口先ではいろいろ『お前のために言っているんだ』とか言っておっても、腹の中では、自分の顔に泥を塗られたとか、或は、相手の人が自分の思うとおりにならないことに対する怒りとか、不満とか、或は自分の立場を無視されたことに対する怒りとか、そういったものが、本当は自分の中にあって、それで相手に対して『このヤロー』とか『そんなのやめろ』とか『こうやれ』とか言って、呵責きしをやっている場合が、少なくない。」
  • 創価学会の行動は、本来の仏教から外れてしまっているのです。
    世の法律、社会のしきたりという、だれもが疑わずに信じていることに対しても否定的な目でまずみる。すべての考え方をひっくり返してみる。その上に立って初めて自由自在なものの見方をする。それが仏教であり禅であります。何か一つのものにとりつかれたら、もう途端にその人は自由自在ではない」「創価学会などというのは、そいういう意味ではまことに対照的な行き方です。南無妙法蓮華経に執着しているわけです。日蓮さんないし池田大作さんに執着をしている。」
  • 「最初はやはり『衆事』、もろもろのことも、ある程度は見学しないことには食わず嫌いになってしまう。特に創価学会の人にそういう傾向が多い。創価学会の方々は、真言宗を勉強し、天台宗を勉強し、曹洞宗をやり、臨済宗をやり、日蓮宗をやったうえで日蓮正宗というものを選び取っているかというと、そうじゃないので、たまたま隣にいた人が熱心な学会の人だったとか、いろいろとしつこい折伏に染まって自分までそうなったとか、そういう人が大部分名なわけで、彼らにとっては創価学会の教義が最も大事なのかもしれませんが、しかし、それ以外にもひろびろとした別の世界があるんだということが、彼らにはわからない。またわかろうともしない。意識的に目をつぶっていますね。それじゃだめなんだ。それでは、『イワシの頭も信心から』になっちゃいます。」
  • 「学会が信ずるという日蓮正宗の根本的な教義が末法思想です。(略)つまりお経の否定ですね。じゃ、何を末法における真理というかというと、彼らに言わせれば日蓮大聖人の御書であるという。(略)それと日蓮さんが発明したという南無妙法蓮華経という題目。(略)お経を否定するといっても矛盾があるのですね。否定すると言っておりながら法華経というお経だけは否定しない。ところがこの法華経というお経も、彼らの教義からすれば正法時代にできたものなのです。そこに創価学会の根本的な矛盾がある。そこで『それは矛盾じゃないか』といままでぼくは二三の創価学会のおえらがたに質問したことがあるのですが、、満足のいく回答をしてくださった方は一人もいなかった。」
  • 「要するに数の多少をおもんばかることなかれ、また数の多きを誇ることなかれ。とにかく禅というのは一人一人のものなんです。だからまず、あなた自身がやること、そこから先どうなるかは心配するなということです。この点では、創価学会なんかは逆をいっていますね。『おれのところには何百万世帯集まったぞ。こんなに人間がいっぱい来ているんだぞ。どうだ、スゲエだろう。だからおまえも信じろ』と。(略)ところが、本来の仏教は数じゃないんですよ。一人のものなんです
  • 「この教条主義者はどんな世界にもいる」「言葉の文字面だけにしがみついちゃうと馬鹿みたいなことが時々おこる。創価学会の会員は概ねこの教条主義者である。『日蓮大聖人の御書何ページにこうかいてある。だからこうする。』と。『池田会長はかくかくしかじか言った。だから俺もそうする。』と。いかなるときに日蓮さんが、そうお述べになったのか、いかなるときに池田さんがそういうことをおっしゃったのか、そういった背景とか本当の意味を全然考えずに、うわっつらの言葉だけで適用しようとする。これが教条主義。」
  • 在家で『出家』する
    「(離婚調停が増えているのは)要するに相手に対する要求が多すぎるんですね。」「その要求が通らない。通らないからそこに不平不満が出てくる。そしてこの相手に対する過大な要求がどこから出てくるかというと、余りにも相手に寄りかかり過ぎているところから出てくる。そもそも寄りかかりすぎはどこから出てくるかというと、それは相手に対する執着心から出てくる。」「だから家を捨てろといっても、必ずしも離婚する必要はない。一緒に住んでいていいんですが、もっと軽い、もっとさわやかな心持ちを、夫も持ち、妻ももっていれば、その夫婦は絶対に離婚にならない。親子関係もそうですね。」「執着心を断ち切り、一歩距離を置く。これは一見、冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、大局的に見れば、それがかえって二人の、或は親子の関係を円滑に行かせる道です。」
  • 世間の目「物をしゃべる場合でも、行動する場合でも、ただ、人の目ばかり考え、人の目ばかり気にする。もともと大我は本当の我ですから、人の目なんか屁のカッパで気にしない。人の目ばかり気にするのは、偽我、自我、小我の方である。こうやったら世間からどう思われるとか、ああやったら世間様から後ろ指を指されないとか、日本人というのは特にそうです。(略)人目が気になっているうちは絶対に仏道は達成できない。」「本当に人の目というのはそのように無責任きわまる」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第二巻/現代書館
  • 権力と仏教は歴史的に密であったが、仏道の本来から外れている。
    道元禅師は権力に近づくことを否定した。仏法に対する純粋な自信・確信であるという文脈で・・・「この逆を行ったのが日蓮聖人です。日蓮聖人は、権力を通じ、権力を折伏することによって、逆に日本全国に題目を広めようとした。結局は志を果たせなかったが。そしてその衣鉢をついでやっているのが創価学会と公明党です。だから政界に進出している。」「法華経安楽行品に『国王・大臣に親近せざれ』という言葉がある。権力者とつきあうな。だいたい宗教が堕落し始めるもとというのは、すべて権力との癒着です。権力をパックにして、自らの権力をほしいままにしようとする。」
  • 世間の常識をぶち破ること、これぞ仏教の真髄!
    「仏法というと、ふつうの人は、じいさんばあさんがあの世行きの準備をするための、まことに消極的、退嬰的、じじむさいものと思っているけれども、本当の仏法というのは、きわめて人間の主体性を重んずる。ところが、日本の世間の常識では、『長いものには巻かれろ』とか『出る杭は打たれる』とか、世間の目を気にしろと言う。没個性的な日本においては、死ぬまで事なかれ主義で、安楽に生きるためには個性を没却しなければならない。しかし、仏法は逆なのです。個性を最大限に出す。即ち主体性です。そのためには世間の常識すら平気でぶち破る。すさまじい宗教です。」
  • 「『レジャー・レジャーとみんなが言うから自分もレジャーに行くんだ』ということで、往復の乗り物の中でもみくちゃにされ、財布の中はすっからかんになってわが家に辿り着いたときには疲労だけという、レジャーの『楽しみ』が、実は本当の人間の心にとっては苦痛でしかないという本質を仏教では『五欲に貪著する苦しみ』と教えています」
  • 命を粗末にしないということ
    「身体を惜しんだり命を惜しんだりしているくせして、結局は命を粗末にしたり、身体を粗末にしたりしているんです。なぜならば、くだらなく人生を生きて死ぬということは、身体と命を粗末にしていることなのです。したがって、仏法というものは、もっとも身体を大事にし、もっとも命を大事にする行き方なのです。人間に生れることができ、かつ仏法にあうことができた命というのは、最高の命なのです。最高のその命を無駄にしてはならないのです。」
  • (再三ながら)創価学会は仏教の宗派とはいえません
    「『生死事大なり、無常迅速なり』。」「一体生きるということはどんなことなのか。何のために生きているのか。また、死ぬということはどんなことなのか。これはわれわれ人間にとってまことに、重大な問題なのです。それをそのうち考えよう、そのうち考えようなんてモッタラモッタラしているうちにだんだんだんだん年をとってくたばってしまうのです」
  • 「公明党が天下を取った場合、日蓮正宗ないし池田大作宗以外の宗教をどうするのか。もし弾圧するとすれば憲法二十条に違反する。弾圧しないとなれば、弾圧しろと命じた『立正安国論』に違反する。それを一体どうするのか。」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第三巻/現代書館
  • 初詣の大衆の醜さは何だろう、と昔からの謎が解けました
    「ふつう仏教を何のためにやるかといえば、圧倒的多数の方は、商売繁盛、家内安全、身体堅固のためといったことです。毎年初詣でに参賀する人間が全国で何千万人いますが、これは要するに、何かを得ようとし、ご利益を求めていくわけです。ところが本当の仏教は、全く逆なのです。初詣では仏教ではなく、八百屋に行って金を払って、反対給付として大根とか胡瓜を買ってこようとするのと全く同じなのです」
  • 心不可得
    「たいがいの人は、自分の身体を自分のものだと思っています。しかし、もし本当に自分の身体が自分のものであるとすれば、自分の思い通りに動くはずです。」「しかし、自分の心臓に対して『心臓とまれ!』と命令しても、心臓はとまりません。(略)このように見ていくと、じぶんのからだだというのは、自分のものではないのです。」「同じように、自分の心も不可得なのです。ふつう自分の心は自分のものであり、自分の本質は自分の心であると思っていますが、はたしてそうでしょうか。自分の心が自分のものとしてつかめるのであれば、自分の心に対して命令を下せるはずですね。ところがそうじゃないから、人は悩み、悲しみ、イライラし、怒るのです。」「しからば、このからだと心は誰のものでしょうか。それは(略)法身仏のものなのです。そう思うと気が楽になります。『文句があるなら、私の後ろにおられる法身仏に文句を言え』と言っておけばいいのです」
  • 自分でコントロールしているつもりで、実は煩悩の奴隷である現代人
    「(釈迦や道元)の場合は、そういう欲(煩悩)を主人公とし、自分自身をその家来にするという生き方では無しに、自分自身が主人公となり、自分の欲(煩悩)を家来にして添えを支配するという生き方をとったのです。この点、ブランドもののファッションとグルメと風俗産業とレジャーにのみうつつを抜かしている現代人は、完全に煩悩がご主人様になり、自分がその家来になっています」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第四巻/現代書館
  • 現代病巣の根源
    「今の日本は完全に狂っている。どこから狂ったか。結論を先に言うならば、それは戦後の生産第一主義・利益第一主義・消費第一主義・物質万能主義と拝金主義による人間の尊厳と人間性の喪失、これである。」
  • 仏教における苦・楽について
    「現代の俗世間における、社会常識から言えば、性欲や食欲や金銭欲や名誉欲や権力欲を追い求めて一定の結果を得られることを楽といい、得られないことを苦と言っていますが、仏教で言う苦とは逆に、そのような煩悩をおのれのご主人様とし自分がその煩悩の奴隷となってあっちにぶつかり、こっちにぶつかることを苦といい、逆に煩悩の奴隷となっている自分自身を180度転換して煩悩を自分の奴隷とし、自分がご主人様となって自分の煩悩を自由自在に操れるようになったときのことを楽と言っているのです。」
  • 卑下も増上慢
    「増上慢という言葉があります。(略)
    本当は、自分は仏法の器なのに、そうではないと卑下することも逆の意味で増上万なのです。どうしてかというと、そういうことは、法身仏から賜わっているみずからの仏性に対する何よりの侮辱になるからです。すなわち、『①必ず悟りを得られるのに、さぼりたいので、自分はだめだと思って努力をしないこと ②実力があるのに、さぼりたいためにそれを認めようとしないこと』」
  • 今を大切に
    「私は午後十一時には必ず布団に入り、午前七時には、必ず起きています。(略)
    座禅も毎朝、自宅で十五分やっています。(略)
    いずれにしろ、大事なのは、数十年先でもなければ、来年でもなければ、明日でもなければ、今日だけなのです。今のこの一瞬間に、からだじゅうの全細胞をフル回転させることです。ところが、今の人は、たいがいそうではないですね。何十年か先のために、今を犠牲にしています。(略)
    貴重な今を犠牲にしているのです。幼児教育とか、受験のための塾とかのために。」
  • 平然とこのようにして社会の中で人生を消費している多くの日本人
    「女も男もファッションだ、ブランドものだと血道をあげ、グルメだといって必要以上に美食し、高いマンションをローンで買うため、母親まで働かないとローンを返せなくなり、結局子供たちがまともに親からしつけられないために非行や犯罪に走るという現象が頻発しています。ここらで日本人は180度生き方を転換しないと、この社会は、滅茶苦茶になるでしょう。」
  • これが人間の出来の差であり、まず私の達したい境地です
    「小人物や下等な人間は、ちょっとでも人から乱暴な口をきかれると、トタンに切れてしまい、『恥をかかされた』と思うのです。その点、大人・上器はちがいます。大人物・上等な器の持ち主は、ひとからぶんなぐられても、仕返しをしようとは思わないものです。(略)
    その時私は無視します。なぜならば、バカとまともにケンカしていると、こっちもバカになってしまうからです。同じように、お釈迦さまや道元さんは、ひとから『バカ』と言われようが『気違い』と言われようが、あるいはぶん殴られようが、意に介さなかったのです。
  • 仏道はそれ自体が最高のもの。初詣では昔からその胡散臭さが大嫌いでした「仏教や禅や念仏や唱題というものは、それ自体が最高のものであって、何かのためにする手段ではないのです。何かのために仏法を学んではいけないのです。何か利益を得るために仏法を学んではいけないのです。したがって、今の仏教教団は、すべて仏法に反しています。というのは、たとえば初詣でがそうです。毎年、正月の三が日には、みんな、どこかに初詣に行きます。(略)ちなみにどのお経を読んでも『正月に神社・仏閣にお参りしろ』とは、一言も書いてありません。ところで、初詣でにはなぜ行くのでしょうか。言うまでもなく身体堅固、商売繁盛、試験合格、良縁獲得、会社安泰、家族安泰などを願っていくわけです。そのために、おさいせんを払う。そして、どこのお寺でも、『うちのお寺におさい銭を上げれば、ご利益があります』と宣伝しています。」
  • 教育は親がすべて
    「小学校に入学するまでに、その子の性格は、基本的にできてしまっているのです(略)
    先生がはじめてしつけようとしても、もう遅いのです。したがって最近の少年少女の非行化の責任は100%親にあって、学校の教師にはありません。(略)
    少年犯罪に共通しているものは、いずれも家庭が崩壊しているということです。父親の影が薄い。(略)
    終戦後の親は、自分の人生観・世界観を持っていません。したがって、ただ『勉強していい学校に入り、いい学校に入って就職しろ』という、自分のしあわせのためには他人をけ落としてもいいというエゴイズム的しつけだけをするもんだから、昨今みられるような、非行少年・犯罪少年を生み出してしまったのです。」
  • 法門無量誓願学
    「私は、何の本を読んでいるときが一番楽しいかというと、お経や、この随聞記や、仏祖たちの言行録を読んでいるときが一番楽しいです。また、何を行っているときが一番楽しいかというと、お釈迦さまをはじめとする前期の祖師たちのように行動しているときが、一番楽しいです。ところが、現代人の好んでいるものは、そういうものではなくて、グルメと性産業とスポーツ見物とレジャーと金儲けだけです。しかし、そんなものは、ホンの一瞬、人間の末梢神経をくすぐるだけで、魂の奥底までずしんと来る永遠の喜びでは、絶対にありません。」
  • 「方便」が当面の自分の最大の課題であると思います「お経で方便というのは、あることを相手にわからせるためにその相手に最も適した手段・方法のことです。(略)
    ただ結論だけを押しつけるのではなしに、一見そのこととは別の話をしてやることによって、相手に『なるほど』と心の底から思わせ、相手の自発的意志によって、悪行をやめ、善行をやろうと決意させることをいいます。(略)
    親が子供に『勉強しろ』と言いたくなったら、一言もそれを言わないで、親自身が、机に向かって黙って毎日勉強すればいいのです。」
  • 不毛な議論・悪口が横行し不幸が増長することを常に忘れないようにします「この戯論やくだらない諍論が、非常に多いですね。(略)
    お互いに後味の悪い煩悩だけが残ってしまいます。(略)
    いずれにしても、人が人を説得するという点から見れば、言葉というものは無力なものです。人を説得するのに最もいい方法は、言葉ではなく、行動であります。(略)
    今の日本人は、すぐ『切れて』人の悪口を言い、人を責め立てて、怒り狂った目をして人をにらみつけますが、それはすべてアホのやることなのです。だいたい、相手に対して『馬鹿野郎』と言ったり、『怒目を以って人を』にらみつけたりすることによって、相手が心の底から改心したり、事態が好転したりすることはないですね。おおむね、その結果は、まずいことになります。(略)怒りは、結局は怒った人を滅ぼす敵なのです。お釈迦さまも言っています。『人間の心をむしばむ三つの猛毒は、貧すなわち欲と、瞋すなわち怒りと、癡すなわちバカである』と。」


  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第五巻/現代書館
  • 21世紀、かなり酷い世相のまま新世紀に突入した
    「日本も世界も、相変わらず乱れている。特に人間の心が。政治家も官僚も財界人も、そして一般庶民も、みんな世間の評判ばかり気にして生きており、少数の人を除いては佛教、とくに坐禅などには関心を持たず、金と財産ばかりを追い求め、こどもを猫かわいがりすることが親の愛情だと思い、ひとから文句を言われると腹を立て、松本智津夫とオウムの幹部を『早く殺せ、早く殺せ』とわめき、何か気に入らないことが起きると、すべてひとのせいと世の中のせいにし、『健康管理、健康管理』とあまり気を遣うものだから、かえってストレスがたまって病気となり、正月になれば神社・仏閣にお参りしてご利益を求め、カネにならないことは何一つしようとせず、食うためと称して悪いことをやり、金持ちにへつらって、ホームレスその他の貧乏人を軽蔑し、あふれる情報におぼれてアップアップしている。」
  • 葬式にカネを出して極楽へ行けるというあまりに安直な考え「お釈迦さまも道元禅師も、またそのお弟子さんたちも、在家の死者の葬式に携わったことは、全くないのです。なぜならば、お釈迦様や道元さんの教えによれば、人が死んだ後、どこで生まれ変わるかは、その人が生きているうちに行った行為だけによって決定され、それを残された遺族やその頼んだ坊さんの行為によってねじ曲げることは、100%できないとされているからです。(略)
    自分の利益しか考えず、そのために虐げられている人たちを踏みつけにして死んだ人間は、例え大僧正に来てもらい、一千万円もかけて長ったらしい院殿大居士の戒名をつけてもらい、何百万円もかけてそうし期したって、いずれ、修羅界か畜生界か餓鬼界か地獄界に生まれ変わることは、これまた100%確実なことなのです。」
  • 家族円満の秘訣は家族であるから・・という甘えをなくすこと「夫婦や親子は他人と思えばいいのです。他人ですから、自分の面倒をみてくれなくて当たり前なのです。それが自分の面倒をみてくれたら、腰が抜けるほど感動すべきなのです。少なくとも私は、そのように思って生きています。そうすると、いつまでも夫婦・親子の関係がうまく続くのです。」
  • 遠藤氏の鋭い指摘が実現化されぬことを祈るのみです。「この調子でいけば、そのうち北朝鮮の金正日が、米朝会談や日朝会談が中々妥協しないのに業を煮やし、またテポドンの一発でも日本の上空に発射すればアメリカは制裁と称して北朝鮮を空爆し、それに日本の航空自衛隊機も参加して逆に北朝鮮に撃墜され、日本人の兵士が四、五人殺されれば、一億二千七百万の日本人の90%が『鬼畜北朝を殺せ』とばかり、エキサイトしてくることは目に見えるようです。」
  • 他人のせいにする人間が蔓延する現代日本「何か気に入らないことがあると、すぐにそれを他人のせい、世の中のせいにしてしまいます。(略)
    本当に、2000年は十七歳の少年が、よく犯罪を犯しました。それもすべて『他の作と不作のみをみて、己の作と不作をみない』バカ息子ばっかりです。(略)
    (愛知の主婦殺人では)『人を殺す経験』をしたいのなら、自分を殺す経験をすればいいだけのことです。
    (佐賀のバスジャック殺人では)『世の中に腹が立つ』ひまがあったら、自分に腹を立てればいいのです。
    (後輩と母親金属バット殺しでは)後輩の言葉を無視しておれば起きない事件であり、また事件を起こした後でも、事件を起こした自分だけを殺していればいいだけのことです。
    (ビデオ店手製爆弾では)人を壊したければ、自分を壊せばいいのです。
    (タクシー運転手殺人では)遊ぶ金がなければ、遊ばなければいいのです。」
  • 最高の幸福=えり好みをしない=美人の無意味さ「至道、すなわち最高の幸福をつかみ取るには、このえり好み・好き嫌いの小ざかしいはからいをすっぱり断ち切り、すべてのことについてえり好みをしないことです。(略)
    美人と結婚したって、三年も同じ顔を見てれば飽きがきます。とくに、自分で自分を『美人だ』と思っている女ほど、鼻持ちならない生物はいません。ブスだって、心の温かい女性はいっぱいいます。」
  • 仏教は生きる行動規範そのもの。ご利益仏教はニセ仏教「『仏道を行じて代わりに利益を得んために仏法を学すと思ふことなかれ』。仏道というものは、我々が毎日を生きていく上において、いかに生きるべきかを示している行動規範そのものであって、何かを得るための手段ではないのです。ところが先ほども触れたように、今は、すべてのお寺や新宗教・新新宗教は、家内安全や身体堅固や商売繁盛や試験合格や結婚達成や、あるいは超能力を得るための手段として仏教なるものを宣伝しています。つまり、コンビニエンス・ストアにいってカネを払い、その反対給付として飲食物や品物を買ってくるのと同じように、お寺や宗教団体にカネを払い、その反対給付としてご利益を買おうとしているのです。(略)
    お寺や宗教団体にカネを払って何らかのご利益を得るということは、何ら科学的は立証されておらず、そんなものは全くの迷信です。したがって、今、日本国中のお寺と宗教団体は、すべて詐欺罪(10年以下の懲役)をおかしているわけですが、もともと佛道を信仰し、佛道を実践することによって、何かのご利益が得られるという考えは、この道元禅師の断定的表現にもあるように、きっぱりと否定されているのです。」
  • 現代の教育の元凶はこれにつきる「そのように育てられた子供たちが『己を利して人を損ずる』ことを当然と思う我利我利亡者に作り上げられるのは、当然のことです。考えてみると、今はやりの『規制緩和』『自由競争』『自己責任の原理』というもの、結局はそれによって資本の集中と独占をはかり、『中小企業はつぶれてしまえ』という弱肉強食の社会を作るために邁進しているのです。『弱い者は死ね』『己を利して人を損ずることが、何故悪い』という最悪の社会です。」
  • 日本の『首切り』社会を脱する方法「『乏しきを憂えず、等しからざるを憂う』のがあるべき社会の姿ですから、もしある企業の採算が取れなくなったら、その赤字を役員と従業員の全員で負担すべきです。たとえば一年間に赤字が一億円、どうしても出るというのであれば、それを各役員と従業員の給料額に案分して計算し、その分だけを全員賃金カットすべきなのです。たとえば社長から小遣いまで全員一割カットとか。」
  • ホームレスをゴミという子供たちの親の顔「貧しい人たちに対するこうした気配りは、今の時代なくなってしまいましたねえ。貧しい人たちの典型であるホームレスの人たちに対して、区役所や市役所や都庁の役人は、時々追っ払っています。『美観を損ねる』というんでしょうねえ。しかし、景色や環境は、人間のためにあるのであって、生きている人間の生存を否定して、何の美観なのでしょうか。ひどいのになると、少年たちがときどきホームレスの人たちを殴る蹴るし、時には殺してしまうこともあります。彼らはそれを『ゴミ掃除』といっています。ひとのいのちをごみと見る人間のいのちも、ごみということになってしまいます。彼ら少年たちの心は、ごみそのものであります。いや、そのような子供たちを作った親や大人たちの心がゴミになってしまったので、子供たちの心もゴミになってしまったのです。」
  • 人の長所を見ることがすべてを良い方向に向かわせる「私の主催する仏教会には、いろいろな人がきます。そして、どんな人にも欠点があります。愚痴蒙昧な人もきます。しかし、どんな人にも、少しはいいところがあります。私は、それらの人の中の、すこしでもいいところを見つけ、それをほめることにしています。欠点は攻撃しません。そうすると、そのいいところが、だんだんだんだん伸びていき、結果として悪いところが、だんだんだんだん少なくなっていくのです。釈尊も、すべての弟子にそのような教育をされたようです。」

  • 道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門 第六巻/現代書館
  • 精神的に幼稚な現代
    「昏迷に満ちたこの二十一世紀の人類社会に老いては、最も古いものが、これからの人類を救う最も新しい世界となるわけです。それはなぜか。それは、人類の歴史は、技術的・物質的には進歩の歴史であったが、精神的心の世界においては、退歩の歴史であったからです。」
  • テレビはゴミ番組だらけ
    「仏道を学びかつ実践しようとする者が、何かをいおうとするときは、三回考えてから、言うかいわないかを決めなさいと言うことです。何を考えるかというと、『この言葉が、自分のためになりまた他人のためにもなるか、ならないか』とうことです。そして、ためになると思ったらいい、ためにならないと思ったらいわないことです。どうでもいいナンセンスなことは言うな、ということです。(略)近頃の人間は、どうでもいいことばっかり、しゃべっていますね。ケイタイ電話にしても、インターネットにしても、全くどうでもいいことばっかり、やりとりしています。また、テレビもそうです。瞬発力はあるのだけれども、人間、いかに生きるべきかについては考えたこともないような、頭からっぽのタレントたちの無駄なおしゃべりばっかりで、貴重な電波を消費しています。(略)
    私はこういう番組は、「カネをあげる」といわれても、絶対に見ません。頭がバカになってしまうからです。」
  • 執筆末期、遠藤氏の最後の告白「ガンによる壮絶な戦死の話をしましたが、実は、私も今、同じ症状にあるのです。(略)
    次第にやせていきます。ちょっと仕事をするとすぐに疲れるので、休み休み、書類の読み書きと原稿の執筆をしています。私自身の診断によれば、これは肺ガンであると思っています。ちなみに私はタバコを吸っています。しかし、私は病院に行きません。それはどうしてかというと、今私は七十歳。終戦前は人生五十年といわれていました。二十年も、余計に生かさせてもらっているのです。としに不足はありません。(略)
    もしこの肺ガンでそのうち私が死ぬのであれば、それは私の寿命(道元禅師のいう命分)なのです。ちっともジタバタする必要はないのです。死んだって、また、素晴らしい赤ん坊として生まれ変わることは、お釈迦様と道元禅師が保証していますから。」


  • 真の宗教 ニセの宗教/たま出版
  • 仏教の現状
    「生き生きとして、力強い仏教の真髄が、僧籍にある人間や学者たちの怠慢と無能のために、いかに歪められてきたかということです。(略)
    その結果、大多数の日本人は檀家というカタチで仏教と繋がっていながら、お寺から何の仏法の施し(法施)を受けることなく、葬式や法事、定期的な寄進などによって、一方的にカネ(財施)を巻き上げられ続けているのが現状なのです。こうして既成仏教教団が、怠慢、欺瞞、独善の上にあぐらをかいて経営維持にのみ専念している隙間を狙ってはびこってきたのが、『創価学会』などの新宗教であり、『幸福の科学』などの新新宗教です。」
  • オウムは邪教であることは自明のこと
    「一部の学者や評論家、劇作家などは、今もって『オウムの犯罪は許せないが、その教義や修行まで全否定するのは間違っている』と言ってのけます。進歩的文化人のしたり顔、ここに極まれりの観があります。(略)『仏法』に照らしてみた場合、オウムが邪教であることは自明のことです。この点で、仏教者・遠藤誠としてオウムを弁護できる余地は皆無であると私は断言できます。すなわち、オウムについての『六法』による判決は、まだ下されていないが、『仏法』による判決は、すでに下されているということです。ここのところをしたり顔の文化人は逆転させているのです。」
  • にせの宗教十箇条、大変参考になります
    「オウムが仏教団体でない根拠を思いつくままにならべたものです。(略)1 信者から最大限の財産を寄付させる
    2 死後のことばかり説いて『いかに生きるべきか』を説かない
    3 終末論を説いて脅かし、入信したものだけが救われると説く
    4 権力を志向する
    5 出家者に(つまり人間に)上下の差別を認める
    6 自分の宗派によらなければ救われないと説く
    7 教祖が『自分は悟った』と公言する
    8 教祖が信者に要求する修行生活を実践していない
    9 世の不幸を救うための行動を起こさない
    10 世の不幸を己の責任と自覚しない
  • 学校での宗教教育のススメ
    「学校教育に『宗教』を取り入れよという声があがっています。宗教についての最低限の知識ぐらいは習得させ、いかがわしい団体から勧誘されたときにそなえ、免疫をつけさせるという意味では私も賛成です。」
  • 執着への否定という大胆不敵な般若心経
    「だいたい宗教というものは、みな自分の宗教に執着しています。キリスト教も、イスラム教も、道教も、神道も、天皇宗という宗教も、みなそうです。ところが、この般若心経は、仏教に対する執着をも否定するのです。これは恐ろしい経典ですね。その点、この世には『ナンミョーホーレンゲキョー』という題目に、執着しているグループがあります。それを創価学会といいます。あれは、題目にもの凄く執着していますね。あるいはみずからの教勢拡張に、あるいは公明党の票集めに、ものすごく執着していますね。したがって、創価学会はこの点から言っても、仏教ではないのです。」
  • 人間崇拝は邪教と考えて間違いない
    「信仰の純粋性を保つうえからは、新宗教、新新宗教の教団にはいること自体に、大いなる危険が潜んでいることがわかります。なぜなら教団に入信した人は、『宇宙の大生命』を信仰・礼拝の対象とせず、『組織の中心者』を信仰・礼拝の対象とする傾向がきわめて強いからです。」
  • 真の宗教の真髄は同じ・・・私もこの遠藤誠氏のスタンスを目指します
    「キリスト教も、仏教も、イスラム教も、真髄はみな同じだというのが、私の根本的な見解です。いわんや同じ仏教の中で、宗派により、教えの真髄が異なるはずがないのです。(略)
    好きな宗派を選べばよいだけのことです。富士登山と同じで、登り口は複数あるけれども、頂上はたったの一カ所しかない。浄土真宗という名の登り口もあれば、禅宗という登り口もある。宗派の違いというのは、その程度の違いに過ぎないのです。
    こういう見極めは、私のように自由な一仏教徒が、とらわれのない眼で観るから、単純明快につくのです。専門知識で凝り固まった仏教学者とか、一宗派に没入しきった坊さんになるとそうはいきません。私の場合は、親鸞さんも、法然さんも、栄西さんも、道元さんも、日蓮さんもみんな好き。気が多いのです。各宗派の経典もみんなありがたい。(略)
    鼻持ちならないのは、オレのところの宗門が一番で、他はよくないと排斥する態度です。自分の教団の発展、拡張だけが唯一絶対の目的であって、それ以外のことは念頭にない。これは教団エゴイズムです。エゴイズムというのは、仏教の対極にあるものです。(略)
    その点からみても、今のお寺に仏教はない、今の新興教団にも仏教はない、ということになってしまいます。」
  • 葬式は仏教で否定、彼岸もデマゴギー
    「お葬式は、本来の仏教では否定されています。『死者はバラモンにまかせよ』これは、お釈迦さまが昇天直前にのこされた有名な言葉です。仏教というのは生きている人間が、生きているときに何をやるか、何をやってはいけないか、それだけが唯一の管轄範囲であって、死んだ先などというのは、邪教のパラモン教に任せておけ。仏教ではかかずりあってはならない。これが釈迦の教えであります。ついでにお彼岸についても申しておきます。彼岸の中日にご先祖さまのお墓参りをするという風習も、決して仏教本来のものではありません。あれは、明治天皇制のもと、春季皇霊祭と秋季皇霊祭との抱き合わせでまき散らされたデマゴギーです。幕末までは、あの催しはありませんでした。(略)
    いまの坊主は彼岸のことをあの世といっていますが、釈迦が彼岸といっているのはこの世のことです。この世に生きている人が、悟りをひらいたときに経験する世界のことです。(略)
    いま日本で行われている法事の慣習は、死んだ人間を相手とすることによって、坊主が安易に銭を稼ごうとした中国の唐代末期(九世紀)の坊主の陰謀と、それを宗教政策に取り入れた徳川家康及び政僧天海による檀家制度、さらにその上にあぐらをかいた日本の坊主による金儲け策のために一般化された、非仏教的行事なのであります。(略)
    ですから、お葬式、法事はまったくの茶番劇、本来の仏教とは無縁です。」


  • 絶望と歓喜(上巻)歎異抄入門/現代書館
  • 死後の世界等についての祖師たちの言説についてのユニーク解釈
    「おそらくお釈迦さまや親鸞聖人や道元禅師その他のお祖師方は、現世にありながら、こうした霊・光の生命という如来、、あるいは現世と来世との国境線を超能力によって、現実に認識されていたのだろうと思います。そうでなければ、そのようなことを、四千八百ものお経に、あちこちに詳しく書けるはずがありません。ところが近代以降、日本においては明治以降、自然科学に対するいわれなき盲信のみで、我々現代人の悩みがイッパイにされちゃった結果、古代人にはあった能力が失われてしまったのだろうと、私は思います。」
  • 澤木興道老師の言葉から
    坐禅によって悟りとか健康とか精神の安定とかをもらおうとするのは、乞食と同じだという。それを求めている限りはいつまでも悟りは得られない。同じことが念仏でもいえるんです。」
  • 自分は正しい、という人間への警笛
    「われわれは現在、一見、現象的には、人を殺さなくてもオマンマは食える。しかし果してそうだろうか。自分が、今、ここで飯を食っているために、自分以外の誰かを陥れていないだろうか。誰かの犠牲の上に自分がオマンマを食っているんじゃなかろうか。そう考えると、自分は、いかなる人をも犠牲にしていないぞと言える人は一人もいないはずである。絶対にいない。」
  • 宗教論で自力・他力は意味がない。必ず他力であるから。
    「およそ仏教が宗教である以上、自分の力だけを信じてやればいいということは、あるはずがない。自分の力だけを信じてやれるものは宗教じゃない。それは単なる哲学であり、修身の教科書にすぎない。したがっていわゆる聖道門も宗教であり、仏教である以上は、やはり自分自身の力の限界、無力さに対する自覚から始まっている。」
  • 廻向(回向)とは
    「いいことをやると遠藤誠にはそれだけのご利益、功徳が与えられる。しかしそれによって得られたその後利益は、他人にそのままただで全部あげちゃう。それを廻向というんです。ですから、今、坊主を呼んで仏壇の前でお経を唱えることを廻向と言っておりますが、そんなチャチなもんじゃない。本来の意味はすさまじいことなのです。ところが今の人間は逆で、とにかく人よりも一分でも一秒でも楽をして、人よりも、一円でも十円でも余計に銭を取ろうとする。だからアンチ廻向です。廻向の逆です。」
  • 現世利益が悪いのではなくその中の物質的利益がいかん、と整理
    「現世利益とは来世利益に対する言葉です。来世利益というのは、死んだら極楽に行くぞということです。これにたいして現世利益とは、今この世において、現在において幸せになるということです。ですから、現世利益を強調することは正しいことなのです。ただ正しくないのは、現世利益の中の物質的利益のことです。たとえば、成田山にゼニをあげて、護摩を焚いてもらって、交通安全や、家内安全や、試験合格を願うのが物質的利益。これは、本物の仏教とは全く関係のない迷信です。」



  • 絶望と歓喜(下巻)歎異抄入門/現代書館
  • 悪業の自覚があるかないかが宗教心に直結しています
    「現代の人は、本当は悪を行っていながら、それを悪とは意識しない。いいことをやっていると思いながら、客観的には悪を行っている。それが大部分である。前に十悪の話をしましたが、われわれが毎日やっている行動をその戒律に照らしてみると、ほとんどその戒律に反している。うそをつくな、二枚舌を使うな、人の悪口を言うな、よこしまな性交をするな、むさぼるな、怒るな、正しい考えをもて。このどれひとつして違反していないものはない。ところが、違反しているにもかかわらず、われわれはそれを違反と気がついていない。そこに現代人の最大の悲劇がある。ところが、鎌倉時代の人は、そうではなかった。たとえば漁民は魚を殺すことによって飯を食っている。ところが、仏法には不殺生戒がある。そうすると、自分は戒律を毎日破りながら飯を食っていることになる。そうすると自分は死んだら地獄に墜ちてしまう。そういう苦悩の上に当時の漁民は生きていた。そういう罪の意識、それが現代人にはなくなってしまった。法律に触れさえしなければいいんだというかんがえかた、もっとつき進めれば法に触れてもばれなきゃいいんだという生き方。そこいら辺から現在の精神文明の貧困と危機が始まっている。」
  • 仏法八万四千の法門の解釈と宗派に囚われない信心を保つ方法
    「仏教全体の立場からみると、阿弥陀如来だけが絶対ではないということです。それと同格なものとして観音菩薩と釈迦牟尼如来と薬師如来がある。その中で、日本においては、たまたま阿弥陀如来がもっとも多数のファンを獲得しただけのことで、したがって薬師如来を拝むのも結構、観世音菩薩を念ずるもの結構、釈迦牟尼如来を念ずるのも結構ということになる。これらは、いずれも単なる報身仏であって、その本家はすべてひとつの法身仏なのです。もっとも、わたしの場合、その法身仏に名前をつけるわけにいかない。なぜならば、それに名前をつけちゃうと特定の宗派になってしまうからです。そこで私はこれを「永遠のいのち」と呼んでいます。その永遠のいのちだけがほんものの法身仏であって、他は全部、その分身にすぎない。だから、阿弥陀如来を必死に念ずることも、その永遠のいのちを念ずることなのです。とすると、やれ浄土真宗が最高だの、やれ坐禅でなきゃいかぬだの、やれ南無妙法蓮華経でなきゃいかぬだのという論争は、しょせんコップの中の争いになってしまう。「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と古川柳にあるとおりです。」
  • 葬式法事は仏教にあらず
    「(浄土真宗仏光寺派僧侶が「浄土真宗東本願寺派」と書いた遠藤氏に、「そんな宗派はない。真宗大谷派だ」とかみついてきたことに対して)
    真宗といったのでは、真言宗と紛らわしく、また、いかなる宗派でも「自分の宗派こそが、真の宗派だ」と主張しているもんですから、分かりやすく浄土真宗と書いたまであり、また、東西両本願寺派(檀徒総数1306万人)にくらべれば、仏光寺派(総数14万人)などは、吹けば飛ぶような小宗派であるのみならず、東西両本願寺派と仏光寺派との間には、読経の仕方や葬式法事のやり方に細かな違いはあっても、教義の上ではほとんど違いがないので、仏光寺派を無視したのでした(なお、私は、読経の仕方のちがいなどはどうでもいいことであり、また葬式法事は、仏教にあらずして、バラモン教と中国の土俗宗教のミックスしたものだと見ており、かつ、東西両本願寺派と仏光寺派の教義の違いは、おそらくその和尚にも説明できないものと見ています)。いずれにしても、そのような枝葉末節のことに拘り、重箱の隅をほじくるような問題にのみ目くじらをたてて、肝心要の「自信人教信」(みずから信じ、また人を教えて信ぜしむ)という親鸞聖人の教えを何ら実行しようとしていないところにも、現在の教団と坊主の腐敗堕落があると思いました。」
  • 自然法爾の心が芽生えるということは
    「私は仏教をはじめてかれこれ二十年になりますが、最初のうちは、正直言って、たとえばこういうところを読んでも「そうかな」と思うだけで、心底から、阿弥陀如来とか、観音様とか、大日如来にたいする絶対的帰依心というものはなかなか芽生えてきませんでした。ところがその後
    私には自分の力の非力さというというものに思い至ることが次々とおきました。そして、いろんな苦悩、苦しみ、思いのままにならないことに対する焦りにぶつかればぶつかるほど、今はわりと素直に、朝、仏壇に向かって「南無阿弥陀仏、南無観世音大菩薩」と唱えられるようになってきました。ありがたいことだと思っています。」
  • 布施より信心
    「どんなにカネや物を如来の前にお供えし、どんなにカネや物を坊主にあげても、如来を信ずるという心がなかったならば、まったくご利益はないのです。まさに信心ある貧者の一燈は、信心の足りない金持ちの万燈より、ご利益が多いのです。」
  • 信心は自分でするものではない
    「だいたい信心とか信仰というのは、自分でするものだとみんな思っています。だから私たちもよく人から言われる。「遠藤先生は、仏教を熱心にやっているそうだが、私はまだその気になれません。いずれ片足が棺桶に入りかけた頃に、先生の仏教会に出席しましょう」と。そういう言葉が出るということは、自分の意志で仏教をやったり、あるいは仏教をやらなかったりすることができると思っているからです。(略)
    何かのためにする坐禅は邪道だとよくいわれています。澤木興道師も、「坐禅のための坐禅が坐禅だ」とよくいわれた。如来によってさせられている坐禅のことです。」
  • 「火宅無常の世界」の「火宅」ということの意味
    「火宅というのは、法華経の譬喩品第三にある話です。(略)
    この娑婆世界は、あたかも火が燃えさかっている大きな屋敷のようなものなのです。また、子どもたちというのはわれわれ衆生のことです。われわれ凡夫は、その燃えさかる火に気がついていない。明日にでも死が迫っているかも知れないのに、それに気づかない。今日だけ良ければいいんだというので、つまらないマンガ本を読んだり、麻雀をやったり、くだらない野球やスポーツのテレビを観たりして喜んでいる。」
  • 歎異抄における真髄を知る三つの話
    「もっとも心を打たれるお言葉は、第一に、親鸞の信心も法然上人の信心もひとつだというくだりです。第二に、阿弥陀如来の願も、よくよく考えてみたら、私一人のためのものだったということ。そして第三に善悪の二つ、いずれも私は知らないよということ。この三つをそれこそ「よくよく思い解き」、腹に収めてガッチリと自分の血肉にすれば、もうそれで親鸞教の真髄は会得できたといっても過言ではない。」

2006年12月30日土曜日

五木寛之 ~共感した名文・名文句~

浄土真宗の他力思想を基本に、的確で分かりやすい文章で時代のゆがみを指摘し、人間の本質に迫る。70歳とは思えない若い感性と世間に対するアンテナを持ち、新しいものを単純に切り捨てず一つ一つ考え方をはっきりさせているところは、誠に敬服いたします。


  • 不安の力/集英社
  • 自殺の背景を考えれば、日本人の心の病の拡がりが明確になります「印象に残っているのは、、一人の自殺者が出ると、その背景には十人の自殺未遂者がいる、というデータでした。(略)そうなると、日本でも年間三十三万人が自殺を試みていて、その一割の三万三千人だけが成功している、といえるのではないか。さらに大きな問題は、一人の自殺者が出た場合、その肉親、親戚、職場の同僚、友人たち、地域の人々など百五十人から二百人が、生涯心に消えない傷を負うという研究報告がされていたことです。」
  • 泣ける人間が喜びをつかめる人間
    「悲しみや嘆きや絶望を知っている人だけが、本当の意味での喜びや希望を自分の手につかむことが出来る、ぼくはやはり強くそう思ってしまうのです。『泣く』というと、メロドラマを見て涙腺をゆるめるという風に想像しがちですが、そうではない『泣く』もあります。たとえば、国のために泣く、世界のために泣く。世のため、人のために泣く。こんなにひどいことが行われていいのか、と正義のために泣く。いろいろな泣き方があります。つまり、泣くべき時にきちんと泣けると言うことはとても大事なことなのです。」
  • 私の痛感する「ニッポン総幼稚化」を五木さんも指摘します
    「いまの日本の若さ思考というのは、完全に一方的なものだといっていいでしょう。成熟もいいけれど若さもいい、という形では決してない。成熟には見向きもせず、ひたすら若さの方だけを追っている。大人までが若い人たちの好みに合わせている。」「
    これほど子供っぽいカルチャーが大事にされている国は、世界の中で他にないだろうと思うほどです」「若いことに価値がある、というのは危うい考え方であり、貧しい考え方だ、という気がして仕方がないのです。やはり、世の中にはさまざまなカルチャーの階層があるべきなのです」
  • 心の拠り所のなく不安がる日本人の原因は「無宗教」
    「『真に頼るものがもてない』不安というのは、宗教を持たない日本人、という問題抜きには考えられない気がするのです。」「世の中にとって宗教というのは具体的に役立つものではあるまい、と思っています。宗教とは、世の中のプラスになるものではなく、一見、マイナスの働きをするものではないか。」「宗教はブレーキです。もし、人間の欲望というものをほったらかしにしておいたら、物欲も金銭欲も出世欲も無制限に加速していく。その揚句には、破滅が待っているだけです。」


  • 他力/集英社
  • 他力本願(本願他力)の言葉の誤解「時代とともに言葉の本来の意味が少しずつ変わってくるのは仕方のないことではありますが、<他力本願>の本当の意味は、決して単なる「あなたまかせ」「無責任」ではありません。それはひときわくっきりとした強い世界観に基づく大きな思想であり、危機に面した人間にとってのもっとも頼もしい力であると言っていいでしょう」
  • まさにこの心構えが<他力思想>だと思います「<自力>から<他力>への大きな展開がここに生まれます。『わがはからいにあらず』という言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。『なるようにしかならない』と思い、さらに、『しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ』と心の中でうなずきます。そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れるのを感じる」
  • 近代医学と仏教の根本的思想の相違点「仏教的な考え方では、人間はそもそも健康な存在ではありません。人間は生まれつきから四百四病を身体の中に抱え込んで生れてくるのです。つまり人間は本来、病気とともにある存在であると言っていいでしょう。禅では病気のことを<不安>というそうです」
    「不安というのは、要するに体調が不安定になりバランスが崩れることによって、四百四病が表に出たということなのではないか。これまでの近代医学では、外側に病気の原因がいろいろあって、そいういうものが人間に悪さを仕掛けてきて、それに攻められて病気になったと考えています。ですから、それをやっつけていこうという非常に戦闘的な考え方です。戦う、勝つなんていう戦争用語がやたらと出てくる」
  • 常識は所詮限定的な時代と空間でしか通用しない「私は最近、とみに常識に会わないことを大事にするようになってきました。そっちのほうが正しい生き方のように思われてならないのです。そっちとは何かといえば、<直感>です。格好良くいえばヒラメキであり、古い表現をすれば勘となる。昔は第六感などともいいました」
  • 知の偏重が生んだ歪んだ世界「この五十年間、私たちは経済成長第一でやってきて、経済的には損だけれど、カネより大切なものがあるということをみんな見失ってしまった。損と得との間にいろいろな価値観があるということを忘れてしまったのです」
    「近代とはひとことでいえば、知の世界です。(略)いまだに知の世界が優先して、情とかルサンチマン(怨念・情念)というのは差別視され、蔑視されてきました。近代の超克など全く出来ていません。私は知識人は傲慢だと思います。むしろトルストイの言うように、『知識人や芸術家は一介の農夫に学ぶべきだ』と素朴に思う。(略)いま必要なのは、神戸の震災や酒鬼薔薇事件を前にして、理路整然と解説することではなく、
    絶句して立ち往生する、その心です。それが普通だし、大切なことです」

2006年12月23日土曜日

【総回向偈】

いわゆる締めの経文。
各宗とも勤行の終わりに「普回向(回向文)」を唱えるならわしがありますが、浄土系はこの「総回向偈」を唱えます。

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願以此功徳

平等施一切

同発菩提心

往生安楽国

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これは真宗の正信念仏偈をすごいスピードで読み上げる新しい音源を入手した際に、その最後に付いていた偈で、調べたら総回向偈であることが判りました。極めて短いものだが、これが最後に付くととても締ります。(2006/12/23)




2006年10月31日火曜日

【白骨の章(蓮如御文章)】

宗教家として行き着くところまで行ったと言える親鸞の思想も、蓮如なくしては現代にその意を伝えることは出来なかったかも知れないのです。言い出しっぺがいて、それを遍く弘める人間がいて今があるのです。蓮如の弟子への手紙が次の実如により五帖目八十通に編纂されたのが御文章(本願寺派の呼び名。大谷派では「御文(おふみ)」)です。今でこそ、「歎異抄」が浄土真宗=親鸞教の真髄のように言われますが、歎異抄が日の目を見たのはつい明治時代のことであり、浄土真宗が民衆に広く深く受け入れられていった最大の貢献者はこの「御文章」があったからといっても過言ではありません。
この「白骨の章」は、五帖目第十六通に位置し、生死の「死」を考えるには、実にストレートで強烈な印象を与える一節であります。

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて、
夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。


あなかしこ、あなかしこ。

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御文章は、「聖人一流の章」以来、2年近くぶりの挑戦でした。浄土真宗本願寺派のある寺のホームページにすべての御文章がmp3で掲載されているのを発見して、ようやくこの気になる「白骨の章」の音源を手に入れて、今回の暗唱に辿り着きました。しかし、五木寛之氏、肉親の葬儀の時に、最も心に響いたという「白骨の章」は、その死のとらえ方がしっかりと仏教の考え方であるのですが、空しさが強調された作で、葬儀で耳にすれば、(意味がしっかりとわかるが故に)、いたたまれない気持ちになるのもよくわかります。(2006/10/31)




2006年10月23日月曜日

【三帰礼文】

仏法僧の三宝に帰依するということは、宗派に拘らず仏教徒の基本事項ですが、三宝に帰依し礼拝するというのがこの三帰礼文です。
道元禅師は特にことのことを強調した日本仏教の祖師の一人で、「三帰礼文」は私は曹洞宗から学びました。
他、「三帰」といったり、読み下しだったりとほとんどの宗派で読誦しているようです。

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自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意

自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海

自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙

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曹洞宗の読経方法はあたかも化け物が出てこんばかりに荘厳(おかしな表現ですが、異常に重々しく、特に大人数で地の底から這うような暗さを持つ読誦法をするときは本当にこの表現に詐りありません)なのであります。この三帰礼文も大した迫力でした。(2006/10/23)



2006年10月11日水曜日

内山興正 ~共感した名文・名文句~

昭和の傑僧「宿無し興道」の愛弟子にあたる方ですが、元々キリスト教を極めてから仏道に辿り着いたインテリ出身だけに、深遠な洞察と、実践第一の姿勢が名僧ぶりを伝えます。曹洞宗と臨済宗の根本的な相違点を明らかにしたのは、この方以外に知りません。
人間の業の洞察と宗教とは何かと徹底的に突き詰めた答えを求めた僧としては、最先端を行っているといってもよい、今日の露出度の高い○内○聴や△有△久とは対極にある、富や名声を実生活で否定し続けたまさに「本物の僧」です。


  • 坐禅の意味と実際~生命の実物を生きる/大法輪閣
  • 真の仏教がない日本「思えば、今の日本社会にとって、仏教という宗教はまことに奇妙な関係に立っているといわねばなりません。(略)
    「仏教という名の元に」すばらしく多くの事柄が登場してきましたし、同時に仏教という名の元に大変多くの文化財がのこされてきております。そしてまた
    仏教という宗派の元には、現在でも葬式や祈祷などの伝統的因習がひろく伝承されてきています。しかし、それらが真実の宗教としての仏教そのものと、一体何の関係があるのか。もし人生を導くところの真実の宗教としての仏教というものから見たら、おそらくそれらは、ほとんどすべて無関係だといわなければならないでしょう。そして事実いまどき、なお、自分は仏教徒であると任じている人たちにおいてさえも、「では仏教徒はどういう宗教ですか」とたずねてごらんなさい。ほとんどまったくそれに応えられる人はいないのが実情です。(略)
    日本人全体としては、仏教という名の元に真実の仏教とはおよそ無関係なことを、あまりにもたくさん行いすぎていて、ついに仏教そのものとは完全にすれちがって、出会わなかったのだといった方があたっているでしょう。」
  • いくら人生の意義を語っても、所詮は玩具遊びの延長であることを知る「我々の一生は玩具遊びの一生であるように思われます。赤ちゃんとしてホギャアと生れる。そのときからミルク瓶の乳首が玩具遊び第一号でしょう。少し大きくなればぬいぐるみの動物とか人形とか。さらに大きくなれば組立機械、カメラ、自動車など。それに年頃になれば異性。さらに勉強とか研究とか、商売熱心とか、名利追求とか。あるいは競争、スポーツ。すべて玩具遊びならざるはありません。そうして死に至るまで、玩具を持ち替え持ち替え、一生玩具遊びだけで終わってゆきます。いま坐禅は、こうした一切の玩具遊びなし、ただ「自己ぎりの自己」という生命の実物であることです。」
  • 生命の実物としての我々は、我々の思い以上のところで存在しているという事実を認識する、それが坐禅「生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、普段の我々は小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)それが坐禅なのです。」
  • 他人と自分との関係「われわれ人間がすべて同じ世界に住み、同じ考えでいると思いこむとしたらそれは大間違いです。たとえ同じ言葉を使って話が通じているようにみえるときにさえ、通じているのはまったく抽象された一応の意味だけなのであって、現ナマの生命体験としてはまったく異なった世界に住み、おのおの自己ぎりの自己の世界を生きているのだといわなければなりません。」
  • 権威は一切認めないのが仏道「禅仏教は、自己以外のいかなる権威も認めません。これは釈迦以来の伝統です。釈迦自身、彼の最後の教えとして、「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依することなかれ」と弟子たちに教えました。(略)彼は彼の生を生きるのみであって、決して彼が多くの帰依者や弟子たちの信仰の対象となることを拒んでいます。これが彼の根本的な人生態度でした。」

  • 普勧坐禅儀を読む 宗教としての道元禅 / 大法輪閣
  • 坐禅は功徳を求めるためにやるものではない「坐禅についての色々な功徳についても同じことがいえます。度胸が良くなる、頭が良くなる、健康になる、頑張りがきく、勝負に強くなる、スタミナがつく・・・そういうようないろいろな功徳も、一応みんな結構に聞こえるかも知れませんが、同時に誠に中途半端、不徹底だということも事実です。そういうことは、すべて浅薄な我々凡夫の欲望の延長でしかないからです。(略)
    たとえば、金持ちになりたい、そういうことをあなたが一生の願いにしていらっしゃるなら、そのあなたの願いは、大財閥の御曹司に生まれた人にとっては、フギャアと生まれたとたんから成就されているでしょう。貧乏生まれのあなたは誠に不運で、お気の毒だったといわねばなりませんが、その運の悪さを取り返すために、一生を費やすということは、人の一生としてあまりにもばからしい気がするじゃありませんか。(略)
    しかもそういう生き方において、もう一つばからしいことは、今あなたが金持ちになりたい、出世したい、頭がよくなりたいと思って一生懸命努力なさってもせっかくそれが実現した頃には、それらすべてをこの娑婆世界に置き去りにして死んでいかねばならないのだから、まったくお気の毒です。そう考えてみればこれらの
    望みがいかに中途半端、不徹底であるかということが、よくわかります。」
  • キリスト教等は契約の宗教とすると仏道は自覚の宗教であります「仏教の根本とは何か・・・。「自己の拠り所は自己のみなり」(法句経)(略)
    「自己が自己を拠り所として、そこに落ち着き、そこに安らう」ということは、仏教としてはもっとも初めからのあり方であって、いわゆる教理や教義成立以前の根本姿勢です。これは
    キリスト教やその他の神話的宗教が「神の前にひれふす」姿勢であるのとは、本質的に異なる姿勢だということがいえます。」
  • 座禅=仏道の本質がこの坐禅方法解説文にみられます「坐禅をするには環境としては、静かなところ(夏は涼しく、冬はあたたかく、刺激の少ないところ)がよろしい。坐禅は決して苦行ではないからです。着物はゆったりとして・・・(略)
    半跏跌座は、ただ左の足を右の腿の上にのせるだけです。結跏趺坐も半跏跌座も、おのおのその反対の組み方をしても結構です。(略)
    人の身体の格好というものは、おのおの一人一人違うのですから、決して坐禅は鋳型に入れたようにあるべきではありません。その人なりに楽々としていながら、しかも正しく気のはいった姿勢であるべきであり、正しく気が入っていながら楽々としていなければなりません。(略)
    坐禅というのはどこまでも宗教であり、宗教というのは全く自己の内面の問題です。(略)
    反則して「ヘンな坐禅」を長年続けていると人格そのものがヘンになってしまいますから、全く恐ろしいことです。(略)
    宗教としての坐禅は、どこまでも自己の内面の問題だということに、ことに気をつけて、絶対に反則しないよう、自己自ら正しい坐禅をしてください。」
  • 宗教の本質宗教が無差別無階級であるべきだということを、金の話までもってきていうと、一番わかりやすいと思うからです(略)。
    金のかかる宗教・・たとえば立派な神殿や寺院建築、およびそれを荘厳する彫刻や絵画などの美術が前提とならねばならぬというような宗教は、本当の宗教からはほど遠くなっていくこともわかるのではないでしょうか。」
  • 臨済禅と曹洞禅についての決定的な分析論!「今日、日本で「禅」といえばすぐ「悟り」と反応するほどに、禅と悟りとは結びついて考えられておりますが、補棟の宗教としての坐禅修行というものは、世人が考えるほどかんたんに「坐禅して悟る」という在り方をしているものではないことは、以上述べたとおりです。それなのに、この両者を「坐禅して悟る」「悟るための坐禅」というふうにかんたんに結びつけて日本人に考えられるようになったのは、なんといっても日本臨済禅の影響によるものだといわなければならないでしょう。(略)臨済禅は悟りのために坐禅するのであって、悟りが第一義である。それに反し曹洞禅(道元禅)は坐禅を第一義としている。それなのに実際に坐禅を良くしてきたのは臨済宗の人たちであって、坐禅を第一意義としている曹洞宗の人たちではなかった。(略)
    曹洞宗において、只管打坐の道元禅を純粋に強く打ち出されたのは(略)澤木興道老師なのであって、それ以前の洞門の人たちはほとんど道元禅を座っていなかったのが残念ながら実情でした。(略)
    とにかく「悟り」というものを高く掲げて、この「悟りのための坐禅」ということで、臨済の人たちは宗旨実際の坐禅を続けてきており、そしてまた、実際に世の中に働く人材もたくさん打出してきました。そのかぎり「悟りのための坐禅」という臨済禅の言葉の方が世間に広く行きわたり「禅」といえば「悟り」と反応するほどになってしまったのだと思われます。(略)
    しかしまた今日の臨済禅は、上に私のいった「普く誰にでも安心が得られ、救われる」ということが絶対条件であるとする、宗教の定義から外れていることも事実です。(略)
    禅を「自分というものの能力をギリギリの最極限にまで磨く道」にまで高めていったとき、日本臨済禅はそれこそ独特の全文かを展開していったといっていいと思います。それで室町戦国時代を通じて、ことに武士たちが好んだ武芸、仕舞、茶の湯、墨蹟、水墨画等を始め、もろもろの技芸、芸道の修行においても、その自らの精神及び能力を極限にまでに鍛錬するという応用の道を開き、ついにはそうしたもろもろの武芸や技芸、芸道における根本精神の本家本物ととして、そn堂央ともなる「悟り」を確立していったのです。(略)
    ところでこのような臨済禅は、はたして宗教であるのかどうか・・・これは結局、宗教というものをいかに定義づけるかに依るでしょう。たとえば、宗教とは死に対する安心立命のところだとすれば、臨済禅はまさにおのがいのちを賭けすることを鍛錬する道であるのですから、勿論宗教であるというべきでしょうが、しかし、もし私が上にのべたような、
    普く安らいを得させ救うというような大慈大悲の門、絶対愛の道こそが純粋宗教であると定義づけるとすれば、少なくとも臨済禅はそのような純粋宗教の道ではない、といわねばならないでしょう。(略)
    それぞれの道において、自分の能力を極限にまで磨き上げるべく修行をしている人たちは多いと思いますが、これらの道においてさえも、その堂央に達する名人、達人といわれる人は、まったく選び抜かれた一、二のひとたちだけではないでしょうか。(略)これはもはや一般庶民には到底およびもつかぬ高嶺の花というより他はありません。もしそうだとすれば、このような禅の道は、とても普門をひらいた純粋宗教とは言えないでしょう。(略)
    日本臨済禅が、自分を極限にまで磨き上げる「極限禅」であり、ただ少数の選ばれた人にのみ許される「達人禅」であるといったのでしたが、これに対し、道元禅師の教えられる坐禅は、どこまでも普く一切衆生のために門を開いた「純粋宗教禅」であるといっていいのでないでしょうか。その点、昔から「臨済将軍、曹洞土民」という言葉がいい慣らされてきましたが、たしかにこの言葉はあたっているのであって、いやそこにはむしろ単なる家風の相違というよりも、もっと本質的な相違があるのだと思います。」
  • ここでいう道元禅の行き着いた先はまさに親鸞の絶対他力に重なります「他宗門でもよく信仰告白とか、法悦を語るとかいって、その人自身のアタマをモノサシとして味わった「いいお話し」をとくとくとしゃべっている人がありますが、じつは自分のお粗末なアタマをモノサシとして考えた話は、いくら「いいお話し」でも、つまり妄想をいっているのでしかないでしょう。こんな信心や法悦、サトリは、それこそちょっとした逆境や危機にでも出会うと、とたんに「信心や坐禅どころの騒ぎじゃない」「神も仏もあるものか」などとひっくり返ってしまいます。本当に「わが思い」をモノサシとして観ることは、どんなよいこと、神仏サトリでさえも危ないものなので、このことをまず徹底的に自分自身において知ることが大切です。(略)
    しかし本当はこの「徹底的に自分自身において知る」ということさえも、まさに自分をモノサシとしていっているのであって、危ないことだといわねばなりません。というのは「自分はそのことを良く思い知った」と言い切った途端に、自分自身のアタマをモノサシとしていっているのでしかないからです。・・・では、まったくの自分の視点をモノサシにせぬ、絶対真実はどこにあるのでしょう・・・結局、私の思いとはどんな場合でも全く偶然の集積でしかないと決定して、和阿ツィの思いを手放しにして坐禅するよりほかはない、ということです。」


  • 天地いっぱいの人生 / 春秋社
  • 何と痛烈な過去仏教批判でありましょう! 感動に眼が潤みました「世の中、物覚えのいい馬鹿もあり、謙遜という形の傲慢もあり、拝まれたいという演技者もあり、聖人君子といわれるひとが盗みをすることもあり、けっして表面的な平面情報を真に受けて、平面思考していて、事が済むものではありません。「一生の姿」という立体思考をせぬ、単調な「有り難や」を善男善女といい、こんな善男善女だけを相手に、きらびやかな伽藍を建て、金のかかった芸術品で飾り立ててきたのが、過去の宗教ではないでしょうか。とにかくわけのわからぬ経を読み、仏教述語で説教し、摩訶不思議の陀羅尼をさずけ、響きだけの禅語で応酬して、それで一体自己の人生と何の関係があるというのでしょう。これに対し、裏も表もあり、どんなことでも起こってくる「この世の中に生きる自分の人生」それぐるみとして、この自己がどう片付くか、これを問題にすることこそが、今後われわれ悪男悪女どもの宗教の問題でなくてはならぬ、と思うのです。」
  • 盲信者たちを一刀両断「周知のように、西洋文明というものは分別工夫を根本にしています。(略)
    しかし、分別知を学ぶ過程で大切なことは、あれかこれかを分別すると同時に、その相互関係を考えるということです。明治以来の学びかたはこの点でも決して悪くはなかった。ところが戦後、アメリカのやりかたをまねするようになって、おかしくなってきた。というのは、かつてアメリカ人たちは一刻も早くヨーロッパ列強と肩を並べるために、科学文明の能率を高めようと、あれか、これか、○か、×か、という方法をあみだした。このやりかたには、あれとこれとの関係を考える手数が省かれている。戦後の日本はこのやりかたをうのみにして、まず教育に採り入れたので、いまの若い人たちの顛には○か×しかない。大切な「相互関係を考える」という能力が抜きになっている。これは皆さんも痛感しておられると思う。
     しかもこの傾向は若い人たちばかりではない。戦後流行してきた
    新興宗教・・・仏教系を自称するものからキリスト教系を名のるものまでいろいろさまざまにあるが、あの連中の考えかたも同じだ。要するに○か×か、○とつけたものは盲信するが、×とつけたものには耳も貨さない。また共産主義者と称する連中も同じだ。もう忘れられかけた浅間山荘事件の連合赤軍の連中は、自分たちだけの閉鎖状態のなかで、互いに○か×かをつけ合って一人ずつ消していった。
    あのまま放置されれば最後にオレー人というのが現れたかも知れない。今日の共産主義かぶれの学生たちにしても、新興宗教の連中にしても、ロをひらけば理屈ばかり並べたてているが、頭の中味はいたって単純、○か×かだけ。あげくのはてか狂信性という共通点まで持っている。(略)
  • これが今退職を迎える2007年問題の「団塊」の若き日の姿であります「おかしくてしようがないのは、近ごろのゲバ学生たちだ。あの連中は口をひらけば「オレの考えでは」というが、その実はどこかで聞いたことか、読んだことばかりだ。二十歳そこそこなら、せいぜい十四、五からあとに覚えたのだから、ほんの五、六年のあいだに聞いたこと読んだことだけでアタマの考えを適当にまとめて、偉そうに「オレの考えでは」などという。そんな連中が「オレの考え」を振りまわし、しかも○か×かできめつけて、おまけに人の意見を聞こうともしないのだから始末が悪い。
  • 学校で会社で、このことがいつも非常に不愉快であります「なるほど日本人はいつも社会的存在としての自分ばかりを気にしている。つまり社会分の一としての自分だけを考えている。しかし、本当の「自分」は一分の一です。」
  • 「仏」とは仏像のことだと思っている人間に対して・・・ こう言い切ることの出来る僧は内山興正禅師しかいない!「仏像はね、これ、お人形ですよ。私も坊主になる前は仏像も多生は有り難いものかと思っていたが、坊主になってみるとさっぱり有り難くなくなった。坊主という奴は悪い奴でね、人前では偉そうに拝んだりしているが、本堂掃除の時には仏さんの顔にぱたぱたはたきをかける。アタマなんか布きれで磨き上げる。なんのことはない。仏像なんて京人形や博多人形とちっとも変わりはしないのだ。京都や奈良では仏像鑑賞ブームが続いているが、あれば本物の仏に出会ったことがないから偽物を有り難がるので、本物を知ったら偽物など見るに堪えなくなる。本当の仏さんは人形ではない。木偶ではない。」
  • 数十年前の成長期に今の日本の惨澹たる価値観の汚泥化を予見していたかのようです生存競争という言葉は実にくだらない言葉だと思う。今の学校教育がくだらないのは、競り合わせて生存競争の稽古ばかりさせていることだ。会社というのはその実践をするところだ。だからあんなグラフのようなものを張り出して競り合わせている。」
  • 子どもを育てる立場になって目覚めた自分が待っていた言葉はここにありました!子供を産んだ、ということを、「これは、とんだことをしたのだ」と思わなければならないということです。「とんだことをした」と思う気持ちがないから、ただ惰性だけでわが子を育てている。これでは困る。子供を産んだことがなぜ「とんだこと」なのか。それは「新しい生命をこの世に送り出した」からです。それも自分たちが夫婦になって勝手に産んでしまった。生まれてくる気があるのかどうか、子どもに聞いて承諾を得たわけではない。子どもにとってはこの世に出ることは甚だ迷惑だったかも知れない。つまり「とんだこと」をしでかしたわけです。(略)
    まっさらな目でみれば、子どもにとって自分が生まれたと言うことは、まったく自分の意思ではなく、ただ親たちの勝手な行為から一方的にそうさせられたわけです。(略)
    いずれにせよ子どもという新しい生命をこの世に送り出しのだから、いま申しあげたことをよく考えて、十分に責任を感じ、この新しい真の生命としてつらぬかせるだけの地盤は、どうしても作ってやらなければならいという覚悟をもっていただきたい。そんな覚悟もなしに、ただなんとなく生んでしまった。かわいらしいからかわいがる。わるさをするから叱る。勉強しないから塾へ通わせるといった無方針な育て方でいいはずはありません。ここのところを誤るなら、その報いは、だれでもない、親であるあなた方ご自身が受けねばならないと言うことを考えるなら、
    これは子どもだけの問題ではなく、あなた自身の問題でもあるのです。事実、子どもというものは、親の人生観、親の生活姿勢、親の生き方に対して、だれよりも厳しい審判者だと言うことを心得るべきです。これが少しでも歪んでおれば、やがて子どもたちは、「お父さん、お母さんの人生観、生き方はここが歪んでいる」とハッキリ突きつけるようになるのです。たとえば、あなたがいつも金、金といいながら生きているなら、子どもはやがてそんな生き方はくだらないと批判して家出するか、それだけの批判力のないつまらない子どもなら、親の貯めた金で身を持ち崩して親を泣かせるでしょうし、そんな親の人生観に共鳴するような愚かな子であれば、やがて親より金の方が大切だと、親を金以下に扱うようになる。これは火を見るよりも明らかです。また、見栄っ張りでいつも世間体のいいことが一番いいことだと思っているような親なら、もし子どもが優秀な子であれば親を批判して出て行くに違いありませんが、子どもが親に似て見栄っ張りなら、当然「親や家族より出世の方が大切」という人間になるはずだし、本人がお粗末で出世できないとすると、ノイローゼになって精神病院のやっかいになるか、あるいはアクの強い人間なら出世のためにやりすぎて、汚職などをしでかして牢屋にはいるようなはめとなる。」
  • 社会というちっぽけな体系の部品にならない「あなたもあなたのお子さんも、個々の人間としては、みな生まれてきて六、七十年、長くても八十年か九十年のいのちを生き、そして死んでいく生命です。しかも社会というのは何千年、何万年前にもやはり人間社会はあった。何千年、何万年後にもあるでしょう。つまり生まれも師にもしない、一つの妙な約束事の体系なのです。とくに現今の日本の社会は変に歪んだ癖のついている約束事的体系で、こんな歪んだものに迎合して、その部品を作ることに専念しているのが、いまの日本の学校なのだといってさしつかえありません。(略)
    階級づけて社会の部品としてはめ込もうというのだから、人をバカにするにもほどがある。これではま
    るっきり人間を生命扱いしていない。まったく社会という体系の部品扱いです。」
  • 受験勉強をまじめにやる人間は最低「受験勉強などをまじめにやっているような子どもは、私に言わせれば「もの覚えのいいバカ」で、しかも闘争性のある獣的人間です。受験勉強のような馬鹿なことは、バカでなければやるはずはないのだし、人と競り合って、人を蹴落とすことに血道をあげるような受験勉強は、獣的人間でなければできるはずはない。子どもにそのような受験勉強をさせるにも、いまの親たちは、まるで電灯のスイッチでもひねるようなつもりでいるとしか思えない。」
  • 知的障害児をもった親に対して「知恵遅れの子や孫をもって不憫に思うのは当然です。しかし、よその子どもたちと比べて、親までが悩んでは、子どもさんがあまりにかわいそうではないか。知恵遅れに生まれついていると言うことは、世間並みからみていうわけで、子どもさん当人にとってはそれが「いのちのすべて」だ。他の子どもたちと比較してどうこういうべき問題ではない。(略)
    そういう子どもの親としては、その子の「自己自身」「生命自身」の立場に立って、子どもを励ましながら、ともに生きるべきではないか。それにはまず「世間並み」を標準とする目をはずして、そうではなしに、いま与えられている生命を自己自らとし、この自己自らの生命を精一杯生きるという「生命力そのものの目」にまで転換させるべきではないか。」
  • 仏法の仏法たるゆえん(私の「なぜ仏道なのか」参照)がここにも明きらめられています「仏教のお経として最古のものといわれる「ダンマ・パダ(法句経)」には「自己の依りどころは自己のみなり」とある。これば仏教という宗教の根本姿勢です。仏教はこの「自己の依りどころは自己のみなり」から出発しています。そこがキリスト教をはじめ他の宗教と全く違うところだ。キリスト教もその他の宗教もまず「神」に依ろうというところから始まる。これが仏教以外の宗教の姿勢です。だが仏教の根本姿勢は「神」を描かない。自己の依りどころは自己のみ、これだ。坐禅もむろん他に依止しない。自己ぎりの自己になることだ。」
  • 生活を考える一つの決定的態度~そして生かされている自分を深く認識する「それにしても今の日本人は、まったく生活に追われ、生活に苦しんでいると思う。生活、生活と、生活のことばかり考えていると思う。これに対して、われわれ宗教に生きる人間は、まず生活というものに決定的な態度を確立しておかなければいけない。生活に追い回され、振り回されているのは、ほんとうの宗教に生きる人間のやることではない。では、生活に対する決定的な態度とはなにか。それは一口に言うと「授かりものだ」という言葉に尽きます。だいたいわれわれがこの生理的肉体を保っていくうえに一番大切なものは何か。エコノミック・アニマルどもはすぐ「カネだ」という。しかし真実はそうではない。一番大切なものはまず空気です。空気がなければたちどころに死ぬ。次には水、あるいは光、温度、重力、気圧、それから食べ物がくる。カネなどはずうっとあとの何番目か何十番目にあげられるべきものだ。われわれ生きものは、なによりも大自然の恩恵の中に生かされているのです。これは「授かり」という以外にいいようがない。いくら貪っても、貯めても、空気が余計にあるわけではない。この俺がカネを出して貯えておればこそ気圧や重力があるというのでもない。もし適当な重力がなければ身体はふわふわと浮いて困るだろうし、適当な気圧がなければ身体が破裂するか押しつぶされてしまう。温度も、光も然りです。ここのところをまず心に刻みつけておかねばならないと思います。それから社会の恩ということです。(略)
    (学生が)「僕たちの世代の人間は、誰だって社会の恩なんて考えていやしませんよ」と付け足した。(略)
    私が教師の立場でその場にいたとしたら、ただちにいってやります。「面白い。社会の恩なんて全然感じないというなら、いますぐお前を素っ裸にして、なにももたせずに山の中に放り出してやる。そこで一人で生き抜いてみろ」と。(略)
    人類社会の恩というものは、そんな浅薄な表づらだけのものではない。早い話がわれわれの身体にまとう布一切れ、食べる飯一杯、住む畳一枚、どれ一つをとっても、長い年月と大変な手数をかけてこそ与えられた、人類社会のたまものです。一枚の布を作るために綿の木を栽培し、糸を紡ぎ、布を織る。そこまでくるのに、人類の歴史において、どれほど長い年月の奥行きがあったか、米や麦にしても然り。木材や鉄にしても然り。金を出して買えばいいというものではない。(略)
    人間社会において昔からの智慧や財産をただで使わせてもらっている有り難さ、またこれらをお互いに融通し合う有り難さだけは、決して忘れてはならないと思います。
    (略)
    自分一人だけで生きておられるものでは絶対ないのだ。
    (略)
    われわれがもし「自分のもの」が一つでもあると思うなら、それだけですでに盗人をしていることになる。ほんとうに俺のものというものは一つもありません。にもかかわらず俺のモノと思いこむのは盗人に他ならない。実際に他にむかって貪りの対象となるものは、あったにしてもたかが知れている。まず九十九パーセント、九分九厘九毛までは「授かり」です。だから全くの手放しでも、九分九厘までの授かりで結構生きていかれるのだ。」
  • 思想であってはならない仏法「「坐禅はアタマの思いをいっさい手放しにするというが、やはり正義とか、平和とか、愛とか、慈悲とか大切ではないか。こういうものを手放しにせずに、よくつかんでおいて坐禅すべきではないか」私はそれは、いけないと答えた。正義を考えるという。ところが正義という観念には中味がある。あなたはなにを正義と考えるか、私はこれを正義と考える、というように、私とあなたとの正義の中味に食い違いが出てきて、はてはお互いに正義の名のもとに殺し合いまでするようになる。現に近頃の世の中では「平和」という名のもとにゲバ棒をふるったり、戦争したりしている。思想というものは必ず見方に食い違いで生ずるのです。仏教ではこれを「見」という。「坐り」といい「証上の修」といっても、決して思想であってはならない。「仏見法見をも立てず」ということが大切です。たとえ仏さま、仏法でも、見として、思想として立てれば必ず食い違ってくる。キリスト教の歴史をみても、キリスト教徒が「愛」という言葉のもとにいかに多くの人々を殺してきたか。(略)
    だから「愛」ということでも、思想として捉えたらもう駄目です。慈悲ということでも同様。ぶっつづきの生命でも、それはどういうことかと考えたら話が食い違ってくる。あくまでもどこまでも、アタマ手放しの「行」でなければならない。思想であってはならない。尽大地、尽衆生、尽一切とは、そのことを示した言葉です。」


  • 正法眼蔵 山水経・古鏡を味わう / 柏樹社
  • 死後の葬式の無意味さは釈尊が既に言っていたことですが、内山興正禅師は見事に僧侶でありながらこのことを断言しています
    「私は師匠である澤木老師の葬式をしなかった。澤木老師は、葬式をするなと言われた。(略)
    だから私は、老師が亡くなってこの方、自慢じゃないがお経を読んだことがない。ただ私のところに、額にはまった老師の写真があるだけです。名前も、安泰寺時代に老師がご自分で書かれた表札をそのまま持ってきて額の横に置いてあるだけ。
    「澤木興道」だけで、戒名もない。私は寝る前にそこに坐り、備えたお膳をかたづけて三拝する。それだけです。要するに、天地いっぱいのものが天地いっぱいのところに帰って行くのだから、別に大袈裟にチンドンジャランと葬式をしてみたってしようがない。だから、死んでから後のことを心配しなくてもいいのだ。死ねば死んだで、どうせどうにかなる。」
  • 生を明きらめ死を明きらめる一つの法「どこかのお寺さんが「水子供養の寺」という広告を出しているが、このごろではまたそいういう生まれる以前に堕ろされる風潮を、金儲けの手段にする奴が流行している。要するに今も昔も、生まれる以前に堕ろされるというのが多いのです。だからわれわれも、これを自己の話として考えるべきだ。この自分も生まれる以前に堕ろされていたら・・というところからみる。これが大切です。みんな一人前の顔をして、偉そうなことを言ったりしているが、なあに、生まれる以前に堕ろされたってどうってことはないんだ。だからあらゆることは、俺が生まれる以前に堕ろされていたら・・・という地盤からみれば、万事解決する。借金作って追い回されて、もう死ぬより他にしようがないという。死ねばいい。生まれる前に堕ろされていれば、何も文句はないのだから。それによくある嫁さんと姑さんの戦いでも左様です。あらゆるもめごと、悩みも苦しみも、生まれる以前に堕ろされたというところから見渡すと何でもない。そこが修行のしどころです。」
  • 昭和の高度成長期にこれだけの洞察力「昔の教育勅語は、「天上無窮の皇運を扶翼すべし」という文句があった。(略)
    この天皇家の家運が天上無窮であるという概念を地盤として、忠孝の道というものが確然として存在し、天皇家に忠節であるということで、その直系の軍人や完了が威張り、さらに親に孝でなければならないということでオヤジが厳然と威張っていたし、学校の先生方も、教育勅語を奉じて教育しているというわけで、当然のように威張っていた。ところが、あの戦争に大敗して、大日本帝国が崩壊したことで、すべてがひっくり返ったしまった。天皇も神ではなくなり、軍人は戦争犯罪者となり、どうにか生き残った役人も、親や教師たちも威張れない世の中になってしまった。だいたい「天上無窮」などという概念が間違いのもとなのです。そういう存在は、あるわけがない。
    すべては無常なのだ。ところがこういう経験を経た現在でも、この天上無窮という概念だけは残っている。昔の天皇概念に替わって、「平和」とか「豊かな生活」とかいう概念がそれです。現在こういうお題目に異議を唱えるものは誰もいない。(略)
    今のお粗末な先生たちは喰うこと、より豊かに生活することが天上無窮だと思っているから、教師も生活のための労働者であると自分から言う始末だ。(略)」
    親たちも同じです。豊かな生活を天上無窮と思いこんでいるから、子どもには不自由をさせまいと、欲しがるものは何でも買い与える。そして高校、大学を出すまでは、
    無理をしても学費を出さねばならないと、子どもを鍵っ子にしてまで共稼ぎをする。そんなことだけが親のつとめだと思っている。これじゃ子どもがうまく育つはずはない。一歩間違うと親を殺しかねないのも当然でしょう。殴られる教師、殺される親、この二つは今の時代の象徴だと思う。」


  • 観音経・延命十句観音経を味わう / 柏樹社
  • 何よりも「人生の行き着くところ」を考えることが即ち人生ではありませんか「自分というものを「当座の生活理想」「当座の幸福」のなかに住まわせる代わりに、「自分の一生の畢竟帰処」「ゆきつく所へゆきついた人生」というものをハッキリさせておくということは、けっしてヨソゴトではないと思うのです。それにもかかわらず現代人は、商売に対する工夫、学問に対する研究、技術に対する研鑽、ないしさまざまな研究工夫のためには、何年も何十年も、あるいは一生をささげるまでやっていますが、自分の一生の畢竟帰処についてだけは、寸暇の時間もさくことを厭うのはどうしたことか。(略)
    まことに現代という時代が、外面的に華華しい文化を咲かせているようにみえながら、その実中味は、原始的野蛮時代から一歩も出ていない象徴的出来事のように思われます。」
  • そしてその「人生」を考えるのが宗教であります「宗教とは何よりもまず、この地上に現れては消えてゆく、無数の生命存在の流れのうちの単なる一個でしかない私が、その流れの中から「私自身」を取り上げて、いったい「わたしの一生の営みは何であったか」「何であるのか」「何であるべきか」と問い起こす、この問題にかかわるものではないかと思われます。」
  • 「真の苦悩」と「金不足」の区別をまずつけること「もしここにお金が沢山あれば片付くような苦悩は、じつは「真の苦悩」というべきではなく、たんに「金不足」と呼ぶべきです。そして真に人生にとっての苦悩とは、たとえどんなにお金があっても「金では解決できぬ苦悩」をいうのでなければなりません。」
  • これも「自分様」の別形態かもしれません「先日も、ナヤミに耐えかねて自殺未遂をいままでに何遍やったとか言う人がやってきました。この人の話をきいてたら、一から十まで自分自身のナヤミのことばかり言っていて少しも人の立場を考えたり、人の立場から自分自身を見直してみる気持ちがないのだという特徴をわたしは発見しました。よくもまあ、こう恥ずかしくもなく自分、自分と自分のナヤミばかりを中心に、すべてをみていられるものだと感心しました。こうも自分、自分といっているのだから、その自分一人くらい何とかしてもよさそうなものですが、実はこう自分、自分とそのナヤミをいとしめばいとしむほど、なおその苦悩は増長し、ますます深く自分自身をもてあまし、愚図ることになってしまうのだから妙なものです。」
  • 本当に「食えない」人はかなり少ないと思います「「わたしの今の収入ではとうてい食えません」と絶望したような顔してやってきた人がありました。「そりゃお気の毒ですね。まあたっぷり食ってください」と玄米の雑炊を作ってすすめたら、妙な顔をして「いや食えないって腹が減っているという意味ではないのです」といいます。「だって食えなければ腹が減っているでしょう」と押し問答の末、だんだん聞いてみたら、何のことはない、その人の家族はお母さん奥さんとの三人暮らしだが、わたしたち寺の生活より二倍以上の収入があり、べつに生理的には腹の減ることはないが、体面や虚栄心がまかなえないというのです。・・・それじゃ「食えない」なんてへんな言葉の評価を自分におしつけ、自分をノッピキナラヌモノにする必要はないじゃありませんか。わたしはその愚かさに対して演説しました。「ごらんなさい。私たち寺の生活も三人で、しかもあなたの半分以下の費用で事実食っていてナントモナイ」と。たしかに人間の構造上、ただ「自分している自分」という正体の他に、世間相場というものをたて、それに浮き身をやつし怒ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりしている私がいることは事実です。しかしそんな大騒ぎをしているわたしを「自己の正体」と思いこむことこそが無明惑というものです。わたしの正体とは三界唯一心・・・そうしたあらゆる世間相場に対してナントモナイところで、ただ「自分している自分」がそれであることは知っておく必要があります。しかもこのただ自分している自己の正体は、世間相場に対してナントモナイばかりでなく、わたしがわたしにむかってする評価に対してすらもナントモナイのだから愉快です」
  • 経文に対する二種類の誤解「(観音経をばからしいという人に対して)なるほどその人に「火」という言葉の中に「物質を焼く火」以上の意味を読み取る能力がなかったとしたら、たしかにわたしがお経の読誦をおすすめしたことは無理でした。(略)
    (火事場で観音経を読誦したら風向きが変わって自分の家でなく向こうの家が焼けて助かった、アリガタイ、という話に対して)「テメエ達の家なんか勝手に焼けやがれ。オレの家だけは助かった。有り難い!」という「信仰実話」なのですから。とにかく
    観音経にでてくる火を「物質を焼く火」以上の意味にとることができないとしたら「バカらしい」といっても「アリガタイ」といってもまったく見当外れすぎることは事実です。」
  • 私の読経の心がここにあります「日々我々のやっていることが、いかなることなのか・・・その容積に拘らず、その組織にかかわらず、またその利口そうな技術にかかわらず、ただ世をあげて三毒の営みに狂奔し、それにひきずりまわされているのでしかないことを見抜くためにも、わたしたちそれこそ一日一度くらいは心静かに「経を読む」習慣を持ちたいものです。」
  • 欲望の充足だけが結局の目的「神仏を信心しているつもりか知らないが、家内安全、身体健全、商売繁盛といっている・・・その限りその拝みさげている心のマトは神さま仏さまではなく、家内安全、身体健全、商売繁盛でしかないといわねばなりません。多くの信心していると思っている人たちも、神仏にそのご利益をカケトリにゆくので、残念ながらもはや「神仏におがみさげる」のでなく、自分の欲望に拝み奉げることになってしまうのです。これにくらべて静寂の禅寺に一日中、ただ黙々として坐禅修行している・・・はなはだ家内安全、商売繁盛より超俗的に見えますが、これも「サトリがほしい」ためにそうしているなら、なんのことはない「サトリがほしい」という欲望他のためにおがみささげているのであって、「サトリ」そのものとはかかわりはありません。(略)
    「わたしなんかは無宗教でしてね。なんにもおがまずなんにもささげないことにしています」・・・結構です。ご立派です。しかしあなたは何を尊しとし、何にあなたの生きている時間を奉げていらっしゃいますか。・・・そう。今はやはり「自由」ですね。ご自分の自由、ご自分の幸福のために、あなたの一生の時間を奉げていらっしゃる。・・・はなはだご立派です。ただしおそらく動物に言葉がありとすれば(略)そういうに違いない。(略)なにが真の自由であり、何が真の幸福なのだか、あなたはよくお考えになっておられるでしょうか。」
  • 「自分」の存在は「自力」では全くないことを自覚する重要性
    「お釈迦様はまず「自分というものをはじめに考えてみろ」とおっしゃいます。・・・だれでも母親の胎内から生まれてきているわけだが、そのだれでもが母親の胎内に自覚的意思を持ってはいり込んだものはないじゃないかとおっしゃるのです。つまり自分というものの、そもそものはじめは「ナントナクわからぬままま」(『無明』)で、ある母の胎内に飛び込んでしまった(『行』)のです。(略)(『識』)そしていまだ肉体と言うほどでないまでも一応自分というものの形が母体のなかで形成し(『名色』)それがだんだんいろいろな機能まで備わってきて、ついに出生してしまう(『六処』)。ところがさあ大変。出生と言うことは、この世に顔を出すことですが、このときまでにもはや男女の性別も出来ており、親からの遺伝までもちゃんと決定しています。しかもこの世に顔を出した途端には、ときには皇太子であったとか、不義の子であったとか、日本人であったとか、ユダヤ人であったとか、癩(らい)患者の子であったとか、先天性小児麻痺であったとか、・・・じつにその人の一生を左右するような大問題まで簡単に、しかし決定的に背負わされていることがよくあります。・・ずいぶんバカにしていやがると思っても仕方がない。(略)
    普通の家庭、普通の人間として生まれた場合・・・いかにも成長以降は、自分というものの自覚的意思を持って「みずからの生き方」を自由に選択することが許されているかのごとくにおもわれます。けれど
    成長以後、はたしてわたしたちは完全に「他からの制約なき自分の意志」をもつことができるかどうか・・・。これは十分考え直してみるべきです。というのはわれわれこの世への出生において、同時に既にうまれた境遇、育つ環境、うける教育、時代の風潮、社会の情勢、その土地の風土、食物などという・・・いわばわれわれが出生以後に触れるあらゆる条件(『触』)というものがほとんど決定的となり、したがってそのなかで経験する生活体験(『受』)もまた決定されてしまっていて、「それらの条件から全く独立した自己」などというものが一体どれほど残される余地があるか・・・これははなはだ疑問とせねばなりませんから。(略)
    とにかくわたしたち他からの制約や強制にしばられて自由を失っているときは、自らが自由を失っているとも分からぬほど他からの強制によって「考えさせられている」ことがしばしばです。・・・ただその一事のためにそれから以後は、まったくオートメーション的ベルトにのせられたまま、結構現在の自分というものにまで至っているのではないこということは、我が身に当てはめて十分考えてみておきたいところです。なるほど私自身としてはいままでの生活体験の中にあって、結構一人前のつもりでいろいろと価値判断し(『愛』)、みずからの生きる道をえらびつつ(『取』)、今日の自分を築いてきた(『有』)つもりでおります。しかしその価値判断、取捨選択するアタマそれぐるみが、じつは過去の遺伝的天賦や性格、教育的吹き込みや境遇環境などの「寄せ集め」であるとすれば、やはり
    結局は、そのはじめの「無明、行」の一事が、すべてのすべてにおいて決定的であるようです。しかもここまでおもいいたれば、これからさきのわたしの生涯もしれているでしょう。やはり「無明、行」の続きで生き(『生』)、またそのつづきで老い死んでゆく(『老死』)だろうという・・・そのことです。お釈迦さまは以上の「無明、行、色、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」という十二因縁の形式で、つぎのことをお教えになりました。つまりわれわれが普段自分、自分といっているところのものが、けっして「自分」という梅干しの種みたいにかちんとしてあるものではなく、じつば
    (一)諸処の条件がよせあつめられてつくられたものでしかないということ(縁起生)
    (二)しかもそのゆうおうによせあつめてつくる主体となるものは、単に「わからぬまま、ウゴイタ」という・・・ただこの一事に始まるものであるということ(無明行)。
    (三)したがってこのままでは、私の一生というものは、すべてこの無明の繋がり的出来事でしかないということ。(流転輪廻)
    この十二因縁の教えは、四聖諦とならんでお釈迦さまの根本教説なのですが、まことにおもえばおもうほど宗教内省としてふかい意味を持っているものです。このことは学問的知識ではありません。おそらく人間が生命をつくりだす程に学問がすすまない限り、このことの学問的立証は出来ないのではないでしょうか。」
  • コントロールをしているつもりが人生・世を無方向にかき回しているのが真実「ダルマ大師は決してこの偶然の中に、自己の生命を托してあがくようなことはなさいませんでした。たしかにダルマ大師の生きる方向は、衆生に法を伝え、迷情を救うということではありましたが、それが実際にどれ程の成果をあげるかと言うことは、まった『偶然に属すること』であって、大師はそんな偶然を、相手にもアテにも決してなさいませんでしたから。(略)
    それに反し英雄達は・・・いや英雄に限らず、今日その辺のどこにでもころがっているボス達は、こんな尽十方界自己のなかに遊ぶところか、躍起となって、目の前の相手を押しのけ突き倒し、
    小さい自己の名誉や地位や金のためにあがきながら、畢竟は無方向に、世の中をひっかきまわしています。」
  • 私の読経の心がここにあります「十句観音経は、中国の六朝時代から随時代にかけて、涅槃宗という涅槃経を所依とした宗派があり、この涅槃宗でつくられた偽経だと言われています。しかし、その中身としてはなかなか偽経どころではない。大乗の修行の極意を圧縮して言っており、すばらしいものです。何もお経はインドで作られたからホンモノで、支那で作られたからウソものというものではない。日本で作られたって、ホンモノと言うこともあってもいいわけです。要は仏法の中身がいかに説かれてあるかということにあるわけですが、その点から言えば、この十句観音経は短いけれど本当によく大乗の修行の極意が説いてあります。」
  • 無宗教は「人間の恥」と思います「いまの日本人達は、じつはいつの瞬間、そのようなことに出会わなければならないのかさえも知らず、得意になって「私は無宗教です」などと胸を張って生きている馬鹿が多すぎる。かわいそうなものだ。無宗教ということ、いまの日本人は知的なことぐらいに思っているけれど、これほど馬鹿なことはない。そんな「私は無宗教だ」と得意になって言っている人が、いま「あなたは癌だ。あと何ヶ月のいのちだ」などと宣告された場合、いったいどこへ自分の心を置いたらいいのか・・・もはやどうしようもない。」